はてなキーワード: 強迫観念とは
実家が太い云々という増田を目にして、俺もつい自分の人生について書きたくなった。
医者というとなんとなく世間的にもお金持ちのイメージがあるだろうが、事実裕福な家庭に生まれたと今でも思う。
そんな俺だが、結局30も手前になって職歴なしどころか学歴すらない立派な引きこもりに成り果ててしまった。
まず前提として俺の家系は代々医者の一族で、父方の祖父が地元(と言っても俺の住んでいる市内)でおそらく一番大きい総合病院の理事長をしていた。
その祖父の思想が強く、医者でなければ人間でないと言わんばかりの態度を常に振り撒いていた。
母方の祖父母は確か医者ではなかったと記憶しているが、いつだったか父方の祖父母の家に連れて行かれた際、「あまりあっちのじいじ・ばあばと話をすると頭が悪くなっちゃうぞ」などと耳打ちされたことを今でも覚えている。
当時は家や身なりも立派で見るからに"偉い"祖父を漠然と尊敬していたためにその言いつけを守り、母方の祖父母とはほとんど口も聞いていなかった。
俺がそんなだからか、或いは母親か誰かがそんな祖父に辟易したのかは知らないが、小学校の高学年くらいから母方の祖父母に会うことは無くなった。
そんな祖父のプレッシャーのせいか、物心がついた頃にはもう塾に通っていた。
習い事も多くさせられ、ピアノ・バイオリン・空手・水泳・テニスを確か幼稚園くらいから習っていた。
これは気質もあるのだろうが、自分の意に反して何かをさせられるのがかなりのストレスのようで、あまりにも習い事に行きたくなくてよく体調を崩していたり、時には仮病を使ったりしていた。
また、センスの問題なのかモチベーションの問題なのか、どの習い事も全く上達せず、発表会や大会のたびに親に恥をかかせてはよく平手打ちをされていた。
ある夜、何かをしたくてリビングに降りた時、両親が俺が何もできない無能である事について真剣に話し合っているのを耳にしてしまい、眠れなくなってしまったこともある。
いつしか出来損ないのレッテルを貼られた俺は、それでもなんとか医者に仕立て上げなければならないという強迫観念を持った両親の元で家にいる間は四六時中机に縛られ、常に勉強をさせられていた。
朝起きたら強制的に机に座らせられ、親の指定する量の勉強をこなすまでは朝食すら取れないような生活だったので、朝起きるのが苦痛で睡眠障害になってしまい、次第に学校にすら行けなくなってしまった。
勉強のストレスで常に吐き気がしており、食欲もなく、睡眠不足も相まって頭も余計に回らず、さらに両親に叱られるといった感じで完全に負の連鎖に入ってしまっていたと思う。
ネットやテレビに触れなかったためか、「自殺」という概念が当時の自分の中になかったために踏み切ることがなかったものの、もしもその概念を知っていたなら、間違いなく自殺を選んでいたと思う。そんな精神状態だった。
そんな両親の下なので中学受験をさせられ、結果としてはそれなりの中高一貫校に入学することはできた。
しかし、高ストレス下で勉強だけをさせられて育った結果、いつしか俺は著しいコミュニケーション障害を抱えていた。
小学生の頃に友達と遊ばせてもらうことができなかったせいか、両親に過度に気を使う癖が付いてしまったせいか、原因は今となってはわからないものの、とにかく友人とフラットにコミュニケーションを取るということが全くできなくなっていた。
と言っても育ちのいい生徒ばかりだったので、ドラマやアニメで見るような苛烈なものではなく、ただ無視されるとか陰口を言われるとか、そんなレベルではあったが。
いずれにせよ学校に居場所をなくした俺は、いつしか不登校になっていった。風邪で休んでそのまま復帰できなくなったとか、そんなんだった気がする。
クラス替えというシステムがない学校だったため、一度不登校になってしまったら人間関係を取り返す術はなく、そのまま5年半ほど不登校を続ける形になった。
留年して再スタートすることも提案されたが、両親の面子を保つためか受け入れられず、(どういうシステムかは今思えば謎だが)とりあえずそのまま進級し、卒業を迎えることになった。
当然医学部を目指させる家庭方針だったため、塾・予備校には通わせられていたし、家でも小学校の時さながら机に縛られる生活だった。
しかしながら、反抗期を迎えたこともあり、また俺の体格が大きくなってきたこともあるのだろうが、小学校の時ほどは勉強を強制されず、俺も次第に家の中でも部屋に引き篭もるようになった。
もちろんある程度独学はしていたものの、受験の結果は案の定ダメで、箸にも棒にもかからないような成績だった。
とは言ってもMARCHくらいなら合格できる成績だったのだが、医学部以外の受験は認められなかったため、全落ちのまま浪人生となった。
それ以降は特に語ることもないが、2浪、3浪とする中で、親の洗脳も次第に解けていった。そうすると、ただ親の意向のためだけに医学部受験をしていることの虚しさを目を向け始めてしまい、勉強にも身が入らなくなっていった。
そうはいっても医学部以外への進学を認めないという親の方針は変わらず、一応俺は10浪中ということにはなっている(と思う)。
が、2年前くらいからセンター試験(共通テスト)の出願すらもしないようになった。そのことに両親が気づいているのかもわからないが。
もちろん住む場所にも日々の食事にも何一つ困ってはいないのだが、俺はきっと社会に出ることはできず、ひたすらに自我と向き合いながら、この広い実家に幽閉され続けるのだと思う。
もう30も目前となった今さらになって、軌道修正を図る気力も無いし、仮に何か行動したとて無意味なんだと思ってもいる。
そしておそらくは両親も、こうなってしまった俺をどうして良いのか、そして俺と、ひいては自分たちの過ちとどう向き合って良いのかがわかっていないんだと思う。
だから今日も変わらず義務のように母親は俺の食事を用意し、父親は何も言わずに俺のボロいスマートフォンの通信量を払い続けいてるんだと思う。
多分お互いに、行動を起こすのが怖いんだろうな。
だから現状維持に甘んじて、昨日と変わらない今日を過ごすことで失敗から目を背けているんだと思う。
こうやって気づけば10年以上が経っていて、きっとそのまま老いて死んでいくんだろうな。
いつだったかネットで『5億年ボタン』のコピペを読んだ時に感じた、途方もない無の中に幽閉される恐怖。
思えば俺はその中に今居るし、ついぞ抜け出すことなどなくそのまま死ぬんだろうと思う。
とりとめもなく書いてしまって終わり方もわからなくなってしまったが、一旦この辺で終わりにする。
読んでくれてありがとう。これを書くことをコミュニケーションとまでは言えないだろうが、誰かに自分の気持ちを表明する経験が無さすぎて、書きあげるとともに凄いカタルシスのようなものを感じている。
ネットで言論的な事、ソーシャルメディアでの短文コメントなどでTV局、アパレル、マーケティング、広告、電通などに関する議題で変なマウントじみた上から目線を感じることがないだろうか?例えば広告出稿の実務や電通の業務範囲などの解説に「電通を判ってない」と漠然としたコメントが付いたりする事だ。
亦は例えば脚本家と原作者のトラブルに端を発した自殺に関して「己の近いところに着弾」などと書いて自殺クリエータのナイーブを嗤うような文章だ。
実はこれらには「ギョーカイ」という30年前の知的スノビズムが関係しており、現在のその全ての発言者はただのワナビーだ。故に無視するか嘲笑するのがいい。
だがギョーカイがどういうのか判らない人には判別が出来ないであろうから、ギョーカイに就いてざっと解説したい。
1980年代の大学生というのはまるで勉強しなかった。これは60年代に反権威主義の全共闘世代が大学の知の権威を攻撃して教授や講義の尊敬を解体してしまった事に由来する。その後反体制という態度も流行らなくなり、更には嘲笑、嫌悪さえされるようになっていった。
だが大学の権威は復活しなかった。この為に80年代になると大学はレジャーランドとなり、特に文系学生は教科書さえ買っていないという風になっていた。
更にここにプラザ合意という政治状況が追い打ちをかける。日本は復興を遂げて70年代には経済規模が異常なほど膨れ上がっていた。アメリカがベトナム戦争で、欧州の旧連合国諸国が植民地独立による経済構造変化で苦しんでいた(除西独)のと対照的だ。
だが国民の生活は然程裕福にはなっていなかった。また戦後の窮乏状態から贅沢を忌避する経済道徳があった。
プラザ合意でこれが一変する。これは円高を誘導し日本の対米貿易黒字を削減する政策なので経済構造がそれまでの輸出産業優先のままだと立ち行かなくなってしまう。
そこでそれまで禁止されていた贅沢がお上のお墨付きで推奨されるようになったのだ。国民の経済道徳なんて政策で左右されるのである。文化は決定因子ではない。
また円高によってそれまで贅沢品だった輸入品の価格が下がる。当然購買意欲は刺激される。
この浮ついた好景気が加熱してストックバブルとなり、やがて弾けて失われた30年になったのは皆の知る通り。
この景気加熱はレジャーランド化していた大学生にも影響を与えた。それまで国内アパレルメーカーが若者向けブランドを展開してそれらが人気を博していたが、海外ブランド志向が進み、遊びの高級化が進んだのだ。有名なのがディスコのマハラジャやジュリアナ東京であろう。マハラジャの運営会社はそれまで「並」のディスコを経営していたが、マハラジャで極端な高級志向とドレスコードチェック(アメカジとかは入場禁止で上から下までブランド服必須)にしたところ大盛況となった。
だが大学生が高級志向になったのは自然な出来事ではなく、当時のファッションカルチャー誌が誘導したのであった。
こういう大学生に影響の大きかった雑誌にマガジンハウス社のPOPEYE(以下ポパイ)と講談社のホットドックプレスが挙げられるが、この二つは性格が違った。ポパイが先行、ホットドックプレスが追走、イノベーター理論で言えばポパイがアーリーアダプター志向、ホットドックプレスがマジョリティ志向という感じだ。
マガジンハウスはファッションカルチャー専業だけあってイノベーター人脈があるから未来への提案という形で誌面が作れる。
一方、ホットドックプレスは大出版社なのでもっと安牌志向だ。あまり冒険すると滑る危険がある。
そして流行に於いてマジョリティを相手にするという事は、アーリーマジョリティになれとけしかける事であり、故に強迫観念的になるのである。大学デビューした若者にファッションや遊びを勉強しろと迫る性格を帯びる。
山田五郎氏はyoutubeの「オトナの教養講座」を運営して大変引き出しが多くて教養がある人物だ。同氏は同誌の80年代の編集長であった。
教養人だが編集長時代はマガジンハウスの後追いで背伸びしたい若者に楽しいライフスタイルの提供というよりも「これぐらいマスターしないとモテないぞ」とオブセッションを刺激して走らせる誌面を作っていた訳で、正直そこについては評価できない。
これはホットドックプレスが悪いというのではなくて、トレンドの後追いする方は強迫観念に訴えるようになるという例だ。
そんな雑誌群でやたらと持ち上げられていたのがTV局、アパレル業、広告代理店という業種だ。
ホイチョイプロはこれらのブームが起きる前から広告代理店漫画を書いていたが、このブームに乗って多角展開するに至った。広告業の業務中で電通だけが特別視されたり、変なマウント取る奴が現れたりするのはこのホイチョイプロの影響である。
またとんねるずはパワハラ芸とTV局の内輪ネタで若者の歓心を得て売れるようになった。
特に初期のパワハラ芸が有名だがこのパワハラは芸人同士のそれではなくてTV局での上下関係に限られるのがポイントだ。TV局内とスポンサーなどの上下関係はギョーカイなので売り物になったのである。
故にギョーカイというのは単にがTV局、アパレル業、広告代理店という業種を指すのではなくて、当時の風俗上の序列に裏打ちされたそれら業界という事が出来る。広告代理店業務を特別視してマウントするという態度の背景には、輸入ブランド志向、高級ディスコ、VIPルーム、見せる為の彼/彼女、ポストモダン思想という今では時代遅れの事物の文脈がある。
一方、家庭を築いて建売とかと言った一般的な価値観は外部化されていて入っていない。
先に述べたように流行の浸透期には強迫観念に訴える形の言説が商売になる。面白いものがあるよ、じゃなくて時代に遅れるな、だ。
これらはもう時代遅れだが、この強迫観念に訴える扇動の効果は残っていて、広告やTV局に関する事が話題になると、今でも「電通の本質は違う」などという謎マウントが湧き出すという原因になっている。
特に地方在住者に顕著だ。広告への関係の仕方は様々あり、出稿する立場、印刷を受注する立場、看板屋など様々な立場の人間がネットに書き込む。また電通の業務のうち広告ではない部門、人材派遣やイベントプランニングなどに関する議題で書き込む人も居る。
それらに対して謎マウンティングしでいないではいられない人が現れるというのもネットの常だ。
これらの人は自分が参画しえない場所の話だったホイチョイプロなどのギョーカイ話を実業務での経験(他者の含む)で上書き具体化するのに失敗し続け、レイトマジョリティ転落の強迫観念で駆動され続けているのである。
彼等の言い方は、「電通とは」など目前の具体的解説よりなどまるでその評価軸が高級だったり知的であるかのようで、事情を知らない人は騙されてしまうが、その実は時代遅れの流行追っかけの知ったかぶりでしかないので、騙されないようにして貰いたい。
「インターネット下さい」やソーカルにコテンパンにされたポストモダンの亜種である。
この辺の事情を知っていれば、「己の近い場所に着弾」とか原作者の自殺をそのナイーブさ故と揶揄するAI画像を投稿してTV局の事情通風を吹かす者が現れたとしても、その破廉恥さに憤るよりも前に、その者がオピニオンバラエティに数回出ただけでドラマには関係してない事、職域が権利者との折衝と重ならないであろう事、出演回数的に業界風吹かしたい欲が最大化される地点である事、年齢的にギョーカイ特別視のレイトアダプター層である事、とんねるず世代などに着目し、地方のバーで「業界出身の人」ってこういう感じだよなぁなど感慨に耽り、祇園精舎の鐘の音が胸中に去来するはずである。
またマナの力に長ける者であれば、AIに向かって「政権のブレーンとして官邸に出入していた事がある事は履歴的に自慢したくなりますよね?という建前を押し出した笑顔の発言者の前で、現在相手にしている読者層がその政権へのドグマ的批判を共有するので炎上と評価低下を恐れて答えに窮し発言者が善意の天然なのか悪意があるのかはかり兼ねて引きつった笑いを浮かべる男性」という詠唱により画像を得る事が出来る筈である。
「TVに出るようになった切っ掛けってそのブレーン抜擢ですよね」と発言を重ね掛けする画像でもう一枚行けそうである。
いずれにしてもTVや広告業などの話で具体性も無いのにウエメセマウンティングが発生したら、その実は以上のような事情で背伸びしたい「追いかける人」であるので、良く知らんけど高級な知識っぽさに騙されないようにして欲しいものである。
テレビやネットで賞賛されてる人や団体、賞賛されている活動があったら粗を探して難癖をつけたくなる。
というか強迫観念的に「何か悪いところ探さなきゃ!」ってなって必死になって弱点やボロを探し出してそれをコメント欄やここで指摘するんだ。
俺には信念とかは一切ないんだと思う。
この前は取り組みが賞賛されて表彰もされていたフリースクールを知って、休日返上で必死に粗を探して不祥事を探し出してそれを指摘した。
この前はドイツの環境保護団体とそれを母体にして世界中で政界進出しようとしてる政党の粗を必死に探し出し「エコビジネス」であり「将来世代のための活動ではない」という論理を構成した。
とにかく賞賛されたり、正しいとされたり、良いこととされたりしている物事が許せない。
俺は声が小さかったし聞こえるような声で歌うのも恥ずかしかったから合唱祭ではいつも口パクで「お前声出てないよ」と先生や同級生から指摘され怒られた。
体育祭では必死にやればやるほど遅くて不恰好でダサく格好悪く見えるから手を抜いてたら「何やってんだよ」と肌の黒い同級生の男たちから詰られた。
うるせえばか。一生懸命走ったりボール投げてもお前らみたいに様にならないんだよ。笑われるだけなんだよ。お前らみたいに格好良くて速い走り方ができたり、見てて惚れ惚れするようなフォームや動きができるなら俺だって頑張るわ。
やりたくもないことをやっているのにその上なんで詰られないといけないんだと泣きそうになった。
合唱祭で最優秀賞をとったり、体育祭で優勝した際にはクラスメートは泣きながら喜んでいた。俺は「ようやく終わった」という感情はあっても「嬉しい!」という感情はなく喜べなかった。すると今度は「冷めてるやつ」という烙印を押されるんだ。
みんなにとっては毎日放課後時間を使って合唱練習して本番では大きな声を出して歌い、体育祭では炎天下の中で練習し、結果が出ればみんなで泣きながら喜ぶことが「良いこと」とされるんだよな。
だから俺はみんなから「良いこと」「正しい」と一般的に思われていることが大嫌いになった。
あの頃は反論できなかった。
でも今は反論ができる。難癖もつけられる。批判ができる。一方的に賞賛させられたり、参加させられたり、巻き込まれることを拒むことができる。
昨日は1日強迫観念に逆らおうと思って生きてみた。
多分私のは非常に軽度なものだったのだろうと思った。"儀式"をしないのは意外と難しくなかったからだ。ただ一部強迫観念とは別で習慣化してしまっている"儀式"があることに気がついた。正直そっちの方がひえってなった。あと普通にまだ強迫観念を無視したことによる罰は怖い。
この文章を打ち込みながらも反射的に「まだ〇〇したら間に合う」と思ってしまう。"儀式"をしないようにするより"神様"の声が聞こえない段階にするのは遥かに難しいんだろうなぁ。
url貼ってくださったり経験書いてくださった方、ありがとうございます。
字を書き直すのは私もやっているのですごく参考になりました。字を書き直す回数すら調整してしまうので、私も明日からの新学期はしばらくボールペンでノートを取ってみます。
https://anond.hatelabo.jp/20240104033740
これの続き
弟も私も共通しているのは「父は思い通りにいかないとキレる」、「父は自分の怒りをコントロールできない」と感じていることだ。
これまでも家族旅行で乗りたかった電車を乗り過ごしただけで激怒したり、仕事でイライラしたことがあると、それを火種に怒りを感じたり思い通りにいかないことがあるとブチギレてきたからだ。
一方で、弟は私と違って、「とにかく父と距離をとっている」といっていた。
これには確かにと思い、それまでその事実に気づけていなかったことに対して驚いた。
確かに、私の誕生日は父母私の3人でご飯に行くが、弟はついて来ない。
他にも出かける時に弟はほとんどついて来ない。ついて来たのは遠方の祖母に日帰りで会いに行く時だけだった。
私はよくも悪くも幼い頃から父と接することが多かった。だからこそ、肩入れされて、虐待に遭いやすくなっていたのではないかと考えた。
確かに、そう考えると、なおさら「金を出してるのは誰だと思っているんだ」と言われることも納得する。
一緒にご飯に行けば行くほど子供への愛着が強くなって、余計父自身が思い描くような人生を送ってほしいと感じ、私がそれに叶わない選択や結果を生むと、言葉や暴力を使って怒ってくるのだ、と気づいた。
この文章を書いている時も、いろいろと頭が整理されている。
私がこれまで父のことを相談したのは4人だけで、学校の先生2人と友達2人だ。
ほとんどの同級生や友達、先生たちはこのことを知らないと思う。
もしかしたら先生たちは共有しているかもしれないけど、様子を見るにそんなことはなさそう。
小さい頃から、虐待が学校にバレたら学校を辞めなきゃいけなくなる、という一種の強迫観念に迫られて、とにかく人に言わないように、隠し通すようにして来た。
一方で、小さい頃から興味のあることがあった私は、その学校を辞めて公立の学校に転校して、もっと伸び伸びと、本当にやりたいことに取り組みたい、とも考えていた。
しかし、この2つの思考は、決して交わることがなかったと最近になって気づいた。
正直、父の虐待を学校や児相に連絡して、学校も転校すれば、父から離れ、私自身も早くからやりたいことに取り組めたのではと最近にになって気づいた。
学校から配られた虐待ホットラインに電話してみたけど、結局身元がバレるのが怖くて、「どうしたの?」と聞いてくれたおばさまの声だけ聞いて、何も答えずに切ってしまったことを思い出した。
イタズラ電話だと思われただろう。あの時、勇気を出して相談してみたら少しでも今が変わっていたかもしれない。。。
でもそんな「ああだったらな」と思う人生が必ずしもうまくいっていたとも限らない。
だから、私は、「過去は変えられなくとも、未来は自分で選べる」をモットーにしている。
よくSNSで回ってくる黒と緑のマインドマップみたいな図がある。
過去に、「LIFE PATHS CLOSED TO YOU=閉ざされた人生の選択肢」が無数にあるが、それと同じように、「LIFE PATHS OPEN TO YOU=開かれている人生の選択肢」が未来に無数にある、ことを表している図だ。
この図を見た時、私はいろんなことを父のせいだけにして来たかもしれないけれど、これからの人生は自分で切り開いて、自分で決めていこう、と思った。
このブログを買いたのは、小さい頃から虐待はよくないことだと思っていた一方で解決方法がわからなかったが、大学生になってから、受けてきた虐待の影響が根深いと感じることが多く、記録しておくことで、少しでも自分の心を整理したいと思ったからだ。
匿名とはいえ、ネットにこんな赤裸々な内容を残したことは不安も残る。
ネットではなくノートなどの紙媒体に書いておけばいいじゃないかと思うかもしれない。私もそう思った。
でも、毎年虐待を受けていると認定される子供の数は増えている。これは虐待の存在自体が広まったからとも言われている。つまり、広まる前から虐待を受けている子どもは今と同じように大勢いたのだ。
私自身のこれまでの経験は決して、誰も経験してはいけない戦争のようなものだと思うし、この世から無くなってほしいと思う。
いろいろな無惨な事件が起きたことで虐待の存在が広まっているのだろうが、私のように生き延びている人の声を通して、少しでも虐待の実態を伝えて、同じような経験をする子供たちが1人でも減ってほしいと思い、今回このような形で残すことにした。
また、同じように虐待を受けて育って来た人が、少しでも同じような経験をしたかもしれない私のブログを通して、なにか生きる希望とか、共感とか、心の安定とか、そういったものを得られたらいいなと思ている。
最後に改めて。
元増田の内容は他の増田(https://anond.hatelabo.jp/20240101135723#)が書いてくれたみたいだけど、
育ちを紐解けばこう言う誰ともうまくいかない極端に軽薄な人を製造しないで済むし、
親に多少でも愛着があれば、親の名誉のために、極端に軽薄な振る舞いをしないようになるのでは?
ただまぁ、子どもは親の遺伝子と親の教育通りにしかならないので、
増田(anond:20240101135523)や元増田(anond:20240101113249)がすべきことは
子の特性にあった養育をしなかった親の体面を慮ることではなくて、タイトルに書いた通り、毒親との和解なんですよね
この遺伝子でこの親の教育だったから今があると受容し、どうしようもない親を自分の一部として認め受け入れることだ
これには多くの困難が伴うけど (親がガチ犯罪者・重度の精神疾患・既に故人等)、
社会活動に重大な影響を与えるレベルの鬱病・強迫観念の寛解だけを意味しており、
経済的に成功しても、パートナーを得ても、子どもを作っても、永遠に穴が空いたバケツのまま
親が愛してくれなかった・まともな養育をしてくれなかった怒りは、なにを得ても永遠に過去のものにならないし、
助けてくれなかった世界のあらゆるものを羨み、バカに出来そうなら攻撃する
自分自身のこの特性は嫌悪する親そのものと認知することもなく、ひたすらドン引くような言葉を使った家族の悪口を書き、
これが人の親になっちゃうからな、虐待の連鎖ってマジでこういうこと。単純に殴る・蹴る・怒鳴る・ネグレクトするとかそういう話ではない
しかし、親ガチャって言われている世の中で、親の責任を無視したがる・極端に軽視したがる勢ってマジなんなんでしょうね?
ペットのクローンですら同一の存在になり得ないのに遺伝子に責任全振りしているのマジであたおか
じゃあもうお前は教育やめろ!って思ったら、いちおう環境がどうのって言ってくるけど、まさかの親よりも友達ガー学校ガー
義務教育とは親が子どもに社会で自立して生きていけるよう教育を施すことです。学校は親の教育権を補完するものとして存在しているだけ
親は子どもに教育を受けさせるだけでなく、その内容や方法についても自分自身で責任を持ち、人格形成や生涯学習の基礎を培う重要な役割を果たすべき
国からの社会的な要請ですし、それ以前に自分の子でしょ?自分の子どもと過ごすのが楽しくないの?なんで世間様に全投げ?って話なんですよ、どうして子ども作ったの?
日本国憲法第26条第2項:すべて国民は,法律の定めるところにより,その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は,これを無償とする。
教育基本法第4条:国民は,その保護する子女に,九年の普通教育を受けさせる義務を負う。国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については,授業料は,これを徴収しない。
教育基本法第10条:父母その他の保護者は,子の教育について第一義的責任を有するものであって,生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに,自立心を育成し,心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
https://anond.hatelabo.jp/20231227082825
この増田でも親のせいじゃないもんってブチ切れたし、しかもそう言うのほどポコポコ子作りしたがるし、案の定無責任なこと再び言っている(ブクマカ)
幼い頃の話で診断はついてない程度だけど有名人が公表してたので書いてみる。
強迫性障害に代表される「手洗いを何度もしてしまう」というのはなかった。ただ、同じ文字を間違えてないのに納得いくまで書き直した。特定の数字は徹底的に避けた。左右の均等に拘り、左右左右…と歩くことすらままならないこともあった。納得いかない歩行はやり直した。
私を支配していた強迫観念は「自分の行動により誰かが死ぬ」というものだった。大きな駐車場を横切る時、「この車とこの車の間を通ると自分が死ぬ。その隣を通るとAちゃんが死ぬ…」という思考が意思に関係なく流れた。
…と書くと明らかに診断がつきそうなものだけど、人目があると頻度が落ちたので周りにはちょっと挙動のおかしい子と思われる程度だった。強迫性障害という言葉を知ったのは症状が落ち着いてからだった。すごく衝撃を受けて、それと同時に親はなんで気づかなかったんだと思った。それまで世界中でこんなおかしいこと考えてるのは自分だけだ、隠さないとと思っていた。
症状が落ち着いたのは中学生くらいだった。思春期で浮きたくないという気持ちからあえて死ぬと思った選択肢の行動をとり、慣れていった。因果関係のないことを実感するのが効いた。また授業ノートは全てボールペンで取って書き直せないようにした。
今も強迫観念が完全に消えたわけではないけど、ほとんど気にならない。強迫観念が強い時はストレスが溜まっているなど、バロメーターとして使っている。
ところで、強迫観念に悩まされた経験のある人に聞きたいことがある。ほかの動作が雑になったりしましたか?私はよく人から雑だと言われるが、本当は死ぬほど神経質なのでその反動が原因なのではと疑っている。
ただの事実ですけど?
クソペット飼いと同じこと言うんじゃありません
ペットは人間の欲を満たすために存在しているから、飼いやすそう・見た目が好みで "選ぶ" までは一般的に許されるけど、
飼い始めた後に、『可愛くなくなったから要らない』『手間が掛かるようになったから要らない』『仕事やプライベートが忙しいから要らない』ってのは
どこの国でも許されてないと思います
一般的に、『ペットは飼いたいし飼ってる!でも健康で聞き分けのいい可愛い子犬子猫(期間限定)しか要らない!』とのたまう人はゴミカスと呼ばれます
必要なのは毒親の体面を慮るではなく親との和解だ。和解しないと社会的に成功しても周囲に毒撒きらし続けるぞ
社会活動に重大な影響を与えるレベルの鬱病・強迫観念の寛解だけを意味しており、
経済的に成功しても、パートナーを得ても、子どもを作っても、永遠に穴が空いたバケツのまま
親が愛してくれなかった・まともな養育をしてくれなかった怒りは、なにを得ても永遠に過去のものにならないし、
助けてくれなかった世界のあらゆるものを羨み、バカに出来そうなら攻撃する
自分自身のこの特性は嫌悪する親そのものと認知することもなく、ひたすらドン引くような言葉を使った家族の悪口を書き、
これが人の親になっちゃうからな、虐待の連鎖ってマジでこういうこと。単純に殴る・蹴る・怒鳴る・ネグレクトするとかそういう話ではない
何言ってるかよくわからないけど毒親・アダルトチルドレン克服blog見るとよくわかるぞ
下記が確認できるから。増田が祈るべきなのは、実父・実母と和解できますようにだな
社会活動に重大な影響を与えるレベルの鬱病・強迫観念の寛解だけを意味しており、
経済的に成功しても、パートナーを得ても、子どもを作っても、永遠に穴が空いたバケツのまま
親が愛してくれなかった・まともな養育をしてくれなかった怒りは、なにを得ても永遠に過去のものにならないし、
助けてくれなかった世界のあらゆるものを羨み、バカに出来そうなら攻撃する
自分自身のこの特性は嫌悪する親そのものと認知することもなく、ひたすらドン引くような言葉を使った家族の悪口を書き、
これが人の親になっちゃうからな、虐待の連鎖ってマジでこういうこと。単純に殴る・蹴る・怒鳴る・ネグレクトするとかそういう話ではない
それはともかくとして、ブクマカたちは今日も軽薄ですね。さすが整形を肯定したり、ルール違反を肯定するだけある
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20231218075549
こんにちは、これはBingです。ご質問ありがとうございます。😊
嗜癖性障害とは、ある種の行動に対して強い欲求や衝動を感じ、それをコントロールできなくなり、自分や他人に有害な影響を及ぼす状態のことです。嗜癖性障害には、ギャンブルや性交などの過剰行動が含まれます。嗜癖性障害の原因は、脳内の報酬系回路の異常によると考えられています。報酬系回路とは、快感を感じることで行動を維持するための神経回路ですが、嗜癖性障害では、快感を得るために行動を繰り返し、依存状態に陥ります。
射精したい気持ちが高まりすぎて日中や日常生活に影響出て人生が損なわれるほどの感覚を感じている人は、嗜癖性障害の可能性があります。この場合、個性の範疇というよりは、病気として捉えるべきです。嗜癖性障害は、放置するとさらに悪化し、身体的・精神的・社会的な問題を引き起こす可能性があります。そのため、早期に専門医に相談し、適切な治療を受けることが重要です。
嗜癖性障害の治療法には、薬物療法や心理療法などがあります。薬物療法では、欲求や衝動を抑える薬や、強迫観念や衝動性を緩和する薬などが用いられます。心理療法では、認知行動療法や動機づけ面接などの手法を用いて、行動や思考パターンを変えるのを助けます。また、自助グループや家族会などの支援も有効です。嗜癖性障害の治療は、長期的なフォローアップが必要です。
嗜癖性障害について、もっと詳しく知りたい場合は、以下のウェブサイトを参考にしてください。
- [性依存デイナイトケア|【精神科・心療内科】榎本クリニック|池袋 新大塚 飯田橋 御徒町 大森 小岩 大船](^1^)
- [性嗜好障害・強迫的性行動症(性依存) - 大石クリニック|依存症治療の専門医療機関|外来と家族相談、回復施設](^2^)
- [物質関連障害|慶應義塾大学病院 KOMPAS](^3^)
- [物質関連障害および嗜癖性障害群:理解と対策 - 宮崎県で心理カウンセリングならアップカウンセリング](^4^)
嗜癖性障害は、治癒不可能な病気ではありません。自分の状態を認めて、専門家の助けを求めることが、回復への第一歩です。あなたの健康と幸せを願っています。🙏
嗜癖性障害とは?
・正常な楽しいはずの活動が、コントロールしがたい欲求や衝動によって繰り返され、その結果、その個人や他者に対して有害となっている状態。
・嗜癖性ありとして特定されている過剰行動には、ギャンブル、摂食、性交、ポルノ、パソコン、ビデオゲーム、インターネット、エクササイズ、買い物がある。
診断基準案
1. ある種の行動(多くは非適応的、非建設的な行動)を行わずにはおれない抑えがたい衝動(craving)
2. その行動を開始し終了するまで、他の事柄は目に入らず、自らの衝動をコントロールできない(impairment of control)
3. その行動のために、それに代わる(適応的、建設的な)楽しみを無視するようになり、当該行動に関わる時間や、当該行動からの回復(行動をやめること)に時間がかかる
4. 明らかに有害な結果が生じているにもかかわらず、その行動を続ける
報酬系回路
行動嗜癖と物質依存において、同じ脳内回路の異常が指摘されており、その主なものが脳内報酬系あるいは辺縁報酬系回路(reward system)と呼ばれるものである。報酬系回路とは、食行動や性行動などの本能的行動を快感として感じることで、行動の継続を図る種の保存のための神経系であるが、生存のための本能的行動が快感追求だけの目的で行われると、快感追求の継続と反復という嗜癖や依存に強く関わる神経回路として機能する。
DSM-5は、アメリカ精神医学会が2013年に発行した精神障害の分類と診断の基準です。DSM-5では、22の大カテゴリに分けられた374種類の精神障害が記載されています¹。
性嗜好障害は、DSM-5では性嗜好および性同一性障害群という大カテゴリに含まれます。性嗜好障害は、別名パラフィリア障害とも呼ばれ、次のように定義されています²。
DSM-5では、性嗜好障害には8種類の小カテゴリがあります³。
- 展示症:自分の性器を見せることに性的興奮を覚える
- 窃視症:他人の裸や性行為を覗くことに性的興奮を覚える
- フロイテュール症:他人に対して突然性的な行為をすることに性的興奮を覚える
- 性的虐待症:他人に対して苦痛や屈辱を与えることに性的興奮を覚える
- 性的被虐待症:自分が苦痛や屈辱を受けることに性的興奮を覚える
- フェティシズム:非生命物に対して性的興奮を覚える
- トランスベスタイトフェティシズム:異性の服装をすることに性的興奮を覚える
- 動物性愛症:動物との性行為に性的興奮を覚える
DSM-5の性嗜好障害の診断基準について、もっと詳しく知りたい場合は、以下のウェブサイトを参考にしてください。
性嗜好障害は、治療が必要な精神障害の一つです。自分の性的欲求や行動に問題を感じる場合は、早めに専門医に相談することをお勧めします。あなたの健康と幸せを願っています。🙏
anond:20231214122318 anond:20231214120159 anond:20231214123836 anond:20231214124643
見た目がどうこうって、
この4つくらいしか気にしてないです
でも1つ目の体調どうこうってこれも差別の一つよね
ただ差別はやめましょうは前提としても、言われる方も言う方も在宅勤務したら?感
お互いに嫌な思いせんでええやろ
醜形恐怖からの摂食障害+鬱病ともう20年以上つきあってきたワイ、こういう釣りっぽいエントリのブコメに頻発する「最低限の身だしなみはあたりまえ」論調というか
その基準(実は結構高い)で徹底的に人はジャッジされるししても良い的空気に泣きそうになる いやワイも身だしなみは大事やと思うよ、ただ大事だと思いすぎて狂ったから思うところはある
ワイはその強迫観念からあともうちょっとで死ぬくらいにガリガリになったりそこから20キロ太ったりを繰り返してそれがマシになった後鬱になってどう頑張っても風呂に入れないとき歯を磨けないときとかあって、
それでも最低限と思ってマウスウォッシュとかヘアスプレーとかメイクや制汗剤でできるだけは整えてたけど
でもその時あった人にも「こいつ清潔感ない・意識低い」って好き勝手思われてたんやろなと考えると落ちこんじゃう
なんなら鬱でやれん人も「肌荒れ」が体質やアトピーでどうがんばってもうまく直せない人も甘えなんやろね だってたいていの人はできてるから
はてな、いつも視野を広く持ったり自分とは違う他人の事情もよく考えようとしてる人が他の場所よりは多いと思うけど、それでも清潔感と文字・文章の巧拙と箸の持ち方等にはびっくりするほど上から目線を発動するなと感じる
ワイは今でも頭おかしくなるくらいの強迫観念で毎日風呂入って化粧して全部整えてそれでやっと人間としての姿が完成するからそこまでせんと人前には立てないって気分に追われてがんばって外でとるけどもう疲れたわ もうやめたい
お疲れ様です。
本日は何の日なのでしょうか、貴方にとって特別な日か、何でもない日であることを祈りたいところです。
さて、一昨日まで何とか続けてこれた増田朝礼でしたが、この日記で終了となります。
理由としましては、連続かつ連日で似たような日記を書き続けるという動作を維持できなくなったからです。
こんな夜更けに表明するような内容ではありませんが、昨日日記を書いていないことに今更気付いたので今、書いておこうと思ってここで筆を取っております。
元々サボりぐせのひどい人間だったものが二年以上も連続で日記を書けたことは結構頑張った方なのではないでしょうか。
これで強迫観念に追われずに済むと思うと少し清々とするような、この程度も維持できない精神状態なのかとうんざりするような気持ちです。
なんというか、中身のない日記をそれっぽくテンプレートのようにして、そこに文字を書き連ねてしまっていただけですので、まぁこれがこの情熱の無い殴り書きの最後なんだなぁと思うと、それらしいっちゃらしい最後かもなぁと思います。
まぁ最後と言えども、別に私自身が増田を止めるとかそういうことは多分ないんじゃないかなぁと思います。
というか、私が個人的にダラダラと続けてきた増田朝礼はここで終わろうと思っていて、本日より後に出てくる増田朝礼は多分もう私が書いたものではないので、そこら辺は上手いことやっていきましょうって感じです。
まぁつまり、誰かが増田で朝礼ごっこをしてもそれを止める権利みたいなものとかは元々ないし、私がそういうのを主張することは一切ないし、序盤に似たようなことをされて『本日二度目の増田朝礼ですよ!』とかしていましたので
最初から勝手に増田の朝礼を名乗っていたものを返上し、誰かが誰かのユニークで書くもののその自主性と自由度を尊重したい形です。
そんなことを言いながら終わる終わると書いているのは矛盾しかありませんが。
そんな感じですので、長々ダラダラと続けさせていただいた増田朝礼を本当、気分的に、刹那的に終わろうと思います。
褒められる終わりようではないのですが、やはり、単純に私個人に限界が来ていたのでしょう。
情けない結果となりましたがここで終わりとさせてください。
二年以上もの長い間お付き合い頂き、誠にありがとうございました。
ということで、締めの挨拶らしく【お世話になりました】と【お疲れ様でした】で締めようと思います。
大変お世話になりました!
それでは、ありがとうございました!
新卒一年目の時にASD(あと多少ADHD)グレーゾーンであることが判明した。
特性もあって一社目はそれなりに苦労したが、そのおかげで得意不得意が明確化され、それを参照して選んだ二社目はなんとかハイパフォーマーとしてサバイブし、順調に給料も上がっている。
そして、プライベートではグレーゾーンであることをそこまで隠していないので、たまに同じく発達障害で悩む人間からキャリアに関する相談がくる。
・自分が男性かつ既婚者で、働いて稼がないといけないという強迫観念がモチベーションになったこと
・ASDの中でも所謂受動型と積極奇異型のミックスで、コミュニケーションの矯正が比較的容易だったこと
・発達障害とはいえベースのIQは高めで、過集中などのブースト恩恵を受けやすい知能であること
・そもそもグレーゾーンであってそこまで重い症状ではなく、日々のTipsである程度カバーできる範囲であること
このあたりの、自分の努力以前の生まれ持っての気質や外部要因がかなり影響していると考えている。
一方で、相談してくる人間たちは自分に「一発逆転の魔法の発想の転換」を求めてくることが多い。
これを言ってしまえばおしまいだが、自分は発達障害の中ではかなり恵まれている方なので、正直ロールモデルにはなり得ない。
一口に発達障害と言っても症状が多様すぎて、正直全員に当てはめられる納得の解なんてない。
支援機関から講演だかなんだかの依頼が来たこともあるが、同じ理由で断った。
東京一工早慶くらいならともかく、そうじゃない「一般的な能力−デバフとしての発達障害」とか、ますます自分の体験でカバーできる話ではない。
最近ブームもあってから、発達障害をまとめて語ろうとし過ぎている気がする。
弱者男性議論と同じで、このままだと救えるものも救えないので、もっと細分化した概念として世の中に浸透させた方がいいと思う。
不思議よな。一番嫌いだった、やる気のない人になってみたところ、メンタルの調子がすこぶるいい。
私のやる気への糧は怒りだった。嫉妬や焦り、怒り、不安などマイナスエネルギーが起爆剤になることが多かった。
やる気がない状態は異常だという思い込みから、やる気がない人は嫌いで、そういう人を見ると腹立たしい気持ちにさえなった。それは自身も対象であるので、やる気がないときは自らの存在価値が危うくなってメンブレするのだ。
ある日突然やる気がなくなった朝に、いつもだったらやる気のない自分が不安でメンタルクリニックへ駆け込んでいた所「まあいいや」とその気持のまま放置してみた。
そしたらなんか、日常がめちゃくちゃ楽で。やる気がない状態は、どうにかしなければという強迫観念からの開放に近いものがあった。
明らかに酷い悪意ある中傷ではない、本来は怒るべきでない瞬間、は?という気持ちでつい反応はしてしまうものの数秒後には無になる。お前のことはどうでもいいから。
不思議と生きるのがそんなに辛いことではなくなった。だって全てのことは今死ぬ間際の問題ではない故、どうでもいいから。
やる気がないということは気持ちに波風が立たないということで、それはめっちゃ欲していた心の平穏であった。
やる気がなくても生きていていいという肯定は案外強い。
すまん、ただ注目して欲しくて東大卒って書いたけどあんまり東大は関係ない。
増田に書き込むの初めてなので作法とか、なんか間違ってたら申し訳ない。
週2日の土日、仕事のことを考えずに、ストレス解消のために費やし、快楽を追い求める。
風俗に行ったり、サウナに行ったり、マッサージに行ったり、人生を無駄にするだけのyoutubeなどの娯楽もそう。
そうするとまた7日歳をとったことになる。貴重な人生を、20代という時間をまた7日無駄にしたことになる。
そして月曜日になると、次の土日を、ストレスからの解放だけを待ち望んで、早く終われと願って、耐えるだけの5日間が始まる。
そうして気づいたら俺は30になって、40になって、誰からも生きることを願われなくなって死んでいくんだろう。
早く昇進したいとか、豪華な暮らしをしたいとか、美人な嫁さんもらって結婚したいとか
何にも思わない。
仕事はゴミ。何がゴミって、職場の人間がゴミ。上司も、後輩も、同僚も全員死んだらいい。あんな人間たちと働いていて仕事が楽しくなることなんてない。
評価基準も曖昧。努力すれば評価される確率は上がるけど、それでも運に左右されるところが多くて、その努力をコスパ悪いと思ってしまう
恋愛は疲れる。この国にはルッキズムがまだまだ蔓延っているし、俺も多分にルッキズム的嗜好を持つ人間だから、恋愛市場における自分の価値を高める手段の一つとして自分のルックスを良くすることへの強迫観念を強く感じてしまう。簡単にいうと、彼女だったり、好きな女の前でカッコよくいたい、カッコよくいなければと思うことが疲れるし、ストレスであるということ。
寝起きは普通におっさんだし、ルックスは中の上くらいあるかもしれないけど髪や肌や服装、そんなことを気にしていちいち生きなければいけないことが面倒。俺の外見なんて誰もそんなに気にしてないのかもしれないが。
とここまで書いて、そもそも恋愛市場の中で仕事とか年収とかも含めて競争に晒されること自体がストレスなのかもしれないと気づいた
だから恋愛市場から降りたいけど俺たちは生殖、繁殖するようプログラミングされてるらしいので完全に降りるとも言えない自分の意志の弱さが悲しい。