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2012-09-29

ペット家畜のちがい、あるいは教育の失敗

面白い2chまとめ記事を見つけた。いわゆる命の大切さを自覚させる教育についてのもの

「豚を殺して食べる授業ってあったじゃん?あれってやり方が悪いよな」

http://oryouri.2chblog.jp/archives/7471447.html

元記事では「ブタがいた教室

http://goo.gl/DV423)(Wikipedia

http://goo.gl/D07Pw)(amazon

という映像作品が焦点になっている。これは生徒たちに生きているものを食べるという意味を考えさせるという目的で、1年間「食べる約束」でPちゃんと名づけられた子ブタ飼育する児童の活動の記録だ。容易に予想される通り、殺すべきか殺すべきでないかを巡って児童らは激論を闘わすことになる。以下、この作品における子供たちと家畜(あるいはペット)としてのブタとの関係について少し考えてみようと思う。なお、児童の下した最終的な決断がどのようなものであったかはここでは重要ではない。

とくに考えてみなくとも、この教育方法愛玩動物家畜意図的に混同させてしまっている点で偏向していることはすぐ看て取れる。牧場屠殺場の労働者と異なって、児童たちにとって家畜を殺す選択とは生活上の要請や主体的な投企ではないし、それらに束縛された社会的な半義務から解放されている。かれらは「ブタとともにいる今のこの経験」をまったく外部から与えられた教育機会として甘受しているにとどまるため、必然的に(屠殺という)未来との緊張的な関係はほどかれてしまう。つまりブタは形式的には家畜として存在していても、児童たちにとっては犬や猫のようなペットとなんら変わらないし、その素朴な誤認が改められることもない。

農家で働く人々のなかには、家畜愛称で呼んで慈しみながら育てる者もおそらいるかもしれない。だが、衛生管理、給餌、畜舎環境整備、精神状態への配慮、成長の仕方への注視といった諸々の世話は、家畜を取り扱う職務というひとつ社会的役割の枠の中で分化した業務である。したがって、それが職務である限りにおいて動物との関係は尊重されるのであり、家畜への愛情とはひとつひとつ労働の只中から立ち現れるものだ。だからペットのように対象を没入的に愛玩することが先行しているわけではないし、そうした依存は成立しようがない。この意味で、公共的領域に属する家畜は私的領域人間を慰めることに専念するペットと同一視することはできない。

この教育が欠陥を抱えているのはまさにそこで、生物を食べるということの意味を考えさせるはずが、ペット家畜として扱う行為の是非がそれ以前に立ち現れてくる羽目になることだ。あるいは、「教育機会として与えられたブタを、教育目的として屠殺すること」という奇妙な倫理問題が登場してくることになるのだ。だからブタの形式的な存在よりもむしろブタとの実質的な関係を重んずる児童ならば、きっと殺すことに猛反対することになるだろう。それも、生命の尊さという観点からではなく、先ほどまでは愛玩していた動物教育用だからという理由で屠殺することの倫理的な疑問からである

生命を奪って食物をいただくことは非常にありがたいことなのだ屠殺はやむを得ないのだ)」という結論に子供たちが至ると教師が期待していたのならば、その教師は教育権力子供の阿りにあまり幻想を抱いていると言わねばならない。なぜならば、当座の問題として、子供たちにとって「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタである必要は一切ないのだから感情に束縛された反対者がこのことに気づくかどうかは別として、この葛藤は両者を厳密に区別さえすれば解決する話ではある。我々が生活的・社会的意味から屠殺要請されているのは家畜用のブタという一般的な対象であって、Pちゃんという特定的に指示された一匹のブタではないだろう。

こうなると初期の教育目的から大きく外れた論理子供たちを支配するようになっているのが理解できるだろう。屠殺がそれ自体として容認されるべきか否か、また、容認されるとして我々はそのことをいかに受け止めるべきなのかという課題は置き去りにされる。うってかわって幅をきかすのは、「それが屠殺から回避されるべきペットであるか否か」という二択問題でしかない。

つまるところ児童の躊躇と反発は、動物一般を屠殺することにではなく、愛情を受けるに値するペット屠殺することに向けられることになる。もし教師がこの洞察の対象を臆面もなく「命の尊さ」と名づけ、児童らがそれを真に受けるとしたら、それは教育的にも、児童感覚を支配する論理から言っても、致命的な取り違えを犯すことになる。なぜなら、そこで問われている生命価値とは、その動物が与えられている人間愛情という尺度によって一律に測られるものにすぎないからだ。この錯誤は一部の動物愛護団体も陥っている、言うまでもなく極めて未熟な人間原理である

屠殺に賛成する児童にしても、その意見後ろ盾となっているのはそのブタ屠殺されなければならない社会的制約にあるのではない。先にも述べたように、「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタである必然性に欠けているため、それを論拠とすることはできない。代わりにあるのは、教師やクラスの皆と「食べる約束」で育てたのだから言葉通り(あるいは教師や学校の期待通り)食べるべきだという自閉的な教条主義しかない。そうした子供たちを支えているのは、ブタは一時的にはペットであったかもしれないが、家畜という名目は残っているのだから今や再び家畜に戻るべきだという同一性への信念である。したがって、生活的・社会的要請という家畜の意義はやはりかれらの目には隠されたままだ。

こうした事態はなぜ起こるのだろうか。まだ児童ペット家畜の類別がつかないからでは決してない。生活上の要求や社会的責務と切り離された、教育という特殊な環境によって本来の弁別がゆがめられてしまったところに原因はある。一般的に家畜ペット存在は公共的・私的という形ではっきりとした線引きがなされており、特に家畜に関してはその取り扱いに恣意性がはたらく余地はない。ところが、社会的要請という文脈から切り離してこれを教育という場に持ち込んだ途端に、垣根は崩されて恣意性が生まれることになる。つまり、そのブタ家畜になることもできるし、ペットになることもできる。その不安定さがすでに本来の家畜とは別物である以上、当然「生きているものを食べる」という普遍的な行為考察する可能性から遠く離れることになる。

結論として、この教育が「命の価値」や「生きているものを食べる」ことについて考えることを目指しているとしたなら、それは完全な失敗だと思う。教育の目指すところが悪いのではない。学校の一クラスの中に一匹の家畜を持ち込んで、なお家畜意味が無条件に保たれると思いこんだ教育者の甘い認識こそが問題なのだ。それは単に牧場見学職場体験を学校の内側で再現することではない。家畜は数え切れないほどの社会的紐帯繋ぎとめられた動物である限りで家畜と呼び習わされるのであって、周りを取りまく環境との避けがたい関わりを黙殺したところで家畜の理解にたどり着けるわけがない。

2012-07-05

ひとつとっても育児母親仕事であることはよく分かるな

実家で飼っている雄猫が近所の野良猫子供を産ませたらしい。

家の軒下に母猫と子猫たちがいついてしまって、結局親族と協力して雄猫と併せて飼うことになった。

3匹のうち2匹は母猫と同じ真っ白な猫で残り一匹が黒い猫。

飼っている雄猫は黒と灰色の鯖トラだから、やはりうちの猫が生ませた子供たちではないかということだった。

授乳している光景が大変ほほえましい。

子猫に近づこうとすると母猫が威嚇するという。

父猫は子供たちの面倒を見ることはしないでもっぱら母猫が子猫たちといつも一緒にいる。

つの間にか他所のはちわれ野良子猫が紛れ込んできて、母猫はこの他の猫の子供にも授乳して世話をするようになった。


本能のままに行動する動物の姿を見ていると、やはり人間が知恵や理性で以て男女共同参画とか制度を作ったところで、

子供を育てるのは雌の役割で雄の仕事は種付けなのだなあと今更ながら実感させられる。

多くの動物の雄は餌を運ぶ仕事すらしないのだから

一応制度的に餌を提供する義務を負っている人間の男はまだ誠実なほうではないのか。

大抵の動物の雄はやり逃げして終わりなんだろうから

まあ雄にとってはどんな子供自分の子である決定的な証拠はないのだから自分資源犠牲にしてまで子供投資する気にはならんのだろうな。

人間の男が責任果たさずやり逃げしたがるのもこういう動物本能から来る自然な行動原理なのかもしれん。


ちょっと驚いたのは、母猫が自分が生んだわけでもない子供にも授乳して実子同然に育てるということ。

人間社会だったら滅多にないのではないか

自分遺伝子が入っていない子供でも、赤子なら自然母性本能が湧いて育てようとするのか。

自分の子供と他人の子供を弁別するだけの個体識別能力動物は持っているのだろうか、どれぐらい識別できるのか、識別したとして実子とよその子との間に扱いに差は生じるのだろうか。


人間は下手に賢くなった分母性とか父性とかを出し惜しみするようになって、

結果として種族全体としての存続にとってはその知性がマイナスに働いているのかもしれない。

2012-05-30

http://anond.hatelabo.jp/20120530023127

自己所有の資産ではなく、誰かの資産に「住ませてもらっている」場合

それは自己資産ではないので生活保護の受給対象になるよ。(その代わり、家賃補助は出ない。家賃ゼロの住居に住んでるって解釈だ)

あんたが誰かの家に居候しながら生活保護を受けようとしたら、当然受けられる。河本はそのケースだ。

換金可能な自己資産がある場合は、田舎に住んでて車がなければ生活できない!みたいな場合を除いて、生活保護はムリだ。

柔軟でもなんでもなく、ルールの内で対応してんだよこれは。

逆に、「可処分資産は全部売らなきゃならない」もルールで、柔軟に対処すれば総支給額が減る状況が仮にあったとしても

役所はそれを把握していたら絶対に生活保護は出せない。受給条件上の瑕疵は絶対にハネられる。

役所は融通が利かなかった結果河本母親に「生活保護を出してしまった」んだよ。柔軟さではなく、お役所仕事の結果だ。

今回の件で河本の問題は「扶養義務を果たしていなかった」の一点のみ。

ほかの問題はすべて、河本母親が責めを受けるべきなんだよ。そこを弁別できてない人間が多過ぎる。

http://anond.hatelabo.jp/20120530022147

からよ。

この先「扶養義務制度の強固化」が起きた時に、間違いなく俺ターゲットだろうがっつってんの。

俺はガキ二人作って両方に最高の教育を受けさせると心に決めて生きてんだよ。

ところが、この先年収の上昇が順調に推移した場合、間違いなく俺はシバかれる対象になっちまうだろ。

運が悪いことに順調なんだよこちとら。

今回の件で「河本母親」がシバかれるのはわかる。

何故なら、それは母親の問題だからだ。あのババアシバかれるなら理解出来る。

生活保護を受給する主体が叩かれるならわかる。しかし、今回バッシングのメインは河本だろ?

それも「扶養義務を果たしていなかった」というところで。国家財政が悪い以上、この先収入があって扶養をしたくない人間

危機感を覚えるのは当たり前の話だろうが。

仮に河本仕送りをしていたところで、それは収入を隠していたババアの問題だろ。

ところが、矢面に立つのはいだって稼ぎ頭だ。冗談じゃねえよ。

馬鹿が問題を正しく弁別しないまま感情論で叩いてるだろ。この先、扶養義務の強化は確定路線じゃねえか。

アホか。大迷惑だ。

2012-05-28

http://anond.hatelabo.jp/20120528015317

そういう話ではなく。

オッサンが加齢臭をまき散らしながら、何の根拠もなく自分の世代になかったものを「悪」と決めつけて

「若いモンはダメだ」と言ってる姿勢を「そういう風に老いたくない」と元増田表現してるんだと思うよ。

全く同感だ。俺も、あんたのようなバカな親になりたくはない。

このiPadが「絵本」だったらどう思うかね。iPadで遊べる子なら絵本も読めるだろう。

あるいは、もしかしたら活字も読めるかもしれんね。まぁ、読めるだろうな。

あんたの視線から言えば、これも忍耐力の点からして問題だろう。

とすれば、これは「iPadチルドレン」の問題ではなく、「暇つぶしアイテムを与えられたガキ」の問題だろうよ。

もしくは素敵な理屈づけによって「iPadは大問題!絵本は問題なし!」となるのかもしれんけどな。

空気清浄器が原因で免疫力が低下しアレルギーになる!」(自分のガキ殺しそうだなこのオッサン…。人の親になる前にアレルギーくらい理解しろよ)

から始まるトンデモ理論。そして、若い世代のものを理解しないマインド。問題を適切に弁別せず、結論へと飛躍するアホ思考。

蒙碌老害のサンプルみたいなもんだろ。つーか、馬鹿は親になるな。

ガキがiPadで遊ぶことより、いい年した人間アレルギーを全く知らないことがよっぽど心配だよ。

ipadチャイルド(笑)自分のガキを殺しはしないだろうが、無知はガキくらい楽勝で殺すからな。

ついでに、四つや五つのガキを「長時間黙ってじっとする」ようにしつけるのは、ブン殴らん限りムリだ。

犬の躾のノリでブン殴れば可能かもしれんな。遠吠え防止首輪をつけるとか、吠えるとマスタードガスが噴き出すアレな。

それが出来るところまで育ってないからな。まぁ、あんたはブン殴って育てるんだろうが。アレルギーになった時も頑張って治せ。

2012-05-22

ディベートディスカッションは分けよう

最近すごく思う。それは日本人は「ディベート」と「ディスカッション」の2つのものをまとめて「議論」と読んでしまっている。

で、基本的にネットとかの文脈だとほとんどのその「議論」は「ディベート」のことを指していることが多い。ほとんど「口喧嘩」的な意味合いだ。

2つはどう違うのか。

ディスカッション

様々な意見を出しあって、一つの意見建設するもの 議題例「日本の電力政策はどうするのがよいか

ディベート 

つの議題について2つの立場に分かれて意見を戦わせるもの。議題例「日本原子力放棄すべきか否か」

長くなるから例は割愛するけど、これを分けるだけで大分ネット殺伐具合が減ると思うんだ。特にTwitterとか。何か異なった意見を返しただけで人格否定された気になる人とかよくわからないんだけどどんな知的コンプレックス抱えてんだあれ。それはともかく、割とこの2つの弁別クリアにしていくとその場でなすべきコメントの質が見えてきて多少有意義っすよ。

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