はてなキーワード: 弁別とは
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ウェブやSNSの各所にできるだけフェイクニュースを散りばめましょう。そこに断片的な真実を散りばめ、人びとに大きな物語を作ることを促しましょう。その際、ひとつひとつの断片に歴史的背景を備える宗教的・政治的シンボルを付与することで、より効率を高めることができます。
少しずつ真実を混在させることがとても重要です。 少なくともそのように思わせることが重要です。これは実際、人びとの探究心や創作欲求を刺激するもっとも優れた方法です。こうして物語が量産されるようになります。
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やがて物語を作ろうとする者、物語を読み解こうとする者、結論だけを求める者、そして、何も知らない知ろうとしない者に人びとが弁別されていきます。弁別が繰り返されることで自然と人びとのうちに階層が生じるでしょう。
こうして発生した階層構造のもと、自律的なゴイム社会が生まれます。彼らはより高い階層を目指しますが、互いにいがみ合うことに注力するため、結局ゴイムであり続けるしかなく、当然真実にも到達しません。 つまり、真実はけっきょく真実たり得ず、イリュージョンでありつづけます。
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この断章も物語の断片たるべく書かれました。ゴイムには、常に物語を作らせる必要があります。物語の再生産がゴイム社会を健全に保ちます。その意味でこれをある種の祭礼と捉えることも可能です。
真実を知るのが誰なのかは私たち自身にも分かっていません。しかしそのことで、私たちの財産がゴイムから遠ざけられ、冗長化され、より堅固なものとなることは明らかです。
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以上はごく簡単なトリックですが、とても強力です。この断章のもうひとつの狙いは、すでにある程度の社会的成功を得た者に、社会階層の維持の方法、財産冗長化の手法を教唆し、これと似た断章を生みだすことを促すことにあります。
これをもって、現代版黙示録を生みだす作業ということもできるでしょう。断片的物語の集合こそが黙示録といえるからです。そうでなくてはイリュージョンとしての真実を示すことは不可能です。現代において黙示録は、集合知という位相に安置されるべきものです。
テレビが何かわからない。いや、わかるんだけど、例えば古いテレビと今のテレビ全然形違うじゃん。
昔のテレビの足はなぜ四つ足ですらっと長いのか? 昔の真空管や配電の機械ってとっても重い。それをすらっとした木製の四つ足で支える意味がわからないし、薄型で軽量になった今こそ細い足で支えるべきなのに、実際にはどっしりとしている。
そして大抵テレビというと番組が付属する。「テレビ見る」はテレビを見るという意味ではない。テレビ番組を見るということだ。そしたらテレビはテレビではない。ではテレビはなんなのか? そして、今はパソコンやスマホでテレビ番組見るんだが、私たちの営為としては「テレビを見る」という営みと質的差異はない、あるいは少ない。わけがわからなくなって俺はテレビ朝日を見る、とかネットフリックスを見る、永谷園のCMを見るとか、かならず具体的なものをさすように言語表現するようになった。
これの意味がわからない。手で書く、という意味はわかる。一般的には印刷を用いないで書くことだろう。
ところが、たとえば砂浜に尖った流木で書くのは手書きか? 指で砂に字を書くのは手書きか? と考えるとわからなくなってくる。この二つ、似てるけど営みとしては異なる。
前者は流木書きで後者は手書き(あるいは指書きといってもいいかも)とするべきで、そしたら鉛筆やペンで文字を書くことはは手書きじゃないんじゃないのか。より手で書きうる手段があるのに手書きってのはおかしいんじゃないのか。
筆で書くことを手書きというか? 多分いう。文字だったら。抽象的な前衛書画は?
パソコンは手で打っているから手書きじゃないのか。この文字は俺の手で書いてる。
もう手書きという日本語は全く信用ならなくなってしまい、仕事では、手筆を以ってする、ゲルインクで書いた書類、atokで作成した文章みたいな日本語で表現している。
印刷物の校正は頭がスッキリする。手書きの校正メモ、と、印刷された本文、とは意味合いとしてスッキリ弁別されている。仕事がわかりやすい。ずっとやっていたい仕事だ。
左翼思想でも右翼思想でもなく、かといってなにか確固たる信念があるわけでもなくて、ただただ極端な思想の人たちを冷笑し続けるだけの人。
なにかの議論を見ていて、どちらかから「冷笑的」という言葉が発せられたら末期だなと感じます。
相手が冷笑的であると言い出す人は別に相手が冷たく笑っているのを視たわけではなくて、
要するに自分の主張に賛同してくれない人を「冷笑的」と言っています。
「あなたの主張にはこれこれこのような問題があるのでは?」という反論や質問を受け取ったのに、
きちんとした再反論や説明が出来ず、代わりに「冷笑的な態度だ!」と言って怒りだしたり。
別に偉そうにするわけじゃないから一見実害がなさそうなんだけど、議論に首を突っ込んできてその都度矛盾点を指摘しては進行を遅らせるだけ遅れさせておいて、かといって自分の意見を求めても何かを言うわけでもない。
矛盾点を指摘されて、何故不機嫌になるのでしょうか、
つまり論理が壊れてるとか前提が嘘ソースであるとかの議論はそのまま進めても有害無益なので、
矛盾点を指摘してもらったなら喜ぶべきです。
改めてその議論をブラッシュアップするなり放棄するなりできるでしょう。
そこでただ不貞腐れた顔になるというのは恐るべき低知能仕草です。
ネットで延々政治議論してるような連中のうち誰が責任を追うような仕事をしてるというのでしょうか。
まず、彼等の御政道談義なんぞ誰にも顧みられないので政治に影響を与えません。
主張はすれども説明から逃げ、議論を避ける人間が多いのは反論を受けて立つのが怖いからです。
自説の矛盾を指摘されることにすら憤慨するあなたもその手合いではないですか?
でも人の間違いは生き生きとあげつらうというところ。
・相手が生き生きしているというのはあなたの主観の可能性が高い。
・じゃあ人の間違いを指摘するときは死んだような顔でやればオッケーなの?それはマナー的な話?
そんなこと気にしてる暇があるなら自分の主張の矛盾チェックでもしてなよ。
恐らくある程度頭の良い人なのだと思うけど、結局なんの役にも立ってないんだよね。
ネトウヨはその人をパヨクだと思いこんでいて、パヨクはその人をネトウヨだと思いこんでるみたいなんだけど、そうじゃない第三勢力ですよっていうことを教えてあげたいので名前をつけてあげてほしい。
どうせあの頭あったかい人達は自分らに反対する奴・賛成しない奴は全部敵でまとめて変なレッテルで認識するわけでしょ。
その内訳がどの勢力かなんてどうでもいいじゃないですか。
って書いてるうちにまさにそういうブコメがもう有るんだけど
「自称中立」かなあ。ただこういう人、言動を追ってくと基本的人権の概念が現代先進国レベルから大きく乖離してることが多く、それを考えるとネトウヨと弁別する必要性はあまり感じない。
2019/11/15
ほらね?
こういう人にはなるべく単純な構造が嬉しいし、
「自分の主張に賛成しない奴はみんなネトウヨ(パヨク)」なら自分を反省しなくてすみます。
賛同されなかった→あいつはネトウヨ(パヨク)だから気にすることなし。
批判された→あいつはネトウヨ(パヨク)だから気にすることなし。
ね?ネトウヨやパヨクって何の責任感も思考力も無くても出来るでしょ。
思想に依存する人は頭が悪いですが(元はよい頭脳でもダメになるため)、
そういうものに依存する理由は頭の悪さより性格のだらしなさにあります。
でも自分では何もしないから現状が改善していかなくて、それを周りにいるバカのせいにして気がつくとフラストレーションの塊になってるから。
客観的に周りを観察してください(その冷静さがあるうちに)。
言うことが凶暴でいつもフラストレーションの塊なのは政治思想に深入りしている人です。
対照的に例えば趣味や仕事に打ち込んで集中している人は幸福ですが
そういう幸福なクリエイター業の人でもネトウヨやパヨクになったとたん
攻撃的なtweetが増え、いつも政治のことで怒っている不幸そうな人に変貌してしまいます。
あの人達は起きている間ずっとネトウヨやパヨクや気に入らない国や政治家のことを考えており、憎んで憎んでイライラする。
自分に同調してくれないだけの第三者のことすら「冷笑派」と言って恨みだすほどです。
役に立つ人というのは自分の生活をきちんと送っている人のことです。
日々自分なりの勤めを果たし、その時々の仕事に集中し、自分や周りを疎かにせず生きる人のことです。
政治思想で頭をおかしくしてネットで憎悪合戦をしている人のことではありません
必然的に「悪い奴をやっつけろ!」という単純なアウトプットになってしまった哀れな馬鹿の群れです。
馬鹿の癖に等身大の馬鹿として生きる人生を受け入れられなかった。
身の丈超えた偉大なものになりたくて政治思想ごっこした結果の常にイライラする役立たず人生です。
https://anond.hatelabo.jp/20190112150155
SRSして戸籍も変更、基本的に埋没して男性と結婚しているMtFですが、一番最初の「トランス女性への根源的恐怖感はスルーされていいわけ?」(https://anond.hatelabo.jp/20190110110456)の人も、心情的にはわかります。ただ、恐怖を理由にしたら何でも言えてしまうわけで、「怖いからやめてください!」を振りかざされるのには、それこそ恐怖を感じてしまいます。
わたしはオペ前に公衆浴場に入るなどということは考えたこともないですし、現在でも基本的に公衆浴場や温泉は利用しません。使ったことはありますが、裸になってジロジロ見られれば骨格その他でわかる可能性はあるわけで、それに対して不快感を覚える人がいたら嫌だからです。これは単に「他人に迷惑をかけたくない」ということもありますが、それ以上に「恐怖の対象」のように見られてしまうことに「恐怖」を感じますし、また尊厳を傷つけられるからです。
当然ながら、こちらとしては積極的に恐怖を与えるつもりはないですし、シス女性やそれ以外の方の大勢もそうでしょう。そういう「普通の人」が、他人から「うわーこわーい、逃げろー」みたいに扱われたら、酷く尊厳を損なわれるし、悲しい気持ちになるでしょう。シス女性の一部はあまりそういう状況を想像したことがないのかもしれませんが、大抵の人は「うわーこわーい」と言われたら悲しいと思います。
恐怖の対象として扱われるのも嫌ですし、「仲良くしてやってやる」と上から見られるのも不快ですから、どうしても人との距離は離れめになってしまいます。まあこの辺はわたし個人の性格によるもので、似た立場の人でも人懐こい方はたくさんいらっしゃいます。
上の「『男体への恐怖』を正当化する差別主義者多すぎやばい」の方は、ちょっと口調がキツすぎてかえって反感を買ってしまうのではないかと心配しますが、筋道としては概ね同意はします。一方で、心情的には「恐怖」の人の気持ちもわかるわけで、またあまりにかたくなな態度をとってかえって攻撃を煽っても嫌ですから、当事者としては心情は複雑です。
と、とりとめがなくてすいません。
当然ながら、これはわたし個人の経験と見解であって、似た立場の人を代表するものではまったくありません。「似た人たち」を十把一絡げにすることこそが差別だと思っています。だからわたしは「LGBT」とかいう恐ろしく大雑把な言葉も嫌いです(が、とりあえず術語としてそうした言葉が便利に使えるというのはわかりますし、またこういうわかりやすい=不正確なワードを広めることで薄く広い「理解」を進められている、という利点は大いに認めますが)。
ついでに言えば「トランスジェンダー」という言葉にも少しモヤモヤしてしまいます。昔は「トランスセクシュアル」という言葉などとセットや対比をもって使われていた気もするのですが、最近はその辺、随分大雑把になりましたね。もちろん、身体的特徴でもって弁別するような考え方が薄まったということなら肯定的に捉えるべきかもしれませんが、SRS程度で社会的生存を許されるならお安い御用、というか、それくらいは当事者の責任として頑張ろうよ!という気持ちもあり、これも複雑です(保険適応にも反対でした)。
筋道としての正しさと、社会的共感を生んで平和裏に共存するための努力というのは、分けて考えるべきなのかもしれません。
結論がなくてすいません。
こんにちは。エルサレムのアイヒマン警察です。上司がインフルエンザで休んで暇なので、大好評炎上中のはあちゅうセクハラ告発について調べてたら id:plagmaticjam 氏の「はあちゅうとヨッピーとナチスドイツと経験主義~ハンナ・アーレントは何を語ったのか~ - メロンダウト」という記事を発見。
タイトルからして地雷臭がヤバイと思ってたら案の定トンデモだったので、おうちにあった『エルサレムのアイヒマン 新板』を読み返しつつ反論したいと思います。
炎上の経緯はハゲ子大先生 id:hagex のまとめが鬼詳しいのでこっちを読んでください。→はあちゅうのセクハラ告発大炎上まとめ(追記あり) - Hagex-day info
件の記事でブログ筆者は、アイヒマンとはあちゅうの類似性を下記のように定義しています。
はあちゅう氏=「自分が被害者になったら告発する。いっぽうネットで実際に被害者が見えないなら加害者になれる凡人」
「アイヒマンが命令によって思考と行為を切り離し悪人になれたように、はあちゅうはネットをかませ被害者を特定しないことによって思考を切り離しているように見える。」
「ヨッピーも童貞いじりが誰を傷つけているのか、と擁護していたが「誰がわからない」から傷つけてもいい、なんてアイヒマンが「名前を知らない」から業務的に虐殺したのと構造的に同じだ。」
ブログ筆者は「思考と行為を切り離すがゆえに、無自覚な悪人になる」構造があるとし、類似性を下記のように指摘しています。
ですが、前提にしているアーレントの読みがそもそも間違っています。
アーレントが指摘したのは「アイヒマンが何も考えていない=無思想性」ということでした。
「俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことなのか全然わかっていなかった。」
「彼は愚かではなかった。完全な無思想性−−これは愚かさとは決して同じではない−−、それが彼があの時代の最大の犯罪者の1人になる素因だったのだ」(p.221)
アイヒマンは相手が匿名だから虐殺したわけではありません。知っているユダヤ人も知らないユダヤ人も等しく虐殺しました。
彼は「善悪を弁別する能力をまったく欠いている」(p.20)のであり、「彼は自分の義務を行った。命令に従っただけではなく、法律にも従った」(p.107)のです。
アイヒマンの特徴は「自分の思想がなく、善悪の区別がつかず、ただ義務と命令と法律に忠実な男」であり「自分よりも権威のある立場の人が『正しい』と言ったなら盲目的に従う男」であるということです。
アイヒマンには、反ユダヤ主義の思想も教育もなかった、とアーレントは指摘しています。
好き嫌いがあるゆえに行動するのではなく、一切の好き嫌いがないからこそ、自分より高い立場の権威から命令されたことをマシーンのごとく忠実に実行しました。
実際、アイヒマンは「良心の問題については、命ぜられたこと(筆者注:虐殺)をしなかった場合にのみ疚しさを感じた」(p.20)と述べています。
アイヒマンのような「無思想で、法律や義務、命令に忠実である」人は、平和な時代であれば、上司の言うことを忠実にこなす「優秀なサラリーマン」、法律など絶対に破らない「良き市民」として一生涯をまっとうしたでしょう。
アイヒマンはあまりにも「普通のおっさん」であるという事実について、アーレントは<悪の凡庸さ>と指摘しました。
「アイヒマンはきわめて凡庸な一般人」であるというアーレントの見解は、「ナチスは、ユダヤ人を絶滅したくてたまらない極悪人・狂人」という世間の見解とはまったく違うものだったので、多くの反発を招きました。
一言でまとめると、アーレントが語る「悪の凡庸さ」とは、「平和な時代ならあまりにも普通のおっさん、ただし無思想で善悪の判断がつかないから、彼が従う権威や法が狂えばなにも考えずに極悪人になれる」ということです。
以上の経緯から見ると、ブログが「悪の凡庸さ」を誤用していることがわかると思います。もう一度、ブログで言及されていた構造をおさらいしてみましょう。
「思考」と「行為」が個別にあり、それらの連結を切り離す「X」があるという前提です。
しかし、アイヒマンはそもそも「思想」がありません。だから自分に注入される命令や義務を己のものとして実行します。
そもそも、はあちゅう氏はアイヒマンのような「無思想」ではありません。むしろ自己主張が強く、自分を良く見せたいタイプだと思います。
善悪の判断力はわかりかねますが、盲目的に命令や権威に従うタイプではありません。
「はあちゅうは凡人」と言うとなんとなく納得感ありそうなんですが、アーレントが言った「凡庸な悪」とは意味が違います。
「ネット」とか「不特定多数の他人」とかも、アイヒマンにはまったく関係ありません。
「凡庸な悪」というパワーフレーズはすさまじいものがありますし、引用したくなる気持ちもよくわかります。
しかし、なんとなくキャッチーな単語やフレーズだけを使って独自理論を展開するのは、引用源にも読者にもどちらに対しても失礼ですし、誤解を与えます。
名著や歴史的パワーワードを換骨奪胎して持論を展開するのはやめてほしいです
ぜんぜん引用源を正しく参照してない記事内で、ナチスドイツという激烈ヤバイものと名前を同列に並べられたはあちゅう氏とヨッピー氏、さすがに流れ弾すぎるだろ…と思います。あとブログで言及されてる「経験主義」も「違うだろ…」て感じなんですが、続きは経験主義警察の方々にお譲りします。
参考文献:ハンナ・アーレント、大久保和郎・山田正行訳『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告 新版』(みすず書房、2017年)
エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版】:Amazon.co.jp:本
(所要時間:45分)
※もちろん「書籍を読む」行為に、明確な正解はありません。私の読解もまたひとつの意見にすぎませんから、別のハンナ・アーレント警察の方から「違う!」とおしかりの言葉を受けるかもしれません。とはいえ、いくらなんでも適当すぎる読みだと思うんで反論を書きました。
非モテの気持ち悪い言動により不快感を覚えた女性が非モテ全体に敵愾心を抱くというのは分かるけど
なんでウェイというかモテる層のモテるがゆえの行動に不快感を覚えた女性の恨みもまた非モテに向くのかよくわからん。
「非モテが嫌い」と「モテる層から攻撃を受けた」を弁別せずに直結しているようにも感じるし、もっと言えばただの八つ当たりでは?
ウェイ層のセクハラ・パワハラ文化は自分も大っ嫌いだが、それで批判されるべきなのはまさにウェイ層ではないのか?
非対称性があるといわれればそれまでかもしれんが、男が強者女性の強者ゆえの過大な自信による不適切な言動で傷ついた際に、その怒りをに不当に弱者女性に向けるなんてやってたらとんでもないひどいやつだとみなされ得ると思うんだが。特に、ここでいう強者というのがモテるとかモテナイとか、あと容姿の話であった場合は特に。
閉音節が無いらしいので仮名で書きやすいかもしれないと思って書いてみた。テキストはその言語で書かれた国歌を使用。
メンダ・ンダウ・ンドカ・カ・ヴィナカタ・ナ・ヴァヌア
エ・ラ・サ・ンダウ・チコ・キナ・ナ・サヴァサヴァ
ラワ・トゥ・ナ・ガウナ・ニ・サウトゥ・ナ・ヴェイロマニ
ンビウ・ナ・イ・トヴォ・タワ・サヴァサヴァ
メ・ブラ・ガ・コ・ヴィチ
カ・メ・トロ・ガ・キ・リウ
メ・ラ・トゥラガ・ヴィナカ・コ・イラ・ナ・イ・リウリウ
メ・ラ・リウタキ・ナ・タマタ
エ・ナ・ヴェイカ・ヴィナカ
メ・オチ・キナ・ナ・イ・トヴォ・ザ
メンダ・ンダウ・ンドカ・カ・ヴィナカタ・ナ・ヴァヌア
エ・ラ・サ・ンダウ・チコ・キナ・ナ・サヴァサヴァ
ラワ・トゥ・ナ・ガウナ・ニ・サウトゥ・ナ・ヴェイロマニ
メ・サ・ンビウ・ナ・イ・トヴォ・タワ・ヤガ
バレ・ガ・ヴェイ・ケムニ・ナ・ザウラヴォウ・エ・ヴィチ
ニ・ヤヴァラ・メ・サヴァサヴァ・ナ・ヴァヌア
ニ・カクア・ニ・ヴォソタ・ナ・ンドゥカンドゥカリ
カ・メ・ダ・サ・ンガイ・ンビウタ・ヴァカンドゥア
ッエ・ッオトゥア・マーフィマフィ
コ・ホマウ・ッエイキ・コエ
コ・コエ・コ・エ・ファララッアンガ
モ・エ・ッオファ・キ・トンガ。
ッアフィオ・ヒフォ・ッエマウ・ロトゥ
ッアイア・ッオク・マウ・ファイ・ニ
モ・ケ・タリ・ホマウ・ロト
ッオ・マルッイ・ッア・トゥポウ。
コ・エ・イキ・ヘ・ラギ
クア・ファカアロファ・マイ
キ・ニウエ・ネイ、キ・ニウエ・ネイ
クア・プレ・トトヌ
エ・パトゥイキ・コアトゥ
クア・プレ・オコオコ・キ・ニウエ・ネイ
キ・ニウエ・ネイ、キ・ニウエ・ネイ
キ・ニウエ・ネイ、キ・ニウエ・ネイ
キ・ニウエ・ネイ、キ・ニウエ・ネイ
キ・ニウエ・ネイ
クア・プレ・オコオコ・キ・ニウエ・ネイ
クア・プレ・キ・ニウエ・ネイ
サモア、トゥラッイ・マ・シシ・イア・ラウ・フッア、ロウ・パレ・レア!
サモア、トゥラッイ・マ・シシ・イア・ラウ・フッア、ロウ・パレ・レア!
ヴァアイ・ッイ・ナ・フェトゥ・オ・ロッウ・ア・アギアギア・アイ:
レ・ファアイロガ・レア・オ・イエス、ナ・マリウ・アイ・モ・サモア。
オイ、サモア・エ、ウッウ・マウ・ラウ・プレ・イア・ファアヴァヴァウ。
ッアウア・エ・テ・フェフェ; オ・レ・アトゥア・ロ・タ・ファッアヴァエ、オ・ロタ・サッオロトガ。
サモア、トゥラッイ: ッウア・アギアギア・ラウ・フッア、ロウ・パレ・レア!
「トゥヴァル・モ・テ・アトゥア」 / コ・テ・ファカヴァエ・シリ、
コ・テ・アル・フォキ・テナ、/ オ・テ・マヌイア・カトア;
ロト・ラシ・オ・ファイ、 / トウ・マロ・サオロト;
フゥシ・アケ・カトア / キ・テ・ロト・アロファ;
カエ・アモ・ファカタシ / アテ・アトゥ・フェヌア.
「トゥヴァル・モ・テ・アトゥア」 / キ・テ・セ・ガタ・マイ!
トゥク・アトゥ・タウ・プレガ / キ・テ・プレ・マイ・ルガ、
キロ・トヌ・キ・オウ・ムア / メ・コ・イア・エ・タウタイ。
「プレ・タシ・モ・イア」 / キ・テ・セ・ガタ・マイ、
コ・テナ・マナ / コ・トウ・マロシ・テナ。
パティ・リマ・カエ・カラガ / ウルフォヌ・キ・テ・トゥプ。
「トゥヴァル・コ・トゥ・サオロト」 / キ・テ・セ・ガタ・マイ。
ハワイッイ・ポノッイー / ナーナー・イ・コウ、モーッイー
カラニ・アリッイ / ケ・アリッイ
マクア・ラニ・エー / カメハメハ・エー
ナー・カウア・エ・パレ / メ・カ・イヘ
ハワイッイ・ポノッイー / ナーナー・イ・ナー・アリッイ
ナー・プア・ムリ・コウ / ナー・ポーキッイ
ハワイッイ・ポノッイー / エ・カ・ラーフイ・エ
ッオ・カーウ・ハナ・ヌイ / エ・ウッイ・エ
ッウア・ラフ・テ・アトゥア・イ・トーッウ・ッアーイッア
ホノ・ノッアノッア・オ・テ・モトゥ・ラウ
ヘイヘイ・イ・テ・プア・リッイ・アウ・エー
エ・フィリ・ナペ・モーロヒ・ッオレ
ッオ・ターッウ・イーア・エ・ファッアテニテニ・ネイ
テー・トゥーオロ・ネイ・テ・レオ・ヘレ
オ・テ・フイア
ッア・ヒッイ・イ・トー・アロハ
ッイア・オラ・ッオ・タヒティ・ヌイ・エー
テ・アトゥア・モウ・エー / コ・コエ・ラーイ・テ・プー / オ・テ・パー・ッエヌア・エー
ッアカロンゴ・マイ / イ・トー・マートウ・ネイ・レオ / テー・カーピキ・アトゥ・ネイ
パールル・マイ / イ・ア・マートウ・ネイ / ッオマイ・テ・コロナ・モウ
キア・ンガーテイテイ / キア・ヴァイ・ラーイ・テ・アロッア / オ・テ・パー・ッエヌア・エー
エ・イホワー・アトゥア、/ オ・ンガー・イウィ・マートウ・ラー
アータ・ファカランゴナ; / メ・アロハ・ノア
キア・フア・コ・テ・パイ; / キア・タウ・トー・アタファイ;
マナアキティア・マイ / アオテアロア
オナ・マノ・ターンガタ / キリ・フェロ、キリ・マー
イウィ・マーオリ、パーケハー / ルーペケ・カトア
ネイ・カ・トノ・コ・ンガー・ヘー / マーウ・エ・ファカアフ・ケー
キア・オラ・マーリレ / アオテアロア
トーナ・マナ・キア・トゥー! / トーナ・カハ・キア・ウー;
トーナ・ロンゴ・ヘイ・パクー / キ・テ・アオ・カトア
アウア・ラワ・ンガー・ファファイ / ンガー・トゥトゥー・エ・タタ・マイ;
キア・トゥプ・ヌイ・アイ / アオテアロア
ワイホ・トナ・タキワー / コ・テ・アオ・マーラマ;
キア・フィティ・トーナ・ラー / タイアーフィオ・ノア。
コ・テ・ハエ・メ・テ・ンガンガウ / メインガ・キア・コレ・カウ;
ワイホ・イ・テ・ロンゴ・マウ / アオテアロア
トーナ・パイ・メ・トイトゥー / ティカ・ラワ、ポノ・プー;
トーナ・ノホ、ターナ・トゥー; / イウィ・ノー・イホワー。
カウア・モーナ・ファカマー; / キア・ハウ・テ・インゴア;
キア・トゥー・ヘイ・タウイラ; / アオテアロア
英語力ないからネイティブがいつも正しい舌づかいでしか発音しないと思ってるのね…。
http://anond.hatelabo.jp/20161108134523
だからそれはでたらめ。ロシア語では「ряа(=[rya])」・・・などの表記と音が存在する。物理的に 発音できないなどということはありえない。「英語では物理的に発音できない」という主張だとしても「なんで言語によって物理法則が変わるんだ」ということになるから、その問題提起はあきらかにおかしい。また、だとすると「日本語では平安時代は物理的に"ぴゃ"という発音はできなかった」という意味のわからない主張が正しいことになる。
そもそも、
ということと
ということは同じではない。
英語ネイティブの人でも気づかないだけで[rya]という音は発声している。ただ、それが音韻として用いられていなかったり、あるいは弁別性を有しなかったりするだけ。あなたの言っていることはそもそも文字と音声言語を混同してるんだよ。
そもそも「ラリルレロ」は"L"か?"R"か?"L"の方が近いのでは?
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ら行
頭子音の音声学上の実際の発音は、「り」を除く「ら」行音の場合は一般的に、語頭や、撥音(ん)の後では歯茎側面はじき音 [ɺ] 、そり舌側面接近音 [ɭ] または有声そり舌破裂音 [ɖ] に発音され、撥音(ん)の後を除く語中、語尾では歯茎はじき音 [ɾ] またはそり舌はじき音 [ɽ] に発音される。「り」の場合は他の「ら」行音に比較して頭子音が硬口蓋化するため、語頭や、撥音(ん)の後では歯茎硬口蓋側面はじき音 [ɺʲ] 、硬口蓋側面接近音 [ʎ] または有声硬口蓋破裂音 [ɟ] に発音され、撥音(ん)の後を除く語中、語尾では歯茎硬口蓋はじき音 [ɾʲ] または硬口蓋はじき音 [ɟ̆] に発音される。
つまり、コンテキストによって r や l どころかまったく違う音になっている。話者は音韻として「ら行」に分類しているだけ。ここ、ブクマでもトラバでも「おれ英語知ってるしー。ら行はRじゃないよねー」とか物知り顔で言ってる人多いが恥ずかしいだけだぞ。
「リャ・リュ・リョ」の英語表記において、"L"か"R"の2択でなぜ"Rya,Ryu,Ryo"が発音できない"R"を選んだのか?
ローマ字表記はラテン文字圏向けに26文字のアルファベットで日本語を表記する方法として考え出されたものです。英語表記するためのものではないです(なお「ラテン語表記」でもないです。いまの時代ラテン語で新語の表記なんかできるかボケ)。
「そんなの細かい違いでしょ」と言い出しそうだが大問題。たとえば国語表記にアルファベットを使っているベトナム語も「英語表記なんだから英語の発音を考慮せよ」ということになってしまう。
こんなんね。「えー! アルファベットじゃないじゃーん!」とか不平言ってもダメ。これはアルファベットにダイアクリティカルマーク足してるだけ。ダイアクリティカルマークをアルファベットじゃないと言い出すとウムラウト打ってるöドイツ語もアルファベット使ってないということになる。
英語でしかものごと考えないくせついてるからそういう変な発想になるのよ。
ここも若干厄介な問題が絡んでいて、英語とは"value"を「バリュー」と読むくせに"Lue"は「ルー」と読む言語なんですね。
それも間違いです。英語の表記は「その単語が英語文化に移入された時点では表記と読みが一致していた」んです。ただ、英語の場合はノルマンコンケストとかいろいろな文化の交流があったせいでさまざまな表記が残ってしまった。結果として音声・表記不一致になっているように見えるだけ。実際には歴史的背景を知っていればスペリングから発音を推定できるようになっています。中学か高校でちゃんと習ってるはずだけどhttp://bit.ly/2eRDbuy:ノルマンコンケスト]についてはWikipediaでも読んで。
ただし、"Rya,Ryu,Ryo"だと読みを慣例化していく以前に、「原理的に発音できない問題」が出てしまい、不適切だと思います。
うん。だから誰にとって「原理的に発音できない」のか明らかにして。
この件に関しては私が無知であり、"R"よりも"L"の方が日本語に近いと勘違いしていました。
音声学だったり色んな経緯があって"R"になったようですね。
先にも書きましたがLでもRでもありません。また、音声学的背景で決まったものでもありません。そもそも /l/ と /r/ は「流音」と言って似たような音の仲間です。
ヨーロッパのことばの中でも「単語の中の-rolor-って部分、時代が移り変わるうちに -lorol- って間違って巷間に流布しちゃった。テヘペロ」などということがふつうにあるレベルです(ポルトガル語や中世ロシア語の流音交替現象など)。「日本人は発音しわけられないし聞き分けられないんだよねーププ」という指摘がよくなされますか、広い視野で見ると「そんなに変わらない音」なんです。
だからローマ字で L と R どちらを採用したかは「気分で決めた」以上のなにものでもないです。
本当にそうだと思います。
なるほど。ではお聞きしますが、
xa で打てばいいと思います。
被告人が、自己が借り受けて耕作する田の隣地所有者Aと折り合いが悪く、田の草刈りに赴いた折、Aが草刈を止めて昼食の為帰宅しようと被告人の耕作する田付近に登るのを見て、同所の草刈をしていたものと誤信し、日頃の反感が一時に爆発してAの背後から芝刈り鎌で頭部を殴打し、驚いて駆けつけたAの長男Bの頭部等を殴打し、傷害を負わせたことについて、原判決が心神耗弱を認めた事案の大審院判決がある。
「案スルニ心神喪失ト心神耗弱トハ何レモ精神障害ノ態様ニ属スル物ナリト雖モ其程度ヲ異ニスルモノニシテ即チ前者ハ精神ノ障害ニヨリ事物ノ理非善悪ヲ弁識スルノ能力ナク又ハ此ノ弁識ニ従テ行動スル能力ナキ状態ヲ指称シ後者ハ精神ノ障害未タ如上ノ能力ヲ欠如スル程度ニ達セサルモ其能力著シク減退セル状態ヲ指称スルモノナリトス所論鑑定人遠藤義雄ノ鑑定書ニハ被告人ノ犯行当時ニ於ル心身障害ノ程度ノ是非弁別判断能力ノ欠如セル状態ニアリタリトハ認メラレス
精神ヤヤ興奮状態ニアリ妄覚アリテ妄想ニ近キ被害的念慮ヲ懐キ知覚及判断力ノ不十分ノ状態ニアリ感情刺激性ニシテ瑣事ニ異常ニ反応シテ激昂シ衝動性行動ニ近キ乃至ハ常軌ヲ逸スル行動ニ出ツルカ如キ感情ノ障害ノ症状存シタリトノ趣旨ノ記載アリテ」
もちろん、誰かを差別主義者だと断定したことがイコールであなたの発達障害を疑う要因というわけではありません。
そして申し訳ないですが、今のところアスペルガーか境界性知能かを見分けることは出来ていません。
インターネット上では難しいかと思います。エピソードがひとつも無い状態では断定は不可能です。
その辺、どうしても論旨がぶれがちになるのはご容赦ください。
この手の話は、一つの結果に対していくつもの可能性があります。
言語がそもそも理解出来ていない結果なのか、他者とコンテクストの共有が出来ていない結果なのか
あるいはある種の価値観を絶対視している結果なのか、それは私如きの能力では判別がつきません。
私が「病気ネタ」を始めたのは、コンテキスト上の接続が(少なくとも説明を受けない限りは)全く無いパロディと
その後、強烈に他者を「電波」等の言葉で狂気と断定する行動を続けたという二点からです。
他者と文脈が食い違う、背景となる知識の共有が出来ないというのはよくあることに過ぎません。
問題は、それを他者の狂気、ないしは問題と一足飛びに判断している部分が大きいです。
もちろん、私の知識も経験も絶対ではないので間違いはありえます、当てにしない方が良いとも思います。そこは正直に申し上げます。
しかし、あなたの取ったこの行動は先述した発達障害を持つ方のテンプレにピッタリ嵌った行動なんです。
コロコロ変える、というご意見は非常に理解出来ます。申し訳ない。
しかし、境界性知能、アスペルガー、強力なオルグで教条主義的価値観を形成してしまった方
これらをエピソード無しで弁別することは少なくとも私には不可能です。原因は違えど、ほとんど同じ結果として顕在化するからです。
いずれにせよ、「他者とコンテクストの共有が出来ない」という結果をもたらします。
現在、私は左派的なイデオロギーとの親和性が高いところを鑑みて、どの可能性もありえると思っています。
idコールってどうやるの…記法しておけば良いと信じてとりあえず記法だけしておく。
どうかどうか、間違って別人に届いたりしませんように。
ロボットを擬人化したとき、ロボット女性と人間女性の区別ができなくなったことによる混同。比喩を比喩でなくそのまんまに受け取るようなもの。/女性差別というのは事実だが、悪くはない。相手がロボットならば。
スタンスがよくわからないんですがとりあえずツッコミどころはふたつ。ひとつは「ロボットと人間及び比喩と比喩の外をいかにして区別するか問題」であり、もうひとつは「『すべて色情を懷きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり』問題」であります。
前者について、例のイラストではそもそもロボットと人間に積極的な区別が描かれていない。
ケーブルがエクスキューズの役割を果たしていることを除けば両者を弁別する術はない。単に外見上の問題だけでなく文脈的にもそう。
このことから、アレを「比喩」として受け取るのならば、描かれている主題は「女性のようなロボット」ではなくむしろ「(従順な被使役者、被支配者としての)ロボットのような女性」であるという解釈はごく自然に成立してしまう。
比喩を比喩でなくそのまんま受け取っているほうが「ケーブルがついてるから女性ロボット」と単純に納得して終われるのであり、比喩として受け取っているからこそ「あれは『女性のようなロボット』が描かれた絵ではなく、従順で可憐で世話をやいてくれる、まるでそのために作られたロボットのように都合のいい女性像をケーブルひとつで『これは実際にロボットである』と装って描いている」という見方が可能になる。
後者について、相手がロボットならば女性差別は悪事でないというのは意味不明で、女性差別なら差別されるのは女性だしロボット相手の差別はロボット差別であると思うんですがそれは置く。えーと、ロボット相手ならば女性差別は悪ではないというのは要するに被害者が居なければ悪事は悪事でないということでありあくまで脳内妄想にとどめ続けるのならば女を使役しようと虐待しようと犯そうと殺そうと罪に問われることはないという考え方だと思っていますが、顔にも出さないレベルならまだしも学会の機関誌のしかも表紙に出ちゃったら非難は免れ得ません。ましてロボット差別でなくあくまで女性差別ときてはもはや「悪ではない」理由がわからないレベル。ぬいぐるみを殴っているから暴力ではないというのは詭弁であろうというのが当方の見解です。
自分の意志の弱さをナマポ問題にすり替えてるだけだろ、これって。ナマポ問題はそれはネット叩きの格好の材料の呼び水になるんだけど、この医師も決して一人の力で医者になれた訳じゃないんだから、それはそれで周囲の人々がこの医師に今までつぎ込んできた有形無形の資本はどうやって取り返すの?って問題もある。この医師に投下されて来た資本はもちろん公的なもの、公的補助を受けたものもあるはずだ。別にこの医師個人一人を責めたって解決するわけではないが、はてさてナマポ問題がこの問題の要因なのか、医師個人の資質の問題なのかは、慎重に弁別を要するだろね。