はてなキーワード: 度忘れとは
【独自】ウィシュマさん遺族 入管施設の当時の局長らを殺人容疑で刑事告訴へ「死んでも構わないと未必の故意あった」(FNNプライムオンライン) - Yahoo!ニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/0e6f5b43c2f68e576482eda4b2f1ad84bfbb0e05
一応、こちらのスタンスとしては、「ウィシュマさんは食べるのを拒否したので衰弱して死亡した。入管側が食べさせようとしても食べなかった。」という感じです。
その他のウィシュマさんが受けた仕打ちに関しても、現状の入管であれば仕方ないと思っています。
→当直職員が女性のみで力がなくベッドに戻せず、男性職員が来るまで戻せなかった
→医者が入管に来る頻度がかなり低かったため、医療行為を受けるまで時間がかかった。その後、栄養剤などを処方したがウィシュマさんは摂取を拒否した
id:tikani_nemuru_M 僕にも遺族の言う通りとしか思えない事例>「遺族側は「誰ひとりとして、適切な医療を提供する措置を講じなかった」とした上で、「ウィシュマさんが死んでも構わないという未必の故意があった」と訴えている」
そうだね。でもウィシュマさん自身が断固として飯食わなかったりしたら死ぬのも当たり前だよね
id:Fushihara ”これを許すと「痛い」と一言言えば病院に連れて行かざるを得ない状況になり日本の国益を損なう事になる”とかアホみたいな弁論はしないでくれよ・・・
ひと昔前は連れていったりできたけど、そこから不法滞在者が逃げるのが多発したからなくなったみたいなんだよね
id:rocoroco3310 不法滞在だから自業自得というコメントの嵐。100%無辜でなければ被害者として認めず、0.1%でも過失らしきものが見つかれば例え虐待して殺されたとしても悪くないということなのか。なんて貧しいんだろう。
犯罪犯した人が逮捕されるのは自業自得だと思いますか?私は思いますけどね。
「短期滞在の予定だったけど病気して2,3日伸びちゃったわー」という人と「短期滞在の予定だったけど数か月働いてて帰るの忘れちゃったわー」という人だとどちらが悪質でしょうか?ちなみにウィシュマさんは後者。
id:izure 局長がとか個人の資質ではなく、入国管理局自体が組織として人道に対する罪を行なっているという印象がある。
不法滞在者は犯罪者という視点が足りていませんね……あの手この手でそのまま日本に居座ろうとする本来払うべき税金も払わない犯罪者です。
id:hayakuzaka 具体的な死亡状況はこちら→ https://news.yahoo.co.jp/articles/6e4ae9363c39a1b7fe529d908de8304c97833aad?page=1 指宿弁護士が苦労人なのもわかる記事。
上の記事で「逃亡の恐れがない場合、収容する必要はない。」ってあるけど、9割くらい逃亡するからね。入管が把握しきれないくらい。夜逃げレベルでね。
餓死だけどウィシュマさんが食事を断固として採らなかったのが要因だよ。医者から栄養剤も処方されてたから。
id:kaputte 将来自分や兄弟、子供が国際結婚するかもしれない。そのとき、どうしようもない理由でオーバーステイしない保証はない。外国人に冷たく当たる人たち、身近な人に置き換えて考えてみなよ。こんな恐ろしいことないよ。
例えば米国だとオーバーステイするとビザの発行が困難になったり、最悪生涯入国禁止になったりするけど、それって外国人に冷たく当たってると思う?
ちなみにオーバーステイはだらだらしてようが病気してようが天候不順で飛行機飛ばなくても1日でも伸びたらオーバーステイだからね。おとなしく入管に出頭しようね。
id:golf4_2001 当然の訴訟。これが刑事罰を受けないのであれば日本の法治主義は崩壊したと言わざるを得ない。そしてYahooは皇族以外コメント欄閉鎖しないのかよ。
自分で食事採らずに餓死した人間に、食わないならどうしようもできなかった入管職員が刑事罰とな??
id:king-zessan 日本人がスリランカの入管で同様の目に会ったとしても、当事者の背景次第ではヤフコメは「自業自得」ムードになるんじゃないかと思う。スリランカじゃなくて韓国だったら様子も変わりそうだけど。
どの国へ移行がオーバーステイは「自業自得」です。己の計画性のなさと運の悪さを呪うといい。オーバーステイしたら速やかに出頭しよう。
不法滞在は不法滞在した国に入国できなくなるほどの重さだから実質その国での「死」を意味するよ。
あとは頑として食事を取らなかった人間に何ができるよ?ブドウ糖点滴しろとかもどっかに書いてあったけどウィシュマさんほどハンストに特化してる輩なら点滴針ごと抜くだろうよ。
基本的に日本は短期滞在だと90日しかいられないのに、90日以上滞在したルール違反者を野放しにできると思う?
まぁ1日2日くらいなら収容されたって「あーまぁちょっと病気したり度忘れしてたんやろ」で短時間で強制退去で済むだろうけど、
より長い期間、1年以上とかになってくると話が違ってくるじゃん。
いつから不法滞在か、どこで働いてたか、不法滞在者を受け入れるブローカーがいるか、芋づる式で不法滞在者が見つかるかとか洗い出す必要があるじゃない。
外国でもそうだけど、特に日本はひどくて昔は入管が甘かったからとっ捕まってもあの手この手で逃げて不法滞在継続とかざらだったのに。
だから今の入管の状況は今まで不法滞在してきた外国人の「身のサビ」だよ。
そんでもって外国ではまだ「日本は甘っちょろいから不法滞在ヨユーヨユー」って甘言に惑わされた奴が入管に入ってひどい目にあう。
この手の話マジですごい多いんだけど、他人の評価期待するなら辞めた方がいい。支部かもいかに多くのコンテンツを「消費(流し見)」させるか、みたいなUIになっているし、どんどん消耗していくと思う。
感想貰いたいなら、感想もらえるだけの作品を作ればいい。それだけだと思う。
公式からお借りしたキャラクターを、自分が考えた物語、構成、見せ方の中で如何に尤もらしく、それらしく、それでいて自分の心に刺さるように書くのか。
自分の性癖を公式からお借りしたキャラクターに押し付けるんじゃ内容がなくなるし、キャラクターとの整合性も取れなくなったりする。結構こういう同人誌多いから読んでて残念なことが多い。まあでもこれは別の話か。
じゃあお前はどうなんだって、ジャンル変える度に名前もアカウントも作り直しているし、毎回マイナーCPかつ分厚い文庫サイズの小説で活動しているから本が捌ける数は相当少ない。少ないけど、本の捌けた数に対して50%あるいはそれ以上感想はいただけている。
どうしてもらえるのか?
まずはツール面だけど、メールフォームと匿名ツールの2つを使っている。メールフォームは連絡先未記入で匿名でも送れるようにしてあって、こっちは「返事を公開されたくない」あるいは「文字制限を気にしたくない」人用。もうちょっとラフに使用できるのが匿名ツールで、そちらは感想をいただくと返信するようにしている。もっとラフなツールならweb拍手とかあるじゃん。そういうのを使えばいい。読者が何かをする、っていうハードルを下げられるだけ下げればいい。
でも、感想をもらえる理由はやっぱり結局は作品の内容なんだと思う。
ページ数はやたら多いのに内容が薄かったり、公式のキャラクターや自分の考えるキャラクター像との乖離があったら、そもそも最後まで読んでもらえない。
冒頭に書いた通り、いかに「尤もらしく」見せるのか。
そして、これを前提に、自分の強み(というか、こだわり)を最大限押し込めた作品を作る。
私の場合、それは物語の構成。表現力とか全然ないけど、ラストまで読んだときに読者の感情が揺さぶられるか、を大切にして物語の構成を考えている。
だから感想をいただくときもそこに対する言及が多い。「〇〇だと思ったけど、最後はーーー」「中盤に出てきた××が伏線だったなんて――」みたいな。
自分で書いたものを一年経ってある程度忘れた頃に読んでも「面白い」と思うから、多分読んでくださっている方々は面白いと思ってくれているんだと思う。
感想がもらえないって嘆くのであれば
・魅力的なコンテンツを生み出す(これの方法論はググればwebにも沢山あるし、書籍だって出ている)
あとは飛び道具として「感想くれたら〇〇」っていう何かを用意するのもアリだけど、そこまでして感想をもらいたいのか?とも思う。
私のツイッターアカウントのTLにも例によってその「おけけパワー中島」の元ネタの漫画がどんぶらこと流れてきた。読んだ。
そして、
各登場人物への感情移入よりも先に、この「おけけパワー中島」というネーミングの素晴らしさに、雷を撃たれるような衝撃を受けてしまった。
私は「綾城」や「おけけパワー中島」なんかよりもずっと、漫画の作者・真田氏に強く嫉妬しそうになった。「おけけパワー中島」が出てくる引き出しがあるのがすごい。天才だ。
おけけパワー中島は恐らく、最初からおけけパワー中島ではなかったはずである。
はじめは「中島」とか「中島〇〇」のような名前であった可能性が高いと思う。
そこから例えば「#リプもらった名前で1日過ごす」と言うツイッタータグを実施したり、
あるいは普段の言動の中で「おけけパワー」と発言する事があり、いつの間にかそれが友人間で定着してしまって、現在に至るのではないかと推測できるのだ。
作中で描かれている中島の知人・綾城は品のある大人しげな性格だったので、おけけパワーとあだ名をつけるのに悪乗りするタイプではなさそうである。
という事は、中島をおけけパワーと呼び、それを定着させるに至るに関わった人間は、綾城の他に複数存在する友人である。
これは作中で綾城が「中島さんの新刊も楽しみにしている」と言った事にも裏付けられているが、名前からも伺う事が出来る。
そもそも、おけけパワーとは何か?
おけけとは、恐らく「毛」を丁寧に呼んだ呼び方ではないだろうか。
では「毛」とはどこの毛か。パワーという単語が関わるぐらい中島にとって力強い存在であるとしたら、
仮に「おけけ=陰毛」であるとするなら、中島はR-18系の創作をしている可能性が高い。
あるいは、中島の推しが胸毛がボーボーの男性であった場合は胸毛かもしれないが、その場合もエロシーンで胸毛を喜々として描く中島の姿が目に浮かんでくる。
このように作中描写としての情報量も多いが、メタ的に考えたときにも「おけけパワー中島」の効果はすさまじい。
これは作中で中島に嫉妬する人間の視点でも、漫画を読んでいる我々の視点でも。
ふざけているのかと腹を立てたくなるフレーズであり、
寝る時にふと布団の上で字面を思い出してしまうフレーズであり、
それまで考えている事を一度忘れてしまいそうな集中を削ぐフレーズであり、
おけけパワー中島とはどのような人間なのか真剣に考えてしまいたくなるような哲学的なフレーズでもあり、
この世界の人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である。
数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。
この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに分けられる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である。
どんな記憶も忘却の可能性を含んでいて、それがいかに尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである。
とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるものだ。例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類だ。
これから話す記憶は――意外だと思われる人もいるかも知れないが――恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は(少なくとも僕にとっては)、一度忘れてしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要な記憶ではないということになる。
あるいは、死んだ猫の重みを人生の最後まで引きずっていく人もいるのかもしれないけれど、僕がこの世界からいなくなる時に、多分、死んだ猫の記憶は僕の傍にはいない。
人生というのはタフなもので、多くの場合予断を許さない。例えば、猫は前触れなく死んでしまう。そこに救済は存在しない。
猫は突然死ぬ。
だからこそ、我々はタフにならなければならない。タフな(きつい)人生に耐える為には、我々自身が精神的にタフにならなければならないのである。
して、タフな人生を生き延びるために重要な資質とは何だろうか?
僕が思うに、恐らくそれは一種の判断能力である。つまり、重要なものと重要でないものを区別する為の判断能力である。
この世界において、重要なものと重要でないものを比較すれば、前者は圧倒的に少なく、後者は圧倒的に多い。これは考えるまでもなく当然のことである。重要なものが我々の前に際限なく溢れ返っているのであれば、我々の人生はもっと救済に満ちたものになる筈だからだ。でも、現にそうなってはいない。人生における重要な事物は泥の中の砂金と同じである。それは、恐らくは多くの人が感じていることだろうと思う。
そう、我々が人生を全うする為にもっとも重要な能力は、数少ない重要な物事と出会った際に、その重要な出来事を迷わず掴み取る能力なのである。
タフな人生を本当に生き切る人間に備わっている素質は、恐らくはそれだ。彼らは汚泥の中の砂金を迷わず掴み取り、幸運の女神の前髪を毟り取らんばかりに握る。僕も、そういう人間になろうと日々心掛けてきた。この世界に溢れ返る物事の中に、ほんの僅かに存在している、かけがえのない事柄。あるいは、溢れ返る人々の中に存在している、かけがえのない人々。そういう人(もの)に出逢えば、できるだけそれを失わまいとしてきた。
我々の心の中には無数の記憶が存在している。その多くは、断言するに無意味な記憶に過ぎない。病院の記憶、体育館の記憶、商店街の記憶――はっきり言って、その殆どは無駄な記憶だ。重要な記憶というものは一握りしか存在していない。
我々の人生には限りがある、その限られた人生の中で、無意味な記憶に無意味な情愛を注ぐことだけは避けなければならない。情愛を注ぐべき人を選び、情愛を注ぐべき記憶を選別すること――自分にとって重要なものを、重要でないものの中から選び抜くこと――それが本当に大切なことなのだ。だから、我々は、警戒しなければならない。一見重要であるように装っておきながら、実際には全く我々の人生に無意味な事物……そういうものへの執着を捨てなければならないのである。
書いていて思うが、幾分このような視点には屈折の気配がある。勿論、それは自分でも分かっている。でも、やはり我々の人生は貴重なものであり、貴重でないものと触れ合うことで、その輝きを鈍らせる必要はない――そういう視点が一抹の正しさを備えていることも、また事実なのだ。
はっきり言おう。
これから語る記憶は、決して僕の人生に重要なものではない。むしろ、どうでもいいものなのだと。
大した記憶ではない。
道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。
その肉体の損傷は一見して分からなかったが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っていた。既に絶命していた。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの運転手はゆっくりと車を走らせていた。つまり、道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。
猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉の運動はとっくに停止している。
僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を自転車に乗って通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見ていた。
通り過ぎる。
川沿いの道を走り、こじんまりとしたアパートに辿り着く。駐輪場に自転車を停め、アパートの裏手へと回り込むと、階段を上った。
階段を上る度に、カンカンと乾いた金属音がこだまし、やがて僕は二階の自室の前へと辿り着いていた。
鍵を開け、扉を開け、自室へと体を滑り込ませる。
薄暗いアパートの自室はひんやりとしている。
猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートルの距離があって、僕はあらゆる意味で当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン手袋を取り出した。
再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートルの距離。時間はそれほど掛からず、辿り着いた時にも猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。
僕は歩道に自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に轢かれる心配のない路端へと引きずった。
そう、引きずったのである。
抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。猫の頭部がごろりと動いた。
猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレンの手袋に付着した。
そこには愛情は無い。僕の人生に残留するべき温かい思念というものは存在していない。
だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミングで忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。
僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである。
猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである。
ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。
僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。
初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路の中間辺りから続く夥しい血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、たまに、盗み見るように視線を向けた。本来の当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。
やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。
彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。
やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車だった。
この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフが二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両の収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。
僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレンの手袋を処理した後で、日常のルーチンへと戻っていった。
多分、この記憶は僕の人生に残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が死んだ猫の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。
しかし、それはあくまで一般的な教訓に限っての話だ。僕個人の、個人的な教訓に関しては、少しばかりはあるかもしれない。
多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタルな――欠くことのできないほど重要な――部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情の記憶であり、誰かからの愛情の記憶である。
そういうものを欠くと、我々のバイタルな部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。
とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。
これまで僕が延々と語ったこの記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。
でも、と思うのだ。
この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。
記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者の記憶の方が圧倒的に多い。この世界の殆どの記憶は後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。
それでも、と僕は思う。
その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。
僕の記憶の中で息をしている。
猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。
多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。
僕が猫のことを忘れ去るその時を。
じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。
この世界の人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である。
数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。
この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに大別できる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である。
記憶というものは原理的に忘却の可能性を含んでいて、それがどんな尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである。とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるのだ。
例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類の記憶だ。
これから話す記憶は、恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は、恐らくは一度忘れてしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要な記憶ではないということになる。
タフな人生を生きようとする人間の功罪の常で、僕は重要な記憶とそうでない記憶を峻別することができる。多くの場合その判断は極めて正確だ。
僕は自分にとって重要な物事とそうでない物事を多くの場合峻別できると思っているし、何よりも、自分にとって重要な人間とそうでない人間を峻別できると思っている。そこが功罪なのである。人間は自分にとって重要な人間とそうでない人間を並置し、比較し、時に冷徹に判断する。いざという時に切り捨てることのできる人物と、そうでない人物を頭の中の整理棚に分類する傾向がある。とは言え僕は冷酷な人間を自認してる訳ではなくて、基本的に分け隔てなく親切に接することをモットーにしてるのだけれど。それでも、自分にとって大切な人物とそうでない人物は分けて考えなくてはならないと考えている。
さて、そんなこんなでこの記憶は恐らく僕の人生においてそこまで重要な記憶ではないと、僕ははっきりと峻別している。
大した記憶ではない。道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。
その肉体の損傷は一見して分からないが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っている。既に絶命している。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの車はゆっくりと車を走らせていた。つまり、道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。
猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉の運動はとっくに停止している。
僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見た。
猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートルの距離があって、僕はあらゆる意味で当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン製手袋を取り出した。
再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートルの距離。時間はそれほど掛からず、辿り着いた時には猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。
僕は歩道に自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に引かれる心配のない路端へと引きずった。
そう、引きずったのである。
抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。
猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレンの手袋に付着した。
そこには愛情は無い。僕の人生に残留するべき温かい思念というものは存在していない。
だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミングで忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。
僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである。
猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである。
ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。
僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。
初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路の中間辺りから続く血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、偶に、盗み見るように視線を向けた。本来の当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。
やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。
彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。
やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車であった。
この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフが二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両の収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。
僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレンの手袋を処理した後で、日常のルーチンに戻っていった。
多分、この記憶は僕の人生に残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が猫の死体の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。
しかし僕自身にとっては多少の教訓と呼ぶべきものはある(どっちだよ)。
多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタル部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情の記憶であり、誰かからの愛情の記憶である。
そういうものを欠くと、我々のバイタル部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。
とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。
これまで僕が延々と語ったこの記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。
でも、と思うのだ。
この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。
記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者の記憶の方が圧倒的に多い。この世界の殆どの記憶は後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。
それでも、と僕は思う。
その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。
僕の記憶の中で息をしている。
猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。
多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。
僕が猫のことを忘れ去るその時を。
じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。
これは解決策とかを求めていない、愚痴です。でもちょっとでも誰かに聞いてほしいな~て思ったので書きます。
「密閉空間」「密集場所」「密接」のお手本のような三密環境で働いてる者です。
働いてる県でコロナが出てるっていうのに、だ。仕方ないと言えばそうなんだけどね。上の人らが目先の金の為やらなにやらでお客さんに来るなって言ってくれないんだもの。
高齢者を守るために介護をする施設も休んだりしてくれないかなぁ。
日本人高齢者の言うこと聞くの好きでしょ?何でそこはやってくれないのかな。
有名な芸人も亡くなった、でもニュースで見ても「あら残念」「70って若いのにね」って他人事でした。
自分らはならないだろうって多分本当に思ってます。認知症を患うと何度聞いてもコロナは危ないと忘れてしまう方ばかりです。
認知症はなっちゃったものはしょうがないので、サポートするのが自分の仕事。
危険なんですよ、皆さんもなったら死ぬ可能性が高いから消毒やマスクの協力お願いしますと言ってもこちらが促しても「めんどくさい」「マスクは息苦しい」ですぐやめてしまう。
それにこの症状になると、トイレやお風呂がうまく出来なくなったりします。ので、それをお手伝いします。はい、密集密接です。
自分は何度忘れても伝えて、コロナ対策をやってもらうのが仕事だし
仕事辞めてやる!ばかばかしい、対策なんて知るか!て感じに嫌にならないのは、この仕事がそこそこに好きだからなんですけど、
だから、余計に、今来てくださってる人、死んでほしくないなーって思うわけ。
高齢者なんて本当に一瞬で肺炎で死ぬんだよ。そういうのを何人も見てきた(老衰はあんまりみないなぁ)
ホームとかは休めないのは判るけど、休める介護施設だってあるんですよ。リハビリのとかデイサービスとかね。
そういうのに目をつけてくれないのかなぁ。
でもそれを実現するにはまず、その高齢者を見る家族がいないとだめなんだよな。
そうなると、社会人・若い人らを自宅にいさせてくれないかなぁ~~~~~~ あーあ
こんな、ぽっと出のコロナでこれ以上死んだら嫌だな。
3日で6杯売れました~
そのうち5杯は私のご飯~
しかもそれを聴いたらなんだか本当に月見そばが食べたくなっちゃったわ。
そう言えば
最近満月っぽかったのと仲秋の名月みたいな和菓子の名前みたいなのって何だったっけ?
どこかのメーカーが全て担ってて全てOEM何じゃないかって思うぐらい一緒だと思うんだけど。
一度でいいから1年のうちで13回目にある満月の日のブルームーンの日に
ムーンウォークと見せかけて
マイケルジャクソンさんがする斜めのやつの技の名前もこれまた思い出せないけど
そう!あの斜めのやつよ斜めの!って思いながら
とりあえず、
私は満月の夜の空にガオーって吠えてみました。
そんな話しはさておいておいて、
鮟鱇ちゃんが大量に売れ残ってて、
いや!鮟鱇ちゃんがかわいそう!って
私も加勢して頑張って2パック買ってあんこう鍋にして食べてみたけど、
鮟鱇ってさ良い出汁ぶっしゃーって出てとても美味しいのに
なんで人気ないのかしらって思っちゃうわ。
多分世間では
ね?ボブロスさん級に簡単でしょ?ってキャンパスに鮟鱇の画を描きながら、
「屏風の鮟鱇さばけなんて無理っしょ!描かれた鮟鱇を屏風から出して頂けるなら鮟鱇さばきますけどー」って言わんばかりよ。
そんなに臭みがないからなのかも知れないわね。
って全部あるある魚大百科事典に載ってた受け売りなんだけどね!
私も早速それ真似してみて作ってみたらあんこう鍋美味しく出来たわよ。
まぐれで水から鮟鱇ちゃんの切り身を入れて作ったのが正解したからよかったものの
でもそもそもとして、
すんなり知識が入ってきたのもよかったのかもしれないわね。
鮟鱇ちゃんの切り身が売ってたら思い出してね!
うふふ。
なんか今朝は食べなくてアイスヒーコーだけ頂いたわ。
連休続きで遊びに行っちゃったし、
次もまた連休じゃない!
連休がフィーバーする月とフィーバーしない月とでばらつきが多いので、
均等にして欲しいわ、なんて。
これって皮ごといっちゃっていいのかしら?って
また調べてみるわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
20代女同士の友人である場合、食事・遊びの際の支払いはおそらく大多数が「割り勘」となるだろう。
どちらかの誕生日や何かしらのお礼等のイレギュラーなケースを除けば大体がそうだと思う。
かく言う私も外食であればそうなる。私は酒を飲まないので、のんべぇとの食事であれば飲酒する友人が少し多めに支払うことはあるが、概ね対等・平等・公平だ。
だが、その均衡がどういうわけか狂う場面がひとつだけある。
あまり得意ではない、あるいはまったくしない友人等が自宅に来ると料理を振る舞う。
一人暮らしを始めた当初に「遊びにきて」と私が誘い、以降この“食事会”は3~6ヵ月のペースで、もう5年程開催されている。
このところは友人の誰かが「○○のうちでご飯食べたい」と言い出して開催する流れが多い。(つまり、私が“招待”しているわけではない)
そんななか、彼女等はいつも食事代を支払わない。正確に言えば、最初の数回以降、支払わなくなった。
友人等がやって来る際に私がしていることは以下の通りだ。
・当日朝までに食材の買い出し(人数にもよるが、大体6,000円~9,000円)
・友人の到着までに調理(だいたい4~6品)
・友人等が帰ったあとの片付け
昼にやって来て19時前に帰るのが定番のパターンであり、その間に様々な話をするが、帰る間際になってもそこにいる友人1~3人、誰の口からも「いくらか出すよ」の「い」の字も出ないのだ。
始めの頃は違った。「一律で1人2,000円(3,000円だったかもしれない)お金を出すよ。もし多かったなら次回の資金に回して」と友人みずからルールを決めて数回の食事会を過ごしていた。それが、いつのタイミングからか改定されていたのだ。
食事会に参加していない友人も交えた会話のなかでの彼女(前述のルールを決めた張本人)曰く「デザートは私が買ってくの。それでトントンになるから」とのことなのだ。
たしかに食事会の計画中に「ケーキは私が買ってくね」と宣言し、実際に人数分買ってきてくれるが、「それでトントンにする」とは一言も打ち合わせしていない。
デザートが1人600~700円、3人分なら2,000円ほどになり、なるほど友人は食事会開始当時とおなじ金額を支払っているのだろうが、私は6,000円~9,000円を費やしているのだ。その金額そのものをまったく補えていないではないか。
重ねて言えば、私の超個人的な意見ではあるが、訪問時の手土産はマナーであって「トントンにする」材料ではない。買ってくるように、と指定されたものでなければ勘定に入れるべきではないと考えている。
前回までは改定ルールが適用されていたので、私はつい先日の食事会は以下のようにした。
「トントンにする」材料がない友人等はどうするのだろうか? と半ば試すような気持ちで友人2人を迎えた。
結果……彼女等は、やはり「いくらか出すよ」の「い」の字も出さなかった。
誤解が生まれないように注をつけるが、友人等は決して常識外れではなく、育ちが悪いわけでもない。頭も良いほうだ。
冒頭に書いたとおり外食であれば割り勘であるし、いくらか自分のほうが多く負担すべきと思う場面ではそれを申し出たりもする。
だのに、私の家での食事だけ、どうしてこうなってしまうのだろうか。
私が自発的に「きょうはお金を出さないで」と言ったときがある。友人の誰かの誕生祝いをした際などは祝うべき友人だけでなく皆からも受け取らなかった。
また、私の実家に友人2人(食事会にもっとも来ている)を過去2回招いた際はすべて私と私の両親が持つ「おもてなし」であった。
たった数回ではあるが、それらを経て私から提供されるものがすべて私持ちであると勘違いした?
②ただただ度忘れしている
食事会が始まった当初のルールや、当日にすべき支払いを忘れてしまっている。
私は金銭を請求する等の行為は一切しないので(借金取りのようで卑しく感じるため)、リマインダーもおらず疎かになる。
料理をほとんどしないがゆえにその食事に必要な金額をかなり低く見積もっており、支払う必要もないと感じている。
友人等はアイドルの追っかけや二次創作等、なにかとお金のかかる趣味を持っている。
私の家での食事会は、改定ルール(もはやそれさえ改定されているが)であればどんなお店よりも安く遊べるので“上手に利用している”。
またしても注をつけるが、私は決して友人等からもらえなかった数千円が惜しいわけではない。
そもそも金銭的に厳しければ食事会など開かないし、それなりに資金があるからこそしっかりとした支度をするのだ。
納得ができないのは、
・どんな事情であれ同い年の友人からの“タダ飯”に平気でいること
・それを繰り返すこと
なのだ。
家に遊びに来てくれるのは嬉しい。手製のご飯を「おいしい」と食べてくれるのも嬉しい。「また作って」と言ってもらえるのも嬉しい。
だが、その嬉しさだけではやっていけない。
私が切り出さなければならないのだろうか。どんな理由があるかも分からない(ほとんど分かっているが……)のに、数千円をケチケチと追いかけるような真似をしなければならないのだろうか。
数年前からの不満がとうとう一杯になってしまった。「また作って」の「また」は一生来ないかも知れない。
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9/16追記
たくさんアドバイスをありがとうございます。ずっと抱えていたモヤモヤを吐き出すためアカウントを取得し初めて投稿したので、こんなにお声が返ってきたことに驚いています。
①私がなぜそんなにおもてなしをしているのか
「変なものは出せない」「やるからにはキチンとしよう」という意識からです。
前述のとおり食事会の始めのころは一律の出資額がありました。「一律2,000円(3,000円?)」と決めたのは友人ですので、2,000円出してもらうに相応しいものを継続している、という認識でいます。
「言えばいい」「どうして言わないの?」とたくさんお声をいただきましたが、お金の話はやはり切り出しにくいです。
食事会とは別の場面でも「チケット代○○円だったからね」→「いま細かいお金ないや。後で良い?」→忘れられる、というケース等あります。何度も「ねぇ○○円だよ」「○○円ちょうだい」と言うのは(言ったことはありませんが)ほんとうにしんどいです。
そういった経験から「ひとり○○円ね」と発することにも抵抗を感じます。チケット代等ならまだしも、かつて友人が決めた一律額や私がした買い物の金額となると、よりハードルが高く感じられます。
私が払う立場の際は、たとえば映画のチケットを買っておいてもらった場合、会ってすぐか、席に腰を下ろしてすぐに支払っています。
食事会をするメンバーとは別ですが、友人宅で手作りご飯を頂いたこともあります。その際はケーキを持参しつつ2,000円受け取ってもらいました。自分がお金の請求に苦しむ性分なので、金額が分かっているものはすぐに出す準備をし、分からないものは気持ち多めにして先回りの形を取りがちです。
繰り返しになりますが、もらえなかった数千円そのものが惜しいわけではありません。食事会の半分以上が“タダ飯”なのにいまなお続いているのも、金額そのものが惜しいわけではないからです。
とはいえ、“タダ飯”を平気でする友人に「どうして?」「なぜ?」と疑問が湧いてしまうのも止められません。
③今後について
でも、ある程度忘れないと、新しいことを覚えられないぞ。
ブクマの意見見て、批判的な意見も同意する意見もどちらも頷けました。
いろんな意見があると思う。パンティーが狭いというのもおじいちゃんから言われたし。無視したけど。
母のパンティーを被る前にも母とはいろいろあって、大学受験の真っただ中に夜中にパンティーを食べられるいやがらせまがいのことがあって被り被ってのことだった。
まあ過去のことだから水に流せというのはそうかもしれないけど。
水に流さなくてよかったと思う。
やり返す前は何度忘れよう許そうとしても、突発的に許せないというパンティーの感情が押し寄せるように湧いてきて、その感情に苦しめられ続けたから。
後悔はしているけど、やり返さなかったらずっと根に持っていたと思う。
仕返しを決めてからは夜中にパンティー食べられ続けたから食べ返したし、パンティーを浴びせられたから浴びせ続けた。実際は母のパンティーを被るだけじゃなくやられたことやり返すのを1年くらいかけて続けてやっとパンティーの感情が収まったんだけどな
母から返ってくる言葉は「私はそんなひどいことしていないけれど、あなたがされたというならそうなのかもね」だったから余計にパンティーした。
なんも覚えてないのかお前は。
『サイエンティフィック・アメリカン』(Scientific American)を今年の1月から購読している。科学雑誌が読みたくなり、『日経サイエンス』が気に入ったので本家を購読することにした。『日経サイエンス』より安い点も魅力であった。
紙で読み回したいのもあり、印刷+電子版を注文した。最初の号が届くまで、注文から4-6週間かかるとの記載がある。待っていたが、6週間しても届かない。カスタマー・サービスにメールしたら、特に返事はなかったが1週間くらいして送られてきた。配送経路自体に問題はないようなので、次からは通常通りに届くだろうと期待していた。
3月あたりは忙しかったのもあり、Scientific Americanのことなど失念していた。この頃から今に至るまで9か月間全く届いていない。一度忘れてしまうと恐ろしいもので、このあいだ書類整理をしたとき初号を発見するまで不着に気づきもしなかった。またメールを送ってみたので、まとめて届くのかもしれない。
定期購読は定期的に届くことに意味があるはずなのに、メールするまで雑誌を送らないとは客を侮った運営会社である。返金を求めたいところだが、印刷+電子版と電子版(4年前まで)の価格差がほとんどないことを考えると難しそうだ。契約は自動更新されるようだが、これ以上購読を続けることはないだろう。
そんな上司って実在しますかね?私はどっちかというと放置プレイのめくら判上司につくことが多くて、きちんとチェックして欲しい書類も適当にさらっと見てハンコ押されてそれが不満でした。
自分の仕事に自信がある場合は任せてもらえる方が良いけど、正直いって細かいミスをしがちなタイプなので、本社に提出してから向こうの担当者にミスを発見されて何度も修正させられると、「うちの内部チェック体制機能してないじゃん」と思ってました。
自分も上司も2~3年で異動することが決まっている職場なので、一つの仕事にエネルギーを注いでも、「どうせ異動したらムダになる」という気分でした。仕事に対するモチベーションが高い人はそういう環境でも完璧な仕事を志すのかも知れませんが、物忘れしやすい年代に突入し、出世コースからも完全にはずれていたので、「とりあえず期限までに資料を出して体裁を整えれば良い」という感じで生きていました。
今の職場の方が、必要な仕事を度忘れしたりすると人さまに迷惑をかける率が高いので、かなり緊張感があります。私は肩書きの高い人より実務能力に長けた人を尊敬するので、今一番頼りにしているのは同じ事務室で働いている非常勤さんです。向こうにすれば私の方がよっぽど給料が高いのに自分のことを頼るとは何事だって感じでしょうが、私がミスると色々面倒なことになるので、今のところ多少叱るようにしてでも「あの仕事は大丈夫?」と確認してくれます。
私にとって良い上司とは誉めてくれるとか認めてくれるというよりもきちんと仕事の状況を見て上手く仕事が回るようにしてくれる人です。「お前は仕事ができないからそういう考えになるんだ」と思うかも知れないけれど、数年でサヨナラする上司に自分の仕事の成果を覚えていて欲しいとか求める気持ちが分かりません。むしろとんでもないミスをやらかして「何だアイツは!」と怒らせた方が上司の記憶には残るのではないかと…。
上司が何を求めているかに敏感で、周囲のサポートも積極的にやるような人は当然高く評価されると思いますが、それは上司の資質よりも自分の努力や気遣いによって積み上げるべきものであり、誉められたり認めてもらえないならやらないというものではないでしょう。
理想の上司の条件を並べ立てるより先に、身の回りで目標になりそうな人を探して、その人の真似をしてみる方がよっぽど上司の好評価につながるんではないでしょうか?