はてなキーワード: 底上げとは
昼食1食1000円、月30日で3万の出費だって分かる?
その他に朝と夜食べるんだよ。
最近はお弁当の底上げがひどくて、500円のお弁当だと午後ひもじい思いをしながら仕事をしないといけない。
小腹を満たすおやつも100円なんかじゃ買えなくなってきた。
そして底上げ弁当を作って売っているところも利益はあんまり出てなくて、高い高いと言われたところで、8%分は消費税だから下げられない。
支払い金額=税込価格を下げるには販売価格を下げなきゃいけなくて、材料費が高騰してるから量を減らさないといけない。米を薄く盛る仕事をする人たちに払うお金、お賃金だって、最低賃金が決まってるから少ない人数で回さなきゃいけない。
売れ残ったお弁当も従業員や子どもにあげる訳にいかず、お金を払って廃棄しないといけない。儲けはどんどん削られる。
米を薄く守る仕事をしてる人達は、そんな雀の涙の給料で生活している。一食あたりの量を減らしたり、少しでも安いスーパー行ったりしてる。でもスーパーの割引も渋い。割引できるほどの余裕がない。
問題は生活費だけでなく光熱費と通信費と家賃にも及ぶ。全部値上がりしてる。
そして給料は上がらない。生活費の高騰に対して昇給が間に合ってないし、昇給に対して年金や保険や住民税で取られる額が上回ってる気がする。
いわんや趣味のお金や貯蓄なんかどこから出せばいいの。若者の○○離れとか言ってる場合か。
ねぇ、お金は命なんだよ。
食べられなければ死ぬんだよ。
牛丼屋行って「庶民感覚分かる」とかいうポーズしてる場合かよ。
働いてるんだから金をくれ。勤労の義務は果たしてるだろ。基本的人権を守れよ。文化的な最低限度の生活をさせろよ。
庶民の今の「なんでも高い、お金がない」という当事者の意識を持ってみせろよ。そして改善しろ。
そうじゃなければ偽善者なんだよ。
いろんな意見をもらって考えてみたが、必ずしも「子どもを増やすこと」が少子化対策かというと違うような気もしてきた。
人が減っても回る社会を考える上で、一人あたりの能力を底上げするというのも方法の一つではある。
子育ての質を担保してより優秀な人材に育てることが目的と考えると、現在の「子育て世代への支援」というアプローチもある程度理解できる。
お前は小泉進次郎と同じ事を言ってるね
支持者かな?それとも似た者同士かな?
いろんな意見をもらって考えてみたが、必ずしも「子どもを増やすこと」が少子化対策かというと違うような気もしてきた。
人が減っても回る社会を考える上で、一人あたりの能力を底上げするというのも方法の一つではある。
子育ての質を担保してより優秀な人材に育てることが目的と考えると、現在の「子育て世代への支援」というアプローチもある程度理解できる。
選挙に向けて各政党の少子化対策を比較してたんだけど、今言われてる少子化対策って、子供を作らないことへの対策になってなくね?と思った。
経済的理由で子供を作れない人ってそんなに多くないと思うんだよね。
そういう人の多くはいわゆる「子なし夫婦」という形になるはずだけど、今増えてるのはどちらかというと未婚率の方なわけで。
経済的余裕が無いから結婚も出来ない人ってのも中にはいるんだろうけど、今の少子化対策ってそういう人に向けたものじゃないよね。
じゃあ未婚率はなぜ上がってるのかといえば、「必要性を感じない」とか、「自由な時間がほしい」とか、「出会いが無い」とかなんだよね。
つまり、「結婚相手を探したり結婚したりする暇が無い」ってこと。
逆に言えば、昔は暇だから結婚してたんだよね。結婚する以外に人生でやることがなかったから結婚した。
でも今は趣味も娯楽も溢れてて、人生じゃとても消化できないほどのコンテンツがある。だから結婚する必要もない。
これを解消するには、子育ての負担を軽減するんじゃなくて、子育てしない方が損くらいの条件にしないとダメだと思う。
子供一人あたり年間200万くらい出して、子育てが職業になるくらいでないと。
追記1:
いろんな意見をもらって考えてみたが、必ずしも「子どもを増やすこと」が少子化対策かというと違うような気もしてきた。
人が減っても回る社会を考える上で、一人あたりの能力を底上げするというのも方法の一つではある。
子育ての質を担保してより優秀な人材に育てることが目的と考えると、現在の「子育て世代への支援」というアプローチもある程度理解できる。
追記2:
ちょっと遠回しすぎたようであまり真意が伝わってない人が多い様子。
それは結婚したい、子供作りたい人が出来ない理由であって、少子化の主要因ではないでしょう。
確かに子供育てられないから結婚もしないって人もいるんだろうけど、少なくとも調べた限りでは個人的な時間の問題が多く思えた。
200万誰が負担するんだ
要は人口減少を軽減するという名目での少子化対策ならこれくらいのことしてもらわないと少子化対策とは言えないということ。
土台無理なこともわかってる。だからそもそも少子化対策と呼ぶことに違和感があると言いたかった。子供が減ることの対策になってないもん。
200万じゃ足りない
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.tokyo-np.co.jp/article/360714
ぶっちゃけ一般人が裁判官に否定の意思を示せるというところに気持ちよさを感じてしまっているのではないか?
裁判員制度でやたら重たい刑が軽率に求刑されるという話と近いものを感じる。
裁判員だって結論に対して右から左で答え出してるわけじゃないし、結論が同じだとしても一かゼロかではなくて、現行法ではこうだが今後議論されることが望ましいみたいな判決だって珍しくないでしょ。
それに対してそんなノータイムで×つけてるやつらの軽率な意思で罷免なんかされたらたまったもんじゃないだろ
id:hapilaki “何も書かなければ信任したとみなされる。”そもそもこの仕組みがおかしいので、何をしたのか分からなければ✕を書く方がいい。何者か分からんやつを信任するのはおかしいでしょうよ。
id:ChillOut あとで納得いかない判決を出されたり、思想家・活動家だったことが分かっても挽回する手段がない。よって詳細が分からない場合は、基本❌️にしておくと後悔が少ない
id:camellow どの裁判官がまともな活動をしているという情報がないので全員×にしてる。政治家は一生懸命自分の実績なり主張をアピールするのに裁判官は何もせず信任される仕組みへの抵抗。
id:santo わからなかったら全部バツにしておくと司法が緊張していい政治になるって神保のおっちゃんが言ってたで。
id:shira0211tama 分からないと考えたくない場合は全員バツだよ!どうせ割と素通りするってなら尚のこと何も考えずに全員バツだよ!
id:oktnzm 基本、全部バツでいいよ。現状、全然罷免ラインに届いてないし、熟考した人の底上げになるので。
id:hatehenseifu 三権分立など画に描いた餅であるワガクニの裁判官はとりあえず、全員✖でOKです。
id:theta ダメな裁判官を罷免できる制度だが、今までこの制度が機能したことはない。機能させたいなら、機能するまで×を積み上げる必要がある。機能させたい人は全員に×をつけるべき。
この人に至ってはそもそも審査のやり方をわかってなくてアホをさらしている(〇付けたら無効)。
id:warulaw 基本的なスタンスとして人は定期的に入れ替わったほうが良いので、よくわからない場合は「×」。その上で非常に素晴らしい判断した裁判官は「○」にしている。
別にトレンドをめちゃくちゃ意識する必要はないんだけど、「服なんて適当に着とけばいいだろ」って価値観が固定化してるのがよくない。
同じアイテムでもどういう着こなしでコーディネート組むかは刻々と変わっていくものだし、それ以前に基本を学ぼうという姿勢がないよね。
ファッションって紐解いていけば全部文脈で理解できちゃう分野なのに、顔や体型を言い訳にしてそれを学ぼうと思ってないところが悲しい。
顔や体型を誤魔化せるのがファッションなんだよ。そこを誤解してる。
カッコいい人間なんて何着てもカッコいいんだよ。
総合力においてはスーファミ時代にロマサガシリーズとDQ・FFが争っていた頃がピークで、そっから先は「グラは進化したけど体験としては・・・」って状態でずっと停滞してるよな。
アクションRPGやシミュレーションRPGといった派生ジャンルと混ぜることで多少誤魔化そうとは出来てるけど、それでも総合的な面白さにおいては「グラが進歩したおかげでちょっと加点されてるのを除けば・・・」という感じかな。
そもそもテレビゲームという遊び自体がある種のリミットまでたどり着いてるような気がしてならん。
映画にしろ音楽にしろ文学にしろ最高得点という意味では過去の傑作と同じぐらいまでしかたたけず、平均点が少しずつ上ってきているだけに留まっている気がしてならん。
なんつうかさ、人類の進歩自体がボトルネックに引っかかってる感じだよね。
こっから先をもう一歩進む方法自体はなんとなく分かってるんだよ。
「バーチャル空間で擬似的に夢を見せる」っていうSFでよくある没入体験方式を実現させること。
極端なことを言えば、脳に直接刺激を叩き込んでいければ人類が直面している表現のリミットは突破できる。
人類の脳みそ自体をレベルアップさせてよりハイコンテクストなコンテンツを気軽に楽しめるようにするって方向もありだと思う。
つまる所、あらゆる文化が脳科学の進歩に将来を託しているのが現状なわけだな。
なんだか虚しくなってくるね。
結局は基礎科学と学の技術こそが世界の根底を底上げ出来る力であり、それ以外の「文化的なモノ」は全てそれに依存するだけなんだから。
たとえば絵の具を作り出すために必要な工業的な技術が発達するまでは、それっぽい色の石ころを必死に擦り付けてガビガビ画質の壁画を作ることしか絵描きには出来なかったわけだ。
無力すぎて可愛そうになってくるよね。
だからこそ芸術家みたいな連中はその弱さを取り繕うために「どうだ俺達こそがスーパーヒーローなんだ」って振る舞ってるのかなあ。
芥見下々が何をしでかすか誰もわからない。かきたいとこ、「かっこいい~」と思った他作品のコマをお絵描きするだけ。本人曰く「オマージュ、リスペクト」らしいが、事前許可をとらずにまんまぱくることになんのリスペクトがあるのか。10代の子どもではなくいい大人らしいのに、本当にずれてて面白かった。
終盤なんか内容じゃないとこで驚きっぱなしだった。作品よりも作者への「え、まだ痛さ更新するのか」が面白くなっていた。作品の期待値は限りなくゼロになっていたが、いつまでも芥見を見ていたいという思いはかなり強かった。
考察や感想、皆一生懸命深読みしたり期待したり嘆いたり、共通して呪術廻戦が好きなんだなと思ったし、こういう読者達のおかげで盛り上がり続けた部分は絶対あったと思う。一番のブーストはアニメと人気声優だけど。
ヒットさせてはいけない作品だったと思う。それは芥見だけの責任じゃないけど。「五条悟の人気が出すぎて、本来はたいしたことのない作品を底上げしてしまってた」というような感想をいくつか見た。全くその通りだと思う。人気声優は凄いよ~。
NARUTOのカカシやH×Hヒソカ(と、その他)という既に絶大な人気を誇る、他人がつくりだしたキャラクターをこねくりまわしてできた、わかりやすい強キャラ。にモテ声人気声優。そりゃこうなるでしょ。
既に多くの声が上がっている「面白かったのは編集が手綱をにぎってた渋谷事変まで」という評価を芥見は恥じるべきだし、
他人のデザインをまんまなぞってお絵描きした盗品を並べ「かっこいいでしょ」とやれるセンスを恥じるべき。
商業的に大成功をおさめた若き漫画家に対する評価が「クリエイターむいてない」なのは前代未聞だし、集英社も恥ずかしくないのかなと思う。立派な商業記録と、同じ規模の黒歴史を残した芥見下々。お見事。
ミルクレープをただのスポンジで底上げするんじゃない。パフェのコーンフレークじゃあるまいし
敷紙のフリルで底上げスポンジを隠す初見殺しテクニックがセコい
この内容がひとつの当事者の声として、実際に関係者に届いてほしいのか、
それとも自分の心情を吐き出す場所がほしいだけなのかはわからないが、
書かないと、どうにかなってしまいそうなので書く。
彼女の訃報を知ってから半日経つが、率直に言ってかなり精神的にまいってしまっている。
普段は物事に対して必要以上に感傷的になったり、映画などを見ても大泣きしたりはしないタイプの人間なのだけれど、
このあまりにも唐突で受け入れがたいニュースに触れてからというものの、
仕事や大学の授業が終わり一人になると、納得できない気持ちや言葉がどんどん頭の中をめぐって、
私生活に特別な不満もなく、心身ともに健康に日々を過ごしていた自分でさえこうなるのだから、
希死念慮を抱えて生きるような人々にとって、著名人の自殺報道がどれだけ影響を持ちうるだろうか、ということも考えてしまう。
自分が彼女に心酔する大ファンだったかと言うと、多分そうではない。
ただ、家で一人作業している時に流すiTunesのプレイリストの数%は彼女の曲であり、
人生で彼女の曲を聞いた時間を一つにつなげると、大抵の友人や家族と過ごした時間よりよっぽど長いのではないと思う。
彼女の楽曲は、巷で「生きづらさ」として語られるような感情をベースにしたものが多くて、
それが彼女の内なる思いの発露なのか、商業作家としての生存戦略であったのかはわからない。
彼女に対しての感情は同年代ならきっと抱くのだろう「共感」とはすこし違っていて、
突出した作家性で、歌声で、演奏で、唯一無二の音楽を聞かせてくれる存在だった。
記憶にすがるように罰が下るのを待っていたように
僕が僕自身をこの部屋に閉じ込めていた
という歌詞だ。鬱屈して閉じこもる心を「罰が下るのを待つ」と表現する感性。
彼女にとって自分の内面とは、けして外界とのつながりを断つための境界や手段ではなく、
それはまるで彼女の内側に広がる「世界」であり、それを統べる神様とさえ繋がる場所だとでもいうような、
強烈な自意識のあり様、彼女の作家性の一端に触れた時は、まさに殴られたような気分だった。
自分のプレイリストの中には、自分が今まで出会ってきたアーティスト達と並んで、高確率で彼女が入るようになった。
(この曲を含め、彼女の歌詞には「君」や「あなた」という表現がよく出てくるが、
彼女にとってはそれもまた客体化された、向き合うべき自分自身であり「神様」であるように思えてならない)
一度だけライブにも行った。
コロナ禍の中、東京で名古屋まで遠征して、人もまばらな新栄町のライブホールで彼女を見た。
落ち着いた会場の中で見た彼女の印象は、楽曲の持つ強烈な存在感とは裏腹に、
どこか年相応で、満員の観客と向き合うには何とも頼りなく見えた。
路上ライブ時代の楽曲なども含めた弾き語り中心の穏やかなセットリストと、
苛烈さを秘めた内容に対して、いつでも「聞いて下さい」から始まるあまりにも低姿勢で飾らないMC。
大満足と言うよりは、次もまた見に行こう、というような気持ちになったのを覚えている。
あまりリアルタイムでアーティストの動向を追うこともないタイプなので、
彼女の結婚や病気、活動休止といった直近のニュースはまったく知らなかった。
ただ、毎日の在宅デスクワーク、その時の気分で音楽を延々と流す日々のワンシーンに彼女がいる、
好きなアーティストの死に触れることは初めてではない。
1970年代の洋楽もよく聞くので、ルー・リードやデビット・ボウイが死んだ時もショックだった。
ただ、、寂しくはあってもどこかで覚悟していた大御所の死とは違い、
彼女の死に直面して、色々な感情が駆け巡って、最終的にたどり着いたのは「納得がいかない」という思いだった。
音楽の歴史の中で、若くして死ぬ事によって、伝説的に昇華されてしまったようなアーティストはたくさんいるが、
もはやそんな時代ではないと思う。
生み出された作品とその作者の人生や生活は切り離して考えられるべきであって、
劇的な死に方をすることで、楽曲の意味が何らかの方向性を持って印象的に底上げされる、
なんて事は受け入れてはいけないと理性では思っている。
「自死」という究極の自己決定と紐づけた時に、そのありかたが容易く変質してしまう類のものだと個人的には思う。
彼女自身の感性で研ぎ澄まされた強さと繊細さ、息苦しさがたどり着いた結果が「それ」だとしたら。
到底受け入れられない。結びつけてはいけない。
彼女がどんな人生を辿ったとしても、彼女が楽曲に込めた表現の意味は変わらないはずで、
自分にとって、これから先も、生活の一部として聞き続けるであろうたくさんの音楽の一つとして、
年月が移り変わっても、変わらないものとしてありつづけてほしい。
彼女が言葉と歌声と音楽で生み出した、暗くもあたたかい世界は、私自身の居場所でもありました。
自分だけの、二人だけの、生まれながらに全てが正しくて、善であるのだと強く歌ったはずの世界を、
彼女自身が、自ら”指パッチン”で終わらせる対象として塗りつぶしてしまったのではないか。
彼女が歌の中で生み出して、繰り返したモチーフのひとつひとつが、
彼女が選んでしまったかもしれない現実の結末と、それを知った自分自身の類推に過ぎないイメージで上書きされてしまう事があまりも怖くて、
自分はいま、彼女の死を知ってからまだ一度も彼女の楽曲を聞くことが出来ずにいます。
ここまで来てやっと本題です。
今回の「死因非公表」というご遺族の意向による報道内容によって、自分は落とし所を見つけられずにいる。
まず大前提として、著名人の死に当たっては、今回コメントを出した彼女のパートナーを初め、最も近しい人達が、
彼女の死という重大な出来事に対して向き合い、たとえ時間がかかっても心の折り合いをつけていく、
そのための時間は絶対に必要で、「ファンのお気持ち」なんて物とは比べるまでもなく優先すべきで、
ニュースやその視聴者が、それが興味本位であっても切実な悲しみであっても、
彼女の死の原因のあれこれを詮索して、彼らに必要な時間を踏みにじるような事はあってはならないと思う。
その意味において、詳細な死因を公表しない、と決めたご遺族の判断は第一に尊重したい。
ただ、それと同時に、自分を初めとして、彼女の楽曲に日常的に触れてきたファンも、
突然の訃報のショックと抑うつ、行き場のない感情、彼女の楽曲を以前と同じように聞けなくなった辛さを抱えています。
その中で、彼女の死がはたして「自殺」なのか「病死・事故死」だったのかを知ることは、
いや、大きな意味など本当はないのかもしれない。
あるのは、彼女の死が、病死や事故死といった本人の意志によらないものであってほしいという祈り。
でもおそらく報道コメントが暗に示すように、もし彼女が死を選んだという事が真に明らかになったとしたら、
自分の中で、彼女の楽曲に対する「受け入れがたい変化」がより決定的な物になってしまうだけなのかもしれない。
ただ、海や山で誰かが遭難して数ヶ月が経ち、たとえ見つかるのが遺体だとわかっていても、
長い人生の中で避けられない大切な人の喪失を受け入れるにあたって、
その理由や結果を知ることは、たとえ残酷な結論だとわかっていても、必要な過程なのではないでしょうか。
今まさに現在進行系で心の行き場と日々の平穏を失ってしまった自分にとっては、
彼女の死因を知ることが、とても切実な問題であるように思えてならないのです。
自殺報道が最大限の配慮を持ってなされるべきだ、ということももちろん承知しています。
その一方で、ペットロスといった身近な死を乗り越えるためのサポートなども社会課題として捉えられる時代においては、
一定の社会的支持を持つアーティストの死に対して、ファンが重要な事実を知ることも、
私達が「大切な存在の死」という逃れられぬ現実を乗り越えるためには必要な手続きなのではないかという事を、
いままさに行き場のない思いを抱える当事者として切実に感じています。
自分は、彼女の死を知って以来、まだ彼女の曲を一度も聞くことが出来ていません。
いつかまた彼女の曲たちを、これまで同様に、そして私の生活を彩る他の数多のアーティストとも同様に、
自分の人生にとってかけがえのない存在として共に過ごしていく日々がまたいつか来ることを切に願っています。
長くなってしまいましたが、
私はドラゴンクエスト10をサービスイン時から遊び続けているプレイヤーだ。
中でも調理職人のミニゲームにどっぷりハマっており、インしてる時間の半分以上は多分調理のミニゲームをして遊んでいる。
中でも作るのが好きなのは、戻り系と言われる料理だ。元々あいじょうオムレツや匠のチャーハンを作るのが好きだったが、ヒールカルボナーラが実装されてからはそればかり作っている。
調理職人のミニゲームでは、バフアイテムである料理を作ることができる。
このミニゲームは他の職人ミニゲームと比べると難易度が高いと言われている。運営発表の統計でも大成功率は低い。
調理職人のミニゲームはアイテム毎にギミックが設定されていて、ギミックなし、火力変化、会心率上昇、戻り、の4種類がある。
私の主観の難しい順から、ギミックなし、戻り、会心率上昇、火力変化だ。
そして、私がよく作るヒールカルボナーラは戻りのギミックが設定された料理だ。この料理はHPと回復魔力が上昇する効果を持っており、エンドコンテンツでの需要が高い。
エンドコンテンツでは体力量が生死を分けるし、回復専門の後衛職よりも少しでも火力に貢献でき回復もできる中衛職の方が求められるがその中衛職の回復量を底上げできるので、ヒールカルボナーラの需要は高いのだ。
そして、戻りのギミックは大成功を作るための狙いどころが明確な会心率上昇ギミックや火力変化ギミックと比べて狙いどころが分かりづらく、大成功率も低くなる。
なので、ヒールカルボナーラは現在料理の中でダントツに高いという相場になっており、もちろんこのお金目当てでもあるのだが、戻り料理は楽しいのでヒールカルボナーラばかり作っている。
このヒールカルボナーラの何がそんなに楽しいのかというと、アドリブ性が高いのがまずいい。
前半8ターンくらいは大体手順が固まっているが、それ以降はどこにどれだけ会心の焼きごたえが入ったかでやるべきことが変わってくる。また、なるべく集中力を節約するためにわざと具材を焦がして戻りターンで成功ゾーンに戻すというテクニックも必要になってくるし、そのテクニックを使う場所と焼き戻しを使う場所とを判断する力も必要だ。
このねらい焼きを使うタイミングもできる限り最適なタイミングを選ぶことが重要だ。一番いいのが、真ん中強火で-25くらいからねらい焼き、その次のターンで強火焼きが切れて+-0くらいからもう一度真ん中でねらい焼きができるタイミングだ。これを2回は行えるといい。
そこから先、17ターン以降はもうアドリブの世界だ。事前に考えた手順はもう形をなしておらず、そのときそのときの判断が重要になる。
私の大成功率は大体4〜5割といったところだ。
本当ならもっとヒールカルボナーラ作りの楽しさを、ドラクエ10の調理職人を知らない人にもわかってもらえるように書きたかったが、そもそも調理のミニゲームの概要を伝えるだけでも前提知識がだいぶ必要であり、それは難しいので最後には-25からとか調理職人をやってる人でも分からんかも知れない用語を使ってしまった。
俺50前半だけど
昔もクソだったけど今も普通にクソ
昔のクソの時でも俺は帰ってた
1日7時間以上やってアホの状態でコード書くのは非効率通り越してマイナス
楽にはなったけど楽にできることは誰でもできるし誰でもできると金にならんのよね
そうかな?
まあ比較的にそうかも
勉強なんかなんでもやれたような
情報の集約化
まあそうなんだけど「楽にできることは誰でもできるし誰でもできると金にならんのよね」
資格とかとったことないしあんな程度のを資格で見るとこに行きたくない
こんな感じかな
増田は40代前半。新卒はまさに氷河期でSESに就職していらいIT業界に居続けています。転職は数回経験済み。
新卒や20代からの氷河期への侮蔑を感じる。努力不足って感じの。
でもそもそも20年前と今じゃITも含めての周辺環境が違いすぎるのに努力不足の自己責任って言われるのはやっぱ納得がいかない。戦国時代の合戦見て「俺なら~」言う感じのなろう系かよ
まずこれ。転職をなんとも思わなくなった。20年前は同業他社でも転職は難しかった。新卒辞めて出来るのは公務員試験とかかドブラックへの就職のみ。今以上に年齢と能力が釣り合わない募集しか出てなかった
イメージとともにしやすさも一気に変わった。紙の履歴書と職務経歴書なんて消えた。今も求める企業はたぶんヤバい。アプリやサイトで申し込みしやすくなった。昔のような自分の足で見つけるとか人脈が無いと見つけられないとかがなくなった。
やっぱ残業が消えたのは大きい。今もあるところはあるだろうが奴隷の鎖自慢か上が下手なだけ。時間があれば何かに取り組む余裕は出る。
自分の新卒の頃はJavaがメインだったが、今のPythonやJavascript、各種フレームワーク、Dockerとかってとにかく分かりやすい。C#は相変わらずだしMSのドキュメントは未だに読めないレベルだが、要は興味を持ってスキルアップしやすい。あの時代にJavaを理解できて高められた人は努力とかでは片付けられない。
主にユーザー側。馬鹿が居なくなった。20年前はほんとIT音痴が多かったのでプロジェクト破綻は当たり前、そしてユーザーが強かった。精神が安定するのは何かをなすのには最重要。
特にノートがそれなりの性能と価格になったのは良い。プログラム稼働環境も高スペックを必要としなくなった。自宅で勉強しやすくなった
ネットで情報収集や勉強するにも負荷だった通信料もだいぶ安くなった。というかほぼ無料。
やっぱ色んな情報がネットに集約化され、更に正誤も判定され質の良い情報を簡単に無料で手に入る用になった。結果回り道が発生しない最短最適化のルートをたどることが出来るようになった
1コ前とおなじになるが、資格の取得も最適解がもう見つかって実務経験0でも高度資格取れるようになった。詰め込みの可否はともかく20年前のような個人で五里霧中な勉強はもはや無い。
今の世代が1の努力する5倍の手間と努力で同じ1の成果を得たのが氷河期世代。それに対して「なんで1の努力しなかったんですか?」って言うのだからわかりあえない
でも「1の成果のためには5の努力必要だったんだよ」って言っても時代の空気もあるので理解してもらうのは難しい。ほんと1程度の努力で1の成果がもらえる君等が羨ましいし、氷河期世代を自己責任という同年代と上の世代は大半0.5の努力に4.5の親と運だからマジで害悪
各都道府県の「大学数(国立・私立・公立の合算)」で「各都道府県の10~14歳人口(2022年人口統計)」を割った値。
※調査の次の年齢階層が15~19歳で進路等でばらつくことから10~14歳の値を使用。あくまでも各地域の子どもの人口の目安。
人/校、この数字が小さいほど子どもは地元を離れずに大学に通うことができる。
逆に大きい場合は子どもの数に対して地元に大学数が少なく、大学に通うには他の都道府県に出ていく必要がある。
結果を見ると近隣の都道府県に吸収されている印象。
01 京都 3059 (34)
02 石川 3500 (14)
03 東京 3625 (144)
04 新潟 4045 (22)
05 岡山 4556 (18)
07 山梨 4714 (7)
08 秋田 4857 (7)
09 北海道 5378 (37)
14 福井 5667 (6)
15 広島 6000 (21)
16 山形 6143 (7)
18 愛知 6615 (52)
19 福岡 6686 (35)
21 兵庫 6800 (35)
22 宮城 6857 (14)
25 長崎 7250 (8)
26 滋賀 7556 (9)
27 和歌山 7600 (5)
32 熊本 9000 (9)
35 千葉 9704 (27)
36 大分 9800 (5)
46 島根 14500 (2)
47 佐賀 19500 (2)
1位と最下位で子どもの数に対して6倍ほど大学数に差があるので、