はてなキーワード: 幾原邦彦とは
https://font-da.hatenablog.jp/entry/2019/06/21/190301
タイトルからはわかりにくいが、本論はアニメ『さらざんまい』の感想。
"ここのところ、はてなの匿名ダイアリーで、(シスヘテロの)男性と男性の関係についての、男性の書き手による記事が次々と公開されて、ブックマークを集めている。"という書き出しからゲンナリさせられるが(一生、インターネットを見るだけで終わるお前の人生)、
「主人公の少年3人がその繋がりを支えに未来に進む」という結末の解釈はごく妥当なものに思える。
本論をざっくりまとめると「男同士が女同士のように関係を築きにくく、そのため現状、男性間では人間関係が支えになりにくい。『さらざんまい』はそれを問題提起した」というものだ。
これはセジウィックの有名な「ホモフォビアを起点としたホモソーシャル」の議論を参考にしたものだろう。そのホモソーシャルの対極は、これまた有名なアドリエンヌ・リッチの「レズビアン連続体」だ。これは女同士だと友情と恋愛の境界は曖昧であり、このことを利用して男に頼らない女同士の絆、連帯を育もうというものだ。
主人公3人、一稀、燕太、悠は最終回までで簡単に言って三角関係になるのだが、最終回では悠の危機に3人の繋がりが強調されて、最終的には「友情サイコー!」という感じで3人で未来に進むことを決断するので、その読みは大きく外れてはいない。まあ要するに3カプですね、3カプ。
だが本論が合っているのはここまでだ。
なぜなら、第7話にも、第6話に大きな危機があり、それを克服したことで3人による友情を築いたような展開があるからだ。そして、それは三角関係によって崩壊してしまう…
『「男」に「男」は救えるか?』の記事はこのことを自覚的にか無自覚的にか、省いている。この記事の評者は曲学阿世の徒だ。
第7話と最終回(第11話)のあいだにどうした変化が起きたのかと言えば、主人公たち3人が自立した存在になったことだ。このことは「忘れないで。欲望をつなぐものだけが未来を手にできる」という台詞で何度も作中で強調されている。
というか、作中で「つながり」という言葉は半分くらい「欲望をつなぐ」という文章で用いられているのに、『「男」に「男」は救えるか?』の記事は、やはり自覚的にか無自覚的にか、このことを省いて、「つながり」が作中で人間関係の繋がりを指しているかのように誤導している(もちろん、そういう用法で使われていることもままある。が、もっとも肝心な最終回では「欲望をつなぐ」という文章でしか用いられていない)。
この記事の評者にとって、あらゆる問題は同性間の人間関係によってしか救われてはならないらしい。だからこの評者は曲学阿世の徒だと言ったのだ。
さて、前述の「レズビアン連続体」、女同士の絆、連帯、いわゆるシスターフッドは20世紀に被抑圧者である女性たちが戦うために必要なものだった。では、仮に現在にブラザーフッドなるものが実現した場合、それはいかなるものになるのか。現状、多くの男たちがそうした関係を小馬鹿にしている。それは評者の言うとおりだ。
ただ、私はそうした評者の言う「弱者男性」たちがネット上で連帯し、女性叩きや中韓叩きに走ったときに、ブラザーフッドなるものを揚言していた女性が急に前言を翻す気がしてならないのだ。
女性叩きや中韓叩きに走るという仮定を不自然に思われるかもしれないが、もともとフェミニズム運動の公準は「私的なものは政治的なもの」であり、個人的な敵愾心を敷衍しないシスターフッド、ブラザーフッド存在しないし、仮に存在しても、意味がない。
また、評者は今、「生きづらさ」を描く作品が商業的に大きな成功を収めており、また、それはすべて女性を対象にしたものだと言う。
現在、世界的に女性の消費に占める割合は64%だ。人口の男女比が同じとして、女性の消費性向は男性より20%以上も高い。実際には男性の平均所得の方が高いから、差はより大きいものとなるだろう。そして、この差はあらゆる社会的な女性差別と相関している。
仮に「生きづらさ」を描く作品が商業的に成功して、それが女性に限定されたものなら、それは社会的な女性差別と連関したものに他ならない。
これは差別の原因だろうか、結果だろうか。
男性にもそうした「生きづらさ」があると言う評者の意見に従えば、性差別が特別に女性に「生きづらさ」をもたらしているため、結果的にそういう作品が女性を対象としてのみ存在していると言うことはできないだろう。つまるところ、そうした「生きづらさ」に過敏に反応し、感情論を振りかざし、問題の解決ではなく共感を求める姿勢こそが、現在の女性差別の一因になっているということになる。無論、これは男性にも「生きづらさ」があるにも関わらず、なぜか男性向けではそうした作品が存在しないし、女性である自分からしてみれば、そうした作品が存在すべきだ、という評者の意見に従えばの話だ。言うまでもなく、私はそのような意見に従うことはできない。
そもそも、『違国日記』が「生きづらさ」を描いたものだと言うなら、それはあまりに粗雑に過ぎ、作品を読んでいるといえるか疑問に思う。
『違国日記』は登場人物が登場人物がそれぞれ分節化されており、それは感情的な連帯とは一線を画している。
また、本作でおそらく評者が「生きづらさ」を抱えていると言いたいのは槙生だろうが、槙生は独力で生計を立てており、そのために朝に影響を与えることとなる(これが会社員、もしくは無職なら朝にとっては何の影響ももたらさない。ただ無職なら悪影響だけはもたらすかもしれないが)。そうしたエコノミーを営むことは、情緒的な「生きづらさ」とは対極のことだろう。エコノミーという語はもともと節倹、家計を指していた。無論、感情や資本主義を全否定するのはただの犬儒主義だが……それでも私は、「生きづらさ」を云々し、消費活動とSNSの利用に人生を費やしている人々には、「一生、『凪のお暇』を読んで、夜10時台のドラマを観て、SNSにお気持ちを投稿してろ」と言いたくなってしまうのだ。
一生、インターネットで男女問題を論じているだけで終わるお前の人生。
そもそも評者は幾原邦彦監督がこれまでシスターフッド的な関係を描くだけで、ブラザーフッド的な関係をとり落としてきたため、その姿勢を反省したという論を展開したいようだが……
幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ』で、主人公のウテナとシスターフッド的な関係をもっているのは親友の若葉だ。若葉の劇中での扱いは……観たひとなら知ってるよね?
何にせよ、そうした感情的な連帯は、副次的な支えになりこそすれ、そのものが救済になることはない。少なくとも『さらざんまい』ではそうだ。
例えばねとらぼの社員である青柳美帆子はこんなツイートをしている。
「男性が男性の弱さに寄り添えないというのはいろいろな本で言語化されていて、「ケアの役割を女性に任せていた(なので訓練されていない)」「ホモフォビアが壁になる」「弱さの吐露=男性性の剥奪になるのでまず弱さを言えない」というのがあり、つまりその人個人というより社会が悪いのです。しかし男性が(限定された部分ではあるけど)弱さを吐露できるし、男性同士で連帯できる空間があるんですけど、それが運動部コミュニティなんですよね。「男らしさ」が担保されている空間であれば弱音を吐けるし連帯できる、けど限定的なので、まあやっぱり社会が悪い。そんな2019年のエンタメの中で登場人物全員に欠陥がありコミュニケーションがうまく成立してるとはいえないけど「漏洩」という強制的な弱音共有装置により男性たちがつながっていく作品が出てきてるのはすごいことだなと思っていて、今晩最終回の「さらざんまい」というアニメなんですけど…はい…」
「さらざんまい」という現象がそうした個人間の差異を強制的にとり去る装置であることは間違いないだろう。しかし、それはあくまでそういうメタ的なシステムであって、物語を進めるための小道具であり、劇中における日常的な物事ではない。
仮に感情的な連帯を結ぶことが救済なら、やがてそのことが自己目的化するだろう。ああ、でもいますよね。一生、人間関係だけやって終わりそうな人間。
一つには「インターネットで感情的なことを言うと気持ちいい」からだ。
このことはSNSに関する無数の社会実験が明らかにしている。代表的なものだと、フェイクニュースの方が真正なニュースより圧倒的に拡散の速度がはやいということの、幾つかの統計。
前述のセジウィックは有名な『クローゼットの認識論』で作品にセンチメンタリティの属性を付与することの危険を「解釈的暴力」と言っている。同人界隈のこじらせた腐女子みたいな言葉だが、まともな文芸批評の用語だ。
もう一つには……これがBL作品であるということ。竹村和子は『愛について』でユニセックス、セックスレスが標準となった社会では、ゲイネスが記号化して商品として流通しやすくなるということを分析している。『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者や、上述の青柳美帆子氏が「男性同士の連帯!」ということを言うときは、まるで目をキラキラさせてショーウィンドウの中のラッパを眺める少年のようだ。そこにはユニセックス、セックスレスが標準となった社会で、ゲイネスを商品として心地よく楽しみたいという欲望が潜んでいる。従順で飼いならされた消費者の姿。消費活動とSNSの利用に人生を費やす人々の姿……
『さらざんまい』は女性を顧客層として想定し、そのマーケティング戦略はまず成功したと言ってもいいだろう。そのことは喜ばしい。
しかし、まさにそのためのBL作品の外観のために、作品の解釈が「感情的で気持ちいい」ものに歪曲されて、そうした有害無益な「解釈」が、SNSで論理性を欠き「共感」だけで拡散されているとすれば、それは悲しむべきものではないかと思うのだ。理性と真実ではなく、共感と幻想のインターネット。図らずもそれは、『「男」に「男」は救えるか?』の記事の評者の揚言する「つながり」を体現している。
連休使っての旅行計画に精を出すうち、気づけば既にリアタイ勢から周回遅れを食らっている今日において今更1話の感想なんて…とは思いつつ感想を書くことにした。1~2話までしか観ていないので、3話以降を既に見ている諸兄においては「何言ってんだこいつ」程度の温情を頂ければ幸いだ。なおニコニコ動画のコメントやツイッターの実況などは敢えて見ずに書いてみた(このあと見るつもり)。ニコ動で観てると、感想がだんだん「ネットミーム紹介文」みたくなっちゃうの難しいよね。
それっぽく並べてあるけど、作品の優劣は付けてない。容赦して。
~のみ見放題…対象サービスでのみ全話見放題。その他のサービスでは有料配信。
~のみ最新話無料…対象サービスでのみ最新話見放題。その他のサービスでは有料配信。
私はTVでアニメを観ない(BS見れないし、TOKYOMXもAT-Xも受信できないし)ので、配信情報はこれ以外の手段について書いている。
Netflix独占
クリスマス生まれ(多分)と火曜日生まれ(多分)の二人が火星の大都会で一緒に音楽する青春ドラマ。「カウボーイビバップ」等でおなじみナベシン監督の新作。制作はボンズ。 本作で特に目を引くSF描写。都会の中心部はいかにもSFっぽい高層ビル群な街並みなんだけど、周辺に90年代アメリカみたいな町並みが広がってたり、往来する人も含め朝昼晩と色んな表情がある。「大都会だけど金持ちや貧乏人、ホワイトカラー、ブルーカラーが入り交じる都会感」に強いリアリティがあるところが好き。細かい所だと、飲食店の注文が全部スシロー方式(店員呼ばなくておk)なのに、作中の客がみんな店員呼びつけてクレーム入れてたのリアルすぎて笑った。設定こそSFだけど、現代を舞台にしても成立するような話をあえてSF世界で展開するっていうのもリアリティを強める要因っぽい。そんなSF描写の中でも好きなのが「家出ってどうやるの?そんなこと、聞ける人もいなくて。色々とググってみたけど、やってみたら意外と簡単だった」という冒頭のモノローグ。ゆうて火星の話ってことは実質ファンタジーみたいなもんかな、という先入観があっただけにこの一言だけで「実はこの世界はリアル世界と地続きで、しかも遠い未来というわけでもなく、とりわけ若者像はほとんど変わっていないんだよ」というSF世界であることがわかる。似たようなシーンだと、セッション後「私達のはじめての曲が完成しました!イエーイ!」つってインスタにセルフィをアップするシーン。作中何度も語られる「何も特別ではない、リアルの世界にもたくさんいる、何者でもない誰か」て感じをよく表してる。本作の脚本はみんな大好き赤尾でこなんだけど、私はやっぱり彼女の関わる作品に登場する女性が一番好きなのかもしれない。先のクールで言えば「同居人は猫~」「3D彼女」が赤尾でこ脚本。ハルって女の子だよね?特に同居人は脚本・赤尾でこx絵コンテ・佐山聖子タッグによる挿話がたくさんあってめっちゃエモかった。
1話では「二人がなぜ音楽をやっているのか」という部分が中心で、音楽への初期衝動を丁寧に描いてるのが好き。「ふとラジオから流れてきた曲を聞いて涙が出てきた」とか、路上で演奏してるけど歌はなく(ハミングだけ)「ただの音の連なり」を演奏してるだけ、とか。本作に限らず「初めて新入生に軽音部が自己紹介がてら演奏を見せるシーン」とか「生まれて初めてライブハウスでライブを見たシーン」とかめっちゃエモいよね。
セッションも、最初はお互いにそれぞれの初期衝動を持ち寄って始めるんだけど、お互い探り探りから徐々にノッてきて、歩み寄っていく過程がすごく丁寧。途中でやり直してみたりとか、お互いに相手を見つめながらテンポや歌を合わせる感じとか。
それにしても演奏シーンがやばい。最近は演奏シーンに3DCGを駆使してダイナミックな動きを表現する作品が増えてるけど(ピアノの森とか)、本作は演奏シーンに限らず多くが作画アニメーション。ボンズすげえ。ギターの弦を押さえる運指見てるだけで一日が終わりそう、別のカットも、手元だけを映すんじゃなくてチューズデイの上半身全部作画してるし(大抵の楽器は全身使って演奏するものなので、彼女もギター演奏中は体をかなり動かしている。本作はそれを作画で丁寧に表現している)。
加えてギターの作画が凄まじい。まずギターケースを開けるときのアニメーションから既にヤバイ。あえて楽器の持つ神秘的な雰囲気とか、艶やかな反射とかを作画で表現してるのは京アニだけだと思ってた。
SF的大都会、ストリート系の子と一緒にストリートミュージックを、お嬢様ファッションに身を包んだ子がアコギ演奏するっていうギャップは、案外「全力でアコギ演奏シーンをリアルに描きたい」という発想からスタートしてたり?
そしてギターの音ワロタ。開放弦でベヨェーンしたときのボディが響く感じとか、ギターに指が触れたときのギュインッまでちゃんと入ってるし、セッション中なんかギターの音に限らず、服の擦れる音「彼女たちが演奏してる部屋の空気の音」が(おそらく)全部入ってる。演奏シーンは文字通り空気が変わった。
「え、歌くっそうまいやん」と思った人も多いと思うけど、本作はCVと別に歌担当のアーティストがいる。英語圏でオーディションをしたらしく、この人たちがまたとんでもなく歌がうまい。もうハミングの時点でめっちゃうまいってどういうことなの・・・
音楽で言えば劇伴はMocky。R&BやJAZZの人で、軽快なベース音がたまらない。ついビバップの菅野さんを思い出しちゃう。それにしても、音楽がテーマの作品とはいえ劇伴が多彩すぎる。1話を通して音楽アルバム聴いてるみたい。
歌で言えばEDは作詞・作曲・編曲Benny Sings。劇伴から一変してPOPS。カートゥーンっぽい絵と相まってかわいい。
すんでのところでFOD独占を無事回避
浅草の日常アニメ。「さらざんまい」の意味は、ざっくりいえばユニバース感覚のこと。それにしても「さらざんまい」というネーミングセンスよ。幾原邦彦監督による新作。制作は「ユリ熊嵐」に引き続きラパントラックで、本作は共同でMAPPAが参加している。ピングドラムやユリ熊嵐で印象的なピクトグラムを担当した越坂部ワタルや、その2作で劇伴を担当した橋本由香利が本作にも参加していて、「チーム幾原邦彦」が確立されていく感じがある。
俺が本物のかっぱをみせてやるよ!(by幾原邦彦。公式ラジオ番組が毎週配信されていて、MCが諏訪部順一&まさかの監督。制作大丈夫ですか?)とのこと。曰く「かっぱと尻子玉は切っても切れない関係。なのに尻子玉を描かないかっぱ作品が多すぎる」というわけで、本作では尻子玉が重要なモノとして描かれている。これが本物のかっぱだそうです。噂に聞いてはいたけれど、かっぱに尻子玉を抜かれるというのはかくも恐ろしいことだったのか。ちなみにエンタの中の人は「尻子玉が抜かれるときの気分は、痛み8割気持ちよさ2割くらい。あと恥ずかしい」という気持ちで演技したとのこと。ノイタミナのプロデューサーからの「勘弁してください。ノイタミナですよ?」という柔らかい拒否を押し切って作られた尻子玉搾取シーンは割と必見。
1話は「かっぱとは?尻子玉って?」を中心にまとまったお話。ピングドラムやユリ熊嵐と比べてとっつきやすい感じがある。公式あらすじも
「中学2年生の矢逆一稀、久慈悠、陣内燕太の3人はある日、謎のカッパ型生命体“ケッピ”に出会い、無理やり尻子玉を奪われカッパに変身させられてしまう。『元の姿に戻りたければ“ある方法”でつながり、ゾンビの尻子玉を持ってこい』ケッピにそう告げられる3人。少年たちはつながりあい、ゾンビの尻子玉を奪うことができるのか?!」
といった感じでかなり分かりやすい。とはいえ、本質はピングドラム、ユリ熊嵐に続く群像劇、というか愛憎劇なので結構しんどい系ではある。非常に愛が重い。ピングドラムのストーカーっ子にドン引きした視聴者は多いと思うけど、要はあんな感じ。作画部分でもキャラの表情、特に主人公のアップがすごく綺麗(中性的な顔っていう感じがよく出ていて好き)で、より群像劇みが強い。冒頭の主人公が走るお芝居すごい。
ユリ熊嵐と比べると、あっちが「隔世」なのに対してこっちは「現実世界(浅草)」という舞台設定の違いがある。描かれる浅草の描写もすごくリアルで、いわゆる「世界的な観光地」ではなく「昔ながらの下町っぽさ」に焦点を当てている感じがすき(背景:スタジオパブロ)。ぐちゃぐちゃした看板まで再現してて、三ツ星カラーズ並みに生活感がある。そして登場する場所が、地元民ならではのチョイス。監督自身が若い頃から浅草で遊んでたらしく、その頃のイメージを元にアニメの舞台を浅草に決めたらしい。浅草寺などの観光地より雑踏(街を歩く人、通勤の車とか)によって街の雰囲気を描いているところとか、生活圏にあるテーマパークこと「花やしき」が出てくるとことか、地元民らしい描き方だよね。
そして例の尻子玉(尻子玉と書いて「よくぼう」と読む)搾取から始まる一連のシーン。みんな何回くらい観たんだろう。MAPPAが関わってるだけあって凄まじいアニメーションに仕上がっている。劇中歌とともに欲望搾取~浄化までシームレスに続くシーンの中毒性やばい。過去作と比べ、初めから終わりまでキレイにまとまってて完成度が非常に高い。「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」のレヴューと似たような感動を覚えた。またアクションをするのが人間ではなくかっぱやモンスターなので、より一層爆発力というかファンタジー感が加速しているのも好き。
挿入歌でいうと、ユリ熊嵐と一変して本作はほぼ登場人物が男性なのが印象的で、挿入歌も今の所ボーカルが全員男性。特に2話挿入歌「カワウソイヤァ」がすごい好き。余談だけど、アフレコ時点であのシーンはアニメ化用の実写映像資料だったらしい。ちょっと観てみたい。
EDは「青春ブタ野郎」OPでおなじみThe Peggies。青ブタもこれもしんどい群像劇なので、このバンドサウンドがすごく合っている。
ところで、最後の「フィクションです」的なキャプションは一体どういう意味なんだろう。「まあ、かっぱなんて存在しないんですけどねwww」とか「実際のかっぱはこんなんじゃないんですけどね、へへへ」とか?かっぱが非実在みたいなメッセージに見えるから不適切じゃない?
ゴブリンスレイヤー。英題は”DEMON SLAYER”。エミヤさん家に引き続き、ufotable肝いりの新作(ユーフォーテーブルって読むのね、初めて知った)。テーマは「動く浮世絵」とのこと。大正時代の日本を舞台に、鬼殺しをするお話。制作体制的にはufotableのアニメ「テイルズオブゼスティリアザクロス」の布陣。舞台こそ違えど、壮大なファンタジーっぽく仕上がっている感じは似てる。特に壮大なBGMの使い方とか、映画かな?これ絶対映像に合わせて作曲してるやつでしょ(やってるってラジオで言ってた気がする)。オケ~雅楽までなんでもありな感じが聴いてて楽しい。
近代の日本を舞台にしたアニメの中でも特に地方(山の中)が舞台のアニメといえば「ゴールデンカムイ」が似てるかも。背景美術でいうとあっちは「美しい自然を感じる」っていう印象なんだけど、本作は背景が全体的に黒っぽくて薄灰色に支配された不吉な感じ。闇=鬼の領分、みたいな緊張感がある。そういう意味では「どろろ」に近いのかも。金カムは実質ゆるキャンなので、自然の描き方は趣向がかなり違う。金カムが「自然怖い」なのに対して本作は「鬼怖い」だし。野生の動物が登場しない感じからもそういう意図があるのかな。
で、何その背景の書き込み。ユーフォーテーブルの背景(たぶん自前)って、エフェクトを自然に盛り込んで多角的に映す演出をするけど絵っぽさを残してるというすごい技術を使ってるよね。2話の修行シーンとか特にやばかった。主人公が背景の中にちゃんと存在して、立体的に生えてる木々の中を疾走しているようにしか見えない。でもキャラデザはテイルズオブゼスティリアザクロスと違い、輪郭線に特徴がある平面的なデザインになっている(浮世絵みたいな感じ)。そんなキャラが縦横無尽に画面を駆け巡るアクションシーンすごくない?最近だと「スパイダーバース」とか。あれは更にすごかったけど。
1話はゴブリンスレイヤーで言うところの前日譚で、「鬼って何なん?」みたいな話が中心。いわゆる妖怪等と違い、鬼がゴブリンくらい生き物してる。金カムではヒグマが神様の化身みたいな扱いで人間を襲ってたけど、あれくらい怖い。おまけに人並みに考える上に喋るしほぼ死なない。散発的に現れる感じはゴブスレで言うところの「落ち延びたはぐれゴブリン」なのかな。強烈なヌルヌル作画ゆえ、鬼がとても肉肉しくてキモい。「甲鉄城のカバネリ」のカバネくらいキモい。
そんな厳しい世界を生きる主人公(CV.花江夏樹)の、鬼気迫るセリフや息遣いがめっちゃ好き。ゴブスレさんは鎧に身を包んで常に平坦な口調だったのに対して本作の主人公はすごく感情表現豊か。「4月は君の嘘」を見てから彼の演技が大好きなので、またアレを見れるのが嬉しい。演技で言えば、鬼頭明里演じる禰豆子かわいい。基本的に山田たえ状態なんだけど、呼吸やうーうーだけで感情の起伏(非常にピーキー)や体型の変化を表現する感じとかめっちゃ好き。特に2話の見せ場では音楽とアニメーションによる強烈な緩急も加わってすごいことになってた。ご飯を我慢するシーンすごいよね。癒やされる。
の続き。
てなわけでー。テーマ性とか物語性とか、そういういつも以上に堅い話はノルマクリアしたので、こっからは書きたいこと書きますよー。
ぶっちゃけて言えば、前述した脚本とかね、監督は脚本家に丸投げしてたんじゃねーかと思います。正直言って観客である自分はある種のアリバイ作りを感じました。「批評家に突っ込まれるような部分はちゃんと作っておきましたよ、これで文句ないでしょ」みたいな。
自分も前編で喪失と回復とか継承とかそれっぽい感想書いたんでノルマクリアー。そういう意味で共感しますよっと。
じゃあだとして、この作品監督は何をしたかったのよ? なにがドライブエンジンなのよ? といえば、それは変態(フェチ)っすわ。
本年いろんな映画がありました。素晴らしい傑作映画、佳作映画、名作、快作、問題作。そしてうんこ漏らすほどの駄作。でも年末になってこれほど「やばい」映画が来るとは思わなかった。
薄々そういう部分あるかな? と思っていったわけですが、度肝抜かれますよまじで。そういう趣味のない人には全く刺さらないと思うけど。興味ある人にとっては、鼻血ブーです。
そもそも舞台背景(現実世界側)はヴィクトリア朝のロンドンなわけです。おそらく爵位持ちのストームボール家がタウンハウスでのクリスマスの飾り付け準備ーからのー、名付け親ドロッセルマイヤー(眼帯をした黒人のイケメンすぎるおじさま)邸宅に移動。
バラ色からブルーグレイに沈みゆくちょっと煙っぽいロンドンの夕暮れを移動する馬車。街を行き交うあらゆる階層の人々!
ドロッセルマイヤー家では係累おおよそ数百人を招いたクリスマスの催しが今まさに開かれようとしています。ヴィクトリア朝の舞踏会です!
スターウォーズのクローン兵を見てがっかりした人いませんか? 自分はがっかりしました。そりゃね、数万人が現れての合戦シーンは迫力あるって言われればそうかもしれないですけれど、でもCGでそれやるって、コピペじゃないですか。ウルトロンのときもそうですけれど、大軍勢、大群衆は3Dモデル使い回して同じ姿の軍勢がうわーって押し寄せるわけでしょ。すごいけど、要するにそれってのっぺりした画面でもある。
でもこの舞踏会はコピペがないんですよ。全員色とりどりの、贅を凝らしたドレスやらタキシードやらなわけです。どんだけスタイリスト動員して、服飾に予算投入してんだよ、鼻血出すぞこら。
主人公クララがね、おしゃれが苦手だっていうこの娘が、おねいちゃん(素が出てきた)に髪の毛とかしてもらって、すみれ色のオーガンジーのドレスで現れるわけですよ。オーガンジー。髪飾りは多分朱子織り。
分かる人には「オーガンジーの透け感のあるシュークリーム袖」という説明だけで、その可憐さが伝わることでしょう。
クリスマスパーティーのプレゼント交換会で館の奥深くに迷い込んでいくクララがたどるその通路、ろうそくのキャンドルでゆらゆらと照らされる邸宅の暗がりの美しさ、赤い壁紙には黒いフクロウのテキスタイルがやがて黒いネズミのそれに変わっていく。
現実世界の物語案内人であるフクロウ(ドロッセルマイヤーおじさまのペット)から、幻想世界の物語案内人であるネズミ(ねずみ王マウスリンクス)へと引き継がれていくその暗示を、美術レベルでやってのけるその凄まじさ。
暗い木の洞を抜けて館の暗がりから抜け出たその先は、幻想世界の「クリスマスの森」。雪で白くデコレートされた、しかし緑が目に染みる清冽な森のなかを、泥棒ネズミを追いかけるクララのすみれ色のドレス。ネズミがダイブしてぱっと舞い散るザラメのような雪の結晶の幻想的な美しさ。
めっちゃイケメンの黒人青年。赤い軍服に金のモール飾り。腰にはサーベルで騎兵兜。すべてが完全にフェティッシュ。完敗。映画鑑賞中の感情をあえて言語化すると「ぎょぇわぁ!?」って感じです。
この映画の服飾はジェニー・ビーバンっていうおばちゃんがやってるのだけど、明らかに変態。っていうかおばちゃん『マッドマックス 怒りのデス・ロード』でモヒカン衣装を量産してたじゃん? そんな二面性を持っていたのか。流石に度肝を抜かれたわ。おばちゃん最高や。
もしくは美術ガイ・ヘンドリックス・ディアスが犯人なのか? 『アレクサンドリア』もかなりキてたもんな。
幻想世界にいっちゃってからは、その病的な美術追求がとどまるところをしらない。捻くれて枯れ果てた真っ暗な「遊びの国」の森には、鮮血のように赤い毒キノコが咲き乱れているとか、廃墟化した遊園地の回転木馬、グランギニョール、道化のハーレクインの禍々しい美しさ。
巨大な城! 瀑布に差し出される水車と歯車! 真鍮の道管の迷路と地下通路に、濡れてベッタリとした湿気。輝かしい水晶天井に照らされる螺旋階段。
回想シーンで母に慰められる少女クララが着ている生成りのエプロンドレスの白い生地には、藍色のスズランの刺繍が散らされていて、これってもう完全にカネコイサオが『ワンダフルワールド』で夢見た世界なわけですよ。っていうか、全体的にカネコイサオでしょ。
10年代も最後半にはいっていまさらそんな角度から奇襲受けるとは思わないじゃないですか? いくらヴィクトリア朝だとはいって、『ワンダフルワールド』のフェチズムが立ち現れるとは、キン肉マンフェニックスのあふれる知性でも予測出来ないわけですよ。
色彩設計がほんとうにほんとうに美しい。ローズガーデンのヴァイオレットベースに茶色のラインとか、オリーブグリーンに熟れたオレンジの差し色とか。ため息が出るとかじゃなくて、鼻血が出るタイプの美しさ。
少女趣味がオーバードーズでフェチになってしまった病的な完全主義の美術背景の惑乱。
もうね、福井晴敏に宇宙世紀が殺されるとか言ってる場合じゃないです。ディズニーにカネコイサオが殺される。なお、もらい弾で少女革命・幾原邦彦も死ぬ。
なぜなら遊びの国へ金の鍵を取り戻すため軍を率いて旅立つ王女クララがまとうのは、黒の軍服(金モール)に赤のロングスカートだから。このロングスカート、品が悪くなりそうなところなのに布の質感と裾の縫い取り刺繍だけで男装めいた凛々しさをだしてるのだ。やばい。やばみ。
そのロングスカートから革のブーツでキックするクララ(なお、このキックが主兵装)。
この映画、興行的には失敗だと本国では判断されているのですが、当たり前ですよ。だって制作費100億超えですもん。『ボヘミアン・ラプソディ』の二倍以上でしょう。見た感じ、そのほとんどを美術と背景に突っ込んでいるようにみえる。出演者の演技も悪くないけれど、目立った名前はキーラ・ナイトレイくらいで他はあまり大きなギャラは発生していないのじゃないかな。
(このキーラ・ナイトレイ演じるシュガープラム(金平糖の精)は、かなり演技が良かった。ちょっと頭の弱いアーパーでふわふわした妖精キャラをキーラ・ナイトレイがやっているのだけど、キーラ・ナイトレイだと気づかなかったですよ。この味は往年に美人だった頃のシンディ・ローパーが醸し出していたあれじゃなかろうか?)
とにかく、画面のどこを見ても、美術的な意味で隙がない。コピペで穴を埋めておけとか、それっぽい小道具をおいてごまかしておけとか、撮影時に陰影をつかってしょぼいのを隠せとか、そういう気配がひとつもない。
監督もしくは美術の美意識が、一部の隙もなく、「この世界観でこのカメラアングルで、この角度を撮ったときには、ここにはこれがないとだめでしょうお前らなんでそれわからねえの!?」と言わんばかりの画面が、延々と、延々と続く。
それはたとえばパーティーシーンでテーブルの上のグラスがこちらのゴブレットは真鍮に銀メッキだけど、あちらのゴブレットは磨いた銅に幻獣の鋳造とか、そういうレベルで気合が入ってるにも関わらずそのゴブレットは2つ合わせても画面の面積の1%以下で5秒も写ってないとか、病気としか言いようがない。
変態が怖い意味でやばい映画なのだった。冒頭に言った+50点はまさにこの変態性に対する評価なのです。もうちょっと金が出したいのもこの部分であり、実を言えばこの鼻血は、パンフを購入してもDVDを購入しても払拭できる気がしません(画面小さくなると美術の細部がわかりづらくなるので)。究極的にはエルミタージュ美術館にでもいかないと、この興奮(というか発作)は解消されないとおもいます。
そんなあたりが『くるみ割り人形と秘密の王国』の感想でした。この映画感想後編がわかった方には強烈におすすめです。それ以外の人にはそこそこ映画だったと思います。
この映画のもうひとつの特徴である「量産化ピエール瀧軍団vsドルイド文明の巨大人形兵器」という側面には触れませんでした。この部分に対する評価は他の方に譲ります。
事前のネットの反応見てると、もっと兄になることを嫌がるくんちゃんに対して、
周囲が毒親ぶりを発揮してよき兄へと更生される物語を予見していたけど
実際はくんちゃん本人が家系図の人々との出会いの中で自発的に「兄」という役割を受け入れる物語だった。
建築物の奇妙な構造は確かに奇妙だったが、それは父親が建築家だからということであり、
また母型の祖母から奇妙であると劇中でも指摘されているので気にならなかった。
この作品だけを見て細田守の家族観に憤っている人は小町的な言説に毒されすぎだと思う。
それとは別に同じパターンを反復し、かつプライベートに寄りすぎている物語はいささか退屈であったし、
くんちゃんの挙動に対して子共の持つ可愛さや愉快さよりも、気持ち悪さや不快感が先に立ってしまうのは問題だった。
また時間移動が実際に行われているたしいファンタジーの設定も後付感があり、
デレパで募集してたのを考えてみた。
パクって応募してもいいよ。
・メイン登場人物
・メイン登場犬
・あらすじ
犬を飼っているアイドルが、自身のペットの色々な面を披露する四コマ漫画。
よい犬、わるい犬、ふつうの犬の部分は一本ごとに担当するアイドルが変わるが、
毎回落ちの押井守の部分は宮崎駿が担当し、起承転結の結がワンパターンになりがちなのが難点。
・メイン登場人物
相原『雪』乃、島村卯『月』、涼宮星『花』、宮村優子に似た女優、山賀博之
・あらすじ
雪乃、卯月、星花が三姉妹役の学園モノで、末っ子の星花が女の子のストーカーにつきまとわれているのでは? と不安になるお話を三人が演じる。
しかし、途中からその役を演じている三人が、監督に演技指導を受ける場面になっていく。
監督から「お前らはこれを見て勉強しろ!」と渡されたのは『新・変態よい子通信』というアダルトビデオであった。
そして、時は過ぎ西暦2018年、監督は風邪をひいてしまい、昔いじめた山賀博之のことを思い出し、ガイナックスと和解するのであった。
・メイン登場人物
・あらすじ
ポアロマンスリーライブに出演した佐々木千枝は、伊福部崇にスカートをめくられるなどのセクハラを受ける。
「恋はしたことあるの、いややだとんでもない、本当に本当なの、嘘かもです、てんてん」の部分、今聞いてもとてもいいので、アイマスでカバーしてほしい。
関係ないけど、あの辺繋がりで、るーりぃーも入れてさ!
・メイン登場人物
・あらすじ
いろいろあって、原田美世と島村卯月の間に愛が芽生えることになるはずだったが、原田美世は車の運転が上手だったため、芽生えずに終わる。
なお、2ページしかないが、単行本では4ページになるので安心して芳崎せいむ、無粋が浜じゃないよ!
・メイン登場人物
・あらすじ
水野翠がマクドナルドでハンバーガーを食べて具合が悪くなり、環境ホルモンの影響で女性になった島﨑信長のへその緒を飲み干し、硲道夫の部屋で難解な数学の講義を受ける。
何が何やらだが、恐るべきことに殆ど原作そのままなので、正直毎回アルジュナをネタにするのは、ネタにしてる方の狂気度合いの方が低いような気がしてならない。
とりみきあたりが、当時の彼を振り返ってほしい。
・メイン登場人物
双海真美、双海亜美、松山久美子、文芸部の前川みく、依田芳乃(高田憂希)、西園寺琴歌
・あらすじ
大人気アイドル双海真美は、普通の中学生双海亜美の返信した姿であった。
そんな中、ピアニスト志望の松山久美子と真美が出会うところから話が始まり、
物語は亜美が「サヨナラ真美の久美子さん」」とひとりごちるところで終わる。
というラブストーリーと、文芸部の前川みくと付き合っているが彼女の依田芳乃(高田憂希)と、西園寺琴歌の声が似ていることから……
あれちょっとまって!
私のすてきなピアニストって脚本家伊藤くんじゃなくね? ごめん! なんか混合してたわ! これ成り立ってないわボツで!!!
えーっと、エンディング曲のギターを売れる前の松本沙理奈さんが弾いてるんだよ。
・メイン登場人物
・あらすじ
星団歴2780年、ハスハ統一戦争のため蘇生したカイエンを制御するボルサ・バスコ。
しかし、ハスハの地を統一するという人と人の争いに剣聖を担ぎ出す必要性とは何だったのだろうか。
純血の騎士よりもさらに濃い騎士の血を持つカイエンの力を借りなければならないほどの争いとは。
死んだはずのハリコンがまだ生きているという事実、大国フィルモアの元にも生まれる純血の騎士慧茄、未だ存命のハイアラキ、後にカイエンがフロートテンプルにデモンが襲来した際に何かを感じていたこと、一体ハスハ統一戦争とは何と何の戦争だったのだろうか?
そして、2810年に天照はミラージュ騎士団を結成することになるなど、星団歴2000年台後半にはまだ謎が多い。
そんなこととは無関係に、永野護が望月聖の、川村万梨阿が速水奏のコスプレをしてセックスをする漫画である。
なお、幾原邦彦が道明寺歌鈴にコスプレして乱入する続刊も出るぞ!
・作家
・あらすじ
『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』(るろうにけんしん めいじけんかくろまんたん)は、和月伸宏による日本の漫画作品。1994年(平成6年)から1999年(平成11年)にかけて集英社の『週刊少年ジャンプ』で連載。アニメ化・実写映画化などと様々な形でメディアミックスも行われている。略称は「るろ剣」。2017年(平成29年)9月からは続編である『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚・北海道編-』が『ジャンプスクエア』10月号より連載中[1][注釈 1]。
全24話を半分の12話ずつに分けての配信だったのだが、とても面白くて後半の配信が始まるまで待ちきれず、配信されると一気に最後まで見た。
ところどころ矛盾点に見える箇所や明かされない謎があったり、完璧ではないかもしれないがそれでも大いに楽しめた。
「生存戦略ー!」の号令から始まる謎空間の演出や、登場人物同士の関係、実際の事件をモチーフとして扱った点など、好きな要素がたくさんあった。
また、登場人物の中では特に苹果ちゃんが好きで、序盤のイカレストーカー野郎の時からツボだった。
ところでなぜ、私は少し気になる箇所があっても楽しめたのだろうか。
いや、気になる箇所があったら楽しめない、というわけではない。
気になる点はあったけどなぜ一気に見てしまうほど楽しめたのか、ということについて少しだけ考えてみる。
簡潔に言えば、飽きさせなかった、という点が大きいと思う。
輪るピングドラムにはピングドラムとはなんなのか、桃果の日記の秘密とは、など多くの謎が散りばめられていた。
この「物語中の謎を追う」というのはかなり視聴者を飽きさせない力が大きいと思う。
あとは、引きだ。輪るピングドラムは引きがよかった。
かなり上に一気に最後まで見たと書いたがそれはなにより引きが良かった、すなわち続きを見たいと思わせる力が大きかったからだ。
続きをみたいと思わせることも、飽きさせない要素のひとつだと思う。
され竜は、創作を読むことでは人は救われないということを繰り返し言っている。
よく言われるリョナ描写とか人が死にまくる展開とか鬱世界観とかよりも、この、本やアニメやその他創作では、人生がうまくいったりするようなことはいっさいないという主張がされ竜の核だなって私は思っている。
され竜の登場人物に
素晴らしい人格の人間なんてほぼいなくて(いるんですが、死んでるか、その巻あるいは章で、死にます)
誰もがどうしようもなく腐った害虫みたいな思考回路でどうしようもなく無様な生き恥をさらし
それでも、ときどき、たったひとつの善をなし、その一瞬を胸に抱えて、死んでいきます。死ぬんかい
大学時代に鬱をやって薬を飲んで治した。
その頃の詳細なんだけど、
ひがな一日、手の甲に塗ったアイシャドウのラメを眺めながらpentatonixとhome freeとgleeの動画を見ていた。
小学校くらいから、人はどうせ死ぬからなーという考えが頭にあって、
どうせ死ぬ→いつでも死ぬ時期を選べる→トリマもうちょっと生きてみようという式にしたがって生きてきた。
どうしようもなく生きていることそのものがつらいなという認識になった瞬間から朝起きることができなくなり、
気がついたら5PMになっているのを半年やった。
お医者さんに行って、「自殺したいと思うことは?」と聞かれて「ありません、自殺したらどうなるかなと考えることはあるんですが、考えた結果するべきではないとなるので、自殺したいというのは、ありません」と答えたらその数分後には鬱病診断出た。
薬でなんとか大好きなされ竜を読めるくらいまで回復して、
され竜の登場人物の、クソ溜のなかでもオレァ善いことをするぜみたいな描写を何度も読んで、
善でありたいなあとぼんやり思った。
正しいみたいなのはその物差しが時代でバコバコ変わるのでもういいけど、それでも、善でありたいな。
され竜に救われた話かというとそうでもなくて
そもそも、人はどうせ死ぬみたいなのが自分の原点になっちゃったのもちょい、され竜の影響じゃあねえかなというのが正直
あるので
(どうせ死ぬ、認識としてはこれ以上なく合ってるんですけど、私は対人関係で嫌なことが起こる度呟いていたので、あんまりやり過ぎるとダメよね)
まあされ竜がなかっても私はどうせ同じことで悩み同じ痛みを感じ同じように復帰していたんだろう
中学生時代わたしが何回誘ってもデュラの原作本を読んでくれなかった女どもがアニメ化してすぐにシズイザだかイザシズだかのケータイ小説サイト作ってたのがマジでトラウマだから、
され竜アニメ化に一瞬アレ反応出掛けたけど、
でも
できるだけ多くの人が
され竜を読んでくれて、楽しんでくれたらいいよね
アニメ作るのは、総監督:錦織 博 監督:花井宏和 シリーズ構成:伊神貴世 キャラクターデザイン:北尾 勝
といった人たちで
同級生にサリンの日に生まれた友達がいる1995年生まれにはピンドラはドンピシャで私たちの物語だったから…
錦織さんは寡聞にしてぜんぜんなんですがwikiの「幾原邦彦に一方的に好かれている」で信頼ゲージ満タンになった
示してくれたされ竜が
カウボーイビパップ(海外でも人気。)
少女革命ウテナ(その後に大きく影響を与えた幾原邦彦の代表作。細田守の出世作でもある。)
GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊(押井守の代表作)
新世紀エヴァンゲリオン(90年代と庵野秀明の代表作。)
おにいさまへ……(個人的にはエヴァとウテナ入れるならこれも入れないといけないと思うんだけど、詳しくないのでなんとも。)
機動警察パトレイバー the Movie(メディアミックスの寵児、パトレイバー。そして実写的なアニメの代表作。)
AKIRA(今後もこれを超えるほどの作画アニメは出てこないだろう)
超時空要塞マクロス(80年代のオタク文化を代表するロボットアニメ)
機動戦士ガンダム(プラモデルや、オリジナル設定を考察するといった新たな楽しみを生み出した。)
未来少年コナン(宮﨑駿初監督作。後のクリエイターに与えた影響は計り知れない。)
ど根性ガエル(現シンエイ動画であるAプロと芝山努の代表作。)
太陽の王子ホルスの大冒険(高畑勲初監督作品であり、宮﨑駿の出世作でもある)
白蛇伝(東映動画の原点。東映でのアニメーション制作の体制はこの作品のために整えられた。宮﨑駿はこれを見てアニメ業界を志した。)
桃太郎 海の神兵(戦時中のプロパガンダアニメ。しかしこれを見た手塚治虫が感激してアニメ制作を志すきっかけとなった。)
ここまで考えて飽きた
というかコレ入れるならアレも入れなきゃじゃね?みたいになって決められない。
あとの3つはみんなで考えてくれ。
まだ見たことのない人は是非見て欲しい。
熊が人並みの知能を持って人を襲うから人と熊の間に(物理的な)壁を作りました〜なんて突拍子もない設定。最初は舐めてんのか?って思うかもしれない。百合萌えアニメじゃねーかって思うかもしれない。たとえ最後まで見ても。
でも見ることを強く勧める。幾原邦彦監督は毎回大雑把に言うと愛をテーマにした話を書くので、それを念頭に入れておけば話が分かりやすくなるかもしれない。考えすぎるのはお勧めしない。
勧めたいけど勧めるのが難しい作品だ。
大雑把なテーマは愛だと言ったけれど、具体的に何なのかはまだ自分でも理解している自信がない。親愛?恋愛?敬愛?博愛?見る人にとって違う気がする。ライフベア?以外に男性が出てこないため、ジェンダー的なテーマを含んでいると言う人もいる。見る人にとって様々な捉え方ができて、おそらくどれもが正解。そういう作品だ。
気をつけて欲しいのが画に惑わされないこと。ライフセクシーというキャラが結構キーになる事を言うことが多いのだが、そういう場面に限って、おっぱじめようとしているJKたちが現れて思考を邪魔してくる……などセリフに集中させてくれない。とにかく気をつけて欲しい。
百合が好きな人、まぁ見れる人、性別なんて関係ないわって人、なんでもいいから百合に抵抗がない、時間のある人に言いたい。ユリ熊嵐はいい作品です。
「セカイ系」という言葉の由来を調べると、個人ブログの記事に載った幾原邦彦の発言にたどり着く
http://blog.livedoor.jp/personap21/archives/53990398.html
http://kanshari.blog.fc2.com/blog-entry-15.html
幾原 何をもって漫画というのかっていうのははっきり言えないんだけど、ひとつには、ものすごい近いところと、ものすごく遠いところしか描かないって事があげられる。最近の歌謡曲って、みんなそうじゃない。彼のYシャツがどうとかという身近なところか、あとは宇宙の果てとかっていう、想像でしか語れない遠いところしか歌わない。中間のやばい距離の部分は絶対に歌わない。それは漫画の世界だろうって思う。
セカイ系と呼ばれる二大アニメ「エヴァ」と「ウテナ」を作った監督たちが、まず初めにセカイ系の定義を語っていたのだ
しかしその定義はもちろんセカイ系という言葉に向けて語られたのではない
ここでいう「漫画」とは当然コミックのことを言うのではなく、そこから派生した文化であるアニメなども含めた意味だろう
もっと言えば「いわゆるオタクコンテンツ」のことで、劇画だとかアートアニメーションは含まれない。
そう、エヴァやウテナ以前から漫画もアニメもセカイ系だったのだ
そりゃそうだ
元来漫画やアニメの対象であった子供達には、ややっこしい社会の部分など分からず、
求めるのは感情移入できる魅力的なキャラクターと、画面を覆う大スペクタクルである。
極端な話、東映大長編の時代からこちら、アニメの大半は「子供が世界を救う話」なのだ。
凄いってどういうことさ。
だってもう、庵野がゴジラの時点でギャグとして成立してるんだから、そりゃ面白いんだろうけど、
そういう前評判を超える何かがあるわけ?
でもさ、正直「庵野が監督」という要素を伏せても面白いもの、つまり、普通に映画として面白いものなんて、見たくないんだよね。
こっちはあの庵野がゴジラを撮るっていう、内輪ネタで盛り上がりたいだけなんだから
というわけで、どうしたら凄いのか考えてみた。
これが一度に全部起こったら、凄いと思うわ。
名作駄作問題作など問わず、なんとなくみんなに見てほしいものを挙げていく。
この映画の話で盛り上がりたいって感じのノリで。
TVシリーズの劇場版とかもあるので単体で見て面白いかとかもあまり気にしてないので御承知を。
寝たきり老人・高沢喜十郎はある日突然最新型介護ロボット「Z-001号機」のモニターに選ばれ、ボランティアで介護を行っていた看護学校生の晴子はお役御免となるが、介護ロボットに全てを世話される喜十郎をかわいそうに思い、彼の救出を決意する。ところが介護ロボットが暴走をし始めて……。
という高齢化社会を痛烈に批判したSF作品……かと思いきや、作品自体は完全なるコメディで、見ていて超楽しい。
大友克洋がメカニックデザイン、江口寿史がキャラクターデザインという豪華なコンビで、作画的にも沖浦啓之、今敏、黄瀬和哉、井上俊之、鶴巻和哉、本田雄、森本晃司、大友克洋、中澤一登、松本憲生……と挙げきれないほど有名なアニメーターが参加していて、クレジットだけで作画オタクはご飯3杯は余裕である。
江口寿史によるキャラクターがとてもよく、まず主人公の晴子がめちゃくちゃかわいい。そして元気な老人たちの存在感、さらには晴子の友達の絶妙なブサイクさ。
80分という時間も絶妙で、気軽に見てほしい。社会問題を扱いながらも妙に心が温まる不思議な作品。
いわずと知れた夭折の天才・今敏監督作品。彼の監督したアニメ映画は4つしかなく、1日あれば容易くファンを名乗れるのですぐツタヤで借りてファンになりましょう。
彼の映画はどれもが90分前後という上映時間でありながら、非常に濃い。
その中でも東京ゴッドファーザーズは視聴後の多幸感にかけてはピカイチで、一番エンターテインメントとしてわかりやすい作品と言えるかもしれない。
次々と転がり込む御都合主義のような幸運。これが気持ちいいのだ。
メインキャストを務める江守徹、梅垣義明、岡本綾といったメンツも、非常にいい仕事をしている。
近年では四畳半神話大系やピンポンなどの監督で有名な湯浅政明の初監督作品。初監督でありながら、文化庁メディア芸術祭でハウルの動く城、イノセンス、スチームボーイをおさえて大賞を手にした。
何よりすごいのは映像で、イマジネーションに溢れたその映像はどんな言葉よりも説得力がある。
後に著作・四畳半神話大系が湯浅監督によってアニメ化されることになる森見登美彦氏も、「迫力でちょっと怖がった」そうである。
最初はその独特な世界に戸惑うかもしれないが、終盤の脱出シーンを見ればもはや何も文句は言えまい。
説明不要のうる星やつら劇場版。押井守監督の最高傑作として名前が挙がることも多い。
映画としての評価は大変に高いが、これがうる星やつらなのかといわれると、別の何かなのかもしれないという感じがしてくる。
お祭りのわちゃわちゃの中に、不意に違和感を感じさせるものが入ってきて異世界に入り込んでしまったようになる。そういう描写がたまらなく好きである。
意味がなさそうでありそうな、哲学的な長セリフも本作の特徴で、言葉にできない不思議な魅力が詰まっている。
宮崎吾朗の才能を信じてもいいかもしれない、と感じさせてくれた一作。ジブリファンも本人もどうしても宮崎駿の影を追ってしまわざるを得ない環境の中、よくこれを作った。
そもそも脚本に宮崎駿が参加しているし、プロデューサーも鈴木敏夫だし、どう考えても往年のジブリ作品の系統として作られたのは間違いない。
おそらくは宮崎吾朗が制作を完全に仕切っていたわけではないのだろう。しかし、映画の端々には宮崎吾朗の味が感じ取れる気がするのでこの映画は何かすごい好きである。
カルチェラタンの描写には明らかに押井守の影響が感じ取れるしね。
『ローニャ』国際エミー賞子どもアニメーション部門受賞おめでとうございます。
眉村卓の小説『ねらわれた学園』を原作としたほぼオリジナルのアニメ。
原作のSFっぽい感じは薄まっているが、逆に薄めたことでSF的な部分がわかりにくくなった。
『あいうら』『灰と幻想のグリムガル』でおなじみの監督:中村亮介、キャラデザ:細居美恵子のコンビと言えば映像目的だけで見たくなる人もいるだろう。
ふとももに注目せよ。まずはそれだけでいい。
健康的なフェティシズムに溢れたキャラクターと美麗な映像を堪能あれ。
ポニーキャニオンが開催したアニメ化大賞という賞で大賞を受賞した『D.backup』を原案にしたオリジナルアニメ。
原案の拡張性ある世界観と、(おそらくは)予算的にギリギリだった1時間という枠と、とにかくキャラクターのかわいさを押し出したいポニーキャニオンと、映像の美しさを追求したい石浜真史監督とが相乗効果を生んだような生んでいないような作品。
序盤はありがちな魔法少女的なSF作品かと思うかもしれないが、終盤には急展開が続き、頭が追いつかない。
それもそのはず、脚本の志茂文彦によれば、映画の後半部分はほとんどコンテ段階で監督が構成したものらしいのだ。
序盤の丁寧な世界観説明と比べて、終盤がややこしいのは、監督がセリフに落とさず映像に込めた部分が多かったからなのである。
さらに、後のトークイベントでは、コンテにすら描かれず、スタッフにしか伝えられていない裏設定が大量にあることが明かされ、「偏差値70のアニメ」との烙印が押された。
監督:舛成孝二、脚本:倉田英之、キャラデザ:石浜真史という『R・O・D』トリオで制作された劇場アニメ。
舛成・倉田は『かみちゅ!』というTVアニメを手掛けていて、劇場公開に合わせてNHKBSでかみちゅ!が再放送されたりBDが発売されたりした。
黒沢ともよの声優デビュー作品でもある。当時はまだ子役であった。
夏休みの子供向け映画といった趣であったが、子供に136分は明らかに長すぎる。ある程度のアニメファンならばこの尺は耐えられるし、楽しめるだろうと思われる。
作画がぶっ飛び過ぎていて、作画的にはスペースダンディ劇場版とでもいうべきレベルである。
そして、主人公の少女の健康的なエロさがなんとなくにじみ出ていて、制作者はロリコンなのか?という疑惑が湧いてこないこともない。
海外の映画祭に出品されたりして、結構アニプレックスが期待していたのが窺えるが、やはりなかなか商業的には上手くいかなかったようだ。
上映時間の長さや、超新星爆発についての描写などの細かい部分を除けば、十分に面白い作品であるといえる。
3時間弱。長い。が、しかし、エンドレスエイトを経験したファンの不安を一掃するほどの高クオリティでアニメ化された作品である。
それまでの京アニの集大成といってもいい。内容については特に言うことはない。
けいおん!で注目された山田尚子監督によるオリジナルTVアニメ『たまこまーけっと』の劇場版。
『たまこまーけっと』ではいまいちヒットせず微妙な評価に留まっていたが、これが公開されるとたちまち好評となり、文化庁メディア芸術祭アニメーション部門では新人賞を受賞した。
TVシリーズは、舞台となる「うさぎ山商店街」の絶妙で温かな空気感を楽しむ作品であったが、本作ではわかりやすくラブストーリーにしたことで、デートムービーとしても見られる非常に間口の広い作品となった。
どちらの方が良かったとかではなく、単なる魅力の伝わりやすさの違いである。
とはいえ『たまこラブストーリー』は卓越した作品であり、山田尚子の代表作として語り継がれるのは間違いないと思われる。
『イヴの時間』などで知られる吉浦康裕監督作品。彼の作品の特徴は何といっても「発想」にあると思う。
独特の間も特徴ではあるが、基本的に彼の作品はある「ギミック」が作品の根本となっていることが多い。
なので、下手に前情報を入れて見に行くよりは、何も知らずに見て新鮮な驚きを感じた方が良い。
この作品もあるギミックが重要なのでそこを面白いと思うかどうか、そこが評価の分かれ目である。
つい先日無期限の休養を発表したヤマカンこと山本寛監督の、いわずと知れたアイドルアニメである。
彼についての悪評やバッシングは絶えないが、個人的には彼の作品は好きである。
この『Wake Up, Girls!』というシリーズは、まずTVシリーズの前日譚として『七人のアイドル』という中編映画があり、続いてTVシリーズ全12話、そして続劇場版の中編2作といった流れである。
TVシリーズ放映時は緊迫したスケジュールによる作画の乱れで物議を醸したが(BDでは修正された)、続劇場版(特に前篇)では非常によく動く。
このまま彼がアニメ制作の現場に戻らないとすれば本作が彼の遺作となってしまうが、遺作の呼び名に恥じない出来の作品であるということは声高に主張したい。
「ハイパーリンク」と称してキャラクターの中の人のパーソナリティや実際の出来事を反映する手法の効果は、続劇場版で見事に結実した。
アニメの創作性と現実の偶然性が合わさってとても気持ちの良いサクセスストーリーになっているのだ。
後篇の『Beyond the Bottom』は田中秀和による同名の主題歌も相まって、非常に神々しい輝きを放っている。
神前暁も「これを超える曲をこの先作るのは大変」と太鼓判を打った。
アニメ界の王子、イクニこと幾原邦彦が初めて監督を務めた劇場作品である。
この時点から彼の演劇的な作品づくりの手法は発揮されている。
庵野秀明は映画館で本作を3度も観たらしく、緒方恵美が演じた衛の少年時代の声を聴いて『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ役に抜擢したというのは有名な話である。
TVシリーズの再構成ではなく、全く新しい解釈で制作されたオリジナル作品。
作画的な制約もあったTVシリーズと比べ、かなり大胆に脚色され、より過激となった映像美はまさに唯一無二。
突き抜けすぎて、終盤の車のところでは何が何だか分からなくなってポカンとしてしまう人も少なくないという。
「王子」こと及川光博がゲスト声優として出演しているのもポイント。
『京騒戯画』『血界戦線』などで知られる東映アニメーション出身の気鋭の演出家・松本理恵の監督デビュー作品。当時25歳。
『ハトプリ』はプリキュアシリーズでも人気の高い作品のひとつだが、この劇場版も非常に人気が高い。
パリを舞台にしていて、OPでのスタッフクレジットが背景に溶け込んでいる演出の時点で何かが違うぞと感じさせる。
メインキャラクターのTVシリーズでの成長・感情の変化をきちんと物語に取り入れつつ、本作オリジナルキャラクターであるオリヴィエとサラマンダー伯爵の切ない関係を描き、多くの視聴者の胸を打った。
『劇場版アイカツ!』でなくてなぜこれを挙げるのか、疑問にお思いだろう。
というのも、私は熱心な『アイカツ!』フリークで、アイカツ!を見始めたのなら劇場版アイカツ!を見るのはもはや自然な流れで、あえて挙げることではないという認識でいるからだ。
ということで、あえてアイカツ!を見る入り口として薦めるのであれば、CGステージをかき集めたこれが良いだろうと思い、挙げた次第である。
アイカツ!の楽曲のジャンルの幅広さ、CGステージでの綿密に練られたカメラワーク、そしてアイカツ!という作品世界の持つ空気感を少しでも感じてくれれば後は言うことはない。
少女向けアニメの最高傑作との呼び声も高い『カードキャプターさくら』、その集大成となる第2弾劇場作品。
ラストシーンでは年齢性別問わず多くのお友達をキュン死させ、多くの大きなお友達はそのままゾンビとなった。
ポケモンの映画といえばミュウツーの逆襲だったり水の都の護神を挙げる人が多いが、私はこの作品を挙げる。
70分という短さに詰め込まれた「家族愛」というテーマは、子供よりもむしろ親の方に深く響いたことだろう。
当時劇場で見てリザードンに興奮した子供たちも、今改めてみればまた別の感動を味わうに違いないはず。
テレビアニメ『楽しいムーミン一家』の劇場版であるが、本作はテレビアニメの前日譚となるエピソードの映画化である。
『楽しいムーミン一家』はもっと語られていい傑作アニメであり、本作ももっと多くの人に知られて欲しい。(旧ムーミンのファンには申し訳ないが……)
子安武人演じるスナフキンによるシュールな悪口が聴けるのもこの作品。
いわずと知れた名作『ルパン三世 カリオストロの城』と同じ1979年に公開されたアニメ映画である。
実はこの年の邦画の配給収入で1位を獲得している。
70年代を生きたアニメファンにとっては有名も有名だが、今では知名度はカリオストロよりも低くなってしまっていて、金曜ロードショー恐るべしといった感じである。
エンディングに流れるゴダイゴのあの有名な主題歌を聴いた時、あなたはきっと涙を流しているはず。
90分弱に詰め込まれた圧倒的な熱量!THE出崎統!
世界はもっと出崎統を評価せよ。
BD・DVDがプレミア化し、配信・レンタルでも見られなかった傑作が、ようやく今年BDの再発売によって見やすくなった。
7月22日発売です。
製作会社でわりと決める。と言っても覚えてるのSHAFTとTRIGGERくらいだけど。
あと2015冬なら、進撃の巨人作ったスタッフ(WIT STUDIO)が制作してる「ローリング☆ガールズ」は見とくかとか
ピングドラム面白かったし幾原邦彦が作ってる「ユリ熊嵐」も、まぁ見とくかとか
タイトル決めみたいな感じで「夜のヤッターマン」も、見とくかとか「魔法少女リリカルなのはViVid」も見とくかとか
ダメミルキィなら「探偵歌劇 ミルキィホームズ TD」も見とくかとか
そんな感じ。過去作で好きだったものは製作陣メモっておくかんじ。
あとアルドノアゼロとか東京グールとか見辞めちゃった奴はTODOリストにスタックしてあるので、それ経由で見ようかなと思う事もある。
あとtumblr経由でやってくる二次絵で盛り上がりを察知して見始めるのもある。
あとツイッター経由もある。
あとたまたま見たOPに見入って、そのまま視聴パターンもある。
まーなんつーかてきとうである。
ある小説を思い出した。
こんな感じだ。
--無人機
だった。人間が搭乗しているとしたら自殺願望を植え込まれた被洗脳者だろう。
紛争時、敵ゲリラがよくそういう兵士を使っていた。こちらの陣地の遥か手前で洗脳が解けかけた敵洗脳兵がきりきり舞いをしているのを二度ほど見たことがある。洗脳兵は楕円を描いてグルグルと同じ場所を走り回っていた。どこに行きたいのか自分でもわからなくなってしまったのだ。
洗脳兵は時間が来ると爆発して四散した。安全なスペクタクルだ。
それを私物のカメラで撮影している兵もいた。あの若かった男はまだあの写真を持っているだろうか?
--人間は何度も何度も何度も何度も同じことを繰り返す
--間違った方向に突進し、とんでもないものを信じ、親の世代と同じ失敗を繰り返すのが我々だ
--その多くが無用の死を迎え、悲惨さで地を覆い尽しながらも生き残る
このことを最近、理解できるようになってからノーマはフレイがクソ虫になった理由がわかったような気がした。
しかし、ノーマはクソ虫なんかにはならず、まだ先に進み人に語りえぬ一文の価値もないものを探求するつもりだった。
楕円軌道を描いてまわる洗脳兵や「無人機」のように見えていたのかもしれない。
ここで書いているおまえもオレも
http://www.gentosha-comics.net/story/cat1988.html
そういうわけで幾原邦彦原作のマンガ「ユリ熊嵐」(月刊コミックバーズ連載)のアニメ化が決定したので
各自関連情報をチェック願いたい。
http://www.gentosha-comics.net/story/cat2414.html
ジブリブランドが壊すより残したほうがいいと思うんだけど。ジブリブランドって海外でも通じる唯一のブランドだしね。
パヤオが「解散!解散!」って喚き散らしたとして解散したとしても、死んでからまた集めてさ
ジブリブランドが汚される!とか言う人達もいると思うけど、今現在、米倉監督だの宮崎息子監督だのにブランド汚されてるしさ
ディズニーだって最初の頃と変わってるだろ?ディズニーは監督育てたけど、まあパヤオにはそういうの向いてないし、ディズニーだって駄作凡作あるし。
湯浅監督とか、渡辺信一郎監督、佐藤竜雄さん、細田守さん、幾原邦彦さん、などなど。
高畑さんはもう年齢的に厳しいだろうしな。ナウシカの続編を庵野さんにやってもらいたいし。
ジブリ『思い出のマーニー』がラスト? 関係者「ジブリ制作のアニメはこれが最後になりそうです」
http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-25520.html
ポップカルチャー評論家宇野常寛「ARBはいかにもな90年代Jロック(キリ」オレ「ARBは80年代なんだが」宇野「ぐぬぬ」http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/237067
この人達勘違いしてるよ。宇野氏はポストモダニスト。歴史実証主義への深刻な懐疑が
思想形成の根底にある。
何故彼がこんな挑発的な主張をしたかといったら、歴史実証主義が現代ではもう「無力」だからだよね。
ポストモダン・フェミニストの上野千鶴子は、従軍慰安婦・南京大虐殺論争に加わった時、
なんとウヨク修正主義者を実証的に批判する吉見義明らを批判した。
上野曰く「南京大虐殺はなかった」と主張するウヨクも、あったとするサヨクも、実証主義を使って
そんな土俵でウヨク批判に実証主義者は無力すぎる。それを第三者が見たら、
「ウヨクもサヨクも同様に確からしくない」という印象を持つでしょう。
重要なのは、過去を生きた人の身になって想像しようとする気持ちと、物言わぬ「痕跡」の声に
戦後生まれのアジア人が、日本軍に殺害された被害者の声を想像して代理できるように、
宇野氏も70~90年代当時を生きた日本人として「ARB」を受容し、語ることができる。
ARBを聴いて「いかにもな90年代Jロック」「いかにもな「虚構の時代(by大澤真幸)」のロック」と感じた
彼の感想は、1個の体験的事実であって、この印象を他人が抹消することはできない。
物知り顔で「あの時代の空気は~」って説教垂れる老人は、自分の感じた空気感が正しいと
独断している事がタチが悪い。偏った体験とセンスを持つ1人でしかなくなんの根拠もないのに。
個別の事実よりも、全体として過去がどのような感じであったかを再構築する想像力が重要でしょう。
相対主義の世界で、ロックやアニメといった個々のコミュニティを正当化せずに、
色んなコミュニティを見て周り、その上でニュートラルであろうとする誠実な意思が必要でしょう。
閉じたコミュニティからの偏見剥き出しの批判に意味はないでしょう。
正しさは正しくあろうとした人物を、未来の人々が正しく判断するでしょう。
あの頃の僕は、毒の唾で世界を汚すことが無常の喜びだった。本や
映画で得た受け売りの理論で身近な大人たちを追い詰め、彼らを軽蔑
することだけが生きているリアリティと感じていた。目で見える世界のほと
んどが許せず、ニ十歳まで生きていることはあるまいと本気で思っていた。
あの頃、高校時代、僕にはFという同級生のガールフレンドがいた。
正直、彼女を好きでもなかったのだが、女のひとりも口説けないのかと
周囲に思われるのが癩だったのでなんとなくつき合っていた。二人で観る
映画はいつも二番館の面倒臭そうなアート系の映画で、Fは僕に映画の
解説を求め、僕はそんなたわいないことで男のプライドを保っていた、どう
せ刹那的なつき合いだと酷く冷め、やがてくる彼女との別れの日をドラマ
チックにシミュレートして悦に入っていた。そんなある日、Fが僕を演劇に
誘った。芝居はテレビで紀伊國屋ホールを収録したようなやつを観たこと
がある程度で、それもおそらくそんな感じだろうとまるで期待していなかった。
が、打ちのめされた。体の震えが止まらなかった、舞台音楽が僕を子供の
頃の暗闇の恐怖にいざなった。その後、Fは地方に就職先を決め、卒業
の日、明るく「さよなら」と僕の前から去った、以来、彼女とは会っていない。
結局、見透かされていたのは僕のほうだった、そして間違いなく、あの頃、
彼女は僕の母だったのだ。今回、シーザー氏の歌に僕が固執したのは、
あの頃の無知な自分と母との時間を追体験したかったからかもしれない。
存在するものがこの世界にはある。我々の前では、美しすぎたり、
醜悪すぎたり、日常であったりして、正体は曖昧なものと感じられ
ているが、それは確かに、明確にこの世界に存在するはずなのだ。
私は、それをアニメーションという手段で整理分解して、判りやす
く伝えようとは思っていない。セル画で数値化、セリフで言語化でき
る部分だけを抜き出して、それを伝えようとは思っていない。むしろ
段を使って、混沌のまま明瞭に、確かに存在することを示したいのだ。
私は、光宗さんと上谷さんを尊敬している。二人は紛れもなく、
十四歳の頃、僕は学校が嫌いだった。いや、正確には、学校という名の世界での自分の状況が嫌いだった。
その頃は、いわゆる“校内暴力”なるものが全国的に取り沙汰されていた時期で、僕の通ってい
た学校も例に漏れず相当に荒んでいたと思う。生徒が教師の胸ぐらをつかみ上げ授業中断、など
ということも珍しいことではなかった。学校とは箱庭ではあるが、言うまでもなく「ひとつの社会」で
あり、「現実世界のミニチュア」だ。その社会の中で、僕は凡庸な者だった。休み時間にトイレでタバ
コを吸う勇気も、教師の胸ぐらをつかむ勇気もなかった。そして、僕はそのことが嫌で仕方がなかっ
た。子供だったが、凡庸が美徳だなんてウソだってことぐらいは知っていた。「ミニチュアの社会」の
中ですら凡庸な自分に控えている未来.凡庸な人生の予感に言い様のない絶望を感じていた。
あれから十数年。現実は残酷で、やはり僕は凡庸なる大人になってしまった。絶対に裏切って
はいけない人を、何人も裏切ってしまった。そうまでして手に入れたのが、凡庸なる自らの姿だった。
だが、いかなる夢も見ることを禁じられたこの世界で、僕はまだ密かに夢を見ている。まだ密かに
モラトリアムでありたいと甘えている。そのことを「少女革命ウテナ」はうまく表現できただろうか…。
J・A・シーザー氏の音楽を、僕は遥か十代の頃に体験した。氏の音楽はその時から、そして今も変わらず僕
シーザー氏と仕事の機会を得ることができたのは、ひとえに大月プロデューサーの手腕によるところだ。
いや、実はそのことだけではない。大月氏は、アニメーション作品「少女革命ウテナ」を世に送り出すために、
多大なリスクを負った。我々スタッフは、その彼のリスクの上に、完全な創作の自由を与えられたのだ。「自分の
若さと可能性を信じろ」などと言うインチキな大人には数多く出会ったが、リスクを負うと言うことを体現して
見せる大人に出会ったのは初めてだった。もちろん、僕自身もリスクは負っていたが、彼のそれは比べようもなく
大きかったはずだ。にもかかわらず、彼が僕にリスクを強要したことは一度もなかった。彼は、作品作りにおける
リスクの尊さを改めて僕に教えてくれた。そしてそのことは今回の作品制作において僕個人にとって貴重な
モチベーションになった。おそらく「少女革命ウテナ」という作品は、僕と大月氏の共同監督作品だったのだ。
だから、ある意味で僕は敗北者なのだろう。なぜなら、僕は絶対に裏切ってはならない友人を、数多く裏切っ