はてなキーワード: 幼稚園とは
僕は南の島で生まれた。僕がまだ母のお腹にいた時に、父が軽はずみな悪戯をした。母は気を失い、倒れた。それは僕の運命を狂わせ、家族の運命も変える重大な結果をもたらした。僕は脚に障害を持って生まれ、その障害を治せる医療機関は島にも近隣にもなく、関東か関西の子供専門病院での長期にわたる入院治療が必要とされた。両親は治療費と移住費を捻出するため、先祖伝来の家屋土地、田畑をほとんどすべて売り払い、僕が2歳の冬、家族揃って島を出て、関西のある県に移住した。僕はその県の県庁所在地のある子供専門病院に入院することになった。
僕が入院した日、窓の外の山々が人生で初めて見る雪で真っ白になっていたことを今でも鮮明に覚えている。両親は家に帰りたいと泣く僕を残して帰っていった。僕はそれから4歳になるまで約2年間入院し、5回の手術を受けた。僕の脚は完治はしなかったけれど、障害者と判定されないくらいまでには改善した。島を出た時は、僕はまともに立つことすらできなかった。退院した時は自分の足で歩いて病院を出た。担当の先生や看護師さんたちが涙を流して見送ってくれたことを覚えている。
入院により僕の障害は改善したが、同時に子どもの成長に必要とされる多くの大切なものを得られなかった。両親からの愛情、家族や他人との人間関係を築くための社会性を身につける機会、病院食ばかりで食べ物の好き嫌いを克服する機会、成長に必要な体力と運動能力を得る機会などだ。このため、僕の後の人生で苦しむことになる。前回の日記では、特定の幾つかの出来事だけを挙げ、それが対人恐怖症や人間不信に繋がったように書いたが、実際にはそうではない。
退院したばかりの頃の僕は、体力がないため、同世代の男の子たちとは遊べず、妹の後ばかりをついて回った。そして彼女や彼女の友達と一緒に遊んだ。それは主に、体力を必要としないままごとや人形遊びだった。ある時、駄菓子屋さんで妹たちが紙製の着せ替え人形を買った。僕も買おうとしたら店の人に「あなた男の子でしょ!」と叱られた。よく女の子みたいだと言われた。そして、それからもずっとそう言われ続けることになる。
5歳の春、僕は幼稚園に入った。入園日の翌日から、午前中は親から離れて園で過ごす日々が始まったが、その初日で躓いた。僕は園に着いて僕を置いて帰る母を見てパニックになり、大号泣した。僕は病院で育った影響か、感情表現が下手で滅多に感情を表に表さないが、入院した日のようにまた家族と引き離されると思い、その時は全力で抵抗した。それは単に僕の勘違いだったけれど。入園日や卒園日のことは一切覚えていないが、この大泣きした時のことだけは記憶に残っている。
その後、僕は順調に幼稚園に通うことになる、はずだった。
近所に山川君という同級生の男の子がいた。同じ幼稚園に通い、小中学校も同じだった。幼稚園に入った4月の末、彼は、突然、僕の首を締めた。息ができなくなり、眼の前が真っ暗になり、意識がどんどん遠のいていった。僕が意識を失う寸前に彼は手を放した。その後、僕の登園手帳の5月と6月のカレンダーは、登園をしたこと示す判子が押されず殆どが空欄になっている。僕は首を締められたことにより、様々な感染症にかかり、ずっと寝込むことになった。
その出来事があってからは僕の母は彼を見ると、手を上げて打(ぶ)つ真似をして、「あんたのせいで」と怒った。その度に彼は彼の母の後に逃げ込んだ。母は彼のことをずっと後まで憎んでいたが、僕は彼のことをそんなに憎んではいなかった。小中学校で、彼は僕がいじめられているのを知ると、時には相手に鉄拳制裁を加え、僕を二度といじめるなと言ってくれた。その方法の善悪は別として、実際にそれは効果があったし、僕はそれに感謝している。
彼自身は、なぜ僕の首を締めたのか、それがどんな結果をもたらすのか分かっていなかったと思う。僕は、後に、同級生から他の人の見ていない所でよく抓(つね)られたりしたが、彼は同じような軽い気持ちだったのかもしれない。10代後半の彼が自ら語ったところでは、彼は先天的(おそらく遺伝性の)精神疾患を患い、その治療を受けていた。先天的という意味では僕と彼は同じ境遇で、それは僕ら自身の力ではどうしようもないことだった。僕の物理的に変形した脚では、いくら頑張っても障害のない人のように歩いたり走ったりすることはできない。物理法則を、意思の力や努力で変えることは不可能だ。脳も物理法則に支配されているのだから、精神疾患だって本人の意思の力や努力だけではどうしようもない。
結局、僕は幼稚園を1ヶ月半以上も休むことになり、十分な体力も付けられずに小学校に上がった。入学式の初日に、隣りに座った立花君に抓られた。その後に何度も経験することになる、隠れた場所でのイジメだった。僕は他の誰も見ていない2人だけの場所で、抓られたり蹴られたり嫌味を言われたりよくした。また、3年生の時に、近所の年上の男の子とプロレスごっこをしていて、抱きつかれたこともある。抱きつかれたというより抱きしめられたような感じで、その後、凄く気まずくなった。だから、僕はできるだけ他人と二人きりにならないように気をつけた。後から考えると、これは僕が適切な人間関係を築いていく上での弊害になったと思う。
ちなみに、僕を最初に抓った立花君は高校まで同じだったが、後には友だちになった。当時、僕の住んでいたのは某ラノベの舞台と言われる市で、公立高校の入試にいわゆる学区割というシステムを導入しており、成績上位者の一部を除いて、住んでいる学区で通う高校を指定された。だから小学校から高校まで、多くの同級生たちと同じ学校に通った。小中のしがらみを抱えたまま高校まで進学するのは、ある意味きつかった。
小1の時は、いろんな子にいじめられた。抓ってくる子が多かった。クラスで学力1、2位を争っていた男子と女子によく悪口を言われた。彼らは進学塾に通っていたけれど、塾にも通わないのに教科書をスラスラ読める僕に嫉妬したのだと思う。僕は、入院中の毎晩の看護師さんたちによる絵本の読み聞かせで、3歳になる頃には平仮名を全て覚え、絵本も一人で読めるようになっていた。僕のテキストは「くまのプーさん」だった。だから今でもくまのプーさんを見ると、特別な感情を抱く。入院で失ったものも多かったが、得たものも大きかった。
いつからかは覚えていないが、僕がイジメられるのを見かねた新池さんという女子が僕を守ってくれるようになった。彼女は本当に心が真っすぐな子だった。彼女は僕より背が低くかったが、人一倍勝ち気で男子相手の喧嘩でも一歩も引かなかった。だから彼女は学年中の男子から、新池ゴリラと呼ばれていた。新池さんは授業が終わり、帰宅する時もずっと僕の側にいてくれた。
新池さんとは中学まで一緒だったが、同じクラスになったのは小1の時だけだった。彼女は彼女の妹の面倒をよくみていた。彼女はいつも妹と一緒にいた印象がある。彼女は僕のことも彼女の妹と同じように庇護すべき対象と思ったのかもしれない。彼女は僕にとっては同級生というより、姉のような存在だった。
僕は前の日記で新池さんをゴリラ女子と書いてしまったが、それは仮名(かめい)を使わなかったから読み易いようにそうしただけで、僕が実際に彼女をゴリラと呼んだことは一度もない。そんなことしたら罰が当たる。彼女は僕の守護神だった。彼女は本当にかわいい子だった。だけど、僕には彼女を慕う気持ちはあったが、恋愛感情は一切なかった。そこははっきりさせておきたい。
小2になると別の守護神が現れた。担任の田口先生だった。田口先生は女性で優しかったが、弱い者イジメは絶対に許さなかった。先生は最初の授業で、僕には障害があるからクラスみんなで守ってあげて下さいと言ってくれた。僕はクラスで一番最後に逆上がりができるようになったが、先生がそれを母に報告すると母は泣いたらしい。先生はその話をクラス全員の前で話し、みんなも一緒に喜んで欲しいと言った。当時は、逆上がりくらいでと僕は恥ずかしかったが、今思うと本当にいい先生だったと心から感謝している。
そんな先生の下でもイジメをする子はいた。僕は病院食を食べて育ったため、好き嫌いが多く、食べられない給食が多かった。ある日、給食にチキンクリームスープが出た。僕は鶏肉が食べられなかった。無理して食べ、最後は戻してしまった。それを見たクラスの安田君という男子が「汚ねっ!」と言って、嘔吐物に唾を吐いた。別の誰かに呼ばれて駆けつけた担任の田口先生がそれを見ていた。先生はクラス全員が縮み上がるほどの鬼の形相で、烈火のごとく怒った。安田君はわんわん泣きながら、僕と一緒に嘔吐物の片付けをさせられた。僕はそれ以来、毎朝給食メニューをチェックし、ビニール袋を給食袋に忍ばせ、食べられない給食をこっそり持ち帰るようにした。まだ給食は残さず食べるというのが当たり前の時代で、おそらく田口先生は僕の行動に気付いていたと思うが、何も言われなかった。同級生の中には、精神的な理由から肉類を食べられないことを公言し、それを許容されていた子もいた。本来は、学校に僕が好き嫌いが多い理由をきちんと説明しておけばよかったのかもしれないが、僕は親にそういうことを相談できなかった。僕は、いじめのことも親に相談できなかった。
小2の2学期に徳田君という転校生が来た。ある日、体育の時間が終わった後、彼は僕を抓った。それをクラスの別の子が見ていた。僕はジャングルジムの上に避難させられ、徳田君はみんなに引きづられてギャンギャン泣きながら田口先生のところへ連行された。徳田君は転校してきたばかりで田口先生の方針を知らなかった。彼は僕をいじめたことで、クラスの大半を的に回してしまった。
徳田君は相当に困ったようで、苦肉の策だったのか僕に接近してきた。自分の家に遊びに来いとしつこく僕を誘った。僕は彼が怖かったから何かと理由をつけて断った。彼の最後の手は「うちにはお金が倍になるゲームがある」だった。家が貧乏だった僕は、その言葉に簡単に転んだ。彼の家は僕の家から100メートルも離れていなかった。当時、僕たち家族は、両親が市役所に転入届けを出しに行った際、役所の人が「市内一の貧乏アパートだから早めに出た方がいい」と助言したくらいの貧乏長屋に住んでいた。2階建てで庭に木まで植えてある彼の家は、実際はそう大きくはなかったが、僕には豪邸に思えた。彼の家の中に入れてもらうと、転校して初めて来た友達だからだと思うが、彼の母と祖父母が僕を歓待してくれた。そして、いろんなゲームを二人でした。当然のことだが、最後までお金が倍になるゲームなど出て来なかった。彼が家の外まで一緒に出て見送りしてくれた時に、僕は思い切ってそのゲームのことを聞いてみた。彼は「そんなのあるわけ無いじゃん」とけろっとした顔でいった。そんなにも平然と嘘を付く人がいるという現実に僕は戸惑った。そんな僕に、彼は全く屈託のない笑顔で、「また、必ず遊びに来てね」と言い、手を振った。その後、彼には多くの友だちができ、彼が僕を家に招待することは二度と無かった。それどころか、僕のことなど一切相手にもしなくなった。僕がその後の人生で、悪徳商法や詐欺などの被害にあわないで済んだのは、間違いなくこの時の教訓があったからだと思う。それは人を簡単に信用してはいけないという僕の人間不信を強固にする出来事でもあったと思う。
徳田君の名誉のために補足すると、彼は詐欺師などにはならず真っ当な人生を歩み、今では小さいながら自らの事業を立ち上げ、一人で切り盛りしている。彼とは社会人になってから何度か会っているが、苦労が顔に滲み出ていて、気配りのできる本当にいい大人になっている。
小3から中3の話は別の日記や別の媒体でも書いているので省略する。
僕は脚の障害のため、短距離走は誰よりも遅かったが、心肺能力は人一倍優れていたと思う。僕の体は、例えるなら、パンクしたタイヤを装着した高性能エンジン車のようなものだった。脚の悪さを心肺機能で補うことで、持久走はかなり速く走れた。学校のマラソン大会は中学で200人中5位、高校では700人中10位だった。これは自慢しているのではない。僕は高校では陸上部に所属し、中長距離走の選手として成果を出したかったが、競技者レベルには全く達していなかったというのが現実だ。そのため、僕は高2になるまで試合には一度も出して貰えなかった。
高2で初めて800メートル走に出場した時のことは鮮明に記憶している。それは県の全高校の陸上選手が集う競技会だった。観客席には選手や監督、コーチ、マネージャーなど数千人がいた。
スタートのピストルの音とともに出場者全員が出走すると、会場全体がざわつき、どっと笑いに包まれた。僕の走り方がとてもヘンテコリンだったからだ。それまでにも走り方を笑われることはよくあったが、数千人いる会場であんなに大勢に笑われるとは思いもしなかった。走り方一つで何千人もの人たちを笑わせられるなんて、僕はお笑い芸人より凄いかもしれない。
僕の高校の陸上部員の僕に対する声援は会場全体を包む笑い声にかき消されてしまった。どんなに笑われても、監督が苦労して僕を試合に出させてくれた以上、途中で棄権することは絶対にできないので、僕は死にものぐるいで走った。僕が最後尾で第4コーナーを回り、正面スタンド前に来た時に、その奇跡のような出来事は起きた。もの凄い声援が湧き起こった。走りながら、僕がスタンドの方へ目をやると、よく合同練習していた隣の高校の陸上部のキャプテンが身を乗り出し、両手を口に当て「〇〇、ファイトー!」と僕の名を絶叫し、それに続いて他の部員たち全員が大声で声援してくれた。走りながら僕は体中に鳥肌が立った。その声援は僕の高校の部員たちの声援を遥かに上回っていた。そして、その声援は会場全体に響きわたった。一瞬にして会場が静まっり返った。水を打ったようというのはああいう状況を言うのだと思う。たった30人ほどの人たちの声援が、何千人もの人たちの笑い声とざわめきを一瞬にして吹き飛ばしてしまった。気まずい空気が会場全体を覆った。急に静かになった競技場の残り400メートルを僕は力の限り走った。
結局、成績は最下位だったけれど、あんな奇跡のような体験をできただけでも、僕は競技会に出場した甲斐があったと思う。隣の高校の陸上部キャプテンの水野君、そして、彼に続いてくれた部員たちには、今でも本当に感謝している。当然、僕の高校の部の人たちにも。
社会人2年目の4月に本社異動になった僕は、地元に戻ってきた。地元には戻ったが実家には戻らず、会社の寮に入った。ゴールデンウィークに実家に戻ると、高校時代に同じ陸上部にいた津木と岡崎から飲みに誘われた。焼き肉屋で空腹を満たした後、津木がおもしろい場所に連れて行ってやると言った。
それは岡崎の家の近くの小さなスナックだった。津木がドアを開けると、2人の女性が明るく迎えてくれた。僕は本当に驚いた。そこにいたのは小1の頃、僕のことをずっと守ってくれた新池さんだった。彼女は小1の頃と全く変わらない笑顔で、僕たちを迎えてくれた。僕がいることに気づき、彼女も驚いていた。新池さんは全然変わっていなかった。彼女の隣にいたのは彼女の母だった。彼女の妹も一緒に働いている三人の店だということだった。もう彼女と何を話たのかは忘れてしまったけれど、津木ばかりが話していて、僕はあまり彼女と話せなかったように思う。僕は、小1の時の感謝を彼女に伝えたかったが、うまくタイミングが掴めず、結局は伝えられなかった。地元だからいつでもまた会えるという思いもあった。
しかし翌年、僕は今の妻となる人出会い、翌々年に結婚し、地方へ転勤となってしまった。4年後、僕が転職して地元に戻って来た時には、もうその店は無くなり、彼女の行方もわからなくなってしまっていた。彼女は小1の同じクラスの同級生で僕がフルネームを漢字でも書ける唯一の人だが、SNSの友達繋がりでも彼女の名前は見当たらない。その後、僕はまた別の会社に転職し、関東へ住居を移した。あの社会人2年目以降、僕は彼女とは一度も会えていない。感謝の気持ちは伝えられる時にきちんと伝えるべきだったと、本当に後悔している。
補足
幼稚園なら6歳くらいじゃね?
今わたしは女児です!って言ってる成人女性は一人もいないのに、元女児という事実とともにあの頃言えなかったNOを発信するのはそんなにおかしいの?成人女性は誰もが元女児なのに?あなたもそうだったのに?
女性は元は女児なので、てのを笑ってる人ら、現女性が元女児なのはまんまその通りの意味しかないのに「女児」とか「女の子」にミーム的な変な意味を勝手に乗っけてるからウケてるのかな?て思うけどつまりは文脈が読めないんだね
大人の女性が元女児であることを主張するのはキツいってなんかで見たけど
大人の女性が私は女児です!女児の扱いをしてください!って言いだしからヤバいやつだけど元女児だからこそ現女児を不快な状況から未然に防ごうとしてるだけでしょ
元女児を名乗のがキショいって意味がわからない。男女関係なく、みんな元・児童でしょうに。
子どもの頃(年齢的に女児だった頃)、嫌な思いをした経験を覚えているから、今の女児たちが同じ思いをしないように「大人になった今」現状を変えたくて声を上げてるだけだよ。あくまで今は大人です。 今、大人になってる女性を女児として扱えなんて一言も言ってないのに、なんでそんな誤解するのか本当に意味がわからない。
読解力がないのか、それとも元ポストの人にあわよくば男児として甘やかされたい欲があるのか。
でないとそんな発想にならないよ………
そもそも男児母が「子供なんだから仕方ないでしょ」って男児に女子トイレを使わせてて、男児に怖い思いさせられた女児や元女児がいい加減女に我慢しろはやめてくれ、って言ってるの。それに対して「産めばわかる」って黙らせようとしたのが子持ち。もともと子無しを下に見てるくせに何が母親叩きだ。
自分が知る限りでは保育園、幼稚園時代に性被害に遭ったという方がおられますので2〜3歳くらいから起こるのではないでしょうか(当事者に加害の意図はなくてもです)。厳密に○歳だから、というわけでなくとも男児を見たら不意に思い出したしまうということもあるのではないかと推察します。
おや、がんばりましたね。
なんでそれが記憶改変の例なんですか?
単に勝ち誇ってる例でしょう。
私はいわば幼稚園に暴れこんだおっさんみたいなもんでお前ら相手なら無傷の常勝なんでそりゃ勝ち誇ってるんですよ。
私が論破されてる所と、それを勝利だと強弁してるところを挙げないと意味ないですよ。
ふたつめ。「削除逃亡した例」
それ「削除した例」ですよ。
趣味のイジメツリーはいっちょ上がりで削除するルーティンって言ってるでしょう。
私はイジメだけやってるんじゃなくブログ記事のパイロット版として増田使ってるんで、自分の記事一覧を整頓したいんですよ。でもイジメが好きなんですよ。
みっつめ。「自分が願望を言い立てている例」
と言いながら「質問返ししてる」「罵倒してる」ってなんでそれが「願望を言い立てている例」なんですかねw 疲れちゃったのかなw
よっつめ。「自分が詰んでた例」
「たぶん」「じゃないかなあ」「と思うよ」だけで何も示せてないですよね。
「これで詰みだ!…とおもうよ」ってズコーですよね。
それとあのー、それ以前にその投稿は私のじゃないですw
頑張ったけど、なんも収穫なかったですねw
(ちょっと追記)こうもワンサイドなんだからいいかげん自分の認知をちょっとは疑って欲しいんですよ。
「チッ、これじゃ効かなかったか」ってスパッと切り替えてまた別の話するんでしょ?
不毛なんですよ
(更に追記)今日のコレの起点はゲェジの「あ、レスバで負けた人だ」なのがまた味わい深い。この力量差で負けるわけねえだろwこちとら健常者様だぞ。
子供が保育園、幼稚園に通ってて、自分が老けたお母さんになってるの嫌だわ
子供が大学生くらいになってたら自分が初老でちょっとよぼよぼしてても仕方ないと思えるけど
子供が保育園、幼稚園なのに母親が老けまくってたらほんと悲しい
今自分が一人目の子供を園に通わせてて、数年下の子と間をあけたもんだから
自分の理想の人数分の出産を20代のうちに済ませて、美容に力を入れて、美人なママとして子育てを楽しんでいく人生したかったです。
コスプレイヤーであることを活かして子どもにお遊戯会で着るお姫様の服を作ってあげるとか子どもが幼稚園の先生に「ママってたんじろーのえがとってもじょうずなんだよ!」って同人活動やってることをバラしてしまうとか小学校の卒業文集作りに携わった時に最寄りの印刷所に詳しすぎて他の保護者に怪訝な顔をされたとか子持ち同人者あるあるみたいなのも定期的にバズるし
>自分の好きなBL漫画の作者がXで「最近好きな人ができた」とか「彼氏ができた」とかリアルの恋愛の話をつぶやいていたらよってたかってぶっ叩くでしょ?
今って結婚して子どもいてその子どもも小学生で~みたいな人いっぱいいない?
コスプレイヤーであることを活かして子どもにお遊戯会で着るお姫様の服を作ってあげるとか子どもが幼稚園の先生に「ママってたんじろーのえがとってもじょうずなんだよ!」って同人活動やってることをバラしてしまうとか小学校の卒業文集作りに携わった時に最寄りの印刷所に詳しすぎて他の保護者に怪訝な顔をされたとか子持ち同人者あるあるみたいなのも定期的にバズるし
リア垢を持たずにリアルの話を同人アカウントで垂れ流す人の方が多いと思う
三次の男が嫌いってカミングアウトする方が勇気いる、私はジャンルによってアカウント分けてるけど一番人口多い大手ジャンルの大手カプでもそんなこと言ってる人見たことない
どうやったら増田みたいなタイムライン構成できるんだ?どこ行っても喪女なの私だけだよ!!
好きなジャンルを起点につながるんじゃなくて男嫌いっぽいことをつぶやいてる人をジャンル問わずフォローしてるとか……?
都内で家賃高めの区の私立幼稚園に通い始めて知ったのは、裕福で多子のご家庭も結構いるということ。
父が高収入、母が美人上品かしこの専業主婦の家庭が7割、残り2割が父も母も優秀な夫婦(この場合母の顔は中上)の組み合わせ、1割があんまりな夫婦
で皆この少子化に3,4人当たり前。皆様は実際は大変だろうけど、優雅な顔で卒なく園、子供全員の習い事複数、ママ友付き合いをこなされてる。
話してみると多くの皆さん賢くて優しくて勤勉なのよ。
でもお手本のように素晴らしい親御さんの下でも多子の子大体顔死んでるのね。
2人くらいまではうまくハンドリングすれば、子供全員幸せそうなんだけど。多子の子ってもちろんいつでも顔死んでるわけじゃないけど、顔死んでることが多い。
※追記:確かに顔死んでるとか目が笑ってないとかはあまりに主観的だったかも。優しい大人への喰いつき具合とか。
そして3人4人になると親ももう子供の話す事平気で無視したりするようになるね。
別にそれでも立派に育つと思うし、今でさえ優秀な子供達だと思う。
でも親が子供を一人の人間として尊重し関心を持ち関われるリソースを鑑みても、少なくとも親から愛されてる実感は少なくなるだろうなと思う。
まあ別に親以外で充足できればいいだろうけど
子供の幼稚園生活二年目ママです。二回目の遠足。当日、5時に起きたけどろくなお弁当作れなかった……
うめぼしおにぎり2個
こんぶおにぎり1個
手で食べれるものばかり入れたので私はお箸すら持っていかなかった
そうだよね、やっぱり張り切って作るよね遠足のお弁当はって思った
法案への賛否は別にして立憲民主党のあり方に疑問を覚えたので備忘録的に記しておく。
(櫻井よしこ氏)
立憲民主党がとんでもない民法改正法案を提出しました。婚姻平等法案です。性の区別をなくし、父も母も親1、親2とするそうです。家族の在り方が崩壊し、バラバラの個人の集合体のような国になりかねません。こんな日本を誰が望んでいるでしょうか。
https://twitter.com/YoshikoSakurai/status/1788882499713773675
一応「識者」と言われている立場でしょうに、こういう明らかなデマで意見の異なる相手を論難するのは、余りに志が低く、極めて残念です。「保守は自分達が作り出したフィクションの世界で溺れているのではないか?保守派一体どこに向かっているのか?」と思います
https://twitter.com/RyuichiYoneyama/status/1789397435699052987
立憲民主党の婚姻平等法案には「親1、親2」なんという表現は全く無い。
「するそうです」ではないのです。訂正されませんか?
(旧)
(夫婦の氏)
第750条 夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。
(親権者)
第818条 成年に達しない子は、父母の親権に服する。
(新)
(夫婦の氏)
第750条 婚姻の当事者は、婚姻の際に定めるところに従い、婚姻の当事者の一方の氏を称する。
(親権者)
第818条 成年に達しない子は、親の親権に服する。
https://cdp-japan.jp/files/download/daUV/U0pN/aoe0/5xWH/daUVU0pNaoe05xWHh6Hi8JnR.pdf
◯立憲民主党提出法案では、夫婦を婚姻の当事者と、父母を親と書き換えている。
◯櫻井よしこ氏の「性の区別をなくし、父も母も親1、親2とするそうです。」という主張は、親1・親2ではなく「親」であるという範囲において誤り(性別をなくす、父母を親にするという点は正しい。)である。
◯櫻井よしこ氏は批判するなら一次ソースに当たれば親1、親2ではなく、「父母を単に親とする」という書き方にできたはず。そうしても櫻井よしこ氏の主張には一切影響しないのだからそうすべきだった。
◯米山隆一氏の「明らかなデマ」や泉健太氏の「『親1、親2』なんという表現は全く無い」とするのは明らかに言い過ぎ。櫻井よしこ氏の主張の根幹は『夫婦から性の差異をなくすことが問題』だと理解することは文脈上容易であり、そこに触れずに「デマ」などと切り捨てる立憲民主党は、本件について国民と議論をしようとしているようには見えない。
◯というか、婚姻の当事者にしろ親にしろ、法的にはこれでOKでも運用上二人を区別する必要があるときには婚姻の当事者(1、2)とか親(A、B)とか、甲乙でもなんでもいいけど書き分ける必要があるわけで、全く的外れな批判とも思えない。これがデマだとするなら立憲民主党はどう運用することを想定しているんだろうか。
◯いずれにしても立憲民主党として、全く国民と対話をしようとは考えていない様子であり、他の事例での立憲民主党の言論弾圧志向と合わせ、残念でならない。
◯そもそも櫻井よしこの言いがかりが幼稚すぎるのに、よくこんなところで頑張れるな。法律上の『夫婦から性の差異をなくすことが問題』ってどこが? 法律上の表記に性別がなくなると人間の性別が消えると思ってるの?
◯「家族の在り方」って何なのよ? 日本古来の家族の歴史について、専門家に教えてもらってきな。歴史学者でも考古学者でも文化人類学者でもいいからさ。お前らが信じている「日本古来の家族観」って明治以降だぞ。
◯国際勝共連合プロパガンダに親和的なアカウントが湧き出てくる。山田太郎が統一教会イベントに出たことを問題視していたのは、本人が信者でなくともフォロワーに向けて広告塔の役割を果たすからなんだよな
その問題意識を理解した上で立憲側が話をそらして相手をデマ扱いしてるのがおかしいと言ってるだけ
◯櫻井よしこの言っているデマが国際勝共連合(統一教会)と全く同じ内容
◯立憲が親1,2に変えようとしているという話のネタ元は櫻井よしこ氏だけど出した法案にどこにもそんな記述はないし、櫻井氏のその表現のネタ元は勝共連合の記事なのか?
勝共でもなんでもいいけど少なくとも大きな方向性としてデマではないと思うが
◯法令に記載しないことと,運用で禁止することは違うのでは。住民票に「子」としか書いてなくても,長男・長女などの表現は社会で普通に使われている。e-Gov法令検索の全文検索で「長男」「長女」は0件にもかかわらず。
◯立憲は将来の同性婚を考えて父母呼びをなくしたならそう主張すべきで、そこで逃げるから論点がボケて本質的な議論が出来なくなる。/個人的には同性婚で養子貰って育てるのまでは賛成出来ない。
そう、議論ならこうでないと。泉健太氏も米山隆一氏も揚げ足取らずにこういう議論すれば良かったんだよ。
ちなみに実運用では「第一子」、「第二子」などが普通に使われている。
例えば、
・厚生年金保険法施行規則(加給年金対象被扶養子(第一子及び第二子を除く。)の数)
・東京都板橋区幼稚園等の保育料の額を定める条例(第一子と第二子以降の保育料の額))
などなど、事例は山ほどある。
このように区別の必要があれば役所でも親1や親2として扱われるようになるよね?まぁ親1、親2じゃなくて一方の親とかでもいけるのかもしれんが、後者のとおり批判の主題はそうじゃないよね?
立憲には
子どもの頃から手のかかるヤツだったのは間違いない。でも、ここまでは来れた。一応は一人で生きている。
本筋だけど、昨日の土曜日の出来事で、ちょっと思ったことがある。昨日、とある増田日記を読んで、自分も書いてみようと思った。
今朝起こったことなんだが、その時は自宅の山の近くを散歩してた。田舎の道路だ。
うちは田舎なのだが、近年、イオン系列のスーパーマーケットとか分譲地とかニュータウンみたいなやつが進出してきてる。
その分譲地の前を通った時だ。当方と同じ、40代半ばの男が道路を歩いていた。焼酎学校の同級生だった。高校も一緒だった。黒いジャージ姿だったかな。
顔はまあまあで、中肉中背だけど精悍な感じがする。性格とかキャラはよく覚えてない。どっちかと言うと自信家だった。昔から雰囲気は変わってない。
曾祖父の時代から地元の名士である。先祖大体、この市町で公務員勤めをしている。もちろんアイツも地方公務員。高校を出る時に公務員試験に合格して、クラスメイトからは「あいつコネじゃね?」とか言われてたけど、自分は違うと思った。確かに苗字は相当珍しいけど、でもあいつが性根が腐ってるとか、そういうやつじゃないのは知ってる。
それでさ、自分がいつもそのニュータウンの前を通る時、幼稚園くらいの女の子が兄妹とかと遊んでる。3人くらいで。その時も、いた。やはり姉妹3人で水遊びとかしてた。
その子達は、月に何度か散歩中に見かける。姉妹仲よさそうに遊んでる。お互いに存在は認識してる……くらいかな。いや、やはり向こうは俺を認識すらしてないと思う。子どもだし。
さっきの道路の場面に戻るけど。その同級生がさ、その女児が遊んでる分譲地の、住宅の端っこあたりを通ったのだ。俺もすぐ近くにいる。すると、その女児がさ、「こんにちはー!」って大きい声でその同級生に挨拶をしてた。
駆け寄り気味な感じだった。同級生も、「こんちは~」って感じで挨拶を返してた。よくない癖だとは思ったけど、その女児の顔を見た。そしたら、満面の笑みだった。俺は、女の子でも女性でも熟女でも、こんな眩しい笑顔を向けられたことはない。
あんな5才くらいの幼い子でもさ、「アルファオス」というと悪い言い方になるけど、そういうのがわかるんだよな。いい男性の区別がつくのだ。この年代でも。増田で言うところの、『強者男性』というやつだ。
あー、ちょっと気が滅入ったわ。5才ほどの子にすらモテるってことは、きっと若い子にもモテるんだろ? あいつは。正直、羨ましいわ。自分も、一度でいいから女の子にモテてみたい。
こんなこと思ってもしょうがないけど、男だったらやっぱり、女の子にモテたいって思うじゃん。俺も、仕事でいい成果とか出せたら、女性が寄ってきたりするのかな。だったら、頑張りたいな。
俺のところにも、メフィストフェレスが来てほしい。
『ファウスト』っていう作品があるんだが、ドイツにファウストっていう黒魔術の怪しいおっさんが住んでいて……悪魔メフィストと出会って、死後の魂の服従を交換条件として、現世で人生のあらゆる快楽や悲哀を体験させるという契約を交わすのだ。
それで、ファウストはグレートヒェンという町娘と恋をして、子供を身籠らせて、それで……なんかもういろいろあって、スゲー紆余曲折を体験して、最後は満足して逝くのだ(「時よとまれ お前は美しい」)。
魂は悪魔に引き渡される約束だったけど……以下ネタバレなので省略する。
日曜日に、こんなぼやきをしたくなる程度には、衝撃的な出来事だった。
子どもにだって、自分にとっていいモノもいいヒトもわかるんだよなって感じて、思うところがあった。
お目汚しをすまない。ちょっと思ってみただけだ。
三十も後半にさしかかった。もう自分を構成する全ては変わらないと思っていた。
爪噛みもその一つだった。
幼稚園の頃から爪噛みをする癖があったけれど、人前ではしないから放置をしていた。
それが最近治った。
ちなみに爪を噛むと言っても、私の程度は爪を噛むだけではなく、幼い頃など母の爪も噛んでみたり、ささくれをむいたり、足の爪さえ手でいじってむいてしまうぐらいの程度だった。
自分の爪噛みは専門家の人に診断してもらった事はないけれど、多分精神的な事に由来してるのではと思っている。一種の自傷行為的な。
中学生ぐらいから死にたいとはっきり思っていた。社会人になって自殺しようとして失敗した。
それでもなんとかギリギリ周りに助けられつつ生きてきたけれど、数年前ついにメンタルクリニックのお世話になって安定剤を飲み始めた。
(正直もっと早く行っていれば良かったと思う。)
ちょっと持ち直してきた、と思ったら、今度は職場の人間関係やパワハラで休職して、更に異動先でも上司と合わず、今も安定剤と一緒に生きている。
このままこうやって生きていくのかな、と思ってたし、今もそう変わらない。
ただ、うっすら張り付いていた希死念慮が最近意識しないで済むようになった。死にたいと言わなくなった。それと爪噛みの癖がなくなった時がほぼ同時だと気づいた時、凄く感動した。
自分は死んだ方がいい。生きている価値などないし、友人や姉も私以外の大事な人がいるので、たかが私が死んだところで別にどうでもいい。悲しんでくれるだろうけれど、悲しみなんて一生続かないし。と思っていて、また死ねるタイミングがあったら今度こそ死のうと思っていた。
でも数ヶ月前のある日ふと、本当に何故か分からないけれど、そんなに自分は価値のない人間なのか?と思った。だって誰にも迷惑をかけてないじゃないか、と。諸々のルールを守ってるし、職場の人に意地悪なんてしてないし、ちゃんと親切をする。それなのになんで、生きてちゃいけないのか?と思った。
そして、今まで自分は無価値というベースの上に生きていたけれど、立ち位置を変えて、自分の良いところに立ってみようと思った。
良いところなんて分からないけれど、多分あると思って、ぼんやりとした良いところに立って生きてみようと。
そして、それと同時に考え方を変えた、というか、気付いた、という事がもう一つあって、それは自分が今まであってきた辛い経験や精神の不安定さ、生きづらさを宝物のように思っている事だった。
こんなに辛い経験を何もなかった事にしたくない、この不安定さ生きづらさこそが私で、だからこそ私は他の人と違うのだと思っていた。
痛みを手放さず、痛いまま、その痛みこそ自分だ、と思い込んでいたのだ。
でも、そんな事はない。頭が痛いとき、頭痛薬を飲むのは治す為で、本来痛みとは治すものだ。
それを私の人生だ、と思い込んでいたのだから、生きづらいし、死にたくもなる。
痛みを取り除いた私、例えば好きな事をしてたり、大好きな友達と話してる時の自分が本来の自分であって、それは誰かに傷つけられ、嫌な目にあったとしても、何も変えられない、侵される事はないはずだ。
今思えば、メンタルクリニックに行って良かったと思う。というか、もっと早く病院へ行くべきだったと思う。
メンタルクリニックで言えなかった様々な事、希死念慮や自殺未遂、家族や会社の問題、コンプレックスを吐き出せた。勇気がいったし、二人目の先生で、それでも早いと思うけれど、言うことができた。
それが変わるきっかけの一つだったと今思う。
でも、随分マシになった。
それだけで楽になった。生きていたいと体はどうしても動くから、体と心がバラバラなのは本当に苦しかった。
でも、今は心と体が一緒というか、心が体を傷つけなくなったというか、やっと2つが私のものになった気がする。
気分の波は今もあるし、今日こそ死んでやる、と思う日も、少なくなってきたとはいえ、なくはない。そういう自分も、自分だから、ただその都度癒して行く方向で、いつまで続くか分からない人生を過ごしていこうと思う。
回答者の構成比が70歳以上が半数、60歳以上も含めると70%以上になっているアンケート結果なんか信用できないって直接言えば良いのにな
3-40台が14%のアンケートなんか、そりゃ幼稚園が近くになくても困らない結果になるだろ
男性が5?%って言われてもそんなもんじゃないかとしか思えないから、例が悪い