はてなキーワード: 川口浩探検隊とは
モキュメンタリーってのは、フェイクのドキュメンタリーのこと。
一般的には、『ガチンコファイトクラブ』とか、『川口浩探検隊』みたいなやつ。
増田は、『ほんとうにあった呪いのビデオ』みたいなシリーズが好きだ。
最初は、「旅行しても、現地のマニアックなところとか見れないからな〜こういうので旅番組代わりにみるか〜」みたいなハマりかただった。
しかし、次第に、「フィクションで他人の生活を覗く、普段の生活の中で異常なことが起こる」のが面白くなった。
そういえば、『ガチンコファイトクラブ』とかも、面白いからなあ〜。と。
そうなんだよね、「やらせ」って叩かれるけど、日本人好きなんだよなあ。
『ブレアウィッチプロジェクト』とか『REC』とか、王道は見まくった。
ホラーだけでなく、コメディ系もモキュメンタリーは相性がいい。
『松本人志の大日本人』とか、『極楽とんぼのテレビ不適合』とか、お笑い系のモキュメンタリーが日本は多いかな。
ホラーだと、『放送禁止』とか、『Aマッソの奥様っそ』とかが有名で、マッコイ斉藤とか色々モキュメンタリー撮りまくる映像作家みたいな人もたくさん出てる。
モキュメンタリーは低予算で作れるが、それでも供給側は少しずつしか作れない。
『フェイクドキュメンタリーQ』とかってユーチューブ番組もあるけど、更新ペースは遅い。
例えば、『駿河城御前試合』ってやつは、小説で、徳川忠長が殺し合いを侍にさせるってやつだけど、これもモキュメンタリーだ。
このゲームは、地球防衛軍が宇宙人にボコボコに負けてしまうのだが、
ラジオ放送では「連戦連勝です!」「君も、地球防衛軍に入らないか?失業対策として、政府は地球防衛軍入隊に伴う祝い金を増額しました!」みたいな、嘘を流しまくる。
最近、オカルトブームを振り返る人が多いけど、あまりに言っていることがあやふやなので、とりあえず調べられるだけ調べてみた。
はてな村の住人は分析や論理を重んじる。重んじ過ぎている、とすら言える。
先日、昔投稿していた小説サイトを久しぶりに覗いて、過去の自分の作品を読んでみたのだが、技術の如何はさておき、小説としては今はてなで書いている自分の文章よりはるかに面白い。
当時は自分の小説がそんなに面白いものだとは考えていなかった。プロの書くものにはかなわないと思っていた。
歴史ものを書くときには史料にしっかりとあたるように心がけていたが、それ以外のジャンルを書くときには、感性の赴くまま、理性のたがを外すようにして、心の隙間から生まれ出てくるものをそのまま創作物にしている感覚だった。
それは謎を謎のままとして楽しんだり、不可解なものごとに理由を付けず、ただ気味の悪いものとしてそのまま恐れるような感覚を文章にしていたといっていい。
それに比べて最近の自分が書いている文章は、論理的で分析的かもしれないが無味乾燥だ。なぜこんなに心が乾いてしまっているのだろう。
2chやはてなで論争を繰り返し、理論武装するようになってからこうなってしまったように思う。
謎や不可解なものの裏側にある秘密を暴いて、構造を明確にしてゆくと、圧倒的なものに触れたときに生まれた表現への初期衝動は薄れていく。「セックスなんて所詮脳が生み出す電気信号のやりとりに過ぎない。脳の特定部位に電極を突き刺せば同等の快楽は得られる」などという、大脳生理学にかぶれた輩の物言いにも似た事態だ。
とはいえ、その物言いは、事実無根だと切り捨てられないのがもどかしい。たしかにセックスのときに人間が感じている感覚は、脳の反応を見ればただパルスが適当な部位にはしっているだけのことだろう。いや、そうではないのだ、といくら強弁したところで、科学的な根拠は提示できない。ネットの言い回しを使えば「ソースはない」ということになる。
学研の「ムー」という、オカルトの有名雑誌がある。どう読んでもネタとしか思えない。だがしかしひょっとしたら事実かもしれない。そんな虚実の入り混じった面白さを楽しむことが、かつての日本の言論状況では可能だった。しかし、はてな村以降の世界では、虚実の虚には完膚なきまでに論破され、挙句、あんな曖昧な雑誌はなくなってしまえばよい、という科学原理主義者の物言いが正当化される。
別に私もあんな雑誌がなくなっても日常生活に不都合はありはしない。しかし、日常を彩るエッセンスのひとつとして、タバコやコーヒーのように、害を知りつつもほどほどに付き合い、楽しむことが出来るものとして存在していてもいいのではないか、と思うだけだ。
都市伝説のひとつも存在しない、川口浩探検隊のような種類のエンターテインメントがまったくない世の中が、今よりも素晴らしいといえるのだろうか。
サブカルチャーの中で描かれる妖精や精霊は認めるのに、一方で、その源流たるアニミズム的な発想はくだらないオカルトとしてバッサリ切リ捨てるような状況には、矛盾したものを感じなくもない。
散漫になった。まとめると、創作に感動をもたらすのはうさんくさい「隙間」だ。隙間なくびっしりと埋められた世界からは、感動するものは出てこない。逆に言えば、感動は理由づけした時点で死に絶える。批評は重要だが、創作物には作者すら理性的には踏み込めない部分があり、そこは尊重する必要がある。
目に見えない可能性を潰して回っていると、人類の世界を見る目は皮相的な、浅いものになっていくばかりだ。何もファンタジーに限らない。全部理論的に何一つ矛盾なく説明できるSFは突飛さがなくつまらない科学読み物になってしまうし、予測不能の事態が起こらない歴史ものは教科書を読んでいるようであくびが出る。
この文章にも反論はあるだろう。論破しようとすればいくらでも出来るだろう。理屈と膏薬はどこへでもつくのだから。しかしひとつだけたしかなことは、隅から隅まですべてを認識し、理解し、分析しようとする態度は、感性を殺す。仕事のときならそれもいいだろう。仕事は感性と関係がない。しかし仕事と離れた場所で、つまりはてなブックマークや匿名ダイアリーで、仕事のように論理的な態度を崩さずにいることは、不健康だ。もっとはてな村は気楽になったほうがいい。クリエイティブな空間としてはてな村が再生されることを望む。