はてなキーワード: 山間とは
うわー
…小学校入学直前まで短期間だけ住んでた、石垣の上に張り出したような借家をおもいだしたわ
火力発電所建設拒否で電気代少額払い運動してたら停電させられて&でも建設されたので公害から逃げるために山間部へ転居したんだが話がついてた引っ越し先の大家が土壇場で嫌がってナシになり伝を辿ってなんとか廃校舎の宿直室を貸してもらえることになり、それがスゲーとしかいえないボロ屋だった
(ちなみに本来の転居予定先にはその後に電力会社の関係者が引っ越して来たらしい)(という事情は成人してから知ったが中学生時代はその社員の子息からイジメられてたわ)
玄関から入ったらいきなり土間で冷暖房も無いそこで炊事とテーブルと椅子で食事、上がってすぐは板の間で書斎とポータブルトイレ、で次がやっと畳の敷かれた居間だが蒲団を敷いて寝室にしてて、その果てがガラス戸で何故か解放できて下が崖だった…(なんだったんだありゃあ)
風呂も玄関から出て別棟の五右衛門風呂!さらに宿直室だからか便所は校舎に行く途中にあった、だからポータブルトイレ置いてた(でも臭いしあんまり貯められないから日中は校舎側を使うように親から言われてた)
建てられてた下の石垣から時々ヘビがアタマ出してるのが見えたりしてたわ、室内でムカデを見たのもその家が初めてだった、あとは隣接してた廃校舎と廃講堂には悪ガキだったので近所の同年代といっしょに入り込んで放棄された物品を漁ったりしてた、傷んだ木造でマジで危険だったからか校舎の二階への階段と講堂へ渡る廊下は壊されて歩けなかったが幼なかったので立体的によく理解できず当時ときどき騙し絵みたいな夢をよく見てた
東名や新東名とか主要路もそうだし、田舎だと伊豆縦貫道とか険峻な山間をトンネルと橋梁で高規格道路が走っている。
そもそも昔よく見た「空飛ぶクルマ」の用件は、ただクルマが空を飛ぶ状態を指していたわけではないだろう。
発達した都市内部の道路を躱し目的地や他都市へ直線的に結ぶために、上方に開けた空間を生かして移動するのが「空飛ぶクルマ」の重要なところだ。
すなわち、厳密な意味でクルマは空を飛ぶ必要がなく、上方空間を都市や自然地形に左右されず移動できることが「空飛ぶクルマ」の肝になる。
そうした視点から考えると、現代は実に「空飛ぶクルマ」に溢れ、個人の旅行や日々の物流に寄与している。
集落内に商店は無く、コンビニもイオンも車で15分くらいかかるしバス路線は廃止になったし、自然は豊かなのに散歩するところがなく、家から出ないのとか首がもげるほど同意。
うちの集落の奥に市のゴミ処理施設がある。収集車が通るので道路は優先的によくしてもらえる。道路脇の木が雪で倒れるとその日のうちに撤去してもらえる。道路脇の木というのは街路樹ではなくて、山に生えている木ね。人口が減って、山の持ち主も地元を離れていたりして、山林の手入れが行き届かなくなってる。で、雪の重みで折れたりしてゴミ収集車の通行に支障が出そうになってる。えーと、つまり都市部で生活してても山間地の影響はあるってことです。電力会社が送電線周りの山林を手入れしてるみたいに、誰かが山の世話をしてくれたらいいんですけどね、所有者任せではなく。
限界集落は、まあ、そのうち滅ぶと思う。そのうち地方都市が限界集落化して、また滅ぶかもしれない。
我々田舎の民が都会に出たとして、差別を受けないかが心配。都会の民は隣人に無関心と言われるから、これは杞憂に過ぎないのかもしれないけど。「陰湿な」田舎で育った者としては、周囲から浮かないように、必死で都会のやり方に合わせて擬態しようと思う。
コンパクトシティーはまさに自分が思ってることで、山間部の50km圏内に500人300世帯みたいなコミュニティなら
その点在してるの全部まとめて中心部に団地作って病院やらスーパーやら作ってハイどうぞで爆安家賃で住まわせたら良い
と思うんだよな
クソ田舎に水道や郵便、そもそも道路、電気などのインフラを維持するコストかけるぐらいなら全部なくして
中心部に馬鹿でかい箱物作ってそこでみんなで幸せに暮らそうぜの思想
もちろん、住み慣れた我が家、我が地域が良いのはすごくわかる。だから本当にそこに住みたい人は住めば良い
自給自足で。宅配、郵便は週1、生協は来ない、電気はない(ソーラーと蓄電池で頑張れ)、水道は井戸、インターネットは無線で勘弁してやる
子供が産まれたのを契機に妻の実家に4ヶ月ほど住んでた。リモートワークが一般化して田舎暮らしに憧れる人も多いと思うので、
思ったことを書いておこうと思う。
ちなみに自分は生まれも育ちも東京都内(23区ではない)で、自宅は23区内の駅徒歩5分マンションである
もちろんこれまでにも何度も義実家には訪れているので勝手はわかっている
新幹線の駅から車で30分、峠を越える山間部でまわりには何もない
駅の周辺までいかないと何もないので、最低30分車に乗らないと何も出来ないところである
最大3泊ぐらいしかしたことがないので、これまでは「なんもねぇなぁ」ぐらいしか思ってなかった
日本の狂ったインフラ行政とNTTのお役人のおかげで、そんな村にもひかりふぁいばーが届いている
これが衝撃的なことに1Gbps回線である。実測も500Mbpsぐらい出るので仕事には全く支障がない
もちろん、モバイルデータ通信も問題なく使えるので、さすがに5Gは無理だが十分な速度の4G通信ができる
Starlink買うかーと思ってたけどそんなものはいらなかった。ありがとうイーロン
飲食店、コンビニ、美容室含めて商業施設は近所の商店(必要最低限のものしか売ってない)以外は
車で30分の駅まで行かないといけない
例えばメルカリで商品が売れたとすると、最寄りは郵便局(車で30分)、コンビニ(車で30分)までいって
発送するのである
「あっ売れた!」つって家の隣のコンビニから発送してた生活からするとものすごいものがある
なるほど、こういうところに住んでる人が発送までやたらと時間かかる人なんだなと思った
ただし、クロネコヤマトはものすごい速度で届くので、Amazonもストレスなく使える
日本のインフラ本当にすごい…こんな田舎見捨ててくれていいのに
救急車は30分かけてやってくるので、何かあった場合最短1時間近く病院までかかる
これは超ゆゆしき自体で、都会に住んでりゃ近所の消防署から救急車が来てものの30分もかからずに
田舎の総合病院一択なので、難しい病気だった場合はどうしようもない
子供に何かあっても30分かけていく小児科は2件ぐらいしか選択肢がなく、
そんなところに義両親と我々、子供が住んでいるので
そこそこ買い物などは必要であるが、なんと生協さんが週1で物資を配達にきてくれる
この国のインフラ頭おかしいんか…と思うんだけど、非常にありがたい
急ぎのものはAmazonや車で30分の町まで買いに行くのである
そんな暮らしなので、家で仕事しつつ子育てをして、山を見て暮らしていると
外に全く出なくなる
公園もない
家は8LDKみたいな狂ったでかさだし、庭も校庭かってぐらいの規模なんでまぁまぁ敷地の中でも移動距離は稼げるが、
こんなクソ田舎でも移住者がおり、村も移住者を斡旋するサービスをしていたりする
自分からしてみると「頭おかしいのか?」という感想しかわかないんだけど、畑耕したりして楽しいらしい
リスクとしては、急病で医療が間に合わず死ぬ可能性ぐらいで、あとは不便を享受できたらいいんだろうけど自分には耐えられない
あそこの空き家には○○からきた移住者がきて〜とか、すぐに噂が広まり、マナーが悪いだのアレコレいわれ、
音を上げて出て行く人も多いようだ
とにかく、不便と陰湿な田舎文化をどれぐらい我慢できるか、楽しめるかが鍵になる
仲良くなる事はできると思うけど、自分はこいつらとは価値観合わないから
一生話は合わないなと思った
家から出ないでいい人にとってはもしかしたら良いのかもしれない
カップラーメンだけ食ってインターネットで交流して楽しければ、生活コストは安いかもしれない
都会暮らしに慣れた自分からすると、田舎暮らしのメリットは一切ない。ゼロ。何もない
車ばっか乗って全く歩かなくなるし、思い立った買い物はできない、メルカリの荷物も送れない
Amazonは最短翌日に来るけど当日はさすがに無理
自然はあるけど、虫が多くて鬱陶しいし野生動物(熊や鹿、いのしし)も多い
本当に衝撃的なのは、こんなクソ田舎でもインターネットが使えて、携帯は通じ、
この集落のビジネスはぶっ壊れてるので何もない。わけのわからん個人商店だけだ
かろうじている若い人は、車で30分の町で働いている。だったら町に住めばよくね?
その町も大概なものなのだが、論点がずれるし一応新幹線が止まるので置いとく
どう考えてもオール赤字のインフラが日本全国こんな感じで散らばってるのかと思うと、
その辺の土地耕してたら良いんじゃないだろうか
農業人口が減ってるんだし、クソ田舎の山に住まなくても、農地の周りに自治体がマンションでもたてて住んで
みんなで米作って暮らしたら良いんじゃないだろうか
それで鬼のような山奥まで水道電気引くコストを減らせるなら、そうした方がいいんじゃないだろうか
限界集落を無駄に延命しないで、取捨選択で滅ぼした方がいいんじゃないだろうか
そんなことを思いつつ、過ごした4ヶ月であった
子供は幸い無事に育っている
超かわいい
結論 →宗教(とNPO)に大切な資産を奪われ、老人ホームに閉じ込められてしまうのじゃ。
-
これはただの一例なのじゃ。
ちょっと詳細を言葉をぼかしてお話しすると、盆の帰省時に親から伝え聞いた伯父のお話なのじゃ。
世の中には、有名な所からマイナーな所まで、いろいろな宗教があるみたいなのじゃ。
あと、わらわの文体も隠すために、魔法のAIで書き換えているのじゃ。
-
伯父は7人兄弟の次男として生まれ、東京に出て結婚したものの、子どもに恵まれずに定年を迎え、妻を亡くした後、西日本の山間部にある故郷の集落に戻ってきたのじゃ。
伯父の父(わらわの祖父)も亡くなり、土地は伯父が相続することになったのじゃ。
長男はもう亡くなっており、わらわの親は県内の都市に住んでいるし、他の兄弟たちも東京や大阪周辺に住んでいるため、東京から長時間の移動をしても、夜遅くなるとタクシーも利用できず、9時間もかかる山間部の土地を誰も手に入れることを望まなかったのじゃ。
そして伯父も老齢のため、だんだんと体調がすぐれなくなってきていたのじゃ。
そのため、わらわの親は月に2回ほど、お世話のために通っていたのじゃ。
伯父は、お金の使い方が大らかで、金銭で好意や感謝を表現することになんとなく得意さを感じていたのじゃ。
伯父の妻が亡くなった後、その傾向が一層強くなったそうなのじゃ。
わらわの親が通って世話をする際、金銭は渡していたが特に口頭での感謝の言葉は少なく、そのことから気持ちのすれ違いも生じたこともあったのじゃ。
そしてコロナの影響もあって、訪問が途切れることもありましたのじゃ。
それが3年前のことじゃ。
-
伯父にはわらわの親以外の存命の兄弟がもう1人おるのじゃ。
わらわから見れば、どちらも伯父なのじゃが、便宜上「宗教弟」と呼ぶことにしておるのじゃ。
伯父と宗教弟は仲が悪く、特定の宗教を信仰し、貧しい暮らしを送っておるのじゃ。
伯父は宗教弟のことを、「あいつにお金を渡したら、その全てが宗教のために消えてしまう」と言っていたそうじゃ。
わらわの親と伯父の関係が途切れてから、宗教弟が絡んできたのじゃ。
気がついたら、遺言書が書き換えられ、伯父の家も相続した先祖代々の土地の名義も宗教弟のものとなっていたのじゃ。
どのようにしてそれが成されたのかはわからぬが、当初宗教弟はその知識を持っていなかったとされているため、おそらくは宗教が裏で手を引いたのだろうと思われておるのじゃ。
-
伯父は今、その宗教と、その宗教が運営する福祉系のNPOに縁がある老人ホームにお住まいなのじゃ。
数千万という財産はNPOによって管理されており、伯父が認知症を発症したため、携帯やスマホは預けられ、老人ホームへの入居後は面会も難しく、現在の様子は全く不明なのじゃ。
伯父はもう平均寿命を超えた年齢なので、いつ天寿を全うするか分からぬ状態にあるが、おそらくわらわがその最期を知ることはないだろうのじゃ。
伯父はその老人ホームで(宗教弟を除いて)、親戚に会うことなく過ごすことになるのじゃ。
このままの状況で、伯父の人生が終わることになるが、それが幸せであるかどうかは分からないのじゃ。
孤独ではなく、支えられる環境で過ごせることは、伯父にとっては救いになっているのかもしれませんのじゃ。
ただし、10年後になると、もしも伯父が祖父の享年を超えて生きることとなれば、老人ホームの月々の費用が減少し、最終的には財産も底をつく可能性があるのじゃ。
月額費用が支払えなくなると、追い出されてしまう危険性もあるのかもしれませんのじゃ。
その点については、心配しておるのじゃ。
地方に文化がないとは思わないのだが、特定の分野に強く打ち込みたい場合、分野によっては地方に住んでいることが非常に不利になることがある。
特に移動の自由のない子供にとって、住んでいる場所による格差は顕著に表れる。俺にとっては音楽がそれだった。
昭和末期に地方の山間部の村で育った俺は、幼少期からクラシック音楽全般、特に演奏と作曲に強い興味があり、
自分で作曲した曲を五線譜に書いて小学校の音楽の先生に見せたり、テレビで聴いた曲を耳コピして鍵盤ハーモニカで演奏したりしていた。
しかし周囲にクラシック音楽に理解のある人はおらず、ピアノ教室に通うのを切望しても通わせてもらえず、演奏会などは遠くて行けず、やりたいことがほとんどできずに燻っていた。
やがて中学校に進学した。地方山間部の中学なんて公立一箇所しか選択肢がなく、医者の息子からヤンキーまでみんながそこに通う。俺も当然そこに通った。
その中学校では全生徒が何らかの部活動に強制加入させられたが、選択肢は運動部数種類と吹奏楽部しかなく、
かつ吹奏楽部は男子の部員は一人もおらず女子しかいなかった。なので男は強制的に運動部に入るしかないような状態だった。
しかし俺は男だがどうしても音楽をやりたかったので、周囲の反対を押し切って吹奏楽部で唯一の男子部員となった。
教師すらも俺を奇異の目で見たが、俺が音楽に熱意を持つのは有名だったらしく、まああいつなら…と認めてくれたような形だった。
しかしまあ、部内で馴染むことは最後までできなかった。部内でも異端中の異端だった俺は孤立し、一人黙々と練習する日々を送るしかなかった。
部自体のレベルも低く、コンクールで良い成績を残すこともなかった。そんな環境の中で、俺の音楽への熱意はすっかり薄れてしまった。やがて中学を出て高校に進学したが、俺はもう音楽をやることはなかった。
音楽と無縁な高校生活を送った後、大学に進学した。そこで管弦楽団の勧誘が目に止まり、また音楽をやってみるかという気持ちになって管弦楽団に入ってみた。
しかしそこで俺は、他の団員たちと自分の差に愕然とすることになる。
小学校の頃からバイオリンをやっていたという人、中学生の時に全国大会に出たという人、親が音楽家だという人。
幼少期から豊かな音楽に触れて、環境にも仲間にも指導者にも恵まれた音楽エリートたちがそこに集っていたのだ。俺が生まれ育った村ではまず見ない人種の人々であった。
音大ではないにも関わらず、そこの楽団からはプロの奏者もけっこう出ているので、レベルの高い楽団ではあったようだ。
俺は初めて、自分が環境面で恵まれていなかったことを実感した。
これは住む場所の問題だけではなく、家庭環境の問題でもあるだろう。しかし小学生のうちから子供にバイオリンをやらせるような環境や、全国大会に出るような活気のある部活動などは、
俺の住んでいた村にはほとんど存在できないものだ。それらはやはり、ある程度の規模以上の都会にしか存在できない。今にして思えば、これこそが都会と田舎の格差であった。
結局俺は、他の団員たちの話に付いていけず、疎遠になり、半年ほどで楽団をやめてしまった。それ以来俺は、音楽活動はしていない。
今は都会に住んでおり、近くには楽器店やコンサートホールなどもあるが、もうどうでも良くなってしまった。
もし俺が打ち込もうとしたのが、地元の伝統芸能とか自然の中での屋外活動のような、地方にアドバンテージがあることであればこうはならなかっただろうと思う。
まあ中小企業を潰した方が効率が良いってのは分かるんだけど、でも大企業が儲けの薄い土地に進出するとも思えんのよね。
一番分かりやすいのが小売だろう。
例えば地方の数店舗くらい出してる食品メインのスーパーやってる会社なんて大抵経営苦しいんだけど、そういうとこがいきなり潰れると地域へのダメージが洒落にならんのよ。
小売ってのは物流の終点な訳で、無くなると人間社会の血液と言って良い金と物の動きがいきなり途絶えてしまう。
人間で例えたら手足の指先の毛細血管の何本か、いきなり血が流れなくなっちゃうようなもんだ。
多分、即死はしないけど体にとって良いことではないよね。
だから潰れるとしても数字の良くない店舗から閉めていって、閉店の影響を小出しにしつつ最後の店を閉めて、最終的に会社を畳むってのが地域社会にとってはベスト。
ただまあ当たり前だけどそんな都合の良い話はなくて、いきなり全部の店が潰れて明日からまともに買い物できない人達が発生しちゃうケースがほとんどなんだよね。
地元の運送会社とかも(地域の中では)大口の顧客を失う事になるから、規模を縮小したり潰れるところもでてくるだろう。
そうなると物のやりとりも離島や山間部並みに不便になっていく訳だ。
コストコに合わせて地方でも最低賃金を1500円にするってことは、そういう地域社会を支えてきた儲けの薄い分野の企業を一掃することになる。
「給料上げるだけじゃん? そんな事もできない企業なんてさっさと潰れろ」と言う人は多いだろう。
だがな、一応帳簿の上では儲かっていても、給料として支払う現金はあまり持ってないって会社少なくないんだよ。
寂れた地方にいけばいくほど、地域に流れてる金の量も少ないからな。
帳簿上の儲けを一気に現金化するのは難しいし、やれたとしても大きく目減りする事になるのは想像が付くだろう?
かといって給料増やす為に銀行から融資を受けられるかというと、よっぽど将来有望な会社じゃないと門前払いされるだろう。
だからって公的な支援、要するに税金を突っ込むような対策は駄目なんだろ?
まあ経営状態のよくない会社が潰れていくのは広い視点で見ればいいことなんだろう。
ただ地元の企業をふっとばされた地域は仕事はない、買い物もできない、物を受け取ったり送ったりもろくにできない、って状態になってしまう。
そして過疎地と同じ様に動ける人から東京などの大都市に向かい、動けない人達だけが残る限界集落という形に固定化される。
「いずれそうなるんだから、早くそうなった方が良い」みたいな事を言う人もいるだろう。
それが正しいとしても30年くらいかけてだんだんとそうなっていく予想だったものが、短期間で一気に起こったら移動先の都市部への影響も酷いものになるんじゃないだろうか。
例えば都市部に流入した人口を吸収できず、郊外がスラム化したりってことが起こるんじゃないか?
スラムなんてできたら劇的に治安悪化すると思うけど、それも許容するのか? それともスラムを壁で覆うのか?
インフレに合わせて最低賃金が徐々に上がっていくのは仕方ないにせよ、最低賃金の大幅な上昇を短期間で行うことには俺は反対だな。
デメリットの方が大きすぎると思うんだよね。
ここからは余談。
ぶっちゃけ東京に住んでる人にとっては、地方の最低賃金がどれだけ安くても何も困らないと思うんよ。
嫌な話だが、中国みたいに地方戸籍と東京戸籍を分けて、地方戸籍の人間は東京に長期滞在できない仕組みにしちゃえば外国人実習生の代わりにもなる。
20代での移住で右も左もわからず、ご近所さんに助けてもらいながらなんとか生活を築いた。
移住して1ヶ月、お隣の息子さんから消防団に入らないかと勧誘を受けた。
「消防団は大変」という話を聞いていたし、ネット上の消防団操法大会に関する記事も読んでいたので躊躇したものの、性格上自分が体験していないことを否定する気にはなれなかったので受け入れた。
入団してみると意外にも同年代が多く、無料でお酒を飲ませてくれるし、キャバクラなんかも連れて行ってもらえるし結構楽しかった。
ある日の会議で、操法大会についての話になった。知らん間にプリントに名前が書かれていたので小型ポンプの番員として出場することになった。前述の通り、体験していないものは否定できないのでこの時点では特に文句は言わなかった。
練習は週に4回。月、水、木、土の19:00-22:00。
内容は実務的なことはほとんど重視せず、動きを合わせることに特化しており、消火活動というよりはシンクロナイズドスイミングに近い。
防災に役立つとはクソほども思えない感じだった。
練習すること3週間、市町村ごとの操法大会が開催された。うちの班はたくさん練習したこともあり、優勝した。
その頃にはだいぶ他の団員とも仲良くなって「練習期間伸びるじゃねえかふざけんな」とか思うままに文句を言えるようになっていた。
その後、各近隣市町村大会で上位のチーム同士を集めての大会、そして県大会と奇しくも歩みを進めて最終的には県3位の成績でその年の操法大会は幕を閉じた。
俺は家にいたのですぐに詰所に向かい、集まっていた3人の団員とともにポンプ車で出動するように指示を受けた。
現場につくと、轟々と燃え盛る土手に放水する消防署員たちがいた。
「あ!消防団さん!そこの川から水汲みあげて、中継してもらえる?」
署員から指示を出されたが、そのとき一緒に出動した4人のうち3人が、操法訓練では小型ポンプの持ち場の動きしかやったことのない団員。誰もポンプ車での水の汲み上げ方がよく分からない。
もう1人はポンプ車の部で大会に出場していたものの新人で、半年前にやったきりの操作方法なんて全く覚えていなかった。
「すんません、僕らよく分かんなくて…」
「分かりました!機関貸してください!」
結局署員が消防団のポンプ車を使って消火。集まった団員たちはいたたまれない気持ちでその様子を眺めるだけになってしまった。死傷者が出なかったことが唯一の救いだった。
・大会のためだけの操法訓練だと番外の練習をしないため運良く番員が揃わないと、消火できないこと。
・従来は大会前にしか訓練せず、操作方法を忘れてしまうので、分散させて定期的に訓練したほうがいいこと。
など、できるだけ合理的に話した。
田舎とはいえ消防団は若者ばかりなので案は受け入れられ、うちの分団は操法大会には集中せず、月に1度の実務的な訓練をするという方針に変わった。
方針が変わってからは全員がポンプ車、小型ポンプともに扱えるようになり、火災時に誰が出動してもある程度は対応ができるようになった。
そんな折、分団長のもとに消防団本部(分団の上位組織)からお達しがあった。
「大会に向けた練習に身が入ってないから従来のような操法訓練をしろ。」
要約するとそんな内容。予算配分や、設備拡張などを担っているのが本部なので分団は基本的に本部の方針は絶対ということになっている。
せっかく体制を変えたのに元通りになってしまっては意味がないので、俺は役所の目安箱的なものに意見書を投書した。
先述の問題点を極めて合理的になるべくお役所フォーマットに則って書いた。
が、返信はなく結局、操法訓練は復活して今まで通り意味のないシンクロもどきを繰り返す団体に戻ってしまった。
その後、コロナ禍になり、一時的に操法大会は中止になったものの、今年は開催されるようだ。
一体誰が、何のためにやりたいんだろう、これ。
20代での移住で右も左もわからず、ご近所さんに助けてもらいながらなんとか生活を築いた。
移住して1ヶ月、お隣の息子さんから消防団に入らないかと勧誘を受けた。
「消防団は大変」という話を聞いていたし、ネット上の消防団操法大会に関する記事も読んでいたので躊躇したものの、性格上自分が体験していないことを否定する気にはなれなかったので受け入れた。
入団してみると意外にも同年代が多く、無料でお酒を飲ませてくれるし、キャバクラなんかも連れて行ってもらえるし結構楽しかった。
ある日の会議で、操法大会についての話になった。知らん間にプリントに名前が書かれていたので小型ポンプの番員として出場することになった。前述の通り、体験していないものは否定できないのでこの時点では特に文句は言わなかった。
練習は週に4回。月、水、木、土の19:00-22:00。
内容は実務的なことはほとんど重視せず、動きを合わせることに特化しており、消火活動というよりはシンクロナイズドスイミングに近い。
防災に役立つとはクソほども思えない感じだった。
練習すること3週間、市町村ごとの操法大会が開催された。うちの班はたくさん練習したこともあり、優勝した。
その頃にはだいぶ他の団員とも仲良くなって「練習期間伸びるじゃねえかふざけんな」とか思うままに文句を言えるようになっていた。
その後、各近隣市町村大会で上位のチーム同士を集めての大会、そして県大会と奇しくも歩みを進めて最終的には県3位の成績でその年の操法大会は幕を閉じた。
俺は家にいたのですぐに詰所に向かい、集まっていた3人の団員とともにポンプ車で出動するように指示を受けた。
現場につくと、轟々と燃え盛る土手に放水する消防署員たちがいた。
「あ!消防団さん!そこの川から水汲みあげて、中継してもらえる?」
署員から指示を出されたが、そのとき一緒に出動した4人のうち3人が、操法訓練では小型ポンプの持ち場の動きしかやったことのない団員。誰もポンプ車での水の汲み上げ方がよく分からない。
もう1人はポンプ車の部で大会に出場していたものの新人で、半年前にやったきりの操作方法なんて全く覚えていなかった。
「すんません、僕らよく分かんなくて…」
「分かりました!機関貸してください!」
結局署員が消防団のポンプ車を使って消火。集まった団員たちはいたたまれない気持ちでその様子を眺めるだけになってしまった。死傷者が出なかったことが唯一の救いだった。
・大会のためだけの操法訓練だと番外の練習をしないため運良く番員が揃わないと、消火できないこと。
・従来は大会前にしか訓練せず、操作方法を忘れてしまうので、分散させて定期的に訓練したほうがいいこと。
など、できるだけ合理的に話した。
田舎とはいえ消防団は若者ばかりなので案は受け入れられ、うちの分団は操法大会には集中せず、月に1度の実務的な訓練をするという方針に変わった。
方針が変わってからは全員がポンプ車、小型ポンプともに扱えるようになり、火災時に誰が出動してもある程度は対応ができるようになった。
そんな折、分団長のもとに消防団本部(分団の上位組織)からお達しがあった。
「大会に向けた練習に身が入ってないから従来のような操法訓練をしろ。」
要約するとそんな内容。予算配分や、設備拡張などを担っているのが本部なので分団は基本的に本部の方針は絶対ということになっている。
せっかく体制を変えたのに元通りになってしまっては意味がないので、俺は役所の目安箱的なものに意見書を投書した。
先述の問題点を極めて合理的になるべくお役所フォーマットに則って書いた。
が、返信はなく結局、操法訓練は復活して今まで通り意味のないシンクロもどきを繰り返す団体に戻ってしまった。
その後、コロナ禍になり、一時的に操法大会は中止になったものの、今年は開催されるようだ。
一体誰が、何のためにやりたいんだろう、これ。
「飛行機が飛び立つ瞬間、窓にかじりつくようにして外を見ている人は、少年のハートを忘れていなくて(情趣を介している感じがして)好感がもてる」っていう信念(?)があって、俺も少年ハート男になりたいという思いから、正直ぜんぜん外なんか見たくなくても、飛行機が飛び立つときには窓の外をガン見してる
飛行機、全然乗らないほうではないので、離陸の景色なんてもう結構見慣れていて、別にそんなに見たくねえなあ、という気分のときのほうが多いくらいだ
一人で乗ることが多いから、恥はかき捨て状態だし、だれの好感度をどう稼ごうとどうだっていい
ただ、自分のなかに一本芯を通したい、そういう思いで窓を見ている
離陸シークエンスが終わり、陸を見たところで山間部の緑と都市部の白の2色あるということしか見分けられなくなったところで、やっとOKという気分になって窓を見るのをやめる
たぶん自分以外に客がいなくても同じことをする
俺が少年ハートを持ったナイスガイだということを観測している・観測していて欲しい相手というのは結局俺なので、他人が見てねえからといって窓なんて無視できるぜ、という話にはならない
むしろ、観客を気にして風流人を装うというのはいちばんダサい行為だと思っているから、他人が見てないところでは離陸ガン無視、他人がいたら目をキラキラさせて窓を見る!というのは俺的にもっとも許せない態度だ
ただ、実際には少年の心とかもう失ってるし、そもそもどういう機序で飛行機の窓見てたら情趣を介するってことになるのかも微妙なところがある
つまりは空に進出した人類文明の執念をアプリシエイトするとか、純粋に空に飛び立つことに感動するとか、そういうことではあるんですけどね よくわからん
なんというか、本当は情熱なんてないのに、情熱があるフリをしてるんですよね
そういうことって結構あって、たとえば雨上がりに虹が出ているとき、おお綺麗だ、見るぞ!と、これは本心から思うんだけど、7秒くらいみたら満足するんだよ もういいやってなる
でも、7秒で虹から目を離すのは、俺の中の基準に引っかかるんで、本当はそんなに見たくないんだけど、結構3分とか見てる
これも街中でほかに人がいるからそういう演技をするとかじゃなくて、ガチで人も車も通らない山道とかでも同じ
なんなんですか?これは
そういうことってあるものですか?
あってほしいと思っている
虹をボーッと見ている人の3割くらいが、実はもう虹への興味を失っていて、ただ虹への興味をすぐ失っている自分を許せず、無理矢理視聴継続している、ということであってほしい
マジで意味のない謎の演技をしている人間で世界が溢れかえっていてほしい
これは実際、本心ですね