はてなキーワード: 尾木ママとは
言葉で言えばわかるという人がいるけどさ、散々言葉で言って分からんのに言葉で続ける意味ある?
過度すぎるのはいけないにしても、子供を叱る時に手を出すのは必要だと思うんだけどね。
で、手を出したら子供が警察に通報とかなるわけなんだけど、それはそれで結構な暴力だったのかもしれないとして、
躾としては、やっぱり必要だと思うんだよな。
じゃあ、言葉で続けるとして続けて効果なかったら、どうすればいい?何を言っても聞く耳をもちません。どうする?
放っておいたら、育児放棄と同じように結局親が悪いって考えに持っていく人いるよね。そうなりたくないけどって人にどうアドバイスできる?
何いっても聞く耳持ってないんだよ?なのに言葉で続けろっていう人の思考は停止してんじゃないの。
手を出さないにしても、放置すれば放置するで親の躾がなってないって言われるのって、おかしくない?
やるべきことを狭まれてさ、それで親の躾がー躾がーって言われてる世間の親も可哀想だと思うよ。
なんか、ああいうの見てると一方的に親のせいにされてるけどさ、子供が余計な知識をどこからか仕入れてくるのは
今も昔も変わらんし、その余計な知識に対して教育しても楽なことばかり考える子供に染め上げられてたら、
そうならないようにする為に必要なのは、時には手を出すことだと思うんだけど。
よくTVとかでコメントしてる尾木ママみたいなクッソ甘い考えのやりかたは、愛情じゃなく甘えさせてるだけ。
それでも、言葉で注意すればわかってもらえるなんて幻想抱いちゃうの?
追記:言及であれこれ言ってる輩も結局同じなのね。あれこれ言ってくる割に具体的な解決も何ひとつ提示できないとか。
後に残ることはしてはならないし、それを後に引きずる気持ちを残さないようにするのは痛みを教えた上で「なぜこのような痛みを感じなければならなかったのか」を教える必要がある。
言及している輩の大半は、暴力という言葉で括りすぎているし、自分たちがその場面に立ち会ったことがないから想像で話しているだけのゴシップ記事以下のアホな妄想で語っている。
本来の躾は暴力で抑圧することではない。抑圧で教えることは何もない。
躾に必要な罰というのは、あくまでどうしてこうなっているのか前提になったことがどういう事でどうしてそれが悪いのかを知ってもらうためにある。
当然だけど、その躾を行うのはそれが必要になった時だけだっていうの分かってる?
他人の物を盗んだら殴る?違うね、なぜ盗んではいけないかを自分の身になって考えるよう説くね。
他人を罵ったら殴る?違うね、なぜ罵ってはいけないかを自分の身になって考えるよう説くね。
なら、この躾はどこで使うかって話だ。
こんなの簡単だ、他人へ暴力など痛みを与えた場合に使うだけだ。とはいっても同じ痛みを与えるのはいけない。
げんこつ一発だけで充分だ。それだけでも痛みは伝わる。その上でなぜこの痛みを知る羽目になったのかを説くね。
他人の痛みを知らんで育つ奴は、皆似たようなことを言う。
それを知らん甘ちゃんどもが必死に「体罰禁止」を連呼してるのは滑稽だよ。
痛みを知らんから、言及で烏合の衆が俺に向かって言いたい放題やってるわけだ。
ご丁寧に「批判」なんて言い方しそうだが。
他人へ与える痛みわからんでしょ?増田がやっている事がそれだよ。
そんな事も気づかない輩たちが言及であれこれ高説垂れ流されても困るって話。
尾木ママ 明るくて、鈍くて、くじけない人でーす!?
が、山中研究室の不正問題で議論が起こっているのをみていると、途轍もなく言いたいことが湧き上がってしまいます。
日本の優秀な研究者は海外に行って研究すればいいのではないか?
マーケティング的に考えて。
先輩にも友人にも、大学院で研究をしている方が数多くいますし、私はその方々を本当に尊敬しています。
し、研究者はもっと研究に専念できる環境で研究すべきだと本気で思っています。
その前提でお読みいただけると幸いです。
また、以下の文章は全て、「日本ローカルでないと研究できない領域の研究者」は対象外です。
史学や考古学、人文科学などの領域で対象が日本列島のいずれかと密接に関わるやつ。
雑に行ってしまえば、「設備とか環境さえ整ってればぶっちゃけどこでも研究できるやつ」についての話だと思ってください。
山中研究室を取り巻く諸問題に関する議論を見ていてとても悲しく思うのは、
バカなマスコミとその先にいるとにかく不正を叩きたいバカな日本人、そして学問研究の価値を理解しない日本政府
VS
学問研究は人類・ひいては日本のために絶対必要かつ有益、なのに理解されない、だから日本では優秀な研究者が育たないんだ系研究クラスタ
になってしまっているように見えること。
実際 http://blogos.com/article/273575/ こう言う記事とか https://togetter.com/li/1193209 こう言うまとめとかバンバン出てます。
ただ、上の対立構造になっている以上、議論は平行線を辿る一方だと思うんです。
だって、日本で研究者が資金面・設備面・雇用環境の面で生きづらいのって、
マーケティング的に考えると、「日本人がバカだから」じゃなくて、
じゃあ「日本での学問研究の価値が相対的に低い」原因って「日本人がバカだから」なんでしょうか?
http://www.tsukuba.ac.jp/students/campus/184/1.html
ものすごくざっくり言うと「国立大学の予算の削減が著しい。このままだと高等教育の質が担保できない。」と言う内容です。
大学の社会的な機能は、おおざっぱに分けると「研究」と「教育」の2つ。
つまり予算が削減されると、大学運営上はどちらも厳しくなります。
ただ、国立大学の収支を考えると、国からの予算だけで運営されているわけではありません。
例えば「研究」だったら科研費とか、「教育」だったら授業料とか、収入を得る方法はありますよね。
ただ、筑波大学によれば、予算が厳しいからと言って授業料を上げるとなると、「どんな地域のどんな人にも均等に教育の機会を与えるためにある」と言う国立大学の存在意義の一つを失いかねない、と言うのです。
ここで、「日本に必要なのは質の高い高等教育なのか?」という命題について考えて見ましょう。
ご存知の通り日本では急速な勢いで少子高齢化が進んでいますね。
現在と同一水準の質を担保しようとすれば、福祉や社会保障にかかるお金は今後増していくことでしょう。
また、中国や新興国の急速な台頭によって日本の産業構造も大きく変わっています。
日本の貿易が今どう言った状況にあるのか詳しくはわかりませんが、普通に考えたら競合が増えてますので、貿易の利益(とそれからくる法人税)は減る一方でしょうね。
尖閣諸島への積極的なアプローチを見ていると、防衛費が過去最高額を更新し続けるのもうなずける一面はあります。
ざっとこれだけ考えても、日本という国の先行きは非常に厳しい。
果たしてこの状況で「日本に必要なのは質の高い高等教育なのか?」
「高齢者の社会保障を犠牲にして頭のいい学生のためだけの学びの場を提供すべきなのか?」
日本政府の意思決定は果たして論理的に破綻している「バカな」ものなのでしょうか?
■”質の高い高等教育”は他の教育を犠牲にしてまで優先されるべきものなのか?
「教育にかけられる予算が限られているのであれば、他の教育にかかる予算を削減してでも高等教育や研究に予算を割り振るべきだ。」
と言う意見もあることでしょう。
文部科学省のデータを超ざっくり見ると、私学助成金と国公立助成金の配分はおよそ1:3。(ソースは以下のP.31から。超ざっくりです。)
この配分を変えるべき!と言う意見もあるかもしれません。
実は日本の大学進学率は51%らしいです。OECD加盟国で見ると低いらしいです。(ソースは以下のP.24から。)
(http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/002/002b/19/082.pdf)
全大学生のうち、大学院に進学する/しないで比率をとったら圧倒的にしない人の方が多いでしょう。
純粋に「最大多数の最大幸福」の原理に立つならば、「私立大学の教育費を削って、国公立の教育費や研究費を捻出しよう」などと言う考えがいかに暴論か。
日本人の豊かさって、「普通にしてれば大学を出れるし、仕事もある」ことに集約されてると思うんです。
飛び抜けて優秀な人が幸せって方向に振らなかったからこそみんな幸せ的な日本があると思うんです。
ここまで考えると、「日本において高等教育・学問研究の価値が相対的に低いのは日本人がバカだから」って思えないんですよね。
残念ながら、日本が研究者にとっていい環境でないことは、しょうがないんじゃないかと思うんです。
頭のいい人間に投資しろなんて、この分断の時代にあってはとても危険な思想と受け取られかねないじゃないですか?
■日本の優秀な研究者は海外に行って研究すればいいのではないか?
ここまで来てようやく本題です。
日本の優秀な研究者は海外に行って研究すればいいのではないか?
日本では研究や高等教育は価値になりにくいみたいです。さてどうしよう。
日本の優秀な研究者に残された道は2つです。日本で研究するか、海外で研究するか。
「1.学問研究の価値自体を底上げする」か「2.自分の研究を価値化する」か「3.ひもじいのを我慢して努力する」か。
1. ってこれまでずっと研究者が言って来たことだと思うんです。
学問研究は将来の豊かさにつながる的な。実際本当にそうだと思うんです。
ただ、です。それが日本人全体の価値になるのか?は確かなのか?
極論を言えば、10年後の豊かさための研究は明日死ぬ人にとって何の意味もない。
日本人全体の価値になるかどうか?の確からしさってどうなんでしょう?
少なくとも日本では半分以上の人は確からしさを感じていないのでは?
そうなったらそれって所詮は思想であって、「正義」ですよね。日本人のために!ってやつ。
それって、「不正はいけない!」って言う「正義」と何が違うんでしょう?
少なくとも「正義」の強さ(≒正しさ)が民主主義的な数の暴力的プロセスで承認(≠証明)されるのであれば、「不正はいけない!」って言う正義の方が強そう。
弱い「正義」は残念ながら資本主義社会では利益を生みにくいんです。
「正義」対「正義」はどちらかが屈服するまで終わることはありません。
少なくともこの対立構造の中で議論することに、研究者のメリットは全くない。
となれば2.でしょうね。実際このタイプの方は成功を収めているパターンが多いと思います。
今話題の落合陽一准教授とか。本当にすごいと思います。後は尾木ママとかね。
3.は本当にないと思います。
研究が目的とするのに、研究環境を悪くするって何なんでしょう?
研究環境がプアなら、秀逸な成果に辿り着く可能性もプアになるでしょうね。
そんな頑張りに意味があるのか?
そう考えると、本当に研究がしたい研究者にとって残された道って、
「日本で自分の研究を価値化する」か「海外に行って研究をするか」しかないと思うんです。
どっちの方がハードル低いですかね?
「研究を価値化する」ために、「価値になりにくい環境で価値を探す」のと「価値になる環境に行く」の。
それはとても弱い「正義」です。
後進のために少しでも良い環境を!という思いを抱いて頑張ってらっしゃる方もいるでしょう。
と言うか、海外で「日本の研究者は優秀だ!」って言う評判を作ってくれた方がよっぽど後進のためだと思います。
これってマーケティングだと思うんです。
世界が資本主義を中心として動いている以上、一番強い「正義」は多分資本主義です。
資本主義の中で強そうな武器(方法論)として採用されているのはマーケティングです。
強いところで戦いましょうよ。
優秀な研究者であればこそ。
夫が子供(幼児と乳児)ばかりかまっているので、すねて一人で買い物に出掛けてしまった。電車で数駅のショッピングモールで思う存分ブラブラと。
子供はパパ大好きで、休日は一日中遊べ遊べとまとわりついているから、こっちにむける気持ちの余裕がないのはわかってるけど。でも本当は、子供に向けるそれを1割でも2割でも減らしてくれていいから、その分私がフォローするから、その減らした分を(育児ストレスをそれなりに抱えている)私に向けてほしい・・・・・。
という主旨のことを前にも(それなりに真剣に)告げたはずなんだけどな。尾木ママだってTVで、子供のケアよりもまず妻のケア!と言ってて、そうそうこれが言いたかったの!と後日夫に見せたはずなんだけどなぁ。私が望みすぎなのかな。
それにしても夫にこういう要望を告げるとき、私だって結構考えた挙句に、「一人で我慢して溜め込むんじゃなくて、やっぱりふたりのこれからのために言おう」と緊張しながら伝えてるのに。全然相手に響く感じがしないんだよなぁ・・・・。(今回だけじゃなく)
尾木ママの子育てに魔法の言葉 福井、講演で叱らない持論紹介
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/event_calture/44550.html
痛いニュース(ノ∀`) : 尾木ママ「叱らない子育て」提唱 「万引きしても『どうしたの?』と優しく声掛けして」 - ライブドアブログ
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1770569.html
子育てに愛情は必要だが、叱らない事がイコール愛情だと単純な理解をしてしまうと、大変な事になってしまうだろう。
はてブで叱らない育て方に賛同している方がいて、ちょっと心配になったので自分の体験を書いておこうと思う。
近所に大きスーパーがあって、そこのおもちゃ売り場で船(ボート)のプラモデルを万引きした。
そこには近所の友達と子供だけでよく行っていたのだが、その日は自分一人だった。
計画的だったのか衝動的だったのかは覚えてないけど、とにかくその日自分は店員の目を盗んでプラモデルを盗んだ。
まんまと盗みを成功させて、家に帰るとすぐにそのプラモデルを組み始めた。
そしてパートから帰ってきた母に「そのプラモデルどうしたの?」と聞かれた。
今考えればお小遣いでは買えないようなものを子供が持っているのだから、母が疑問に思うのは当たり前の事だ。
これはお店の人が僕が盗む瞬間を見ていて、そのことを母に連絡したのだと思って絶望的な気分になった。
お店のプラモデルの什器の前でこちらを見ながら何度も歩いていた店員のおばさんのことを思い出した(このビジュアルは今でも思い出せる)。
残念ながらどういう言い訳をしたのか思い出せないのだけど、たぶん知り合いに貰ったとか言ってごまかしたのだと思う。
子供の考える言い訳なので、母は怪しんだのではないかと思うが特にそれ以上追求されることはなかった。
よく覚えているのは、完成したそのプラモデルは水に浮かべて遊べるようになっていたのだが、まったく楽しくなかった事だ。
組み立てている最中は完成させて浮かべるのをわくわくしていたのに、母に「どうしたの?」と聞かれてから、楽しかった気分は完全にどこかに行ってしまった。
たぶん一度遊んだだけで押し入れにしまったように記憶している。
どうして楽しくなかったのか。
母に盗みがばれてるような気がしたのか、盗んだ事の罪悪感なのか、あるいはその両方なのか、残念ながら言語化されていない当時の気持ちを詳しく思い出す事は出来ないが、とにかく楽しくなかったのは覚えている。
子供騙しの言い訳で引き下がらずに、あそこで母はもっと厳しく追及しておくべきだったのだ。
その中で母親にばれたのは、駄菓子屋から盗んだカードの束、友達のお金、自転車の三回だった思う。あとボヤ騒ぎもあった。
自転車を盗んだのは高学年のときだが、その頃には「どうしてうちの親は怒らないんだろう」という疑問、というよりも強い不満が明確にあった。
漫画の中では悪い事をした子供は親に叱られているし、近所の子も親に叱られているし、自分もその近所の子と一緒に(その子の親に)叱られたことはあるが、自分の親に叱られるという事は全く無かった。
この頃から思春期を通して「普通の家庭」というものに強く憧れたし、自分の親の普通じゃない部分が全て憎く感じるようになった。
おそらく母にとっては、冒頭に書いたように叱らないことイコール愛情という認識なのだろうが、結果として自分はまともな大人にはなれなかった。
紆余曲折はあったが今現在30過ぎのニートだ(こうなったのは母のせいだと思ってる時点でクズですよね)。
叱らない事は簡単かもしれないが、叱らずに子供を正しく導くのには大変難しい技術がいるのだと思う。
「例えば万引で捕まったときには褒められない。そんなときにも怒鳴らず、魔法の言葉『どうしたの?』を優しく声掛けして」と秘けつを伝えた。
http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/event_calture/44550.html
私だって『どうしたの?』くらいは言われた。でもそれは魔法の言葉なんかじゃない。
自転車を盗んだ時には「欲しかったから」と答えたので、すぐに新しい自転車を買ってもらえた。
悪い事をした時に普通に叱る場合と比較して、全く叱らない場合ではたぶん1000倍くらい難しい、ほとんど稀にしかマトモな大人に育たない、そういう認識でトライしなければ取り返しのつかない事になると自覚した上でやってもらいたい。