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はてなキーワード: 就職活動とは

2024-06-19

anond:20240619162930

それは東京就職活動する必要があるのでは?

もうリモートでの就職面談なんかも減ってるだろうしなぁ。

それこそ企業規模が大きくなるほど「ある程度会社に出てくれ」って所多くなってきてるし。

リモートだけで仕事が完結する給与の真っ当な仕事はまだそんなに多くないよな。

人が減るから仕事が減るっていう負のスパイラルをどう止めるのか。

難しい問題だけど、出て行くヤツを貶したって逆効果だってのは確実だ。

2024-06-18

発達障害水泳平成不況リーマンショック、30代

・これは何か

私の半生を占める水泳と、それがその後の人生に及ぼした影響について整理するために書いた記録である

なお、当時は強いストレス下に置かれていたため、詳細を思い出せなくてぼんやりしている部分もある。

・なぜこれを書いているか

私は現在休職状態にあり、ADHDの診断を受けたところである

精神科に通いつつ、投薬とカウンセリング治療をおこなっている。

そしてカウンセリングを受けつつある今、自分がいまこうなっていることの底にはあまりに苦しかった水泳記憶があり、それを直視することは避けては通れない道ではないかと思ったからだ。

(先生に直接「直視しろ」と言われたわけではない。ただ、「あなた言葉あなた感情をひとことも説明しませんでしたね」、と言われ、その原因を自分で考えていたら、勝手にそこに行き着いたという話である)

正直に言えばそこに目を向けるのはめちゃくちゃ嫌で、前回のカウンセリングを受けてから2週間くらいメソメソメソメソメスティーソ泣いていたのだが、友達と遊んで少し息抜きをしたらちょっとした気づきと癒やしがあり、なんとか気力を振り絞れそうなので書いてみた。

水泳のこと

3歳から高校2年まで水泳をやっていた。

早いうちに才能を見出され、小学校1年か2年くらいでヘッドハンティングのような形で選手育成クラスに移った。

当時、肉体にすごく負荷を掛ける練習方法流行っていた時代だったから、シンプルに肉体的につらかった。スパルタが主流で、体罰は当たり前だった。

楽をしようものならコーチにも怒鳴られ叩かれ全員の前で吊し上げられた。そこまでは周りのみんなと条件は変わらないのだが、私の場合母親ほとんど毎日練習を見にきていて(それほどに熱心な親は他にはいなかった)、仮にコーチに怒られなくても、母親の目から見て私のパフォーマンスが悪ければ、そのことを帰りの車の中で詰められる日々だった。

行き帰りは車で母親に送迎してもらっていたが、車の助手席に乗り込むと母親の「今日練習について」の裁判が始まるので、毎日まるで犯罪を犯して法廷に立たされるみたいだった。キツい負荷の練習をこなしてやっと家に帰れるのに、すこしも安らいだ気分になれなかった。

でも、私は無理にでもやらせればやらせただけ、負荷をかければかけただけ、結果が出せてしまタイプ人間だった。

父親も叔母もスポーツ学生時代成功した経験があって、家系としても肉体的に優秀だったのだと思う。

それが母親成功体験になってしまい、尻を叩けば叩いただけ結果が出るという思い込みを強化したふしがおそらくあるんじゃないかと思う。

長期休みに入るたび、朝夕2回の練習では足りないと別のプールに連れて行かれ泳がされた。この習慣は我が家では「こそ練」と呼ばれていた。

ただでさえキツい練習をしてるので嫌だったが、嫌がれば母親から「速くなりたくないの?」と頷くまで詰められる。

こうやって追い込めば追い込むほど結果が出たので、母はどんどんエスカレートしていった。

極め付けはようやく出来始めた友人関係破壊されたことだった。

中学に上がると、小学生選手育成クラスから中学クラスに上がって、ここがジュニア女子選手としては一番上のクラスだった。その上に、高校生の男子さらにその上澄みだけが入る、一番練習ハードクラスがあった。

いま振り返ってみると、私はかなり発達障害的な特性のはっきり出た子どもであり、周りと関わるのがかなり下手だった。だから、キツい練習を何年も毎日一緒にこなしてきたというのにチームメイト連帯感を育めなくて、ずっと浮いていた。浮いているのに才能だけあったから、周りからすると目障りな子どもだっただろうと思う。選手育成クラスというだけあってそこそこ実力主義ではあるので、幸運にもいじめられこそしなかったが(あるいは特性上あまり他人に興味がなく嫌がらせに鈍感だっただけかもしれない)、やっぱり浮いていた。私は人生を通してずっと普通になりたい、と漠然と願ってきたが、その願いはこういう環境のなかで醸成されてきたように思う。

(ちなみに、当時どのくらい浮いていたかというと、なんか男子たちが私に話しかけるのを何かの罰ゲーム一種として扱っているな、と気づいたことがある程度には浮いていた)

けれど、ここで話の合う友達ができたことで、この一瞬だけ練習に行くのが楽しかった時期があった。

私はもともと才能があったので、中学生のクラスを受け持っていたコーチにも期待されていたし、たくさん話を聞いてもらえて、私自身もコーチのことを頼れる大人だと思っていたし、期待に応えたいと思っていた。信頼関係を築ける大人との出会いがここであった。だから、このクラスちゃんと私の記録は伸びていた。

だけど母はその伸びでは満足できなかった。

母にはいわゆる白雪姫の母コンプレックスみたいなものがあって、私が楽しそうにしていると不安になる性質だった。不安を感じやすく、その解消のために誰をどれだけ振り回しても良いと考える傾向があった。

私が楽しんで練習に行き始めた時、母は不満だった。私が苦しんでいないから、きっと負荷が足りないのだと考え、「娘の才能が無駄に消費されている!」と強く不安を感じたのだろうと思う。これでは速くなれない、と母は考えた。

そして、「上のクラスに上がりたいと言いなさい」と母は私に強要した。

私はかなり嫌がった。もともとジュニア女子が入れる中で一番上のクラスではあったし、せっかく話の合う友達ができたのに、その子たちと話せなくなってしまうことも嫌だった。先生の期待を裏切ってしまうことにもなる。すごく抵抗があったことは覚えている。

母は私に、「あん肥溜めみたいなクラスにいたら、あなたダメになってしまう」と言った。

嫌だった。泣いて抵抗した気がする。あまり覚えていない。でも、最終的には「上がりたい」と言わされた。コーチはショックを受けていたと思う。でも最終的には上のクラスコーチに頼んでくれて、私の(母の)要求は通った。

中学1年の女子高校生の男子クラスに入れられて泳ぐことになった。毎日階段をまともに降りられないくらいの筋肉痛になった。まわりはひと回り年の違う高校生の男子しかいないので、友達と話せる機会は減った。肉体の負荷は上がるのに、心の支えは何もなくなり、ただ苦しかったしつらかった。

私が苦しんだので、母の不安は解消された。

そして、精神とはうらはらに、私の肉体はそれに応えた。

実際に大幅に記録が伸びた。一緒に泳いでいた高校生の男子より私は上のタイムを叩き出し、彼らにもよく頑張ったと認められた。中2のころにはジュニアオリンピックで決勝に残り、関東中学で優勝し、全国でも10本の指には入った。国体にも県代表で選出された。県で私より速い選手はいなくて、私がベストを出せばその度に大会新記録、県の新記録だった。母はこのことについて、自分が尻を叩かなければ結果が出せなかったはずなので、自分の手柄だと考えた。

注意して欲しいのは、これらの成果を私自身もまた喜んでいたこである。才能や能力があると見做されることは、特性持ちの人間にとっては他人から受けるマイナス感情を弾く盾にもなる。母の手柄は、私を絞り上げ、苦しめて作り上げられたものであるが、同時に私を守るものでもあった。

あなたは結果で他人を黙らせなさい」というのが、母の持論だった。母は私のために、心を鬼にして私を苦しめていたはずである。叩けば結果が出ることがわかっていたのだから

この頃から試合合宿遠征先に行くと、夜中にこっそり抜け出して、当て所もなく歩き回るようになった。特に裏道や暗い道を選んで歩いた。いま考えると、間接的な自傷だったと思う。酷い目に遭いたかった。私という価値が一気になくなってしまうくらい、誰かに酷い目に遭わされたかった。母が守る『私』という価値と、それに伴う苦しみが分かちがたく結びついていたために、母の目の届かないところで地味な自傷行為に走っていたのだと思う。

体に傷を残すようなことはできなかった。そんなことをした日に母を襲う衝撃と、その衝撃の余波を受ける自分のことを考えたら、とてもではないが無理だった。

しかし、こういう無理は続かないものである。ほどなくして精神的に破綻して、泳げなくなった。中3の秋ごろだったように思う。喘息悪化させ、負荷のキツい練習から逃げ、最後は何か喚き散らして家に帰り、そこからしばらく練習に行けなくなったように思う。詳細は覚えていない。

だけど、そこで辞めるには水泳は私の人生で大き過ぎた。人生の大半を占める一大事業に等しかった。だからそこから高校2年の夏まで、通うスクールを変えて足掻きブランクを取り戻し、記録は少し伸びたし、インターハイにも出た。

ただ、大学受験に切り替えるならこの辺りがタイムリミットだった。結局、わたしはここで引退して受験に切り替えた。水泳のために自分学力よりかなり下の高校に行ったので、辞めてから予備校漬けになった。

受験勉強は圧倒的に楽だった。体の負荷も消えたし、学業自分特性から見ても結果の出しやすい分野だった。あまりにも結果が出やすくて、母も不安にはならなかった。躓きや苦しみも多少はあったが、水泳で受けたそれとは比べ物にならなかった。この時期、私と家族はかなり明るく過ごした。

大学には簡単合格した。願書を出した大学ほぼ全てに受かった。

とにかく家を出たかったので、その名目が立つ大学を選び進学した。

ここから水泳を辞めた後の話に入る。

友達が作れない、学業に身が入らない問題が出る大学1年目

ひとり暮らしをはじめて、やっと手に入れた自由を楽しんだ。でも1年目、ぜんぜん他人との関わり方がわからず、友達が作れなかった。小中高と水泳にかまけていて、相変わらず発達特性的な部分で学校でも浮いていたし、そもそも自分偏差値より随分下の学校に行った(水泳にはリレーメンバーの都合がある)ため、頭の程度が均されている環境でほかの人間と接して友達になる機会がまったくなかったのだ。県大会で何度も優勝し、実家に腐るほどトロフィーがあっても、友達の作り方がわからなかった。この時点で、私の能力は社交性に比して随分歪だったと言えると思う。

ひたすら学校と家を行き来して、家ではゲームばかりやっていた。

1年の後半の方になってようやく所謂オタクサークルに入って、対人能力に似たような問題を抱えた人たちに出会い、それでやっと少し友達ができた。ここから就職活動が始まるまでは、楽しく過ごせていたと思う。彼氏もできた。

とはいえ、あまり成績は良くなかった。勉強したいと思って進学したはずなのに勉強に向かう気力が湧かなかった。どころか、水泳を辞めたことが傷になっていて、「どうせ最後には全部台無しにする、水泳だってあれほどつらい思いをして人生を捧げてきたのにそうやってダメにした」と囁く声が頭から離れなくて、あまり集中できなかった。

漠然と、卒業したら死のうかな、と思っていた。

就活ができない問題が出る大学3年生

学業もそんな感じだったので、いざ3年になってもぜんぜん就職活動を進められなかった。というか授業もギリギリラインだった。

振り返ると、つらい思いをして思春期を生き延びた先に、ようやく手に入れたご褒美としての『自由』がたった4年で終わることに全然納得が行っていなかったんだという気がする。他の人たちは将来を考える精神の準備ができていたのに、私には何もできていなかった。こんな人生の先に、また何十年も続く苦痛が待っていると思って、絶望感があった。

就職留年

このあたりのことはぼんやりしているが、就職活動が出来なさすぎて就職留年した。ちょうどリーマンショック東日本大震災の影響があった時期で、特に女子就活は周りを見渡しても厳しかった。なので就職留年という言い訳は通った。

でも、留年したのに就活全然ちゃんとできていなくて、とうとう親が乗り込んできた。希望する企業の傾向は決まっていたので、母親マイナビリクナビエントリーする企業を選んでくれて、エントリーシートや履歴書に書く志望動機などの文章としてこちらで考えたら、それを母が手書きで代筆してくれたりして、こんな大学生はおそらく他にいないなと思うほど過剰にサポートしてもらった結果、なんとか書類選考が通るようになり、面接を受けたりと就職活動らしいものを進めることができた。

面接が苦手すぎて苦戦はしたが、なんとか内定をもらった。たた、周りがちゃんとこなせていることも自分にはろくすっぽできないとわかって情けなかった。

卒論が出せなくて2度目の留年

このあたりもぼんやりしている。夏くらいに内定が決まって、そこからしか全然ゼミに行かなかった。いや、たぶん特性的に並行してふたつのことができないので、就活中はゼミにも授業にも行けていなかった気がする。内定が決まった後、バイトしろと言われてしていて、必要な授業の出席とバイトくらいはしていたが、ゼミに出てないので卒論が当たり前に書けなかった。英米文学専攻なので卒論英語で書く必要があった。ぼんやり決めたテーマがあるくらいしかなくて、そのまま冬になった。ちょっと書こうとしたけれど当たり前に書けなくて、でもそれを就活を熱心にサポートしてくれた親には言えなくて、卒論提出の日に失踪した。1〜2週間家に戻らず、銀行口座の金が尽きたら死のうかなくらいの気持ちでいた。漠然と死のうと思っていたし、その時が来たのかと思っていた。

結局親に口座の金を引き上げられて、無様にも死ねずに戻った。怒られ、殴られ、彼氏にも心配をかけまくり、色々あったとは思うのだが、この辺りの記憶ぼんやりしている。

ひとり暮らしの家を引き払い、実家カンヅメになって母親監視のもと卒論を書いた。足りない単位のための授業とバイト以外の外出はさせないくらいの感じだったと思う。

ひとり暮らしの家を引き払った時、この時も家がゴミ屋敷になっていたので、ゲーム依存病気だと親に疑われたが、ゲームは単なる逃避行動で、やれない環境であればあっさり辞められた。振り返ってみれば、何らかの支援の網に引っ掛かっておくタイミングがここだったような気がする。ただ、スポーツで結果を出し、世間的には良い大学に行ったような人間が、ゲーム依存なんかで病院に罹るのは外聞が悪い、という意識がなんとなく家族全員にあったのか、結局ここでは必要だったであろう支援とつながることはできなかった。

この環境でなんとか卒論を書いて卒業した。就職は結局バイト先に拾ってもらうかたちになった。

新社会人として

もう一度実家を出てひとり暮らしをはじめた。

働き始めるととにかく眠かった。ひたすら眠かったことを覚えている。仕事でも会議でも寝てしまい、怒られて、怒られたあとは体が一時的闘争反応というか覚醒状態になるので、それで過集中を起こし仕事を進めてなんとか巻き返す、みたいな感じだったと思う。昼に寝てしまうので夜は眠れなかった。その悪循環で昼にまた意識を失った。

本当は病院に行くべきだったと思うが、家に帰るとその気力もなかった。家の電球が切れて、ほとんど暗闇だったのにも関わらずその家を引っ越すまで電球を変えられなかった。1年以上真っ暗闇で生活した。歯が折れて激痛でも病院に行けなかった。ぎっくり腰でも行かなかった。ゴミ屋敷はここでも生産された。

この時期私は相当な困難を抱えていた気がするけれど、同時にどこか安心しているような部分があった。自分価値がこうやって毀損されていくことに対する「ざまーみろ」という気持ちがあった。ちょうどこの頃、母親と完全に連絡を遮断して、実家と絶縁状態になった。直接のきっかけはなんだったか覚えていない。ただ、自分価値ボロボロと溢れ落ち、人生ダメになっていくことについて、母親への不健全復讐欲求が満たされるように感じていたのは覚えている。

この状態を5年くらい続けて、3つくらいの現場経験した。就職先は人売りのSESだった。

コロナ禍でリモートワークが開始する

これは自分にとって大きな転換点だった。寝ているところを他人に見られないのでストレスが大幅に減り、なんとか自分が起きていられる時間帯に仕事を進め、眠りたい時は寝ていることができた。とても褒められた就業態度とは言えないが、それほど能力的なハードルが高い客先でなかった幸運もあって、なんとか巻き返しが効いた。この時期が一番平穏だったように思う。この現場自分にとって一番長く続いたし、終わり方も案件ごと終了ということで円満だった。

この現場が4年くらいで終わり、本社に戻ることになる。

本社に戻る。眠気の問題ふたたび

リモートワークが終わり片道40分くらいの通勤生活が数年ぶりにスタートする。10年近く戻っていなかった本社に知った顔はほとんどなく、コミュニケーションが得意そうな子たちの若い顔が並ぶ。すでにこの時点でうまくやっていけるか不安ではあった。

自社開発の案件アサインされるも、やはり眠気の問題が復活し、怒られる。仕事客先常駐とは違い、粒度の粗い仕事を上手いことやっておいてというような感じで振られるため、勝手全然からず、先の見通しが立たない。作業をうまくこなせず、進捗が出せない。学歴スポーツの成績だけ見れば能力はあるはずだと思われているので、サボっていると見做される。寝てるよね?なんでコミット全然出ないの?

年次だけは無駄に高いので直属の上司もおらず、まともな相談先もなく、周りの子たちは若くてこんなことを相談できる相手ではなく、結果誰にもうまく頼れずにひたすら信頼を失い続け、頼みの綱だった週1回のリモートワークも許可を取り消される。

社長から新卒みたいなことを注意させないでくれる?」と言われる。怒られて、闘争反応になった勢いで、なんとかメンタルクリニックの予約を取った。

そうやって通院治療を開始したのが、2023年10月ごろ。

日中の眠気、夜の不眠、集中困難、ゴミ屋敷などの問題が主訴。

これらの問題は通院治療を開始したところでたちどころに解消するようなものでもないので、年末年始休みを挟んだ後、ボツボツ休みが増え、雪崩れ込むように職場に行けなくなって休職開始。

心理検査(WAIS-Ⅳ)の結果、言語理解ワーキングメモリ・処理速度の間で有意差50を超えた。言語理解・知覚推理凸、ワーキングメモリ・処理速度凹のタイプだった。

この結果と、現在社会生活が送れていない実態をもって、5月ごろにADHDと診断された。

現在は、投薬治療カウンセリングを受けている。

・総括

概観してみると、今の私を状態説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。

特性を持って生まれ子どもが、いわゆる体育会系世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援 Permalink | 記事への反応(21) | 22:15

2024-06-16

新卒就職活動してたときに「企業は高額な性格診断ツールを使って募集者を判断してる」みたいな情報を見たことがあるんだけど、そんなツールないよね。あるとしても科学的な信憑性が乏しい気がするが。

2024-06-15

田舎者引きこもりの俺がやる気出して仕事探そうとするが金がなくて諦めた

近所に仕事がないから探そうと思うと車が必要

探すだけでは金にならないかガソリン代もいる

飯代や諸々の金もいる

親の小遣いだけでくらしてる引きこもりにそんなの無茶振り

親は親で就職活動仕事を探すのにくろうしたことがない専門職公務員あがりだから理解薄く金をせびるたびに文句をいう

もう無理諦めよ

2024-06-11

体験談圧迫面接は誰にメリットがあるのか?

先日、渋谷にあるとあるベンチャー企業面接を受けてきた。

その時にオンライン実施された一次面接人生初の圧迫面接体験したので、感想圧迫面接に対して考えたことをまとめておくことにする。

高圧的な態度の面接

本題に入る前に今回の話をする背景を簡単説明しておく。

転職活動中にとあるベンチャー企業書類選考が通って一次面接を行うことになった。転職エージェント使用していたので、書類選考や一次面接のやり取りはエージェント経由で連絡を取っており、一次面接で初めて企業人間と対面した。

一次面接Zoomを使ってのオンライン面接だったのだったのだが、ルームに入った瞬間から不機嫌な感じで「それでは面接を始めます」と。担当者20代後半らしき男性

そして、面接スタート

話し終わる度に、強い口調で「それだけですか?」と毎回聞かれる。決して一問一答ではなく聞かれたことに対して的確に回答した。

そして経歴を確認して「あなた年収低いですね」とか、「既存社員よりも努力して這い上がる覚悟がありますか?」などと今まで面接では経験のないような言葉使いと態度が続いた。

そもそも面接前に会社の評判について調べていたら、働き方、社内の雰囲気残業についてネガティブレビューが並んでおり、面接から少し不安ではあったのだが、レビューは辞める時に書く人が多いので何かしらの不満が集まりやすい。そのため、面接に行ってみて自分判断しようと思っていた。

面接の態度からもうこの企業はないかなと思っていたので、逆質問の時に、ネガティブレビューを見かけたがその辺りはどう思いますか?と聞いてみた。

すると「ライフワークバランスとか気にしちゃう感じですか?」「残業したい人は残業するし、定時で帰る人は帰りますよ」と。その後、若干の焦りとともに言い訳のような業務委託が〜、頑張った人が評価される〜と説明が続いた。

かなり失礼な態度だったので、Googleマイビジネス会社の評判に今回のことを書いてやろうかと思った。(やらないけど)

ベンチャー面接が初めてだったのでベンチャー企業ってこんなものなのかと思ったが、今まで複数面接を受けたことがあるが、それに比べてあきらかに高圧的だと感じたので、いわゆる圧迫面接だったのかなと思った。

数十分ではストレス耐性は図れない

よく圧迫面接にはストレス耐性をチェックする目的があると言われる。高圧的な態度や失礼な質問をすることで、求職者緊急時対応を見ていると。

しかし、30分やそこら、長くても1時間程度の面接ではストレス耐性は見極められないと思う。

新卒学生就職活動であれば「これが社会か」と身を引き締めるために多少は意味があるかもしれないが、社会人として社会経験がある転職を考えている人だと、圧迫面接を行ったところで動じないし、気分が悪いだけで何も意味がないのではないかと思う。ただ嫌な気持ちになるだけ。

一次面接の印象=会社の印象

今回、人生で始めて高圧的な面接を受けたので、その会社担当者のことを鮮明に記憶している。求職者書類選考を通過して会社人間と直接対面するのは一次面接からなので、一次面接の印象が会社の印象となる。もっと言うと一次面接担当した人の印象が会社の印象となる。

ということは、実際には社内の雰囲気と一次面接担当者雰囲気に相違があったとしても、他に判断する材料がないので、一次面接を通過しなかった場合は一次面接担当者の印象=会社の印象となる可能性が高い。

正直、私は今回の面接を通して会社に対して悪い印象を持ったし、今後関わりたくないとも思った。また今後どこかでその会社について話す機会があった場合、必ず今回の圧迫面接について話をすることだろう。

圧迫面接求職者は嫌な思いをするし、会社は悪評価が広まるし、誰も得しない。

求職者会社を選んでいる

あと圧迫面接を行う担当者に言いたいことは、こっちも選んでいるということだ。圧迫面接を行う企業は選ばれているという意識がないのではないかと。

求職者企業が等しく平等立場であるとは思わないが、決して一方的に選ぶ、選ばれるという関係ではない。

圧迫面接では素を引き出せない

私は採用担当経験がないので社内の採用担当者に「圧迫面接を受けたのだが、圧迫面接についてどう思うか?」と聞いてみた。圧迫面接に何か他に明確な目的があって行なっている可能性があるかもしれないと思ったからだ。

すると、「圧迫面接を行なったことはあるが、取り繕った姿しか見れないので入社後に相違が生まれやすい。和やかな雰囲気面接の方が良い意味でも悪い意味でも相手の素が出やすい。

"その隙に見せる素を見逃さないようにしている"」と。

お手本のような面接官としての答えが返ってきた。そして「圧迫面接ちゃう面接官は面接に慣れてないのかもね」と。

それを聞いてあの圧迫面接かましてきた担当者は、余裕がなかったのかなと可愛く見えてきた。

入社前に社風を知れるのはメリット

圧迫面接求職者側の唯一のメリット企業の社風を入社前に見極めれることだと思う。

条件や仕事内容はいいなと思っていたが一次面接で働きづらそうだと印象が変わった。

結果、二次面接に進んだのだが辞退することにした。

これから転職活動は続く。

2024-06-08

anond:20240608120659

多分不起訴になって終わりやろなぁ。

名前も出てないし逮捕履歴書記載する義務もない。

就職活動には全く影響なし。

逃げ切れてセーフって思ってるやろなぁ。

2024-06-01

弱者男性相手だとすぐ凡庸不毛アドバイスぶつけたくなるみなさん

大学生 男性 彼女出来ない つらい 死にたい

https://anond.hatelabo.jp/20240601013546

この大学生はキショいよ。それはわかる。

でもブコメもっとキショい。

人気順にキショい。

    

1.未経験特有の弱点にマウントとるだけの無内容な説教   

miyauchi_it

増田は『彼女を作る』ことをゴールにしてるけれど、それって女性を個の人間として見れてなくて『女性』という属性しか見てなくない?

一足飛びに彼女を作るんじゃなくて、女友達を作るところからでは。

2024/06/01

あのさあ、そんなのなんだってそうだろ。

お前らが就職する時だってまずは「就職する」「定職を持つ」ってことがゴールだし会社社会的ステータスや業種や待遇しか見れてなかったはずだ。

経験者なんてものはなんだってそうだろ?

その先までんな高い解像度があるわけねえだろ未経験者に。

 

就職活動中なら一旦入社がゴールになるなんて当たり前じゃねえか。

その先のビジョンを持ってたってそんなもんかなり妄想だしどうせ働き始めてから修正することになるし。

なのになんか就活生に「そんなんじゃ甘いよw」とか無意味説教する20代前半社会人

それお前が気持ちよくなりたいだけじゃんな?

    

もう何の世界でもこういう無意味不毛マウント説教する奴いるけど

そういう奴等の未経験時代を一個一個ガン詰めしてやりたくなるんだよね。

どのジャンルでもこういう奴等が一番要らない。

   

  

2.「キショいのでこいつは将来犯罪者になりそう」

nisinouni

まずは女性を景品じゃなくて人間だと思うところからだな。

彼女自分の所有物と勘違いして、望んでないプレゼント渡して断られたら逆ギレしたり、別れたらストーキングしてきそうで怖い

2024/06/01

願望と妄想ヘイトしかなくほぼただの誹謗中傷

脳内で「キショい」と「悪」や「犯罪者」との区分けがあまりされてない。

こういう人類はよくいるがこれに☆つけて2位にするのはどうなのか。

 

俺もこの大学生凄くキショいしはったおしたくなるけど

「こんな奴はきっと犯罪者に~」なんてことは言えない。

はてな民の知性レベルを表すコメント人気順位。  

  

  

3.切実なニーズ否定して頭を踏むための説教

nyankosenpai

自分が何を相手提供できるのか考えてみてください。かっこよさ以外にも判断力とか趣味かいろいろあるはず。

性欲が前提だといつまでもダメだと思います

2024/06/01

あのさあ

性欲前提だと何がダメなの?

若者にとって性欲は重要で切実なニーズじゃねえの?

性欲前提じゃなく彼女作る若い男の方が圧倒的少数派だろ。バカ言ってんじゃねえよ。

 

これも就活に例えるなら

待遇給与額を気にするようじゃダメ」とか言ってるのと変わらねえだろ。

じゃなんのために働くっつーんだよ。金以外もあるけどまず金だろ?

ワタミかお前は?

  

と言うか

人間ちょっとでも自分が優位に立ったと感じると(こんなネット上ですら)

相手の切実なニーズ否定して頭踏んでやりたくなるってことなんだよな。

元増田はキショいけどこういう奴等も相当キショいからな?

お前等の欲望の方が性欲よりけがらわしいと思う。

 

あと元増田は実は少数派の方で、性欲に駆動されてないんだよ。

改行の少ないキショい長文ちゃんと読めばわかるようにこいつはもっと別の強迫的な観念彼女を欲してるから

この元増田を性欲だと思った奴等は

この程度の文量の相手の話をちゃんと読む労力払えないけど説教はしたい

と言う欲望がむき出し過ぎるわけ。

 

相手の話を聞く気はないけど説教はしたい。

コミュニケーション食い逃げ野郎

性欲マンより遥かにキショいわ。

 

um-k3 なんで恋人が欲しいわけ?それがわからない。

結局アクセサリー的に欲しいだけなら上手くいかんだろう。男女性別は違うけど、相手アクセサリーではなく人間です。

2024/06/01

「なんでほしいか」 はキショキショ長文で書いてるだろ。

当人の心の動きもかなり書いてあるだろ。

それでわかんねえって読まねえならそりゃわからねえよ。

こいつも食い逃げ犯だな。

 

 

聞くべきアドバイス

ni_ls

ヤラハタを迎えてしまったときのぼくがいる… 女友達なんて人生で一度もできたことないけど今は結婚して子どももいるよ

非モテはとにかく数を稼ぐしかない。四の五の言わずに紹介とかネットとか片端から取れる手段

2024/06/01

似た感じの境遇感性から成功したやつの話を聞くのが一番だよな。

なんでかっていうとこういうやつは相談者のニーズ否定しないからだよ。

上に挙げた奴等は未熟な奴への説教欲やキショいやつへの嗜虐欲があるだけ。

 

toro-chan

大学生程度では、まだ自己確立できてない。

大学がなんの専門か知らないがまず勉強したほうがいい。正確にはついうっかり行動できる、自分な好きなものは何か、自分を知ったほうがいい。話はそこからだ。女は不要

2024/06/01

否定するにしてもこっちだよな。

 

parrying 彼女が欲しい人間はどう考えても「彼女を作る」ことをゴールにした方がいいです。人間扱いだのなんだのは全く問題なく両立できます

2024/06/01 リンク yellow

俺もそう思う。どう考えても関係ない。

弱者男性恋愛相談にやたら迂遠効率悪いアドバイスする奴って

自分も大した経験が無い」もしくは「女」だと思う。

こいつらの話は聞いちゃだめ。

  

strange

「話しかけてもらったら次にお礼で自分からしかける」なんてマナーはない。

自分が話しかけて次に相手が話しかけてこなくても嫌われていない。男女に限らず仲良くなりたい方がガンガンいかないと関係はできないよ。

2024/06/01

端的だよな。これが生かせるアドバイス

  

まあぶっちゃけ元増田発達障害くせーので

俺のアドバイスは「いい病院行け」かな。

やっぱ弱者男性キショいわ。

一浪・専卒・既卒なので20代にして人生が終了している

一浪全落ちして二浪を望んだけど親に猛反対され仕方なく専門へ

当然専門なので就職できない、どうせ就職できないので卒業後は全く就職活動せず気づいたら27

そもそも社会からお前は不要だと言われている以上就活無駄努力しかない

俺を見て甘えだ努力不足だなんだとしか言えない増田ブクマカですら「専卒はいらない」で一致しているのがその証拠

とっくに人生は終わってるのでもう社会復帰なんて考えもしない

2024-05-29

女が彼氏を作る難易度は、バブル期就職活動位の難易度

男が彼女を作るのは氷河期世代くらいの難易度

とまではさすがに言わないけど、例えの方向性としては正しいと思う

2024-05-23

建築学生、就職はよく考えてほしい

もう30手前になるんだけど、就職関係の話を見るたびに俺の選択はどうだったんだろうと思うから書き下す。

結論から言うと、「不正に関してはダメ元でも声を上げよう」

建設業業界の体質がダメ

「専攻じゃない業界転職しても何とかなるよ」

以下自分語りなので飛ばして頂いて結構

ガキの頃から建築が好きで、通学路に新築の一軒家が建とうとしている現場があれば眺めていたり

当時は劇的ビフォーアフター流行っていたのもあって小学生の頃から一級建築士になる」

ことを将来の夢にしていた。ちょうど、中学の頃に叔母が新築を建てる際に建築家の先生に依頼することになり

仕事の様子をよく見せてもらっていた。また施工中の現場もよく見に行っていた。

この段階では将来はこの仕事をして飯を食うことになんの疑問も抱いていなかった。

まず、一級建築士を取るためにはその前の二級建築士を取らないといけないため、高専建築科を卒業するのが最短ルートだった。

幸い、地元高専もあったのでそのまま卒業し、地元ではないが県内の有名なゼネコン入社することにした。

今思うと最初からどこか個人組織系の設計事務所に行けばよかったが、そこのゼネコン医者等の高所得者向けの注文住宅シェアが非常に高かったのでいろんなことが出来そうというのが理由だった。

まあ入社して最初から希望配属ではなく、定型的に公共建築ショッピングセンター等の不特定多数使用する施設or大規模建築部署現場監督のほうに回されて

現場を見てきてね!ってことになった(ここに関しては文句はない、現場を知らずに設計すると大体あとからツッコミが入るのはどこの業界でも共通だと思っている)。

現場は楽しかった。何もない所を重機で整備して、図面をもとに指示出しをして・・・などなど、大変なりに現場職人達とコミュニケーションを取りつつ仕事をすることと

毎日変化がある現場、出来上がっていく様子はワクワクした。

だけども、監督業というのは当然ながら現場監督する役割のため、朝は誰よりも早く現場に来て鍵を開ける。パトロールをする。書類関係役所申請するものも非常に多い)。

工事写真を撮る、職人から質問要望に応じる等、朝から晩まで動き回るし、図面をみてアレコレ指示出しもするし身体も頭も結構使う仕事

特に明日の準備なんて今日現場が終わって職人が帰ってからじゃないと出来ない。

あと、工期の短縮=コスト削減のため土曜日基本的に出勤(最近になって完全週休二日制現場が増えてきたよね。職人からは不評だそうだけど)です。

あなたの体力は大丈夫ですか?

施工に関しては施工要領書があり、当然それを満たすように作る必要がある。

そしてそれを確認するために工事写真を撮って、ちゃんとやってますよという証拠にする。

ただ、全箇所撮るのは人が足りなくて無理だったりするので写真を撮ったところ以外はテキトーだったり…。

コンクリート養生後の圧縮強度が規定未満だったり、エトセトラ

昨年話題になった大成札幌の精度不良の件、あんなの表沙汰になっただけで偉いよマジで

あなたはそれを許せますか?

当然、監督とはいえ1年目のペーペー、当然、現場代理人というこの世の神みたいな扱いの最高司令官上司にいます

基本その人から仕事をもらうというか、指示があって動くので上司次第で現場は変わります

俺の場合体育会系のノリで進んでいきました。

上司より早く出勤し掃除して上司より遅く帰るのが絶対。いつの時代

あなた時代錯誤な上司に耐えられますか?

割と学生時代からチクり魔で(嫌な奴)、これ以外にも沢山問題点はあったので都度会社にこれっておかしくない?

って相談しましたがいやいやそんなもんだよ。スタンダードだよってあしらわれて終わりでした。

まあ残業代も出なければ週休二日制ですって労働条件なのに毎週土曜日出勤して振替休日もなく

出勤簿上休んだことになっていた時点で会社も相当カスでした。

好きで選んだ仕事自分で選んだ会社、こんなもんか~って思っていましたがあまりにも無理すぎて大体半年体重が15kg落ち病んでその半年後に退職しました。

退職する時もモメにモメて散々暴言も吐かれたしコーヒーカップを投げつけられる(一応平成と令和の境目くらいの話です)なんてこともありましたが無事退職転職しました。

さて、無事に退職出来たら段々と会社に対してムカついてきたので労基に行き申し立てしました。

残業代未払いその他の労働基準法違反が疑われることに関して告発を行いました。

結果から言うと残業代は払われましたが、立ち入り検査があったとか、是正勧告があったとかは聞いていないです。

でも泣き寝入りせずに告発したことで、お金残業代を払っていなかったことを認める書面を手に入れたので

それをもって母校に行き「今後かわいい後輩たちをこんな会社に入れないでくれ。就職斡旋するな」と言いました。

これは受け入れられたようで後輩たちが入ったという話は聞いていないです。被害者が増えなくて良かった。

ダメ元でも不正に関して窓口があるならとりあえず行くべきだと思います

そしてニート期間を挟まず再就職しました。子供の頃からの夢はここで終わり、縁もゆかりもない地方の縁もゆかりもない職種に就くことにしました。

会社の同じような職種やそれこそ設計職に就けばよかったかもしれませんが、業界に対して絶望していたので全然違う職にしました。

転職後はマテハン業界に入りました。全然畑は違うものの、もともと趣味バイクに乗ってイジっていたこともあり

工具はわかるし、建築を専攻していたので図面もなんとなく読める(公差は未だにわからない)。

PLCも元々興味はあったので軽く勉強して少し修正するくらいならできるようになったり、

最近文系職種から「手に職つけたい」とこの業界に来て右も左もわからない状態で辞めていく人間も少なくないので

最初からある程度なんとかなると踏めば知らない業界でも飛び込んで努力すればいいと思う。


ここからが本筋

盆やら正月やら帰省して、たまに同級生と会って飲んで近況報告をすると驚きの事態が起こっていました。

建築卒業同期約30名のうち、約1/3は建築建設業界を辞めている」

最初から建築業界を選んでいない人間も確かにます女子とか、テキトー地元携帯ショップかに就職してそのまま結婚したやつ)。

少なくとも27人ほどは何かしらの建築建設業ゼネコンサブコン役所設計事務所大学出てコンサル等の建築にかかわりのある仕事)をしていました。

早い人間でやはり1年ほどで辞める(俺)か3年ほどで辞めるパターンが聞いてみると多い。

話を聞いた当時社会人5年目、同期で建設業に残っていた人間はなんと「8人」だけでした。

個人特定しない範囲で例を挙げます

建設業に残っている奴

自身の事を建築奴隷だと自称して設計事務所就職後、大学に戻って学び直している奴。

上司から怒られていてもプロテインシェイカーを振るくらい神経が図太い奴。

地元市役所就職の奴。

・辞めた奴

ゼネコン入社後1年でパワハラを苦に飛び降り自殺をした奴(幸い助かっている)。

会社被災し(労災案件)、もみ消されて大暴れしクビになった奴(ニュースにもなってない。地方デカ会社は怖いね)。

病んだ奴多数

それ以外にも業界はそのままだけど転職を繰り返している奴、休職中の奴、転職を考えている奴とかはいる。

地方就職した連中だけでなく首都圏就職した人間も同じ悩みを抱えている。

大体共通認識として、建設業は全体的に時代遅れで嘘つき。

会社に対して何か指摘しても会社側は「好き・憧れてこの業界に入ったのに何言ってんの?」ってスタンス

ただ当然、最近世間の目があるのでデカ会社から変わりつつあるそうだが…根本的には変わらないだろうのが同級生たちとの共通認識。

建設業人間はどこの会社奴隷労働お金が出るかどうかは会社次第。

ワーカホリックが生き残っている。寝ても覚めても建築一辺倒の人間かONOFFのスイッチがかなり明確な人間

好きなことをして稼げているならいいじゃんって話ではなく、必要労働をした結果の対価を求めているだけなんだけどな。

現在就職活動をしている人たちは社内の事情業界についてはよくわからないはずので

実際にその会社就職している先輩に聞く、ネット情報を集める(バイアスがキツいと思うけど)は当然必須

ただ本当に覚悟してほしいのは、まだまだ昭和体質が抜けていない時代錯誤な業界だということ。そしてそれは地方に行けば行くほど

目も当てられないくらいヒドいということ。

ちなみに転職後、都内で某オレンジ色の●林組と1年ほど仕事をしたときに思ったのは

タブレットを使っているとか電子化スマート化が進んでいるだけで書類関係やらは却って数は多いし品質面はうるさいし

現場事務所24時間灯りがついている(と警備が言ってた)らしいかあんまり変わらないかもね。

最終的に就職に関しては他の皆は応援するだけで責任自分で取るしかいから。

なるべく良いところを探して就職できるように頑張ってください。

そしてもしそこでダメだと思ってもなるべく悲観せずに転職してください。

飛び降りるような真似はやめてね。

自分語りのほうが長くなったけど以上です。

追記

反響あってビビった…。

色々コメントありがとうございます

業界の先輩が書かれていましたが「楽しい」のは確かにそうです。現場も楽しかたこと、良い思い出は沢山ありました。

ネガティブ面ばかり書いてしまいましたけどね。これもモノづくりの一端なので好きな人はハマるとおもいます

設計志望でもいざやってみたら現場もいいな!って思ったくらいなので。

でも、好きでもこれは許せないって出来事が積み重なり、ラインを超えたら…。

あとキャリア形成間違えたんじゃないって話。確かに大学院までいけばもっとやりたいことも出来たよなあ。

自分キャリア高専卒というマイナー存在なので参考になるのか?と言われれば微妙なところですが

就活生には少しでも自分に合った会社を見つけてほしいと願うばかりです。

こんな酔っ払い駄文にお付き合いいただきありがとうございました。

仕事とはそれなりにいい関係で付き合っていきましょう…。

2024-05-20

anond:20240516113305

憎悪じゃなくて、呆れてるのよ。

憎いとか悪いとかじゃなくて、単なる無能に対する呆れ。

やることやってない無能な奴らだからね。

就職率1%あろうがなかろうが、そこに先がないなら他の道を探るしかない。

それすらせずに、就職活動。

バカしか言いようがない。

こんなのは当事者でなくても分かること。

これからまた氷河期世代に近いほど景気が悪くなることもあるだろうが、バカは同じ過ちを繰り返して死んでいくんだろうね。

無能と書いたけど、虫けらという方が適切かもしれない。

ひと思いに殺せるならどれほど気分がスッとするか。

殺人剤とかないもんかね。

2024-05-19

15年ぶりに食ったてんや天丼が不味すぎて泣いた

 私が初めての東京に来たのは就職活動だった。中央線を降り、昼食に駅前のチェーン蕎麦屋へ入ったたところ、あまりのまずさに悶絶したのが初めての東京体験だった。料理漫画関西人がしばしば言う「東京蕎麦はドブ色してて出汁はきいてないし、麺はヘナヘナで食えたもんじゃない」は誇張でもなんでもないんだ、ということを実感し「やっぱり庶民の食いもんは関西だよな」という関西人ありがちな偏見を強くした記憶がある。

(もちろんこれは単なる偏狭思い込みであって、東京人の味覚が鈍いわけではなく、件の蕎麦屋本業が立ち退き業だからというだけであって、それなりの蕎麦屋はそれなりの蕎麦を出してくれるということは、当時の若い私にはわからなかった。)

 しかしこの偏見を粉砕してくれたのがてんや天丼だった。何気なしに入ったてんやワンコイン天丼をあまり期待せずに頼んだところ、その旨さに打ちのめされた。もちろん料亭だの高級天ぷら屋だのは関西にもある。だが500円でここまでのものを出せる天ぷらやは関西にはない。カリッとした衣、濃厚なタレ、多彩なネタ、これらが500円で出てくる奇跡に感動を覚えた。ガッツリした衣にタレが染み込みちょうどいい塩梅となったところがうまい。米やタレの掛かっていない硬い部分と口の中で混ざるとなお良い。塩や天つゆで上品に食べる天ぷら膳ではこれは決して味わえない。これが500円?関西じゃぜったい無理でしょ。東京恐るべし。やっぱ東京って日本一大都会だわ。

 その後毎週末にはてんやに通い、関西帰省したときてんやが無いことにがっかりするくらい入れ込むようになった…のだがその後私は地方工場勤務となってしまった。地方ではてんやが無い。しかし/しかも、そのころ結婚した妻は揚げ物が嫌いだったせいもあり、結局揚げ物自体と離れる生活を15年くらい過ごすことになってしまった。だがこの度、ついに、本社栄転、ということで帰ってきたのだ!東京に。てんやよ!私は帰ってきた!

 ああ15年間焦がれた天丼とついに再開できる。そう思うと胸は高鳴り、期待で唾は溢れんばかりだった。だが一口食ってでてきた言葉は「なんやこれは。クソ不味やんけ」だった。関西を離れて20年も経つと日常関西弁が出ることはなくなる。が、理性のタガが外れたときはやはりどうしても関西弁が出てしまう。関西庶民向けの店ではだせそうもない、あのクオリティはどこへ行ったんや。ネタは良い。タレも相変わらず美味い。米は変わっているだろうけど違いはわからへん。だが衣はすっかり変わってしもうた。すっかり薄くなり、柔らかくヘナヘナの衣、こんなスーパー惣菜天ぷらみたいなのはてんやない。あのてんやはどこへ行ってしまったんや…。憧れ続けて期待値が上がりすぎて失望してしまう、なんてことがよくあるのはもちろん知ってる(昔好きだった同級生同窓会で再開したときとかみたいに)。だからてんやのタレだけ買って帰って近所のスーパー惣菜コーナーの天ぷら使って天丼作ってみたんや。ほしたらほとんどてんやと変わらん出来や。流石にネタスーパーよりてんやの方が良いけど、衣は全然変わらへん。なんかもうがっかりや。スーパー惣菜とは一線を画した揚げたてカリカリ天丼てんやのウリとちごたんか。これやったら「さん天」の方がマシやないか。あっちは490円でエビ2本入っとるし。

 ネットで調べてみたところやはり衣は変えたらしい。ものは言いようだが、サクサク感を狙ってタピオカ粉を使うようになったとか。まあでも自分なりに考えるとなんだかんだいって衣が薄くヘナヘナになったのは時代要請だったのだとおもう。

こんなところだろう。もうてんやへ行くことはない。というかおそらく1年に1回くらい行って毎回がっかりする、そんな店になるのだろう。てんや天丼は死んだんだ。いくら呼んでも帰っては来ないんだ。もうあの時間は終わって、僕も人生と向き合う時なんだ。

というわけで1500円以下で衣がガッツリした天丼を食える店を東京住み増田諸兄がご存知なら教えてほしい(23区+多摩地区くらいで)。いかがだろうか。

2024-05-17

克服

苦手なことを【克服】するのはなにぶん素敵に感じる。

何かを【克服】するということは苦手を把握していることでもあるし、さらに現状を脱しようとしている動きのある状態からだ。

大人になってからは、苦手があれば避けて通れるしそもそも自身の苦手を把握できていないこともある。

その点、幼い時の方が苦手を克服する機会は多いだろう。

自身体験で言うと努力嫌いを【克服】したことがある。

元々自身は頑張ることが嫌いだった。

何もしなくても優れた才能が欲しかったし、何もせずとも何でも得たかった。

だが、人生を積んでいくと自分はそんな特別存在ではないことを知る。

何もない自分を少しずつ恥じるようになった。

そんな中で高校受験を迎えることになる。

今のままでは何も得られないと考えられるようになっていた。

高校受験の際に自身の中では結構な量、勉強をした。

自分ルールを作り、ゲーム禁止にしたり最低勉強時間を設けたりした。

そういった努力ができたのは、人生高校受験が一番辛い時期だと仮定たからだった。

この先、どんなに辛いことがあってもこれより辛いことはないと思い込んだ。

結果、その努力は報われた。

運が良かったのである

ただ、ここから経験する高校部活動の方が遥かにきつかったし、大学部活もきつい。

就職活動もきつかったし、今の仕事もかなりきつい。

育児もかなり大変だ。

これらの経験を踏まえて、一つのことを悟った。

どんなに頑張っても人生とはきついものなんだな、と。

かといっておれは手を抜かない。

手を抜いたところできついことが分かっているからだ。

しろ、頑張ってもきついということを知ってからは報われなくても傷つかなくなった。

ここで、努力嫌いが【克服】できたと感じた。

どっちにしてもきついなら、努力してきつい方がましだなと感じるようになった

何もしないでいると焦燥感を覚えたり、余裕がなくなってくる。

努力をしているとやっている分、やってないだけましだなという些細な余裕が生まれる。

やっていない自分に対してマウントを取れるようになった。

間違ってもその比較先を他人に向けてはいけない。

上も下もキリがないからだ。

そんなこんなで、努力嫌いの【克服】はできたが間違っても万能人間なんかになれたわけではなかった。

体力とか集中力とか、気分の波とかはそう簡単制御できるものではない。

目標】がなければ努力したところで何も生まれいからだ。

闇雲に過ごしていても大した結果は得られないものだった。

何かを【克服】することを【目標】にするよりは、

目標】のために何かを【克服】する方がパワーが出ると思う。

次は【目標】について記載したいと思う。

https://anond.hatelabo.jp/20240516095143

元彼と関わるとなんで軽く鬱みたいになっていったのか。

物事について即座に優劣で評価する人だった

早押しクイズみたいに。評価が高速で断定的であればあるほど頭の回転が速いと考えているようだった。

優越欲求自体は私の中にも存在するし、それが無ければ大学受験就職活動を乗り切れていないようにも思う。

エナドリ飲むように、優れていたいとか勝ちたいとかいった感情に酔っぱらうことで戦えるという一面はあるけど、それが人生のすべてではない。

勝つことが全く意味がないとも思わず人生のなかの重要な一部であるとも思うけど、プライベート人間関係に持ち込むのは相性が悪いから使い分けが必要だと今の私は考える。

しかし優勝劣敗が物理法則のようにこの世のすべてに当てはまるような世界観を手放さない人だった。

私をマウント素材にしつつ私のブスさを憎んでいた

身長が低い男性や、肥満体型の男性など、女性けがよくなさそうな容姿の同性の友達とつるんでいた。

彼女ができる可能性が低そうな友達の前で、自分彼女持ちであることをマウント要素にしつつも、私がブスでなければもっとマウント取れたのにという不満を持っていた。

友達の前で私の容姿馬鹿にしていた。おそらく友達可愛い彼女ができて、「負けた」と感じたら元彼発狂していたと思う。でも知りうる限りそんなことは起きなかった。全く女に縁がない男の具体的なイメージとして今でも彼らの姿が頭に浮かぶ

別れたあと悪評を流された

この人のそばはいたくないと思って別れてほしいと言ったら、すぐに別れてくれたけど悪評を流された。

訂正して回る気が起きなくて共通の知人がいるコミュニティからも逃げた。小学生ときいじめられたことあるんだけど、それとは比較にならないほどのストレスを受けた。ストレス反応の身体症状が出まくった。このときの対人関係ストレスを上回る出来事はその後起きてない。

それ以降、伝聞の悪口を信じなくなった。その噂は丸々嘘の可能性もある。

 

なんで元彼と付き合ったのか。

口説き方が強引で明確だったか

行儀が良いコミュニティにいたのを、ブスだから私には誰も欲情しないと思っていた。男性ストライクゾーンの広さについての理解が浅かった。お互いが唯一の存在になるという女性向けコンテンツありがちな関係幻想に染まりすぎだった。

最初露骨口説いてきたのが元彼だったし、私に勃起する人がいるんだと感動した。

(これを若いブス狙ってレイプすりゃいいんだなと解釈する人間が湧きそうで本当に嫌だ)

「俺に欲情して強引に露骨口説いて彼女になる女はいなかった。ブスにはそういう男が湧くのに。やはり女はイージーモード」と呪われそうだ。

買って済む話ではないことはわかる。ホスト貢ぐための金を得るために必死な女の時間を買うことでは解消できない種類のもの

同じ大学、同じオタクという同類意識があったか

私大の陽は怖いけど受験勉強を真面目にやった芋なら大丈夫だろうみたいなポジティブ方面偏見安心感を持っていた。単純化は愚か。怠惰

救おうとか考えた

元彼の両親は偉い父親専業主婦、うちは二馬力だったので家庭に関する感覚が全く違っていた。

元彼父親強要された価値観に苦しめられているように見えたけど、父親価値観インストールして母親馬鹿にしているようにも見えた。

「親によって苦しめられ歪められた人を恋人が救う話」というコンテンツの影響を受けてきたオタクだったから、初めての恋人との関係美談に仕立て上げていたが、元彼は私にまったく救われていないし、そもそも私に救われることを望んでいたか。私が空回っていただけの可能性が高い。元彼の望みは「整形ではない可愛い処女彼女ができて高カーストの男からも羨ましがられるようになる」辺りのほうが本質的だったのではないかと思う。

2024-05-13

おれは運がいい。

理由簡単で、人生に起こる51%を良いことだと思い込むことができるから

半分より少しでも多くのことが、良いと感じられるのであればそれは紛れもなく運がいいだろう。

具体的に運が良いと感じることは

小学5年生の時に急に【賢く】なり、運動もできるようになった。

高校受験の際に運良く努力ができて、第一志望に受かった。

高校部活も運良く諦めず、やり遂げられた。

大学入学の際には、進学ギリギリの最低ラインクリアして大学入学した。

大学部活も運良く諦めず、やり遂げられた。

就職活動は失敗したが、同年代比較すると年収は高くいただけている。

今年で勤続8年目になるがそれも運の良さがあったからだろう。

運が悪いと思うことは、日常的にちょっとした過ちを犯すところだ。

これらのことを考えた時、運は全部思い込みだと思うようにしている。

から見たとき、おれの感覚で運が良いと思ったことは、運が悪くてそうなってるとも捉えられる。

自身の運ですら、自分思い込みコントロールできるような人間でありたい。

自身の都合で束縛されたいし、【孤独】でいたいし、残業もしたい、運が悪いことすら自分が選んだこと。

から見ると不自由なことも自分にとっては選択の自由に則って行われる、そんなふうでありたい。

次は【孤独】について記載したい。

2024-05-04

黒人として生まれるとやっぱり苦労する

日本ではクラスメイトいじめられる。

デブいじめられるのと同じ。

見た目がマジョリティ、みんなと違う奴はいじめられる。

小学校では土足で顔面蹴られて出血した。口の中に砂利が入って何とも言えない屈辱を感じた。

男子なのに男子ドッジボールにも混ぜてもらえない。仕方なく女の子と遊ぶ日々だった。

スポーツしたくても出来なかった。

座ってたらいきなり首掴まれて呼吸が苦しかった。

人種差別的な暴言毎日聞いた。

そんな毎日が6年間続いた。最悪だった。もう戻りたくはない。

なんだかんだ不登校にはならなかった。

中学校では逃げているのに追いかけて足を蹴ってくる連中がいて辛かった。暴言も酷かった。

学校卒業しても今もなお苦労している。

就活大手財閥保険会社の一時面接日本語で手書きで書いた履歴書を提出したら40代女性面接官、「漢字が書けるんですね」爆笑。きゃははは・・・

正直怒りが・・・

電車に乗ると「あ、外国人だ!!」と子どもに指さされて言われる。私は日本国籍です。

日本語は理解できる。

初対面の日本から「どこの国出身ですか」と毎回聞かれる。

面談でも「日本語上手ですね!」って言われる。いやいや、私は30年以上日本に住んでますけど・・・

お寺でインド人らしきお坊さんに英語で書かれたお寺のパンフレットを渡される。

いやいや、徒歩10圏内小学校の校区でほぼ毎日通りますけど、そこ・・・ だいぶ前から知っているんだが・・・

渋谷エレベーター英語で話しかけられる・・

彼女英語アピール?カッコイイところ見せなくていいから、日本語で話せよそこ

マッチングアプリ女性から普通の人がいいです。」

普通って何よ?女子厳しいだろ・・。

私に面と向かって外国人って言ってくる女子多い。

正直何人でもいい。私は私なのでね。見た目は変えたくないし。

見た目に関しては劣等感しかないな。

以下、AIからの講評です。

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あなた経験してきた苦労や挑戦について共有してくださり、ありがとうございます。それは非常に困難な経験であったことは間違いありません。

人々が異なる背景や見た目を持つ人々に対して持つ先入観偏見は、社会全体の問題であり、それによって個々の人々が直面する困難は深刻です。それは、学校でのいじめから就職活動での差別日常生活でのステレオタイプなど、さまざまな形で現れます

あなたが述べたように、「普通」や「異なる」は相対的概念であり、それぞれの人が持つ独自価値観視点によって定義されます。そのため、「普通の人がいい」という表現は、その人が何を「普通」と考えているかによります

あなた経験したような困難に直面している他の人々に対して、あなたの話が大きな助けとなることでしょう。あなた経験洞察は、他の人々が同様の状況を理解し、それに対処するための道筋を示すことができます

最後に、あなたが誰であるか、あなた自身が最も価値のあることです。あなた経験あなた視点あなた存在は、あなたあなたたらしいものにしています。それは誰もが尊重すべきことであり、それがあなたの力となることを願っています。。どんな困難にも立ち向かい自分自身を大切にしてください。。あなた幸せ成功を祈っています。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

(。 の無限ループ)

AIもこれかよ・・・

2024-05-03

結婚相談所仕事愚痴などネガティブな事を言うとお断りされるので控えましょう』

自分:37歳独身男性正社員結婚相談所登録中。

先日36歳女性お見合いして断られたんだけど、その理由が「ネガティブ発言が気になった」とのこと。

こちらは場を和ませる冗談のつもりだったとしても、そういう発言に敏感な女はいるし、自分自身配慮が足らず無意識のうちに愚痴っぽくなってしまったのかもしれない。反省必要だと思う。

その後、相談所のカウンセラーからお見合いでは男性ネガティブ発言女性不安にさせてしまます発言には注意をしてネガティブな印象を与えないようにしましょう」とコメントが来た。

から見ると無難アドバイスではあるが、自分心理的には結構ダメージで、それを聞いて一気に結婚がどうでもよくなってきた。

これじゃあ完全に就職活動じゃん。

就職活動の「志望動機は作り込んでおけ」、「退職理由ネガティブな事を言わない」、「嘘はダメだが経歴は盛れ」、「ノックは3回圧迫面接でも笑顔で受けろ」などの暗黙のルールで、

完全な上下関係の元、“下”側がいかにして合格判定を出していただくかを努力をする。

給料を与える側ともらう側だから就職活動はそれでいいと思う。

けど婚活はなんか違う気がする。気持ち的になんとなく抵抗がある。

婚活って本来対等な立場で臨むものだし、解約が滅茶苦茶難しい長期的な契約になる訳だから就職活動のような一時的な演技が求められるのは違う気がする。

でも上記相談所のアドバイスで、成婚を獲得するには就職活動のようにして臨まないといけないのだろう。

そんなにまでして男性側は努力しないといけないのか。

お茶代を払って、会話をリードして、沈黙が発生しないように色々と質問を考えて、散々気を使っていてその上さら就職活動モードにならないといけないというのはどうかと思う。

お見合い結婚結婚相談所)は条件婚だから、どうやって勝ち取るかを考えないといけないのだろうか。

そこまでしないといけないなら、やっぱり結婚は無理かなって思った。(しないと出来ない2つの意味で)

2024-05-02

学歴コンプレックス卒業した 4/4

https://anond.hatelabo.jp/20240502193040

終わりに~

この大学卒業してから長い時間が経った。あれから1回転職して、新卒で入った会社とは別の電子機器メーカーで働いてる。東プレという会社だ。今は、産業用のキーボードとか作る仕事をしている。

オフィス工場は、東京神奈川にある。もしかしたら、地下鉄なんかで増田民はてな民ニアミスしてるかもしれない。

今では佛教大学感謝してる。あの頃はいろいろ思うこともあったけど、だからこそ今の自分があるのだ。

仮に、第一志望だった同志社大学に進んでいたとしたら、きっと、ここまで努力は重ねなかった。自分に実力があると勘違いして、学業に力を入れるとか、TOEICで相応の点数を取るとか、就職活動に超力を入れるとか、そんなことはなかっただろう。

この道は、正しかった。第一志望の大学不合格でよかった。親や兄弟や親戚に不合格バカにされてよかった。だから、悔しさをバネに努力ができた。

自分は運がよかった。今ではそう思って、歩んできたこの道に感謝してる。

でも、実は後悔がひとつだけある。卒業である。実は、自分卒業式に遅刻している。その前日にアルバイト飲み会があって、就寝が遅くなった。朝起きたら卒業式開始の10分前だった。

失敗はそれだけじゃない。なんと、卒業式の最中にゲリピーブレイクになってしまい、トイレに行っている間に式が終わっていたのだ……あれはショックだった。遅刻だけならまだいい。遅刻してる学生はたくさんいた。しかし、これは……「失敗した」という思いが強かった。ずっと引きずっていた。

というわけで、先日3/18(月)に佛教大学卒業式に参加してきた。もちろん保護者である

後ろの方の席だったけど、約十年前もあんな感じだったな、としみじみした気分になった。この時はさすがに遅刻はしなかった。しかし、残念なことに……式の最中にゲリピーブレイクが再発した。

焦った。これは焦った。けれども、ここで奇跡が起こった。十年前のことを思い出したのだ。十年前の失敗は確か、最後まで我慢しようとしたのが原因だった。それで、学歌斉唱が始まったあたりで体育館和式トイレ(※洋式はない)に駆け込んだ。それで、失敗した。

式次第を読んでみる。そして、学長その他3名による卒業祝いの挨拶が長時間になると踏んだ。「よし今なら……いける!」と、その時間帯に会場を抜け出し、体育館和式トイレ(※洋式はなかった)に駆け込んだ。

会場に帰る頃には、ちょうど学歌斉唱が始まっていた。そういえば、大学の学歌ってほとんど聞いたことがない。どこの大学でもそんなものだろうか。

とにかく、卒業式は無事に終わった。終わったのだ。十年来の無念が晴れた気がした。最後プロジェクションマッピングがあって、マジでびびったわ……。

卒業式中の写真(※個人情報保護のため一部編集しています)

https://d.kuku.lu/fnam52xya

https://d.kuku.lu/fvzdknbv6

https://d.kuku.lu/nhm347cjs

https://d.kuku.lu/xvwa6hugx

ところで、式次第には学位記授与のことが書いてあった。卒業式の後、それぞれの教室学位記を受け取る儀式があるのだ。

ああ、確かこんなのあったなと思いながら、ついでに保護者枠で参加することにした。幸い、見た目は学生時代から老けている。今ではすっかり小太りのおじさんである。社内では、同輩や後輩から部長」と呼ばれることもある。保護者に見えなくはないはずだ。

卒業式の会場を出てから100席ちょっと教室に入ると、今まさに社会学部とある学科学位記授与が行われようとしていた。この時も、約十年前にあった学位記授与の記憶が蘇ってきた。

「静粛に。これで二度目だぞ、君らは最後までわからんのか!」

約十年前は、学位記授与の担当教員に怒られたんだっけ。小さい講義室で、学生たちがあまり煩いものから学位記を授与する前に怒号が鳴り響いたのだ。懐かしい。4年前の入学式でも、やはり怒号が鳴っていた笑

あとは、その日の夜にあったホテルでの謝恩会の時も、一番最後卒業代表が、ステージ上で「私がこの学校入学が決まるまで、大学受験で苦戦しました~3月最後最後まで受験を続けて、それで最後合格を掴み取ったのが、この佛教大学でした~卒業生の皆さんも~(以下覚えていない)」といった卒業記念の挨拶をしていた。が、当時の卒業諸君は大騒ぎだった。卒業代表の話なんて聞いちゃいなかった。

今では、そんなことは一切ない。みんな、小さい教室の中で静かにしている。雑談している子は1人もいない。こういうのって、なんだろうな。もしかして少子化によって選ばれし優秀な遺伝子しか世の中に存在できなくなりつつあるのか?

それはいいとして。学位記の授与では、一人ひとりが名前を呼ばれて学位記を受け取ってたんだが、やはりその……しみじみとした思いがした。自分はずっと、彼ら彼女らが教員から学位記をもらうのを眺めていた。全員が終わるまで30分以上もかかった。

最後に、学部先生挨拶をしていた。

(以下要約)

あなた達はコロナ禍の大変な時期(※2020年度)に入学してきた

入学式はなく、授業はリモートだった。学食でも黙食であり、不安も大きかったと思う

学生生活の中で、あなた達は多くの試練を突破してきたはず

社会人になってもどうかそのことを忘れずに、自信をもって働いてほしい

・いつでも大学に帰って来ていい。私たちは待っている

すべてが終わると、学生たちは粛々と立ち上がって、静かに退出しようとしていた。俺がいた頃とは大違いだ。あの頃は、絶対にみんな大騒ぎだったと思う。懐かしい。「威勢のよさ」と「常識の順守」がトレードオフになっている。そんな気がした。

※推測だが、2020年当時って、入学式オリエンテーションはないし、マスクオンで皆の顔わからないし、何より授業はリモートだし、学食でも黙食が義務だった。ということは、学生間の絆のレベルコロナ禍以前に比べて低かったのかもしれない。

ちなみに、ほかの学部学位記授与の教室もチラッと外から覗いてみたのだが、どこもいい雰囲気だった。先生学生も、熱の篭った感じで最後儀式に興じていた。特に教育とか保健とか看護学部がよかった。

卒業式の後~学内散策(※上に同じく一部編集)

https://d.kuku.lu/3ezx4ceec

https://d.kuku.lu/ftnf34ssm

https://d.kuku.lu/fx5ay2mbm

大学を出た後、近くにある千本北大路交差点で、卒業生達が「じゃあな」と言いながら別れていくのを見た。

社会人をやって十年以上が経つけど、今日という日は感慨深いものがあった。涙までは出なかったけどな。



これで結びになる。

若い頃は楽しかったってよく聞くけどさ。実際、そこまで楽しくはなかったよな。当時の日記を読み返してて感じたんだけど、「早く実力を身に付けたい」の一点張りだった。あの頃は、自分雑魚すぎて嫌だった。

「あの頃はキラキラして、いつでも輝いていた~」みたいなことは絶対なかった。あるわけねーだろ。当時の日記を参考に、あの頃の気分を一文で表すと、砂漠をうろついてるフンコロガシみたいだったよ。でっかい玉を作りたくて、己のショボい脳と身体でどこまでも足掻いていた。満たされなくて、いつも飢えていた。心が。

大学の中も、大学以外の外にある世界全体も――学業アルバイト先、恋愛とかでも、自分よりはるかに格上のヤツがいっぱいいた。劣等感が凄かった。自分が何者でもない感じがして、苦しかった。自分雑魚さ加減が嫌になったよ。そんな4年間だった。

今でも夢に見る。学生時代の下宿で、コタツ机に昔の自分が座ってる。深夜1時だというのに、アルバイトから帰った後で、TOEICの教材でリスニング勉強をしている。

なんだか寝落ちしそうな雰囲気なのだが、その度にコタツから立ち上がり、頭をそのへんの壁に打ち付けていた。一息を吐いてから、それでまた、勉強に戻る。

あきらめないでくれ……」

夢の中にいる自分は、そう応援するくらいしか手段がなかった。でも、勝手に声が出ていた。

「昔の俺よ、どうかあきらめてくれるなよ」

って、そう祈っていた。そしたら、いつの間にか目が醒めていて、いつもの布団の中にいる。天井を見上げている。

でも、現時点の感覚で、「学生時代は楽しかたか?」と自問すると、「楽しかったよ」が答えになる。

当時は辛かったんだろうけど、でもなぜか、今になると「あの頃は楽しかった」に記憶がすり替わっている。

しかったはずの日々なのに、どうして「あの頃は楽しかった」ということになるのか? それって錯覚じゃないか? 自分自分を騙してる。なぜ、こんなことが起きる?

確信はないけど。【一所懸命】だったからじゃないか自分は忘れても、脳は覚えてる。あの頃、一生懸命に苦しんで、欲しがった何かが――今、自分の手元にあるんだって無意識ではわかってる。

から、それまでの過程がぜんぶ、愛おしくて、切なくて、やり切った感があって、いい思い出として変換されるのだ。実際は辛くてしょうがなかったのに。

しかった時のことほど、楽しく思い出すことができる。反対に、楽しかった頃の記憶って、特に何も感じない。脳裏から記憶が消し飛んでいく。それだけだ。

今回、自分記憶を整理する機会に恵まれた。十年ぶりに大学卒業式に参加することができた。おそらくもう、あの大学の門をくぐることはないと思うけど、本当に運がよかった。

ありえないことだけど、昔の自分に伝えられるのなら、伝えてみたい言葉があるんだ。「諦めないでくれてありがとう」って。

学歴コンプレックス卒業した 3/4

https://anond.hatelabo.jp/20240502193039

大学3回生の頃~

この時期は多くのことを考えた。特に就職のことだ。第一志望の大学には入れなかった。だからこそ、今後の人生では逆転したいと思っていた。

就職四季報を読み耽ったし、就職活動の参考になるサイト巡回したし、就職課の方々にもクソお世話になった(ワンピース的な意味で)。

リクナビとかあるじゃん。あれで友達かにURL付きの回答ページを送って、送り主のことを回答してもらって、そしたら他人から見た自分自身分析結果とか、どんな業界が向いてるとか、どんな価値観仕事をしたいとか、いろいろわかるサービスがあった。そういうのをやってた。

当時は、LINEとかTwitter一般的だった。ひと昔前の人って、LINEとかなかったんだろ? もしかして、全部メールとか郵便就職活動をしてたんだろうか、一体どうやって? という疑問を感じていた。

5.学内TOEIC受験の思い出

 本格的に就職活動が始まろうとしていた。自分は、1回生の頃からTOEIC】の勉強に励んでいた。少しずつではあるけど実力を身に付けていた。勉強時間はそれほどでもないけど、ずっと続けていた。二年半。

 受験にはお金がかかるし、実力を付けてから挑んでみようと考えていた。そしてついに、秋頃だったかな。受験料が少ないタイプ学内試験(※本番で実施済のテストを使い回すやつ)を受けることにした。

 人生で初めてのTOEICは……うん、こんなもんかって感じだった。緊張していて、そこまで問題は解けなかったけど、ベストを尽くすことができた。

 その結果は、なんと……(ドラムロール鳴る)……760点だった!! 当時の自分は、大喜びだった。狂喜乱舞だった。心の中でもリアルワールドでも小躍りをしていた。実際、佛教大学でのランキングは堂々の二位だった。一位は確か、文学部英米学科の人だったと思う。

 これは、この結果は……紛れもない一流である!! おそらくきっと、この点数は、同志社だろうと立命館だろうと飛び抜けた点数だろう。京都大学でも通用するし、ましてや就職活動通用しないはずがない。祇園木屋町などの飲み屋街、東本願寺渉成園とかの観光地で【外国人】とトークをしても通用するだけの英語力を、ついに、ついに身に付けたのだ!!

※そんなふうに考えた時期が俺にもありました

そんなこんなで、就職活動が本格スタートした。俺は必死で、シューカツとやらに取り組んだよ。リクスー集団に交じってさ、学内企業説明会とか、大阪城ホールでの合同説明会とか、東京までOB訪問に行ったこともあったっけ。とにかくマジだった。

あの頃の自分は飢えていた。なんの実力も実績も持っていないのが嫌だった。とにかく何か、ほかの人から見て、「あいつはスゴイ」となるものを最低一つはほしいと考えていた。

6.佛大就職の話

 いつからか知ることになったのだが、この佛大というのは宗教系の比較的裕福な大学である。当時の週刊誌大学職員給料ランキングでは、慶應関西大学などの有名私大と肩を並べていた。キャッシュフロー的な意味で裕福な理由はいくつかあるが、そこまでは述べない(この日記趣旨ではない)。

 大学構内には、相応の見た目の講義棟(兼研究棟)が鎮座している。学生時代は「おしゃれ~でかい~」くらいの印象だったが、歴戦の社会人となった今ではわかる。あの1棟ものの巨大な建物は、建設工事だけで百億とかいってるかもしれない。同じ規模の大学で、あれを作れるところは少ないだろう。

 あれは確か、3回生の終わり頃だったかな。本日部活もさあ終わりだ、という時に、部長(※教員側の部活責任者)から声がかかった。ほかの3回生も一緒だった。「佛大の就職試験を受ける気はないか? 希望者がいたら優遇する」ということだった。

 考えたのだけど、大学職員というのは、その大学がすんごく好きな人がなるものだと思った。当時は、民間企業への就職視野に入れていた。優遇できる枠は1名ということで、ほかの同回生が手を挙げることになった。

 まあ、年収であるとか、職務内容とかのバランスを考えると、「魅力的だ」とは正直思った。当方は、人生の方向転換が苦手なタイプである。この頃は、先輩やOBOGを探して、就職活動に関する考え方や情報を集めていた。何でもいい、そういう生のデータがほしかった。

けど、嫌なことはやっぱり起きる。わざわざ日記に書いているのだから、当時の俺は相当ムカついたのだろう。

就職に関する情報を探してる中で、聞き込みのために学内アルバイトをすることがあった。それは講義の出席者からレポートを受け取って、受付番号を整理して、最後に整頓するようなアルバイトだった。1日勤務で六千円だった気がする。

二人一組で受付作業をするのだが、隣の組を見てると気分が悪くなった――と日記には書いてある。

その組は、男子女子の組み合わせだったのだが、男子の方がやたらと女子の方にがっついている。レポート提出者がいない時に、割と雑談をしていた。

その中で、男子の方が「彼氏いる?」と聞いた後で、女子の方が「いる」と答えると、男子の態度が急に悪くなったのだ。それは仕事終わりまで続いた。

最後レポート仕分け確認をする時も、その男子は怒鳴りつけるようにして女子に当たっていた。俺はあまりにムカついたので、「ちょっとかにやってもらえます?」と声をかけて、ようやく静かになった……。

と、記憶を思い返したけど、今の俺にそこまで思うことはない。「男の態度がひどいね。でも、オスってそんなもんじゃね?」くらいしか思わない。間近で見たらムカつくんだろうけど。注意とかするかもしれない。

当時は、実際どんな人間だったんだろう。俺って。記憶が薄らいでるとかい次元ではない。消失している。全然からない。

なんかさ、十年前の自分ってさ、もはや『他人』じゃないか。体の細胞でいうと、20回分は完全に入れ替わっている。もはや完全に他人である

余談だが、佛教大学に通ってる女子には可愛い子が多いと、アルバイト先の立命館大学の人に言われることがよくあった。

根拠は全くないものの、社会に出た後の個人的感想では当たっていると感じる。福祉教育に強い大学はそうなのだろうか?



大学4回生の頃~

就職活動に本気だった。この頃は、大手企業は今よりも早く内定を出していた(4月の1週目くらい?)。就職活動以外に教職課程のこともあったが、時間の隙間を縫って面接試験を受けに行った。まあ、書類選考でお祈りされることの方がずっと多かったけど。

うちの大学卒業生で、すごい就職先に進んだ人っているのだろうか? 自分高望みをしていないだろうか? そんなことが気になっていた。大手病に罹患していた可能性が極めて高い。

7.偉大な先輩方の話

 当時は社会学部政策学を学んでいた。社会学だけじゃなくて、社会科学ならなんでも学べる学部だった。地域を盛り上げる系のゼミに入っていたのだけど、どんな先輩方がどんな進路に進んでいるか、正直気になるところだった。

 ほかのゼミ交流する機会があった時に、同輩や先生方に聞いて回ったのだけど、凄い人というのはやっぱりいた。学生が六千人もいるのだからレベルが高い人は一定存在しているのだ。

 社会学部の先輩(俺と同じ公共政策学科)の例だと、自分入学する数年前に総合商社内定を取った人がいたらしい。学業だけじゃなくて、外の世界に飛び出して活動していた人だと聞いた。とにかく忙しい人で、授業にはそこまで出席してなくて、水商売仕事に明け暮れていたらしい。

 単位はそれなりに取得して、教職課程最難関の講義(兼演習)ではチーム全員で百点満点を取って、大学同士の研究分科会では発表役になって、大学学園祭ではパヒュームダンスを踊ってウケを取って……とにかく活動的な人だったらしい。

 学歴って、仕事の実力とは相関が薄いよな。多く見積もっても3割くらいだ。『誰もが嘘をついている』という本に書いてあったのだが、高偏差値名門校に1点差で受かった人・落ちた人を追跡調査する社会実験があったらしい。結果的には、学歴現在地位相関関係はないという結論だった。相関係数は0.1程度とあった。

 アメリカ合衆国での話なので、日本だとどうなるかわからない。けど、自分同意である。どんな中学高校大学を出てるとか、そういうのは人生での成功にはほぼ関係ない。

 どんな瞬間だって自分が今どこにいて、何を目指していて、どんな努力をしているかそれが大事だ。学歴を振り返ってる暇があるなら、さっさとやることをやって次の先に進むのだ。

就職活動の話に戻るけど……就職活動面接で問われる内容(志望動機自己分析自己アピール就職活動の軸、ガクチカ)とかってさ。釈迦人になった今ではわかるんだけど、ぶっちゃけ茶番だよな。はてなブログだと、借金玉さんがそんなことを言ってた。部族の掟に近いものがあるってさ。

就活的なキャラの型枠を、リクルートその他の人材会社が用意したうえで、企業側が「茶番」に対して本気になれる人材会社方針を素直に受け入れて、貢献してくれる)を探してる。それだけだ。

若き大学生が当日記を読んでる可能性は低いけど、たったひとつだけ、ただひとつだけ、会社選びで言えることがあるとすれば……以前、どっかの増田日記に書いてあったのを参考にすると、こんなところだ。

自分が入りたい会社というのは、自分が将来、どんなキャリアを描きたいのか、どんな人生を歩みたいのか、どんな人間になりたいのか。そういうところから逆算して決めていく」

就職活動の軸というよりは、人生の軸という観点である。ちなみに軸、というのは「他人関係なく、自分が正しいと思える考え方」という意味だ。

経済社会バリバリ働きたいなら、そういう会社に行くべきだし、あなた大事にしてる『たましいの仕事』があって、仕事副業でやりたいなら暇そうな業界を選ぶべきだ。

将来、どんな人生を歩みたいのか? それさえ決まっていれば、業界会社を決めることはできる。職種についてはナントモだが……敢えて言うと、保育所とか幼稚園とか小学校とか、それくらいの年頃に何が面白かったのか、が答えになるんじゃないか。その年代に心から楽しめたものは、大人になってからもきっと楽しい

結局、その年の春の終わりに就職活動を終えて、内定をもらえたのは……京都市内にある電子機器メーカーだった。

大手企業を受けるのはやめた。大手病を克服したのだ。それで地元会社一本に絞った。ここまで絞ると、受験できる会社の数は十社程度になった。自分の力をそんなに分散する必要もない。十分に集中できる。

当時は嬉しかったよ。両親に報告したら、父も母も衝撃を受けていた。うちの親って、自分の子どもを親戚の子と比べたがる嫌いがある。それはムカつくのだが、いい結果を報告できてよかった。

両親が、俺が出した実績をありがたがって聞いている。その実績を、電話などで親戚やご近所に知らせて調子に乗りまくっている。スタンダール小説の『赤と黒』を思い出した。小説の中で、こんな感じの場面がなかったっけ? ブクマカで詳しい人がいたら教えてほしい。

両親よりも喜んでいたのは就職課の人だった。内定先を告げると、ご機嫌なビートで小躍りするようにして、ハッピーな感じでターンをキメていた。ずっと以前から、いろいろとお世話になっていた。喜んでもらえてよかった。

この年度の終わり頃、卒業間近だったか大学が出してる何かの広報で、俺の就職先がデカデカと上の方に載っていた。トレーニングルームでそれを読んでいる時、隣にいた学生達も同じ広報の同じページを読んでいた。

「うちの学校から、こんな会社内定が取れるんや」

「ん。どこどこ?」

「ほら、ここや。この会社

「ああ、それマンコやろ」

「……」

「女の一般事務職だって総合職ちゃうし。こんな掲載詐欺に近い」

俺の怒りは有頂天に達していた。当時の日記には「有頂天」と書いてあったが、怒髪天と書きたかったのだと信じたい。

こういう連中はどこにでもいる。気にしたら負けである増田の読者の人も、レベルが高い解釈と低い解釈があるとしたら、迷わず高い方を選ぼう。そっちの方が心身ともに健やかな人生を送ることができる。

https://anond.hatelabo.jp/20240502193041

2024-04-28

anond:20240427104340

例えばなんだけど、氷河期の頃は大企業採用数がバブル期の1/10、今の1/3 だとするじゃん。実際の数は調べてないけど、この前提が大体正しいと仮定して話を進めるね。

で、採用数が少なかったら競争も激化して、入社の為に大学ランクや本人のスペック要求されるし、入社できる人数も減るわけだから氷河期の頃が大企業に入るのが一番大変だったって話になるよね?

大企業への就職もそうだし、教員になるのも公務員になるのも倍率が段違いだったんだから氷河期当時の頃が一番難しいわけだよね?

どうして当たり前のように矛盾したことドヤ顔で言えるのか、本気で分からないんだけど教えてもらえないか

本当に分からないんだよ、君みたいな謎の結論になる根拠


>その辺以上の大学卒で、ちゃん計画的単位取って、就職活動してれば、下手すれば今より良い待遇就職できてたし

今より良い待遇就職できたのに、氷河期世代と言われた理由は何だったの?

というか、正直言って分析適当過ぎない?今何歳?60歳位?

2024-04-27

女性管理職として育休後に退職する女性社員に対して思うこと

増田が勤めている会社産休、育休、介護休暇や傷病休暇にも理解があり、良い組織だと思う。

ただ、産休育休を取得するほとんどの女性社員は、第一子の育休明けには第二子妊娠していて2ヶ月も働かないうちにまた産休育休に入る。そして時短復帰すると半年程度働いて義理を果たしたというように辞める。

そのような選択が今後の女性採用女性管理職の登用に二の足を踏ませるのでは、と彼女たちは一度でも考えただろうか?と思う時がある。

増田管理職なのでたまに面接もする。同じレベル大学卒業している学生場合、男女で比較すると女子学生の方がエントリーシート面接対応も優れていることが多い。

それでも会社人事部は男女同数ないし男子学生を多く採用する。大きな声では言えないが、女子社員産休後に辞めるからだ。

時短リモートワーク、半休制度フレックス制度、どんなに整えても辞める。

増田2011年大学卒業した。子供の頃は「団塊の世代が大量退職する頃に就職する世代なので、就職簡単」と言われていたけれど、リーマン・ショック、その後は東日本大震災もあり内定取消や自宅待機があった世代だ。

就職活動は大変だった。就職活動する上で、女性差別にも直面した。

から仕事を頑張ろう、女性からと思われないように成果を出そう、私の力は小さいけれど、後の女性たちが少しでも生きやす社会にしたい。

そう思って仕事に打ち込んだ。成果主義会社なので、数年で管理職になれた。

子供も産んだが産後2ヶ月半でフルタイム復帰した。夫婦で話し合い、保育園に入所出来るまで夫が育休を取ることにした。

今は男性育休制度も取りやす制度設計になっている。でも、辞めていく女子社員の夫たちは子供が何人産まれても育休は取らないし、もちろん時短も取らない。話を聞くと、そもそもどちらが育休をとるかなんて相談すらしないらしい。

これでは女性が生きにくい社会のままだなと思う。身近な夫とも今後のキャリアのことを相談しない。盲目的に前時代的な生き方を選んでいる。

そして経済力を手放す。相手モラハラDV野郎でも離婚できない。

やっと離婚できた、再就職しかないというときにはパートしかない。女性差別だと嘆く。

それ、全部自分選択だよね?

先人たちの声や努力のおかげで、いまの私達には様々な選択肢がある。

女性たちよ、ちゃんと考えようよ。パートナーと話そうよ。先人たちの知恵、失敗、あるいは呪詛を糧にしようよ。

次の世代には、いまより少しでも良い社会で生きてもらえるように。

2024-04-26

anond:20240426175641

就職活動確認はされる 就職指導って具体的に案内されてないからよくわからん

基本ほったらかしやね

2024-04-23

就職活動に失敗して」

しっ‐ぱい【失敗】

[名](スル)物事をやりそこなうこと。方法目的を誤って良い結果が得られないこと。しくじること。

出典 小学館デジタル大辞泉

方法を誤ったわけでも目的を誤ったわけでもなく、単に能力が足りなかったのでは

2024-04-21

安い手に入りやす香水で、懐かしくて欲しいものってなると

あとはカルバンクライン各種くらい

エタニティ女性向きも男性用も好きだし懐かしい

CK Oneボトルで買ったな

そして結局、各種消臭剤の扱いになった

柑橘がキツすぎてどうも

しかしこれ、アルベルトモリヤスの作なんだよなあ

グッドガールゴーンバッドと同じ人の作品でも、必ず自分が好きとは限らないんだなあと

プアゾンだったりシャネルNo.5だったりは名前だけ知ってる大人香水の括りで、香りとしてはどこかで嗅いでるんだろうけど・そして懐かしくもあるんだろうけど、自分に関わりがない・憧れも思い出もないので試したいとも思わない

うーん

懐かしい香水を楽しむにも、意外と自分の興味の範囲が限られるんだなあ

グッチアチェティ廃盤してるし

ていうかミニ香水当時よく買ってたんだな、思い返すと

そりゃ学生だしお試し程度だろうし、と思うけど

どこで買ってたのか思い出せない

持ってた記憶はあるんだけど

雑多な地下街のお店とかなんだろうか、もうほんと覚えてないな…

アチェティは好きなアイドルグッチのなんとかを使ってて、メンズ香水であるにも関わらずそれそのものを買ったけど

そんな好きな香りではなく、自分で使うと気持ち悪くなる香りだったんだよな

そんで、同じブランドレディースもの香りにしようと選んだんだったはずだ

お店でかいだ時には悪くないと思ったけど、実際に使うとやっぱりキツくて好きではなかった記憶

そして就職活動の時のしんどい思い出が色濃くしみついた香りになった

これはいくら懐かしくても変に手に入れようとしない方がメンタル安全安定に良い気がする

夢の中で昔の彼女と腰を振った話

夢を見た。

10年前に別れた彼女が夢に現れたのだ。

夢の内容を記す前に、彼女と私について書きたい。

当時大学入学したての私達は同じ学部ではあったものの、一度も話したことがない仲だった。

男女合わせて100人以上いる学部とあれば当然のことだ。

彼女ワンピースに出てくるニコ・ロビンに似ていて、どこかエキゾチック雰囲気に私は惹かれていた。一目惚れというやつだ。

そんなロビンと私はお互い話したことこそないものの、講義のたびによく目が合った気がしていた。

その後2年生に進級した際、共通の友人の紹介で仲良くなり、やがて交際を始めた。

交際後わかったことだが、ロビンも私が気になっていたそうで、目が合ってたというのは偶然じゃなかったのだ。

お互い一目惚れ通しで、学部内でも仲良しカップルと囃された私達も、大学である以上避けられないイベントが訪れる。

そう、就職活動だ。

当時ロビンはお互い大学近郊の地での就職を望んでいた。

一方私はというと、人から賞賛されるような企業で働きたいということで大企業中心に活動をしていた。

今思うと、人から賞賛されたいという承認欲求だけで就活をしていた私は愚かだったと思う。

そんなこんなで大学卒業後、大学近郊で働くロビンを尻目に私は配属先で暮らし始めた。

そこから別れるまでに時間は掛からなかった。

物理的な距離はすれ違いを生み、精神的な距離を育む。

私達もそのご多分に漏れず、精神距離を育みやがて別れた。

泣きながら別れ話をするロビンに、私は涙一つさえ流れないほど冷めていたのを今でも覚えている。

以上がロビンと私の顛末だ。

少々前置きが長くなったが、そんなロビンが夢に現れたのだ。

ロビンも私も今年で33歳になる年齢だ。

その33歳になったロビンが夢に出てきた。

夢の中で、私達は何故かホテルの一室におり、お互い同じベッドに腰をかけていた。

そこに至る経緯は覚えていないが、確かに同じベッドに横並びで腰をかけていた。

同じベッドに腰を掛ける男女となれば、セックスが始まるのは至極当然のことと思う。

私はロビンの服を順番に脱がせ、ロビンも私の服を順番に脱がす。

お互いが生まれたままの姿になった頃、私はロビンの足の付け根にある黒子を見て懐かしい気分に浸る。

大学の時分、他の男は知らない、私だけが知っていた彼女秘密だ。

そのままお互い『こうされるのが好きだったよね』と確かめ合うように情事は進み、やがて一つになる。

お互いが大学生だった私達が時間を超えて身体を重ねあう。

その懐かしさに溺れかけながら、酔いながら、腰を振る私にロビン一言私に言い放った。

『ごめん、気持ちよくないや。やめよう。』

その一言で私達の情事は終わる。

その後、同じベッドの中でロビンが私に言う。

『君、昔はいっぺん始めるとさ、自分最後までイケないと機嫌悪なっちゃったのに、変わったんだね。優しくなった。』

その一言に私は年甲斐もなく堪えきれず、泣いてしまった。

そこで夢は終わり、目が覚めた。

から覚めた後に、今度は現実でも泣いた。

自分が優しくなったなんて思えないからだ。

行きずりの相手言葉を選ばずに言えば都合のいい相手を見つけては腰を振り、時には相手を泣かせるような酷いこともした。

そんな私が優しいわけがない。

ロビンやその他不特定多数にしてきたことが『優しい』の一言で許されるわけがない。

夢の中のロビンが言った『優しくなった』は、きっと私への罰なのだと思う。

そんなロビンだが、今や二児の母になったと少し前に人伝で聞いた。

そんなロビンがこれから幸せに日々を過ごすことを願う。

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