はてなキーワード: 小林秀雄とは
●美しい花がある。花の美しさというようなものはない
最初は前者が主観で後者が客観で、客観というようなものはない。主観的客観があるのみだと思っていた
今はもう少し単純に考えている。というより彼の講演の話に出てくる「経験について」をそのまま当てはめただけだが
水は、小さい頃に飲んだ一杯の美味しい水が、僕にとっての水だ。人間的経験としての水だ
だがH2Oという風に性質を知るというのは、科学的認識ではあっても人間的経験として知るということではない
“人間にとって本当に知るということ”とは、そういう風に自分が花を見て“美しい”と感動するところ以外にはない、
これはあくまでその一文にコンデイしてものを言おうとしているので、当麻全体からしたら、もしかしたらそれほど意味のないことかもしれん。こういう一種の( )に惑わされること自体が、化かされているのだとも言えるだろうか。
問題文入手して読んでみたんだけど、
俺には小林秀雄の『鍔』より
そのあらきけいすけの文http://d.hatena.ne.jp/arakik10/20130119/p1の方が読みにくいぞ。
主題が途中でふら付いてるっていうのもまさにこのあらきさんの文のことだよ。
要らんこと書きすぎ。
具体的に言うと
入学試験とは学力を測る行為ではなく、学力をネタに足切りの線引きを行う行為である。
東大、京大に入った人は、学力があったから入ったというよりは、そのときの受験生集団、そのときに出題された問題に関して、点数がたまたまボーダーラインの上にいたというだけである。出題された問題によってボーダーライン付近の人間はごっそりと入れ替わる可能性がある。もし本当に学力を測っているのならば、入学定員に関係なく「学力水準」を達成した人に入学許可を与えるのがスジであろう。教員と教室をどう割り当てるかという経済的な理由があるから、学力によらず毎年、一定数の学生を入学させているのである。
入学試験とは学力を測る行為ではなく、学力をネタに足切りの線引きを行う行為である。
だから良い入試問題とは、その大学のその年の受験生集団に対して、点数の分散が大きく、線引きが容易になるような試験問題である。東大にとっての良問を岡山理科大に出しても誰も解けないし、岡山理科大にとっての良問を東大に出しても点差が付かない。自分の大学の「身の程を知る」ことが良い出題の前提条件である。
ここ全部要らない。
後段に繋がってないんだもん。
ここのせいで文章の目的とか、この人の入試に対するスタンスが一瞬わからなくなる、
その上で
小林秀雄にしても、小説の牧野信一にしても、そのような文脈で60万人の人間に序列をつけ、線引きを行うために、
わざと分かりにくい、奇妙な文章を出題して、文章の構成要素を「文脈を斟酌して読み込む」技術の達成度を見ているのである*1。
これが解けて何が嬉しいというのであろうか?
前段落と全く繋がってなくて流れ出読んでくるとマジで混乱するんだけど
まあ言ってることはいいとする。
しっちゃかめっちゃかな文章を批判的にではなく「とりあえず丸のみ」にして要素の解析を強要するのである。
いや、センター試験の国語問題の目的は「合理的に論理をくみ上げる作文力のトレーニング」じゃないだろ。
(前段では自分でも試験の目的を「学力をネタにした足切りのための線引きだ」って言ってんだぜこの人。)
このような問題に対してハイスコアを目指すための勉強を18歳年齢人口の約1/2弱の子供たちが強要されている(といっても、真剣に取り組んでいるのは上位層だけだろうが*2)。
同じテーマについていくつかの例で話をしていて少しもふら付きが無い。
問題はどれもいくつかの例について簡単に内容聞いてるだけ。
実にちょうどいい難易度だよ。
試験問題の悪い点としては本文よりむしろ本文後ろの注が全体的に馬鹿みたいなことばっかり書いてあってどうかと思う。
注のほとんどが
・説明がおかしいこと(打刀の説明とか、これは「間違い」と言ってもいい酷い説明だし、少なくとも全く無意味な説明だ)
のどれかだぞこれ。
「ださい人」はださいなりに、自分の外見に気を遣っており、それが当世の流行と一致しないだけで充分にファッショナブルなのだ。おしゃれな人がおしゃれ世界の流儀でファッショナブルであるように、彼らは彼らの世界の流儀でファッショナブルなのだ。
彼らはアンファッショナブルなのではない。「外見の追求を捨てている」からああなっているのではない。単に独自な外見を追求しているだけだ。それが「ださい」、それだけだ。その証拠に、彼らに「おしゃれ服」を着せてみろ。彼らは「知らなかった、こんな服を着たらオレはかっこいいんだなあ、教えてくれてありがとう」というだろうか? 絶対にない。顔を真っ赤にして彼らは怒るだろう。「こんな服が着れるかよ!」、と。あるいは殊更に無視するか……「おしゃれに興味がないという外見」を一層強固に維持するために。彼らは「おしゃれ/外見に対するこだわりがない人」ではない。彼らは人一倍外見にこだわっている。
馬鹿というのは知性の欠如した人間なのではない。世界を百通りに分析できる人間は知性があり利口と言われるだろうが、世界を「かわいい/きもい」の二通りにしか分析できない人間もまた「そういう知」でもって世界を分析しているのであり、その意味では知性が欠如しているのではない。彼らは彼らなりの世界を生きているだけだ。その意味で「馬鹿は馬鹿なりに完全なのだ」……かつて小林秀雄はそう言った。
それは、つまり、「知」で「馬鹿」を教化できると思っているとしたらそれは幻想だ、という絶望の宣言でもある。縁無き衆生は度し難い。
性という言葉に囚われずホモ・ヘテロについて考えてみるべき、と示唆する書き込みに刺激を受けて書かれた面白いエントリ
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20110205/1296895274
今日の社会におけるヘテロは実は劣化ホモ。真にヘテロ(「異性」愛)と呼べるのは女×女のみ、という説。面白い。
が、それを踏まえて感想を少し。
そこで性別に話を持ち込むところに、すとんとは落ちないものを感じる。つまり、
他者を他者として(すなわち己とは「異」なる性として)エロス的に欲望すること=ヘテロ
他者のなかに自分と同質のものを見いだしてつながろうとするプラトニックな欲望=ホモ
…と定義するなら、結論は対象の性別は問題ではないということになるはずではないか。
同性(同じ性別間における)愛においてもヘテロ的関係が成り立つと言えるなら、異性間においても可能でなければ話の筋が通らない。現在多くの場合どうか、という話と、本質としてどうかという話は異なるのだから。
たとえば、昔、小林秀雄が友人の同棲相手とどろどろしまくる関係を経たあと「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた」と述べたのは、異性間でも相手の他者性と向き合うことが可能であるということを示す一例ではないか。
ただ、このように考えを進めるとき、(言葉の意味は変化しているにせよ)その先において我々はまた「ヘテロ>ホモ」という構図にすっぽりとはまってしまう恐れはないか。そこから更に先まで考察が必要であると思う。
http://anond.hatelabo.jp/20080315152400]
これを全部読んでいない人間は「猿」です。
ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス
ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社
デリダ『グラマトロジーいについて』
海外文学
『唐詩選』岩波文庫
シェイクスピア『ハムレット』角川文庫、新潮文庫、岩波文庫、ちくま文庫
ゴーゴル『外套』
ポー『盗まれた手紙』
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ドストエフスキー『悪霊』
カフカ『審判』
魯迅『阿Q正伝』
トーマス・マン『魔の山』
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ムージル『特性のない男』
セリーヌ『夜の果ての旅』
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
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ジュネ『泥棒日記』
ロブ=グリエ『嫉妬』
レム『ソラリスの陽のもとに』
エリオット『荒地』
ブランショ『文学空間』
日本文学
樋口一葉『にごりえ』
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内田百〓『冥途・旅順入城式』
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坪内逍遥『小説神髄』
正岡子規『歌よみに与ふる書』
石川啄木『時代閉塞の現状』
小林秀雄『様々なる意匠』
保田與重郎『日本の橋』
吉本隆明『転向論』
江藤淳『成熟と喪失』
by 柄谷行人、他
追記
ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラ、リソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。
これを全部読んでいない人間は「猿」です。
ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
ヴァレリー『精神の危機』
ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス
ウィトゲンシュタイン『哲学探求』大修館書店
デリダ『グラマトロジーいについて』
ベイトソン『精神と自然』新思策社
海外文学
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ゴーゴル『外套』
ポー『盗まれた手紙』
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
フローベール『ボヴァリー夫人』
ドストエフスキー『悪霊』
カフカ『審判』
魯迅『阿Q正伝』
トーマス・マン『魔の山』
ザミャーミン『われら』
ムージル『特性のない男』
セリーヌ『夜の果ての旅』
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
サルトル『嘔吐』
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古井由吉『円陣を組む女たち』
後藤明生『挟み撃ち』
円地文子『食卓のない家』
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北村透谷『人生に相渉るとは何の謂ぞ』
正岡子規『歌よみに与ふる書』
石川啄木『時代閉塞の現状』
小林秀雄『様々なる意匠』
花田清輝『復興期の精神』
江藤淳『成熟と喪失』
by 柄谷行人、他
追記
ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラ、リソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。