はてなキーワード: 対称性とは
女性の役割から降りるってのは、エマ・ワトソンの話からすると、
女だからって男の為に愛想ふりまいたり、頭が悪い振りしたり、お茶くみしたり、衣服や化粧等を強制されたりせずに、好きにふるまうって意味だと認識してる。
つまり男に気を遣うのやめようぜ!って事だけど、
男は強くあるべきだ、成功すべきだ、男は積極的で女性をリードすべきだ…
って考えから降りるって感じの内容だったけれど、
女性性から降りるって内容と全然対称性が無くて、社会の競争から降りる事になってる様に思うんだけど。
もしくは、モテ(性欲)を捨てろとか、役割からの解放どころか、新たな足かせ追加していない?
男性性から降りるを正しく対称に考えるなら、女に気を遣うのやめようぜ!
つまり、もしかしたらセクハラになるかも…とか小難しい事考えずに、好きにアプローチする、
ユークリッドからガウスの手前くらいまでの数学は、我々の感覚から自然に延長された世界の把握の仕方である。
一方、19世紀初頭、リーマン、ガロアあたりから登場した現代数学の基底となったアイディアは、一見、実世界では観察されえないものの、人間のもつアプリオリな思考からは確実に真相を表していると考えられる世界・宇宙のとらえ方である。前者は「悟性」、後者は「理性」に相当するのではないか、と解釈しながら読んだ。
「AはBである」という命題には「分析的命題」と「総合的命題」の2種類あることが示されている。
「分析的命題」は、言い換えのようなもので、Aをよく吟味すれば、Bであることがわかる。「総合的命題」は、「理性」を必要とし、思考の飛躍が必要である。つまりAをいくら眺めたところで、Bはなかなか出てこない。BはAの世界の外にある。
昔、大学初年のころ「数学は単なる式変形や定義のトートロジー(言い換え)であるからつまらない」と言っていた友人がいた。彼はその後数学科から哲学科に転向した。
中学生のころ、速く動くと時間が遅れるとか、空間が曲がっているとか、そういう相対性理論の話を聞きかじったときに、なぜそういうことが人間にわかったのか不思議に思った。
「悟性」の単なる延長上で、数学を進めていっても、数学がトートロジーであったならば、現代物理でわかっている宇宙や素粒子の構造は理解できなかったに違いない。つまり、現代の数学や理論物理は「分析的命題」によるのではなく、「総合的命題」の積み重ねによっている。
この本は、なぜ、このような理解が可能であるか、を説明しようとしている本なのではないか。本書のすごいところは、現代数学や現代物理学が誕生する以前に書かれたにもかかわらず、現代数学の諸概念を考えるきっかけを作ったのではないかと思えるところだ。実際、リーマンやガロアが出現した時代は、この本が出た直ぐ後であり、本書が、まるでその後の現代数学の誕生を予見していたかのように見える。さらに、現実の宇宙がまさに、それらの現代数学によってしか記述てきないものであることを発見したアインシュタインや、物質の状態に不確定性を見たハイゼンベルクなどドイツ系の理論物理学者は、若い頃にカントを読んでいた節がある。
現在では、宇宙が量子場の曲がった多次元空間であり、群の対称性から素粒子とはまさにその多次元空間の変換の規約表現そのものであることが発見され、物質の質量は後天的に獲得されたものであることがわかり、人間の思考と実験によって、「理性」による「総合的命題」が積み重なり、驚くべき宇宙の理解が進んできている。
この現代の数学、物理学の飛躍的発展に、本書が間接的に果たした役割は、かなり大きいのではないか。人類の残した書物の金字塔の一つであろう。
https://anond.hatelabo.jp/20210728111035
上記のエントリでヒルベルトやガロアに並ぶ数学者について質問されたので例示するけど
その前に何故ヒルベルト・ガロアを挙げたかについても説明します。
まずヒルベルトは集合論に基づく20世紀前半の様々な数学理論の構築に重大な貢献をした人として挙げた。
その中でヒルベルトみたいな貢献をしている人としてジェイコブ・ルーリーという数学者がいる。
現在の代数理論の根本的な部分から新しい基礎を作り位相的場の理論や代数幾何学の理論の構築まで行ってるのは
次にガロアは方程式が解ける解けないという性質の裏に隠れた対称性を見事に発見した発想力の凄い人として挙げたけど
この隠れた対称性を見つけるという発想は現在の様々な数学理論に影響が及んでいる。
現在ガロアのような発想をした人としてエドワード・ウィッテンという数学者がいる。
彼は物理学者という意見も多いが数学者としても凄いのは間違いないと思う。
ウィッテンは様々な幾何的な不変量に対して物理的なモデルを考える事で別の求め方が出来る事を発見した。
こうして今まで重要と考えられてきた様々な幾何的な対象について物理的なモデルを用いて
今まで分かって無かった性質を見つけるという方法は現在の幾何において重要なやり方として大きく発展している。
この多大な影響を及ぼした発想をしたウィッテンはメチャクチャ凄い数学者だと思う。
それは必然ではなくて偶然の要素が大きいでしょ。
より高位にあることの結果というわけではない。
どっちも「美しい」と言われてるけど、
宇宙際タイヒミュラー理論がもし真だと
生まれるだろうけど、あれを美しいと言う人は
たぶんいないでしょ。
こういう話になると俺も勉強してない話になるので変なことを言ってるかもしれないけど、なんていうか、俺の感覚では数学は「対象」を「そいつらに対して許容される操作の集合」で規定するところがあるように思うんだよな。「操作」というのは例えば「足せる」とか「スカラー倍できる」とか「足してゼロになるやつが存在する」とかそういうの。そんでもってその「操作」が全く同じように成り立つ別の「対象」があるということがしばしばあって、「そいつらに対して許容される操作の集合」こそが「対象」という意味ではその2つの「対象」は全く同じということがある。それを準同型と言ったりする。そういう複数の「対象」を同じものとみなして都合に合わせて自由に行き来することを「同一視する」と言ったりする。
サンプリングというのは「連続関数」の対象から「離散的な値のセット」の対象への変換なわけだけど、こういうことをすると連続関数の世界で成り立っていた「操作」が成り立たなくなってしまうことがよくある。対称性が失われたり、ナイキスト定理によって高周波成分が失われたり色々する。それはつまり「対象」として別物になってしまうということだと思う。じゃあ連続関数の中でもどういうものなら「操作」が保存されるのかとか、「復元」が可能な場合はあるかとか、そういう話になってくる。
さらには、異なる「操作」自体をある意味で同一視して同じものとみなせるかどうかを議論するような分野もある。圏論と言う。異なる「操作」としての「圏」の間の準同型のような移り変わりを「射」と言って自由に移り変わりながらそれらに共通する性質の抽象化を試みたりする。でも圏論は全然勉強したことないからよく分からん。すまん。でも圏論で出てくる「可換図式」という図式の書き方とか使われ方を調べてみるともしかすると何か参考になるかもしれないと思う。
色々レスつけた増田だけど、改めて読み直してみると言いたいことがなんとなく分かる気がしてきた。
でも残念ながら「総称する呼び方」というものは存在しないと思うぞ。数学はトップダウンに見えるかもしれないけど実際は色々な分野の集合体で、それぞれは関連しつつも個別に発展していて、それらを統一する統一的な見方みたいなものは存在しない。どちらかというと(現代数学は)集合論を基礎として(いやそこにも色々あるが)、そこに分野ごとに様々な構造を追加していって枝分かれしていく感じだ。「統一する呼び方は何か」ではなく、自分が着目している対象(例えば「連続時間の信号」とかそういうのだ)が数学的にどういう対象として抽象化されているのかを考えて、その対象を扱っている分野はどれか、というのを探すべきだと思う。
連続時間の信号ならそれは単純には「連続関数」として抽象化されるものだから、それを扱う数学は解析学や関数解析などになるだろう。ノイズの影響を考慮して確率的な扱いをしたいとなると確率過程論などになっていく。
強いて言うなら「構造」かなあ。少なくとも俺はそういう言い方をよくする。「線形構造」はあらゆる分野の様々なところに現れるし、対称性のあるところには「群構造」があるし、線形作用素があるなら「スペクトル構造」を見ることで色々なことがわかる。
それって「『絶対確実なもの』から論理を積み重ねていく」ことで「科学リテラシーが権威主義的側面を持っている」ことを否定しようとしているってことでOK?
・本当に「絶対確実なもの」は「絶対に確実なもの」としていいのか?
ウイルスの分子量は数百万~数千万で、その大きさは細菌より遥かに小さいというのは、現代では一般によく知られている。
しかし、それが明らかになったのはX線結晶解析や電子顕微鏡の登場を待たねばならなかった。
ここで疑問なのは、権威主義的に無批判にウイルスの大きさを「絶対確実なもの」としていないかということだ。
正直、増田が「ウイルスは同一のサブユニットから構成されるために対称性の観点からその形状は正十二面体か正二十面体であり、X線結晶解析や電子顕微鏡によってその大きさを 確認した」なんて到底思えないんだわ。
ウイルスの大きさは当時の科学者によって批判され論考された末に定まったものなのだろうが、権威主義的でないならばその批判のプロセスをなぞって再検証する必要がある。
その批判に使われた考えや技術も当然再批判する必要があり、帰納的に疑うべきものの数が増え続けるために、権威主義的側面によって仮説検証コストを下げることは必須であり合理的。
感覚派じゃないニュータイプなんていないだろ。あいつら感覚が全てだよ。
アムロは1年戦争後、閑職に追いやられて仕事らしい仕事といえば
連邦政府から送り込まれたコールガールと寝ることぐらいだったろ?
そこから脱出してカラバ入りしたあと、なし崩しでロンド・ベルという非正規コース。
どちらにしろブライトがいることとアムロの管理者能力は関係がない。
むしろブライトがいることでアムロは管理者能力を磨く理由がなくっているのでは。
作戦会議に出て発言してるのはMS部隊のリーダーだからなんだろうけれど管理職というわけではないと思う。
MS部隊の管理職はケーラがロンド・ベルを守ろうとしているときに下がれ射撃の邪魔だとか指示を戦闘ブリッジで出してた人だと思う。
実際のところ戦闘シーンではアムロは猪突猛進、ひとりで突出して部隊単位での行動なんて全くしてない。
これは余談だけど、アムロに対してシャアは常に組織のリーダーとして動いているんだよな。
推しは白い髪のミステリアス系少年キャラでここではN.K.としておく
厳密にいうと髪は真っ白ではなくてそれも良い
もともと作品自体はあまり知らなくて、ネットでふと見た推しを最初は気持ち悪いと思っていたけどそのうち興味が湧いて
気がついたときには推しのためだけに作品の履修を心に決めていた
ネタバレをいろいろ見てしまっていたことは悔やんだけどそれでもなお新鮮な驚きがあった
主人公くんが異様な状況で驚き慌てているところに優しく現れる推し
推しの謎の好意を受ける主人公君に場所代わってほしいと思ったのは一度や二度ではない
しかし主人公君と推しの関係性や美しい対称性を考えているうちにそこは主人公君の場所なんだと納得して代わってほしいとは思わなくなった
ネタバレ見て知っていたが推しの本性はアレだから二人の蜜月は長くなかった
推しはある目的のために一人でこっそり入った謎の部屋であの世界の真実を知ってしまっていたのだ
手が固定された磔になって腹に神話の槍を刺されてる白い体の衝撃
他人の手で殺されることを選択するに至る覚悟は最初戸惑ったがそのうち深く納得した
グッズの出し方が露骨だったのはまだいい
許しがたいのはシリーズ5作目(リメイクなどは抜きで数えている。3作目といった方がいいか?)なにあれ
「希望は残っているよ、どんな時にもね」推しはそんなこと言わない
他のキャラもいろいろおかしかったからとても正史とは認めたくない
常人には理解できないことばかり言ってて主人公君を好きな理由もよくわからないナギちゃんを
白い髪白い肌に白い半袖シャツで
シンジくんの少年らしい声と心地よくオーバーラップする人外っぽい喋り方のナギちゃんを
ついでに
例のセリフはi love youとi like youのどちらが良いかで揉めてたけど私はどちらも同じくらい間違い派
全ての勉強をニューラルネットに絡めてやった人、って感じのする意見なんだよな。最近の若い人はそういう人すごく多いけど。
アテンションがどうとか言ってるけど、そもそもモデルのパラメータを画像座標と図形形状の直積に取れば位置の情報は当然入る。単にそれだけの話なのに、わざわざ「アテンション」とか言ってしまうところが、ニューラルネット、もっと言えば並進対称性をあからさまに入れた畳み込み演算が暗黙の前提になりすぎているといえる。
GANがどうと言ってる人も同一人物だろうなと思うけど、そもそも単なる教師あり学習とhuman in the loopのアクティブラーニングは全然話が違うだろう。
>ちゃんとエコーチェンバー現象を確認するなら、元々の思想が同じような人達を2グループに分けて、全く同じ考えを信じてる人ばかりの場で聞いた時と、考えがバラバラの人がいる場で聞いた場合とで、信じる人の割合が変わるか観測しないといけないだろ。そんなことしてるわけ?
していない。
それは社会科学全般に付きまとう問題である。普通の科学というのは、同条件の培地を作って、あるいはマウスを使い捨てにして、お前の言う通りの比較をするわけだが、同条件の社会を作ったり使い捨てにしたりする訳にいかないので、社会科学においてそういう実験は基本的にできない。
しかし、近似的なことはしている。例えば社会心理学の実験のようなことだ。実験ボランティアに集まってもらって、一人以外が全員サクラで、他の人が意見にめちゃくちゃ賛同した場合と、いろんな意見があった場合で、対象の一人の意見が極端になるかどうか、件数を調べる……みたいなことはやっている。はずである。
まあそれは厳密には対称性の実験にはならなくて、だから極端な理系脳の人は文系科学を嫌うんだけどね。
ただそうしないと研究できない領域があって、しかも成果が実際にでるから、しかたない。
これを批判したいなら、止めはしないが、ハードな批判になるだろう。エコーチェンバー分析ではなくて、社会科学全部を批判しなければならなくなるからだ。
>問題は本人に土壌があるかどうか
全くその通り。
しかし社会全体には必ず土壌のある人と無い人がおり、そうである以上、環境がそろえばその影響が全体には必ず出る。
繰り返すが、これはあくまでも傾向の話であって、絶対にそうなるとかいう話じゃない。
あと傾向は実際に観察されている。