はてなキーワード: 寄与とは
おそらく過去一モチの寄与度(依存度とは言いたくない)が高いキャラ設計
そこに目を瞑るとするなら、あとは運用法で工夫あるのみ
モチの決定的アドバンテージは自分で殴ったときの追加デバフ機能による残夢(疑似EP)加速+1
であれば黄泉は攻撃靴にして速度盛りのPTメンバーに残夢をガッツリ稼いでもらう運用にすることでモチのアドバンテージを薄められる
その場合、自ターンで得られるのは+1が上限なので必殺や反撃などの自ターン外行動におけるデバフチャンスを増やすのが鍵になる
それを考慮すると耐久枠は星間市場を装備でき被弾コントロール可能な炎主、次点でジェパ・なのかに絞られる
炎主はスキルで全体に挑発デバフを付与できるので毎ターン+1取れる、必殺で撃破すれば+1
ジェパは被弾誘導力が運命補正と軌跡効果にあり狙われやすく、命中を盛れば毎ターン戦闘スキルで凍結させられる、凍結は被弾狙いとやや反するのと必殺のデバフチャンスが皆無なのがネック
なのかはバリアによる誘導だが結局全員に貼るパターンになると微妙、自ターン外では優秀で必殺で誰かに凍結か撃破入れば+1取れる、カウンターで撃破狙える(被弾とカウンターは同一ターン扱いなのか要検証)
アベンチュリンが実装されれば通常と必殺でデバフ付与可能な存護として候補になるが
さすがに毎ターン通常振る運用は不可能だと思うので残夢稼ぎ力は炎主に劣るだろう
同じことはギャラガーにも言え、必殺と、必殺直後限定の強化通常でしか残夢を得られない
アベとギャラは必殺の回転率にもよる部分はあるんで未知数
あとはクラーラを存護的に使うのもいけるかと思ったが反撃の印はデバフではないその他効果っぽいので多分無理
あとの2枠は虚無2でほぼ確だと思うが、存護と黄泉が毎ターンスキルを使う都合、桂乃芬、サンポといった通常と必殺双方でデバフを撒けるキャラでないと相当キツくなる
とはいえ虚無は決汗があるので通常のデバフ化は対応でき、サポ性能的にペラが筆頭候補になるだろう
固い敵だけにデバフ撒けば取り巻きは黄泉必殺で処理できると考えるなら銀狼も効果的だがペラは効果命中10%バフも配れるので存護のデバフ安定に一役買う
虚無2ではなく虚無1ルアンにして撃破機会増によるデバフを狙っていくのも場合によってはよさそうで
敵の弱点が噛み合うなら虚無1枠をカフカやスワンといったサブアタにするのも虚無2と遜色ない可能性はある
ただ無凸で調和採用するのは2凸使いと比べると悔しくなってしまう可能性がある
モチを持ってるなら逆に花火を採用して黄泉を動かすことでデバフチャンスを増やす手も取れる
が、やっぱりダメージ的には虚無3編成の別枠1.6倍乗算は越えられない気もする
まあソロゲーだし数字で競争する意味はないが納得できる編成を組むことでローコストでも納得できる運用を模索していくことはゲームの楽しみ方としてけっこう重要だと思っている
星4の一点狙いは沼ではあるがおやすみ狙いであわよくばモチ引けることを期待しつつということなら
普段武器ガチャ引かん主義の人も多少回してみるのはアリかもしれない
いやそれでも限られた予算ゆえ確保できるキャラが1体減る方がゲーム体験的には損失大きいとは思うけども
ただ黄泉はなー
必殺演出の異次元の凝りようや予告番組の開発者コメントを聞く限り、相当に力を入れて作られた贔屓キャラであることは間違いないので
原神で言うところの神くらいにお財布を緩めるタイミングと受け取っていいのかもしれない
実際これ「虚無」の使令なのでは?くらいの性能に見えるし
でも遺物テキストから読み取れる経緯的には「虚無」による障害を負った人とはいえ、シナリオ的な立ち回りは「終焉」っぽい因果逆転ムーブをしている気がする
そう、黄泉っつってるけど明らかに雷電で崩壊シリーズにおける御三家なので……ん? ブローニャは恒常だったような?
同位体の銀狼も……オフイベやWebキャンペーンは凝ってたけどゲーム内では特別贔屓って感じではなかったような?
まあミホヨの考えることは分からん
そこまでキリッキリにビルドや編成詰めなくてもライト勢的なノリで遊べばノープロブレムな範囲で調整されてるとは思うけどもね
ただトパーズの性能調整とかサポともアタッカーともつかない未来性能でわりとギリギリだったと思うけど…太ももほくろでなんとかごまかした感
というかトパーズ引いてた人はアベ確保がわりと急務なので尚更石の備蓄がキツいところ
滅多に使わん男勢はキメラで十分ではあるが
というか現状の厳選度ではキメラのほうが普通につよくね…?ってなる
まだまだですな
先が長いからこそ飽きずに遊べるわけですけれども
ちなみにギャラガーはオートヒールが必殺によるデバフトリガーという使いにくさもあって付与頻度がほしい
ということで回復量が撃破特効依存だから縄は撃破…ではなくEPで、撃破はサブで盛って回転重視した方がよさそう
計算したらEP110で必殺後即通常で20稼げるからここまでを0ターンとして
同じ気持ちs5つけてればEP縄だけでスキル連打で2ターン必殺回る
任意光円錐でEP縄とEP+5%セット効果ついてれば2ターンに1回被弾すればスキル連打で2ターン必殺回る
手術後s1つけてれば被弾なしで回り、手術後s5なら1被弾あればスキル通常でも回るんでSP収支+になる
3ゲージ削れる強化通常で怪盗の4セットの3EP獲得を確実に狙っていけるならEP+5%のオナメセット効果は不要だが…どっちかというと中々撃破できん対ボスでヒール切らしてほしくないから考慮には値しないか
光円錐は同じ気持ちか手術後で2ターン必殺狙うか、何が真かでヒール性能上げるかあたりか
ただ手術後の必殺時回復量効果は必殺がデバフ+攻撃なんで無意味になる予感
遺物は怪盗でよさそうだからビルドは楽そうだけども逆に攻撃や会心に欲を出したくなるキャラだな
まあ治癒/速度/HP/EPで安定だとは思うけども、会心/速度/攻撃/EPであわよくば微火力だしていくビルドもあるかも
星4キャラだけにあっちを立てればこっちが立たずの調整はされてる感
デバフトリガーは敵の入れ替わりに対応できないデメリットがデカいけど範囲攻撃キャラなら回復量が増えるメリットもあるんで編成次第ですわね
アベの回転は追加攻撃の頻度によりけりって感じでちょっと計算できない
まあ羅刹符玄フォフォ揃ってる人が育てるかと言うと必要はなさそうだけども
より火力に寄せていける耐久枠という意味では育て甲斐は一応あるかね
ルアン花火で使ってもさほどカウンター火力が伸びないなのかよりはね
ひとまずまだ買ってない2倍石はリセット前に回収しとくか
そういえば旅行好きにしばしばみられる行動として、訪問場所の事前チェックがある、とふと思った。
旅行に行く前の準備行為として、絶対に逃すべきではない場所や食べ物を入念にチェックする。
現地でセルフィを撮って、インスタなどSNSで送る、という行動がみられる。
最近では、インバウンドで来日する外国人にとてもよくみられる光景だ。
映え写真をとっては、憧れのいかにもNIPPON!な光景に興奮して即座にSNSで送る。
旅行好きの人たちにみられるこれらの行動は、スタンプラリーとほぼ同じ意味を持つ。
日常との差異の体験やよその世界とちょっとだけ繋がったりできたことの証明と自己顕示が欲しいのだ。
その意味で、他の人のインスタと同じ構図で撮影することが現地に到達したことを証明するうえでとても重要。
このような形で消費される、「日常では手に入らない新しい体験」は、要するに、「ごっこ」であり、エコツアーにしてもアグリツーリズムにしても何しても、
現地との関係性を一瞬だけ体感できる、という意味で、旅行者が憧れていた「日常との差異」や「関係性」を消費する行動なんだろうな。
さて、それが近年の傾向なのか?というと恐らくそうではなく、これは、かつての絵葉書を送るというスタイルから変化した形で、
東海道五十三次の時代からそうであっただろうし、男女にも差がなく、古今東西それほど大きな違いはなさそうだ。
日常との差異を消費し、疑似的な関係性に癒されるというのは、昔からあったのだろう。
ところで、僕は男性で、わりと旅行好きというか、仕事柄、年がら年中、スーツケースをころがしている。
そんな男性の立場からみて、女性のほうが傾向として強く、逆に男性に弱いことでひとつだけ思い当たることがある。
それは、旅先で一時的に体験する関係性を、その後も持続させようとする傾向だ。
旅先で知り合った人とその後も連絡を取り合ったりとする傾向は女性のほうが強い気がする。
「おもいでぽろぽろ」というジブリの高畑勲監督の映画(1991)がある。
都会育ちのOL女性が田舎暮らしに憧れる、というところからスタートするこの物語は、農家体験をしてゆくうちに気持ちが変化し、
この映画の場合、旅先の地に女性を迎え入れる男性やその家族という存在があるが、
いろいろふりかえってみると、必ずしも現地にそのような迎え入れるひとや団体がなくとも、旅先で憧れた現地に、そのまま飛び込んでいく女性というのをしばしばみてきた。
アジア、アフリカ、中南米で。かつて、「なんでこんなところに日本人」という世界の片隅で暮らす日本人を紹介するテレビ番組があったが、その番組で紹介しているのも、若い女性の活動が目立っていたように思う。
「男女差」という視点で、いろいろ参考情報をみていくと、例えば
海外留学の男女比も女性のほうが10ポイントくらい高いのだそうだ。
また、男女管理職別で見ると、男性は自社内のキャリアアップの意向が高いのに対し、女性は男性よりも転職でのキャリアアップ意向が高いのだという。
男性は女性よりも保守的で、外に関心がない、という傾向はそこから見て取れるのだが、
だが!しかし、、、、
果たして、そんなふうに男女差を単純に断じていいのか?とも思う。
それでも確証はないけれども、これらの数字が出ている以上は、それにむすびつく何かしら男女差のような背景はありそうだ。
まずは、男女共同が叫ばれつつも今をもって日本は男性社会であるという事実から出発してちょっと考えてみる。
突飛な発想かもしれないけど、1970年代初めごろの歌謡曲で「瀬戸の花嫁」という歌を思い出した。
瀬戸内海の小島へ嫁が嫁ぐ様・心情と、新生活への決意が歌われている。
「あなたの島へ お嫁にゆくの 若いと誰もが 心配するけれど 愛があるから 大丈夫なの」
当時、女性が他の家に嫁ぐということは、程度の差こそあれ、この歌が表現しているように、
ホームからアウェイに飛び出してゆくことであり、その後一生アウェイで暮らす覚悟が必要だった。
ドラマ「おしん」(1983年)も思い出す。朝の連ドラとしては異例の一年間の長編ドラマとなった「おしん」。
そこでは、さらにもっと幼少のころから嫁ぎ先へとひたすらアウェイで過酷な人生が描かれ、しまいには終戦時に夫が自殺し、どん底な半生が半年くらい描かれている。物語の後半では、敗戦後、残された子供を抱えて女手ひとつで小売店を立ちあげ、自立してゆき、やがて息子へ引き継いでゆく姿が描かれ、多くの女性の共感を呼んだ作品だった。
孫までいるおばあちゃんとなったおしんだったが、このドラマは、事業を引き継いだ息子が無謀な事業拡大を始めたことで経営リスクに直面し、育て方を間違えたと自信を喪失したおしんが、過去を振り返るために原点である山形への旅に出るというシーンから始まっている。一年近いドラマの終盤300話くらいから、その伏線を回収し始めるという、息の長いドラマで、橋田壽賀子、すげえという感じしかない。
アウェイな世界でたくましく生き抜くおしんとは対照的に、登場する男性はどいつもこいつもダメな男ばかり、というのも印象に残った。(補記:特におしんの夫は軍組織に尽くし、結果として多くの命を亡くした責任を感じて自殺したという筋書きだが、拠り所となる国家、軍などのホームベースが敗戦により瓦解したことのショックが実際のところの引き金だろう。)
「嫁ぎ」に象徴されるように、簡単に引き返せないような事柄に身を投じるエネルギー、勇敢さ、芯の強さは、男性社会のなかで女性に文化的に育まれたものなのかもしれない。
昨今では、結婚を就職になぞらえる向きもあるけれど、かつての日本社会はいったん他の家、姑の支配下に入ったら最後、そんなに生易しい現実ではなかったはずだ。
男性は芯がないくせに保守的で臆病だ。外の世界を渡り歩いていて、仮に失敗してもギリギリ、ホームグラウンドにもどってこれる、みたいに何か安全弁のようなものを男性社会そのものが仕組みとしてもっていた。だからその範囲でしか外に出歩かないのだ。ふるさとの家業を継ぐなんて選択肢が30代くらいの人生の岐路に用意されているとかね。
一方、女性は嫁ぐにしても出戻るにしても自分の居場所を確保するには厳しい世界。
「嫁ぐ」という習慣、因習、宿命から生まれた、抑圧されてきた女性の生きるエネルギーが、むしろ社会を変える力になってゆく。
これはなかなかパラドックスだと思った。
翻って、旅行好きの女性について思うことは、ホームグラウンドからアウェイな世界に飛び込むという意味で
かつての日本によくみられた嫁ぐという宿命と旅は似たところがある。嫁ぐ行為が違うのは、それが片道切符であり、二度と戻れない覚悟が必要だということだ。
若い女性にとって、日常空間から飛び出す、という旅行体験は、やがては「嫁ぐ」という運命が現実世界で待ち構えていた時代には、疑似的に自分の覚悟や能力を試す場としてより大きな意味があったかもしれない。
嫁ぎ先である日本社会、日本人男性に漠然と失望している場合、希望がもてなければ、いずれにしてもアウェイな世界で生きる宿命ならば、
いっそのこと、旅先の現地でとどまって残りの人生を過ごすことも選択肢としてはあり、くらいの感覚が深層心理にあるのではないかと妄想する。
一方で、男性のほうは、ホームグラウンドである故郷というものが概念として存在していた時代は、旅というのは、違った意味を持っていたと思う。都市に何世代も定着した人口が急増したここ四半世紀より前の20世紀の話だ。
かまやつひろしの歌で「どうにかなるさ」というフォークソングがある。
「見慣れた街の明り 行くなと呼ぶ」
この世界観は、瀬戸の花嫁のようなアウェイな世界で生きる覚悟は感じられない。アウェイでもどうにかなると思っているのだ。
なおかつ、ホームグラウンドを出て行ってもなお、ホームから温かい視線を旅人である自分に向け続けてくれていると信じているのであり、「男はつらいよ」のフーテンの寅さんとほぼ同じ世界観だ。ボヘミアンを気取って出て行っても、いざとなったらただいまといって帰れる場所がある。
そういえば、寅さん映画も、旅先での関係性を持続できないということがひとつの大きなテーマになっていることに気がついた。
民俗学者の宮本常一は、故郷を捨てて放浪する旅人を考察した文章のなかで、そうした旅人が
地元を去って放浪した末に、やがてひょっこりと故郷に戻ってきて、旅先で得た経験や新しい知識を広め、地域の活性化に寄与する機能を果たしていたことを、
世間師という言葉で表現した。フーテンの寅さんのことを考えていたら、そんなことも思い出した。
世間師というのは、故郷側の人間が出戻りの人間に対して名付けた呼び名で、一種の敬意が込められている。
嫁ぐということが待ち構えておらず、ゆくゆくは地域社会でリーダーシップをとっていかなければならない男性の潜在的な意識として、旅は武者修行であったり、広く見聞を広め、世の中の解像度を上げるための行為だったのかもしれない。会社組織が全国各地の赴任経験を重視しているのも同じ価値観といえる。
かつて東南アジアへのセックスツアーなどがあったように、赴任先、旅先で恥をかき捨てるのも主に男性だ。
男の旅というのは、ちまちましたもので火遊びのようなもの。家から離れて外の空気を吸いたいというものだ。近所のスナックだったり、家庭が壊れないようにという不安があるからあまり大きなことはできないが、脇が甘いから夫が捨てたラブホテルのマッチを妻がゴミ箱から発見してしまう。やまだ紫の「しんきらり」という漫画では、そんな情景が描かれていたのを思い出した。
しかし、この四半世紀、女性の社会進出や、結婚観は大きく様変わりし、嫁ぐということを前提としない将来像を女性が模索する時代になった。
テレビドラマも、90年代以降、女性の社会進出を反映して、トレンディドラマに代表されるように、キャリアウーマンがオシャレなレストランで食事する、みたいなシーンが増えた。
東京ラブストリーとか。憧れのロールモデルが描かれるようになったということだ。ドラマの世界にあこがれる、ということが90年代まではあり得た。
しかし、現実の女性の社会的地位はどうだったかというと、総合職課長以上に登れるのは一握りで、相変わらず賃金格差があり、お茶くみやらと男性社会における旧態依然とした女性の役割が押し付けられていたのが現実だ。その現実を90年代のドラマ「ショムニ」でよく表現されていたように思う。
しかし、さらに時代は変わって、憧れの東京に向かって、急速に人が流入しつづける時代は終わりつつあり、受け入れるキャパもなくなってきた。「おもいでぽろぽろ」の主人公の少女時代(1970年代)は、都会の夏休みのラジオ体操に二人しか参加していないほど、ふるさと=田舎をそもそも持たない世帯が少なかった。今では想像もできない光景だ。
中長期的には東京一極集中のトレンドは変わらないものの、それは不動産価格のトレンドに連動したもので近隣県から流入が中心。一方で、田舎というベースをもち帰省が必要な人というのは減っているのではないか。首都圏の人は首都圏で世代を重ねるし、地方の人は地方で価値を見出し、仕事をみつけ、結婚し、次世代を育てる、という人口流動の安定期になってきたようにも思う。帰省という形でつながっていた地方(ふるさと、ホーム)との関係が途切れてきているといってもいい。
そうなると、都会の人間が地方に見出す価値というのものというのは、失われた関係性そのものに重きがおかれるようになるのは自然なことだ。
その結果、その後に続くドラマの傾向としてみても、(都会で活躍するキャリア)女性の理想像ではなく、もっと実態に即した現実を映し出す、自分探しのようなドラマが増えていったように思う。
一昨年のドラマ「ファーストペンギン」とか「ユニコーンに乗って」なども、スタートアップ企業をテーマに女性の自画像を模索した作品で、近年の傾向を象徴しているように思えた。
「ファーストペンギン」のように地方移住をテーマにした作品は、アウェイな環境で女性のポテンシャルを試そうとするという意味では、「嫁ぎモデル」の延長線上にあるような気もするが、都会との関係性が交錯しながら物語が進むところに、考えるヒントを与えてくれるドラマではあった。
そんなことをおもった。そもそもの旅行の話からはかなりズレてしまったけれど、女性が旅に何を見出しているのか、というのは女性の人生観ということと絡めて考えてみると、興味深いテーマだとは思う。
とりとめもないメモです。
上記の書きなぐりをAIが次のように要約したので感心した。ここまで断言できないからゴチャゴチャ書いてたのに。
旅行好きの女性の特徴と男女差
旅行好きの人々は、事前に訪問地の情報をチェックし、SNSでの共有を楽しむ傾向がある。これは、日常からの脱却と、新しい体験への憧れを表している。特に女性は、旅先での関係性を持続させることに価値を見出すことが多いようだ。
歴史的に見ても、男女間で旅行に対するアプローチに大きな違いはないものの、女性はより積極的に新しい環境や文化に飛び込む傾向があると言える。これは、社会的な役割や期待に対する反応として、女性が自己実現のために旅行を利用していることを示唆している。
一方で、男性はより保守的で、旅行を通じて得た経験を故郷に持ち帰り、地域社会に貢献する傾向がある。これは、男性が社会的なリーダーシップを担う役割を果たすことが期待されているためかもしれない。
故郷と都会の関係性の変化
現代の日本では、故郷と都会の間の伝統的な絆が薄れつつある。かつては、人々は故郷を離れて都会で働き、定期的に帰省することで地方とのつながりを保っていた。しかし、今では都会で生まれ育った世代が増え、地方への帰属意識が低下している。これにより、都会の人々が地方に求める価値は、失われつつある関係性そのものになっている。
この変化は、地方と都会の間の人口流動の安定化を示しており、それぞれの地域で価値を見出し、生活を築く傾向が強まっている。結果として、地方への憧れや関係性の再構築は、新たな形での自己探求や社会的な動きに影響を与えている。これは、女性が旅行を通じて自己実現や自己探求を行う動機に影響を与えていると考えられる。
旅行は、日常からの一時的な脱却を提供し、新しい環境や文化に触れる機会を与える。特に女性にとっては、旅行が自分の居場所を見つける手段となり、故郷とは異なるアイデンティティを探求するプラットフォームになることがある。
https://twitter.com/ai_syacho/status/1769150640792707124/photo/1
AIを使って生産性を高めようなんて言うのがいっぱいあるけど、彼らは生産量の単位を一向に語らない。
生産性で定義があるとすれば「労働生産性」。AIを使って生産性を高めましょうというのなら、一人当たり付加価値の向上が目指せますということ。付加価値はほぼ粗利。AIが寄与でいるのは原価がかからないホワイトカラー領域なので、「AIを使えば売上が上がります」と言うこと。売上は「顧客単価x顧客数」に分解できるから、「AIを使えば生産性が高まります」ということは、「顧客数が増えます」か「顧客単価が増えます」ということ。たぶん「AI使って生産性が高まります」と言ってる人たちは、そんなこと考えてない。
https://twitter.com/ai_syacho/status/1769150640792707124/photo/1
AIを使って生産性を高めようなんて言うのがいっぱいあるけど、彼らは生産量の単位を一向に語らない。
生産性で定義があるとすれば「労働生産性」。AIを使って生産性を高めましょうというのなら、一人当たり付加価値の向上が目指せますということ。付加価値はほぼ粗利。AIが寄与でいるのは原価がかからないホワイトカラー領域なので、「AIを使えば売上が上がります」と言うこと。売上は「顧客単価x顧客数」に分解できるから、「AIを使えば生産性が高まります」ということは、「顧客数が増えます」か「顧客単価が増えます」ということ。たぶん「AI使って生産性が高まります」と言ってる人たちは、そんなこと考えてない。
なぜロシアに経済制裁が効きにくいかというと、地面掘れば資源が湧いてくるので、それを売りまくれば外貨がどうにかなるから、というのがデカい。
なぜアメリカや中国があれほど強大かと言えば、もちろん産業もあるけど、やはりレアメタルやシェールや油が国土から出るからと言うのもかなりの割合を占めるはずや。
したら日本に対して俺は何が出来るのか、と考えた時に、①ソーラーで電気を作りまくる②外国株で外貨を稼ぎまくる、で微力ながら油田の代わりにならないかと思ったんだよ。これらの資産を数100年保有して成長させることで、日本も疑似的な資源国としてやっていくことができないか。
しかし脳内でシミュレーションしてみるとこれは俺が金持ちになるだけであまり日本の国益に寄与しなかった。油田や鉱山はそこで働くたくさんの人の職を生み出して、生活の安定に寄与するから凄いのであって、ソーラーと株にはそういう世の中への寄与がなかった。
私の故郷は、海抜六〇〇メートルの丘陵地に佇む半農半漁の村で、後方は形のよい峯が三つ並び、前方には大きな入江があって多島海に伸び、子供の頃は、その入江で魚つりに興じました。
竹の棒に糸を張った粗末な釣具で、餌もミミズでしたが、満潮の時などは入れたら釣れ、入れたら釣れで、一時間もすれば小鯛などバケツいっぱいになりました。
腹が立つのはフグで、五回に一度はかかり、フグに毒があることは子供にも分かることでしたから、腹立ちまぎれにフグの白い腹を石にこすりつけるとみるみる大きくなり、このガキッとばかりに思い切り石に叩きつけと、パーンという音がして腹が裂け、溜飲を下げました。
私は五人兄弟の次男として畑仕事や魚釣りに勤しんでいましたが、田舎の貧しい暮らしから豊かな生活を夢見て、一足先に日本へ行った八歳年上の兄祥雨を追いかけて◇◇へ来ました。
その時十七歳で、一九三九年でした。兄は布施(東◇◇市)でセルロイド工場を経営し、腕輪やクシを作っていました。
その兄の元へ身を寄せ、普通学校四年を卒業したものの、価値ある社会活動をしていくためにはさらに学が必要だと感じ、向学心に燃えて◇◇・東成区の夜間学校(◇◇商工実務学校)へ通うことにしました。
工場住込の私の仕事はまず、朝五時に起きて無煙炭をおこし、六時半に出勤する職人さんの仕事に間に合うように湯を湧かしておくことでした。
そして、仕事が終わるのは夕方の六時。急いで自転車を走らせ学校へ行き、帰りは一〇時で、それから夕食をとり、深夜の一時過ぎ、二時過ぎまで勉強して、寝るのが連日三、四時間でした。
その死にものぐるいの努力が効を奏して、成績はトップとなり、幸か不幸か、級長をやらされました。
戦時中でしたから、訓練ばかりで、「前へ進め」「全体とまれ」と号令をかけるのが級長の役目でした。
ところが、私は強度の「どもり」でしたから、その号令の文句がなかなか言えず、落ち込んでしまって、《死んでしまおう》と何度線路に寝込んだかわかりません。
星の光が目に入るたびに、《ちょっと待て、死ぬんだったら、もういっぺん努力してみよう》という気持になり、「どもり」の矯正学校を五つも修了して、死ぬほどの努力を重ね、矯正しました。
こうして、《ヤレバデキル、ダメナコトハナイ・・・》の信念を貫いて苦節の日々を克服したことが、大きな自信となりました。
終戦後の一九四八年のことですが、体を悪くして、マイシンの注射を打ったところ、耳に障害が発生し、聞こえなくなってしまいました。
これまた、苦節の日々で、断食をしたり、いろんなことをやってみましたが、完治するまでには至らず、補聴器の世話になる毎日となりました。
ところで、戦争は激しくなり、私も協和会の勤労報国隊に徴用されて、九州の炭坑で二ヶ月ほど働かされました。
石炭を掘って出てきたら顔は真っ黒で、目が辛うじて見え、つらい日々でした。
そうこうするうちに戦争が終わり、兄はそのまま日本に残りましたが、私は里心がついて故郷へ帰りました。
日本兵が釜山の港からどんどん引き揚げて行くさなか、私も小さな船で玄界灘の荒波を掻き分け、決死の覚悟で日本へ戻ってきました。
一九四八年に兄と、資本金二〇万円の◇◇グリップ化工株式会社を設立し、自転車のハンドルグリップをセルロイドで製造し、販売しました。
以来、資材をセルロイドからプラスチックに変え、◆◆◆グリップの普及に努力しました。
その途上、兄を交通事故で失い、私が会社を引き継ぐことになりましたが、中小企業信用保証協会や育成協会からの資金融資は韓国人業者としては第一号だと思います。
一九九〇年に◇◇グリップ化工から◆◆◆技研に社名を変え、現在では日本全国の占有率九〇パーセントを獲得し、一億人以上の人に◆◆◆グリップを握ってもらっています。
私は、金属、木材等で作られている従来の物をプラスチックに代えて作るという物づくりを企業の基本理念の一つにしてきましたから、事業の発展に伴い、グリップの他にも車輪、カゴ、チェインケース、泥除け等、タイヤ以外のものは全てプラスチック化し、その間の特許も数百にのぼって、◆◆◆製品は世界のブランドとなりました。《継続は力なり》の精神で、より精度の高い関連商品の開発に努めています。
一九六〇年頃、日本と韓国との間にはまだ国交はなく公式には往来できない時で、金融機関の祖国産業視察団の一員として、初めて祖国を訪問しました。
懐かしい山河の景色、幼なじみの顔、感激の涙に浸るばかりでした。
その感激もさめやらぬ時、町から一キロも離れていず、一六〇戸もあるわが懐かしい村には電気も水道設備もないことに気づき、昔と変わらぬ貧しい古い部落がそこにありました。
《故郷のために何かしてやりたい》という衝動にかられ、その後、回を重ねて訪問する毎に藁葺きの集会所を二階建の近代的な建物にして
事務所や老人らの憩いの場に使用できるようにし、また、電気架設の資金協力や子供たちの遊び場等も寄贈し、植木やスピーカー等も添えて故郷の人の心を癒やすことに努めました。
人間は誰しも食うがため、生活するがために働き、事業するものだと思いますが、私もご多分に漏れず世間並みの生活を夢見て渡日し、口では言えない苦労と努力を重ね、一応の目的は達したと、自分を顧みています。
これまで、通産大臣や府知事、税務署長などの表彰を受け、韓国政府からも国民勲章冬柏章を受章しましたが、私の企業活動に対� =キる評価だと喜んでいます。
現在、◆◆◆ー技研のグループ企業として◆◆◆販売と韓国◆◆◆があり、◆◆◆技研は私の長男に任せています。
◆◆◆販売は兄の息子が取りしきり、ヘルメットを中心としたオートバイ・スポーツ用品を製造販売し、韓国◆◆◆は弟の息子が社長を務め、スキー・水泳用品を主力としたスポーツ製品を製造・販売し、輸出による外貨を稼いで祖国の経済発展に寄与しています。最近は中国青島にも進出し、六〇〇人ほど雇用しています。
兄の処世訓は《まず、自分自身が立派になり、次に家族の支えなり、その次に身近な社会に貢献する》ということでした。
私は、兄の遺志も引き継いで、家族会を設け、年一回会合を開いて、十親等以内の全学徒に、成績に応じて奨学金を支給しています。
その家族会の会長は私ですが、弟の息子がすべて代行してやってくれています。
いわば、祖国故郷で私の夢を実現してくれる代理人のような存在です。後は、全家門の子孫たちが末永く仲良くしてくれればいいと願うばかりです。
振りかえってみれば、私の人生は苦しいことのみの連続で、喜びや楽しみというものがあっただろうかと思う時がありますが、◆◆◆販売の新社屋落成式(一九八四年)に、私が挨拶をし、息子夫婦、兄の子供夫婦、韓国の甥夫婦を紹介し、その三人を後継者として披露しました。
三人はそれぞれに立派に成長してくれ、私の夢を実現してくれる後継者になってくれたことが人生最大の喜びです。それに子孫たちが、私の喜寿(七十七歳)をニューオオタニホテルで祝ってくれたことも忘れられない喜びです。
外孫まで入れると四十五、六人になりますが、アメリカに行っている七、八人の子孫たちもその日(一九九八年九月一八日)にはみな帰っ� =トきて祝ってくれました。
私たち韓国人は、税金も人一倍納め、社会に貢献しているにもかかわらず、後ろ指をさされる傾向が強いのですが、人間というものは生存競争のなかにあってライバル意識を持ち、自分より事業を大きくやっていたり変わったことを大きくやっていたりすると、ねたみの心が出てきて、あらぬ中傷に走るのではないでしょうか。
私たち韓国人の側にも虐げられたひがみ根性というものが抜けきれないのではないかと思いますが、真面目に生き、社会に貢献していくことが肝心で、価値ある社会人になるためには自分自身が努力し、そのためには人の話を聞くことです。
何か疑問を感じたら、聞くのが一番の近道で、その疑問を解いてくれる人が見つかるまで聞きつづけたらいいのではないでしょうか。聞くことにお金はかかりませんし、それが私の処世訓の一つです。
画像生成AIの著作権問題、文化庁議論で争点はっきり(https://ascii.jp/elem/000/004/188/4188529/)
興味深かったのが、東京大学の田村善之教授は、生成AIの登場で、著作権の保護範囲を拡大するべきではないと述べられた点です。「高品質の創作物の出現を、プロのクリエイターなどの少数の卓越した者に大きく依存した創作の文化から、アマのクリエイターなどの多数の者が高品質の創作物を作出しうる以上、従来以上に保護範囲を拡げて、創作者にインセンティブを付与する必要はないのではないか」と話しました。「少なくとも保護範囲は従前のままとしておいたほうが、AIを活用した新たな創作が促され、著作権法の究極の目的であるはずの文化の発展に資するのではないか」としました。現在は過渡期でもあり、将来的にはほとんどの創作者がAIを活用する時代の到来が見込まれるため、それを見越した法制度の設計の必要性も述べられていました。
パブコメに対する文化庁の返答で、非常に重要に感じた文言があります。「本考え方では、新たな著作物などのコンテンツを創作する活動を行うものとして、クリエイターの用語を用いています」という表現です。生成AIを利用していようがいまいが、著作権上はクリエイターとして区別をしていないという姿勢が感じ取れるところがあります。
テレビ番組でエクセル関数を使って業務効率化している女が紹介されたところ
勘違いイキリITオタク君どもがワラワラと群がってきて、エクセル関数如きで業務効率化(笑)と散々バカにし始めた
しかし日本のIT化を妨げているのはこういう中途半端な技術進歩史観に洗脳されたバカどもなのである
はっきり言って連中が平伏して崇め奉っている先端IT技術はほとんど役に立たない
適用できる場面は少なく、導入コストは半端なく高い、その割にエクセル関数に比べて世の中の生産性向上にどの程度寄与するかと考えたらその差は微々たるものだ
連中はエクセル関数をアホでも使える技術だからという理由でバカにするが、
IT世界の最先端技術を苦労して導入するより、世の中の手計算をサクッとエクセルに置き換える方が世の中全体の生産性向上に影響がでかい
頭が未熟な技術屋は技術的難易度が高ければ高いほどその技術を盲信してありがたがる傾向にあるが、それは単なる専門バカのオナニーである
今回のエクセル関数騒動で日本のIT屋は俺って頭良いぜアピールをしたいだけの、木を見て森を見れないタイプのバカが死ぬほど大勢いることが明らかになった
当面ない。おそらく、これからもないだろう。2022年に発表された論文で、フレーク博士と同僚はそのようなシナリオを「技術面でも発育面でも甘い考えであり、しかもセンセーショナルな推測上の夢物語」と呼んだ。問題は2つある。第一に、胎児の発育は注意深く仕組まれたプロセスであり、妊娠中の親の身体と胎児との間の化学的なコミュニケーションに依存している。研究者は胎児の発育に寄与するすべての要因を理解できておらず、仮に理解したとしても、そのような環境を再現できる保証はない。
第二の問題は大きさだ。現在開発されている人工子宮システムは、医師が乳児の臍帯に小さなチューブを挿入し、酸素を含んだ血液を送り込む必要がある。臍帯が小さければ小さいほど、この手技は難しくなる。
https://www.technologyreview.jp/s/318421/everything-you-need-to-know-about-artificial-wombs/
著作権とは何か。
著作権の本質は情報の独占である。著作権者に著作物を独占する権利を与えるものである。一方、この独占は、表現の自由に反する。すべての人は著作物を使って表現を行う権利がある。
文化の発展に寄与することを目的として、著作権法では、表現の自由と著作権保護のバランスをとっている。
ここで、創作活動について考えたとき、先発の著作権者が強く著作物を独占することは、当然に、後発の表現の幅を狭め、文化の発展を妨げるものであると考えられる。
また、既に著作権者である先発側は、後発側の著作物利用に対し、一方的かつを優位な立場である。
よって、現在活動している創作者(先発の著作者)は、文化の発展に寄与することを目的とする著作権法の理念に則るならば、著作権者として他者に、著作物に対する権利を主張し、著作物の利用を制限するとき、それが行きすぎた権利行使でないか慎重になることが望ましい。
ここで、現代の著作権法やその解釈(昨年から更新を続ける文化庁のAIと著作権に関する考え方について(素案)などの資料から)から、「生成AI開発企業や個人による同意の無い著作物の利用」を著作権者として禁ずる行為は、著作権法の理念から利用による利益のほうが大きいと判断されている。
経営者としてお答えしよう
ファック死ね
業務時間を割いてなにかやってるのは知っていが注意すると拗ねてモチベ下げるので黙っているが、管理職には絶対に上げないフラグを立ててるからな
持続可能性
頼むよ、これを意識してよ
仮に5秒短縮が当該業務担当5人、10回/日だとして年間16時間。。。
ん?わりとデカいな。
頑張れ
違う違うちがう
どうせ空いた時間は給湯室でくっちゃべってるだけだ
知るかボケ
あのな、頑張って勉強して業務効率化に寄与してくれるのはありがたいが、
オマエ死んだらどーすんの、連想配列が保守メンテできるスタッフ他にいる?
ワークシート上のセル式ならなんとか追いかけられますが、VBAでややこしいことやれたらわかりませーん、だよね?
VBAでゴチャゴチャやられるといざ業務拡大近代化の時に余計な工数もかかるの。
ワークシート上で処理完結してて適度にコメントも書いてくれてたらそれがそのまま要求仕様、ドキュメントになるの。
プログラム化されちゃうと要求仕様はそこから紐解かなきゃならない、そんだけ余分な工数がかかる。
残業して連想配列してるのは分かってるが、さっさと帰って婚活でもして、ブサイクな嫁とアホの子供でも作って、あぁもう迂闊に会社辞められねぇ、ってなってくれたほうが会社はありがたいの。
美しくない?
知るかボケ
どこにどれほどリソース割くべきか
こっちもアホでは無い、経営多変数パラメーターを加味して妥協し方向性と優先順位決めてるんだ
頼むから言う事聞いてよ
世間でも婚姻数が戦後最小だと発表されたとか、今なかなか盛り上がっている話題なんだろう。
そんな中ニュースを見ていてなかなか衝撃的なサービスが紹介されていた。
それが Aill goen
大手企業の福利厚生として提供されているマッチングアプリらしいが、アツいと思ったのは企業の福利厚生専門でやっている所。
つまり、ここで探せば絶対身元保証されているし、ある程度収入がある事が保証される事になる。
ANA!
JAL!
NTT!
JR各社!
三菱電機!
TOPPAN!
DNP!
えぇーめっちゃアツくない?
おっちゃんな、35年パソコン弄ってて、30年パソコンで飯食ってんだが
定期的に「世界が変わる画期的IT新製品」って奴が陳列されるのを見てきたの
インターネットもそう
iPhoneもそうだね
なにが変わった?なんも変わってねぇよ
人の営みの基本は変わらんの、メシ食って射精して寝る
「アレクサ、照明を明るくして」。。。
紐垂らして引っ張ったほうが早いっちゅうねん
ChatGPTやらも技術キャッチアップで使いましたよ、てか使ってるが
これで何が変わるのか?
多少効率化するかもしれんが業務全体の効率化への寄与は誤差程度でしかない。
もちろんこの誤差程度が積み重なって社会は少しずつ変わっていく、便利にはなっているが。
例えば、ちょっとした経費伝票の処理、昔は完全アナログだったが
事務職の女の子に、「あんじょうよろしく」と領収書を渡しておけば秒で終わった
怪しげな領収書も優秀な事務職さんが華麗な魔法で処理してくれていた
ところが電子化された今はゴチャゴチャゴチャゴチャと自力で入力して電子承認手続きして、
不正防止とやらで新幹線は乗車号数まで書かなきゃならない、時間的に矛盾する報告書出したらチェックされて返ってくるの、暇だねぇ
んでいずれAIで経費の不正検出できます、みたいなソリューションが出てくるのだろう、無駄の上乗せ屋上屋
利益だしとんねんからごちゃごちゃうっせぇわと言いたいが言うても無駄なので時代に迎合
さっき冷え性の事務職さんに「こんなの通りません」って伝票突っ返されたので愚痴でこれを書いてる
わいインターネットはまだ国内プロバイダーが個人商用サービスを始める前、WindowsがTCPソケットを実装する前、Asahi-NETがパソコン通信からテキストベースでインターネットゲートウェイしてた時代から使ってるからね
がっつりネットつかって、きっちりITで飯食ってる、一応プロのプログラマーっすよ
大友克洋のAKIRAは金字塔として評価されているが、その直後に作られたほぼ無評価の「老人Z」って作品がある。思い出しちゃった、わいこっちのほうが好きなんよね
随分と便利になった、そりゃ否定せんよ、でも変わってないよ
メシ食って射精して寝る、なにが変わったよ
今はみんなAIに熱狂してる、世界が変わると、なーんも変わらんよ
でも思ってるほど世界は変わらんと警告してやってんの、よろぴく
大学の友人が某コンサルで働いているので、職場も近いしと霞ダイニングで久々にお昼の約束をした。
上司の顔色を窺いつつ昼に抜け出して、合流できたのは12:15前後。どこも混雑でごった返している。
久しぶりだねなんて挨拶もそこそこに、何にしようかと物色を始めた。ここなら混んでないし安いからいいんじゃない?と上等カレーを提案する友人。
ちょっと悩んだけど、気を遣わせるのも悪いと思って列に並んだ。
いつも通り回転の良い店で、ちょっとした近況報告をしているうちに、すぐ二人かけの狭いテーブルに通された。
久々に会う彼は、相変わらず皮肉めいた、少し世の中を斜に構えて見ている口ぶりだったが、以前よりアグレッシブな雰囲気を纏うようになっていた。
まぁコンサルとか商社とかはそんな感じだよね、と思っていると、こちらが呼ぶ前にオーダー取りが来た。
「とんかつチーズで」とノータイムで答える友人と、一瞬止まってから「とんかつお願いします」と伝える私。
正直ちょっとうらやましい。
「どうして丸亀製麺にあんなに並んでるんだろう。みんなそんなに丸亀のうどんすきなのかな」
と彼がぼやいたとき、まぁそう思うよねぇ、、、と思ったし、そう返した。
実際うどんは好きだし、ここの丸亀のスタッフさんはみんな手際も(愛想も)いいから見た目ほど並ばない。
でも一番の理由は、価格だ。釜揚げ380円は非常に魅力的で、てんぷら2つつけても700円しない。たまに釜玉にするけど、それでも800円。
思えば反対側のミスターハングリーもよく並んでる。並盛(にしては多いが)で500円からだった。
こちらは回転もよくないし、なぜか電波が通らないのであんまりいかないが、それでもコスパは非常にいいし、何より醤油バジリコが好きだ。
上等カレーは、チェーンの和カレーでは結構おいしいし、店の雰囲気も好きだが、行くのには若干ためらう。
プレーンのカレーでも680円、とんかつカレーでも950円。チーズをonしたら1100円だ。
私だってできれば、とんかつほうれん草にしたいが、昼食に1000円オーバーは勇気がいる。かといってプレーンも味気ないし、見栄も張った。
でも彼からすれば、こんな感覚はもう学生時代で抜け切ったし、それだけの(物質的な)余裕が生まれているのだろう。
その証拠にほら、君のスーツはそんなに光を反射して輝いているじゃないか。
彼は今でも大切な友人の一人だ。思慮深く、洞察力がある。皮肉屋だが人当たりもいいし、会話していて楽しいし刺激になる。
一方で想像力が若干足りないのは(私も少なからずそのきらいはあるが)、高等教育を受けた人々に対してよく言われている通りだ。
彼には幸せになってほしい。別に彼に限らず、この国に生きる人全てが自らの幸福を追い求められる、その下支えがしたいと思っていた。
そのためになら、(実際今よりよい環境を得られたかはともかく、)自分の待遇や労働環境が悪くなろうと、満足感をもって日々を生きられると信じていた。
ただ、現実には人間はやりがいや誇りのみで生きることはできず、むしろその誇りを守るためにいらぬ見栄を張り、より自らの惨めさを嚙み締める。
そもそも私の仕事は人々の幸福追求の素地を形作れているんだろうか。
これはこういう職業を選択した(してしまった)私の責任だ。あるいは5秒前に設計された世界がそのようにできていただけの話だ。
どんな職業・生き方であっても、良い面と悪い面があるし、辛い思いをすることだってみんな普通にあるはずだ。何も私だけが胸の奥底で叫んでいるわけではない。
それでも、(少なくとも私の記憶の中では)学生時代には毎日コンタクトをしていたのが、眼鏡を普段使いするようになったことを、彼は気づいてくれただろうか。
彼は近々結婚を予定していて、交際相手と同棲を始めたらしい。二人での生活を立ち上げ、いずれは子供も欲しいね、なんて相談していると言っていた。
少なくとも彼は、自らの幸福に向かって進もうとしているようだ。未来に希望を持ってくれている。
このことは素直にとても嬉しいし、非常に喜んだが、しかし私自身の幸福には、もうならない。私は何を幸せと思い、何に向かえばいいのか。
少なくとも私は、子供を持つことがよいことなのか、今はわからない。
この国で、この世界で、生を受けることは、その生における幸福に対して正の寄与をもたらすのだろうか。
灯りもなく暗い海を漂うようになってしまった私は、新たな命に責任を持てるのだろうか。
お昼を食べた店の、チャップリンとゴダードが写るモダン・タイムスのポスターが脳裏に焼き付いている。
公共心をくべて煌めいていた炎は、現状への不満と苦しみのうちに早くも私の魂を費消し、最後には愛を求める灰だけがむなしく残っているのかもしれない。