「客観的」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 客観的とは

2024-05-15

良くない体制はずっと治らない

組織体制を変えるのは難しいことなんだなと思った。

IT業界で、昔はSESで働いていて、大手によく客先常駐していた。どこも大手ばかりでノウハウはしっかり蓄積され、設計書なども充実していた。

SESを脱退し、そこそこ大手IT企業正社員になれた。しかし、そこはこれまでのSES客先常駐していたような企業とは違い、あまり体制的には良くはなかった。

工数管理

工数管理は基本中の基本であり、やらないIT企業はなかなかないだろう。しかし、当社は違った。

工数管理をしなかったのである

1日に何をしたのか、報告の義務はなく、ただ作業していればよかった。

工数管理とは、案件ごとに工数管理のための番号(工数番号)を振り、さらにその工数番号ごとに要件定義、基本設計、詳細設計実装/単体テスト結合テスト総合テスト、などのサブ番号に分割して、工数登録することである

さらセキュリティ教育などは個々の案件無関係なことが多いので、維持管理用の工数番号が振られていることもある。

リリース後のトラブル対応なども工数を消費するので、それ専用の工数番号などもあったりする。

さらに、日々の工数を詳細に記載する日報のようなものも導入しているところが多く、どの作業に何時間作業たかを15分単位などで記載する。

工数管理のいいところは、作業サボりにくくなることだ。作業効率客観的に見えてしまうため、現実を突きつけられ、もっと頑張らなきゃ、と思う。

工数管理のだめなところは、とにかく面倒くさいことだ。当然だが、工数管理を行うための工数、は工数管理には入力できる枠はない。が、確実に無視できないレベル工数を消費する。あとトイレなどにつける工数などもない。

当社の工数管理

工数管理はないと言ったが、実はある。

しかし、活用されておらず、形式上だけ数字さえ入っていればそれでいい、というものだ。

その形式上すら煩わしいらしく、若手の意見バリバリ言う人から

工数管理は全く意味がない。適当工数入力していても誰もチェックしていないのか、何も言ってこない。

工数管理をしっかりすれば、1日に働いた時間がわかるのだから、勤怠システム不要である工数管理システムと勤怠システムを一本化すべきだ。

などの意見が出ていた。

月末にテキトー工数入力することすら煩わしいらしい。

そりゃあ工数管理根付いてない企業工数管理を行えばそうなるでしょう。

工数管理業務に結びつくものではなく導入メリットは明確には測れない。しかし、めんどくささは圧倒的だ。

結果、工数管理システムは完全に廃れ、入力すらしなくても誰も何も言わなくなった。

まり、当社はよく言えば従業員意見が通りやすい、悪く言えば従業員わがままが通ってしま企業なのだ

従業員意見尊重し、押し付けをせず、それぞれのルールを重んじる。良いことであるが、それでは業務改善できない。

これまでもそこそこやれてるのだから、それを無視して新ルールを導入しても、組織が壊滅する可能性が出てくるだけだ。

工数管理は基本中の基本だ。どこもやっている。それすらも当社は従業員わがままが通ってしまうのだ。

(まあ当社の工数管理はテキトーからダメだったのであって、もっと厳密に管理して、日報なども義務化すれば、これまでサボってた社員もサボれなくなり、結果的業務改善していたと思うが。)

当社はPDCAを回さな

PDCAはPlan, Do, Check, Action頭文字を連ねたもので、つまり、まずは予定(Plan)ありき。予定がないと実行(Do)はしてはいけない。

実行した後は必ず振り返り(Check)を行いなさい。

それらをした上で次の作業を行いなさい(Action)。

という意味である

当社もPDCA概念はあるし、週報という形でそれを実現している。

しかしその概念根付いておらず、週報以外ではPDCA無視している。

まり当社は、まずは実行があり、計画は立てることは必須ではない。多くの人は計画を立てない。

振り返りも当然実施しない。実行のみがある。Do, Do, Doである

これは作業レベルでそうであるし、案件レベルでもそうだ。案件はたしか最後には振り返りの資料作成する必要がある。しかし、これは単に作成しなきゃいけないか作成してるだけで、綺麗事をまとめた振り返りである

本来は、まずは理想を語り、次に現実を語る。しかし当社は、過去グダグダ言っても仕方ない、と理想を一切語らず、現実のみを語る。しかし振り返り資料には上司受けするような荒唐無稽対策記載される。

当社は、作業の前には計画ありき、などの文化は全く根付いていない。優秀な人間でも根付いていない。

私はただの平社員なので、それらについて指摘はできない。指摘したところで「じゃあどうするの?」と詰められて終わりだ。指摘するなら十分な資料作成と具体的な対応策の準備、そして責任人を動かすカリスマ性が必要だ。私にはそれらを準備してまで無駄に頑張る気はない。

当社はマニュアルを作らない。

驚いたのが部の方針説明会の時だ。

業務改善必要だ。

個々のチームで業務改善に取り組んでほしい。」

と書かれていた。

本来は、業務改善は個々のチームだけの問題ではないので、上層部マニュアル化してルール化すべきではないのか?

アイデアは個々のチームから出してもらっても良いだろうが、それを取りまとめて全体で取り組ませるのは上層部の役目ではないのか?

それをなぜ、個々のチームに依頼する?

業務改善といえばマニュアル作成設計フォーマット作成だ。

マニュアルがなぜ必要か?

それは能力の低い人でもマニュアル通りに作業することで能力の高い人と同等の仕事をできるようにするためである

それすなわち業務改善である

しかし、当社はマニュアルを作る習慣はない。自分用のメモは作るが、維持管理に使えるマニュアルは誰も作らない。

また、当社には設計書のフォーマットはない。

フォーマットがあるだけで記載漏れがかなり減る。考慮漏れも減る。作業が具体化されるからタスクも細分化して記載できる。

当社には推奨するプログラミング言語はなく、推奨のフレームワークもない。

これらが共通化されていれば、開発者がいろいろなチームに参加しやすくなるし、別のチームの有識者相談やすくもなる。

こういった業務改善本来上層部が率先して枠組みを作るべきだ。しかしやらない。

上層部知識がなく、やるとしたら雑な仕事しかしないから、やられると逆に困るのだが。

まとめ

当社はとにかく従業員の声が大きい。強い。

業務改善などの施策を出しても、従業員が納得しないと続かない。

そういう組織文化なのだと思う。

そういう文化を変えるのは並大抵のことでは出来ない。

環境が変われば人は変わるだろうが、そもそも環境を変えるには人を変えないといけない。だから変わらない。

仕事が回らなくなり死にかければ変わるかと思ったが、たぶん変わらない。

仕事の仕方を変えるくらいならきっと死を選ぶだろう。それくらい変わらない。

追記

2024/05/15 10:48

工数管理の是非について:

実装者は成果物作成する側だからサボりにくいのよね。

工数管理すべきなのは成果物ではなくサービス提供する人なのかもしれない。例えばPMなど。

当社の開発チームは、開発者PM以外にも、君必要なの?何やってる人なの?打ち合わせには参加してるけど、ただの工数食い虫じゃね?みたいな人もいるのです。

あと外注さんにも何の工数管理しないのはやばいと思う。外注さんリモートワークだから案件掛け持ちされてる疑惑も出てたし。

    メゾンときわ台203号室内っていうかそもそも室内にカメラがあって客観的監視していたら問題であるが、俺が様々な問題をしているために、抽象的な監視、すなわち、

    何らかの無線による監視は明らかに存在するものと解されるが、室内にカメラがないため、なぜ、室内において、 その形状をしていることを、カーテンを閉め切って外部から

    認識できないようにしているのに把握できるのかが分からない。万人が一番最初に思うのは、 室内にカメラがなく、カーテン遮断しているのに、なぜ電波が到達しているのか

    であろう。または、室内を視認できないのに、なぜ室内における形態が見えるのか、その点もおかしい。 室内で寝ているのか何をしているのかが推認できないのに、なぜ寝ている間

    における睡眠映像リモコンスイッチを押すことで流すことができるのか、それも理由がない。おそらく、ときわ台メリーガーデンの運営本部スイッチを押してからやっているのだが、もしこの後に

    ずっと起きていれば、スイッチが入っても流れないわけだから、 流すときには、交番巡査が車でスイッチを押しに来ると思うが、自動車内の分かりにくいところからリモコンスイッチを押している

     ので、全員の一斉放映の可能性もあるが、その全員が寝ている間にそれを見ているときに、ひとりだけ起きていれば、放映中の映像をみないのではないかと思う。これは私の見解である

    実際にはどうやってやっているのか分からない。

   少し今、前野町1丁目43-6付近を調べたが、メゾンときわ台202号室にアメリカ人自動自転車でどこかに行っていた。その出て来方はいかにもうれしそうであったが、

   この自転車は、このアメリカ人ではなく、令和5年10月頃に、別の老人が乗っていたため、なぜその老人からアメリカ人に変更されているのか理解できない。

   ときわ台メリーガーデンの14階の女も、2月6日に安倍洋子死去後に、うれしそうに出てきたが、その時の顔と非常に似ていた。前野町交番パトロール中だが、奥の部屋に

   何が座っている。午前4時まで、ときわ台メリーガーデンと通信のある埼玉県戸田市川岸周辺で一発あったにもかかわらず、その2時間30分後の、ときわ台メリーガーデン付近

   この状況というのはいかにおかしいような気がする。現在公園に、いかつい顔の男がベンチに座っている。スーパーライフは、入り口半開きで閑散とした様子。いかつい顔の男が

   通行している。本日は平日15日で学校もあるため、運営の方がこれから本気を出すのではないかと予見される割には何の動きもない。午前4時から4時44分までの間、荒川河川敷

   堤防警察運営リモコン昭和風情にしてあったが、代わりにババアが目を光らせていて、こっちはババアから出来ねえんだよ、という全国協同組合の老齢版郁子が堤防に立ち何かを

   訴えていたが、堤防風景昭和にしてあった。自演協同組合仕事は酷過ぎる。4時44分、自宅着、様々な装置が動いている感じがあるが、それを認識していてこの付近に住んでいる者

   はなぜ抵抗しないのかが客観的な状況から理解できない。少なくとも、荒川堤防では、警察強制による郁子が堤防に立っていてババアから出来ないと主張していた。帰りしなに、書記官

   よこたもぐらが、死にました、という電波送信し、午前0時から午前4時までのものを削除するために、午前5時以降に全力で別の装置作動させている。川岸の対岸には、巡査部長

   ざちゃんも立ち会っていた。直接言えばいいのに、要するに、生命危険であるから止めろ、と言っているものと解されるが、そうであるとすれば、別の代替策をなにも用意していないのだから

   何をしてほしいのか理解できない。診断書には自閉症スペクトラムとか不眠症ということで健康管理小島が記録をしているので、次に何をしているかは容易に想像できる。

2024-05-14

   品田幸男の判断    令和5年12月頃に事件確認し、  行510号として民事2部に事件配転したが放置

              令和6年2月1日に原告が民2部にきて強制するので、原告東京存在しない間に、2月15日、疎明書類を送付

              3月25日に申し立て却下

      横田もぐらにウソを言わせる  4月22日に即時抗告を受け付けたが、気分によって、  訴えを客観的併合  これからどうするかまだ不明

   ※  まり恵は、年度末移動で民事2部におらず、かわりに育子とかになっている

少子化が解消されない理由

男尊女卑だとか差別だとかじゃなくて、客観的にみてそーなんじゃないの?って話。

少子化が進むのは女性社会進出が増えたのが最大の原因なんじゃないの?

いや、それが悪いってわけじゃなく原因がそれじゃね?って話。別に女性が働くことに異議はない。

以前までは男が働いて女性専業主婦ってのが多かった。

そこで女性が働き出すとその分男性の働き口が減るわけですよ。そりゃそーだ。

待遇が良い会社から埋まっていくので、働き口が減った男性待遇の悪い会社で働くことになる。

そうなると年収も少なく結婚すら選択肢から外される可能性が増える。

すると女性結婚できる可能性が減る。

結婚できなきゃ子供も作れない。

もし結婚したとしても旦那給料が低いか奥さんも働く。共働き昔の男性1人分の年収を稼ぐわけ。すげー非効率

そして奥さんが働くからまたもや男性の働き口が減る。

そんなスパイラルなんじゃないの?

女性が働くのは全く問題ないしむしろ良いことでしょう。

ただ、少子化の原因としてはそれが1番の理由なのかなと。

女性専業主婦ならその分男性が働いて稼げるわけだし、逆に男性主夫になって奥さんが働くでもいいけど、一般的にはまだまだ男性は働くものだと考えられてるだろうし。

要は男女で分業しなくなったか経済効率が悪くなったんじゃないかなと感じてる。

2024-05-13

われ3年目SES

単価62万らしい

給与、控除込みで毎月30万弱ぐらい。ナスは気まぐれ、去年は年間で1.5ヶ月分もらった

われもうちょっともらってもよいのではと思うのだけど、客観的にはどうなのか教えてくだしあ

anond:20240513013111

こういうところが文系理論の頭の悪さを開陳してるよね

そもそも経済というのは数理理論説明がつく部分が多く、客観的にこうだと言えなければならない

それを、政局争いの観点で話すから政治厨は脳障害と言われる

2024-05-12

内言、意識が本当に自分なのか?と疑問に感じたときの恐怖

普段、生きているとほとんどの時間で私の頭の中では、私が言葉を喋っている。

それを内言というらしい。

その内言という自己との対話を通して私は思考というものをしているようだ。

この内言、意識が=自分、ということになるかどうかは議論余地があるらしい。

かいうことは哲学心理学領域ちょっと難しすぎる話で素人には理解が及ばない。

それはともかく絶えずといってもいいほど、頭の中で喋っている自分を、本当にこれは自分なのだろうか?

と疑ったことはありますか?

この「本当」にというところがポイントなんですけど。

こうね、意識が喋ってるじゃないですか?

それをね普段は当然のこととして「自分」と思ってるんですけど、

瞑想とかあるじゃないですか?

あれって自分の中の内言を黙らせることとかが第一歩になるみたいなんですけど、

そういう作業、内言を客観的視点で眺める視座みたいなのを手に入れた瞬間に

あれ?このずっと喋ってる奴、

こいつって本当に俺なのかな?

ってことを「言葉になってない、言語化していない感覚として感じたとき」に

意識・内言が

「ちぇ、バレたか

って言葉を発するんですよ。

これが本当にゾッとする瞬間です。

なんかね「私」という存在が実は「意識という私のふりをしている誰か」に乗っ取られている、という発見みたいなのがあって

ギョッとなるんですよね。

そしてね、一旦分離した「私」と「私のふりをした意識」というのは、

その次の瞬間には再び「私」と結合して私のふりをして私をコントロールしようとしてくるから

その「私のふりをした意識」を分離しようとするんですけど、

その分離しようとしている「私」はすでに「私のふりをしている意識」に乗っ取られた私であり、

その私こそを、私は私のふりをした意識から分離しなければならないのだが、

みたいな調子で合せ鏡のように延々と私の中の私みたいなものが一気に溢れ出してしまます

なんか全然、うまく説明できていませんが

とにかく「意識」というものが本当に自分なのか?

という疑問をいだいたときに抱く恐怖というのはこういうことです。

禅とかだと、こういう体験にも名前がついていそうですね。

あんまり勉強は得意ではないので禅を学ぶ気なんてありませんが簡単説明できるのなら聞いてみたいですね。

anond:20240510163027

私も旧帝工学部修士卒です。正社員として現在まで10年以上働いています (IT系職種です)。中小企業にもメーカーにも在籍経験がありますし、結婚出産もしています配偶者フルタイムで働いています。偉そうにみえたら大変申し訳ありませんが、あなたの書いた内容に、個人的には違和感のある点がいくつかあり、コメントさせてください。

あなた大学入学後に感じたことに共感します。実は私も講義に出づらくなり、専攻推薦を受ける自信を最初からなくし、新卒では自由応募で中小企業就職しました。ただその後転職し、メーカーなどを経験しています。その上で、やはり一般大企業の方が労働時間面も給与面も条件がよいとは思います特にメーカーというかいわゆる日系大手企業には、扶養手当や住宅手当が手厚く、家庭をもつ社員が多い企業も多くあると思います (手当については、夫婦のうち収入が大きい方という支給条件が多いことに留意)。手当の他に育児のための特別休暇を設ける企業もありますが、いくら休めても自分だけ休んだら落ちこぼれるだけなので、個人的にはそもそも有給日数の方が重要だと思います中小企業については、色々な企業ありすぎて何ともいえません。行政書士はわかりません。家庭と両立しやすかったら教えてください。

大切だと思うのは、推薦にせよ自由応募にせよ、面接で「御社で何をしたい」と語れるくらいには、各企業が何をしているのかを調べ、そこで自分が何をしたいのか考え、その根拠自分経験に照らして説得力があるように言えるようにして選考に臨むことだと思います。私は新卒とき志望度が高い企業に悉く不採用になったのですが、旧帝大であることに慢心していたのか、業界企業比較調査が甘かったと思います。想定していた業界内定が出ないこともあるかもしれないので、理系院卒カードを捨てるとか捨てないとかいう以前に、広く検討した方がよいとは思います (現在リーマンショック当時より売り手市場ではあるでしょうが……)。信頼をおいて就職活動相談ができる同期や先輩の女性があまりに少ない/いないという点では、理工系女性が苦しいということに大いに同意します。

ただ、あなたの「理工系女性は苦しみを味わう」という主張については、家庭をもつことを前提にしているのもさておき、男性に対しても理工系でない女性に対しても理工系女性に対しても決めつけが大きいので、もっともらしいのか判断できません (私は学力が低い学生が混ざることで現場教員負担が増えるなら女子枠に反対ではあります)。

ニンテンドースイッチゲームまた50本遊んで感想書いたのでまとめ

1年前に50本遊んで感想を書いた記事を書いたのですが、

あれからまた50本遊んで感想を書いたのでまとめ記事です。

前回のブコメオススメしてくださったゲームは遊んでいるものもあれば、遊んでいないものもありますが、どれも参考にしていますし、いつか遊ぶと思います

なので、また何かオススメがあれば書いてくださると嬉しいです。


51〜65はこの記事

66〜85はこちら

86〜100はこちら

51〜100の部門別ランキングはこちら


1〜22はこちら

23〜47はこちら

48〜50はこちら

1〜50の部門別ランキングはこちら


好き好き大好き超愛してる

ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期

ダンガンロンパシリーズ完結作で、突然集められた超高校級の才能を持つ面々が殺し合いゲーム強要されるデスゲームものにして、その殺し合いの加害者クロを見つける学級裁判で謎を解くミステリゲーム

テキスト主体としたゲームとしては3作目とマンネリし始めるナンバリングだが、全くもってそんなことはなく「嘘」テーマにした幾つかの事件を今まで以上の絶望さで描いている。

特に超高校級総督王馬小吉にまつわるエピソードは圧巻で、歴代作品を踏まえて「絶望希望」は「嘘対真実」の言い換えだと無邪気に信じていた気持ちを粉砕させられた。

ダンガンロンパシリーズはこの作品以降はファンディスクのようなものしかリリースされていないが、なるほど確かにこの後に単純な4やV4をリリースするのは難しさがわかるのもシリーズファンには賛否がわかれる内容だった。

このシリーズアニメ版の「3」で絶望して少し身を引いていたのだが、改めてこのV3を遊んで、やっぱりダンガンロンパは最高だなと思いを改めた。


SeaBed

公称ジャンル百合要素を含むミステリーで、物静かで落ち着いた女性のサチと、元気で朗らかなタカコのカップル関係値の変遷を追うノベルゲーム

日常動作食事自然の豊かさ、季節感などなどの風景や情景の描写に文量が大きく割かれているのが特徴的で、淡々と進む中で彼女たちが何を感じたのかを、咀嚼するように読み解いていく。

そんな平和楽しい内容が、あるタイミングで突然ガラッと風景を変え、死と向き合うことの難しさ、生き続けることの意味などを問いかける哲学的幻想的なストーリーに変化していく。

ものすごく大好きで愛してる作品だけど、面白いというよりは、考えさせられるというか、このキャラ達のことをずっと延々に頭の隅で思い続けることになっているような、それぐらい大きな作品だった。


アーキタイプ・アーカディア

文明崩壊した世界で何故か稼働中のVRMMORPGアーキタイプ・アーカディア」を遊ぶ人達思想がぶつかり合う、火傷しそうな熱意が伝わってくる熱血ノベルゲーム

ゲームは遊んでおらず食糧も水も希少な世界必死暮らしているルストと、その妹でラスモス・ゾティーラ・トゥーラッカという独自挨拶ゲーム内で仲間を増そうと頑張っている妹のクリスティンの二人で始まった旅がどんどんと広がっていく壮大さが魅力的。

テーマの「ゲーム楽しい」を伝えるために様々なプレイヤーと対決していくのが、まさに楽しいゲームで、ゲームを遊ぶゲームというメタ構造になっている云々と言った小賢しい理屈を跳ね除ける沸る激情が最高に楽しいゲーム

可愛いヒロインも沢山登場するのでそういう方面でも面白く、特に僕はコロネちゃんダントツに大好きで、専用ルートのその先を妄想して悦に入ることがある。


魔法使いの夜

1980年代後半近代化が進み発展する街「三咲町」を舞台に、電話すら知らないほど田舎から引っ越してきた静希草十郎が、魔法使い自称する二人の少女出会うボーイ・ミーツ・ガールものノベルゲーム

まず目を引くのが非常に作り込まれルックで、立ち絵と背景絵、その上にかぶさるテキストウィンドウという一般的ノベルゲームでありながら、表現の幅がとても広い。

ストーリー田舎に住んでいた主人公が、街に慣れることを通じて、近代的な社会とそうでなかった時代を浮き彫りにしていき、当たり前に享受している一般的水道電気貨幣すらも、近代化恩恵であり当たり前ではないエピソードが手を変え品を変え繰り返し語られるのが、情緒的な染みるように楽しい

この情緒的ながら近代日本では当たり前のストーリーと、新伝奇ものらしい魔術を使った異能バトルのストーリーとが、静希草十郎にとっては同じだけ異質なものなのが、面白かった。

(なお、ちょうどまさに今このときスマートフォンで遊べるガチャ形式運営ゲームFGOで、彼女たちのアフタストーリーが読めるそうなのだが「ガチャ我慢する」という脳の回路が焼け切れ、貯金や手を付けてはいけないお金をあっさり使い込んでしまった過去があるので、僕は遊べないのがモドカシイ


AMBITIOUS MISSION

怪盗、探偵警察、盗人、泥棒正義と悪が入り交じる登場人物たちの中、ハートとため息を盗む怪盗ミスアルテ共に盗みを行っていくクライムサスペンス

フィクションらしい痛快さに振ったリアリティラインながら、この世界観の中でも丁寧に盗みを行う段取りを立てるパートがあるのが非常に好印象。

自分たち犯罪者であることを認めながら、法では救えない大切な人のために死力を尽くす怪盗たちの生き様が格好よくて滾る最高に面白い作品

そんな怪盗たちですら挽回不可能に思えた最後の盗みの仕掛けは、まさにハートとため息を盗まれた爽快さで、思わずコントローラを握る力が強くなりすぎて、スティックを壊してしまうほどだった。


○大好き

Dear My Abyss

陽気なミスカと陰気なスバル対照的な二人の友人関係が、無垢人形のようなルウが転校してきたこから大きく変化することになるノベルゲーム

学校熟成される閉鎖的な人間関係と、思春期らしい堂々巡りを続ける自己言及を、丁寧な心理描写と情景が伝わってくる幻想的な精神世界の問答で文章を魅せるタイプ作品

女の子同士の三角関係のように見えて、早々にミスカの好意は豪快に空回っており、スバルミスカのことを全く好きではないと、二人の視点シーン毎に同じエピソードを描くことでそれがわかる構成が読んでいて辛い。

楽しいとか面白いような前向きな感情で読める作品ではなく、思春期女子高生自己問答の末に得られた後ろ向きで退廃的な選択が、三人の関係値を歪めていく悲劇を読ませる作品だった。


アカイイト

父親実家がある田舎帰省した羽藤佳が、その田舎にまつわる伝説とそれを取り巻く異能のものたちと交流していく、和風伝奇ジャンル女の子同士の恋愛表現するノベルゲーム

まず伝奇ものとしては、歴史にまつわる蘊蓄衒学趣向的なやり取りが多いが、それが少しづつ大きな設定の開示に繋がっていくのがワクワクする。

主人公の羽藤佳は異能こそあるものの直接的な戦闘能力はないため、ヒロインたちに頼ることになる恋愛の導入が、アカイイトらしさだ。

バッドエンドの豊富さも面白く、バッドと言いながらメインルートとは異なる選択を魅力的に描いており、最初から最後まで飽きずに楽しめた。


夜、灯す

琴を演奏する筝曲部の熱血部活ものパートと、数十年前の女生徒同士の心中事件を追うサスペンスパートが混ざりあったノベルゲーム

仲間との和を大切にする鈴と、演奏技術に重きを置く有華の二人の女性対立しながらも関係値を育てていくのだが、こちらのパートは琴の演奏に関するやり取りが多く、甘い恋愛の要素は少なめ。

対して、数十年前の心中事件の方は、終わりが心中からこそ、はっきりと恋愛の要素があり、そこに至るまでの過程は辛いシーンもあれば、甘いシーンもある。

主人公保護者であり老齢の尼、十六夜妙蓮さんの大活躍はすごく印象に残り、もう一人の主役といっても過言ではないだろう。


帰ってきた名探偵ピカチュウ

ポケットモンスター世界観をテキスト主体アドベンチャーゲームに仕立てるシリーズで、2018年名探偵ピカチュウから5年ぶりの続編にして、完結作品

バトル以外の生活の場におけるポケモンの生息が魅力的で、それを映像でなく文章で楽しめるのは唯一無二だ。

これはもう他の作品と違って客観的評価は完全に捨てるしかなく、ポケモン実在する、ポケモン生活したいなどと、ポケモンへの思い入れがあるからこそ楽しめる作品

肝心のストーリーについては、実写映画版が先取りしていたせいで、サプライズ展開がサプライズになっていないのが気になるし、これほど間が空いてしまうと期待度も相応にあがってしまう、可能なら短編を定期的にリリースしてほしいが、難しいかなあ。


ATRI -My Dear Moments-

海面上昇が止まらず住む場所を失った人が多くいる近未来日本離島舞台に、超エリート校に通っていたが夢破れて戻って来た斑鳩夏生が、アンドロイド少女アトリと交流する恋愛ノベルゲーム

主人公斑鳩夏生はめちゃくちゃ優秀で頭の良いカシコなのだが、とある事情により左足がなく、精神的にも不安定なので、生きづらい描写が開幕からは続く。

しかし、美少女アンドロイドのアトリによりそこが一変し、彼女が左足を補い、精神的な不安定さも補いとサポートすることで、どんどんと前向きになり、社会基盤が大きく変化した田舎町でその頭脳を活かしていくのがワクワクする展開。

この頭脳で手の届く範囲の人たちを救っていくシーンは非常に前向きかつ地に足がついた展開で、大好きな丁寧さだった。


死噛~シビトマギレ~

ダンジョンRPGの老舗エクスペリエンスが送るホラーアドベンチャーシリーズ第三弾で、怪異の噂を横スクロールのような探索パートで調べてからRPGボス戦のような怪異との対決パートに挑む構成で、テキスト主体アドベンチャーゲームらしくない画面構成になっている。

死印の直接的な続編で、主人公や他の登場人物共通しており、ストーリー的にもそれを踏まえての悩みや成長が描かれるので、必ずそちらを遊んでから遊びたい。

前々作では怪異に振り回されてばかりの主人公だったが、今作では一転して、怪異と立ち向かうことに強い哲学的な回答を持つことになる。

ホラーの恐ろしさや恐怖を煽る部分に着目しがちだったが、ストーリー的に感動するポイントが多くあり、とてもおもしろかった。


NG

ダンジョンRPGの老舗エクスペリエンスが送るホラーアドベンチャーシリーズ第二弾で、怪異の噂をDRPGのような探索パートで調べてからRPGボス戦のような怪異との対決パートに挑む構成で、テキスト主体アドベンチャーゲームらしくない画面構成になっている。

前作とは同じ世界ではあるが、登場人物は異なっているので、設定を飲み込めるなら今作から遊んでも問題ない。

アウトロー自称する鬼島空良とその仲間たちが怪異と戦うストーリーだが、単純な腕力では倒せないので、現場操作証拠品を集めて、知恵を絞って敵と対峙するシリーズの骨子は共通している。

前作よりもブロマンスな傾向が強調されており、主人公の鬼島空良と、親友にして反社勢力の天生目聖司との持ちつ持たれつの関係値が面白かった。


マヨナカ・ガラン

キャラポリゴンが常にステンドグラスが透けて見える、特徴的なルックが目を引く、キャラクタの演技主体アドベンチャーゲーム

閉鎖的な隠れキリシタンの村の中で、正道とは大きく変化した異質なキリスト教テーマにした、宗教にフィーチャーした作品

前半こそ村人との楽しい交流名産品に舌鼓を打つ展開などコメディ要素も多いが、中盤から宗教を信じることの覚悟を問うような重苦しい展開が続く。

タイトル意味がわかる、とあるキャラ慟哭シーンは、思い出すだけでも気が重たくなる悲しい作品だった。


ワールズエンドクラブ

全国の小学校から落ちこぼれだけを集めたガンバレ組の面々がデスゲームに巻き込まれることから始まる、アクションゲームテキストを読むパートが融合したアドベンチャーゲーム

息をつかせぬ展開が魅力で、一転二転、七転八倒、とにかく次から次へと設定の根底をひっくり返すような、サプライズ展開が目白押し最後まで遊べる。

そんな中でもガンバレ組の絆の深さ、彼らが分かつ事ができない強い関係であることを信じれるようになってからは、痛快なストーリーが続くのも楽しい

アクションゲームは若干とってつけた感があるとも思うが、ガンバレ組の得意な能力ゲームっぽく表現できているとも言える、かも。


ワールドエンド・シンドローム

転校生主人公複数美少女たちと恋愛しつつ、100年に一度死から蘇る謎の現象を追う伝奇サスペンスの要素もある、ノベルゲーム

恋愛部分は正直前フリ感が強く、伝奇パート関係が薄いヒロインたちのエピソードは薄めで、関係が濃いヒロインは濃いと、濃艶がはっきりしているのは好みが分かれそう。

から蘇った人間は周りの人間記憶整合性操作しながら生きながらえるため、どうやってその蘇った人間を見つけるのかのフーダニット段取りが、ミステリしていて面白い

設定こそ新本格作家アニメ化もした某作と似通っているが、ゲームならでは仕掛けやミスリードがあり、しっかりとノベルゲーム翻案できている良作。


詩とか俳句短歌について思うことメモ

もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事書類ばかりとなった昨今。

でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。

書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。

まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。

頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初感想だった。普通に文章だったからだ。

調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで

「韻」という言葉もその時初めて知った。

井上靖詩集を手に取ったのは、国語教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。

というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初詩集だった。

小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。

季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなもの短歌俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。

特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉ニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。


井上靖の詩のなかに

幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。

自分世界表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。

例えば、雪という詩がある。


 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

 こういう二行の少年の詩を読んだことがある。

 十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌

 みつけた詩だ。雪が降って来ると、

 私はいつもこの詩のことを思い出す。

 ああ、いま、小学校教室という教室で、

 子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。

 この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。

 勤勉、真摯調和

 そんなものともどこかで関係を持っている。

井上靖詩集運河」より

中学生の私は、なるほどと思った。

詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉なかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。

鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。

井上靖の次に手に取った詩集もよく覚えている。

武者小路実篤だった。やぱり散文詩だった。

当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。

いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。


ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。

山頭火面白い普通俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。

定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌エントリーポイントとなって、

新聞の俳壇や短歌欄に時々目をやるようになった。

いわばお勝手からこっそり入門したような形だ。

しか俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。

いつしか手にしていたのは、興津要解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。

剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。

エロい川柳結構好きだった。今でいうサブカルチャーだ。

その後は巴毎晩組み敷かれ

木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代川柳妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい

一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。

俵万智サラダ記念日ベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。

例えば、こんな一首。

わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり

あさま山荘事件を起こした連合赤軍幹部坂口弘収監中の東京拘置所から毎週のように短歌朝日歌壇投稿していた頃だ。

朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。

そして渡辺松男太田美和が常連投稿者として名を連ねていた。

風花って知っています

さよならも言わず別れた陸橋の上

渡辺松男太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇リアルにみていた人にしかからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱発酵すると詠んだりする太田美和。

生活で恋をしていた私は太田美和の言葉自分を重ね合わせた。


でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。

大学卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。

生活が一変した。

書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。

購読紙も朝日新聞から日経新聞に代わり、東洋経済となった。

世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。

山頭火武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接資格だ!という日々。

就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。

たまに思い出しては、現代短歌最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。

若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。


それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。

そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。

思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。

中年になっていいかげん自分限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。

ふと思い出すのが、最初に買った井上靖詩集

 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖感覚がとてもよくわかるようになった。


これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。

詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。

どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。

鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯子供の姿を思い浮かべる、という

文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワイン食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。

ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種ビンテージ気候土壌などさまざまな情報がある。

しかワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのとき話題、体調などに大きく左右される。

だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。

マリアージュという言葉があるように、ワイン一種調味料として機能するため、食べ合わせ重要だ。

またワインプロファイル情報あるかないかも味を左右する。

ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見ワインしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。

逆に偽の情報表現かに補完してしまえば、コンビニ販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。

ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的規律として表現することはできない。

詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。

井上靖が「小学校教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。

その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。

どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときメンタル、いわば偶然の力だと思う。

渡辺松男太田美和が並んで歌壇掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。

失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会

先ほど、卒業してから詩どころではなくなったと書いた。

そのとき自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。


ところで、先日、Yahoo芸能ニュースをみていたら、TBSプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人俳句先生から5点と酷評されたと報じていた。

お題は「文房具」で彼女が読んだのは

消しゴムが 白き水面に ボウフラを

というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。

ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人俳句酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組演出脚本としてはそれがオチなのだろう。

演出もさることながら、これは、他の出演者俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。

迎え梅雨 紙端に滲む 友の文字

虹の下 クレヨンの箱 踊り出す

天王山 黒ずむ袖に 薄暑光

薫風や 隣の君と 教科書

こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。

バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージ作品クオリティが補完されてしまうのだ。

しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。

消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月番組文房具からまだ気持ちフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。

ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。

それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。

いかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。

一方で白い水面(ノート隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。

ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。

と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ

ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。

また、どんくさいもの弱者がボウフラというノート上のより小さい存在視線フォーカスする、という手法小林一茶方法とも通じるところがある。

番組の評者は、この芸人俳句酷評したうえ、次のような添削をしたという。

しかすはボウフラみたい夏休み

夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。

しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組からね。

ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界一種ルッキズムだ。夏休みかいって勝手おめかしさせようとするんじゃねーよ。

そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつ動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語川柳で身につけたものだろうからゆりやん一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。

300円でおいしく飲めるワインもあれば、駄作でも楽しめる作品もある。そういうことだと思う。

     単なる感想であって客観的にどのようにやっているかは分からないが、 地域交番センターにずりあがってくるオレタチリモコンで、 14階の裁判官の妻の女に命令して、何らかの装置で、

  4階の4人くらいの稚児が浮き出てくるところに、うにょ~んと言わせるようにしているだけではないかと思う。それだけを見ると可愛いようにみえるが、大声にて、極めて悪質、であると叫ぶと、

   同じような階層にいる今度は別の爺が浮き上がってきて、こっちをみるといったような感じ。  その現象漠然認識したというだけで、それが何であるかということを理解することは困難であろうと思う。

   現に 向こうの方でこっちをみている者にしても、向こう岸の者の頭の中でそもそも理解が成立していないのではないかとは分かっていても言わないのだろう。

anond:20240512020924

ミラーリング反論として使われるのも下手な理由だと思う

どうしても敵対している人間を一つの属性に押し込めようとしてしま

敵意や競争心がないか少ない分野だったら対立する二項をもう少し客観的比較できる気がする

2024-05-10

https://anond.hatelabo.jp/20240508103703

記事

増田で何度か大炎上した経験から増田で知性のカケラも感じさせずブチギレてる人たちを分析してみると、いろんな話を

真実客観的に認められた事実主観的事実、伝聞、ポリコレお気持ち表明、願望、

くらいのざっくりしたレベルにすらうまく分類できてない気がするんだよな

事実気持ちで殴りかかってきたり、願望的なお気持ち表明に対して誰もが知ってて前提にしてる事実ドヤ顔披露してきたり

同じ日本語を使っているか言葉が通じるように錯覚してるけど全然通じていないことも多い

は三行目まで増田しか登場しないため、増田で知性のカケラも感じさせずブチギレてる人たち=増田達だが

後半の事実気持ちで殴りかかってきたりする、のは増田ではない(増田は殴り掛かられるほう)。

なので誰の話をしているのか分からない。

これを通じる日本語にするには以下のようにしてはどうだろうか?

argument:知性のない増田炎上する(内省

増田で何度か大炎上した経験から増田で知性のカケラも感じさせずブチギレてる増田たちを分析してみると、

自分も昔はそうだったが、いろんな話を(後略)

argument:ブクマカトラバ増田には知性が無い

増田で何度か大炎上した経験から増田で知性のカケラも感じさせずブチギレてるブクマカたちを分析してみると、(後略)

こうしてみると日本語は high context というが実際は no context とか no argument というのが相応しいのではなかろうか。

例えば background は context に明記しなければ context ではないが書いていないため「誰もが知ってて前提にしてる事実」が何なのか分からないがそれを「ドヤ顔披露」したり、

argument (事実として何の話をしているか)がないため「事実気持ちで殴りかかってきたり」する。

同じ日本語を使っているか言葉が通じるように錯覚してるけど全然通じていないな!なんで日本語が通じないのか言葉にできてやっとすっきりした!

まさしく no argument (話にならない)というわけだ HAHAHA! 増田も通じない日本語よりも英語で書いたほうが良いかもしれんな。

父親ネギ星人(子)だと認識した

姉妹と古いアルバムを漁ってたら、父が学生の頃の写真が出てきた。

ガンツネギ星人がいた。ジュニアの方ね。教室で撮った集合写真の一番端っこ。


「お父さんはどれ〜?」って言いながらキャッキャするつもりだったけど、あまりに異様でひと目でわかった。

小男なのに誰よりも頭が大きいアンバランスさ。写真から陰気なオーラが滲み出ている気がする。他の生徒たちとの間に僅かな距離がある。


直視できなかった。不気味な顔だった。津山三十人殺し犯人写真を見て不安気持ちになり、目をそらした時と似た感情


自分父親の顔のこと良し悪しなんて考えたこともなかったけど、写真だと客観的に見れるね。

西新宿タワマン殺人加害者が言ってることは完全にウソ、というのはかなり無理がある

本人の供述より父親供述の方が具体的で、かなり細かい所まで矛盾がない

仮に口裏合わせしようにも、口裏合わせする前に逮捕されてしまっているわけで、それより前から綿密に口裏合わせしてないと無理だ

まあ、仮にそうだったとしても、それはそれで証明するのは不可能だし、加害者父親供述が一番理路整然としてる

息子である加害者の落ち度もちゃんとしてる

仮にこれがすべてでっち上げだとしても、死人を復活させることはできない、死人に口なしなのでどうにもならない

現時点で供述として、最もしっかりしているのは加害者父親である

お金の流れは口座振り込みであれば、証明できる可能性はある

仮に手渡しだったとしても、被害者自分の口座に入金した、もしくは第三者の口座に入金した可能性がある

加害者父親から加害者に有利な供述をしてる可能性も十分にあるが、それを差し引いても、現時点で一番中立証言だと客観的にも思われる

2024-05-09

「人を愛したことがあれば自分中心の世界から抜け出せる」←自分中心の世界から抜けたことがないんだろうな・・・

「俺が愛しているのだからこの人も俺を愛してくれているはずだし、なんとなく俺は愛されている気がするのでそれはきっと真実のはずだ」

これが自分思い込みしかない可能性に気付けてない内は自分中心の世界しか住んでだことがない。

一次元蟻と二次元蟻の話を思い出して欲しい。

一次元蟻は自分一次元世界しか知らないことを知らないから「ここ以外の空間存在する」ということをそもそも知覚してないわけ。

自分主観は全て思い込みなのでは?俺の考える愛は本当に愛か?俺は本当に愛されているのか?思い込みでは?」

こう考えられるようになって初めて、「俺にとって今までの世界自分主観しか無かったんだ!俺は本当の意味客観的視点に立ったことがない!」と理解できるようになるわけなんだよね。

一次元の線の上で「俺はずいぶんと端まで来たな。きっと俺はこの世界の全てを知ってしまったんだ」みたいな勘違いをしているうちは、まだ世界の表層のうちほんの僅かな部分しか知らないんだな。

世界の広さを本当に知らないから、世界というもの簡単に見いだせた気になっているんだ。

二次元蟻達はそうじゃない。

二次元世界があるな三次元世界もあるかも知れないし、三次元の上には四次元があるという可能性を知っている。

から謙虚に「こう考えている俺もまだまだ自分主観の中にいて、客観的視点に辿り着いたと思い込みながら俺というカメラちょっと立ち位置を変えているだけでは?カメラレンズのものを変えなければ結局それは自分の見知った世界しか映らないのでは?だが俺にそれができるのか?」と考えられる。

「俺は自分中心の世界になんて生きていないぞ!」と叫んで回るやつほど、自分中心の世界にいることにさえ気づかないのだよ

スーファミ試作機の所有権任天堂が失ったのはいつか

スーファミの試作機がネットオークションに出されて話題になっているが、一部では任天堂がその気になれば所有権に基づき試作機を取り戻せるのではないか、と指摘されている。

当方法曹でもなければ法学部卒でもないが、民法教科書を読む限りは、任天堂は遅くとも2015年11月23日にはスーファミ試作機の所有権を失い、試作機占有者正式に所有者になっているのではないかと推測する。以下、条文の当てはめを示す。

  1. 使用貸借契約(593条)に基づき、任天堂ゲーム開発会社に試作機を貸し出したと考えられる。これにより代理占有関係が成立し、試作機を任天堂自主占有かつ代理占有し、ゲーム開発会社は他主占有かつ自己占有していたと考えられる。つまり、この時点ではゲーム開発会社に試作機の所有の意思が認められない(185条)。これに加えて、任天堂は試作機の所有権をも維持している。
  2. 遅くともスーファミ発売日の1990年11月21日に、試作機の使用貸借が終了(597条第2項)。この日より、使用貸借契約に基づく試作機返還債権任天堂に発生(593条)。
  3. 時効により、1995年11月22日に試作機返還債権消滅(166条第1項)。加えてこの日より185条も適用されず、試作機の占有者は所有の意思を持つことになる(186条第1項)。すなわち、この日が取得時効の起算点となる。任天堂はなおも所有権に基づく物権返還請求権により、試作機の返還占有者に求めることができる。
  4. 時効により、2015年11月23日に試作機の占有者はその所有権を取得する(162条)。その反射的効果として任天堂は同所有権を失い、試作機を返還させる法的根拠を全て失う。
取得時効の起算点

占有者の所有の意思自主占有はいつ発生するか。この発生時期が取得時効の起算点になるため重要である

試作機の使用貸借の終了により代理占有関係消滅しても、任天堂は試作機をなおも代理占有し続ける(204条第2項)。他方で学説は、占有代理人に「自己のためにする意思」も存在するときは、占有代理人において他主占有に加えて自主占有も併存しうるという(潮見佳男 民法(全)(第2版)(pp.245-246))。これに合わせて、所有の意思の有無は、占有取得の原因となった客観的事実占有権原の性質から外形的に判断される(最判昭45.6.18)という判例理論考慮すると、試作機返還債権消滅という占有権原の性質の変化から占有代理人には他主占有に加えて自主占有も併存し、この債権消滅日を取得時効の起算点と自分結論した。

しかしこの結論私見に過ぎず、本当に正しいかは自信がない。

追記

 ブックマークコメントの指摘の通り、所有の意思占有取得の原因となった客観的事実占有権原の性質から外形的に判断されるならば、試作機返還債権時効消滅しても占有取得の原因となった客観的事実は変わらないのだから、引き続き占有代理人には所有の意思なしと考えるべきかもしれない。

 しかしその場合占有権原(使用貸借契約)に起因する債権(試作機返還債権)が全て消滅時効にかかってもなお任天堂永遠に代理占有し続けうるということを意味し、法的な不安定性を社会にもたらしうると思う。別の解釈として、試作機返還債権を本人(任天堂)が行使せずに時効により消滅させたことを、黙示に代理人に占有をさせる意思放棄(204条第1項第1号)したと位置付け、任天堂代理占有消滅占有代理から他主占有消滅した、こういった具合に法律構成することができるかもしれない。但し、ざっと調べた限りこれを支持する判例学説は見つけられなかった。

もっとも、オークション売主の言動を見る限り、ゲーム開発会社に勤めていた父親退職の記念に持ち帰った試作機を相続により承継した子息が売りに出した、こういった経緯が目に浮かぶ。この場合退職により父親が持ち帰った日にゲーム開発会社占有代理人)は占有物の所持を失うことになり、任天堂代理占有消滅する(204条第1項第3号)ので、退職日が取得時効の起算点になるだろう。また、ゲーム開発会社解散して試作機が外部に流出した場合は、同様の理由でその流出日が取得時効の起算点になるだろう。いずれにしても、取得時効の起算点は1995年11月22日よりさらに遡る可能性が高い。

クルトレの所有権マクドナルドが失う時期(追記)

この少し前に話題になった、日本マクドナルドの社内研修ニンテンドーDSソフトの「クルトレ eCDP」について、同社が所有権を失うのはいつか。以下に示すように、遅くとも2039年頃にはマクドナルドはクルトレの所有権を失うだろう。

まず、スーファミ試作機の考察から取得時効の起算点の特定のために、占有者の所有意思の推定(186条)を所有者が覆せなくなる日はいつかが重要になる。その日は、フランチャイズからクルトレが外部に流出マクドナルド代理占有を失った(204条第1項第3号)日になるだろう。この日からクルトレ占有者の所有意思の推定(186条)をマクドナルド代理占有根拠に覆せなくなり、取得時効が起算される(162条)。

クルトレが外部に流出した日はいつかはケースバイケースであろうが、報道によるとマクドナルド2018年までクルトレを研修使用していたとのことなので(ttps://www.j-cast.com/2024/03/27480390.html)、遅くともその翌年の2019年に外部流出したと仮定してよいだろう。

すると2019年20年後2039年取得時効か成立し(162条)、クルトレの占有者正式所有権を取得する。その反射的効果としてマクドナルドは同所有権を失う。

参考条文

民法

使用貸借

第593条 使用貸借は、当事者の一方がある物を引き渡すことを約し、相手方がその受け取った物について無償使用及び収益をして契約が終了したとき返還をすることを約することによって、その効力を生ずる。

占有性質の変更)

第185条 権原の性質占有者に所有の意思がないものとされる場合には、その占有者が、自己占有をさせた者に対して所有の意思があることを表示し、又は新たな権原により更に所有の意思をもって占有を始めるのでなければ、占有性質は、変わらない。

(期間満了等による使用貸借の終了)

第597条 当事者使用貸借の期間を定めたときは、使用貸借は、その期間が満了することによって終了する。

2 当事者使用貸借の期間を定めなかった場合において、使用及び収益目的を定めたときは、使用貸借は、借主がその目的に従い使用及び収益を終えることによって終了する。

以下略

債権等の消滅時効

第166条 債権は、次に掲げる場合には、時効によって消滅する。

一 債権者が権利行使することができることを知った時から五年間行使しないとき

以下略

占有態様等に関する推定

第186条 占有者は、所有の意思をもって、善意で、平穏に、かつ、公然占有をするもの推定する。

2 前後の両時点において占有をした証拠があるときは、占有は、その間継続したもの推定する。

代理占有権の消滅事由

第204条 代理人によって占有をする場合には、占有権は、次に掲げる事由によって消滅する。

一 本人が代理人に占有をさせる意思放棄したこと

二 代理人が本人に対して以後自己又は第三者のために占有物を所持する意思を表示したこと

三 代理人が占有物の所持を失ったこと。

2 占有権は、代理権の消滅のみによっては、消滅しない。

所有権取得時効

第162条 二十年間、所有の意思をもって、平穏に、かつ、公然他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。

以下略

anond:20240509082109

謎の妄想ポエムwww

無知の精一杯の虚勢と強がりで草

ちょっと本読んだだけの素人が口出せる分野なんてないよ?

まともな体系的知識もないのにちょっと本読んだだけで知った気になっちゃってるけど、ちゃんとした専門家が周りにいないか素人無知という客観的なお前の立ち位置理解できないんだろうな

2024-05-08

とりあえず前向きにやっていくしかない

新卒。今まで彼女いたことがない。むろん童貞

独り暮らししているとやっぱり寂しい。ハグしたりして安心できる相手が欲しい。

女子キモがられていじめられた中学時代は、異性と話すことすら恐ろしかった。高校大学は良い友人に恵まれだいぶ良くなったが、相手の深い所に触れていくようなコミュニケーションはできなかった。

本当は彼女が欲しいし結婚したいくせに、自分なんかがそう思うことは恥ずかしいことだと思っていた。まわりの同期は当たり前のように彼女がいる話を耳にして、そうでない自分には欠陥があるよう感じたこともあった。

だが、現状を維持した場合未来想像したとき、よほど運が良くない限り、何も起きないし変わらないことが想像できた。

そこで、とりあえず、ハグしたりセックスできるいとおしい異性がいて、愛情を感じることができて、とても落ち着け状態になりたい。まずは、それを正直に認めることにした。そうしなければ、何も変わらないと思った。

ただし、いくつかの趣味を続けられることが条件だ。ずっと長い間のめり込み続けている趣味がない人生など、考えられない。趣味を諦めねば彼女を作ったり結婚できないのであれば、潔く諦め寂しさは我慢する覚悟を持とうと決めた。

私が入社した会社には、伝統的な問題解決手法がある(研修でやらされた)。この方法では、まず「あるべき姿」と「現状」の間にあるギャップを考える。いとおしく安心できる関係の異性がおり、趣味と両立できることが、あるべき姿。趣味は満足だがそういう関係にある異性が居ないことが現状であり、理想とのギャップである

あとは問題点を具体的に特定し、目標達成時期を決め、なぜなぜ分析して対策を取っていくだけだ。えらく不器用堅苦しいやり方だと私でも思うが、こうでもしない限りダラダラと意味のない時間が過ぎるだけだ。今までがそうだった。今までと違うやり方であれば何でも良いのかも知れないが、恋愛など全く分からないので、客観的に考えられる手法の方が良い。

とりあえず前向きにやっていくしかない。

新入社員低学歴化が止まらない

こういうのって上位10%や下位10%くらいの企業あんまり変わってなくて、うちみたいな業界でも準大手くらいのとこが顕著なのかも。

10年前くらいに下がって、最近さらに下がったといえばいいのか。

自分は人事じゃないけど、若い頃は出身研究室まわってリクルート活動するくらいには修士以上の採用積極的だった。

そのかいあってか近い世代だと地方国立理系修士以上ばかりだった。

それが今年は修士は一人、出身大学地方国立理系が2人いるくらいで偏差値も低め。

その一人の修士名工大で、それでもここ数年では快挙と言われているくらい採用できていない。

高専生を青田刈りする方が良いのでは?みたいなことを思うくらいにキツイ

系列大学高専持ってる企業先見の明があったよね、最低限の質を担保できる。

更に言うと、そういう新入社員賃金差が縮まってるのもキツイ

長年勤めても報われないか新入社員採用にも苦労してるとまで言うと我田引水が過ぎるかもしれないけど、

賃金カーブの調整といって上はそのままで底上げしても先を考えられる人は入らないと思うよ。

今の旧帝の理系修士生涯賃金どれくらい違うのだろう。

客観的に見ればそれなりに貰えているはずだけど、比べてしまうと本当にキツイ

anond:20240508164225

ながい!

例の如くサンキューGemini

==================

## 独身子供に慕われる「おもしろおじさん・おばさん」になるための難しさ

1. なぜ「おもしろおじさん・おばさん」になりたいのか?

2. 「おもしろおじさん・おばさん」になるために必要な条件

3. 「おもしろおじさん・おばさん」になるための具体的な方法

4. 「おもしろおじさん・おばさん」になるための覚悟

5. まとめ

おもしろおじさん・おばさん」になるのは、想像以上に難しく、努力と忍耐が必要

しかし、子供に慕われ、社会の無害なアウトサイダーとして活躍できるのは、大きな喜びと言えるでしょう。

増田で何度か大炎上した経験から増田で知性のカケラも感じさせずブチギレてる人たちを分析してみると、いろんな話を

真実客観的に認められた事実主観的事実、伝聞、ポリコレお気持ち表明、願望、

くらいのざっくりしたレベルにすらうまく分類できてない気がするんだよな

事実気持ちで殴りかかってきたり、願望的なお気持ち表明に対して誰もが知ってて前提にしてる事実ドヤ顔披露してきたり

同じ日本語を使っているか言葉が通じるように錯覚してるけど全然通じていないことも多い

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん