はてなキーワード: 実像とは
https://www.youtube.com/watch?v=kf_VIbe6yZw
↑これを見てもそう言えるか?
前半は露出少ないが後半以降にブラトップ的な衣装や脇や背中を大胆に見せたイラストも使ってるし全体的に官能的な美を演出してる。
この頃はまだ萌え絵の概念なかったが時代は違えど現代的なイラストによるエポックメイキング的CMだよ。
これがクレーム受けたという話は聞いたことないし当時幅広い年代の女性に人気があった。
ちなみに作者は男性。
服飾品だけでなく実体のある商品全般に言えることだが宣伝において物を売るなら商品そのものの写真や画像が重要。
イラストを使う場合、サービスやブランドイメージの場合が多く具体的な商品の宣伝には向かない。
ユニクロのブラトップの場合、着用時の素肌感や素材の質感やフォルムのピタッとした表現が第一に求められるものでイラストではなく写真や動画が最適解。
増田がユニクロのエロいと思ってる表現は二次的なものでターゲット層の女性にはエロいものとして認識されないし実際そういう手法と演出で撮影されてる。
女性のあるがままの姿を肯定的に扱うこともフェミニズムの一面なので。
増田が個人的にユニクロCMエロいけしからんと思うなら燃やすなりクレーム入れるなりすればいい、それだけの話。
だが個人で感じ方が違うように男性と女性ではエロ表現への受け取り方は違うのでこっちの方がエロいのになんでセーフなんだと問うことにはあまり意味はない。
女性にはなんてことない下着や生理用品のCMでも男性にとっては十分ズリネタになってしまう場合もあるだろう、でもそれは単なる結果論だ。
それらは女性に向けて機能性や装飾美を謳ったもので日用品や生活必需品で男性のズリネタにするためのものじゃないんだ。
ズリネタはズリネタでしかるべきところに用意されてるんだからそちらで用を足せばよかろうに。
アツギのタイツの件はそういう目的と手段を取り違えてしまったところにも原因があったんじゃないか?
本来は顧客に商品を伝える手段であったはずのイラストや絵師やタイツ絵が目的になってしまっていた感がある。
顧客を置き去りにして。
前述のようにイラストで伝わりやすいのはイメージであって実像ではない。割とふんわりとしてる。
それがただ単にアツギのブランドイメージにマッチしなかっただけ。
イラスト使うなら絵師でなくそれなりに名前の売れたちゃんとした評価のファッション系やデザイン系のイラストレーターを使うべきだった。
以前アート系とコラボした企画のポシャった萌え絵師のボツ絵も見たことあるんだが正直萌え絵はああいう絵と比べて絵的に見劣りしてしまうんだわ。
自分自身その萌え絵師好きだったんだが正直いくら好きでも使いどころ間違うと悲劇にしかならんなというのがその時の感想。
一般的なアート作品やイラストと萌え絵は今のところ刺さる層が違うので適材適所誤らず使いどころが大事。
増田は主体のあるなしに重きを置くようだがタレントだろうと絵師だろうと企業CMなんて依頼企業という主体の入れ物でしかない。
すぐバレる嘘を平然とついて、嘘だとバレても開き直ることを
これから先も求められ続ける
綺麗ごと言ってたのが虚像で、すぐバレる嘘を平然とついて、嘘だとバレても開き直るほうが実像である可能性を考慮しない心のきれいな増田。
安倍政権は確かに日本の民主主義やシステムの根幹を食い荒らした。だがそれは、全て「安倍政権を存続させるためには必要な犠牲」だった。この7年半、政官財こぞって「安倍政権を存続させるため」に一致して、他のあらゆる犠牲に目をつぶってきた。これは、安倍晋三個人と言う矮小な存在の為しうることではない。これは、集団的、無意識な組織的犯罪なのである。
では、なぜ彼らはかように凡庸な才の人間を必死になって支え続けたのか?
他のどの時代でも、こんなことはあり得なかったと思う。実際、最初に彼が政権を握ったとき、自民党への信頼は大きく傾き、人々には政権にNOを突き付けるだけの理性があった。二度目の政権、安倍が周到に用意をしてきたと評する人も多いが、お友達優遇で、偉そうなことを言う割には国家観もビジョンもなく、肝心な時には判断できず、取り巻きが失言やおそまつな対応で足をすくわれ死んだりする。何一つ変わっていない。変わったのは、それらを覆い隠して守ろうとした「世間」の方だ。
この7年半、すでに壊れかけていた日本は、やはり更に大きく壊れた。たとえばコロナ下で、防疫の基本中の基本であるデータがまともに取られていないことが判明したが、専門家をまともに活用できず、役に立たないマスクの配布に大量の金と人をつぎ込むようなこの政権下では、予測できることだった。少子化は進行し、二極化は進み、文化や社会を支えてきた「豊かな中間層」は死滅した。セーフティネットも、安定雇用もない社会に、「良識」の居場所は消えた。「復興は成し遂げた、事態はアンダーコントロール」とのまやかしの下に、復興予算は横流しされ、五輪というお祭り騒ぎに投入された。意見のできるまともな「官僚」は、自らの立場を去るか、命を落とした。
いま、私たちが生きている「令和の日本」の、それが実像である。
そして、この間、政権はひたすら「事実を取り繕う」ことに力を尽くした。きわめて凡庸な才の首相を掲げる彼らは、「事実を取り繕う」スペシャリストだった。この7年半、何度奇妙な「閣議決定」を我々は見せられたことだろう! あたかも小説「1984」における「真理省(政府の決定が真理である、と全ての過去の記録を改ざんして取り繕う省庁)」さながらだった。それも「安倍政権を守るため」だ。そのために、彼らは憲法解釈すら捻じ曲げた。なぜそんなことを? ……それは、事実を直視できなかったからだ、と私は思う。
安倍晋三を評するもっとも的確なワードは、しばしば政権を擁護するアンケートで聞かれた「ほかの人よりよさそう」という言葉だ。「よい」ではない。「よさそう」なのだ。安倍晋三は、他の人よりなんとなくよさそうだと思わせることに長けた人だった。それは、経済政策と人口政策の停滞・失敗で20年近い時間を無駄にした日本を、更に大震災、原発事故が襲って、もはや手の付けようがないと思われた時代に、人々を安心させるために必要な「モルヒネ」だった。「モルヒネ」は患者を麻痺させるだけで、基本的には病を治しはしない。だが、それほど危機的状況でもあったのだ。
思えば、なんとよくできた「モルヒネ」であったろう。右側からの追及には、いかにも保守じみた言動(だが彼は一度も8/15靖国参拝は行わなかった)、憲法改正の掛け声(7年半かけてできなかったということは、端的に言ってやる気がなかったのだ)でかわし、左側からの追及には、経済政策と厚顔さで対応した。あの厚顔なスマイルで「問題ない」「大丈夫」と言えば、私のようなヒネクレ者ではないまともな神経の人なら、一応「信じてみてもいいんじゃね?」と思うだろう。そして、この社会状況の中なら「思いたい」だろう。
もちろん「モルヒネ」は、それが効いている間に大手術をするためには、絶対必要だ。だから、安倍政権を支えた人が全て悪意100%でそれを行ったとは思わない。むしろ多くの人は、その根治的な大手術を成功させるために、安倍晋三という「モルヒネ」を利用しようという、善意でそれを行ったのではないかと推測する。だが、地球規模の気候変動と相次ぐ天災、消費税増税圧力、そして今回の世界的疫病の流行で、モルヒネの効果にも限界がきたようだ。
いま、我々の前に横たわっているのは、根治的治療も進まないうちに、手術中に次々とトラブルが発生し、かつモルヒネも限界量まで投与してしまった患者の体だ。安倍晋三は確かに何もしなかった。だが、7年半という時間を稼いだのは事実だ。その間に十分なことができず、時間切れを迎えてしまったのは我々だ。一人安倍晋三を責めても仕方ない。モルヒネの意志を論じたり、それが人体に多少の悪影響があったなどという議論をしても、正直意味がない、と私は思う。モルヒネはモルヒネだ。肝心なのは、モルヒネの効力にも限界がきたということ、そして、積み残した問題はどれ一つとして片ついていないということだ。
それでもこの日本という患者を生き延びさせようとするなら、もはや巨大な痛みに耐えながら手術を続行するか、無意味にモルヒネだけを乱打して死を待つか、それとも全く新しいイノベーションという奇跡にかけるか、しかない。少なくとも、次期総理が「安倍路線の継承」などと言い出したら、そんな政権は半年保たない。それぐらい待ったなしな状況ではある。
こんな時代に、泥をかぶる次の政権に同情する。だが、重ねて言えば、日本がそもそもこうなっているのは、別に安倍晋三一人の罪ではない。彼を支えてきた全ての人の罪だ。モルヒネが効いていた魔法の時間は終わり、いま、現実に向き合う時がきた。それは困難な時代だが、いつまでもこの事態に「安倍のせいだ」を叫んでも、これまたモルヒネ頼りに変わりはあるまい。そんな時間はなるべく少なくした方がいい、と私は思う。それよりも、「安倍がモルヒネであったこと」と「モルヒネが必要とされた状況」を認めた上で「モルヒネなしで今後どうするか」についての建設的議論を始めよう。今後、生き延びていくためには、その認識が早急に必要なのではないかと思う。
逆だよね。
フィクションを変えるためにはまず社会を変えなくちゃいけない。
体重計の数値がやばい数値を叩き出してるからって、メモリをいじっても意味がない。
あれって、「現実をまず変える」ことよりも、フィクションという鏡を変更したいと思ってるんだよね。
でもフィクションで、黒人役を増やすだけで「一応やってますよ」というポーズにはなる。
しかしそれだけ。結果としては何も変わってない。ごまかしなんだよね。アメリカ。そのごまかしの積み重ねがポリコレ。
今までポリコレを積み上げてきたけれど、結局差別は残ってる。鏡に書き込みを増やしても、実像は変わらない。
あたりまえのことがあたりまえに起きてる。
削除されたamazonレビューの供養として140字制限のあるSNSで以下を画像で投稿したら、思わぬ反響とともにテキストにしてほしいとの要望も一部頂いたので、増田の使い方として正しいのかよく分からないが、とりあえず貼り付ける。
投稿した画像の文章(=amazonに投稿した内容)からタイポ1か所とamazonの規約に引っかかったのではないかと思われる1か所の2点のみ修正してある。
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本文:
まだ半分ほどしか読んでいないので追ってこのレビューは修正する必要があるが,小池百合子の虚飾を良く暴いたという絶賛レビューしかないことに違和感を感じる。この本の記述をそのまま受け取っていいものだろうか。
この本の記述が確かなら,小池百合子は芦屋とは名ばかり(とまではいかないかもしれないが)の中流より少し上の家に生まれ,周囲のお嬢様との格差や才色兼備のいとこと何かと比較されることにコンプレックスを抱え,ほら吹きで政治に散財する控えめにいってもクズな父親の趣味で1970年代のカイロに19歳の少女の身空で体一つで放り込まれたことになる。
そこから(著者によれば)アラビア語も全くできない中で,自分の外見と若さだけで周囲の駐在日本人を誑し込んで人脈を作り,カイロ大学首席卒業という大法螺ひとつで日本社会に自分を売り込み,首脳夫人の通訳,番組アシスタント,ワールドビジネスサテライトキャスター,政治家への転身を決め,閣僚,都知事まで上り詰めた。小池には何ら専門知識がなく,頼みの学歴すら嘘であるというなら,むしろ恵まれているとは言えないスタート地点から自分の強烈な上昇志向だけでここまで上り詰める才覚は凄まじすぎる。よって立つものがないから法螺で戦ったのであれば,そのクソ度胸は同じ人類とは思えない。
小沢一郎から「ゲッベルスになれる」と称賛?された小池のPR能力について著者は所詮お飾りといったような評価で冷淡だが,クールビズは実際定着したし,最近では「密」など,天然ボケ的なセンスかと思われたPRが,〇〇〇〇〇である彼女の冷静な計算に基づいていたものだったのであれば驚嘆するしかない。著者はこれをテレビ的センスと片付けるが,テレビ界で数年アシスタント,キャスターを務めただけの小池一人で電通,博報堂と肩を並べる力がある。
田島陽子などの声を取り上げて,小池は他の女性政治家と違う名誉男性であるかのような言い振りをするのもフェアではない。そういう同調圧力が女性の進出を阻む最たるものなんではないだろうか。この本では,(少なくとも自分が読み進めた半分くらいのところまでは)小池がチャンスをつかむたびに,その理由は周囲の男性を誑し込んだから,ということで片づけているし,それ本当かなーという気がしてくる。
また,震災被災者の陳情をマニキュアを塗りながら聞き,塗り終わったらから帰れ,自分はもう選挙区変えたと言い放つ場面は,その是非はともかく,事実なら小池が並みの政治家とは一線を画す存在であることを浮き彫りにする。こんなの表に出た瞬間政治生命が終了する話であって,そういった態度を政治家が本当にとれるものなんだろうか。地盤のない小池にとっては評判が命だと思うのだが。
正直,著者の描写する小池が凄すぎて,著者の描写も一面だけを捉えた虚像なのではないかという気がしてくる。こうした悪評をすべて小池が権力で抑え込んでいるというなら,小池の権力は総理大臣をはるかに超えているんではないだろうか。証言者もナミレイの朝堂院とか,小池に劣らず胡散臭かったりする点も気になる(これはそもそも小池家が胡散臭いことをやっていたことにも起因するんだろうが)。
また,もしこれが小池の実像であれば,むしろ僕は小池が凄すぎてその評価を上方向に改めなければならないし,その立身出世物語は痛快な小説を読んでいるかのよう。小池が豊洲で無駄にした120億円を使ってこれを本人主演の映画にすれば,日本映画史に残る名作になると思うので,ぜひ小池にはスクリーンで注目を浴びてもらって,政治の世界からは永遠に離れて頂きたい。
6月9日追記-----------------------------------------------------------
最後まで読了したが,途中まで読んだ違和感は強まるばかりだった。著者は小池のなすことすべてにケチをつけずにはいられないようで,例えば著者は核兵器の使用の違法性についての小池の答えを自分の意見がないと批判的に述べつつ,テロ特措法の延長を努力すると述べたことについては「国内で審議も経ていないのに防衛大臣が早々に自分の考えを明かしてしまう」などと批判する。結局自分の考えを言えばいいのか言っちゃだめなのか。当然ながら防衛大臣が核兵器の合法性について突飛な持論を展開したら大問題だし,逆に担当閣僚が法案の成立に努力することを述べるのは普通のこと。もはや小池憎けりゃ何とやらの世界。おかしいのここだけではなく,後半に入るにつれてこうした強引な記述が各所に目立つようになる。多すぎてここには書けないが,終盤は一事が万事この調子。また,丸川珠代の主張はともかく,「日本人で良かった」というキャッチコピーだけで「人種差別的」と断じてしまう著者の姿勢は客観的とは言えないだろう。
本書を書くことで著者は身の危険すら感じているようだが,小池と裏社会のつながりが明かされるわけでもなく,小池の秘書の怪しげな不動産取引を指摘するだけ(その内容は新潮が報じたものの枠をでるわけでもない)。日本のODAが入っているからエジプトは小池の言いなりのような主張もエジプト舐めすぎ。日本より多くのODAをエジプトに出してるドイツ,フランスはもっとやりたい放題なんだろうか。
こう考えていくと,著者のインタビュー相手が一様に口が重いのも,小池が理由なのかも怪しくなってくる。いずれにせよ,小池という一級の面白材料を調理するのには著者の力量が足りてないのは間違いない。
何も分かってない。世界は広いが、お前の関わることが出来るのはお前が手を伸ばして触れられる範囲にしかないんだよ。
分かるか?お前がどんなに金を持っていても、地位や名誉があろうとも、肉体の檻から出られない。本当の意味でお前が関われるのはお前が見える範囲だけだ、手を伸ばして触れられる範囲だけだ。
だから、この文章だって虚像だ。書いてる瞬間に色あせていく偽物だよ。
女も金も社会によってもたらされた意味のないラベルだ。この文章と同じだよ、偽物で、虚像だ。
お前らはそういう偽物を使って、無意味な虚像を使って救済出来ると本当に思ってるから、俺の虚像を本物だと考えてる。こんな物文字の羅列でそこに俺はいない。
お前らは虚像すらまともに捉えられていない。それなのに実像である俺を救えると勘違いしてる。
俺の税金を使って誰かが虚像の救済を得たとして、それは全く俺の範疇外の話だ。
お前が言ってるのは、空に浮かぶ雲を、俺が吐いた息で出来ているのだから自分の物だ、と言ってるようなものだよ。
俺のついた溜息で起きたハリケーンが大量の人を殺してもそれは俺の範疇外だし、俺の収めた税金がどうなろうと俺の範疇外だ。
結局お前は何も見ていないから、そんなことを言うんだ。こうして書いてる文章もやっぱり偽物だ。俺にはお前が見えないし、お前も俺が見えない。
なんか知らんけどこの手の高校を「ザ・健全!人間力最強の主人公養成所」みたいに思ってる奴結構いるよな?
かくいう俺の高校はまさにこんな感じの校風の進学校で地元県の誇りみたいに見なされてたけど、ぶっちゃけると都会の伝統私立がドン引きするほどの管理教育やってたぞ。
なんでか自己を強く持ち、多様性を重んじる生徒が多いってことになってるけど全然そんなふうには思えなかったね。
例えば、将来日本画で食うんだってことで東京芸大一本で目指す奴は周りの同級生から応援されてたけど、大学受験せずに高校卒業したらラジオ局でバイトしながら放送作家の夢を目指すって奴は「あいつ終わったな笑」と冷ややかな目で見られてた。
他人に舐められないようにみんな死に物狂い。
それに伴って、隙あらば他人を舐めようとみんな死に物狂い。
気が弱そうな奴を第一印象で看破する能力と失笑しながら嘲笑するスキルは簿記1級以上に有用で重要。
「誰もお前のことなど興味ない」で相手を適宜黙らせてその裏では中傷三昧。
「お前そういうのほんとに社会人として良くないと思うよ?(迫真)」
場の空気掌握するためならどのツラ下げて言うんだ的なカマトトぶった芝居も平気でやるから開いた口が塞がらない。
たかが生涯賃金5億以下なのに悪魔に魂売った悪漢小説の主人公にでもなった気でいるバカ。
パワハラ野郎も憎いが、そんな奴を見初めた嫁やそんな奴を慕ってる子供をなぶり殺しにしたくなる。
家族はそいつに親愛抱いてるんやろうなあって思うともう頭おかしくなるくらい腹立つ。
パワハラ野郎の目の前でそいつの嫁やガキがISISにやられたパイロットみたいな死に方するとこ想像して溜飲下げてるわ。
本人には悲劇の主人公的自己陶酔モードに逃げるのも無理なくらい憔悴して欲しい。
畜生なのに家族の絆が強い奴ほんま苦しみぬいて死んで欲しいわ。
お天道様は見ている!←この格言で言われてるようなメカニズムが現実世界では機能してないことが許せない。
ややもすると暴力的で悪辣だと見なされやすい俺のこういう考え方が道徳の範疇に入るようになったら優しい世界になると思うわ。
ガキも恋人も親も一蓮托生ってなったら安全圏ってたか括ってモラハラするのも相当勇気いるだろ。
パワハラ畜生野郎が悪意とマウンティング100%の泥沼みたいな人間性丸出しの実像ならまだ筋が通ってるんだけど、状況によっては恩人愛とか特定人物への感謝をしみじみと語ったりするから腹立って仕方ない。
『どんな事情があろうと「家族はNG」』みたいな暗黙の了解はもう消えたほうが世の中にとっていいと思うんだけどなあ。
パワハラ野郎の親もとんでもない悪人で、長年の抑圧の果てに畜生っぷりが遺伝しちゃってるとかの経緯があるならまだ納得できるんだけど、ちゃんと「この前初めて親父とさしで飲んだわ♪」とかヒューメインっぽいことを照れ臭そうに言ったりする時あるからほんとに頭カーッとなるわ。
あと、『陰湿野郎が野放しなのは不条理だ!』的な不満を表明したその瞬間から、悪人本人のことは完全に放置で、もっぱらそういう嘆きや指摘をした人間の甲斐性についての猛烈な説教始まるってのが一般的なのが不思議。
「ド畜生でも嫁とガキと親は絶対安全圏」ってのが一般社会で当然なのは悪影響大きいよなあやっぱり。
もっと生まれながらに人質リスクがハンパないか、あるいは弱い立場になって欲しいわ。
少なくとも刑法に問われないことをいいことに好き勝手行われてる抑圧や暴力や侮辱は今より激減するだろなあ。最高。
嫁、ガキ、親、親友を大切に思うならモラハラやパワハラやマウンティングやめないとな。
そいつの嫁や子供にシャブを無理矢理打つとか、そいつの先祖の骨壷にウンコぶちまけるとか、もうこんな思いするくらいなら自殺する以外ありえない!ってくらいの追い込み方が事情によっては罪に問われない世の中になってほしい。
令和時代は自分が誰かを抑圧したせいで自分の嫁やガキを平気でなぶり殺しにされるというリスクが当然になる時代になって欲しい。そういう危機意識こそが善を手繰り寄せるのだから。
「キモくて金のないおっさん」の「理解」に資する描写がある漫画、で最初に連想したのは「キーチVS」や「愛しのアイリーン」などの新井英樹作品。
あるいは後期「大市民」。
(うろ覚えだけど)小田原ドラゴンの「おやすみなさい」や「チェリーナイツ」あたりも良さそう。
逆に「どんな漫画なら無い」のか気になるぐらい、いろんな漫画があるなあ、と最近は思っている。
何年か前に韓国旅行行ったときに本屋によったら「兵役あるある」のエッセイ漫画を見つけて買ったんだけど、字が読めなくても絵だけで面白かったよ。
ところでここでいう「理解」は「作品内の描写が実像に近く真に迫っている」ってことだとみなして返答したんだけど、もしズレていたらごめんね。
都内の中高一貫の男子校から東大だから、地元ではエリート扱いされるけど全然違うってことを理解してもらえないのが辛い。御三家ではないから、特に開成あたりと比べて学内の同級生が桁違いに少ない。彼らのコネはエグい。
でも開成以上に存在感のあるのが灘。奴らは本当に頭がいい。可もなく不可もなくといった僕と違って、彼らはマジで優秀すぎる。家柄も良いのが多くて、芦屋在住で兄弟一家揃って東大とか、珍しくない。ウチは公務員なのに。
さらにその優秀な中からバチバチに優秀なのが医学部の奴らで、僕が相当努力してたどり着いたラインを軽々と越えていくし、法学部も経済学部も、とにかくありとあらゆる場所に凄まじい人間がゴロゴロ潜んでる。
だから世間の目と自分の実像が全然違うんだ。僕はエリートじゃないし、そもそもエリートなら国側で働いてるって。民間だもん。
そういう感覚を持ち続けて27になった。
就職前俺「社会人の世界は中高生的な陰湿さとは無縁なんだろなあ。みんな大人だし♪」→結果
他人に舐められないようにみんな死に物狂い。
それに伴って、隙あらば他人を舐めようとみんな死に物狂い。
気が弱そうな奴を第一印象で看破する能力と失笑しながら嘲笑するスキルは簿記1級以上に有用で重要。
「誰もお前のことなど興味ない」で相手を適宜黙らせてその裏では中傷三昧。
「お前そういうのほんとに社会人として良くないと思うよ?(迫真)」
場の空気掌握するためならどのツラ下げて言うんだ的なカマトトぶった芝居も平気でやるから開いた口が塞がらない。
たかが生涯賃金5億以下なのに悪魔に魂売った悪漢小説の主人公にでもなった気でいるバカ。
パワハラ野郎本人よりもまずそんな奴を見初めた嫁やそんな奴を慕ってる子供をなぶり殺しにしたくなる。
家族はそいつに親愛抱いてるんやろうなあって思うともう頭おかしくなるくらい腹立つ。
パワハラ野郎の目の前でそいつの嫁やガキがISISにやられたパイロットみたいな死に方するとこ想像して溜飲下げてるわ。
本人には悲劇の主人公的自己陶酔モードに逃げるのも無理なくらい憔悴して欲しい。
畜生なのに家族の絆が強い奴ほんま苦しみぬいて死んで欲しいわ。
お天道様は見ている!←この格言で言われてるようなメカニズムが現実世界では機能してないことが許せない。
ややもすると暴力的で悪辣だと見なされやすい俺のこういう考え方が道徳の範疇に入るようになったら優しい世界になると思うわ。
ガキも恋人も親も一蓮托生ってなったら安全圏ってたか括ってモラハラするのも相当勇気いるだろ。
パワハラ畜生野郎が悪意とマウンティング100%の泥沼みたいな人間性丸出しの実像ならまだ筋が通ってるんだけど、状況によっては恩人愛とか特定人物への感謝をしみじみと語ったりするから腹立って仕方ない。
『どんな事情があろうと「家族はNG」』みたいな暗黙の了解はもう消えたほうが世の中にとっていいと思うんだけどなあ。
パワハラ野郎の親もとんでもない悪人で、長年の抑圧の果てに畜生っぷりが遺伝しちゃってるとかの経緯があるならまだ納得できるんだけど、ちゃんと「この前初めて親父とさしで飲んだわ♪」とかヒューメインっぽいことを照れ臭そうに言ったりする時あるからほんとに頭カーッとなるわ。
あと、『陰湿野郎が野放しなのは不条理だ!』的な不満を表明したその瞬間から、悪人本人のことは完全に放置で、もっぱらそういう嘆きや指摘をした人間の甲斐性についての猛烈な説教始まるってのが一般的なのが不思議。
「ド畜生でも嫁とガキと親は絶対安全圏」ってのが一般社会で当然なのは悪影響大きいよなあやっぱり。
もっと生まれながらに人質リスクがハンパないか、あるいは弱い立場になって欲しいわ。
少なくとも刑法に問われないことをいいことに好き勝手行われてる抑圧や暴力や侮辱は今より激減するだろなあ。最高。
嫁、ガキ、親、親友を大切に思うならモラハラやパワハラやマウンティングやめないとな。
そいつの嫁や子供にシャブを無理矢理打つとか、そいつの先祖の骨壷にウンコぶちまけるとか、もうこんな思いするくらいなら自殺する以外ありえない!ってくらいの追い込み方が事情によっては罪に問われない世の中になってほしい。
そのとらえどころのないフェミを捕まえることができる実像としてでてきた石川さんを女性の世界の代表よろしく対談と決め込んで
自陣のオーディエンスに囲まれて喋る相手が扇動して行動に規律をもたせる様子はもう獣の檻に入れられた草食動物と同じでしょう。
一個人としてなのか代表としてなのか、そして相手に干渉する規模はどのようなものなのか、それを闇雲に「対談」という「リアル」
に持ち出したことが有意義かのように言われて、実質「事務所こいや。話があるで。」状態である公開セクハラに何の意味があったのでしょうか。
それどのフェミにいってるんですか。
フェミは個で衆を語ってきますが、いざその衆を群という個で扱うと、1という個で話をしはじめます。
そのとらえどころのないフェミを捕まえることができる実像としてでてきた石川さんを女性の世界の代表よろしく対談と決め込んで
自陣のオーディエンスに囲まれて喋る相手が扇動して行動に規律をもたせる様子はもう獣の檻に入れられた草食動物と同じでしょう。
一個人としてなのか代表としてなのか、そして相手に干渉する規模はどのようなものなのか、それを闇雲に「対談」という「リアル」
に持ち出したことが有意義かのように言われて、実質「事務所こいや。話があるで。」状態である公開セクハラに何の意味があったのでしょうか。
差別とは何か、ご相談されているかのようなつぶやきをしたことが何か新しい論の礎となりましたか?
フェミニズムについて男性からみればどちらも性的に消費できてありがたい以外のことが語られましたか?
そのうえで、男性はべつに女性が何を着ていようが、むしろ裸でもいいんじゃね状態でまるで「ここで脱げ」のように「ようこそいらっしゃいました」で締めるなど
たしかに語るに衆となり、指摘されると個になる霧のようなフェミに四苦八苦されているとは思いますが、それくらいは智を以て語りで形になすことができると見込んでの対談だったのではないのでしょうか。
だったのではないのは明白な事実となってしまったので、女性をポリコレに近い「一部の常識」で囲んで殴るという見世物小屋興行としておわり、これからもいろんな女性を危うい所で脅かしていくつもりなのは非常に残念でしかありません。
要するに個となった女性が個人の事実において感傷的になると手が出せないということを卑怯だという代わりに対等だという理由をつけて倒れさせないように殴る方法を見つけてしばらくはこの快楽にふけるつもりなのだと思いますが、それで女性が権利を主張する強さをもてばいいと言葉面は良い言い方で言葉で遊ぶわけですね。
多様性つったって、所詮上澄みだけ見て都合よくありがたがってるだけじゃんあんなん
いいとこだけ取り上げればラグビーだって駅伝だってそりゃなんとでも言える
今この国が欲しがってるのも、その結果関わりを持つことになるのも、せいぜい数十人の代表選手じゃなくて、どうせ圧倒的大多数は単なる低賃金の労働者なわけじゃん
チームとしてのまとまりなんか関係ないし、日本やその伝統に対するリスペクトなんか当然期待できるわけがない
実像と全然違うものを「これが多様性だ! これが日本の未来像なんだ!」とか適当言わないでもらいたいんだけど
これってそんな変な感情なんかなあ?
せっかくチームが活躍してるとこに水を差すような真似はしたくないし、ラグビーがそういうルールになってることに異論をはさむつもりはないし、わざわざ来てもらって頑張ってる選手の皆さんを排斥する気持ちもないんだけど
都合よくダシにしようとするのだけは感情論として気に食わねえわ正直
いやだってさあ、なんか既得権益貪っててうぜえ感じの奴がいたら、この際過激なパフォーマンスでもなんでもいいから、誰かぶん殴ってほしいって思ったりしない?
N国党のパクリ元であるところの、小泉パパの郵政民営化にしてもそうだったじゃん
日本人ってそういうとこあると思うんだよ
保守的で改革を嫌うくせに、気に食わねえ奴に一方的に改革を押し付けるのだけは大大大好きっていう
織田信長(の実像はともかくとしてイメージ)がなんだかんだで人気があるのも、結局そういうことだと思うんだよ
そいつがお気に入りで、そいつが殴ってるものが嫌いだったら、寺燃やすようなパフォーマンスだって割と手放しで肯定しちゃうわけ
つまりはパフォーマンスが自分の嫌いなものを殴ってくれないからパフォーマンスつって非難してるだけで、本質的にはパフォーマンス大好きっ子という
正直に認めた方がいいと思うんだけどなあこの辺