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はてなキーワード: 定期テストとは

2023-05-07

連休最終日、老人の昼寝の夢

連休最終日、昼寝していたら奇妙な夢を見た。

おそらく、『スキップローファー』の影響。

高校生になった私が、入学して最初定期テストを受けている。

二人で連なった形式の机。

隣の太った男子学生エリアには既に消しゴムカス

私は遅れて来たらしい。

B4縦4枚の問題用紙が配られている。

どうやら英数国社を一度にやるようだ。

国語に取り掛かると問題用紙には動画再生プレイヤーUIがあって、プレイを押すと藁半紙のような紙質の問題用紙の上でモノクロの絵が動き出す。

良く出来てる。

ただ、音が他の学生迷惑にならないかと気になる。

高校生少女たちが主人公の、青春SFモノらしい映画を観て、その感想を書かせる問題らしい。

送電線に引っ掛かったUFO送電線をビロ〜ンと伸ばしながらこちらに寄ってくるシーン。

そのUFOには馬の顔をした宇宙人が乗っている。

問題に目をやると、鑑賞した人の感想の断片が書かれていて、それらを正しく並べ替えよ、との指示。

また、別の問題では「時刻が何時頃なのかを表す箇所を抜き出せ」とある

映画タイトルに「夕ぐれ」が含まれているし、なぜか夕方4時頃だというのはわかるのだが、それを示す箇所を抜き出すのに難儀する。

早送りしたり戻したりするが、肝心なところに合わせられない。

諦めて他の科目に目をやるも、全く試験勉強していなかった私には手に負えそうにない。

こりゃ全滅だな。

しかし、なぜ今私は高校生なのか。

仕事はどうした。

そもそも40年近く昔に大学卒業した私が再び高校生になれるのか。

推しの子』的な転生でもしたのか。

等の疑問が浮かんできて、結局「ダメだ、テストまじ辛い、起きよう」と、夢であることに気づいたのか、自ら目を覚ました。

面白い夢だったので、もう少し見続けて、テストのあとに同級生と会話などしてみれば良かった、と少し後悔している。

2023-04-03

モノホン底辺高校は推薦入試すら使えない

2000年代末に偏差値40ぐらいのド田舎高校(いわゆる底辺校)を出た人間だけど、はっきり言ってそのレベルですら推薦入試はかなり成績優秀じゃないと使えませんでした。

指定校推薦に至ってはそもそも自体ほとんどなかったです。地元ボーダーフリー大学ですら自分高校には枠を与えてくれませんでした。

ましてや早慶日東駒専といった有名大学の枠なんて1つしかありませんでした(確か明治)。

 

指定校推薦を使える時点で高校レベルはそれなりなんですよ。本当の底辺高校には指定校推薦はおろか推薦入試すら無理なので。

ついでに自分は頭が悪すぎたのと、地元同級生から集団ストーカーされていたので進路特定防止のために推薦入試絶対に無理でした。

どれくらい悪いのかといえば、模試定期テストも280人中下から数えたほうが早いという感じでした。

結局センター利用で色々やってみたんですが、底辺校底辺にふさわしいゴミスコア(6教科7科目で7割)を叩き出したので地元の定員割れしていたFランすら落ちましたね。

幸い「大学」と名の付くところには2つだけ引っかかったんですが、そこも偏差値存在しないガチ底辺大学文学部産業社会学部)だったのでぺんぺん草も映えません。

2023-03-29

フレネミー

から20年以上前の話である

高校生で、コミュ力が少なくてもっさりしていた私は、同じ中学に通っていた、ある陽キャ女子腰巾着として生きていた。

その女と一緒にいたおかげで友達になれた女子がたくさんいる。そういう点では、感謝している。

でも、定期テストの直前に電話してきて、長話をするのはやめて欲しかった。

勉強しなきゃならないから、切るね」というと怒るので、なかなか電話を切ることができず、勉強邪魔をされた。

今の私ならガチャ切りしてるけど、当時はあの女に依存してたので、そんなことできなかった。

部活が一緒で、ある日突然「部室に盗聴器が仕掛けられてた」と言い出した。驚いて「どこ?」と聞いたら、「とっさに壊しちゃったからもうない」と言う。

「夜中、毎日家の電話にイタズラ電話がかかってくる」とも言っていた。同じ学校女子かららしい。

当時部活内に、女子にそこそこ人気のあった男子が、あの女のことを好きだった。あの女はその男子と付き合うわけでもなく、それでも毎日一緒に帰っていた。

 

イタ電をかけてくる女子は、その男子のことが好きで、嫉妬からイタ電をかけてくるらしかった。

ピュアだった私は、その話を信じ込んで、「親に言ったほうがいいよ」「先生に話したほうが…」と真剣アドバイスをした。「でも、親に心配かけたくないから」と、頑なに私以外にはその話をしなかった。もちろん、同じ部活男子にも。

他にも、その女は、後から考えると不自然しか思えない事件に巻き込まれ続け、聞いてもいないのに、その一部始終(主に色恋沙汰)を私に細かく聞かせてきた。「内緒だよ」と言いながら。

秘密を抱えるということは、大変なストレスである

この時点で、フレネミー度はかなり高いが、極め付けのできごとがあった。

私が妊娠したのだが、常位早期胎盤剥離という病気になってしまい、子どもは助からなかった。

見舞いに来てくれたあの女に「常位早期胎盤剥離になる割合は、全妊娠1%くらいなんだって」と話したら、「私がなったHELLP症候群なんて、0.2%!」と張り合ってきやがった。

しかもあの女の子どもは助かったのだ。

あれからあの女とは一度も会っていない。

遠い町で、キラキラオーガニックママをやってるらしい。

まあ好きに行きたほうの勝ちだからね、どうぞお幸せに。

でもお願い。2度と私の目の前に現れないで。

手作りお菓子なんて、作ってこないで。

2023-03-21

高校の頃の倫理教員は、授業中にanother brick in the wallのMVを見せる(多分フーコーかなんかにこじつけて)痛い人だった。

いわゆる進学校で、生徒も教員も事あるごとに「自由」と「個性」を口にするし、その倫理教員特にそれに乗っかっているような感じだった。生徒からは良く言えばゆるい、悪く言えばいい加減という専らの評判で、その教員自身もそれを自負してこと演じている節があった気がする。

他の環境を知らない一貫校で、しかもそこそこ以上に裕福な家庭の男子という画一的環境。そんな場所で周りがしきりに個性だのキチガイだの変人だのと口にするのがいけすかなかった。捻くれたガキだったから。だからそれに乗じて「変人エピソード披露するその教員にもあまり良い印象はなかった。

最後定期試験に「倫理教員イメージ」というアンケート欄があり、多くの生徒の答えは「変人」だったし、それは教員の想定ないし期待する答えでもあったんじゃないかと思う。私はそのノリが気に食わなかったので、確か「哲学科に入ったかと思えば教員職を得る、趣味人なのか現実志向なのか分からない、でも運任せの人。変人巣窟の凡人」みたいな事を書いた。真面目にそう思っていたのだが、「すげえブラックジョーク!」と書かれて返された気がする。その辺はちゃん大人だったんだな。

彼の授業のスタイル大学のそれっぽかった。教科書は使わずプリントを配り、指導要領通りの内容もほどほどに授業内容とこじつけた内容の映画を見せられた。定期テストも、映像レポート(という体の感想文)のウェイトが結構大きかった。

生徒を大人として扱いたかったのか、ガキ相手のなんか型に嵌った授業をするのがバカしかったのか、どうだったんだろう。

なんにせよ、倫理なんて3年の選択で取る少数以外には無縁な科目だし、それならばと好きにやりたかったのかもしれない。

作品ラインナップは、映画好き1年生みたいな感じだった。

マトリックス

エターナルサンシャイン

トゥルーマンショー

2001年宇宙の旅(一部)

フルメタルジャケット(一部)

空気人形

愛のむきだし

マルコヴィッチの穴

あとなんかインディーズ映画と事変だか椎名林檎だかの百色眼鏡ってMV

こんな感じのを見せられた。愛のむきだしが一番好きだった。あの作品が好きなのか『空洞です』が好きなのかは未だに分からんけど。

映画垂れ流し授業には結構人生に影響を与えられたような気がする。その後ネット映画好き必修作品に挙がるようなのを片っ端から観るようになった。

今や映画鑑賞は自分人生の核に近い部分にある。本当は何か自らの手を動かして脳内のものを描き出すアウトプット趣味を持ちたいのだけれど、怠惰には中々勝てないな。

あの教員の嫌いな部分は嫌いなままだが、悪い人ではなかったなと思う。

2023-03-17

anond:20230316191200

そんなの知ってるわ、ってタイトルばっかりだけど許してほしい。

マイナー≒売れていない≒サ終が近いので結局触らなくなりがち。

あと、正直ソーシャルゲームに何を求めるかでオススメする内容が大分変わると思う。自分ソシャゲに以下を求めている。

上記さらない人は以下全く参考にならないとおもうのですんません

ブルアカ

今更書くことある?要はプリコネR。流行もあり、取っつきやすさもあり。周年明けではあるが運営ユーザーもやる気満々。

今新しく触るのをお勧めするなら結局はここが一番最初かと。

アークナイツ

タワーディフェンスゲー。元増田読む限り、もう手を出していそう。

ソシャゲあるあるの「課金しないと勝てないんで課金してな!」に対して一石投じる高難易度コンテンツ危機契約」が最強に面白い

このイベント期間だけは他ゲー投げ出して遊ぶ。全員で定期テストを受ける感覚を思い出したい人に。

レアリティは強さの基準に限らず、お前がどれだけ楽しているか指標しかならない、という異常なゲーム。よくこれでガチャ売れるなぁと思う。

先行リリースしている中国情報追っかけたり、中国プレイヤーの超高難易度縛りプレイ情報とかも見るとより楽しめる。

崩壊3rd

原神のmihoyo(現Hoyoverse)の前作でもう6周年。

原神遊んで「なんでこれオープンワールドなん?」とか、「(日課に関して)これなら普通にソシャゲやらせてくれ」とか思っている人にお勧め

あのグラフィックもっと拡張した3Dアクションゲーの楽しいところとソーシャルゲームの良いところ(悪く言うと日課的なめんどいところ)が組み合わさった一本。

mihoyoのTECH OTAKUS SAVES THE WORLDというコピー体現した一本。オタクが好きなものてんこ盛り。

なにが日本オタクしかつくれないものがあるだ、4,5年前からクオリティでは海外に負けてるぞってことが解る一本。

とりあえず、とりあえず9章まで遊んで……。すごいから。っていう人が沢山いるけど誰も付いてきてこないので、ネタバレしてもいいから以下動画見ろ。

https://www.youtube.com/watch?v=H8VdjgXlo6U

PCでも遊べるし、コントローラーでも遊べる。(PS4、PS5、Xbox等も対応)iPadProがあるなら120FPS出して遊べる。

プロセカ

ボカロ世代絶対楽しい。そうじゃなくても音ゲーというだけで面白さの担保は確定されている。

適当に遊んでシナリオだけ自動再生で垂れ流すだけでも良い。シナリオが良い。というか花里みのりが良い。

若いオタクだいたいやっている印象(偏ってるかも)なので、話のネタにもよし。

シャニマス

上記に近い。イベントだけでも高品質シナリオ約束されているので、それだけ追っかけるだけでも大分楽しいガチャは沼。

ゲームはまぁ、そんなに遊ぶものでもないと思う。突き詰めると廃課金時間が凄く融けるゲームウマ娘前身にちかいシステムなので察して。

シーズ関連イベント更新する度に海外ドラマのような次が気になる内容で、しか失笑するぐらい重たくてしんどいものがある。

こいつらアイマスという後ろ盾があるからってストーリーで何やっても良いと思っているだろ、みたいな。好きです。

以上、書いてみた。

最初にも書いたけど結局求めるもの次第なので、ズレていたらその分ズレていると思うのでごめんなさいという感じ。

一応、他にも雑多に人にお勧めできそう(&自分にはそんなに刺さらなかった)なのをタイトルだけ載せておく


別枠で以下も。

2023-03-14

漠然とした。多分私の人生の話。

急に昔の話をしたくなったので衝動ではてぶに登録した。

多分春だからだと思う。これは花粉症の症状の一つ。

そもそも、真夜中にこのブログを開設するあたり、私はもう正気じゃない。

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漠然とした。多分私の人生の話。

5歳の頃、家族旅行アメリカへ行った。国外旅行へ行くのはこの20数年間でこの一度だけ。知らない言語に囲まれて、知らない文化に触れた、初めての経験

私はそれまで、父親よりも背の高い人間がこの地球にいるなんて知らなかった。

幼稚園キリスト教系だった。でも園の中に十字架とかそういう「偶像」がなかったので、私が日々の中に神の存在を感じる機会は非常に限られていた。お弁当を食べる時になると手を合わせて祈りを捧げた。「神よ、日々の糧に感謝いたします。アーメン」。この時間くらいじゃないだろうか。

先生たちは定期的に聖書の話をしてくれたけれど、当時の私には理解できなかった。そして多分先生たちも私たち理解することを求めていなかった。卒園式で綺麗に装丁された聖書記念品にもらった。字が読めるようになり、心に哲学概念が沸いた年齢になった時に初めて読み返した。そしてようやく何かしらは理解できたと思う。多分。…。時間差があるね。

でもこれだけは覚えているのがある。園長先生という方は非常に柔らかいお話の仕方をなさる方だった。わかるようなわからないような、でもそれはそれとして言葉がスーッと染み込んでいくようなお話をなさっていた。

先生はいつもこうおっしゃっていた。唇に歌を忘れずに。光の子として歩みなさい。

前半は知らない。でも後半は聖書の一節だ。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意正義真実とが生じるのです」

小学校の頃は全く覚えてない。

中学時代勉強はできるような、できないような子供だった。

英語音楽国語だけできた。でも国語担当教師と年がら年中喧嘩してたので評定に定期テストの点数が反映された記憶がない。

英語は楽しかった。小さい頃漠然定型分だけ覚えて旅行に行ったあの「英語」が、形ある理論知識として目の前に再び現れた。いうなれば、旧友との再会のような。互いに少し成長していたけれど。

音楽は、心の拠り所を得るために気まぐれで合唱部に入ったら急に歌えるようになった経緯がある。何それって話なんだけど、私もよくわからない。ただ、ある日ある時急に突然「声の出し方、響かせ方」が分かった。2年生の時、ソプラノソロパート担当させてもらった。嬉しかった。あれは、私が自分の実力だけで勝ち得たもので、そして私にもできるものがあるのだという証明になったから。音楽先生卒業式の日私の母をとっ捕まえて手を握ってこう言ったそうな。

お嬢さん音大に行きたいと言ったら、どうか止めないで入れてあげてください」と。

周りの子供たちは「自由」が増え、レンタルショップビデオを借りた。麓の街に行って、友達同士で服を選び合った。私にもそんな自由が欲しかった。漫画の貸し借りをしてみたかった。アニメ情報を共有してみたかった。

ある日、一緒にピアノを習っていた友人から楽譜を借りた。

彼女は「あなたが弾きたい曲が入ってる楽譜、家にあるから貸してあげる。家まで来て」と言った。彼女の家は私の家とは少し離れていた。やや逆方向寄りなのだ。でも私は彼女について行った。そして楽譜を借りた。

家に帰ると母は非常に機嫌が悪かった。ただいま、という挨拶に対して返ってきたのは「どこほっつき歩いてたわけ?」だった。確かに帰宅時間は通常より20分ほど遅かった。

正直に話した。友人の家に寄って楽譜を借りてきた、と。楽譜没収された。

ちなみにその友人は時々漫画も貸してくれていた。しかし母はそれを目敏く見つけて隠した(母はよく私が学校にいる間に私の部屋に入って物を漁っていた)。そして3週間ほど経った頃にクロゼットから出してきて「あの子に返してきなさい、今すぐに」と言ったのだ。

少し考えればわかること。この家は、何かが少しずつ狂ってる。

私にも自由が欲しいとゴネた事がある。他の女の子みたいにガーリーな服(当時は少し露出があるのが流行っていた記憶がある)が着たい。髪を伸ばしたい。休日友達とお出かけをしたい。バレンタイン友達チョコレートの交換をしたい。

ことごとく跳ね除けられた。

おしゃれがしたいなら家でやらないで外で自己主張して頂戴。学校お菓子を持ち込むのは校則違反でしょ?(それをバレンタインの日だけは黙認されてるから私にもやらせてくれと言ったのだが。)お出かけして遊ぶ暇があるならピアノ練習して勉強したらどう?アンタは目の前の遊びを取って将来を失うつもり?それに私たちがアンタのピアノ習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃん練習してよ。

そんな言葉で私の心はポッキリだった。でもその時はまだ幼かったので「高校生になったらきっと変わる」と思っていた。

ちなみに上記言葉を言われた後で私は一度だけ地域お祭りに友人と行ったことがある。

一言で言えば、つまらなかった。目に映る何もかもがくだらなく見えて、そんなくだらないものにはしゃげる友人たちが寧ろ一周回って羨ましく思った。その日の私はピアノ練習もしなかったから、鍵盤が恋しかった。結局皆より一足早く帰宅したはずだ。

…そんな私の感想に、母は非常に満足げだった。こればかりは癪にさわる。

高校私立女子校入学した。良い大学に行くことだけが目標だった。それさえ達成できたなら、きっと私の人生は報われると思った。おしゃれらしいおしゃれをしなかったことも、友人と行ったお祭りを楽しめなかったのも、バレンタインの日にお菓子作りをしなかったのも、全部全部。

周りの友人は有名らしいアイドルにどっぷりとハマっていた。週末になれば電車に乗って遠くへ行き、グッズを買い、ブロマイドを買い、皆で見せ合って楽しんでいた。

街のお祭りを楽しめなかった女は、アイドルの良さもわからなかった。女の子たちが「ねえねえ、このひとカッコいいと思わない?」と見せてくるのを適当に「ほんとだ、カッコいいね」と返した。

ちなみにミュージカルをやる部活に入ったが、言わずもがな母は私がそこに入部するのを死ぬほど嫌がったし、門限は昔よりもシビアになった。当然遊べなくなったし、部活も毎回早退していた。それは舞台本番の1週間前でも変わらなかった。先輩も同期も私の家の事を理解してくれていたことだけがいである。あの人たちは皆優しかった。でもその優しさに永遠に甘えるわけにもいかなかった。当時私はスマホを持っていなかったから「今日だけは門限を伸ばして」と公衆電話から家に電話をかけた。「それなら家に入れてやらない」とだけ返されて電話を切られた。私は職員室の前で泣きながら「どうしろって言うんだよ!」と叫んだ。

その部活は1年生の冬に廃部になった。まあ色々あったのだ。晴れて私は本当に勉強しかすることの無い暇人になったのである

英語にのめり込んだ。きっと海の向こうの人たちが喋ってる言語は私の住む世界を広げてくれると思った。

音楽は私の心の拠り所だった。親には「私たちがアンタのピアノ習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃん練習してよ」と言われていて、それでよくピアノが嫌いにならなかったな、と思わないでもないが、それはひとえにピアノ先生の教え方が非常に上手かったからだ。あの先生は一生の恩師と言っても良いだろう。ピアノ技術だけでなく、音楽を体全体で楽しむことの大切さを教えて下さった。

必死勉強して、そこそこ良い大学に受かった。当時は大学入試の定員規定が厳しくなったばかりだったか絶対浪人すると思ってたけど、受かった。第0志望、希望希望通りの学科

高校生の頃(というか小学校中学から)ずっと母は私に「アンタみたいに頭の悪いやつは、私の時代なら商業高校に行ってたよ。今はいいね、アンタみたいなバカでも人並みに高校に入れて受験できるんだからさ」と言っていた。

何度も娘をバカだと言わなくて良い。言われなくても本人がちゃんと分かってる。

大学は色々な地域から色んな人たちが入学していた。

同じ地域に住み、同じ景色を見ていた小中、その延長線上にあった高校とはまるで違っていた。私のような実家住まいもいれば、一人暮らしで頑張る人もいた。

でもこれだけは断言したいが「明日屋根心配しなければならない人」は私以外あの空間には存在しなかった。

大学講義は遅くて6時に終わっていた。母は言った。

「7時半には返って来れるでしょ」

まり、7時半が門限だということだ。大学生の、門限が、7時半。

あんまりだよ、と泣いた。父を説得しようとし、父方の祖母を説得しようとした。大学生なんだよ、大人だよ?と。でも父は母のイエスマンだったし、祖母(と叔母)は如何せん価値観が若干古かった。「7時半は十分遅いよ、お母さんは譲歩してる方だと思う」と言って譲らなかった。

遊ぶことはなかった。化粧もしなかった。ファンデーションだけだった。化粧なんてね、若いうちは要らないの。それが母がいつも言うことだった。

少し考えれば分かること。あの時の母は、私を完全にコントロールたかったのだ。

大学2年生の時、母に内緒彼氏を作った。

その年の秋、私はこれまた突然、手首を痛めた。関節炎だった。ピアノの弾きすぎ、PCの打ちすぎで利き手ではない左手に過度の負担がかかったらしい。もうピアノは弾かないでください。と言われた。

あの時の絶望といったら。私は身近な人を突然亡くした経験はないけど、多分親友がある朝突然死んだらこういう気分なんだろう、と思った。うまく使えない左手、もう弾けないピアノ。虚無感、なんて言葉じゃ補いきれないものだった。

私にとってピアノはそれほど大きな存在だった。嬉しい時も辛い時も一緒にいたのが、ピアノであり、音楽だったから。

その時急に現れたのが昔の知り合いだった「彼氏」だった。

少しずつお互いのことを話す中で私は小さな打ち明け話をした。休日が大嫌いなんだ、と。

当時母は土日のたびに癇癪を起こしていた。やれ私の歩き方が気に食わない、やれ私の話し声が気に入らない。どうしてアンタは私の気に入るように振る舞わないの?と。当時私は土日の早朝6時〜9時でコンビニアルバイトをしていたので、その早朝勤務の後に母の喚き声を聞くと言うのはどうにも「来る」ものがあった。

さて話を戻すと、私の打ち明け話を聞いた彼は私を週末のお出かけに誘った。電車の向こうの街でかれこれこういう催し物があるらしい、行ってみようよ。気分転換にさ。と。そういう具合に。そして私はその誘いに乗った。

母には「友達と出かけてくる」とだけ言った。情報は不足しているかもしれないが、嘘はついていない。少なくとも当時は彼はまだ「友達」だった。

そしてその友人は彼氏になった。

から告白された時、私は一種のチャンスを感じた。きっと私は自分証明できるとお思った。私の人生は私のもので、私の人生の決定権は私が握っているのだと。

しかも、当時の私が心から欲していたのは「絶対的な安全」だった。そして痛めた手首によって失われた「心の拠り所」だった。

きっと彼ならそれらをくれるだろうと思ったので、私は彼の告白同意した。

まりにも、身勝手


彼はそれ以来ちょくちょく私を外へ連れ出した。

その度に私はまるで世間一般に溶け込んだ気分になっていた。世間一般の「普通の子」になれたように思った。そしてその時私は心から喜んだ。「生きてる!」と無邪気に思えた。

私が勝手に出かけ、挙句彼氏まで作ったので、母は怒った。最初父は「別にいいんじゃないか?」と言っていたが、母があまりにも怒るので父も手のひらクルリと返した。

彼の名前学歴を言わされた。ひどく侮辱された。

母は私から家の鍵と財布の金、銀行カード没収した。お前に鍵と金を渡すと碌なことにならない、と言いながら。(ちなみにこの銀行カード、取り返したら今度は月に3万、家に入れる事を要求された。当然今度は私の生活費が足りなくなってバイトを増やしたら、要求される金額がまた増えた)

母は、アンタがどこへ行ったか全部わかってるんだからね!と怒鳴った。最初意味がわからなかったが、どうやらあの時の母は私をスマホGPS機能で追跡していたらしい。それが判明した時、私は泣いて彼氏に詫びた。どうしようもないものに巻き込んでしまったと思った。ざっくり言えば、母のやったことは犯罪に近いのだ。

彼は「気にしてないよ」と言った。

私は「いや、そこは気にしてくれ」と思った。というか、そう言った。

彼は「お前がかわいそうだ、どうにかして救いたい」と言った。

その心はありがたかったが、ありがたがると同時に私はそれを拒絶した。

「かわいそう」と軽々しく言えた彼はどこまでも温室育ちだった。4人家族ペット付き、平均的かそれよりも幾許か上の環境で、ぬくぬくと、二親に愛されて育ち我らが王子様のような扱いを受けてきた彼が言ったのは、永遠に「かわいそう」な立場にはならないであろう人間の、無意識傲慢だった。

「救いたい」と言った彼は、きっと人間人間を救えると信じていたのだろう。確かに信じるものは救われるとは言うけれども、彼氏とはいえ第三者立場人間他人を救えるのなら、今頃イエスキリスト聖母マリアもこの世から用済みだろうし、仏典聖典も要らない。でも世界にはそういうもの存在するのだ…。彼はそれをちゃんとは理解していなかった。

私の状況も、世界の状況も、「聞いて知ってはいる」けど「理解」はしていなかった。

彼氏母親という人は、息子から私の家の状況を聞いて、こうコメントした。

「あそこの大学の子だと聞いて安心していたのに。それじゃあ全く、訳アリのお嬢さんを拾ってきたってこと?」

…ってうちの母がいうんだ、面白いよな、訳アリだなんて。と彼は笑いながら言った。少なくとも彼の中で「訳アリ」という言葉一種ネタとして消費されたらしい。

私は彼氏ができた、とか勝手に出かけた、とかそういう「罪」で度々家を追い出された。そんな時私を匿ってくれたのは大学の友人たちだった。

追い出されるたびに顔色が悪くなる私を見て友人は私の目を閉じさせ耳を塞がせ、その間に家中刃物という刃物を知らない場所に隠した。彼女曰く「今のアンタに刃物を見せたらすぐさま死んでしまいそうで怖い」。当時の私は一体どんな顔をしていたのだろう。

結局、私は彼と別れた。

彼は普通の家で育った普通人間だった。そんな温室の彼を「私」という人間に巻き込み、異常なものを見せ、その一部だけでも経験させてしまたことは、私が負うべき「罪」のように思った。そして、そんな異常な場所から彼を一刻でも早く遠ざけようと思った。「かわいそう」という言葉も「訳アリ」という言葉も、ネタとして理解できる世界に戻そうとした。

それが正しいかどうかは本当にわからない。でも身勝手だったとは思えど、あの時の私にできた「最善」の判断は、それだった。

どうか彼には「普通」の彼女ができていてほしいと思う。そして、私の視界に入らないところで幸せになってほしい。

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大学3年生になり、2つの喪失、「普通」の概念について考える日々、加えてコロナ禍。最悪だった。それでも秋までは保った。そして秋になって体調を崩した。

感情がわからなくなった。楽しいとか、嬉しいとか、悲しいとか。

指先から血の気がひいた。四六時中まるで体全体が後ろから引っ張られているような感覚だった。

ほんの少し正気に戻ったその瞬間に病院に行き、うつの診断を貰った。ついでに精神安定剤も貰った。(本来抗うつ剤をもらう予定だったが、そういう精神に効くタイプの薬を飲んだことがなく不安だったため、安定剤からスタートになった)

家族はまるでお手本のような否定言葉をぶつけてきた。

仮病だ、とか、考えすぎだ、とか、甘えだ、とか。診断をした医者はヤブだ、とも言った。そして私から保険証現金没収した。よって私は途中で治療が止まっている。


正直、大学3年4年をどう過ごしたか記憶がない。

ちなみにかの「原神」を始めたのは4年の最初だったか、それくらいだったはずである。(タブレットデバイス様様で、こういうゲーム自分スマホに入っていれば「実体」が無いので、両親は私が流行りのゲームを始めただなんて夢にも思っていない)





うつの診断を受ける前だったか後だったか、とにかくその辺りの時期に私は数回手首を切った。そのうちの一つだけ、鮮明に覚えている。

衝動に任せて切って、うっすらと血を滲ませた。最悪だったのはそれが金曜日で翌日にはバイトがあったということだ。(※この時は体調の限界やらシフトの都合やら色々なものが重なって、私のシフトは早朝6時〜9時ではなく、9時〜12時に移っていた。そこには私の幼馴染の男の子も一緒に働いていたので、早朝から働いていた時よりは幾分気が楽ではあった)

さて左手首を切って血を見て1時間、なんとなく冷静になった時に気が付く「待てよ、明日バイトじゃん」は本当に最悪だ。急いで薬をぬり(強めのステロイドだった気がする)、ガーゼを乗せて包帯を巻いた。

翌朝幼馴染の彼は「それ、どうしたんです」と聞いてきたので、私は笑って言った。

「関節炎の湿布


この幼馴染、私が怪我をしたとなるとまるで問診か何かのように問い詰めるのである。どこで怪我をしたの、どうして怪我をしたの。その時何があったの、いつもと変わったことでもあったの。

手首は数回掠った。そしてもし、もう一度でも金曜日にそれをやった上で「どこで、どうして怪我をしたの」と問い詰められたら、私は誤魔化せる自信がなかった。

そもそもコンビニアルバイトなんて、いつヘルプ要請が入るかもわからないものなので、それが金曜日じゃなくても、手首を切るのは普通にアウトだった。いつか誤魔化せない日が来ると思ったし、その調子で切ってたら取り返しのつかない事になるのは目に見えていた。

それ以来、手首を切るのは自制している。少しばかり、褒めてほしい。

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先日、この幼馴染と少しばかりの遠出をした。

出かける予定を作ったことを正直に母親に白状し、許可を得た(これがまたハードルが高かった。)母は私たち電車で行ったと思っているが。

私は彼が運転する車に乗って遠出した。





帰りの移動だった。彼は、夜の暗闇が一番好きだと言った。

私も夜が好きだと返した。夜は良いなと思う。あの暗闇も、程よい明るさも好きだ。

その日すっかり疲れてしまっていた私はぼんやりと、彼に少しばかりの昔話をした。

まだ私が早朝6時のバイトシフトに入っていた頃、5時に起きて支度をしていたから冬の早朝は真夜中みたいに真っ暗だったのだと。そして少し季節が春に近づくにつれて日の出時間も早くなり、西の空は暗く、東の空は明るくて、私はその真ん中に立っているような錯覚を覚えたのだと。まるで、昨日と明日の境目にいるような気分だったと。

ある時私は親に家を追い出されて、月曜火曜ならまだしも金曜日に追い出されたのなら翌朝のバイトは始発電車に乗らないと間に合わなかった。まだ空が真っ暗な時間にそっと友人の家を出て、電車の窓の外がうっすらと明るくなるのを見ていた。

そう言った。話し終えてからようやく自分が一体なんの話をしたのか、一体彼に何を聞かせていたのか気がついた。

変な話してごめん。私の家の騒動を知ってて私を家に泊めてくれた友人くらいしか知らない話だ、多分他人に初めて話した、幼馴染の女の子ですら知らない話だ…。と途方に暮れながら謝罪したところ、彼は「そうだろうね」と言い、こう続けた。

「よく、怪我しませんでしたね。危ないでしょう、色々と」





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今も私は「普通ってなんだろう」と考えている。

家では相変わらず母がつまらないことで喚き散らしているし、私の髪の一本一本にすら執着し干渉している。そして相変わらず父は母のイエスマンだ。


幸せになりたいな、と思う。

でもまず私は「幸せってなんだろうな」から思考を巡らせなければならい

そもそもはいまだに感情の生成についての問題解決していない。

たぶん私という人間も私の家族も、私の家の一族も何かしらが「おかしい」のだ。皆が皆で、それぞれ違うベクトルで狂ってるから、その異常性に気がつきにくい。

でも気がついた人が気がついた時に「終わらせなければならない」。母は自分自分母親と絶縁した。もしかしたらそれはいつか来る自分未来だと思う。

それはそれとして、もし誰かが私の幸運をほんの少しでも願ってくれているのなら、多分、私はまだ幸せだ。

2023-03-09

指定校推薦大学合格した。

今年の春とある地方中高一貫校からその地方では名の通っている私立大学文系学部に進学する。

おそらくこの劣等感の主な原因は高校受験もまともにせず、最後受験努力したのが小学生だったという事にあると思う。同級生ほとんど一般受験もちろん親も親戚も一般大学に行った人だ。身の回り自分けがなんの努力もせず大学に行く。

面と向かって話すと誰も責めてはこないし、親なんて学校生活を真面目にやってきたからねなんて言ってほめてくる。俺は今年の夏予備校限界を感じて急に指定校を選んだんだ。伸びない模試の点数、ついていけない予備校の授業集中できない自習。こんなので心が折れた。ちょうどよく興味のある学部指定校があったから志望した。授業なんて全然寝ていたし、定期テストの点も平均点くらいしか取っていなかった。真面目な生徒ではなかった。

不真面目なやつでも指定校取ってるだろうと思って、ネット指定校推薦を取った人の体験談を読んでいても多くの人は高校に入った時点や高校2年生の時点で推薦について考えていたし、大体真面目な奴ばっかりだった。遅刻もしないし授業中に居眠りなんてしない、その大学に行きたいか指定校のくる高校を選んで受験したやつまでいた。俺は一般受験だったら受けていたかからない(私立をどれくらい受けるのか親と話す前だったこともある)大学を選んだ。俺は半端者なんだと思う。一般受験の輪にはもちろん入れないし、指定校推薦の輪にもきっと溶けこむことはできない。

鈴木福のほうが偉いよ。秀でたものが勉学ではないかもしれないがあるじゃないか。俺にはひとつもない。鈴木福があれだけ叩かれるなら俺はどれくらい叩かれるんだろう。叩かれたくないからこんなところに書き込んでるんだけど。

俺は親も金をしっかり出してくれるし、ほめてくれる親ガチャ大当たりの家で育った。予備校代も大量に払ってくれた、それなのに私立に行って一人暮らしもしてごめん。親戚もみんな国立大体旧帝なのに俺だけ私立でごめん。推薦を取るって決めた時おばあちゃんショック受けてたよな。何回もそれでいいのかって聞かれたし、昔から国立に行くって言ってたから驚いたよなごめん。

指定校になるような受験結果を残してくれた先輩方ありがとう来年以降の後輩の指定校につながるだろう受験結果を残している同級生お疲れ様。俺は指定校を使ったのだからせめて留年だけはしないように大学では頑張るよ。

2023-02-28

理系なら高校生でも常識というのは間違いで、理系高校生ならそれを知ってるのが理想というのが正しい。

教科書に載ってる内容が全部常識なら定期テストは全員漏れなく百点取れてるってことになるぞ。

2022-12-02

よくうんこを漏らす

タイトルから釣りって思われるだろうけど

これが釣りならどんなにいいことか


同じように困ってる人に届け


スペック

30歳 女 妊娠出産経験なし

どこにでもいる普通お腹が弱いだけの女

たまにくしゃみで尿漏れする




一番最初に漏らしたのは中学生の時だった。

電車で2時間かけて私立に通っていたのだけど、初めての定期テストでの緊張+生理+長時間通学で腹が死んだ。

トイレに並んでる時に出た。この時はナプキンに救われて、ほとんど被害もなく済んだ。

ごめんなさいと思いながら汚れたパンツナプキン汚物入れにいれてトイレを出た。本当にごめんなさい。言い訳だけど13歳の自分にはどう処理したらいいかからなかった。

ノーパンのまま学校へ行き、テストを受け、ノーパン帰宅して母に全てを話して泣いた。

その後、3年に1回くらいのペースで漏らすようになった。

大抵はやばいと思ってトイレへ行って、順番待ちをしている時に間に合わず出るパターン

漏らすのは立っている時で、普段ほとんどスカート生活しているのでパンツスパッツだけ捨てればなんとかなることが多かった。2回目に漏らしたとき高校生)の時も泣いたし、汚物入れに放置してしまった。

それ以降は「自分は漏らしやすいのかもしれない」と自覚して、出先に小さなビニールを数枚持っていくことにした。汚れたパンツ放置するのはもう辞めたかたかである

そんなこんなで大学生となり、何回か漏らし、もう漏らすことに慣れてきた。

漏らすことに慣れるのならその前にトイレへ行けと言われるだろうが、「ヤバいな」となってから1分くらいで降りてきてしまうのだ。1分以内にトイレに駆け込めればセーフ、それ以降はアウト。

何度も野糞をした。田舎で人もいないし、すみませんと思って野糞をした。

全部出し切った後に自販機で水を大量に買って、近くの排水溝まで流したりもした。

そして仕事をはじめた。思ったよりもストレスがあり、ついに冬場に毎週漏らすようになった。

(夏場もクーラーがキツいとお腹を下すので、冷えがトリガーになるのだと思う)

ここまで来るともう慣れっこで、普段から次亜塩素酸水(キッチンハイターと水で手作りし、)を車に常備し、多少うんこが拭き取れなくて車のシートについても綺麗に掃除をした。

車のトランクには次亜塩素酸水、新聞紙ビニール、(新聞紙の上にビニールを引いてから座ると車が汚れない、またビニールに汚れた服を入れられる)、替えの洋服一緒(靴も含む)、タオルキッチンペーパー、ラブホに駆け込むための現金1万円を入れて、毎日漏らす恐怖と闘いながら通勤した。



毎年冬になると頻繁に漏らすようになり、もうダメだと思った。

そして、今年の春仕事を辞めた。

今は在宅ワークで、便意を感じて15秒でトイレに行ける。今年に入ってから一度も漏らしていない。

ただ、この急な寒さがどうしても過去記憶を思い出させたので、ここに炊き上げることにする。




よく漏らす人、大丈夫だよ

わたしもずっと辛かったし、今も外に出る時は不安だよ

悲しい気持ちの人に、仲間がいるよと伝えたい

2022-11-29

anond:20221129145850

中学までの定期テストはほぼ満点だったが、それで大学受験対応できたわけではなかった

そういう中学だったってことだな

2022-11-14

三十路女の恋愛遍歴

「女の恋は上書き保存」などと言われるが、私はこれまで好きになった人たちの誕生日すら忘れていない。

30年間で12人。片思い失恋ほとんどだが全て良い思い出だ。

今更誰かに話せるようなものでもないが、自分の中だけに留めておくのも勿体無いのでここに放流しておく。

1人目 K.D.くん

幼稚園年中〜年長のころ

幼稚園で同じ組の子

一人称が「オレ」なのがかっこよくて好きだった。

小学校に上がる際、親の転勤でどこかへ行ってしまい、好きと伝えることはなかった。

2人目 K.Y.くん①

小学校1年生〜4年生のころ

同じクラスの子

顔がかっこよくてスポーツ万能で、いわゆるカースト上位の男の子だった。

小学校2年生の頃に仲良しの女の子に彼のことが好きだと内緒の恋バナをしたところ、翌日には本人にバラされてしまいとても嫌だった思い出がある。

そのときは「もう好きじゃない」などと言って誤魔化したが、結局クラス替えで離れるまでずっと好きだった

3人目 K.Y.くん②

小学校5年生のころ

同じクラスの子

小柄で顔立ちが整っている、可愛い男の子だった。

クラスで1番可愛い女の子も彼のことが好きで、どうやら両思いのようだったのでそのまま好きでいることがつらかった。

このころ、自作ホームページに彼をキャラクター化した絵を載せていた黒歴史がある。

4人目 I.M.くん

小学校6年生のころ

同じクラスの子

ガキ大将タイプで少し粗暴な、学内カーストトップ男の子だった。

小学生なのに「女子」ではなく「女の子」と言うところが好きだった。

このクラスではくじ引き席替えをしていたのだが、先生のくじの作り方のクセを見抜き毎回必ず隣の席か同じ班になるようにしていた。しかしそれで仲が深まるということは特になかった。

高校生の頃、風の噂で彼が薬物か何かで少年鑑別所に入ったことを知り、少し切ない気持ちになった。

5人目 M.T.くん

中学1年生〜2年生のころ

隣のクラスの子

背が高く文武両道で人気者の男の子だった。

ある日廊下あくびをしている姿を見かけた時にキュンと来て好きになった。人生で唯一の一目惚れだった。

とにかく人望があり良い話ばかりを耳にするので、その度にどんどん好きになっていったが、ほとんど会話をすることもできないまま「憧れの人」で終わった。

6人目 T.N.先生

高校1年生〜3年生のころ

担任先生

同級生とは違う大人の落ち着きや優しさに惹かれて好きになった。

先生に気に入られたい一心毎日勉強をして、定期テスト模試は常に学年トップだった。

勿論この恋が成就することはなかったが、たいして進学校でもないのに難関大学合格することができたので、人生を変えてくれた恩人だと思っている。

7人目 F.T.くん

大学1年生〜4年生のころ

サークルの同期。

とにかく話が面白く、顔が筋肉痛になるほどずっと笑わせてくれる人だった。

趣味も合いとても仲が良かったが、友達以上になる方法が分からず、彼氏がいる期間を除いてぼんやりとずっと片思いをしていた。

大学4年生の頃、クリスマスバレンタインを二人で過ごせたにも関わらず何もすることが出来ずに終わり、ようやく諦めがついた。

8人目 H.S.くん

大学2年生のころ

ネットで知り合った8つ上の社会人

はじめてできた彼氏だった。

付き合って4回目のデートTシャツから胸毛と背毛がはみ出ているのを見て、さーっと冷めてしまい別れた。

当時は「未成年女子大生を狙う社会人男なんて気持ち悪いし別れてよかったよね!」などと思い体毛ごときで冷めた自分正当化していたものの、4回デートしてもキスすらしなかったのでそれなりに誠実な人だったんだろうなと今となっては思う。

9人目 T.J.くん

大学2年生〜3年生のころ

ネットで知り合った1つ下の大学生。

この人には私がいないとダメだ、と思わせるようなところが好きだった。

1年間付き合ったものの、色々なことがうまく噛み合わずお互いに疲れてしまい別れることになった。

納得して別れたつもりだったが、かなり引きずった。食事ほとんど喉を通らず、風呂も入らず、歯も磨かず、毎日泣いていた記憶がある。半年ほどで落ち着いたが、未だにほんのり未練がある。

今ならもう少し上手く付き合えただろうなあなどと思ってしまう日がたまにある。

10人目 H.K.くん

社会人1年目のころ

会社の同僚。

かなり変わった人だったので告白をされてから少し悩んだものの、見た目が良かったのと猛アタックしてくれるのが嬉しくて付き合った。

愛情表現をたくさんしてくれるので私も出来る限り尽くしていたものの、日々重くなる愛に辟易し1年と経たずに別れた。

その後少ししてからメンタルを病んでしまったらしく、長期休職後に退職していた。私も原因のひとつだったのかもしれないと思いやや責任を感じている。

11人目 M.U.くん

社会人1年目〜3年目のころ

会社の同僚。

頭が良く明るいので会話が楽しく、一緒にいて居心地が良かったので好きになった。

付き合ってから徐々に相手気持ちが離れていくのを感じ、それを繋ぎ止めるのに必死だった。

結局1年ちょっとで振られたものの諦めがつかず、その後も1年ほどセフレの座に甘んじていた。

本気で婚活をしようと思い立ったタイミングでようやく断つことができた。

12人目 夫

社会人4年目〜今

婚活パーティーで知り合った。今の夫。

婚活を始めてからは「恋愛」よりも「結婚のための条件」に重きを置いて出会いを求めていたが、結局好きになってしまったのでふつう恋愛をした。

同棲するとなったときにお互いの個人情報を共有したところ、仮に「結婚のための条件」だけで相手を選んだ場合でもきっと夫を選んでいただろうと思うくらいの人だと分かった。大好きな人オマケで好条件までついてきて、私は大変運が良かったと思う。

夫との恋愛最後にすると誓ったので私の恋は12人で終わり。

ここからもう増えることはないと思う。

2022-10-17

秀才の末路

幼少期から天体望遠鏡父親より完璧に使いこなし、小学校ではマラソン大会書道自由研究、作文の賞を総なめし中学では部活全国大会に出場しつつ生徒会本部役員をやり、定期テストと実力テストでも一位を取り続け、県トップの県立高校に進学し現役で旧帝国大学理系に進学した俺の末路は…

歯科医になって妹と一緒に地元の両親の後継いでる。あと消防団

2022-09-15

anond:20220915221806

中学地理はすごく楽しかったなぁ。定期テストで学年最高点(96点ぐらい?)取れた。

高校文系に進んだので地理とはあんまり縁がなかったけど、地理先生おもしろいお兄さんだった。

2022-09-10

anond:20220910130143

そう思ってたらいつのまにか独身異常男性自分だけになっていたパターン

中学定期テストで俺全然勉強してないわーとか言ってたやつを信じてたタイプ

2022-09-03

陽キャにも陰キャにもなれない人

 もう長いことフリーターニートを行ったり来たりしている。仕事に就いても長続きせず、職を転々とする日々。もうかれこれ十社以上職を転々としてきただろうか。就いた職業の多くは施設警備や物流倉庫でのピッキングなど責任の伴わない仕事ばかり。コミュニケーションの得手不得手以前に、人と関係を結んで生活していきたくないと考える。人に指示を出すのも嫌だし、人の上に立って何かを行うことも好まない。集団の中において自分空気のような存在でいたい。そういうわけで人間関係を維持することもままならない。まさか自分が将来このような生活を送るとは想像もしていなかった。子供の頃は学校卒業したらどこかの会社就職してバリバリ仕事に精励するものだと思っていた。それがこのありさである未来と言うのは本当に不確かなものだ。

 陽キャ陰キャ二元論物事を語るのは好きではないが、今日はそれについて語りたい。学生時代自分は割とスクールカーストの上位の方にいて、やんちゃで明るくてクラスでもみんなの中心となるような人物に囲まれ学生生活を送ってきた。といっても自分から進んでそうした人たちとコミニケーションをとって親睦を深めたわけではない。何というか気づいたら仲良くなっていただけのことに過ぎず、自分意思関係を構築していたわけではなかった。

 

 自分公立の小中学校に通っていたが、公立学校には実に様々な人間存在する。所得水準の高い家柄に生まれて幼少の頃から様々な習い事に触れてきて教養がしっかりと身に付いている人もいれば、親の社会的地位が高く、幼い頃から多大な投資を受けてきたことにより校内でもトップクラスの成績を誇る者。またそれとは反対に、貧しいが故にろくに教育を受ける機会のなかった人や両親がやんちゃをしていたために子もそうした性質引き継いで不良の道へと突き進んでいった人などなど実に属性の種類は豊富である自分たまたま同じクラスやんちゃなことをする人が多かったからなのか、なぜか彼らと共にいることが多かった。公立学校というのは本当にいろんな人がいるので、たまたまそういう人たちが近所に住んでいたから仲良くなったのかもしれない。詳しい事は自分にもよく分からない。

 彼らとは本当にいろんなことやってきた。定期テストをサボってゲーセンに入り浸って夜を明かしたり、ワックスで頭を塗りたくって度々生徒指導先生にお叱りの言葉を受けたりといったようにやることと言えば平気で校則無視してきたことばかりであった。そうしたことばかりしてきたので周囲の人間から自分はいたずら好きな人なのだ認識され、近寄ってくる人たちも自然自分と近しい人達ばかりであった。

 中学生活も終盤に近づいてくると高校受験という大きなイベントがやってくる。自分は一応塾に通っていたので高校受験受験をするつもりでいたし、そのための準備もしていた。しかし、しばらくするうちに自分と彼らとの間に深い溝ができ始めていることに気がついた。それは彼らが、僕が受験勉強に励んでいるのを快く思っていないのではないかということ。想像するところによると、自分高校受験に向かって勉強してるのがどうやら彼らにとって喜ばしいことではないらしいのだ。彼らの中でも自分はまだ比較的に経済事情が恵まれていたので、教育お金を費やすことができた。だから高校受験もできるし、将来の選択肢もそれほど狭くはない。しかし、彼らはそうではない。経済的に貧しいが故に教育お金をかけることができず、高校受験を受けると言う資格すら与えられていなかった。また受験できたとしても学業への意欲が湧かないことやどうやって勉強すれば良いのかわからないなどといった理由により、レベルの低い学校に行くかのいずれかしか選択肢がなかった。そうした中で自分だけ勉強して彼らのもとから離れようとしている。それは彼らにとっては喜ばしいことではなく、どこか心にわだかまりが残ることだろう。これはグループの一人が自分だけ集団から抜け出して別の道に進むことをイメージしてもらえればよい。ドロップ主人公自分だけ輪の中から抜けることや、ビリギャル主人公グループの反対を押し切って難関大学受験に挑むのと似たような状況である。結局、自分は難関校とは程遠い偏差値が50いくかいかないかくらいの自称進学校入学した。もともと勉強とは無縁の人間で、定期テスト100点中30点位がほとんどだったので、これが自分にできる限界学習であったと言えるので特に後悔はないのたが。

 高校に入ってから彼らと連絡を取ることもなくなった。もうすっかり別の世界で生きているような感じだったし、実際に会うことも何度かあったが、会話を交わす事はなく、以前のように親しい感じで接することもなかった。そこには陸と島ほどの距離感があった。そこそこ勉強して高校に進んだからこそ、彼らは自分自分達とは別の人間だと考えていたようだし、自分たちのような悪質な遊びをすることも好まないだろうと考えていたから昔のように悪ふざけをして遊ぶこともなくなった。

 高校高校中学までの人とは別のタイプ明るい人達と仲良くなってそれなりに楽しく日々を過ごすことができた。それでもたまたま仲良くなったから仲良くしていただけで、自分からそうした人たちと仲良くしたいわけではなかった。別に友達など作らなくても、一人で何かに没頭するような事があってもよかったのだけど、生憎オタクのように何か一つのことに強い情熱を注いだこともない。自分人生のものに関心がなかった。

 自分性質に関心を向けるようになったのは大学生活も終盤に近づいてきた頃である。これまでの学生生活を振り返ってみて、自分はどうしてやんちゃなことばかりしてきたのだろう、どうしてクラスでも目立つような人間とばかり付き合ってきたのだろうというようなことばかりを考えた。彼らと自分ベクトルの向きが真逆人間であるというのに。自分は目立つことが嫌いで、教室でも隅の方で目立たず静かに生活していきたいと考える人間だった。思えば、僕は自分から人に話しかけて友達を作ったことなどなかったような気がする。自分がどんな人間と仲良くなりたいかと言う考えも持っていなかったし、主体性を発揮して何かを行ったこともない。いつも周りに流されて生きてきて、自分意思自分人生を生きているという感覚がなかった。昔から自分は一人が好きで、人と関わりを持とうとせずに、一人で何かすることを好んできた。つまり、昔から自分自閉傾向のかなり強い人間だったのである。それでも何とか今までやってこれたのは環境の影響や周りの方から声を掛けてきてくれたことにより、そうした性質隠蔽され、それが浮き彫りにならなかっただけの事に過ぎない。

 周りに流されて生きてきて自分性質客観的に見る機会を持たない人間本来自分がどういう人間なのか分からなくなる。人間人格形成には遺伝的要因と環境的要因の二つが大きく関わっているけれど、子供の頃はそうしたことに頭を悩ませることもない。

 結果として今では陽キャのようなアクティブな遊びを好んでみんなでワイワイ仲良く時間を過ごすこともなければ、アニメオタクアイドルオタクのようにある一つの対象に過度に没頭してコミュニティ形成し、そこでのコミュニティーに強い仲間意識を持って生活することもない。陽キャにも陰キャにもなれず、中立的な立ち立場にいて、どこにも属さずに社会から孤立しているのがが自分である

 もっと早いうちから自分性質人物像を客観視しておけば後の人生もまた変わったものになったのかもしれないが、当時はそうしたことも難しく、後から結果論として物事を論じるしかない。それが人生というものなのだろう。

陽キャにも陰キャにもなれない人

 もう長いことフリーターニートを行ったり来たりしている。仕事に就いても長続きせず、職を転々とする日々。もうかれこれ十社以上職を転々としてきただろうか。就いた職業の多くは施設警備や物流倉庫でのピッキングなど責任の伴わない仕事ばかり。コミュニケーションの得手不得手以前に、人と関係を結んで生活していきたくないと考える。人に指示を出すのも嫌だし、人の上に立って何かを行うことも好まない。集団の中において自分空気のような存在でいたい。そういうわけで人間関係を維持することもままならない。まさか自分が将来このような生活を送るとは想像もしていなかった。子供の頃は学校卒業したらどこかの会社就職してバリバリ仕事に精励するものだと思っていた。それがこのありさである未来と言うのは本当に不確かなものだ。

 陽キャ陰キャ二元論物事を語るのは好きではないが、今日はそれについて語りたい。学生時代自分は割とスクールカーストの上位の方にいて、やんちゃで明るくてクラスでもみんなの中心となるような人物に囲まれ学生生活を送ってきた。といっても自分から進んでそうした人たちとコミニケーションをとって親睦を深めたわけではない。何というか気づいたら仲良くなっていただけのことに過ぎず、自分意思関係を構築していたわけではなかった。

 

 自分公立の小中学校に通っていたが、公立学校には実に様々な人間存在する。所得水準の高い家柄に生まれて幼少の頃から様々な習い事に触れてきて教養がしっかりと身に付いている人もいれば、親の社会的地位が高く、幼い頃から多大な投資を受けてきたことにより校内でもトップクラスの成績を誇る者。またそれとは反対に、貧しいが故にろくに教育を受ける機会のなかった人や両親がやんちゃをしていたために子もそうした性質引き継いで不良の道へと突き進んでいった人などなど実に属性の種類は豊富である自分たまたま同じクラスやんちゃなことをする人が多かったからなのか、なぜか彼らと共にいることが多かった。公立学校というのは本当にいろんな人がいるので、たまたまそういう人たちが近所に住んでいたから仲良くなったのかもしれない。詳しい事は自分にもよく分からない。

 彼らとは本当にいろんなことやってきた。定期テストをサボってゲーセンに入り浸って夜を明かしたり、ワックスで頭を塗りたくって度々生徒指導先生にお叱りの言葉を受けたりといったようにやることと言えば平気で校則無視してきたことばかりであった。そうしたことばかりしてきたので周囲の人間から自分はいたずら好きな人なのだ認識され、近寄ってくる人たちも自然自分と近しい人達ばかりであった。

 中学生活も終盤に近づいてくると高校受験という大きなイベントがやってくる。自分は一応塾に通っていたので高校受験受験をするつもりでいたし、そのための準備もしていた。しかし、しばらくするうちに自分と彼らとの間に深い溝ができ始めていることに気がついた。それは彼らが、僕が受験勉強に励んでいるのを快く思っていないのではないかということ。想像するところによると、自分高校受験に向かって勉強してるのがどうやら彼らにとって喜ばしいことではないらしいのだ。彼らの中でも自分はまだ比較的に経済事情が恵まれていたので、教育お金を費やすことができた。だから高校受験もできるし、将来の選択肢もそれほど狭くはない。しかし、彼らはそうではない。経済的に貧しいが故に教育お金をかけることができず、高校受験を受けると言う資格すら与えられていなかった。また受験できたとしても学業への意欲が湧かないことやどうやって勉強すれば良いのかわからないなどといった理由により、レベルの低い学校に行くかのいずれかしか選択肢がなかった。そうした中で自分だけ勉強して彼らのもとから離れようとしている。それは彼らにとっては喜ばしいことではなく、どこか心にわだかまりが残ることだろう。これはグループの一人が自分だけ集団から抜け出して別の道に進むことをイメージしてもらえればよい。ドロップ主人公自分だけ輪の中から抜けることや、ビリギャル主人公グループの反対を押し切って難関大学受験に挑むのと似たような状況である。結局、自分は難関校とは程遠い偏差値が50いくかいかないかくらいの自称進学校入学した。もともと勉強とは無縁の人間で、定期テスト100点中30点位がほとんどだったので、これが自分にできる限界学習であったと言えるので特に後悔はないのたが。

 高校に入ってから彼らと連絡を取ることもなくなった。もうすっかり別の世界で生きているような感じだったし、実際に会うことも何度かあったが、会話を交わす事はなく、以前のように親しい感じで接することもなかった。そこには陸と島ほどの距離感があった。そこそこ勉強して高校に進んだからこそ、彼らは自分自分達とは別の人間だと考えていたようだし、自分たちのような悪質な遊びをすることも好まないだろうと考えていたから昔のように悪ふざけをして遊ぶこともなくなった。

 高校高校中学までの人とは別のタイプ明るい人達と仲良くなってそれなりに楽しく日々を過ごすことができた。それでもたまたま仲良くなったから仲良くしていただけで、自分からそうした人たちと仲良くしたいわけではなかった。別に友達など作らなくても、一人で何かに没頭するような事があってもよかったのだけど、生憎オタクのように何か一つのことに強い情熱を注いだこともない。自分人生のものに関心がなかった。

 自分性質に関心を向けるようになったのは大学生活も終盤に近づいてきた頃である。これまでの学生生活を振り返ってみて、自分はどうしてやんちゃなことばかりしてきたのだろう、どうしてクラスでも目立つような人間とばかり付き合ってきたのだろうというようなことばかりを考えた。彼らと自分ベクトルの向きが真逆人間であるというのに。自分は目立つことが嫌いで、教室でも隅の方で目立たず静かに生活していきたいと考える人間だった。思えば、僕は自分から人に話しかけて友達を作ったことなどなかったような気がする。自分がどんな人間と仲良くなりたいかと言う考えも持っていなかったし、主体性を発揮して何かを行ったこともない。いつも周りに流されて生きてきて、自分意思自分人生を生きているという感覚がなかった。昔から自分は一人が好きで、人と関わりを持とうとせずに、一人で何かすることを好んできた。つまり、昔から自分自閉傾向のかなり強い人間だったのである。それでも何とか今までやってこれたのは環境の影響や周りの方から声を掛けてきてくれたことにより、そうした性質隠蔽され、それが浮き彫りにならなかっただけの事に過ぎない。

 周りに流されて生きてきて自分性質客観的に見る機会を持たない人間本来自分がどういう人間なのか分からなくなる。人間人格形成には遺伝的要因と環境的要因の二つが大きく関わっているけれど、子供の頃はそうしたことに頭を悩ませることもない。

 結果として今では陽キャのようなアクティブな遊びを好んでみんなでワイワイ仲良く時間を過ごすこともなければ、アニメオタクアイドルオタクのようにある一つの対象に過度に没頭してコミュニティ形成し、そこでのコミュニティーに強い仲間意識を持って生活することもない。陽キャにも陰キャにもなれず、中立的な立ち立場にいて、どこにも属さずに社会から孤立しているのがが自分である

 もっと早いうちから自分性質人物像を客観視しておけば後の人生もまた変わったものになったのかもしれないが、当時はそうしたことも難しく、後から結果論として物事を論じるしかない。それが人生というものなのだろう。

2022-08-27

anond:20220827175504

単純作業効率化したという記事ですよ

電動のレターオープナーで封筒開封し、求人票や会社パンフレットを取り出す。求人票に通し番号を振り、かごに入れる。その作業をひたすら繰り返す。男性教員は「流れ作業です。無心でやります」。

 6日までに届いた求人票は1千枚超。定期テストの期間中だったため、採点や評価の合間に作業をやりきった。

無心でやっていたそうなので生徒に想いを馳せてなどいなかった模様

2022-08-26

よくある家庭崩壊

正社員として働き始めてから毎週土日は出掛けてるおかげか、鬱になる暇もなくかなり心が健康になり始めた。

だけど、過去の嫌な記憶は暇さえあれば思い出して色々と考えてしまう。

から、これを機に過去地獄だった期間の記憶言語化して、過去清算をしようと思う。

この記事を完成させるのに思い出して書いてる間、精神的苦痛と元の文章力の低さ故に読みづらい文になっているかと思います。ご了承ください。

たまにここの日記見たりしてますが、ここの人達の長文書いてる人の文章力高いので、初投稿ビビってます

だけど、今は精神状態普通に良い社会人なんで正直にコメおなしゃす(^O^)

子供の頃の両親と自分

俺の両親は物心ついた時から既に仲は最悪だった。たぶん週1,2のペースで喧嘩していたと思う。喧嘩の内容の殆どは、父が不潔でそれに対して怒ってたと思う。問題なのは母がヒステリックな事なんだが。

母は子供に割と尽くしたりしていたが、その反面で父は無関心な方だった。(それで母がヒスってた事もあったな~)

たぶん中2くらいの時から自分が徐々に論理的思考できる様になったり、しっかりとした考えを持つようになった。それで、母の言動おかしいと思う様になり始めた。

今になって確信に変わったのだが、母は自分が思い通りにならないと怒ったり、言い合いでは論理性が一切通用しない人だった。自分にはめちゃくちゃ甘く、人にはクソ厳しい。おまけにADHD

高校までの自分は考えを言語化する能力が今より乏しかったし、世界がまるで見えてなかったから、何で正しい事が分からないのかと自分ヒスな母に対抗していた。

そしてお互いが暴れていても、父は依然として無関心。

高2の記憶

もっと前かもしれないけど、たぶん高2くらいかお金問題毎日喧嘩する様になった。

寝る前も、勉強中も、大事テスト間中も、部活が終わってクタクタな時も、、、如何なる時も母が叫んでた。

こうなると拉致があかないので、昔から俺が止めに入ってた。そしてこの時も。

最初は俺も落ち着いて止めに入っていたが、次第に母がエスカレートしていった。無理矢理に父の部屋から追い出しても辞めないので、手を出すようになった。

それでも母は叫ぶ事も愚痴をずっと喋る事もやめない。

当時は気づかなかったが、今思えばその頃から次第に俺の精神は壊れていった。

それからはもうめちゃくちゃだった。

人生唯一となる殺意がここで芽生えた。ストレス一方的に溜めさせてくるのは母なのに被害者面して、警察を何度も呼んだり。

そして、それがしばらく続いた後、自由がままに母は本当に意味もなくアパートを借りて、たまにそっちで過ごす様になった。(しかも2回。ただでさえお金が無いって発狂してるのに、本当に意味のない行動だった。俺からしたらそれも怒り所の1つだった。)

冬頃になると父は家を追い出された。

しかし、相変わらず母と同じ空間にいると一生矛先を向けてきたりして、また俺らの間で喧嘩になったりしていた。

そして不幸が重なり、家の給湯器が壊れた。母はアパートだったり近くの祖母の家でシャワーを浴びていたが、母方である身内は全員母の味方をしていて被害者である俺を責める様な姿勢だったので、シャワーを借りに行く事は出来なかった。

そして、ただでさえ忙しい学校生活の中、チャリで2,30分ほどのアパートにいったり、家でガスを使って身体を洗える分だけのお湯を貯めたりと、更に家にいてもゆっくり過ごせない状態になった。

高3の記憶

母のあんな感じのキチ●イが1年以上続き、ついに父がアパートを借りて二人暮らしする様な流れになった。

正直いって父は家事はまともにできないし、何より汚い。

だけど、母のあのキチ●イを毎日受け続ける生活より断然良いと思っていたが、割とそうでもなかった。

まず、母からは何も支援を受けず父から毎月3万を渡されるだけだった。

父は殆ど家事をしないし、勤務時間帯的にあんまり顔を会わせる事もなく、ほぼ一人暮らし生活スタートした。

そんな高3の大事な忙しい受験期に一人暮らしみたいな生活を強いられ、まともな生活費を渡されず、裏では受験費用は愚か目の前のお金すら悩まされて、そんな日々だった。

そして毎日死にたいと思った。そして起きている間、ずっと色んな事を考えるようになっていった。

気づいたら鬱になっていった。

学校にもサボり気味になっていった。

小学生の時からその時に至るまで、どんな日でも真面目に学校にいっていた。そして課題も真面目にやっていた。

そんな生徒が朝は起きれないし、授業も何も頭に入ってこなくなった。

当時の俺は疲れてるから怠くなって仕様がないよな~って軽い気持ちで考えたけど、鬱の症状で朝起きれなくなるらしい。

夏の引退までは変わらない詰まったスケジュールで、その上に家事や安さを考えただけの食事

日常が1mmも楽しくない、それどころか全てが苦痛だった。

夏のインターハイが終わり、とうとう本格的に受験期に入った。

半年以上まともに勉強していない自分学校に通って定期テスト等をこなしていくのに精一杯だった。

なのにも関わらず、馬鹿真面目だった当時の俺は大学受験しないと人生終わるとか狭いコミュニティに属していると出てくる典型的思考に陥ってしまっていて、周りに合わせて漠然大学受験をしようと思っていた。

そこからが更に地獄だった。

周りは徐々に成績を伸ばしていき、親のサポートも手厚くなっていったり目に見えてギャップがどんどんと見えてきた。

その頃にはプラス感情が湧かなくなっていった。友達と笑う場面でも愛想笑いだったり、周りが楽しそうにしているとため息が出てしまっていた。

白髪も段々と増え、ため息も常にする様になり、身体的にも鬱の症状が見え始めていった。

受験間近になると、また新たな問題が増え、もう書くの面倒だから省くが、更にストレスが増えていった。

今思うと、あの状態受験する人間がいるなんて笑える話だ。

こうして、今まで真面目に通学し授業を受け課題をして勉強して積み上げてきた人生無駄になった。

高校卒業

まあそんなこんなで高校生活が終わり、その後の予定なんて何も考えていなかった俺はそのままフリーターになっていった。その後のフリーター1年目の時に気づいたが、受験に落ちて良かったと本当に思っている。

もし受かっていたら、入学金やら準備やらのお金でまたストレスを抱えていた。そして、大学に入っても周りとのギャップ気持ちよく過ごせない日常で更に鬱が悪化していたかもしれない。最悪死んでたか

高校卒業をしてから気持ちが楽になった。

何よりバイトが楽しかった。今までは報われるかも分からない課題をどんどん突破していき遠いゴールを目指していたが、バイトはその場で対価が得られる。その感覚がずっと学生だった自分にとっては、すごく気持ちがよかった。

そんな感じで職場の先輩たちにも恵まれ、1年でお金を貯めて遠い場所にいって一人暮らしを始めた。

現在

事実小説よりも奇なりというが、本当にそうだと思う。

テレビでの不幸エピやドラマでの家庭崩壊物を昔にたまに見ていたが、まさか自分たちがこうなるなんて夢にも思わなかった。

一人暮らしを始めてからは全てが軽くなって、徐々に普通に近づいていき、日々に幸せを感じる様になっていった。

完治したと言いたいところだが、何かしらの物事トリガーになったり時々憂鬱な気分になったり、やはり鬱病の原因である母親を一生許せはしない。

未だに本人は1mmも悪いと思ってないし、昔と何も変わらない。

数年経ったら母もさすがに落ち着くだろうと思って関わってみても、やっぱり人間としてどうしようもない人は子供の頃から一生変わらないんだろうなって、母と瓜二つの祖母を見て悟った。

母が過去にしてきた事は、母が精神を追い詰められたが故と仕様がない気持ちを少し抱いてたが、これを見ると元からどうしようもない人間だったんだと笑えてくる。

母は頭が悪すぎるし嘘をついて自分が有利な立場になろうとするし親だから立場が上だと勘違いしているし、そもそも話し合いにならない。不思議祖母と母の喧嘩は成り立ってるらしい。もちろん彼女らは問題解決をした事はないが。

IQ20以上離れていると会話が成り立たないというが、これも本当だ。

まあこんな感じだから、母たちと関わるとアレルギー反応を起こすかの様にストレスが溜まるし、今関わらなくても後々面倒そうなので、縁を切りたいと思っている。

希死念慮が消えたかと言えばそうじゃなくて、昔みたいにどうにでもなれっていう考えたけど、幸せなまま死んでしまいたいって思う事はたまにある。

でも、死なないで今を生きて、そして楽しいと思えるのが本当に生きててよかったと思う。

普通に生きていたら今の視点視野にはたどり着けないだろうし、どっちが楽しいだろうかと考えたら、やっぱり今のルートなのかもしれない。

本当に人生何があるか分からない、良くも悪くも。

2022-08-17

増田勘違いを改めた方がいい

anond:20220816014148

大学あなた能力を伸ばしてもらうために卒業研究を課しているわけではないです。あなたが「〇〇大学☓☓学部卒」という資格を持つに足る能力があることを証明するために、卒業研究を完成させなければならないのです。あなた証明する側です。

能力証明せずに卒業資格を得るのはおかし

増田は「全学生には4年間を自由に過ごす権利があるため、様々な4年間の過ごし方が認めるべきだ」と言っています。それはその通りです。

しかし、「〇〇大学☓☓学部卒」に足る能力があることを証明せずに卒業資格を得たい、というのは完全におかしいです。エゴ研究強要しているのではないです。「〇〇大学☓☓学部卒」という資格を得るためには、あなた能力証明しないといけないのです。

あなたの主張は「医学部で6年間過ごしたんだから医師国家試験に受からなくても医師免許交付してくれ」と言っているようなものです。

大学社会人生活あなたに役立ててもらおうと、卒業研究を課しているわけではない

また、「研究社会人生活でどのように役に立つのか教えてくれ、定量的根拠を示してくれ」と言っています。これも勘違いです。

大学社会人生活あなたに役立ててもらおうと、卒業研究を課しているわけではないです。大学は「学部卒の資格を与えるには、卒業研究を完成するという形で、能力を示してもらう必要がある」と考えているのです。

資格を与えるのは大学で、あなた大学に対して証明する必要があるのです。

卒業研究内定必要

追記で「卒業研究をやらずとも技術職の内定4社からもらった」と書いてあります。その事実で「だから卒業研究必要ない」と言いたいのかと思いますが、端的に間違いだと思います

内定卒業見込みの形で出ていると思います。その場合あなた入社するためには卒業する必要があり、すなわち卒業研究必要です。なので、卒業研究をやらなくても内定がもらえる、は間違いです。

企業内定を出したのはあなた卒業研究を(就職するまでの間に)やるからです。やらずに退学したら、おそらく内定取り消しです。

学部によっては卒論がないところもあります(ブコメ等で多数指摘があります)。そういった学部必須単位が多かったり定期テストが難しかったりします。そのようにして、大学はその学部卒の人の能力担保しているのです。

なので、卒業研究必須学部卒業研究だけを無しにすると、能力担保できなくなるでしょう。あなた内定をもらえたのは卒業見込みがあるからで、それは卒業研究をやる前提です。なので卒業研究任意ではないのです。

あといくつか気になった点を。
あなた視野が狭いと思います

「今はインターネットを探せば、大学から提供されるものよりも分かりやすものはいくらでもある。社会から隔絶された場所に籠っている教授は極めて視野が狭い。」と書いてあります

あなた大学教授インターネットアクセスできないのでしょうか?インターネット上に(信頼性はともかく)様々なコンテンツがあることは、おそらく全ての教授が知っていますよ。レポートインターネット上のコンテンツからパクリする人とかいっぱいいますから(Twitterとかでも話題になります)。

そういったことが想像できない、情報が入ってこないあなたも、だいぶ視野が狭いと思いますよ。

看護大学学位もらえておかしいですか?

卒研やらなくても学位もらえる大学あるの初めて知ったわ。看護大学とかじゃないよね」と書いてあります

なんで看護大学だって思ったんですか?もし看護大学のことを偏差値基準に下に見ているのだとしたら、改めた方がいいですよ。

日記の書き出しにいきなり「まぁまぁ偏差値の高い大学」と書くあたりその辺りに自信があるようですが、そういう態度で人に接すると失敗します。定量的根拠はないですが。

2022-08-16

学習院卒の主婦学歴コンプを両親に転嫁してしまう。

父方と母方の祖父学者、父はみなし公務員、母は専業主婦という家に生まれた。兄、姉、弟がいる。

兄、弟は地元の区立小学校、区立中学校都立高校東京大学という祖父や父と同じルートを辿った。姉と私は祖母や叔母、母と同じく幼稚園小学校女子中、女子高、大学まで学習院一貫ルートを歩んだ。

兄と弟は小さなから勉強スポーツに厳しく打ち込まされていた一方で、私や姉は習い事、家のお手伝い、学校定期テスト期末試験宿題さえちゃんと頑張っていれば両親は褒めてくれた。

さな頃は兄と弟は大変そうだな、と自分が女に生まれてきたことを幸運に思っていたが、大学卒業社会に出たあたりから学歴コンプを抱くようになった。そしてその学歴コンプを「自分勉強の成果を求めなかった両親」に転嫁してしまっている。別に求められたところで実際に兄弟の進んだ都立高校東大に進学できた保障なんて一切ないのに。父の紹介で夫と知り合い、コネで入った公益財団退職して専業主婦になったんだけど、テレビ東大卒の女性タレントを見てもコンプ発症するし、そもそも夫も東大卒なので何気ない会話でコンプ発症する。

姉は何も気にせず幸せ主婦母親をやっているので、私が生き辛い性格の持ち主なだけだ。

2022-07-12

宗教二世リアルと苦しみ

今も状況変わらないので少しフェイク混ぜる。

まず実際に経験した一例

強制入会

・〇〇しちゃダメ行っちゃダメ

・いいことある教祖のおかげ、悪いことあると教えを守らないか

毎日教本読みなさい

・教えの筆記試験受験のため定期テスト前に強制勉強

・疲れて帰ってきた後に付き合わされる信者信仰動画鑑賞

苦しいこと

・幼少期から刷り込みにより怖さと罪悪感で信仰心なくても禁止事項を破ることができない

・大好きな親をこの時ばかりは嫌いになる

・親を頭おかしい人だと思われる

今パッと思いつくのはこれくらい。別に親が宗教信仰してるからってそれ自体は親の自由だし、ある程度その活動精神的に安定するとかの理由があるならしてくれていいと思ってる。大金つぎ込むとかもしてないし。

でも小中学生の頃なんかは禁止事項に当てはまる遊びを友達に誘われて、親に聞いたらダメって言われるし、高校修学旅行ではそれ回避するために友達になんて伝えたらいいかからなくて辛かった。とにかく宗教のせいで周りを巻き込みできないこてがある状態がずっとしんどかった。

小中学生の頃は親が学校に直接伝えて禁止事項当てはまることは一切しなかった。一回担任と二人で話したこともある。親子ともども頭のおかしいやつらって思われてるだろうなって勝手想像して、でも当然親にもそんなこと言えるわけなくて苦しかったし、今でも苦しい。

親のことは大好きだからおかし人間だと思われてると思うと本当に苦しかった。普段はめちゃくちゃいい親だから。まだ10前後の子供が、親のこと宗教だけで嫌いになれるわけない。

大学生になったから周りに知られることは無くなったし、自分の中で仕方のないことだってある程度折り合いつけれるようになった。諦めただけではあるけど。

でも小さい頃の私には耐えられるものじゃなかったな。洗脳と親愛で、今でも囚われてる。

この呪縛から解き放たれることは一生無いと思う。禁止事項を破ることは宗教否定してることに繋がるし、宗教否定することは親を否定することに繋がるってどうしても思ってしまうんだよね。親を否定なんてできない。今でもお世話になってるし、感謝尊敬しかいから。

親は好き。縛りがあって、キチガイだと思われてるかもしれないか宗教は嫌い。でも親は信仰してる。だから親に信仰したくないとは伝えてることはできないし、宗教二世でしんどかったことも伝えれない。ほんと一生ものの心の傷だよ宗教二世の苦しみは。

2022-07-05

不登校 バイト 大学進学 うつ病

 今現在不登校に悩んでいる中学高校生の中にも死んでしまいたいと思って日々の時間が過ぎていくのをただ待っているだけの生活を送っている人がいるかもしれないけれど。地獄のような生活から逃げ出したい一心自殺を考えている人には、少しだけでも楽しいと思えることができる日が来るのを待っていてほしい。どうか自殺へと行動を移さずに、今も流れ続ける時間を忘れられる方法で一日を過ごしてほしい。

そんな思いで書いています

 成人して数年、久しぶりに一本の煙草を吸ったらいろいろな記憶が蘇った。あの頃までは元気になんでもできるような気がしていたのに、ある時をきっかけに学校へも通えなくなった。

 時を遡ると、高校入学した15歳のころ。ある程度の学力がある人々が集まっていた高校なのに、私のクラスはいじめがあった。被害者はNくんとしておこう。Nくんは比較的活発なグループからまずいじめられはじめ、もともと彼が仲良くしていたおとなしめのグループからいじめられるようになった。彼がいじめられる姿を見て、情けない姿を皆が嘲笑うようになった。私はそこに存在するただの傍観者だった。

 時々、私は彼と帰った。Nくんは太鼓の達人が大好きで、放課後ゲームセンターで上手なプレイを見せてくれた。彼は確かに挙動不審なことが多かったが、それでもいじめられる理由にはならないはずだった。私はその中で、彼がいじめられ続け精神的に追い込まれ部活も行けなくなったこと。勉強も手につかなくなったことを知った。それでも私は彼とたまに帰宅する程度の仲を保っていた。

 このころ、母が国指定難病罹患してしまった。そして私は最低の行為をしてしまった。うつ病の薬のこともあり記憶にもやがかかっているが、自分が最低のことを母にしてしまたことは覚えている。

 体調を崩し脱衣所で四つん這いになったままの母に、私は「何してるの? 大丈夫?」という声をかけながら、心の中では私だって忙しいしつらいのになんで家事をしてくれないんだろうと母を責めた。もちろんそれは口に出さなかったが、それと同じくらい非道言葉を母に投げかけた。

「体調が悪いふり?」なんて、今考えるとどうしてそんなことを言ってしまったのかわからないほどの言葉を投げかけたのだ。当時私は母が何に苦しんでいるのかつゆ知らず、難病のことも知らされておらず気を許せる友達もいない戦場のような高校必死に通っていた。

 母はまもなく入院となり、それが信じられなかったのかもしれない父は私には何も教えなかった。家庭から笑顔は消え、父は仕事、私は学校へ通い夜は二人で家事をするという無機質な日々だけが続いた。

母が数か月後家に帰ってきたとき彼女は骨と皮だけのような姿になっており、帰ってきて階段を上がりきった途端にリストカットするような素振りで「死にたい」と何度もつぶやいていた。私は綺麗だった母が幽霊のようになってしまたこと、悲壮感に溢れた声にもならない声で言ったことに大きなショックを受けたことは覚えている。

数か月後、母は元気になった。朝に起きられるようになり、私の朝ごはんを作ってくれるようになるまで元気になった。抜け落ちていた髪も、青々と茂る夏の木々のように生えそろった。

 朝ごはんを食べ終わり、自室に鞄を取りに戻って登校しようとしたある日、私は階段下りながら涙を流してしまった。すすり泣く私を母が見つけ、その日は学校を休んだ。思えば、この日が私の不登校と出不精のはじまりになってしまった。今思うと、知らぬ間に心にダメージを負っていたのだと思う。

 この数か月前から、授業を聴いていても何も頭に入らず、自分がひどく落ちこぼれたような気がして意気消沈していたのを覚えている。数学テストでは一桁の点数を取り、頭の良い生徒ばかりの高校ではあり得ないほどの点数を取った私は、周囲から馬鹿にされた。盗み見られたその点数を見て。Nくんをいじめていた悪魔から「あたまわっるいね馬鹿なっちゃった?」と言われたことを、今日煙草を吸いながら思い出した。

 体調が悪いと言って登校しなかったその日から、私は完全に学校に行きたくなくなった。もうすぐ高校二年生になるころだったのに、私は自宅でうつろに日々を過ごすのみだった。このあたりの記憶防衛反応によるものなのかほとんど残っていない。覚えているのは、今でも大好きな昔の映画を観たり、小さいころに観ていたポケモンアニメを見ながら昔は良かったなと思いを馳せていたことくらいだ。まるで老人のようなその生活を見た母は、私を精神科へと連れて行った。そこでひとまず一種類の薬を飲むようになり、だんだんと種類が増えていったあたりから私は昼過ぎまで起き上がれなくなった。

 こうして”立派”な不登校になった私は、デ・ニーロのグッドフェローズダニー・ボイルの(ユアン・マクレガー名前を出したほうが分かる人が多いかもしれない)トレインスポッティングを観たり、破滅的な思考をなんとか創作の中で味わい続け、自殺を耐えていた。

 結局、高校2年生の1年間はほとんど学校に行けなかった。

 詳しいことは知らないが、3年生に上がるころ担任から「3年生になると2年生のころのように不登校のままだと卒業ができなくなってしまう」ことを告げられ、私は仕方なく登校を再開した。

 正直2年生のころも同じようなことを言われて、もうどうせ進級もできなくて中卒不登校ひきこもりになってしま未来しか見えていなかった私は、4月から懸命に学校に通った。死にたいことを何度もほのめかす私を。父と母は応援してくれた。父は通勤用の車を私のために家に残し、毎日40分近く自転車を漕いで通勤していた。母は私を学校と自宅まで送迎してくれた。毎日だ。

 途中、休むときもあったが基本的には登校ができていた。Nくんへのいじめ常態化していたクラスいたことで脳にダメージがいっていたのか、相変わらず記憶が思うようにいか勉強はさっぱりできなくなってしまっていた。1学期、定期テストではひどい点数を取り、受験どころか卒業が危ぶまれた。担任から何とかならないかと言われたけれど、何とかなんてならないことは私が一番分かっていた。

 あのころどうしていたのかは分からないけれど、2学期からは死に物狂いで勉強をし、数学では及第点、1学期で0点に近かった世界史テストでは90数点を取った。とりあえず3学期もまた90点ほど取れれば卒業はできるだろうと考えて、3学期も同じくらいの点数を取った。記憶がうまくできなかったので、本当に反復の反復、さらに反復のような状態だった。(今では治った)

 大学ももともと目指していた高偏差値のところなんて行けるはずもなく、必死に受けたセンター試験を利用してそこそこの大学に入った。幸い、高校入学するまでに相当勉強していたのでほとんど勉強しなくても9割近く3教科は取れたのだ。それでも自分にとってはショックで、大学に入っても落ちこぼれた印象はずっとついて回った。

 心を入れ替え大学に通い始めたけれど、不登校の癖がついてしまっていて社会的生活に恐怖を感じていた私は、数か月で電車通学が苦しすぎて中途退学してしまった。

 今、その大学に入りなおしてそろそろ卒業を迎える。内定も得て、自分のやりたかった職業チャレンジできる未来が見えている。

 それでも、いじめを見て疑心暗鬼になっていたことの私の時間は帰ってこない。電車に乗って高校生を見ると、あのころ違う高校に通っていればあんな思いもせずに記憶障害のようなものに悩まされることもなかったのかもしれない、と思ってしまって稀に目に涙が浮かんでしまう。

 それでも時は流れ、日々は続いていく。あの頃は帰ってこないし、私もも20台中盤だ。物事に折り合いをつけられるようになり、バイトまでできるようになった。他人と話すのが怖かったくらいだったのに、今ではコミュニケーション能力も高いよね、と年齢が上の方々からも言っていただけるようになった。(バイトを通して苦手だったコミュニケーションを何度も何度も練習するつもりで磨いた)

 

 今、どうしようもなく不安になってこの日記を書いてしまったが、最近うつ病のような症状も収まりひきこもる頻度も減った。それでも時折、元気がなくなると数日ひきこもってしまう。大学生活だってストレートはいかなかった。体調を崩しひきこもった瞬間もあった。

 それでも父と母は私を理解してくれ、応援してくれた。父に関しては昭和の男だから鉄拳制裁を喰らって殴り合いのけんかになってしまたこともあるけれど、いつの日かを境にうつ病を抱えている私を理解してくれるようになった。遊びに誘ってくれたり、断っても体調が悪いなら仕方ないと理解してくれるようになった。

 うつ病の薬を断って、大学でのストレスからやせ体形だったはずなのに食にストレスをぶつけてしまって今では30㎏ほど増えてしまったし、今の体形の自分は嫌いだけれどそれでも毎日を楽しくは過ごせている。だからこそ、今不登校に悩んでいたり死んでしまいたいと思っている中、高校生学生の同じくらいの年齢の方々に伝えたい。

 どうか諦めずに、つらい今は好きなことをして時間が経つのを待ってみてほしい。

 男だから泣くんじゃない、女だからはしたないことなんてするななんて声は無視してしまえ。男だって泣いていいし、女だって冒険をしてもいい。

 いつしか心に余裕ができて、何かができるようになるかもしれないから。

anond:20220705223820

大多数の、学校定期テストは出来てて、故に勉強出来てるつもりの生徒は正しいやり方も要領も身につけられず、早稲田キャン下位はおろか所沢MARCHすら受からいから深刻度合いが違う。

anond:20220705223806

定期テストはすごく出来がいいのに「実力テスト」的なものになると何故かできない同級生がいたなあ。

俺はどっちかというと逆だったが。「基本を応用する方法」なんて教わらなくてもできるというか、基本を理解するために考えていれば自然とそうなるだろと思うけど。

anond:20220705223238

逆だ。定期テストはできないけど、模試試験は直前に詰め込んでそれなりにできる。でも怠け癖がひどくて努力できない。結局浪人して予備校行っても本気になれず、私文専願一浪早稲田教育以外全落ち。

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