はてなキーワード: 宗教画とは
いや、むしろ段階的に進歩することのほうが多いんじゃないかな。
先人のパクリが絵の基本。
書道とかだって、手本があってそれを真似て書くのが最初じゃん。
それをさんざんやって、延々とそのスタイルかそれをちょっとだけ踏み越えたものを作れるようになるのが普通。
スケッチする以上に、先人の絵を模写してたはずだよ。
歴史画とか宗教画が最上とされていたんだから、そこに居合わせたわけじゃないのに描けるわけがない。
デッサンだけでなくて、絵の具の調合法から、紙の秘密から、ぜんぶ門外不出だったからな。
誰でも絵を学べるわけじゃないし、短い一生では先人の殻を破るのが限界で、せいぜい踏み越えられるのは先人の積み上げプラス一歩か二歩。
先人の限界を破り、自分が確立した新たな画風をさらに自分が破りを繰り返した画家はあんまりいない。
多くの画家の若い時の作品は、コレクターズアイテム的な価値はあっても、アートとしての価値はないゴミみたいな絵がほとんどなわけで。
それだって、その絵を描いた人が革新的だったわけじゃなくて、その工房のプロデューサーやディレクター、あるいは下請けのなにかの工程を担う職人のアイディアかもしれない。(というか、そういう場合のほうが多いと思う)
あらゆる流派の画法を独学でマスターして(異国の文書を読みあさり、死体のスケッチやら整体師への弟子入りまでして)、普通は門外不出であるためのスケッチ集(北斎漫画)やら画法の解説やら西洋画の画材の作り方まで出版して世間に発信した北斎はレアキャラ中のレアキャラだが、天才じゃない。
デビューも遅いし、初期の作品は平凡で、天才型じゃなくて努力型。
凡人が道無き道をひたすら突き進んでいるうちに、世界を変えることが出来た稀有な例。
デビューから死ぬまで最初から最後までトップシーンを走り続け変革し続けた。
砂に埋もれてくしゃくしゃ
地は侘しく平らかに均された
跡なき力強い御手によって
遺跡に遊び
ポリ袋を叩いて鳴らした
勇敢なる男たちと女たちは神を敬愛し
朽ちた襤褸たちの知るところとなった
口ずさむ:私を愛していますか?
私をおぼえていますか?
私のうえに雪がつもる
幾重にも幾重にも層を成して:
これも神の掌のうちなのか
他の娘たちは埋葬される
無縁墓地*4の土のなかへ
日々を刻んで通りすぎる
二万の死者たちがあなたの歩みに寄り添うところ
気だるい鳥達のさえずりのなかで失われていった彼らの死因
彼らの残した記録はどうしたって謎めいている
すべては廃れて消えた
蛍光なしではね
私もがんばってきたんだよ でも
私の愛していたものを思い出して、私を抱きしめて、なんて言わない
なんどもなんども医者を呼んだ
そして絵の中に生きる
彼は言った:
「大丈夫」
「もう終わったよ」
そして飛行機に乗った
ベルトを締めずに
彼はとんでもない向こう見ずで有名で
“ぼうや”と呼ばれ
落下へと突き進んでいった*7
そして私たちは水準をあげる
狩人たちは
そして驚きをもって見つめて
私たちの髪をピンと逆立てると誓って
慈悲を! 神よ!
出て行って、狩人が石碑を解読するのを待って*9
この街の下に何が横たわり、去っていったのか
見よ、そして絶望せよ
見よ、そして絶望せよ
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1 シェリーの詩『オジマンディアス』より。古代エジプトの「王のなかの王」オジマンディアスを詠った詩。このあと続く砂漠や遺跡のイメージはシェリーの詩に準じている。全体をつらぬくモチーフでもある。
3 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作の絵画についてのエピソード。この作品は長いあいだ、旧約聖書外典トビト記を下敷きにしたポピュラーな宗教画モチーフ「トビアスと大天使ラフェエル」の絵だと信じられてきたが、のちの研究でもともと「母親と子供」の図として描かれたものをティツィアーノの弟子が宗教画へ改変したものと判明した。
ちなみに「トビアスと大天使ラフェエル」はこんな話。ユダヤの盲人トビトの息子トビアスは、父親から昔貸した金を回収するように命じられてメディアの地まで旅をする。そのとき同行者として大天使ラファエルがトビアスについてくる。トビアスは旅から帰るまで、自分の同行者がラファエルだと気づかなかった。
4 歌詞では「potter’s field ポッターズフィールド」。無縁墓地を指す。語源は新約聖書のマタイの福音書。銀貨三十枚でキリストを売ったユダは自責の念からクビをつって自殺。ユダから押し付けられた銀貨のあつかいに困った祭司長たちは陶器職人(potter)の地所を購入し、行旅死亡人の墓地に定めた。
5 ワシントン・スクエア公園のこと。パリの凱旋門をモデルにしたワシントン・スクエア・アーチが建っている。もともとは貧困者用の無縁墓地で、今もその下には2万人以上の遺体が埋まっているという。
6 オーストラリア人画家アーサー・ストリートンの絵『Spring』の元ネタになった人物のこと。ストリートンの恋人だったらしい。
7 「ニューヨークの市長坊や」の異名を取ったジョン・パーロイ・ミッチェルは1914年から17年までの三年間、ニューヨーク市の市長を務めた人物。彼は当時ニューヨークを仕切っていた悪名高き集票マシーン(一種の政治団体)タマニー・ホールと激しく対立し、17年の選挙で落選するや第一次世界大戦に参加するため空軍へ入隊した。入隊の翌年、彼は飛行訓練中の事故で死亡。原因はシートベルトを締めなかったことによる落下事故だったという。
http://anond.hatelabo.jp/20140828222646
太陽系の惑星は太陽の周りをまわっているといわれ、科学の本の口上や数式上ではつじつま合うし、それと矛盾しなさそうな図解も沢山されているけど、きみはそれを直接見たことはあるのかな?実は、現在のわれわれの知識レベルは、むかしの人が太陽が地球の周りをまわっていると思っているレベルの理解かもしれないよ、未来の人からしたら。超ひも理論だの、なんだか新しい概念もあるし。量子力学の世界は数十年前は、まるで宗教だもの。ボーアの原子モデルも厳密には嘘だったわけで、われわれが信じ込んでいる科学モデルのたくさんの図解も、欧州の教会あたりにたくさんある宗教画みたいなものかもね。
科学も「科学教」じゃないのかな?「科学は再現性がある」っていわれるけど、本当?普遍はなずが、しばしばくつがえされるのはどうして?そもそも、普遍的なものをわれわれは発見できるのか?
だったら、芸術品としては認められない といえばいいだろ。
美術品としては認めるがクレームがつくから展示できない。というのはナンセンスだ。
第一、だったら キリスト教的な宗教画を展示するな。仏像を展示するな。
どこからが展示できる宗教・政治的な作品で、どこからがダメか?をクレームがつくからで足きりするのはあきらかに、言論の自由に反してる。
美術品としては認めるが、反対者からクレームがつくから展示できないというのはナンセンスの極み。
だったら、反キリスト教的な宗教からクレームが付いたら2度とキリスト教的な絵画を展示しないのか? そんなわけないだろ。 判断が個人的すぎる。公営組織を運営する裁量に欠けている。
(1)証拠がまったくないことを真実のように語るのは悪←時と場合による。例えば人が「死後の世界」の概念に縋りながら死んだ場合、個人の幸福という観点からは必ずしも悪とは言えない。多様なケースが考慮されておらず、そもそもこの主張自体に確固たる論理的保証が無い。
(2)宗教はそれらの課題にもがき苦しむ現存在の本来的な営みから目をそらす商売だ←存在の知覚をどのように成すかという点でどちらも変わらない。そもそも宗教概念自体は商売に本質を置いているとはいえない。宗教より形成された倫理でさらに苦しむ場合もあるため、目をそらすという言い方は適切ではない。
(1)倫理はそれぞれの個人が徹底的に追求することでしか本当の姿を見せない(だからずさんな倫理を放言するのは不道徳な悪だ)←論理的保証が無い。倫理がミームの集合体ならば「本当の姿」など個々人によって無限にあるとしか言えないし、本質が違うという訳でもない。倫理を放言するのが「悪」であるという主張もケースバイケースとしか言えない。
1:今日の基盤となる倫理を作った事。共同体が維持していく要素に正当性を付与した事で、今日では違法とされている殺人や窃盗等を禁じたので、結果として人民の大部分に利益が齎された点もある。
2:司祭階級が集まった金で芸術的建築物を建造した事や、今日の宗教画のモデルとなった事により、素晴らしい文化遺産を生み出すのを手伝ってくれた事。
3:安全や恐怖のミームを求める欲求に応えた事。不安な時に祝詞を唱えたり、死後の世界の概念で平安末期の人民の精神ストレスを緩和、消化してくれた事等。