はてなキーワード: 安直とは
GⅠ七勝という偉大なサラブレッド・キタサンブラックを題材に、一体何をやりたかったんだこのアニメは?
俺には「ウマ娘今人気だから続編作ってね。主人公はキタサンブラックで。」って言われて仕方なしに作った、くらいにしか思えなかった。
1期はサイレンススズカという伝説を再び現代に蘇らせてやろうという野心を感じた。
2期もトウカイテイオーの奇跡の有馬記念は衝撃だったし、メジロマックイーンとの激闘を友情というフィクションも絡めて見事に表現したと思う。
3期は何?
サトノダイヤモンドとのライバル関係が一番やりたかったのか?それにしては、「サトノダイヤモンドの方が覚悟が決まってたから勝った」なんて安直な理由付けであっさり負けさせるのはひどく淡白だった。
ジャパンカップでようやく勝てたシュヴァルグランが裏主人公という構成にもできただろうが、それまで何度も出てきたのにただ出てただけで、ようやくキタサンブラックへの執着が描かれたのが12話では…12話でそれやるなら、それまでの11話で伏線張っておこうとか思わなかったわけ?
馬主が有名人だからこそのお祭り好きとか人助けとかのキャラ設定、なんで商店街の人たちなんて狭い範囲に限っちゃったかな。最終話で老若男女が皆応援していた、あれが本来のなりたかった自分だろうが、それならやっぱり商店街以外の人とロクに関わってないのが雑すぎる。
他にも、ドゥラメンテという強い相手に勝てない、自分は才能がないというコンプレックス。GⅠに出場できてるだけでも相当な才能だろう。全く納得できなかった。
全体的に、立ちふさがる壁として「女子高生の等身大の悩み」みたいなものが多かったと思うけど、それなら女子高生の部活のアニメでやってくれ。ウマ娘たちは、日本中の人たちが熱狂する舞台に立つ特別な存在だろう。
一番気になったのは、中盤辺りで八百屋が仕入れてたバナナのダンボールのデカさ。確実に人間では持ち上げられない、ウマ娘の腕力頼みの巨大ダンボール。お前、自分の仕事キタサンに押し付けてんじゃねーよ。手伝ってもらうとかいうレベルを逸脱してんだよ。
「デカすぎる箱っていうギャグだろ何ムキになってんだw」「重箱の隅をつつきすぎw」と思うか?俺は背景とか細かい演出は、目立ちにくくてもそれを描く以上は、世界観に説得力を持たせる役目を負ってると思う。何も無いなら描かなきゃいい。あれを見て、監督も誰も何も言わなかったんだなと思った時点で一気に白けて、その後は視聴のモチベーションが「この文句日記を書くためだけに一応最後まで観る」だけになった。
ソシャゲの方は今はもうやってないけど、プレイしてた当時はストーリーが素晴らしいと思ってた。アニメと遜色なく動いて喋って、誰を主人公にするかなんて制約もなくそれぞれのウマ娘の輝かしい戦績、頑張り、苦悩や葛藤がいきいきと描かれてたように思う。
わざわざアニメを作る意味って何だと考えさせられる作品だったな。こんなもんよりゲーム画面そのまま放送したほうがよっぽど良かったんじゃないか。
すん@製薬工場勤務 @shin_gmp
ダイハツの第三者報告書にあった下記8つの状況がブラック企業あるあるで、かつ身に覚えがありすぎて笑えんのよ
①試験は合格して当たり前。不合格となって開発、販売のスケジュールを変更するなどということはあり得ない
②日程に間に合わないと感じ手を挙げると「なぜ間に合わないのか」「どうしたら間に合わせられるのか」「今後どうするのか」の説明に追われる
③問題が起きた時の「で、どうするの?」といった、問題を発見した部署や担当設計、更に言うと担当者が解決するのが当たり前という組織風土
④ 「失敗してもいいからチャレンジしよ」でスタートしても、失敗したら怒られる
⑤助け合う風土は基本的には無い。またそのような環境にあるため「既にスキルを持った人間(=一般的にいう「できる」人)」への負荷が大きく、逆にそれに当てはまらない人間に対し安直に使えない扱いをする傾向にある
⑥なんとか力業で乗り切った日程が実績となり、無茶苦茶な日程が標準となる
⑦管理職は表向きは『何でも相談してくれ」というものの、実際に相談すると、「で?』と言われるだけで相談する意味が無く、問題点を報告しても『なんでそんな失敗したの』『どうするんだ』『間に合うのか』と詰問するだけで、親身になって建設的な意見を出してくれるわけではない
弊社かな?
①試験は合格して当たり前。不合格となって開発、販売のスケジュールを変更するなどということはあり得ない
②日程に間に合わないと感じ手を挙げると「なぜ間に合わないのか」「どうしたら間に合わせられるのか」「今後どうするのか」の説明に追われる
③問題が起きた時の「で、どうするの?」といった、問題を発見した部署や担当設計、更に言うと担当者が解決するのが当たり前という組織風土
④ 「失敗してもいいからチャレンジしよ」でスタートしても、失敗したら怒られる
⑤助け合う風土は基本的には無い。またそのような環境にあるため「既にスキルを持った人間(=一般的にいう「できる」人)」への負荷が大きく、逆にそれに当てはまらない人間に対し安直に使えない扱いをする傾向にある
⑥なんとか力業で乗り切った日程が実績となり、無茶苦茶な日程が標準となる
⑦管理職は表向きは『何でも相談してくれ」というものの、実際に相談すると、「で?』と言われるだけで相談する意味が無く、問題点を報告しても『なんでそんな失敗したの』『どうするんだ』『間に合うのか』と詰問するだけで、親身になって建設的な意見を出してくれるわけではない
小さい頃から自分の二面性というか、「どうしようもなくキレやすく、暴力を振るう時期」と「人生に対して完全に悲観的になってしまう時期」があることを自覚していた。
感情コントロールで非常に苦しんだ。安直に「どうにかしてこいつを殴りたい」と思ったことは数え切れない。もちろん行動には移さない。それくらいの社会性はある。
母親も祖母も「躁」のときはキレまくっていたし、散財しては父親に怒られていた。とにかく元気でハキハキと仕事をこなすのだが、一旦怒らせると自室のものを全て壊された。
「鬱」のときはまた別の地獄が家庭に漂った。料理も育児も全部放棄。家にいると陰鬱が移るから、友達のいるところへ逃げ込んだ。
自分は二人の様子を見て「こうはなるまい」と中学生時に決意した。以降、明確な人間関係のトラブルや、差し迫る危機などには縁がない。
が、薄氷を渡り続けている。イライラしたらオンラインショッピングで数十万円分の買い物をする。それがパートナーにキレる前のストッパーとして機能している。どうしようもなく鬱な場合、隙があればすぐに死んでしまうような気がして、救急外来のグロテスクな密着番組を見る。死は常に自分の隣に存在する。躁フェーズでは死は丁寧にマスキングされる。
ジェットコースターという例えは言い得て妙だ。「人生ってこんなに素晴らしい」と涙を流した数ヶ月後には「死にたい」という気持ちにどっぷりと浸かっている。自分の人生は忙しい。躁であれば数日徹夜で記事を書けるし、執筆後のフルタイム労働だって楽勝だ。鬱になると全然ダメだ。仕事が終わったらベッドに直行、そうしなければ死んでしまう。双極症の自殺リスクはうつ病のひとより結構高いらしい。それはそうだと思う。どちらに感情が揺れ動いていたとしても、自分にとって「死」は階段を一歩駆け上がるよりフランクな行為だ。ただ痛いのだけが嫌だから後回しにしている。
鬱から躁へ動く瞬間は天国にのぼるくらい気持ちいい。シャブをやったことはないが、それに似たような気持ちだと思う。躁から鬱は地獄だ。文字通り立ち上がれなくなる。まともに職業をやれているのは逆説的に「このレールを外れたら死ぬ」と思い込んでいるからだ。
先ほどちょうど躁転の瞬間があった。今日という今日まで人生というものに飽き飽きしており、いつどのように死ぬかを考え、遺書を3通したためていたが、今は何と、将来の輝かしい未来ばかりが脳内を駆け巡っている。だから慰みにこんな文章を書いている。
自分はおそらく長くは生きていられないだろう。一ヶ月前は全てが灰色がかって見えた。大切にしてくれる友人やパートナーや家族といった有機体を凌駕する「脳内物質に振り回される自分の滑稽さ」と「永遠に続く単振動の苦しみ」がそこにはあって、逃れる方法はただひとつだ。自分はきっと(多分ひとより短い)一生の大部分をこの病気に振り回されて終わるのだろう。ラピッドサイクラー型に有効な治療法は少ない。
だが、少しは粘ってみるのだ。
双極性障害は「双極症」に名前が変わった。だからどうということでもないが、毎日這いつくばって、延々と続く日常にしがみついて、双極症の世界を生きている自分にとって、少しだけありがたく思う。
ゴミみたいな人生だ。ただ、時間を浪費するだけの無意味で無価値で空虚な人生だ。早く死にたい。俺が死んでも何も変わらないし、誰もそんなにつらく思わないだろう。ちょっとびっくりして数日気になるかもしれないが、どうせすぐ忘れられる。母親ですら、対して気にしないだろう。どうせ神に祈ってこれも試練だとか言ってそうだ。誰も俺なんて見てないし、俺の苦しみになんて興味がない。俺も興味がないからしょうがないと思うが、正直寂しい。人生になんの意味があるというのだろう。どうせ死ぬのに。どうせすべて無に還る。このまま生き続けたところで、希望があるわけでもない。もしかしたらなにか逆転劇があるかもしれないと思えるほど俺は馬鹿じゃない。異世界転生が流行るのも、俺みたいな考え方の、現世に希望を持っていない人間が多くなっているからだろう。死んでからなにかすごいことが起きるかもっていうのは、もう現世になんの希望も持てないということだ。どうせ生きてたところで何も変わらないし、何も得られない。分かりきってしまっているのだ。ネットの普及のおかげで、大体のことは想像がつくようになってしまった。だから、人生が終わってる人は全く希望が持てなくなってしまったんだ。奇跡を信じられるほど馬鹿じゃない。ネットの普及というのは、知識を与えることで、バカでいられなくすることに繋がる。バカでいられなくなると、こうすべきというのがはっきりと見えてしまって、苦痛につながる。むしろ不自由になるのだ。「こうすべき」というのに引っ張られて、今のままでいることが不安になる。しかし、不安になっても、「こうすべき」という指標に到達できない。だからとてつもない苦痛が生まれる。どうしようもない。現世は諦めるしかないという考えになる。安易な希望は、大きな絶望につながる。だから最初から期待しないほうがいい。期待が生まれるから絶望がより大きいものになるんだ。手に入れられないものをいくら追い求めても無駄なんだ。惨めだ。哀れで愚かだ。これが最後の恋になるなら、死んでしまいたい。俺にはもう希望がない。どうやったら、これ以上幸せになれるのか、全く見当がつかない。俺がもし社会復帰したとして、どうやって恋人を見つけるというのだろう?まず無理だろう。死にたい。こんなに苦しいのなら、最初から知りたくなどなかった。安直な希望を持つから、こんなに苦しくなるのだ。馬鹿だ。今死ねば、少しはましな人生な感じがする。このタイミングが、一番まともに近づけたタイミングだろう。ここからは更に落ちていくだけだ。もう考えなくてもわかる。さっさと覚悟を決めるしかない。でも怖くて仕方ない。こればっかりだ。損切りするなら今なのに。惨めで愚かな結末だ。何をしてるんだろう。バカみたいだ。女子高生の一瞬の気の迷いで、間違って付き合っただけなのに、まるで自分に価値があるかのような勘違いをして。本当に馬鹿だ。愚かで情けない。もう二度とこんな機会はないんだろうな。あぁ、分かれる前に一回会っとけばよかった。駄目か。会ったら嫌われてしまうし。どっちみちこうなる運命だったんだ。最初から付き合うなんて選択をしなければよかった。頭が悪すぎる。自分の意志で生きていないから、こうやって他人に流されて、他人の都合で捨てられる。自分の意志で生きなければ、これは変わらないだろう。でも俺には無理だ。自分の意志で自分の人生を決めたら、その責任を取らなくてはいけなくなる。それが無理なのだ。俺の人生はどこまでも乾燥していて、ぱさぱさとしている。他人の潤いを奪うことしかできない。自分で自分を満たすようなことができない。だからどこまでいっても惨めな結末になる。早く死のう。こんな人生は生きてるだけ無駄だ。気を紛らわしているのももう限界だろう。成すべきことをなすしかない。覚悟を決めろ。
なんて無意味な人生なんだろう。俺は一生孤独に生きていくんだろうな。こんな惨めな人生、耐えられない。早く死にたい。こんなに孤独がつらいなんて。元々こんな感じだったが、更に落ちた。俺の人生は、価値のある人生だと思っていた。だが現実はどうだ。障害ばかり負って、なにも得られず、ただただ惨めなだけの人生だ。なんて愚かなんだろう。このまま惨めに、孤独に、愚かに年老いていき、死んでいくだけなんだろうな。自殺を止めたJKが表彰されていたのに違和感を示す人が多くいたが、たしかにそうかもしれない。俺みたいなのに安易な希望を持たせても、次に落ちたときに更に奈落の底に落ちていくだけだ。上がった分、落ちる距離も伸びる。なんて惨めなんだろう。俺達底辺は、一生救われることなく死にゆくだけなんだろうな。こんな思いをするなら、さっさと死んでしまおう。生き続けて、何になるというのだろう。ただ社会の迷惑になるから、自殺してはいけないというだけじゃないか。他人の迷惑なんて考えてる余裕はない。それに、助けてくれない人間の言うことなんて聞く必要があるのだろうか。そんなものはない。ただ奴らの自己満足のためでしかない。不快だ。早く世界を終わらせたい。この春の、ムズムズするような、浮足立つような空気感が嫌いだ。全員死ねばいいのに。不快すぎる。俺の知らない所で、この季節を楽しんでる奴がいるというだけでとんでもなく不愉快な気持ちになる。早く死にたい。俺は永遠に置いていかれるだけで、奴ら普通の人たちに追いつくことはできない。淡い希望を持ったばかりにこうなった。馬鹿だ。早く死にたい。
母親は神に祈れだの神の勉強しろだの、俺のことを見る気がない。俺の辛さをわかる気がない。
他の家族も、俺を見ているというより、家族が死ぬというのが嫌なだけ。俺のことなんて見ていない。
周りの福祉関係の職員も仕事だから自殺されたら困るから止めてるだけ。俺のことなんて本当はどうでもいい。仕事だから仕方なく構ってるだけ。もし俺が死んだとしても次の日には忘れてる。
他の人もそうだ。どうせ俺が死んでも面倒なやつが死んでくれてせいせいするとしか思わない。
こんな人生を続けるのはしんどすぎる
早く死にたい
長生きしたところで苦しみが長く続くだけだよ。意味がない。誰も俺のことなんて詳しく知らないし、知る気すらない。別にいいけど。俺だって俺に興味ないし。無価値だから早く死ねばいい。人生の消化試合がこのままダラダラと続くくらいなら、まだ若いうちにさっさと死んでしまったほうが儚くていいだろう。年老いて自殺しても醜いだけだ。このままこの苦しみが続くのなら、死んでしまいたい。どうせまともになれないんだから、死んだほうが早い。人とまともにコミュニケーションがとれないゴミは人間社会にとってどう考えても邪魔で、不要な存在だよ。健常者はみんな障害者なんて醜くて汚くて面倒臭くて邪魔だと思ってるだろう。だから税金を障害者に使うのもこれからどんどん減っていく。どのみち社会的に死んでる存在だ。このまま惨めに終わっていくのなら、早く死にたい。
これ以上歳をとって醜くなる前にさっさと死にたい。
これでもまだ誇りを捨てないでおこうという気概が自分に残っていることに少し驚いた。なんでだろう。今の時点で相当終わってるのに。わからない。何気に自尊心がまだ少しは残ってるのかもしれない。俺がまだ高校生なら、もう少し生きていようと思えたのに。もうあの頃には戻れないし、もう完全に取り返しがつかない。全てにおいて終わってる。どうせ人は死ぬんだから、死ぬタイミングは自分で決めたい。自分の納得の行くタイミング、死に方で死にたい。小汚い死に方はしたくない。死ぬなら景色のいいビルの屋上で飛び降り自殺。そう決めてるんだ。こんなに死にたいのに、死にたいはずなのに、死ぬのが怖い。人間の本能というものが本当に憎たらしい。
結局「自殺するな」というのはどこまで行っても他人事で、自殺を止める側の自分勝手な考えに過ぎない。当人の苦しみなんて当人以外にはわからないし、止める側の立場上死なれるのは困るという以上の理由はない。社会の混乱を生むからだとか、残された家族が困るからだとか、結局そういう経済的な理由から自殺予防というのは存在する。結局当人の苦しみなんて関係なくて、「金」の問題でしかない。人の命なんて所詮そんなものだ。みんな社会を維持するために限界まで働かされて、老いぼれになって人生を楽しめなくなってからようやく開放される。人間というのは惨めな生き物だ。所詮社会に使い捨てにされるためだけに存在する。
何が言いたいかというと、人間の命は無価値だからいつ死ぬかも自分で決めていいということだ。止めるのは本人の自由を妨害することに他ならない。
自分の内面の話に戻るが、外に出ると不安で不安で仕方ない。特に何もしていないのに、自分がなにか重大な失敗をしてしまったんじゃないかと不安になる。周りが全員敵に見える。バスに乗ると全員俺を邪魔な存在だと思ってる感じがするし、死ねと思われてそうで死にたくなる。この世界のどこにも居場所がないような気がして、家に帰っても喪失感、虚無感でいっぱいになる。歩いててすれ違う人が俺の容姿をみてバカにしているように感じる。変な奴、気持ち悪いやつだと思われてるんだと確信している。所詮どこにも自分の居場所はないし、ただ暇をつぶすためだけのものがあるだけで、オレの心を救ってくれるものはない。宗教などで救われようとする気力もない。ただ薄っぺらい娯楽で、死ぬまでの時間をダラダラと食いつぶしているだけだ。俺の苦しみなんて価値もないし、誰にも見せる気もないから、ただ一人で苦しんでいくだけだ。所詮人間なんてそんなものだろう。みんな救われたいと思っていても、誰かが救ってくれるわけじゃない。そんなに他人は暇じゃない。この苦しみをわかってくれる「何か」が欲しくて、自殺関連のものを読み漁ったりするが、やっぱりどこか自分と違うし、何か足りない。この苦しみを分かち合うコミュニティがあればいいが、だいたいそういうものはネット上では規約違反になり、「漂白」される。死にたい人間の苦しみなど、世の中の決まりを決めている側にとっては、邪魔でしかないということだろう。
所詮幸せも苦しみも全て過ぎ去っていくなら、さっさと無に還ったほうがいい。諸行無常という言葉のとおりだ。生きる意味なんてないんだ。どうせ人間は一生孤独なんだから、死んでしまったほうがいい。こんな空虚で無意味で無価値な人生など、さっさとおわらせてしまったほうがいい。どうせオレ一人死んだところで何も変わらないし。
世の中の「常識側」にいる人間が嫌いだ。常に自分たちは正義で、間違いなんて犯したことはなく、清廉潔白だと言わんばかりの態度が嫌いだ。その他人の苦しみを屁とも思わないその姿勢が嫌いだ。もちろん悪いことをした人間は糾弾されるべきだが、正義側にいたら罵詈雑言を浴びせてもいいとか、嘲笑ってもいい、嫌がらせをしてもいいというのは違う気がする。人はもっと人に優しく有るべきだ。なんでこんなに人間社会は憎しみと嘲笑で満ち満ちているんだろう。気持ち悪い。もちろん俺もそういったものに参加して、誰かをバカにすることがある。それをやっているうちはちょっと何かに対しての復讐心のようなものが満たされるが、所詮一時的なものでしかない。それを続けていると、段々とその矛先が自分に向くんじゃないかというのが気になっていって、段々と人間不信が強くなり、苦しくなる。そんな醜いことをやっている自分のことも嫌いになっていく。悪循環だ。だが、なかなかやめられない。他人のことを考えていると、自分のことを考えなくて済むから楽なのである。その時だけは苦しみから開放されるのだ。俺はこの自分の癖を、非常に問題だと思っていて、できるだけ早くやめたいが、なかなかやめられない。ゴシップというのは、「何も行動していない」というのが武器になる。なかなかそういった趣味は存在しない。創造的な趣味はだいたい自分が努力していないと駄目だ。創造的な趣味でない場合も、知識が必要になってくる。ゴシップというのは他人から競争することから逃れられる数少ない娯楽なのだ。こんな醜い娯楽はさっさと消えたほうがいいが、社会の構造上消えることはないだろう。そういう人間の醜さも嫌いだ。段々と自分が人間であることが嫌になっていき、自己嫌悪で満たされていく。何にも挑戦する気がない人間は、何も得ることができない。匿名でなにかを書き続けたところで、何も得ることはできないのだ。名前がない投稿は、社会制裁を受ける可能性が低い代わりに、得られるものもない。まさに空気だ。存在する価値がない。人を攻撃したところで、何も得られないのになぜ人は人を攻撃するのか。やっぱり人間の本能なんだろう。争うことで人は社会を構築し、進化させていく。本当に気持ち悪い生き物だ。だが、そうするしか方法が見あたらないのも事実だ。だから人間は滅びたほうがいい。俺が人間を滅ぼす方法を実行できるなら、もうとっくに滅ぼしてるだろう。核爆弾を管理する人間がなぜこういった考えにならずに済んでいるのか、わからない。人間社会はどこまでも空虚で、無価値で、醜いのに。
快楽、喜び、楽しみ、苦しみ、悲しみなど何もかもが過ぎ去っていくなら、すべてのものに価値はない。価値がないから、滅ぼしてしまってもいいだろう。俺はずっと昔からこういう考えで生きてきたが、なかなか同じような考えの人間に遭遇しない。なぜなんだろう。俺も周りにこんなことは言えないが。自分では真に迫っていると思うのだが、どうせ世間から見たら愚かで、頭がおかしいと嘲笑されるだけだ。ニヒリズムと言わておしまいだ。でも、合理的に詰めていったら、そういう結論になると思う。「ニヒリズム」というのがおそらくレッテル張りのために存在するんだと思う。社会にとって良くない考え方は、そうして潰されていくんだと思っている。そういう社会を維持することを結論としていて、それ以外の考えは一切受け付けないという風潮も嫌いだ。結論が先に決まっているから、何を言っても無駄だからだ。とにかく俺はひねくれていて、惨めで馬鹿だから、そういう考え方になるんだろう。こういうことを書いていると、早く死ねと思われるんだろうな。そして死んだら、こういうやつは死んでも仕方ないと片付けられるだろう。結局俺は社会に捨てられた存在だし、社会に貢献する気もない。だいたい社会ってなんなんだ。ただ俺は人間として生まれただけだ。社会の一員になると決めたわけじゃない。だがたしかに社会なしには人が生きていくのは困難だが、社会の重圧に耐えて生きていくのも苦しい。人間は欠陥だらけだ。本当に空虚で惨めだ。社会に属さなくてもどっちみち苦しいんだろう。こういうのを完璧主義というのかもしれない。ひねくれすぎて、自爆しているだけなんだろうな。俺はどのみち満たされることはないんだろう。ただ苦しみながら惨めに死んでいくだけだ。アホくさい。俺は変なところで正義感が強い。他人を馬鹿にしたくない、だからバカにしているやつを許したくない。でも結局それは自分に返ってきて、自分が苦しくなるだけだが。誰かの意思を感じると、それに従いたくないという強い意志が湧いてくる。昔からそうだ。逆張り思考なんだ。だから俺には対して意思がない。自分がない。空虚なのだ。昔からそうだ。他人ありきの考え方しかできない。逆張り思考とはそういうものだ。未だに自分が何をしたいか、どう生きたいのか分からない。ただ嫌なことから逃げているだけだ。俺にはなりたいものもないし、やりたいこともない。空虚な人間なんだ。ただ人の反対をやっているだけで、別に強靭な考えのもと行動しているわけじゃない。だからすぐ自分に自信をなくすし、すぐ途中で諦める。惨めな生き物だな。おれはこのままずっと素直に生きられないんだろうな。何重にもひねくれた思考が俺を苦しめてくる。自分で自分を苦しめているんだ。愚かで馬鹿だが、やめられない。癖になってしまっている。考え方を変えるというのは非常に骨の折れる作業だ。俺はそれを成し遂げられる気がしない。だから俺は一生このままだろう。一生惨めなままなんだろう。このまま醜くなっていくなら、今死にたい。25歳というのは一種の区切りの時だろう。俺はそれまでの時間をダラダラと無駄に生きてしまった。もう取り返しがつかない。早く死にたい。損切りをするなら今だろう。これ以上醜態を晒したところで、惨めなだけだ。愚かなだけだ。やっぱり首を吊って死にたい。自殺といえば首吊りだろう。暗く、おぞましい感じがまさに「自殺」のイメージぴったりだ。飛び降りは少し爽快感がありすぎる。陰湿でジメジメとした感じがほしい。やっぱり首吊りだろう。ただ、首吊りは縄とか、結び方とか、色々面倒なのが玉に瑕だ。飛び降りは高いところから飛び降りるだけだ。これから死ぬというときに、細かいことを考えてられない。やっぱり飛び降りかもしれない。死にたいけど死ぬのが怖い。なんて臆病なんだろう。惨めだ。死にたいのに。この死にたさは本物なのに。外に出ると、空虚で空っぽな感じが加速する。人生に意味がない感じが加速する。誰も俺に興味がなく、みんな俺の命に価値がないと思っているように感じる。透明だ。透明人間だ。限りなく透明に近い存在だ。外に出るのが怖いのは、単純に今の春の空気感が嫌いというのと、それにウキウキしている人間が多い感じがするのが嫌いなのだ。春というのは色々と新しくなる。場所も人間関係も変わる。それがとてつもなく苦痛だ。心が外側に、虚無側に剥がされるような感覚に陥る。昔から、環境が変わるたびに、ひどく精神的ダメージを負っていた。今もだ。俺は環境の変化に敏感で、心が弱い人間なんだろう。生まれつきだから、おそらく治せない。治すとしてもかなり苦労するだろう。この焦燥感に満ち満ちた季節が嫌いだ。非常に気持ち悪い。心が削られていくような感覚に陥って、自分が自分でなくなってしまうんじゃないかと怖くなる。今の自分でさえ不安定なのに、新しい環境にあてられて、更に今の自分が揺れ動いて、消えていってしまうんじゃないかと不安になる。自分というものがハッキリしてないから、自己紹介もうまくできないし、自己PRもうまくできない。新しい環境というのは、俺にとって強風だ。俺はろうそくに灯された弱々しい炎だ。すぐに消えてしまう。消えてもまた炎はつけ直されるが、前の自分に戻りたいという欲求が強く、再び炎が灯っても苦しみは強く残る。前の自分に戻りたいということばかり考えてしまう。俺はいつも過去に生きているんだろう。惨めで愚かだ。だが、前に進むのが怖い。変わるのが怖い。ずっと変わらないでいたい。変わってしまうくらいなら、死にたい。死にたくて仕方ない。もう取り返しがつかないと考えてばかりだ。いつも過去に戻りたいとばかり考えている。最近とかではなく、昔からそうなんだ。小学生の頃は幼稚園に戻りたいと考えていたし、中学生の頃は小学校に戻りたいと考えていた。高校の頃は中学生に戻りたいと考なえていた。大学生の頃は、高校生の頃が苦しかったから、大学生になれて嬉しかったが、大学が苦しくなってくると、小学生の頃に戻りたくなっていった。今も小学生の頃に戻りたい。いい年こいた大人が、何を言っているんだろう。いつまでも過去のことばかり考えて生きているからこうなったんだろうな。今に生きていない。よく、俺は本当にこの世界に生きているんだろうかと不安になる。なにか自分だけ別の世界に生きているかのような、切り離されたかのような感覚に陥る。俺が俺である証明なんてなにもない。とにかく不安感で満ち満ちているんだ。なんでもないようなことにすぐ不安になる。これはもう治すとかいうものではないんだろう。生まれつきの癖のようなものだ。早く死にたい。「死」という絶対的に動かない、固定されたものになりたい。どのみちこの苦痛からは逃れられないんだ。忘れている期間があったとしても、思い出している期間のほうが圧倒的に長い。これで生きていろとなると、中々の生き地獄だ。早く死にたい。不安は人間にとって大切なものだとかいうのをよく見るが、俺にとって不安は苦痛を与えてくる存在でしかない。不安をほんの少ししか感じない人のほうが人生楽しいのは明らかだ。世間から断絶した生き方をしたい。全く他人の顔を伺わずに生きたい。他人という存在は不安を与えてくるほうが多い。人間社会は比較の連続だ。どこまで行っても比較は止まらない。趣味に没頭しようが、比較からは逃れられない。むしろ、趣味こそ比較で苦しみやすい。何かを作り出すと特に比較の対象になる。それ以外でも人間は比較したがる。婚活なんていうのはその極みだ。結局、比べることが人間の本能なんだろう。比べて、比べて、その先にあるのは苦痛だけだ。だからといって勝負を放棄すると、俺みたいに落ちぶれて、何も残らなくなる。なにも持っていないというのは、安心とは程遠い。何も持っていない人間は、環境の変化にとても弱い。真っ先に切り捨てられるとしたら、そういう人間だ。いてもいなくても変わらないどころか、いないほうが都合がいいので、かんたんに切り捨てられる。ゴミ同然だ。早く死にたい。社会のお荷物だという自覚があるからこそ、早く死にたい。人間社会というものがどうでもいいと思っているはずなのに、やはり他人の目というのが強烈に気になってしまう。俺は本当に自分の意志で生きているんだろうか。結局、「社会人とはこうあるべき」という生き方に囚われている気がする。そんなのは俺が一番嫌いなものなのに。不愉快だ。不本意だ。俺は他人の言われるとおりに生きたくないんだ。かといってこうしたいという意志もない。だからただ無能であることに固執している。無能でいれば、他人からどうこう言われないし、他人とあまり比較されることもなくなる。ただ、社会から見放されたゴミとしての扱いになるが。社会のレールから外れると、なにかに挑戦したり、何かを得ようとするのに非常に苦労するはめになる。なにも得る気がない生き方をし続けないといけなくなる。ただ惨めに、無様に底辺を這いつくばって生きる羽目になる。こんな状態から、まともな人間になろうとすること自体が間違いなんだ。何もかも足りていないから、何もかも努力しないといけない。そもそも努力しても補填できない穴もある。アスペがまさにそれだ。コミュニケーションに問題があるのは発達障害だから、どうしようもない。そのどうしようもない穴が、社会で必要不可欠だからとんでもなく苦痛なのだ。どのみちまともになれないなら、死んだほうが早い。俺は根っこから終わっている。それをどうにか隠そうとしたところで、それが露呈するのは時間の問題だ。結局みんな離れていき、誰も残らない。俺には冗談が通じない。馬鹿だからだ。馬鹿だから、面白い話ができない。馬鹿だから、話してて苦痛になる。生きてるだけで邪魔な存在だ。そこにいられると迷惑になる存在だ。馬鹿だから、なにもかもうまく行かない。馬鹿だから、まともに努力できない。ゴミみたいな人生がこのままずっと続くと考えただけで、非常に嫌になる。クラクラする。結局他人に迷惑を掛けるだけで、邪魔にしかならないし、自分も楽しいと思えない。生きてるだけで迷惑だ。邪魔だ。生きてるとどんどん苦しみが積もっていき、呼吸がどんどん苦しくなる。生きれば生きるほど、逃げ場がなくなっていく。段々希望が見えなくなっていくのがよくわかる。待ち受けているのは深い苦しみだ。将来に希望なんてないし、なりたいものもない。もし仮にこのあと頑張ってまともになったところで、別に何かあるわけでもない。俺みたいな人間が受け入れられるとは到底思えない。そもそも他人とコミュニケーションを取るのが怖い。怖いのを乗り越えたところで、アスペは治らない。どっちみち積んでるのだ。俺が誰かに求められるなんていうのは、結局幻想でしかない。俺はどこに行っても迷惑なだけの存在なのだ。邪魔でうっとおしくて、いるだけで空気が悪くなって、気を使わせてしまう。わかってはいるが、どうすればいいんだ?コミュニケーションというものが俺にはわからない。人間社会がコミュニケーションを重要視する以上、俺みたいなのははじき出されるだけだ。俺みたいな人間は一生孤独に生きていくしかないんだろう。ゴミみたいな人生だ。ただ、時間を浪費するだけの無意味で無 Permalink | 記事への反応(1) | 03:08
世間では「明るいこと」に比べて「後ろ暗いこと」への理解が浅い。浅すぎると思う。
そもそもいつからこんなに、明るさや賑やかさが正義とされ始めたのだろう。そして明るさを「楽しい」と変換する安直な人が増えたのだろう。
「性質」と「それがもたらす感情」は別物なのに、ごく当たり前のようにいっしょくたにされすぎである。自分の中できちんと「楽しい」に変換されたなら全く構わない。し、社訓や集団のスローガンに沿っていっしょくたになる場合は往々にしてあるから仕方ない。
けれどよく考えずに、よりによってその場の空気なんかで「楽しい」としているのはいただけない。
後述するように、思考を放棄すると自分のためにならないからだ。
明るく賑やかなものに触れると楽しい。後ろ暗いものに触れると気が滅入るし嫌だ。だから暗さは人生に必要ない。Q.E.D。
ここまで解いてペンを置く人たちが意外と多くて恐怖をおぼえる。はたしてそんなに簡単に証明できるものなんでしょうか。まだ終了のチャイム鳴ってませんよ。まだまだ考える時間はたくさんありますよ。ゲーデルの不完全性定理みたく証明できないということを証明しても間違いじゃないんだから、もうちょっと考えましょうよー!
情報が増えSNSが普及し、みんなが広く「人と比べる」ことを始めてから、世の中ではグッとわかりやすいものへの評価が高まった。
わかりやすいというのは、説明しやすいということだ。「楽しい」はわかりやすい。他者との濃密なコミュニケーション。よろこび。平和。笑顔。健康。皮肉にも先人たちのブランディングのおかげで、個人に沿ったものかは別として楽しいシチュエーションなんて山ほどあげられる。フェス。海。BBQ。友人とのランチ。家族との食事。etc……。
それに比べて「気が滅入る」「嫌」はどうだ。「楽しい」ほどポンポンシチュエーションが出る人は少ない気がする。
それは人によって全く違う形をしているのと、「嫌なことなんて忘れて、楽しいことだけ考えないと人生もったいないですよ♪」というひとつの考えが蔓延しているからだ。
はたしてそれがみんなに適応する考えなのだろうか。楽しいことだけで自己が形成されているわけなんてないのに、臭いものに蓋をしてしまったとき、ひずみが生まれないだろうか。そしてそのひずみは、今すぐでなくても時間をかけてゆっくりと自分を苦しめたり、あるいは自分が無意識に他者を攻撃する原因になったりしないだろうか。
私の母はもう還暦になるが、家の中でひとりでボケてツッコんで、永遠に喋り続けている陽気な関西人だ。器用で頭の回転が速く、生活力も抜群に高い。何をやらせても80〜120点でこなせるタイプで、どこでも重宝されて生きてきた。
母は子供時代、友達と遊ぶことを許されなかった。共働きの両親の代わりに家事を引き受け、弟の面倒をみた。ランドセルを放り出して遊びにいきたいのをずっと我慢して、結婚して家を出るまで一生懸命家族に尽くしてきた。
年月は流れ、両親も母も歳を取った。いざ相続に関する話が出たとき、母の親、つまり私の祖父母は露骨に弟を贔屓したそうだ。
母は当時50代だったが、そこから何年も「男尊女卑精神が染み付いた両親」と向き合うことになった。
『思えばずっと、あの家が嫌いだった。ずっと、両親の弟贔屓が嫌だった。でも、嫌ってしまったら「嫌な家庭に生まれた人間」になってしまうから考えないようにしていた。年老いた親を嫌うひどい人間になりたくない』……。
さめざめと泣く母を見て「別に実の親のこと嫌っててもいいじゃん。そういう自分を認めていいじゃん。『私はあの人たちを嫌いで理解できない』ってことを自分で理解しておけばいいじゃん」と言った。
これは言わなかったけれど「私は絶対に自分の中の『暗い部分』や『何かを嫌う理由』と向き合っておこう」と思った。
私は母と違って生活力もなければ大抵のことが40〜50点しかできないし、場合によっては0点も当たり前、でもある特定の条件が重なると涼しい顔で200点を叩き出せる、そういうタイプの人間なのでより一層そう思う。
これは私の持論だが、これから先もずっと自分の弱い部分や後ろ暗さ、悲しみや憎しみについて考えなければならないと思う(楽しいことなんて放っておいても無意識に考える)。
「ずっとトラウマを抱えるな」「いい大人なんだから忘れろ」「うじうじするな」「そんなこと考えて人生楽しい?」とかなんとか言ってくる人がいる。けれど、そもそも簡単に忘れられないからトラウマなのだし、「いい大人」なんて曖昧な言葉が理由になることなんてないし、うじうじしているのではなく向き合っているのだし、人生は広い目で見ると楽しいけどピンポイントで見ると全然楽しくない、そういうものだと思ってます。
勘違いされたくないから強調するが「『暗い部分』や『何かを嫌う理由』と向き合って昇華し、キラキラすっきりと生きていこう♪」という能天気なことを言っているわけではない。無理無理、それは私には無理。ずっと私は暗いもん抱え続けて生きているし、嫌なもんは嫌なまま。
その理由を言葉で説明できるようにしておくと「本当に無理なこと」を避けられる。客観視できるまで噛み砕いておくと「これに関しては私のバランス感覚がおかしいのだな、人を選んで主張しよう」「これは今いる環境によって自己がブレてしまって起きている事象だから、あまり気にしないでおこう」と判断ができる。
自分を知るという槍、客観視点という盾で戦うしかない。転生したらきっとチート主人公になれるのだから、今世ではとりあえず、武器を持って立ち上がろうと思う。
海外、特に英語圏って日本が90年代以降に捨て去った衒学趣味(よく言えば教養主義)みたいなものを未だに持ち続けてるんだよな
90年代に流行ったエヴァやlainのようなやたら難解かつ衒学的なスタイルは日本では馬鹿にされるようになった
難解そうに見せて気取ってるだけで結局中身なんかねーじゃんってのがバレてしまったわけだ
その反動として今のアニメが行き着いた先というのが、なろう系のような安直さをこれでもかと言わんばかりに露骨に表出させた作品の数々だ
下手に賢ぶった小難しい作品なんてイキってるだけでダサい。中身なんて最初からないんだから安直で何が悪い?という開き直り(合理主義の極みである)
(なおこれにはイキリの代表格であるヤンキー文化の衰退とも関係があると思われる)
一方で海外で高く評価されているアニメは基本的に難解という評価を受けているものが多い
アニメ以外でもその傾向はうかがえる
例えば日本のネット右翼といえば反知性主義の極みともいうべき存在であるが、英語圏のネット右翼はその真逆と言ってもいい
では何が違うのかといえば、彼らは難解な哲学や思想をやたらと引用して自身の主張を補強したがるという点だ
ナチスがニーチェを引用して自己正当化を図ったのは有名だが、彼らは今でもそういうことをやっている
とはいえ自分に都合のいいように解釈を歪めたりするので、pseudo-intellectual(疑似知性=知的に見せかけているだけ)と呼ばれたりもする
結局のところ、自分の主張に説得力をまとわせるための飾りであって、本質的には中身なんてないのである
でもさあ、面白いじゃん
私マウスの旅してるって話ししたっけ?
エルゴノミックのやつでマイクロソフトのおっぱいみたいな丸いマウスが廃番になってそれから困ってマウスの旅に出掛けたまんまのー
おかえり!そしてただいま!を言っていなかったような気がするのよ。
ちなみにおはようからおやすみまでは、
そんでその
私のマウスの旅は終わったわ。
とうの昔にね。
高いけど、
その安い版のジェネリック他社のマウスエルゴノミックのやつ3000円弱のを好んで使っていて安っー!っつって喜んでいたんだけど、
弾かれて回した方向と逆にスクロールしたり上下にぷるぷると交互にスクロールし始めたりと、
部品の耐久性の弱さの証明を3台ぐらいこの3000円のマウスを買ってみて、
その都度その都度買い直しまくりまくりすてぃーだとなんだかアホらしいことに気付いちゃった山脈に向かってヤッホー!って叫んだんだけど。
それなら大奮発して
清水の舞台から飛び降りて実際に死んだ人はいないって伝説の境内にあるあの重い2トンあるでお馴染みのゼットソードを持ち上げに行こうと京都寄った際に行ったけど、
もうさー!
そんでもう大奮発して清水の寺からデラックスに飛び降りて美味しいランチでも食べようと近所を散策してみようと思ったけど、
やっぱり京都市の中のメジャーな観光地は人がパンパンであんまりオススメ出来ないわ!
でも一瞬だけ一瞬だけ
あのまんが日本昔話の絵に出てくるようなオープニングの龍が書いてある私もそれ再放送でしか見たことないんだけど、
そのお寺のその絵の書いた下に行くことが1回だけ出来て、
まるで龍がガオー!って鳴くような反響の音がして、
それができたので、
本当にガオー!って鳴ったから凄かったわよ!
そんで何の話しだっけ?
マウスの話しのただいまお帰りの話しで、
おはようからおやすみまでを見つめるのはライオンで、
私はちょっと大奮発して清水のお寺からデラックスに飛び降りたけれど未だかつてそこで舞台から飛び降りたとて
死んだ人はいないって伝説を叶えるための手に持ちやすいマウスを探していたって、
えいや!って大奮発して買ったの。
結構もう使い込んでいるけれど、
なるー!
ちなみになるー!って言うのはなるほどー!のことで、
今だけにしか言えないなるー!なのよ。
そんで、
そう言ったようなことの言い得て妙なことわざが無いところがもどかしいわ。
結局これはなんのお話だったの?って思うほど
私は高いマウスをえいや!って清水の舞台のデラックスなところから飛び降りた気持ちで大奮発して買ってみて正解だったわ!
そう思うと、
いっそのこと
えいや!って飛び降りるコンテンツをショーとしてそこから清水の舞台から鳥人間コンテストすればよくない?って安直に思っちゃうんだけど、
どうかしら?
何個か買い集めたので、
あとちょっとは持ちこたえることができるけれど、
キーボードはマウスほど激しく消耗しないことに激しく同意って言う意味の禿同!と言いたいところなので、
もしかしたら一生分賄えているのかも知れない鴨鹿!
そんな鰯気な気持ちにはなっていられないのよね。
チリには今まで3回ぐらいは行きたいなーって思ったぐらいなほどよ。
うふふ。
ランダムで決まると行っても鮭と鯖の2種類から選ばれるそれはランダムと言ってもいいのか分からないぐらいな
思わず内田裕也さんばりに鮭な!ベイビー!って朝から美味しくいただいた次第よ。
グレープフルーツを1玉買ってきて、
輪切りにしてボトルに入れて一晩置くまでもなく、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
めっちゃ分かる
>あと馬体が大きいと安直に巨乳にするのとかも個人的には不満だった
めっちゃ分かる
ただ確実にKGI(この場合売上)を上げていくためにはペルソナのソシャゲユーザーの男性に合わせて女キャラオンリーにしないといけない
文化的な何かと言えば
私気になるのが
アーティストのライブコンサートが歌う曲数が少なくてトーク多めだったことに激おこで返金ってのあったんだけど、
ちゃんと尺やってんじゃん!って
逆にそれぐらいしゃべるのならファンなら普通に楽しいのでは?って思うけれど
私は文化的な何かを今日求め得るとしたらおでんを煮るのにはまだ早すぎる季節のワンモアタイム!
誰かしらいる事務所。
お休みの日は休めばいいのに!って思うけれど
私は文化的な何かと言えば何かをやりたいと思うけれど、
本を買っては買ったら読んだ気になったりしてそのまんまだしさー
もう私は学習したので、
ベヨネッタ全クリしていない。
などなど
途中で諦めたものが多いので、
ここでワンダーに手を出すか!?って学習能力を備えた手前思うのよね。
でも気になるじゃない。
ファイアーエムブレムエンゲージは久しくお休みね。
一通り遊んで前にも言ったかしら?
ノーマルの仲間がやられてもいなくならないカジュアルモードでクリア。
しかし
ノーマルは壮大なチュートリアルだってことに気付いてハードで挑むんだけれど、
一通り通ったストーリーをなぞるのは私苦手かも知れないわ。
もう知っている話しだけれど周回を重ねて新しい発見もあるだろうけど
あー今気付いてしまったんだけど
また今シーズン腕前S+に昇格するのリミットが1か月切ってんじゃない!
昇格戦が辛いのよね。
ちょっとはだんだんと慣れてきたエクスプロッシャーのクセも分かってきた感じね。
インク切れで射出しようとして空振りしたときのモーションが長すぎるので、
そんでジャンプビーコン屋さんとしても最近は手応えを感じてきつつあるデュアルスイーパーカスタムも
私が設置したジャンプビーコンをあえて破壊せず待ち受けてジャンプしくると先読みされていてキルされた日には、
なかなかやるな!って!
これはただただジャンプビーコン屋さんを営むのも安直にはいかないなーって
気付く人には気付かれて待ち伏せされる感ありあり。
ジャンプビーコン破壊されたならそもそもジャンプしていけないので、
残しておいて待ち受けるなかなかの強者よね。
ジャンプビーコンを置く位置をさらに練って考えなくちゃ!って思ったの
やっぱり先にスプラトゥーン3片付けておかなくちゃ!
昇格戦挑まなきゃ!
もうさー
あれは走れば走る程ほぼもれなく腕前は上がるので、
昇格戦とかもないし、
文化的なことを考えると
いろいろなやることが多いから困るわよね。
今起きてこれを書いているわけではないのよ。
てへ。
とにかく
今日は文化的な何かをやらなくてはと言う切迫感に終われる日だと思うので
それもありっちゃーありだわね。
でも本当の私の文化の日の文化的な文化欲を満たすにはーって思って終わる一日だけは避けたいところよね。
文化の日だけに!って
あのだからそのワンモアタイムの人の歌歌わないで尺通りトークでちゃんと埋めるそれも文化的なことしかりなのよね。
逆にたくさんおしゃべりすごいと思わない?
その尺しゃべるだけでもきっと大変だわ。
歌う方が楽だと思うけど
彼にとってはワンモアタイム歌うのは疲れることのようで
文化的な匂いをプンプン感じざるを得ないなにか文化的なことを感じるわ。
うふふ。
みかんの花咲く丘公園駅前の商店街の喫茶店のモーニングのモーニングと見せかけといて和食の朝定食があるでお馴染み、
鮭かと思ったけど鯖だったわ。
大将に最初に釘打って鮭な!ベイビー!つって言って伝えておけば良かったわ。
鯖も美味しいけれどね!
朝時間があったので
お茶っ葉どこかに行ったかと思ったものが見付かった探し物は探すことをやめたところからが始まりでお馴染みの現象ね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
すごくわかる、そういうところ
馬がいないのに牛はいるとか、設定や世界観の安直な部分が気になってしまって女の子かわいいエロいが目的なんだろうなって思ってしまって一歩引きたくなる
あと馬体が大きいと安直に巨乳にするのとかも個人的には不満だった
アスリートが胸ユッサユッサするの違和感…というか普通に痛そうでな
いっぱい読んでもらってた!
読んでくれてありがとうと、あとごめん自分の趣味を何も考えず気楽にぼやいただけなので配慮足りてなかったかも、傷ついた人いたらごめん
言い訳だけしておくと、自分は美少女に興味がなくて馬が好きだから現物寄りだともっとのめりこめるな〜という気持ちはある
ウオッカも牝馬でダービーっていうイケメンぷりをなんとか再現してほしかった…!っていうのもめちゃくちゃ同意
それはそれとして今のウマ娘たちもみんな可愛いなとは思ってる、特にシングレは大好き
あと「生々しくなるぜ」っていうのは全く考えてなかった!確かに…!