はてなキーワード: 学術書とは
1冊の文章と図説データ入りの本を作るのにかかるお金ってどんな本もあんまり変わらないんだよね
あと倉庫代
学術書は大学の講義や大学図書館が購入する数がある程度分かるので専門分野の人からすると、この本はこれくらいの部数売れる
という予想ができるからそんな博打とか掛けみたいな売り方はしない。
1冊1冊は黒字だったり赤字だったりするけどトータルで事業として成り立つくらいにはなってる。
1年後には古くて忘れ去られるような新書とは違って10年単位で読み続けられるものだから価格は高く設定しておいても必要な人は買う。
作者というか研究者としては専門書というのは自分の研究の名誉というか到達点の一つであって、出版することとそれが読み続けられる事に意義を感じている。
「学術書は商売じゃなくてできるだけたくさんの人に知ってもらって世の中の役になるようなものだから安くしろ」
って言う人は
出版社から「じゃあ漫画は商売だし何もしなくても皆が読みたがるから安くする必要ないですよね。鬼滅の刃の単行本は一冊10000円にします」
需要と供給のバランスと言われればそれまでなんだが、そうだとしても
今や紙の出版・流通にこだわらなければ電子書籍で大幅にコスト削減
販売も見込めない紙の本のコストにひっぱられた価格設定な場合が多い。
研究者なら自分の研究をできるだけ多くの人間に知って役立ててもらおうという
場合が大半だと思うしその為に研究成果を載せた媒体の入手コストは低ければ
低いほどいいんじゃないの?
学術書が売れない領域で研究してるんなら多分カネもうけでやっているわけじゃ
ないだろうし、仮にカネもうけでやってたとしても研究者の場合所属する機関から
給料をもらってやってる場合がほとんどで、学術書の値段が高くてメリットになること
無いんじゃないかと思うんだが。
(追記)
いやさー、頭の体操がてらに軽いレスバを嗜んでたところ「そんな知識もないん?w〇〇の本に載ってる」みたいな煽られ方をしたのが発端なんよ。
んでとりあえずネットで検索したら売ってたけどバチクソ高ぇでやんの。
レスバ発端とはいえその学問に興味が出てきたワイちゃんのような一般市民を初手で突き放すかのような価格設定はどうなのよってね。
編集者や印刷・流通にカネがかかるのはじゅうじゅう承知なんだけど、
せっかく大金つかって税金まで注入して研究を盛り上げても一般人の手に届く範囲にその成果が見えないのは惜しくないか?
「学問を志すなら高い金払う覚悟ぐらいしろ」みたいなのは、いいかげんもう古くないか?
軽~~い気持ちで知識に触れ始めて、そこからドップリハマるパターンだってある。趣味とか大抵そんなもんやろ?
編集とかにも税金つかってでも国民が無料で研究成果にアクセスできるような知識のベースを築いていくべきやろ?
知らんけど。
性欲の説明
両性の性器をめぐる機能とその活動の中で生じる快感を指すと考えられる
・両性の性器をめぐる機能で生じる快感+両性の性器をめぐる機能の活動の中で生じる快感(快感と快感、二種の快感)
・両性の性器をめぐる機能+両性の性器をめぐる機能の活動の中で生じる快感(機能と快感)
「~快感を指す」ではなく「~快感『と』を指す」と書いてあれば後者に定まるのに、固い言い回しとして毛嫌いしたいか、余計に悪文になっていると思う
あと、某気象学の教科書では飽和水蒸気圧は水面に対するものより水滴に対するものの方が表面張力の影響で高いと言っているのだが、そのすぐ後で水滴が平衡であるときの水滴の大きさと過飽和度の関係というグラフが出て来るんだけど、その過飽和度の算出の基準にしてる飽和水蒸気圧は水面と水滴どっちのものなんだっていうね。
拡散過程の式にも過飽和度が出て来るがこれについてもどっちのものを使ってるのか書いてない。
そんな感じのあいまいな表現って学問界隈でも無自覚にそこらじゅうで使われてると思うんだ。
なかにはあいまいな表現をあいまいだと気づきもせず、しかも著者の言わんとすることと反する解釈で理解してしまったり、その理解に基づく論文も前提の誤りに気づかれずに受容されたりとか…。
伝言ゲームのように曲解が曲解を生むわけよ。もしかすると曲解に基づく理論が現在正しいとされる理論のなかに既に潜んでるかも…。
そうはいっても見かけ上は学問って成り立ってるよね。そうじゃなかったら今頃工業や化学の世界で事故が頻発してるだろうし。どうして伝達のあいまいさに関することがインシデントとして顕在化しないのか気になるわ。
書いてる時点でうっすら理解してることだと思うけど、学術書を利用する存在がなければ意味がない
つまり大学もしくは研究機関等があって始めて学術書が充実した本屋ができる
順序が逆
マジレスすると学術書をきちんと読むのは大学教育きちんと受けてないと難しいし(大卒でもちゃんと読めない人一定数いるでしょ)、学術書って内容が細分化されててマニアックだから売れないと思う。仮にうちの分野の学術書が3,000円で売ってたら「安っ!」って驚くレベル。学術書は研究費で買うか人からもらうか図書館で借りるかするものであって基本的に個人で買って読むものではないんだよね(もちろん院生とかのときは身銭を切らなきゃいけないこともあるけどさ。あと『想像の共同体』みたいな有名な古典ならそこそこ安い)。
知的水準上げたいなら、新書と学術系選書の充実だろうね。岩波新書と中公新書とブルーバックスと岩波ジュニア新書は無条件で入れる、講談社現代新書はそれなりに入れる、ちくま新書は良さそうなのをピックアップして入れる、星海社新書や集英社新書や光文社新書は良さそうなのがあれば入れる、扶桑社新書とかは良いのがあったら入れる、くらいの感じ。選書系だと、講談社選書メチエ・筑摩選書・新潮選書・NHKブックス・河出ブックス・フィギュール彩・歴史文化ライブラリーあたりは全部入れておこう。文庫だったら岩波文庫・岩波現代文庫・講談社学術文庫・ちくま学芸文庫あたりを入れておくといいぞ。
定期的に電子書籍と紙の本どっちがいいみたいな話題が出てくる。
まずスペースの問題だ。これはまっさきにだれもが思い浮かぶところだろう。実際、自分はマンガやらラノベで2万近いとこまで行って、これはもう人間の生活として限界だと思って、あるとき全部処分した。内田善美の本とか、もう二度と電書で入手できないこと確定みたいなもん以外、すべて。そしたら、信じられないことにモノがものすごく少なくなりました。びっくりしました。要するに俺の持ち物のほとんどは本かCDでした。あとエロゲの箱。
で、万を超える物量感を体験している人間としては、もう二度とあの状態にはなりたくない。もちろん歩いてると本屋とかは見てしまうわけで、そうするとふらふらと入ってしまう。紙の本ってそれ単体が「モノ」であり、モノとして訴求する力を持っている。ゆえに買いそうになってしまう。1冊くらいまあいいか。そこが地獄の入口だ。禁煙なんかと一緒である。
これだけの本を読んでいるということは、とうぜん活字中毒的ななにかである。出先で本を切らしたときになんでもいいから活字がないと死ぬと思って本を買った経験は一度や二度ではない。ある程度の期間の旅行ともなれば、10冊くらいは本を持っていくしかなかった。ついでにいうと音楽も切らすわけにはいかないので、かつてはカセットテープを10本とか20本持ち歩いていた。いまやこれがスマホひとつである。もうアラフィフなので思う存分老人仕草をすることにするが、いい時代になったもんだ。もっとも、これおっさんにけっこう多いと思うんだけど、ガジェットを単機能で持ちたがる癖があって、電書はKindle端末だし、音楽は、サブスク用のスマホを別に持って歩いてたりするんだが、まあそれでも本を10冊持ち歩くよりははるかにましだ。最低でも未読の本を5冊くらいは持ち歩いてないと落ち着かない。「この小さな端末のなかに文庫が100冊!」という安心感はなにものにもかえがたい。
さらに老眼の進行である。俺はドがつく近眼であり、かつ老眼もだいぶ速やかにご訪問くださりやがったので、裸眼で見えるスイートスポットが異常に狭い。日常生活で使えて手元も見える遠近両用とか頭痛するし、肉体的に文庫の活字を読むのがきついのである。その点、電子書籍なら安心だ。小1の教科書よりもでかい活字で表示できる。ディスプレーを見続けることによる目の疲れもKindle端末ならそれほど問題にならない。
俺にとって本は消耗品である。スナック菓子を食うみたいに活字を食う。あるいはトイレットペーパーみたいなものだ。この手の人間にとって所有権がどうこうとか、貸し借りが云々とか、子供が親の背中を見てとか、そういうのはいっさい問題にならない。読めればいい。本屋の営業時間を気にすることもない。なんならうんこしてる最中でも続きが買える。すばらしい。せめてそこはうんこ終わるまで待てないのか。
もちろん電書にもデメリットはある。
ブコメで頻出だった閲覧性、参照性の問題。これは絶対に紙に軍配が上がる。紙の本の「確かこのへん」でなんとなく探り当てるような探しかたって、シークバーではまず同じことができない。ただこれは単なるUIの問題である気もする。閲覧性でいうと、本棚よりも特定の本にアクセスするのが難しいというのもある。もちろん検索で対応できないこともないのだが「確かあれ、あの、なんだっけ、海辺でボーイミーツガールで……あれだ、あのエモいやつを読みたいんだ。20年前に読んだきり本棚のどこかに放り込んだあれを」みたいなときに、電書の3000冊とかのなかから探すのはかなり骨が折れる。Kindle端末本体ではどうにもならないし、いざパソコンの前に座って購入履歴を、と思ってもあれなんか妙に目が滑りません? やっぱりこういうとき「モノ」が厳然として存在している、というのは非常に強い。実際、紙の本で持ってたときに「確かあのへんに置いた」で見つからなかったことってあまりなかったと思う。
あとマンガな……。老眼に電書のマンガまじきつい。パソコンのディスプレーで見る以外の手がない。マンガのながら読みっていうか、部屋でぼけーっと寝転がってるときにそのへんのマンガを手に取ってなんとなく読む、という行動は激減した。10インチくらいのタブレットで解消できる問題ではあるけど、これ以上ハード増やしてどうすんだ的な感じもある。
電源切れとかは経験がない。そもそもモバイルバッテリーを持ち歩いてるし。あと端末の故障に備えて新品の予備は常に一台キープしてある。
俺が思う電書の最大のデメリットは「すべての読書行動を電書のみに絞り込むことができない」ということだ。これはほんとでかい。いちばん多いパターンが、新書なんか読んでて参考資料とか引用先で出てきたおもしろそうな本を買おうと思うと電書化されてなかった、というやつだ。またそういうのに限ってやたらおもしろそうだったりする。アマゾンで調べてる場合だと、1クリックでそのおもしろそうな本が(紙でなら)買えてしまうので、なおのこと心が揺らぐ。
これは読書に限らず調べものなんかもそうなのだが、一定のレベルよりも深堀りしようとすると、最後は紙の書籍に頼るしかない、という場面が頻出する。たとえば東ローマ帝国について調べていて、まあざっとした歴史の流れだとか、政治体制だとか、要するに概要を掴むくらいならネットでの調べもので充分だし、電書でも通史のたぐいはいくつも出ている。しかしもし、東ローマ帝国の庶民の食生活について知りたくなったら、電書ではどうにもならない。そこは学術書の領域で、論文探してヒットすりゃいいけど、こういうニッチな研究ってたとえば1960年くらいに書かれた本がいまだに最新の研究だったりすることもよくあって、こうなるとお手上げだ。紙の本しか選択肢がない。
これに限らず、マイナーな作者の小説だとか、古いタレント本だとか、古い時刻表だとか、とにかく紙の書籍は資産が膨大であり、とうてい電書ではカバーできない。そして今後もおそらくは電書化はされない。要するに紙の本から完全に足を洗いたくても洗えない、というのが電書一本槍にしたときに最大の障壁となる。
ま、図書館行けって話なんすけどね。なんでまあ、現状は「購入はほぼ電書、足りない分は図書館で」というかたちになっている。
あと最後に、電書のデメリットとして日常的に多く使ってる人は感じてると思うんですけど、無駄に買いすぎますね……。講談社学術文庫とかよく50%ポイント還元やってますけど、ああいうときやばい。
ついでですけど、アンリミは「なんでもいいからラノベ読めればいい」みたいな人間にとっては、けっこうよい状況になってるので、おすすめです。ただし1巻だけ対象でそれがおもしろかった場合は地獄みる。向こうも商売だから、まあ考えるわな。