はてなキーワード: 子供目線とは
そういえば自分の周りに親権を押しつけて離婚した母親がいたなあと、元増田を読んでいて思い出した。
もう20年近く前の話だし、元増田の元家庭とはずいぶん環境も違う。
記憶も定かでは無いけれど、「親権押しつけて離婚した母親」がどう見えたか、息子の立場の思い出で自分語りする。
私と弟が学童保育から帰ってきて一息ついたあと、入れ替わりで母親は家を出ていって、そのまま帰ってこなくなった。
私と弟がどこにいくのか尋ねたところ、
「ちょっと買い物に出かけてくる、あんたたちも来る?」と母親は応えた。留守番をしている、と返したと思う。
まだ日が落ちる前で外は暑かったし、エアコンが効いた部屋から出たくなかった。
母がいっこうに帰ってこないから、勝手にレトルトのカレーを食べるか迷っていたところだった。
そこからは記憶があいまいで、「お母さんは買い物に出かけている」と父親に伝えたこと、その日は結局帰ってこなかったこと、
翌日の夜に「お母さんはもう戻らないんだってさ」と父親に伝えられたことは覚えている。
数日経ってから改めて、「お前たちはどうする?お母さんについてくる?」と父親に聞かれた。父と母だけで子供に見えないところでやり取りをしていたんだろう。
私と弟は、間髪入れずに「父親についていく」と伝えた。
子供ながらに、「父親は家に住んでいる、母親は家を出た」「父親は仕事をしている、母親はパートタイムで働いている」「母親と一緒になるのは不安でしかない」と思ったから。
その日からしばらくは子供部屋ではなく、父と母親の部屋で寝ることになった。
父親には「お父さんが寂しいだろうから」なんて言ったけど、たぶん怖かったんだと思う。寝ている間に父親もいなくなったら、とかたぶんそういうことを考えてたんじゃないか。
正直なところ、離婚の前後の夫婦関係や母親の状況について、父親に聞いたことはない。父の浮気のようなわかりやすい理由があったのかも分からない。
当時は、父親の機嫌を損ねたくなかったから、そんなの聞けるわけがなかった。
私も弟も父親も、母親がいなくなって、各々で新しい日々を送ろうと四苦八苦していたし、そのうちに聞くタイミングを失ってしまった。
というかよく考えたら、父と母親の馴れ初めについてすら詳しく知らない。なにしろ私がそんなものに興味を持つ前に離婚してしまったから。
父の年齢から離婚時点の年齢を考えると33~4歳前後になるから、彼らはおそらく大学を出てすぐに結婚したんだと思う。
父は普通のサラリーマンで帰宅は20時前後、母親も、私が幼稚園の頃からパート勤務をしてて18時頃の帰宅が多かった。
なにしろ大学を出てすぐ私たちを生んだわけだから、我が家にも給料的には余裕が無かったはずだ。
共働きということもあって、私と弟は小学校に入るとすぐに学童保育に預けられた。
周りの友人たちの母親は専業主婦ばかりだったし、いま思えばマイホームを持った落ち着いた家庭が多かった。
記憶にある限りでは、私の母親はPTAなどにもほとんど参加していなかったと思う。地域での友人関係というのも無かったんじゃないか。
当時は家の鍵を渡されてなかったから、学童保育から帰ったあとは玄関の前に座って、母親の帰りをぼうっと待っていたのを覚えている。
離婚の経緯に関しては唯一、母親の祖父母から「あの子はあんたたちを育てるのを投げ出した、だから勘当をした」という趣旨の話を聞いたことがある。
そのため、母が家を出て行った理由は、私と弟の世話に嫌気がさしたからだと思っている。
実際、当時の私と弟は問題児で、小学校でも幼稚園でも喧嘩や忘れ物などの問題行動をよく起こしていた。
あまり詳しく覚えていないけど、家庭でも似たような状態だったのだと思う。酷く手のかかる子供だったと思う。
そんな状態である上に、私と弟は昔から比較的父になついていた。母親から見れば「男3人と自分」という対立構造に見えるときも多かったんじゃないだろうか。
上に書いたように、父と母親のどちらにつくかのやり取りもあったから、子供目線だと「母は親権を押し付けて出て行った」のではなく「僕たちは自分で父親を選んだ」という意識を持っていた。
でも、こうして書いていると、やはり母親は私たちと居ることが耐えられなかったんだと思う。
「買い物」に出ていく際の「あんたたちも来る?」という問いは、きっとそんな耐えられない息子たちと自分の関係を確かめる意味の言葉だったんだろう。
ごめんね、お母さんよりも冷房を選ぶような息子たちで。あの日は暑かったからなあ。
断片的な記憶だけど、父親が離婚届を書いているところ、書類を返送する際に「こんな男と10年以上いてくれて~~~」という趣旨の手紙を添えていたことを覚えている。
父は「本当にお母さんと連絡したいと思ったら、この携帯番号にかけたらいいから」といって、母の連絡先が書かれたメモを電話機のわきに残してくれた。
何度か電話をかけた記憶はあるが、そのとき何を話したかはもう覚えていない。
しばらくは祖父母が手伝いに来てくれていたこともあり、私も弟もすぐに母親がいない生活に順応した。メモはしばらく壁に貼ってあったけど、どこかにいってしまった。
もっとも、何年かに一度は連絡がある、ないしは帰ってきていたこともあるらしいので、本当のところは知らない。
私が二十歳を過ぎたころぐらいに、祖母から「母親と会うつもりはないか」と聞かれたこともあった。
ただ、そのときにはもう私も大学生だったし、妙な蒸し返し方をされるのが不気味で会うのを拒んでしまった。「会わなかったぶんのお小遣いをくれるなら考えるよ」とかなんとか適当なことを言って。
小遣い自体は実際にもらった。
あとから聞いた話によると、これは母から祖父母に「息子のために使ってほしい」とあずけられたお金から出されたものとのことだった。
祖父から「残りは、いつかお前たちがいい人を見つけて結婚式をするときに渡したい」と言われた。
父と母親の間で、慰謝料だか養育費だかの金銭のやりとりがあったかについては、知らない。たぶんもう知ることもないと思う。
離婚してすぐに一家4人ですごしていた家からは引っ越すことになった。
学校が変わったことがきっかけで、無自覚な問題児から自覚のある問題児に変わった。
父親との関係とは紆余曲折あったものの、大学までは出してもらった。
その間、母親がいないことで不便した記憶というのはほとんどない。保護者参観に親が来ないことにもすぐに慣れた。
中高生のときから料理をするようになったし、親が家にいないおかげでのびのびと生活していたから、むしろ恩恵のほうが大きい。
「いつ結婚するのか?」と尋ねられること。
これは母親がいなくなったこととは直接関係とは思うけど、異性と生活を共にして、家庭を持つイメージがどうしても持つことができない。
おじいちゃん、お母さん、ごめんなさい。どうも僕はあのお金をもらう気にはなれません。
今になって思うと、ひどく気の毒に感じている。
母親が私を生んだ年齢をすぎて数年が経つ。もし今の私が、私のような子どもを持っていたとしたら、おそらく私だって投げ出すと思う。
もっとも、母親が買い物に出かけた理由が、本当に私たちだったのかは知るよしもないんだけど。
本当にお疲れ様でした。
自分語りをしながら、もしかしたら私も元増田の書いてるような「隠し通された子供」なのかもしれないのかなあ、なんて考えてしまいました。
ただ、いずれにせよ元増田さんの体験は元増田さんだけのものですし、好き放題に増田で叩かれたり、長文で自分語りする父子家庭出身者が現れても、あまり気に病まないでください。
どうにかいろいろと上手くいくようになって、元増田にとってもお子さんたちにとっても一番傷が少ない結果になるように、祈ってます。
料理店で金を払うとき、それは何に対する等価交換か、ちゃんと考えたことはあるだろうか。
ほとんどの人は料理や飲み物だと答えると思うし、その認識が別に間違っているってわけじゃない。
だが、この世には様々な価値がある。
俺たちは目の前の単純な価値に気がいって、それらを漠然と享受しがちだ。
その状態の俺たちは、いったい何を値踏みしているのだろうか。
「マスダ、話は変わるけどさ、週末は一緒にランチでもどう? 僕の奢りで」
クラスメートの何気ない誘いだが、俺がその誘いをいぶかしく思うのには理由があった。
タイナイは、俺の知り合いの中で最もリアルとネットが地続きの人間だ。
当然、その言動も紐付いている。
俺はその強固な繋がりを見て、いずれパソコンと融合するんじゃないかと、あらぬ心配をしたこともあった。
そんなタイナイからリアルでの誘いがあるということは、つまり“そういうこと”だ。
遊びの延長線上にランチがあるのではなく、それをわざわざ用事に挙げ、奢りを強調。
しかも昼飯休憩中という、未来の食事予定なんて考える気のない、間の悪いときに。
ここまで懸案要素の材料が揃っていれば、何か裏があると考えるのは当然のことだ。
「タイナイ、お前とはそこそこ長い。ただランチのために誘うような人間ではないことは知っている。明確な目的があるなら、ちゃんと説明しろ。ましてや俺を巻き込むのならな」
「うーん、隠し事はできないか。といっても、わざわざ言うほどのことでもないんだけどね」
「それはお前が決めることじゃない」
「分かったよ。ほら、これが小目的さ」
「それを参考にして店を選ぶってことか?」
「ちょっと違うかな。参考にするんじゃなくて、参考にさせる側さ。僕はこのサイトのレビュアーなんだ。こう見えて、そこそこ知名度ある方なんだよ」
俺から見れば大して意外でもないので何が『こう見えて』なのかは分からないが、話が少しずつ見えてきた。
「今回は複数人で利用したケースでレビューを書こうと思ってね」
「それで俺を誘ったと」
「確かマスダは飲食店でバイト経験あっただろ。その視点から意見が欲しいんだ」
「なるほどな。まあ、お前が奢ってくれるのなら文句はないさ」
「よし、決まりだ。あ、そうそう、出来れば弟くんも誘っておいてくれ。子供目線での意見が欲しい」
このときの俺は、単にタダ飯を食らえる程度にしか考えていなかった。
ロクに分かっちゃいなかったんだ。
同じ世界にいても、俺とタイナイが見えている世界は、同じようで実は違うということに。
http://anond.hatelabo.jp/20160816143155
個人的に似たような考えをしていたので共感できる部分がかなりある。
というわけで筆者の経験からいろいろ思う部分もあったので家庭内のお金に関してどう思ってしまうのか子供目線で語ろう。
元増田がそうだったように「子供のころ、うちにはお金がない」という発言は何度か聞いたことがある。
その為か、たまに外食に行くと安いメニュをー選びがちだったり、積極的に親に物をせびるということがない子供時代だった。
親にしばしば「お金がない」といわれて育ってしまえば子供としてはそう思わざるを得ないだろう。
幼少期の経験は人格形成に大きな影響を与えるし文句を言いたくなる気持ちもわかる。
しかしながらあんまりそればっかり言っても建設的ではないのでせめて、親がどうすればよかったのか自分の経験に基づいて提言してみよう。
といってもどうするべきかは別にたいしたことではない。
この1点につきる。
筆者も子供の時に疑問に思って思い切って年収を聞いたことがある。
しかし、結果ははっきり言われずに濁されてしまったという記憶がある。
その結果私は家庭内におけるお金の流通に関して全くわからなくなってしまった。
そうすると、今親はどの程度稼いでいて、自分自身にどのくらいお金がかかっているのかまったくわからなくなる。
他にもクラスメートと比べて裕福なのか貧乏なのか全くわからなくなるという弊害が出る。
ブコメでも出ているがもっと貧乏な友達がいるのに自分は貧乏であると発現してしまう失敗をしてしまったりする可能性が出てくる。もちろんその逆もあり得る。
ブコメでは兄に怒られたとあるが、これは兄がたまたま察しがよかっただけであり、誰でも失敗する可能性は十分ある。
また、この例ではたまたま兄は察することができたが厳密に言えばこのお兄さんですら正確な家計の支出入は把握していないはずである。
他にもおもちゃやゲームが欲しいなんていう娯楽どころか勉強道具すらねだるのに躊躇するようになる。
下手すると親が中産階級なのに「自分は貧乏である」という自意識から向上心すら奪いかねない。
もちろん親も人間であるので子供に正直に年収を教えることに躊躇することもあるだろう。
友達が給料が高くてコンプレックスから言いたくなかったり、あるいはおもちゃを欲しがりすぎる子供に育てたくないからという思いもあるかもしれない。
飲み代を子供に教えてつつかれるのも嫌だろう。
ここまでするべきとは言わないが一月の収入額とおおざっぱな支出は共有すべきだと思う。
中学校くらいまでは隠してもいいし、言いたくないところはぼかしてもいい。
しかし、高校以降のどこかで一度でいいので支出入は共有すべきである。
出張から帰ってきたらカメラ談義で手斧飛び交いまくってたことを知ってとても悔しい気分だよ!
被写体への愛とか、アマチュアは一眼レフ捨てろとか、手っ取り早く撮影できるコツを教えろとか、ひとまずみんな正しいよね。
だけど、写真を撮る上で本当に本当に根幹にある部分について誰もまだ言及してないことがあるよ。
それはね、写真に映る世界は撮り手が見てる世界でしかないってことだよ。
だって、カメラは透明人間ではないから、その空間には必ず撮り手がいるはずなんだ。
だから、写真には必ず撮影者と被写体の関係性が映るはずなんだよね。
その関係性っていうのが、人が写真を通してみたいものの一つでもあるんだ。
例えば被写体とのダイレクトな関係性を写す写真かといえば梅佳代ちゃんだよね。
そもそも逆立ちできないし、でももしかしたらそんな惨めな姿を眼の前にしている人との意外な関係性が写せるかもしれないね!
被写体との関係性を高い次元で成功させているのはアンリ・カルティエ・ブレッソンだよね。
彼は決定的瞬間を発明した人間として有名だけど、それよりもすごいのは膨大な数のストリートスナップだと僕は思っているよ。
どうしてそんな瞬間に居合わせたんだろうっていう写真もあれば、写ってる人に見つかったら大変なことになりそうなドキドキを感じる写真もあるよね。
被写体に愛があることは大事だけど、被写体に愛がないというのも関係性なんだ。
商用であることを前提にしないなら、そんなことを気にする必要なんてないんだ。
それよりも何よりも愚かなことは、自らの関係性に目を背けて他人の関係性を真似しようとしかしないことだ。
当然関係性というのは人に対してだけじゃなくてものに対しても生まれるよ。
被写体に対してどういう想いがあったかによって見え方だって変わってくるし、感じたままを写そうとすれば撮り方だって変わってくるよね。
そんな他人でも作れる写真をいくら量産したって、自分にとって何の意味も持たない。
これだけは断言してもいいよ。
次に機材の話。
だって、自分の目から見える世界とカメラに写る写真とは同じはずがないからね。
だから、自分の見た世界にどれだけ近づけることができるかを考えて、機材を選ぶんだ。
高ければいい写真が撮れるなら、みんな高い機材使うよね。
違うよね。
君が機材との相性が合わなかったり合ったりを感じるのは、君が見てる世界との違和感を感じているからだよ。
だからアマチュアだって一眼レフを使ってもいいし、使わなくてもいい。
どちらでもいいけど、自分が追い求めるべきは、自分の見てる世界の表現だと割りきったほうが、余計な機材を買わなくて済むよね。
それはね、自分と自分以外の関係性に恐れず一歩踏み込むことだよ。
もしそれが自分と周囲との関係性を表現してたなら、それをつまらないと言われたら腹が立つのは当然のことだよ。
僕だって、人の中に交わるより遠くから冷静に眺めてる事のほうが好きだ。
もしその奥さんが自分と周囲との関係性を汲みとって写真に撮ってと言ってたとしたなら、そしたら話は早いよね。
僕は奥さんのことを知らないからなんとも言えないけど、例えば僕が奥さんと一緒にいる時は、奥さんと子供が楽しそうにしている雰囲気を奥さん目線で撮ったり子供目線で撮ったりするよ。
この人に限って言えば、デジカメじゃなくてチェキを使って撮ったら面白いかなって思った。
暗い部屋の中ならフラッシュが届く距離も限られてくるし、すぐに写真を渡せるから相手のリアクションを楽しみながらコツをつかめるんじゃないかな?
最後に、もし写真を楽しみたいならハイスペックな防犯カメラになるのだけは止めよう。
その風景はあなたがいて初めて出来上がった風景なんだから、それをしっかり写真に収めていこうよ!
そうしたら、きっとカメラの役割が記録から記憶に変わっていくと思うんだ!
みんな偉そうなことを言ってる割には、こんな基本的なことも忘れてんじゃない?