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2019-03-24

anond:20190324040152

お前すげえな。

その調子で、安倍経団連の代わりに

ベトナム謝罪奉行してきてくれ。

技能実習生実家まで行って、酷い扱いしてすみませんでしたってな。

2019-01-25

anond:20190125083256

いやいやデフォルトになったのは江戸時代初期のころのお話

平安時代にはヒモをつけたりかごに入れて可愛がっていたそうだよ

宇多天皇日記にも猫は愛玩動物として書かれている

ネズミを捕らせるために奉行放し飼い命令を出して

それから日本は猫といえば放し飼いになった

なので現代の室内飼い推奨は平安時代のころの猫たちの生活に戻ったということだねえ

2018-12-15

サラダ取り分け株式会社

新卒社員たちは入社後1年間はトングも取り分け皿も触らせてはもらえない。ただひたすら、先輩社員の取り分ける姿を観察する。大皿から目分量で一人分を見定めるさま、取り分けられた野菜の種類構成トッピングをも含めた盛り付け、空いた皿のスマートな片づけに至るまで全てを観察から学ばなければならない。

2年目にしてようやくサラダの取り分けが許可される。だがこの時点でそれなりの観察の成果を示せなかったものからは、容赦なくトングが取り上げられる。そうした者たちはますます練習の機会を失う一方、許された者たちは実践を積みスキルを上げていく。そのため新入社員たちは1年目から同期会という形で幾度も宴席を設け、ひそかに練習を重ねるのである。なおこれはプライベート会合とみなされ、会社から補助金等が出ることはない。

入社後3年を過ぎても満足に取り分けを任されない社員の末路は悲惨である。「あのヒトまだ飲み会で取り分けてもらってる」「何のために会社にいるのかしら」「給料泥棒」ひそひそと囁かれる中傷に心を病み、夢破れて退職していく者が多く出るのもこの頃である

サラダから前菜、揚げ物、炒め物と次第に担当範囲をのばす4年目となっても油断は禁物である唐揚げレモン問題焼き鳥の串を外すか問題など、地雷はいたるところに埋まっている。そうした危機を乗り越えて5年目を迎えるころ、彼らは一人前の社員としてビジネスパートナー先へと出向していく。サラダの取り分けひとつが重大なセクハラパワハラ問題きっかけともなりかねない昨今、外注というフラット第三者立場完璧な取り分けをこなせる彼らの存在は、日本ビジネスシーンにはなくてはならぬものとなっている。

鍋、焼肉などのいわゆる「奉行職」に任じられるようになる頃にはもはや、押しも押されぬベテランである。だが近年、こうした上級職の極端な男女比が社会問題となっている。女性が勤務年数を重ねてもこの職まで上り詰める例は少ない。いわゆる「ガラス天井であるが、会社公式にこれを否定し、「女性上級職が少ないのは、高度なスキルを身に着けた女性結婚相手として高く評価され退職して家庭におさまることが原因である」としている。

オチはとくにない。

2018-09-12

奉行さんのカミシモってガンダムデザイン元ネタだよな

からなで肩顔デカ日本人コンプがあったかあんなのきてたって笑えるwwww

ダサいのにwww

2018-07-18

奉行「市中引き回しの上、打ち首獄門に処す!」

ワイ「乳首?」

奉行「うーちーくーびー!」

2018-04-12

モリカケ疑惑微妙違和感

なんというか、お金臭いがあまりしないんだよね。

まだ出てきてないだけかも知れないけど。

かつての政界疑惑って権力者と、その力でビジネスを有利にしたいってヤツがいて、怪しいお金を贈るっていう構図が多かったと思うんだけど。

ロッキード航空機を売るために五億円なんて分かりやすいけど、これって、それこそ時代劇で、小判なんぞでてきて、「越後屋よ、お前もなかなかワルよのぉ」「お奉行さまには、かないませんよ」なんつって、二人でフォッフォッフォッとか笑うという、我が国伝統的な構図だ。

でも、モリカケでは今のところそういう話は前面にでてこなくて、カケさんとお友達から、とか、籠池がうまいこと思想的に総理に近い集団関係があって、とか、そんな話がよく出てくる。

金の力で、欲に駈られて悪いことするってのは、もちろんよいことではないが、ある意味、話が分かりやすい。

それに比べると、人間関係だの思想だのが原動力になって国政が歪められてるとしたら、なんか底知れぬ不気味さをかんじる。

2018-01-02

"きらっく奉行"

"きらっく奉行"との一致はありません。

きらっく奉行検索結果 (引用符なし):

検索結果

キラックブギョウ(キラック奉行ボケ語~

www.bokego.net/?p=1642

おしい

2017-10-12

どうして

席替えは「大臣」で、

鍋は「奉行」なのか。

2017-05-19

増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位従五位下・右衛門少尉

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1 生涯

1.1 仕官以前

1.2 秀吉近臣時代

1.3 郡山城時代

1.4 秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後

2 子孫

3 主な家臣

3.1 一門衆

3.2 重臣

3.3 その他

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典

5 関連項目

生涯[編集]

増田長盛邸址(愛知県稲沢市増田町

増田長盛屋敷跡(滋賀県長浜市朝日町

生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国存在した増田氏との関係不明である

仕官以前[編集]

秀吉仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。

秀吉近臣時代[編集]

天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。

秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見日記名前が登場している。

天正12年(1584年)3月小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍根来衆津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。

天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さら下野常陸安房大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。

太閤検地では石田三成長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国美濃国越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋五条大橋改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。

文禄元年(1592年)から文禄の役では、石田三成大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城駐留し、奉行として占領統治兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。

文禄4年(1595年、豊臣秀次秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このとき対応秀吉によるキリスト教フランシスコ会)の弾圧日本二十六聖人殉教)の端緒を開いた。

郡山城時代[編集]

文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和から夫役徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国和泉国の蔵入地管理を委ねられている。秀吉晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。

慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。

秀吉没後、関ヶ原合戦での転身、以後[編集]

慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家前田玄以など五奉行連判で家康悪事糾弾する弾劾書を示し、五大老毛利輝元宇喜多秀家擁立して挙兵西国大名西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。

伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田左衛門を陣代として軍勢派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯戦後9月25日出家して謝罪し、9月27日大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。

後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。

三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地100万石がもたらす資金人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。

墓所埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。

右筆(ゆうひつ)は、中世近世に置かれた武家秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。

目次 [非表示]

1 概説

2 鎌倉幕府室町幕府

3 織豊政権

4 江戸幕府

5 関連項目

6 関連作

概説[編集]

初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間書状文書を代筆させることが行われた。やがて武士地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆誕生し、右筆文書作成執筆を行わせ、武家はそれに署名花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書一般的であった公家とは大きく違うところである武家が発給した文書場合文書作成のもの右筆によるものでも署名花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名花押まで右筆に任せてしま特殊例外もあった)。

なお、事務煩雑化すると、右筆正式手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書作成署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。

現在では天皇皇后文章の代筆をする宮内庁文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。

鎌倉幕府室町幕府[編集]

源頼朝鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。

その後、将軍執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人末裔がその任に当たるようになった。基本的室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団構成するようになった。

なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆公文書作成担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。

織豊政権[編集]

戦国時代に入ると、戦時必要文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定過程から関与する場合もあった。豊臣政権五奉行であった石田三成長束正家増田長盛は元々豊臣秀吉右筆出身であった。他に右筆衆として著名なもの織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。

なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉江戸幕府でも採用されている。

江戸幕府[編集]

戦国大名としての徳川氏にも右筆存在したと考えられるが、徳川家康三河時代右筆家康勢力拡大と天下掌握の過程奉行代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦い東軍を支持した豊臣政権右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏右筆久保正俊)などであったと考えられている。

徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩から将軍就任した徳川綱吉は、館林藩から自分右筆江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書作成管理を行う既存の表右筆将軍の側近として将軍文書作成管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆将軍以外の他者私的関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆承認を得ないと、文書老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中若年寄などから上げられた政策上の問題将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆待遇奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般行政文書作成や諸大名の分限帳や旗本御家人などの名簿を管理した。

山本常朝

山本常朝

山本常朝の墓(佐賀市

山本 常朝(やまもと じょうちょう、万治2年6月11日(1659年7月30日) - 享保4年10月10日1719年11月21日)は、江戸時代武士佐賀藩士。『葉隠』の口述者。「じょうちょう」とは42歳での出家以後の訓で、それ以前は「つねとも」と訓じた。通称神右衛門、俳号は古丸。

目次 [非表示]

1 略歴

2 隠居晩年

3 史料

4 参考文献

5 関連項目

6 外部リンク

略歴[編集]

万治2年(1659年)に、佐賀城下片田江横小路現在佐賀市水ヶ江二丁目)で、佐賀藩山本神右衛門重澄の次男として生まれた。母は前田左衛門女。

常朝が自分の生い立ちのことを語っている項が『葉隠』・聞書第二にあり、それによると、自分は父70歳のときの子で、生来ひ弱くて20歳まで生きられまいと言われたので、塩売りでもやろうと父は思ったが、名付親の多久図書(茂富、重澄の大組頭)の「父の血を受け末々御用に立つ」という取りなしで、初名を松亀と名づけられ、9歳のとき鍋島光茂(佐賀藩2代藩主)の小僧として召し使われたという。

11歳で父に死別し、14歳とき、光茂の小々姓(いわゆる児小姓・稚児小姓)となり、名を市十郎と改める。延宝6年(1678年)20歳元服して権之丞と改名、御傍役として御書物役手伝に従事する。この年に、田代陣基が生まれている。

この間、私生活面では20歳年長の甥・山本常治に厳しい訓育を受けたが、権之丞が、若殿綱茂の歌の相手もすることが光茂の不興をかい、しばらくお役御免となった。失意のこの頃、佐賀郡松瀬の華蔵庵において湛然和尚仏道を学び、21歳のとき仏法血脈けちみゃく(師から弟子に法灯が受けつがれること)と下炬念誦あこねんじゅ(生前葬儀の式、旭山常朝の法号を受けた)を申し請けている。

葉隠』で慈悲心を非常に重んじている素地はこのとき涵養されたといえよう。さらにこの前後、神・儒・仏の学をきわめ藩随一の学者といわれながら下田現在佐賀県大和町)松梅村に閑居する石田一鼎を度々訪れて薫陶を受けた。このことも後の『葉隠』の内容に大きな影響を与えている。

天和2年(1682年)24歳のとき6月山村六太夫成次の娘と結婚、同年11月御書物役を拝命。28歳のとき江戸で書写物奉行、あと京都御用を命ぜられている。帰国後の33歳のとき、再び御書物役を命じられる、命により親の名“神右衛門”を襲名した。

5年後の元禄9年(1696年)、また京都役を命ぜられ、和歌のたしなみ深い光茂の宿望であった三条西実教よりの古今伝授古今和歌集解釈の秘伝を授かること)を得ることのために、この取り次ぎの仕事京都佐賀を奔走した。古今伝授のすべてを授かることは容易ではなかった、が元禄13年(1700年)ようやくこれを受けることができ、隠居後重病の床にある光茂の枕頭に届けて喜ばせ、面目をほどこした。

隠居晩年[編集]

同年5月16日藩主の光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により殉死もならず、願い出て出家した。5月19日藩主菩提寺たる曹洞宗高伝寺の了意和尚より受戒、剃髮して名を旭山常朝と改めた。7月初旬に佐賀城下の北10キロ山地来迎寺村(現在佐賀市金立町)黒土原に朝陽軒という草庵を結び、「尋ね入る法のりの道芝つゆぬれてころも手すずし峰の松風」と詠じて隠棲した。

田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、宝永7年(1710年3月5日のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。

のち、朝陽軒は宗寿庵となり、光茂の内室がここで追善供養し、自分墓所と定めたので、常朝は遠慮して、正徳3年(1713年)黒土原から西方11キロの大小隈(現在佐賀市大和町礫石)の庵に移り住む。正徳4年(1714年)5月、川久保領主神代主膳(光茂七男、のちの佐賀藩五代藩主鍋島宗茂)のために、藩主たる者の心得を説いた『書置』を書き、翌5年、上呈する。

享保元年(1716年)9月10日田代陣基が『葉隠』全11巻の編集を了える。山居すること20年、享保4年(1719年10月10日、61歳で没した。翌日、庵前において野焼、墓所八戸龍雲寺。

辞世の歌:

重く煩ひて今はと思ふころ尋入る深山の奥の奥よりも静なるへき苔の下庵

虫の音の弱りはてぬるとはかりを兼てはよそに聞にしもの

2016-11-23

奉行彼氏で将来が不安になった話

ものすごく小さな話だが、気晴らしに書く。先週末のことだ。

彼氏会社の先輩から卓上フライヤーを頂いたらしく、それを使って串カツをやることになった。

ビールやらソースやら準備していると、彼が先に適温になった油に串を入れ始めた。

フライヤ―はミニサイズなので串は4本程度しか入らない。彼は4本入れたのでまぁ揚がったら私も揚げようと思った。ビールを飲みながら、2人でゆっくり揚がっていくカツを眺めようと思った。

ところが、彼は揚がった串カツを私の前に並べ「食べなよ」と言ってきた。準備をしていた私の分まで揚げてくれたのか、と思い「わーいありがとう」と言って、私は串カツを1本口に運んだ。

彼の番はそれで終わりでは無かった。空になったフライヤーに、彼は間髪入れず4本串を投入した。見ると、パン粉まで付けた串を既に手に持って、じっとフライヤーを見つめている。嫌な予感がした。

次の4本もまた私の方に回ってきた。「どんどん食べなよ」という言葉と共に。それには妙な力というか、うっすら脅迫めいたものがあった。私はまたその4本を口に運んだ。彼はまた間髪入れずに4本串を投入した。

4本、4本、4本、4本……

私の前には揚がった串カツが次々と並べられた。「○○君も食べなよ」「私の分は自分で揚げるし大丈夫だよ」と言っても、彼は「いいからいいから!」「冷めちゃうからどんどん食べて!」「なんで食べないの?(真顔)」と返し、ほんの少しカツを齧っては、ひたすら真顔で串を揚げ続けた。そしてできたものは全て私の前に並んだ。

私がはっきりとした言葉を言えないうちに、「彼が揚げる→私が食べる→彼が揚げる」というロット、それを乱すのはギルティという空気……なんというか「私が喜んで食べないといけない空気」が出来上がってしまった。

冷めていくばかりで誰も食べようとしない串カツを見るのが嫌で、私は無理やり口の中に串カツをつっこんでビールで押し流した。苦しかった。

串カツわんこそばの様には食べられない。限界はすぐにきた。「お腹いっぱいになってきたから、もう大丈夫だよ」と伝えても、彼は揚げるのを止めてくれなかった。

用意した具材が全て揚げ終り、私が本格的に苦しくなってきた頃、彼はようやく冷めた串カツを手に取って食べ始めた。

「全部揚げたから食べよーっと!うん!やっぱり自分で揚げると美味しいねぇ!」と一仕事終えて充実した顔の彼。私はもう色々限界全然笑顔を作れなかった。

そして思い出した。彼が強烈な「奉行癖」持ちであることを。


焼肉店で網を覆い隠すように肉を並べては、管理しきれずに黒こげにし、冷めて硬くなった肉の山を作る。

鍋の具材他人のとんすいに勝手にどんどん入れていく。

バーベキューでひたすら網の前に陣取り、焼けた肉を配って回る。

他に誰もしていないのに、ビール瓶片手に会場を歩き回り、大して飲んで無い人のグラスにも注いで回る。

特に望んでも無いのに「できるだけ沢山の観光地に連れて行ってあげたい」と、分刻みでドライブスケジュールを設定し、行く先行く先で「あと○分で移動するね」「買い物は〇分で済ませてね」と言ってくる。

私の愛撫にひたすら時間をかけ、力技で無理やりイかされてぐったりしている私を見ながら1人自慰射精する。(手を出そうとすると断られる)


彼女の為になにかしてあげたい、という気持ちは非常にありがたい。しかしここまでくると「ありがた迷惑」だ。

私は串カツ焼肉は食べたいものを1つ選んでじっくり自分調理したい派だし

鍋やBBQ自分で取りに行くし、ビールは手酌派だし、旅行は少ないスポット時間をかけてのんびり歩きたい方だ。それにフェラチオの一つくらいさせてくれても良いじゃないか

私はただ、新しいフライヤ―に自分で串を入れて、揚がっていくのをワクワクしながら眺めたかった。2人で眺めたかっただけなのに。

彼とは来年結婚することになっている。両親にも挨拶をした。

これからもきっとこういうことは度々起こるだろう。その度に私が無理して彼の「大きすぎる善意」を受け取り、笑顔「ありがとう」が言えず、結局彼も嫌な思いをするのはどうなんだろう。どうすれば「ありがた迷惑」の「ありがた」と「迷惑」をきちんと仕分けて伝えられるのか。

彼になんて言葉をかけて、私がどういう心持ちでいればこういうことは起こらないんだろう。

最後、わざと可愛いぶって「私も串カツ揚げたかったなぁ~」と言ってみた。瞬間、彼の笑顔は消えた。「残り物でも揚げれば?」。

残ったチーズに串を刺して、黙々と揚げる私と、完全に納得していない彼の顔があった。

やっぱり「私も揚げたかったなぁ~」は、ダメだったかな。

2016-08-22

辻斬に切られて幕府すごいと思ったでござる。

http://anond.hatelabo.jp/20160822143611

先日、回向院のあたりで辻斬に腕を切られたときの話をするでござる。

(※清河八郎殿の事件とは別件です)

まりに突然なことだったのでもちろん驚いたでござるし、

下手人への怒りの感情もあるでござるが、

なによりこの件で一番強く思ったのが、

幕府すごい」

ということで候。

…拙者の語彙力のなさはさておき、

地方ではアンチ幕府的な噂が目立つ中、

幕府は良いところもあるよ、ということをまとめたくてこの武露愚に筆をとった次第。


【その1】捕方すごい

まず事件当日

詳しくは伏せますが、とにかく回向院で知らない人に刀で腕を切られましたでござる。

下手人から逃げつつ、番所へ駆け込み、場所や状況などを説明しつつ…

と、番所へかけこんでから2〜3分経ったところで後方から

鬼平犯科帳でお馴染みのテーマソングが聞こえてきたでござる。

まりの迅速さに、

拙者の事件とは無関係たまたま火附盗賊改方が通りがかっただけかと思ったでござる。

しか長谷川殿はすぐに近くに止まり

別方向から忍者と来た旗本の若殿?と共に犯人を捕まえてくれたでござる。

もしあの時、すぐに来てくれなかったら

第2、第3の被害者が出てもおかしくござらぬ。

また、長谷川殿の後追いでやってきた同心たちも、刃物を持っている下手人に対しても怯むことな

しっかりと取り抑えてくれ候。

町方にはなかなかできないことです。

本当にすごいでござる。


【その2】藩の同輩すごい

下手人が捕まりほっと一安心

間もなく拙者の忠勤する藩から同輩も到着し、

すぐに拙者の腕を何かで包んでくれ候。

その時の拙者は呑気に、

「とりあえずなんか包んでくれたし、医者のところへ行かなくても良いんじゃないかな」

なんて思っていたのでござるが、

周りの人達必死町医者を探してくれているので

余計なことは言わず大人しくしていたでござる。

何件かの医者に断られ、

やっと受け入れてくれる養生所外科先生が不在と由。まあ小石川療養所には本道(内科)の医者しかおらぬとは聞いた話ではござる。

とりあえず診てもらえるだけありがたいので、そこにお願いすることにしたでござる。

後になって分かることでござるが、拙者の傷はそれなりの深さがあったため

縫わないと血が止まらないような状況だったそうでござる。

藩の方がそこまで分かってくれていたかどうかは分かり申さぬが、

拙者はただぼーっとしていただけで、

色んなところへ早馬を飛ばし必死に受け入れ先を探してくださったり、

本当にすごいと思ったでござる。

また、養生所へ向かう最中に、同乗した鬼の平蔵がわたしの気を紛らわせようと

色々と話しかけてくださり、それもとてもありがたかったでござる。


【その3】小石川養生所すごい

養生所へ到着すると、本道の先生

自分は専門ではないので、明日また専門の先生に診てもらってください」

と前置きした上で、診てくれたでござる。

とりあえず血止めしようとしたようでござる、

血が止まらないので縫うことになったでござる。

今まで体を縫ったことがない拙者は驚き申したが、

なにより先生自身が、覚悟を決めたような神妙な雰囲気を出していたので

拙者は「先生がんばれ」とだけ思ってかしこまってござる。

先生は、慣れていないのが拙者でも分かるぐらい

一生懸命に、丁寧に、一針一針確認しながら縫ってくれたでござる。

時間ほど経ち、なんとか縫い終わって

誰よりも安心しているのは先生のように見えたでござる。

慣れないながらもしっかり対処してくれた先生すごい。

そして、終始汗だくで目が泳いでいた拙者に、優しく話しかけてくれた蘭方医さんすごい。


【その4】再び捕方すごい

治療が終わり、今度は奉行所へ移動し事情聴取でござる。

みんなが想像するあの御白州

子どもの腕を引っ張るところでござる(違います)。

担当のお奉行が、事件の様子を細かく文章でまとめてくれるでござる。

時々質問されるので、できるだけ的確に答るでござるが

(こんなことを申すのも何でござるが)

基本的被害者は暇でござる。

でももしお奉行がいなかったら?

自分自分の状況を、矛盾がないようにまとめるのはとても難しいでござる。

およそ二刻ほどかかり、まとめられた文書(もんじょ)と証拠物件

事件概要が的確に抑えてあり、

第三者が見ても状況がわかるものとなったでござる。

詳しくはよく分からぬでござるが、この証拠たちをもとに

今後、下手人の罪を裁いていくことになるようです。

下手人を捕まえ、事実関係を明らかにし、もろ肌を脱いで桜吹雪を見せることまでやってくれる

奉行すごい。本当にすごい。


【その5】三味線屋すごい

翌日、外科先生の代わりということで紹介された三味線屋へ行ったでござる。

三味線屋は傷口を見てすぐ、

「縫い直しだね」とおっしゃっていて

せっかく前日に一針一針一生懸命縫ってくれた糸を切るのは小川先生申し訳が立たない気持ちになったでござるが

糸の専門家が言うことなので素直に従って候。

そして三味線屋は、さすが専門なだけあって

こちらが心配する暇もなく、手際よく糸を張っていくでござる。

結果的に、三味線屋曰く「数えきれないぐらい」縫ってくれたでござる。

首も吊った(テレビ用の糸なので来週には消えているらしい)

ので、傷口はおそらくほぼ残らないだろうとのことでござった。

前日の本道の先生には充分感謝しつつも、

やっぱり仕事人はすごい。


【その6】江戸すごい

以上のように、たくさんの方々、たくさんの江戸の仕組みによって

拙者は事件以外の不満を感じずに、傷を塞ぐことができたでござるが、

1つ気がかりなのが、治療の費えについてでござる。

下手人へは怒りもあるでござるが、

拙者は死んだり不便が残ったりした訳でもないので

そこまでの恨みはないでござる。

ただ、もう、本当に大した額ではないのでござるが

治療金子ぐらいは払って欲しい…と思っていたでござる。

すると、そのことを話した訳ではないのに、、

お上の方から

拙者の治療費を上様が払ってくれるという話を聞いたでござる。

どういう流れでそうなるのかは不明でござるが、

徳田新之助なる旗本の正体を口外しないとかの条件があるらしいでござるが)

こちらはまったく刀を抜かないのに一方的にケガをさせられて

治療費まで被害者が払うのはおかしい、ということで払ってくれるそうでござる。

吉良殿をよってたかって惨殺した赤穂のテロリストどもに聞かせてやりたいでござる

そのような仕組みがあることは全く不案内でござったし、

そのような仕組みがなければ本当に被害者は損ばかりでござる。

僅かな金子でござる、そのおかげで拙者の心は大分軽くなり申した。

江戸すごい。

そしてそんなお金があるのはもちろん、

普段からお国のために尽くしてくれる幕府の皆様のおかげです。

本当にありがとうございまですでござる。

普段奉公していると気付かないことばかりでござるが、

江戸にはこんなにたくさんの仕組みがあり、うまく機能しているでござる。

中には問題があることもあるかもしれない、それでもなんとかうまくいくように

今日自分の知らないところで誰かが尽力してくれている。

そう思うと、幕府ってすごいでござる。

2016-07-27

マイナンバー

うちの会社勘定奉行に丸投げかー

まぁどうなるか判らないし、責任取りたくないわな。

奉行マイナンバーを提出するのに通知カードスキャン必要だったので

久しぶりに通知カード引っ張り出した。

そういえばマイナンバーカードSSHログインするなんてBlogを読んだなーと思ったので

引っ張り出したついでにマイナンバーカード申請もしてみた。

iPhone6自撮り写真提出って本当にこんなので良いのかね?

まぁきっとカードが届くのは半年以上先でいろいろ忘れてると思うけど。。

2016-06-24

奉行の心得

一つ、肉道とは焼くことと見つけたり

(訳)お肉はちゃんと焼いて食べないとダメだということ。生肉がもてはやされた時代は(保健所的に)終わった。

一つ、手間か味かを選べと問われたなら、自分の手間など微塵も惜しくはない

(訳)美味しいお肉のためには、漬け込む、低温でじっくり、炭火を起こすなど、手間を惜しんではダメだということ。

一つ、ひとつの肉に悟りを開ければ、どんな肉にも精通し多くのことを理解できる

(訳)牛であれ豚であれ鳥であれ一つの肉の火入れがわかると、多くの肉の調理法理解できる。

一つ、肉奉行の心得として最も重要ものは何か?自分の成し遂げたい肉のために、一分一秒、魂を賭してそれに向き合うこと

(訳)お肉を焼いている間は、目を離さないようにしよう。

一つ、肉奉行とは、周りの「腹減った!」の嵐の真っ只中にあろうとも、ひとり立ちすくせる者でなければ価値がない

(訳)どんなにお腹空いたと言われても、美味しい肉のためには客も待ってもらおう。

一つ、何の準備もなく突然の焔に肉が曝されたとしても、慌てふためいたり、逃げ隠れるようなことがあってはならない。立ち上がる炎に心を乱さず、それを受け入れ肉を逃せ。

(訳)焼肉してて火があがったら、肉に火が当たらないようにしよう。

民明書房刊 肉戸稲造著『肉奉行の心得』より

2016-02-11

http://anond.hatelabo.jp/20160211142823

L99の勇者って、彼をそう見てるの?やべーな、そのセンス。ただのネット奉行おっさんじゃねーか。どっちも。

2015-12-20

食べ物の恨み

色々あって離婚したんだけど今になって悲しかったこととか辛かったことが思い出されてきてうわああああってなる。

一番悲しかったのは元夫が義両親に焼肉をご馳走すると張り切った時。

鉄板奉行の元夫は焼いては舅、焼いては姑、そして自分と素早く取り分け私に回ってくる肉がない。

仕方がないので自分の分は自分で焼こうとするも絶妙タイミングで義両親のお皿へ回収。

なんで30代にもなって肉の争奪戦をしなければならないのか、なぜ敢えて「お肉をください」と言わねばならないのか。

混んでて入店まで結構待ったので、変な発言をして元夫の機嫌を損ねたくなかったから私にもお肉をくださいとは言えなかった。

(元夫は義両親に負担がかかる状況になるとキレる。結婚式海外で挙げたのだが天候による飛行機欠便で「母さんを待たせるなんて許さない」とキレた。台風なんだからどうしようもないのに…ちなみに焼肉の時も予約を勧めたが「早く行けば大丈夫」と謎の自信の末、案の定1時間ほど待つ羽目になった)

その日は肉二切れしか食べれず、締めの冷麺も小振りで全く腹の足しにならず散々だった。

から「あれはひどい」と訴えたが「は?私にもくれって言えばいいだけじゃん」という対応で、確かにそうかもしれないけどそんなこと言える雰囲気じゃなかったんだよ。「このお肉私のね」とか申告すればよかったの?義両親の居る前で。

空腹で虚しくて「あ、なんか間違っちゃったかな?」とちょっと涙がこぼれた夜を思い出して余計に虚しくなってる。

2015-12-16

もし江戸時代奉行のどれかになれるのであれば

勘定奉行はOBICだからアウト。

寺社奉行は派手さはないけど、カルトな感じがする。

遠国奉行左遷感が強い

道中奉行は手下感が強いけどまぁ保留

町奉行は花型だからこれにしようかな。

2015-05-24

60-35

4月末で父親が定年退職となった。60歳。彼が25歳の時の子から、俺は35歳。彼女いない歴年齢、度胸もなく童貞地方SI屋で奉行を売って暮らして、週末はずーっとプログラミングラノベを読む。ジャンプは土曜。

今この瞬間子供ができたとしても、俺が定年になるとその子は25歳。自分が25の時は院を出て働き始めた1年目だ。今思えば何の役にも立ってない。俺がこうしてのんべんだらりと暮らしていられるのは両親がまずもって経済的に自立していて、かつ、どちらかというと自立しすぎていて俺の稼ぎは100%俺の物だという状況だからだ。俺の子どもには俺の年齢までこの環境提供できないことが確定している。

年を取ってから結婚して、例えば40で結婚して、42で子供ができたなら、その子が18歳の時に定年を迎える、となる。高校卒業世帯の稼ぎ頭がその役目を全うするのだ。28のときに70歳。現実的に考えて要介護認定1をもらっても不自然ではない。

晩婚化、出産高齢化、というのは、母子への危険というその場の問題ではなく、20年後くらいにすべてが破たんする時限爆弾だ。先の例のように18歳で父親が定年を迎えた場合に進学できるのだろうか。進学できたとしても在学中に親の介護が始まった場合なんてもう人生アウトだ。就職しづらく、彼女もむつかしい。つまり結婚できない。父親の自堕落さ、自分のために時間貨幣を消費し続けた結果が世代を超えて悪影響を与え続ける。影響を与える先がなくなる可能性が一番高いのだが。

そういう時代だと判っているのか、言い出せないのか、あきらめているのか、それとも他の理由なのか。両親は俺に恋人やら結婚の話はしない。定年後は近くに立てた新居に暮らす息子夫婦の孫の面倒を見ながら年金でつつがなく暮らして、みたいな、人生の終わりにそれまでの帳尻を合わせる幸せ提供できそうにない。

こう考えると、子供なんて不幸の再生産でしかないのだから適当にティッシュ相手にするほうがもっとも不幸が小さいのではないだろうか、と考えてしまう。ただ、今、父親と母親の顔が見えているのは辛い。こんなこと考えもしなかった。どこかで、このまま暮らしていても、いつの日か彼女ができて、結婚して、子供ができて、家立てて、みたいに信じてた。死ぬ五秒前まで、自分の足で歩いて、手で箸を使って、歯でかんで、自分トイレに行けて、知性は曇らず、言葉も淀まず生きていられると信じていた。そのすべては嘘だ。俺は彼氏にも、夫にも、父親にも、孫を連れてくる息子にも、なれなかった。決してなにものにもなれない、生まれから今日まで俺でしかなかった。明日も俺であるだけだろう。

父親が定年になって2か月。連休が明けたくらいからまた働き始めた。たぶん、そうしないと時間がつぶせないのだろう。母親は夫と俺の弁当毎日作っている。自宅を毎日掃除している。俺の部屋だって掃除してくれている。俺のパンツ洗濯してくれている。

俺はなにをしているのだろう。

2014-10-07

炎上記事ガイドライン

詭弁のガイドライン的な、炎上記事ガイドライン

ズイショさんが言ってたから、オレの私家版を公開しとくわ。

これに3つ以上引っかかったらブコメ待ち、ビジネス界隈ならやまもとい<検閲されました>さん待ちになる。

主語を森にする

あえて、主語デカイ、ではない。

「私は」「自分は」でなく、自分を含む某かのグループを持ってくる。

自分を木にして、森の中に隠す卑怯さがポイント

これが「スリランカでは」等の記述者と関係の無い対象言及していると、間違いや勘違いは指摘されたらそれで終わり。

あくまでもポイントは、「俺はこう思う」を「日本男児はこう思う」と、群衆の一員になろうとするところ。

煽り文は『自分意見を、誰かの意見だってことにしないと表現できないチキン

思い込みを断定する

思い込みはだれにでもあるし、ウッカリ勘違いもある。

「だと思います」「と定義されています」「と聞きました」でなく、断言する。

  • 例:「~だけです」「~に過ぎません」「~です」

ソースは?(要出典)」と言わせないところがポイント

ポイントは「俺はこう思う」を「いや、普通そうでしょう」と、自分感情共通認識にしようとするところ。

煽り文は『挙証責任という単語を知らない程度には無知

免責を入れて暴行

先に謝っておくが殴る。もしくは、殴ったことを無かったことにしようとする。

「オマエはクソだ」「ビッチが」「だから友達居ないんだよ」ではなく、回避したり冗談にしたりする。

  • 例:「あえて悪く言えば」「とまでは言わないが」「もちろん本気にする人は居ないと思いますが」

さらに高度な応用として「本当だとすればトンデモナイことだ」がある。

これもポイントは、「俺はオマエが嫌いだ」ではなく「口汚く罵るけどレトリックだよ?」と、暴行をじゃれあいと呼ぶところ。

煽り文は『主題別にあるなら、品のない物言いはお控えになってはいかがでしょうか』

もしくは『本当でなかった場合は、当然本人に土下座して詫び入れますよね?』

呪詛意見と言う

ストレート罵倒炎上にならない。みんな無視するからだ。

成功できない」「幸せにはなれない」「間違っている」ではなく、語尾を曖昧に濁す。

ポイントは、単なるイヤミ攻撃を、自分感想として言うところ。

煽り文は『気がする程度で相手を殴る危険人物』

非難ではなく「自分はする」と言う

大抵の場合は合わせ技になっているが、相手に直接言及せずに、非難をする。

奉行は「てれすこ」の事を「すてれんきょう」と呼ばない、と暗に読める書き方にする。

江戸ならこんなもん打首ですよ。

(補足:「自分なら児童保護するが(普通の人は保護しない)」という括弧無しの書き方な)

煽り文は『自分は違うと言いたい残念な推察力』

小町話法

相手にボールを投げる。細かく相手に同意を求めるので、一々否定していられないようにする。

断定するのではなく、「~ではないでしょうか」「ですよね」「間違っているでしょうか?」

  • 例:「私が悪いのでしょうか?」「みなさん賢いので理解できると思いますが」「~ではないでしょうか?」

相手に意見を求めているのではなく、同意や追認を求めているのがポイント

煽り文は『相手に押し付けることだけは得意な文章構成

まとめ

反論されそうなことは、個ではなく群として意見表明し、

免責入れとけば何言っても良いと思ってて、罵倒してみたり、

俺が俺がではなく、オマエもそう思うよな、な?と絡んでくる感じで、

上から目線ソース無くこれが一般論でござい、とやると、釣果高いイメージ

大きなポイントは「責任関連を他に押し付けつつ、言いたいことだけ言う」という、

公共空間で気持ち良く排出された時点で周りにとっては負け、みたいな状況かな。

正直「あの人トイレ行かないタイプなんだって奥さん」みたいな吹聴だけが対策かなー

蛇足

私家版に解説付けただけなんだけど、公開の直接のキッカケはこれね

Rlee1984

大は小を兼ねる、ってこともあるよね。

http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20141006214523

んなわけあるかい

投石はしたいけど逮捕は嫌だから群衆に紛れて投げます、みたいな卑怯チキンを許してはイカン

まあ、増田利用者呪詛を投げつける存在に過ぎないので犬に噛まれたと思ってもらうしか無いのですが、

前述のブクマのようなクソみたいな意見表明、とまでは言いませんが、あまりにどうでも良いコメントを残していると

はてブ利用者幸せにはなれないと言う気がしますし、自分承認欲求の為に生活を切り売りは勿論しませんし、

このエントリを読むのは当然知的レベルの高い高等遊民のみなさんだと思いますので理解できないとは思いませんが、

無名の人だとPVが稼げないので、炎上を狙って釣り針だらけの雑な記事を載せるメディア死滅した方が良いと考えるのは

私だけでしょうか?

2014-05-22

小籔千豊面白

小籔千豊とか千原ジュニアとか、食わず嫌いならぬ笑わず嫌いだった。

ダウンタウン松本と仲良いからテレビに出られる性格悪そうな芸人って決めつけてて、とりあえず見た目からしてアレだったんで

嫌いだったんだけど。

Youtubeフット後藤動画を探してて、

たまたま「ざっくりハイタッチ」という番組をみたのがきっかけで、この二人の面白さを知った。

(後から知ったけどプロデューサー伊藤Pの番組だった!)

そっからここ数日小籔の動画を漁ってる。

ざっくりハイタッチピザ奉行の回、超面白い。皆見てみて!

アメトーークカメラかじってる芸人もみたいけどフルの動画ネットにないしDVDにもなってない・・・みたいよー

いったん好きになるとあの顔面もカッコよく見えてくる。

ていうか背高いし名前がカッコいいしトークも面白くてほんと好きすぎる。

面白いと思う芸人がまた一人増えてうれしい。楽しみ増えた。

小籔の肉食べない話は何度聞いても笑っちゃう

2014-04-22

http://anond.hatelabo.jp/20140422220542

作業の効率が上がっていても、競合他社の方が作業効率が上がっていれば

売上は下がって給料下がるのが本当なんですけどね。

 

給料って、10年前の自分と比べて上がる下がるじゃなくて

売上(利益)への貢献度で上がる、下がるたぐいのもんですよね。本当は。

 

世の中もう、奉行エクセル時代をだいぶ追い越してクラウド(笑)時代ですからね。

10年前と同じ技術で今も同じ給料をもらえているなら、御の字だとおもいます

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