はてなキーワード: 奈良時代とは
ネトウヨ界隈で
「核家族のせいで日本が少子化した。核家族をやめれば少子化は無くなる」って神話が流行ってるけど、誰が言い出したんだ?
そもそもネトウヨが理想とする大日本帝国の旧民法では戸主が絶対なので、姉妹兄弟のうちの誰かが世帯主になれば世帯主以外の姉妹兄弟は家を継げず
そもそも日本の歴史の中でも核家族以外の家族形態をとってたのは少数で
江戸時代に家を継げなかった兄弟姉妹が家から独立できる能力もない時に死ぬまで穀潰しとして残ってた時や
平安や奈良時代の農民で、働き手が防人として徴兵されて死んだので本家に分家の女性も住んで実質的に一夫多妻になってたような時代でしか観察されてないんだよ
自分が穀潰しで人生終わってるから拡大家族に憧れを感じてるのかもしれないが核家族のせいで少子化になったって神話がネトウヨ界隈に広まってるのがマジで謎だわ
奈良時代から明治時代まで、日本人の、日本人による、日本人のための文章は漢文で書かれてたんだよ?
ローマ帝国が滅んだ後も学術語としてラテン語が使われてたのと同じように中国と断交してた時期ですら日本人はひたすら漢文で文章を残してた
古代中国語や現代中国語を学んだところで漢文の代わりにはならんのよね
あと現代語訳すればええやんみたいな話?
日本の漢文には1000年以上の歴史があって、そのすべてを口語訳するのは物理的に不可能よな
まあそういう話ではないだろうけどさ
それと役に立たないんだからいらんでしょみたいな話?
どの時代のどの地域の人類にとっても役に立つのはいわゆる理系的な知であって、文学も法も言語も歴史も、時や場所が変われば全く役に立たない
そういう意味では古文漢文どころか、日本の文学や日本の歴史すら、日本人くらいにしか役に立たないんだよね(日本人でも役に立ってねーよというツッコミはひとまず控えてほしい)
でもさ、だからこそ大切なんじゃないの?って思うわけよ
日本人くらいにしか役に立ちそうもない古文漢文だからこそ、日本人が学ぶ意味があるんじゃないのかね
まあそれでもいいかもな
でも一つ注意して欲しいことがある
裾野を狭めれば頂点は低くなるってこと
日本文学研究や日本史研究の最先端はもちろん日本の大学なわけだけど(だって他所の国は日本人ほど日本に興味ないし)
それでいいのかね?
日本人がフランス文学の研究するために第二言語でフランス語を習得したり、西洋哲学を学ぶために古代ギリシア語を覚えるのとはわけが違う
そこのレベルが下がってもいいんかね?
これ面白くて、未来が自分の後ろ側にあった時代には矛盾がなかったんですよ
我々現代人は普通「未来が前、過去が後ろ」なのが当たり前だと思ってますが、昔は過去が前、未来が後ろにあったんです
全く日本独自のことではなく、古代ギリシャやソマリ語など世界の地域/言語であった/あることらしいですが https://t.co/3iG9Uaqgae pic.twitter.com/hkoAEAJjB0— 重藤小藤太 (@Kotouta_Sige1) February 18, 2024
この言説は正しいのだろうか。この場合、過去に書かれた文学などにおいてどのような用法があったかを確認すればいいだろう。というわけで『源氏物語』から「先」が未来をあらわしている箇所を引用する。
わが御世もいと定めなきを、ただ人にて朝廷の御後見をするなむ行く先も頼もしげなめることと思し定めて、いよいよ道々の才を習はさせ給ふ。
「私の治世もいつまで続くかわからないのだから、(光源氏が)臣下として朝廷の後見をすれば、この先も頼もしいだろうと考えて、さまざまな学問を習わせた」といったところだろうか。この「行く先」は未来を指している。
中に十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などのなえたる着て走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌なり。
「その中で、十歳くらいに見えて、白い衣に山吹襲の着慣れた上着で走ってくる女の子は、その他の多くの子供とは違って、将来が楽しみな可愛らしい容姿をしている」といったところだろうか。この「生ひ先」も未来を指している。
我が心ながら、かかる筋に、おほけなくあるまじき心の報いに、かく、来し方行く先の例となりぬべきことはあるなめり
「自分のことながら、このような身の程知らずのあってはならない恋の報いとして、このように後にも先にも例になりそうなことが起きたのだろう」といったところだろうか。「来し方」は過去、「行く先」は未来、という時間の感覚がよく分かる。
一方で、もちろん「先」と書いて過去を指している箇所もある。
あこは知らじな。その伊予の翁よりは、先に見し人ぞ。されど、頼もしげなく頚細しとて、ふつつかなる後見まうけて、かく侮りたまふなめり。さりとも、あこはわが子にてをあれよ。この頼もし人は、行く先短かりなむ
「おまえは知らないのだろう。(姉君と私は)その伊予の老人よりも先に会っていたのだ。けれど、(姉君は私のことを)頼りなく弱々しいと思って、あのどっしりとした男を夫として、このように(私を)馬鹿にしているらしい。とはいえ、おまえは私の子でいてくれよ。あの頼もしい人は老い先短いだろうから」といったところだろうか。この箇所には二つの「先」があるが、「先に見し」は過去、「行く先」は未来を指しているのが面白い。
このあたりを見るかぎり、単に「先」といえば「過去」あるいは順序的な「前」を指しているが、「行く先」のような言い方だと「未来」になるようだ。これは現代的な感覚としてもわかるのではないだろうか。「先に〜〜する」と「この先、〜〜する」の違いだ。
ではさらに遡って中国では「先」という漢字はどのように使われてきたのだろうか。
先(拼音:xiān)是汉语一级通用规范汉字(常用字) 。此字初文始见于商代甲骨文及商代金文,古字形从止(指脚)从人,人举足则前进,表示在前面的意思。 先的基本义是走在前面,引申为时间或空间的次序在先。引申用作名词,特指祖先,又指过世的,多指长辈。
先(拼音:xiān)は、中国語の一級通用規範漢字(常用字)です。この字は商代の甲骨文と商代の金文で初めて見られ、古い字形は「止」(足を指す)と「人」から成り立っています。人が足を上げると前進することから、先は前にあることを示しています。先の基本的な意味は先頭を歩くことであり、時間や空間の順序が先にあることを意味します。名詞としても使われ、特に祖先を指し、また亡くなった人々、特に長老を指すことが多いです。
意味などを調べてみたかぎり、どうも中国語では「先」が「未来」を表すことはなさそうだ。空間的な順序では「前方」側、時間的な順序では「過去」側、で統一されているらしい。このあたりは中国語に詳しい人の解説を求む。
原義が「先頭を歩く人」で、時間的には「過去」を表すというのは、どう考えればいいだろう。イメージとしては、人々が一列に並んでいて、自分はその真ん中あたりにいる。空間的には、列の先頭の人は、自分の前方にいる。しかし、時間的には、先頭の人が先に動き、自分はその後に付いていくことになる。先祖代々が一列に並んでいるところを想像すると、その「先頭」はいちばん古い人だと考えるのが自然だろう……ということではないか。
精選版 日本国語大辞典
先・前(読み)さき
日本語の「先」には「目的地」という意味がある。たとえば「出掛け先」だとか「勤務先」のような言い方である。そして先ほどの「行く先」はまさにこの用法だろう。つまり「先」という漢字から、まず「目的地」用法が生まれ、それから「目的の地点」を「時点」にするイメージで「未来」用法が生まれた、と考えるべきかもしれない。
まとめ。
1. 日本語では「先」が「過去」を意味したり「未来」を意味したりする
3. 中国語では今でも「先」といえば「過去」だけを意味するらしい
残りの課題。
「民族」という言葉もミスコンにおける「美」くらいガバガバな概念ではあるが、それでも多くの人に漠然と共有される概念があるから「民族」という括りが一応存在するものとして扱われている。だから、その基準から外れる外見の人がその民族の代表に選ばれるかというと、それはなかなか難しいだろう。
だが、「日本」が国名である以上、その代表を決めるのに、その容姿が何民族的であるかということを云々するのは、根底に「日本は大和民族だけのものである」という考えがあることになるので、それはよろしくない。倉田真由美が批判されているのは、その点である。差別というよりその「誤った狭い見識」を批判されている、と見るべきだ。
日本という国には、そもそも複数の民族が所属しており、また何々民族の出身であるから日本国籍を取ることはできない、みたいな決め事もない。「日本」の文化的アイデンティティ自体も、かつて「雑種文化」と評されたように、排外的というよりは国際的にオープンで多様性に満ちたものであり、「日本」の祖型を為した奈良時代、「国風」の栄えた平安時代の文化を見ても、海外(ことに大陸)文化の影響が著しいことは誰でも知っている。
「ミス日本は大和民族的な人間であるべきだ」と主張したら、その瞬間に、アイヌ民族、琉球民族を初め、日本という「国家」が自国に所属すると認める多様な民族出身者の存在をなおざりにすることになる。それは、差別につながりかねない「偏見」に満ちた主張である。これまでも「日本は単一民族国家で…」とか抜かした大臣や総理が、その狭い了見や見識を批判されてきた。彼らは意識してやったのだろうが、倉田はおそらく無意識だろう。従って、この失言を機に彼女が自らのアンコンシャス・バイアスを多いに反省すれば、それで話は終わりだ。彼女の発言は、それ自体が差別ではないとしても、偏見に満ちた誤ったものの見方に基づくものなのだから。
https://www.nara-np.co.jp/news/20221129213606.html
あなたにとって「一昔」は何年前? そう尋ねられたら何年と答えるだろう。シチズン時計が18歳から26歳の給与所得者400人に尋ねたところ、「5年」と「6年」が4割弱を占めたという。
「十年一昔」は50代のわが身の感覚だが、Z世代と呼ばれる彼らは幼少期からデジタル社会で育ち、回答には「半年~4年」も2割ほどあった。休みなく入り続ける情報が、時間の流れを加速しているのかもしれない。
東大寺二月堂のお水取りに「走り」の行がある。行にこもる僧らはスピードを早めながら二月堂の内陣を走る。
奈良時代にお水取りを始めた実忠和尚が笠置の山中で菩薩の行を目の当たりにしたが、天界の1日は人間界の400年。同じように行っていては寿命が足りず、走ることによって天界の行に近づこうとしたという。
行は堂内で聴聞できるが、スピードが上がるにつれて僧らは履き物を脱ぎ、静かになった足音が、天界の行に接したような感覚を聴聞者に与える。
〇完全に家畜化された虫として蚕が挙げられるが、実は蚕の他にも完全に家畜化された虫は存在した。しかし人間が粗雑に扱ったせいで文書に残らないうちに絶滅したということが最近の遺伝子研究で判明した
この知識は正しくないようです。私が見つけた情報では、蚕は人間によって完全家畜化された昆虫であり、野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られています。他の虫が完全に家畜化されて絶滅したという記録や研究は見つかりませんでした。
→多分正しい
この知識は正しい可能性があります。奈良漬けは名前から奈良県発祥のものと思われがちですが、実際には奈良時代が発祥の食べ物であることが名前の由来となっています。奈良漬けが奈良で発祥したという確たる記録はありません。
〇「猫に小判」にちなんだ、ネコ・ニコ・バンというトリオのバンドが存在する
正しくありません。「ネコ・ニコ・バン」という名前のトリオのバンドは見つかりませんでした。しかし、「ニコバン」という名前のネコのキャラクターはあります。
正しいです。「Caenorhabditis elegans」という学名を持つ線虫は、「モヤシ」を意味する「caeno(カエノ)」と「rhabditis(ラブディティス)」という単語から成り立っています。
→正しくない。caeno(カエノ)とrhabditis(ラブディティス)は「モヤシ」という意味を含まない。
「おとす」の語源については、いくつかの説がありますが、確かなことはわかっていません。「音す」という語源とするのは一つの可能性ですが、他にも「おとろ(驚)」や「あた(当)」などからきたとする説もあります。
→落すの語源に「音す」は含まれますか?という質問をすると「語源的には関係がないと考えられます」という返答。
日本で飼われている犬で最もありふれた名前は、「ラッキー」ではなく、「ココ」です。 また、人気の犬種ランキングでは、「トイ・プードル」が1位を獲得しています。
→多分正しい
ミョウガはフランスで「狂った玉葱」と呼ばれているという知識は、私の検索結果では見つかりませんでした。ミョウガは日本料理のアクセントによく使われる食材ですが、フランスではあまり知られていないかもしれません。
→正しい
メキシコでは一般的にハバネロが拷問道具として使われるという知識も正しくありません。ハバネロはメキシコでは日常的に食べられる唐辛子であり、拷問道具ではありません。メキシコでは麻薬組織などが拉致や殺害などの犯罪を行うことがありますが、その際にハバネロを使用することは報告されていません。
→多分正しい
〇チンパンジーと人間の遺伝子情報はほとんど一緒"であるが、その尺度で言うならば"チンパンジーとアルマジロの遺伝子情報すらほとんど一緒"なのであまり意味をなさない
この知識は正しくありません。チンパンジーと人間のゲノム(全遺伝情報)は約98.8%が同じだそうです。しかし、チンパンジーとアルマジロのゲノムは約80%しか同じではありません。この差は言語や外見、脳の発達など様々な点に影響しています。
→多分正しい
2011年時点では「論語」の全編英訳は存在しないという知識は正しくありません。論語は孔子とその高弟の言行を記録した儒教の経典であり、英語に翻訳されたものは多数あります。例えば、『英語で論語』という本は、人生の叡智が詰まった100の章句を現代に通じる簡明な英語に翻訳し、漫画も添えています。
大化の改新で滅ぼされたのは本家だけど他の蘇我氏はまだ生き残ってた(というか本家と勢力争いして中大兄側についた蘇我氏もいたし、本家が滅びることで氏トップになって美味しい思いもしてる)し奈良時代序盤はギリ高級貴族だった
奈良平安を経て貴族がほとんど全部藤原に塗りつぶされてく過程で徐々に階級が落ちてって最後の方は地方豪族のあいつどうやら蘇我氏らしいがよくわからん、ぐらいにおちぶれて消えた
外戚で権力をふるうのにしても当初は蘇我氏がやってたのを、藤原氏が蘇我氏の姻戚という形で入り込んでうまいこと蘇我氏から藤原氏に外戚ルールを入れ替えてった
足利家や、織田家、豊臣家など武士の名家()が同じことをやって、自分の血縁を藤原氏に嫁入りさせて生まれた娘を天皇家に嫁入りさせ、藤原の名を借りて外戚の仲間入り、を繰り返してけば藤原上流層を乗っ取って足利外戚家、豊臣外戚家になるチャンスもあったんじゃないか
会陽
即ち裸祭りは、天下の奇祭として広く知られているが、その歴史は遠く奈良時代に始まる。
東大寺良弁(ろうべん)僧正の高弟、実忠(じっちゅう)上人が創始した修正会即ち新年の大祈祷を開山の安隆上人が伝え、毎年旧正月元日より14日の間厳修されていた。
永正7年(1510年)忠阿(ちゅうあ)上人の時、修正会の結願の日参詣の信者に守護札を出したところ、これを戴く者は福が得られると希望者が続出し、やむなく参詣者の頭上に投与したので奪い合いとなり、身体の自由を得るために裸となり、無垢の信仰心は水垢離となり、遂に修正会と不離一体の今日の会陽の形が成り立ったと伝えられている。
どういうことかというと、寺の中央で札を投げる→それをみんなで群がって奪い合う→持ってた一人が幸運、という日本版バトロワなのだ
この祭りの攻略法は4人以上のチームを組んでアタッカーとディフェンダーに分かれて守護札を奪うのが肝になる
チーム組むのが卑怯では?と勘のいい増田なら思うだろうが安心して欲しい。守護札をゲットしたら他の人も一緒に祝ってくれるのだ
これは意味不明だがそういうものなので安心してチームを組んで臨んで欲しい
と言っても動画を見てくれれば分かるが群衆雪崩クソ喰らえなレベルで揉みくちゃになるので参加者は殴り合いになり血を流したり骨を折ったりしててヒョロガキは参加しない方がいいので身体をムキムキに鍛えた人か揉みくちゃの中合法的に殴れる機会が欲しいヤンキーが参加すべきだろう
素麺といえば、個人的には島原半島産のものということになっている。これは単に、同地に私の知己の人がいるので、贈答品として頂戴して食べる機会が多いからに過ぎず、別に他の産地のものが品質的に劣ると思っている訳では無い。なお、頂くだけでなく、ちゃんと自腹で買うこともある。
最近では、女優の満島ひかりが南島原市の公式PR動画に出演したことが、彼女の怪演技の甲斐もあって、ネットでも話題になっていた。ひょっとしたら、それを観たことがきっかけで島原手延べそうめんのことを知ったという人も、世の中には存在するかもしれない。
島原半島の素麺作り産業については、以前に聞いた話だが、島原の乱によって人口が減少した際、江戸幕府が肥前の国の外部から移住者を募り、その中に瀬戸内の小豆島出身の人々がいたことから、彼らが島原半島に素麺作りの技術を伝えたとのことであった。しかし、それはあくまでも民間伝承であって、確固とした史料が有る訳では無いとも聞いた。
史料の有無や民間伝承の真実性は、専門家ではないから判断する由もないが、この小豆島由来説を何とは無しに信じている。それは、小豆島由来説が語られる際に、同時に「島原半島は、瀬戸内海と気候が似ているために、素麺作りに適している」と語られることにも一因があると思う。
中央部にある雲仙普賢岳や高岩山(たかいわさん)、島原市のすぐそばに在る眉山(まゆやま)、これらを除けば開けた土地が半島の大部分を占めるように見える。そのために、気候がカラリとしているように感じられる。これで「島原半島は瀬戸内海に気候が似ている」と言われれば、一定の説得力を感じて小豆島由来説も信じられる気持ちになる。特に海岸線の近くではそうである。
この島原半島の南部を訪れた時、島原鉄道を利用したのは、ずいぶん前のことになる。これは、諫早市と半島の北部〜東部〜南部を結ぶ、左右反転のC字形に半島の外周沿いを走るローカル鉄道路線である。あった、と言うべきか。現在は、半島東部の島原市までしか列車が走っておらず、島原市よりも南の地域は部分廃線となっている模様である。
現在は市町村合併によって南島原市の一部となっているが、旧名・西有家町という町が半島南部には存在する。この町で島原鉄道の駅に私が降り立ったのは、別に観光などが目的という訳ではなく、不覚にも乗り物酔いになり、気分が悪くなって一休みしたかったからである。
「そうめんの町」という文字が建物の壁に掲げられた無人駅舎のベンチに少し横になり、冷たいジュースを飲んで落ち着いたは良かったのだが、あいにく、次に乗り直す列車を一時間は待たねばならなかった。手持無沙汰の時間をつぶすため、駅の直ぐ傍にある神社へと行ってみることにした。境内へと登る階段は、文字通り駅舎の目と鼻の先にあり、その長さは数十メートル程と短かったが、勾配はかなり急であった。島原半島の南側地帯には、海の近くで小高い丘陵や崖になっているような場所が、幾つもある。この神社があるのも、そうした丘陵の一つであった。
別に有名な神社とかではなく、少し田舎ならば何処にでもあるような、何の変哲もない小さな神社である。境内へ登る階段を跨ぐ鳥居は、その神額に「天満宮」の文字があったから、主たる祭神は菅原道真公で間違い無い。これは、グーグルストリートビューでも確認可能である。確認した。技術革新、すごい。
よほど小さなところでない限り、神社は大抵、主祭神だけでなく配祀神も同居している。その天満宮で私は、時間だけはたっぷりあったので、主祭神・配祀神のいずれの社殿にも平等に五円玉のお賽銭を捧げて「この後、乗り物酔いが酷くなりませんように」とゴニョゴニョ唱えながら参拝した。それを済ませると暇つぶしに、私以外には人の姿も無い境内を、気ままにぶらぶらしながら鳥居などを観察したりして過ごした。どの鳥居も、冠木・貫・木鼻に沢山の小石が降り積もっていた。素朴な民間習俗を今でも伝える地元民が、願い事の成就のために投げ上げたものであろう。
配祀神は、鳥居の神額に「大神」という文字があったと記憶している。「大神」は「オオミワ」と読むのであろうと思った。残念ながら、天下のグーグルストリートビューでも、この天満宮の境内の中までは確認が出来ない。「大神」の社殿は、主祭神との差を感じさせない程度の大きさはあったように思う。
神社でオオミワといえば、その大元へ遡れば無論、奈良県・三輪山であるが、その地は素麺との縁が有る。素麺の祖先は、奈良時代に唐から伝来した食物・索餅(さくべい、見た目はチュロスに似ている)とする説が一般的である。これを模倣して作ることが、最初に我が国で始められた場所が、他ならぬ三輪山の麓周辺なのだと言われている。「すべての道はローマに通ず」ならぬ、「全ての素麺は三輪山へ通ず」といったところか。
それらのことを知った影響で「移住者から素麺作りの技術が島原半島に伝えられたのに伴い、我が国内における素麺発祥の地・三輪山から神も一緒に来たりて、分祀されたものであろう」と考え、小豆島由来説を信じる気持ちも補強されたわけである。
しかし、素麺伝来の機会や小豆島経由以外の理由でも、この地に「大神神社」が分祀される何らかの歴史的な要因があったような気がしてならなかった。結論から先に言えば、これは単なる私の勘違いだったのだが、兎も角そのような気がして記憶を手繰り寄せたところ、風土記の一つである『肥前国風土記』にある、次のような記述を思い出した。
景行天皇が、現在の熊本県玉名の辺りに行幸した時、そこから有明海を挟んで島原半島の方を見て『あれは島か、それとも陸続きの地か』と疑問に思い、使いを送って調べさせた。すると、土着の神が、天皇の使いを出迎えて歓迎し、天皇に服属する意志を示したという。
この時に派遣された使いの名前を「大神宿禰」と、私は誤って記憶していた。この覚え間違いが、大神神社の島原半島に分祀される歴史的な要因があったような気になった原因であった。しかし最近、自分の記憶を頼りに人魚の話やら南斗北斗の話やらを書き散らしたところ、ブコメ等で鋭い突っ込みを受けて大恥をかいたため、今回は手持ちの岩波書店・日本古典文学大系版『風土記』を参照した。その結果、私の記憶違いに過ぎなかったことが判明したというわけである。確認は大事。
残念ながら、天皇の使いの名前は「神大野宿禰」とあり、読み仮名も「かむおほののすくね」としてある。しかも「他に見えず系譜不明。ミワ(神)氏の支族ではあるまい」とまで注釈が付けられている。これでは、妄想を膨らませる余地も無い。
もしも「大神宿禰」という記述だったならば、その時は大変であった。きっと私は「もしかしたら、三輪山の祭祀を司るミワの支族に連なる者が、古代に島原半島を訪れていたのかもしれない。この縁によって、大神神社が島原半島に分祀されたのではないか」とか何とか、思う存分に妄想力を発揮していたことであろう。間違いを防止できたから安心しても良いはずなのだが、その気持ちよりもむしろ残念な気持ちが強い。それほど、自由な妄想とは魅力的なものということである。
さて、私は雲仙岳には登っていないが、その直ぐ近くの高岩山には、地元の人の案内で登ったことがある(この時は、まだ火砕流などの火山活動が沈静化したと認められておらず、雲仙岳の登山が再開されていなかった)。登山ルートの途中にある樹林の中や山肌には、家屋ほどの大きさがある巨大な岩石がゴロゴロと有った。これほどの大きさの岩石群であれば、それらを見た昔の人々が、信仰の念を山や岩石に対して抱いても不思議は無いと実感した。その時の私は、或る種の神秘体験に近い精神状態にあったのかもしれない。高岩山に登って同じ光景を見た人にならば、私の実感にも同意してもらえるものと信じる。
件の神大野宿禰を出迎えたという土着の神は「高来津座(タカクツクラ)」と名乗ったと『肥前国風土記』には記されている。日本古典文学大系の注釈には「高来の峰(雲仙岳)を居所(座)とする神の意であろう」とある。この「クラ」というのは「イワクラ」などと同じく「カミの宿る座・場所」という意味であることに疑いは無いが、何が「クラ」であるかまでは断言されていない。しかし、高岩山への登山で巨大な岩石を見た経験から、おそらくは岩石もしくは山頂・山体そのものが、高来津座と名乗るカミの依代や御神体だったのではないかと私は思う。もしそうであれば、三輪山の神体山信仰と類似しているので、面白い話である。「タカク」に「高来」という字を当てたのは、単に高さを表現しただけでなく、天空の高みから山頂に降り来る垂直移動型のカミであったことの顕れであろうか。
このカミの名は、高来郡(たかきのこほり、たかくのこほり)の由来となり、市町村合併以前は、島原半島の地名「南高来郡(みなみたかきぐん)」として名残を留めていた。しかし、島原半島が島原市・雲仙市・南島原市へと統合され、旧来の地名が無くなったことで、熱心な郷土史研究家などを除けば、いずれ遠からず名を忘れられるのかもしれない。
しかし、名は失われても、島原半島中央部の山に登山する人が絶えない限りは、高岩山に登った時の私が俄に古き神の気配を覚えたように、雲仙岳一帯の山岳や巨岩に対する素朴な信仰そのものは、これからも人々の精神の地下水脈として生き残っていくのではないだろうか。
【2022/10/10】続きを書いた。anond:20221010212603