はてなキーワード: 太田出版とは
村井理子
@Riko_Murai
男性は、ほんのわずかに気持ちいいことのために、本当に女性の人生を危険に晒すのでしょうか? ええ。晒します。そんなことは毎日起きています。道端に咲くタンポポぐらい、ありとあらゆる場所にある話です。
射精責任 - 太田出版 https://ohtabooks.com/publish/2023/07/19181958.html
@OHTABOOKS_PR
より
ohtabooks.com
全米騒然! ニューヨークタイムズ・ベストセラー選出 世界9カ国で翻訳 刊行前からSNSで話題沸騰!! 男性は、ほんのわずかに気持ちいいことのために、本当に女性...著『射精責任』作品案内。/ISBN:9784778318789、2023年7月19日搬入発売。
村井理子
@Riko_Murai
本書で議論されているのは、「望まない妊娠の責任は100%男性にある」という点です。中絶の原因となる〈望まない妊娠〉という点が非常に重要なのです。避妊の責任のアンバランスさにも言及がありますので、よろしければお読み下さい。
@FUJISAWA0417
📚全米ベストセラー🏆日本でもTLを騒がせ続けてきた話題作『射精責任』、いよいよ予約開始です👏営業に「売れる未来が見えない…」と後ろ指刺されながらも、ヘルジャパンをぶっ壊すために版権取っちゃったので😇皆さんの力で日本でもベストセラーにしてくださいませ🙏予約だ👉
@FUJISAWA0417
Amazon売れ筋ランキング(全体)、2桁台、来た!すごい!!みんなの力で!!『射精責任』をベストセラーにしてくれ!!!!日本を変えよう!!!!!私たちの肉体的、精神的痛みに、NOと言おう!!初版刷って少しでも安くこの本を広めよう!引き続きよろしくお願いします!!!
@FUJISAWA0417
男は絶対に責任を負わないぞという社会に対するミラーリングワードです。女はすでにしっかり責任を取ってるし、そこから逃れらないって話も書いてあります。7月刊行予定で頑張ってます。読んでね。
パンチのあるタイトルと、強烈な目次と、上記のような思想の訳者と編集者という素敵な組み合わせで話題になっている『射精責任』(邦題)ですが、どうも訳者の村井理子氏が恣意的な訳し方しているようです。
Munehiko Matsuyama /松山宗彦(ポーカー翻訳)
@donkeydragonfly
タイトルのインパクトと訳者村井さんの百人組手上等の構えで話題沸騰中の「射精責任」だが、原題をそのまま訳すと「責任ある射精」となる。この二つ、微妙ながら大事なニュアンスの違いがあるように思えるのだが。
💫T.Katsumi🏳️🌈📢
@tkatsumi06j
そのまま訳すなら、
原作者にどう伝えているのかは気になるところです。「逆翻訳してこう伝わります」と伝えたのかどうか。出版翻訳ではそこまでして著者と密に確認したりしないのかもですけれど、なにしろ書店に並ぶ本の表紙ですから。副題の訳も気になっています。
@maureen_kanae1
この原書”Ejaculate Responsibly”をポチった。タイトルが動詞から名詞に変わるだけで印象がガラッと変わる。
名詞の方が責任の所在を探すニュアンスが強いな。タイトル大事。
@maureen_kanae1
翻訳者さんにとってこれは火を見るより明らかなことであるはずだから、『射精責任』という題名にするまでの決定プロセス・意図を知りたい。
確かに『射精責任』と『責任ある射精を』では受け取る印象が全然変わってしまいますね。
『射精責任』だと自慰行為による射精ですら責任を負わなきゃならんのかという気分になってしまいます。
この分だと本書の中身も意訳だらけになって、訳者の村井理子氏による利己的な内容に(リコだけに)書き換えられているかもしれません。
もしかしたら原書はグローバルな視点で書かれている良書なのかもしれませんが、日本特有のミサンドリーベースのラディカルフェミニズムによって原書作者のガブリエル・スタンリー・ブレアさんの思惑とは違う方向性に歪められてしまっている可能性が否定できません。
今のところ、ツイッター上で本書を絶賛しているのは(発売もしてないのに)、いかにも男性への憎悪で毎日生きづらそうなミサンドリストばかりの印象でした。
そういった層にリーチをかけるために意図的にこういう訳し方したのでしょうか?自分が一から書いたわけでもないのに、海の向こうの人が書いた原書をダシに男性攻撃を煽るのは村井理子氏の翻訳家としての、そして太田出版の出版社としての理念を疑います。
発売は7月だそうです。
太田出版のサイトで、Quick Japanの村上清が欺瞞に満ちた自己中心的な弁明を公開したので、筆を取ることにする。
記事中にも書いております通り、もともと本企画は「いじめた側といじめられた側の対談」という趣旨でした。しかし今思えば当然なのですが、「いじめられた側」の方に応じていただくことが叶いませんでした。対談という形が不可能になり、
=引用ここまで=
実に奇妙と言うか不可解な弁明である。
村上清は、彼自身が"いじめサバイバー(凄絶なイジメ被害を経験して生き延びた人間)"という『設定』だったはずである。ならば村上清は、自分自身をいじめていた同級生などを探し出して連絡を取れば「いじめた側といじめられた側の対談」を実現できたのではないだろうか。
村上清は、何故、自分をいじめた加害者との対談を実現させるために行動しなかったのか?これには、仮説としての理由が幾つか考えられる。
【仮説その1】
村上自身のコメントでも明らかなように、いじめられた側の被害者にとって、いじめた側の加害者との再会・対談など、大きな精神的苦痛以外の何物でもない。だから、村上清も嫌がったという理由である。
この場合、村上清は、いじめられた側の人間に対して、加害者との再会は大きな苦痛を与えることになると理解・予想した上で、注目を集めるような記事を書いて手柄を立てたかったからという動機で、そのための精神的な負担を他人に押し付けたということである。つまり村上清は、実に自己中心的な人間だということである。
【仮説その2】
これは仮説その1に、もう一つ別の理由を付け加えたものである。
ある暴力的な事件で被害者の立場だった人間が、別の場所で起きた別の事件では、加害者の立場ということは屢々ある。そのようなケースでは、被害者としての鬱憤を紛らわすために、加害者になろうとすることも珍しくない。村上清も、そのような「加害者になろうとした被害者」だったのではないか?
村上清は、いじめの加害者と被害者の対談をセッティングし、被害者が苦しむ様子を見て楽しむことで、学生時代の自分には所属することが叶わなかった"いじめ加害者グループ"に仲間入りしたかったのではないか?それによって村上清は「今(記事執筆当時)の自分は、もうイジメ被害者ではないのだ!」と、鬱憤を晴らしたかったのではないだろうか?これが第2の仮説である。
【仮説その3】
村上清が実は"いじめサバイバー"ではなかったとしたら、どうだろうか?
この場合、村上清をいじめていた加害者は実在しないということになり、それならば、村上が自分自身のケースの加害者を探し出そうとしていなかったことも、説明がつく。
そもそも、村上清が"いじめサバイバー"というのは、村上自身の自己申告に過ぎず、何か証拠が有る訳ではない。
もしも、いじめ紀行の記事が批判された時に「記事を書いている自分(村上清)も、いじめ被害の経験者なんです。だから、記事には馬鹿にする意図は有りません」と言い訳することが出来れば、これは非常に便利で都合が良い。こう考えると"いじめサバイバー"を名乗ることにはメリットが、つまり名乗る動機が有ると言える。
そもそもQuick Japan を出している太田出版は、ビートたけしが太田プロダクションに在籍していた当時の80年代半ば、たけしの本を出版する目的で太田プロ出版部から有限会社として独立したものが前身である。したがって日本の現代サブカル的な価値観には、ビートたけし的な価値観やセンスが脈々と息づいていると言っても、強ち間違いではない。
では80年代半ば、そのビートたけしが何をしていたのかと言えば、ある男性俳優が高層ビルから飛び降り自殺した事件の際、彼と愛人関係にあったとされる男性マネージャーが記者会見で関係を追及されて、号泣しながら「もういいじゃないですか!」と取り乱す様子を滑稽な感じで物真似したり、多数の死傷者が出た羽田沖旅客機墜落事故を「逆噴射!」「機長やめてください!」と茶化したり、ロクなことをしていなかった。要するに、同性愛者や精神疾患罹患者などの社会的弱者を嘲笑していただけである。
念の為に言っておくが、当時もビートたけしを批判する人間は存在した。単に、マスメディアがビートたけしサイドに立っていたから、批判の声が黙殺されたというだけである。
Quick Japanの『いじめ紀行』で村上清がやろうとしていたことは、新しいことでも何でもなく、80年代から代わり映えしていなかった、質の悪い悪ふざけに過ぎない。善悪や倫理を抜きにしても、そもそもの出発点から、村上清がやろうと目論んだことは古臭いカビが生えた代物だったのである。一般人の批判的な声を黙殺したことまで、焼き直しであり、独創性に欠如している。
日本の芸能人やサブカル業界人は「自分たちは時代の先端にいる」と思っているのかもしれないが、実際は四十年近く前の価値観やセンスのままで時代に取り残されているのだから、滑稽と言う外ない。
あのグループの一員だ。
ヤバい目つきの人だなあとは思っていたが。
それも結構笑いながら。
他人事とは思えなかった。
盛り上がる。私立って、独特の歪み方をする。
小山田さんは、「今考えるとほんとヒドかった。
だったら、ホントに再会したらどうなるだろう。
いじめっ子は本当に謝るのか?
ドキドキしてきた。
対談してもらおう!
最終的にはいじめられてた人の家の中まで入った。
しかし結局この対談は実現せず、小山田さんへの個人インタビューとなった。
以下、この対談の準備から失敗までを報告する。
いじめ対談のことを話す。
――まず、いじめられっ子を探すことにする。
「昔、いじめっ子だったんですよね」
という訳にもいくまい。
とりあえず『月刊ブラシ』を手渡す。
「ミニコミ作ってるんで読んでください」
「あ、ありがとう」
この間、約二秒。
ちなみに僕は普段いつも自分のミニコミを持ち歩いている訳ではなく、
この日持ってたのは本当に偶然だった。
「学年を超えて有名」だったとか。
対談依頼の手紙を書く。
住所を頼りに昔いじめられてた人の家に行く、
この時の気分はうまく説明できない。
よくよく西河原さんと話してみると、
(前出のように)ハードにいじめられてたのは別の人ではないか」
とのこと。
じゃあ、本当にいじめられてたのは誰なんだ?
とのこと。
事前に手紙は送っているが、反応はよくない。
当たり前か。
『五輪やETVは責められて、小山田を参加させていたフジロックの罪を問わないのか!』
障碍者福祉とか児童教育を謳わない「不道徳なイベント」ならば、不道徳な人間の参加も許されるかもね。
1995当時だって「太田出版」というマイナー出版社だから許されてた訳で、
より陰湿で目だたなくはなったといえ1980年代の家庭内暴力や校内暴力全盛時と比べるとイジメそのものは減ってはいる。
先に指摘したとおりわれわれはすでに(良し悪しは別として)「学級の強い結びつき」を解体してきてる。
イジメの温床とされてきた詰めこみ教育やクラスごとの『近すぎる』人間関係はなくなっていき、
「各人が自由で快適な学習環境」を選択できるようになり学校は昔の『駅前カルチャースクール』の集合体になった。
もちろんそこで払うべき代償は(核家族化のときと同じような)人間関係の希薄化であり、
「イジメや差別、暴力やハラスメントをなくそう」という善意が結果的に『ひとはみんな他人』ネオリベラル社会を生み出してる。
「当然イジメは減るが余計なお節介(ハラスメントとのボーダーライン)も減るし助けあいも減る」と書いたとおり、
しばしば勘違いされがちだがハラスメントやイジメの副産物が助けあいであってその逆ではないので、
余計なお節介なしでは助けあいもない。断られても気にせずどんどんナンパしてかないとモテないのと同じ。
最初から適切な相手に適切に交わって相手もそれを返してくれるなどという都合のいい話はありえない。
特筆すべきは(これも指摘したとおり)『余計なお節介』の一例であり同時に『失敗した(上手くいかなかった)助けあい』
すなわち一般的には「嫉妬」と呼ばれる感情のいきどころ(人間関係が希薄になれば嫉妬も減る。
「『イジメを減らす』っていうのは『ライバル意識を減らす』ことだぞw(わかっとんのか?ww」と書いたとおり。
人びとが「学級」という概念にとらわれてた世相では『よいライバル関係とは何か?』成功譚として
「まんが道」のような作品が生まれ「自由で快適な学習環境」だと「やるだけやったがバッドエンド」が大衆の夢になる。
「でも…わたしは決して後悔しない…」みたいな(話の内容それ自体は)ヒデー話(誰も幸せにならない)に
人びとが感動するのは単純にこれこそがおとぎ話(現実セカイでありえない)だから。要はないものねだり。
学級が解体されカルチャースクールと化しイジメは減るしこうした作品に描かれてる余計なお節介もハラスメントも減るし
当然『ガチンコでぶつかりあう』ライバル関係みたいなのもありえなくなる。
とはいうものの「(ガチンコのライバル関係は確かに美しいかもしれないけど)人間関係めんどくさいからな~
都会の暮しのほうがお気楽だよ(孤独かもしれないけど自由がある」みたいなノリでは済まない。
イジメやイビり(例の「いちどだけしますあの大泉の時代の少女マンガの世界でアタシがどんなヒドイめにあったか」的な)
嫉妬や嫌がらせと不可分なライバル関係なくしてはいかなる学習も教育もありえないから、
ひらたくいうとイジメを減らそうとするほど人間はバカになるしもともとあった生得的な能力差から逃れられなくなって社会の格差が進む。
自分ひとりのマイプロジェクトがあって淡々と才能を伸ばしてけるひとなどいない。
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一応、書いてあることを羅列して句読点改行適当にやっておいた。
というのも、全部読んでみたけど何言ってるのか微妙だったからなんだが、
結局、こうやってまとめて読んでみても、やはり微妙かも知れない。
言っていることが端的に分かるようならツリーにぶら下げてくれると嬉しいぞ
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Twitterに入ってから相当の時間が経ちました。この頃は必ずしも楽しい場所とは言えなくなったし嫌なこともあるけれど、それでも繋がれる場所としてはありがたいなと思ってきました。でも常々苦手に思っていた人たちのこの二日の書きようを見て、ブロックまたはミュートをしました。さようなら。
https://twitter.com/makiji/status/1416098113870188544?s=19
牧村G憲一
@makiji
共著『渋谷音楽図鑑』(太田出版)、坂本龍一監修『コモンズ・スコラ』第16巻「日本の歌謡曲・ポップス」、『ポップ・ミュージックを語る10の視点』監修など。music is music 毎週日曜日23時InterFM897。慶應義塾大学アート・センター訪問所員。緩やかなレーベル主宰。felicity+オーディション受付中。
なに被害者ぶっとんねん
「宅八郎死去」について、
日刊スポーツなど新聞社や、出版社系でないネットメディアは報じているが、
ポストセブンやSPA!、文春、新潮、講談社など出版社系メディアは一切報じていない。
噂の真相系のリテラや、朝日系のJキャス、ブブカ系のBUNKAタブー、そしてナックルズまでも無視。
Twitterなどで宅八郎の思い出を語っている著名人も、宅八郎とそれほど接点がなかった人ばかり。後は、軽く付き合いがあった編集者ぐらい。
宅八郎に振り回された作家・田中康夫や小峯隆生(元週刊プレイボーイ編集)、SPA編集長だったツルシカズヒコ(今は共産党シンパに)などは一切無視している。
週刊ポスト編集部への乱入事件や、田中や小峯に対するストーキングなど、香ばしいエピソードが満載なのだが、小学館や集英社にとっては触れられたくない過去なのか。
文春や新潮など、宅八郎とはあまり繋がりがない社まで無視なのは異常だ。
テレビのワイドショーも大々的に取り上げるか、と思ったら、出版社に倣って?取り上げず。
TBS「サンジャポ」なんて、宅はほぼレギュラー出演者だったはずだが。
週末に不動産屋に連絡を入れてみた。
不動産屋からネットに乗っていない家賃12000円の別物件を紹介され、そちらにすることにした。
トラバにある通り、田舎の古い空き家の多い地域ならではのテクニックなのかもしれない。
始めはトランクルームも検討していたのだが、ブコメなどでご指摘いただいている通り、部屋にして本棚に並べて参照して通覧する必要がある。
たとえばの本を出すと、たとえばの話だが
『足柄下郡誌』(伊勢治書店、1899)、『北巨摩郡誌』(山梨教育会北巨摩支会, 1915)な感じの古さとレアリティ、地域性の共通テーマを持った本が沢山ある。
これらは実際にはそれぞれだいたい国会図書館デジタルコレクションで電子化されているのだけれど、それだと項目ごとに通覧しにくいため、原著で持っていた方がいい。
そして、トランクルームだと取り出して参照して……だと手間がかかる。
ということで、テーマごとに本が並んでいると調べるのに都合がいいのです。
部屋を借りた方がトランクルームと同じくらいの値段でずっと広く使うことができる、と今回発見があった。
図書館で借りればいいのかもしれないが、もう一つ持っている本のジャンルがサブカル系のあるジャンル(たとえばの話『大技林』とか太田出版みたいな)で、
三十数年前、森山塔の作品に偶然出会った。フランス書院から出ていた文庫版のあとは寝るだけであった。小さな本屋で何気なく手にしたその黒い単行本に衝撃を受けた。衝撃を受けたまま一旦家に帰り、翌日学校帰りに買った。淫行かしらも、とくべつのあわも素晴らしい。いまだに名作であると思う。刷り込まれたからであろうか。いまだにコーフン模様とかにはしびれさせられる。僕がクンニ大好きになったのは森山塔の影響が大であると思っている。
その後、はっぱ64がビッグコミックスピリッツで連載されていてその画風が森山塔そのものなので混乱した。同一人物であった。山本直樹は今も好きである。
先日、分校の三巻が出た。すごく楽しみにしていたのだが、ウェブで連載されていた頃に比べて消しが濃くなっている所が大いに不満である。ドバシと先生の絡みがすごく良かったのに残念である。
作品そのものは素晴らしい。けっこうな御歳であるはずなのに、あのリビドーが作品全体に満ちているような画風、リズムは素晴らしい。凄い。太田出版から出ているのだから、堀田レベルでの画、消しの薄さ、消しの無さを期待していたのだが、前巻が有害図書指定を受けたことから、守りに入ってしまったようだ。
分校の第二巻も素晴らしかったのだ。まずはKindle版を買った。一読してちょっとやばいかなと感じるところがあったので、急ぎ紙版の本も注文した。その後、悪い予感は当たり有害図書指定となったわけだが、これはそのような指定を行った大人の方が感性が鈍っていると言うほかない。
【雑記①】
8/14:視聴率暴露ツイート(1時間後にツイ消し※魚拓無し)→東スポが記事化
8/25:コミケ参戦表明、クラウドファンディングをスタート
以降、ネット上でオタクとアンチオタクのコミケ参戦についての泥沼抗争。
キャンプファイア北尾氏と太田出版の北尾氏が何らかの血縁で、「独立したいけどカネがない、信用状態がマズくまともな金融機関に金が借りられない」と借りるつもりで相談したら「じゃあ誰か自己顕示欲強くて頭弱い芸能人立ててインパクトある本作る前提で企画してうちで集金すれば?多めに見積もって募っておいて、本作って売った経費の残りと売上を運用資金にしたらいいじゃない」で真木よう子に白羽の矢が立って「今までOK出なかったやつ集めて本作ろうよ!コミケなら内部に顔が利く奴がいるから芸能人様待遇でシャッター前の枠取ってくれるし、叶姉妹やら小林幸子にすりよるくらいだし、オタクなんかちょっと優しくすればチョロいからボロ儲けだよ、資金はクラウドファウンディングがあるから大丈夫!」って唆してTwitterアカウント持たせてこまめにリプさせてたなら地獄でしかないな
20世紀は公共交通一強の時代が長く続いた。交通手段は公共交通こそが超大国だった。世界からも評価される、エコ、経済的、バリアフリー…多くのヒト・モノ・カネが鉄道界隈に集まり、鉄道を中心に都会が動いていた。この流れからの大転換が日本人のポスト主義化だろう。
新自由主義を掛け声に、公共交通の破壊が蔓延する。貧民の末裔が権力を手にした公共交通はあまりにも汚物の象徴になってしまいそうだ。その一方で、自動車・バス・オートバイの躍進はそれを象徴としていて、過去には暴走族があったが日本人の努力によって脱却している。
都会の宝、交通の象徴という特性をより伸ばしていくことで発展を続け、世界中の人に優れた都市交通の手本を示し続けた日本だが、逆に言えば、その普遍的なテーゼを失ってしまえば価値は大きく低下することになる。鉄道だけとっても他の国の方が優秀そうで、利益と公益のバランスが取れているように見えるのが、事実だ。
今はまさに分岐点を通過した直後だが、今後はさらに鮮明になりそうな気がする。日本の私鉄がそのまままるごと公営化されたりとか、自転車であふれている都会の繁華街などが、いつの間にかバスやオートバイに変わったりとか。日本の古きよき光景も変わることになる。
2010年代以降のメインカルチャーがまるで低迷する一方、今日繁栄する文化には共通点がある。どれも経済成長期に台頭した文化だということだ。自動車やオートバイだけではない。たとえばオタク文化なんかまさにそうだろうし、特に、漫画やアニメが目覚ましい発展を遂げた。
最近息を吹き返した据え置き機ゲームも、ソシャゲと言われているオンラインゲーム台頭前は主流だったし、日本の大衆ゲーム文化も京都の花札屋が原点にある。素晴らしいゲームは一見の価値があるので、中古ショップやオンラインで買って一度遊ぶといいよ。
急激な経済発展を遂げている商業出版界隈だって高度経済成長で多様化した。太田出版と言えばサブカルチャーのイメージで、過去には完全自殺マニュアルの苦い歴史があり、元少年Aの出版を引き入れたと言われてはいる。しかし、それを除けば普通のサブカルチャー本ばかりだ。
すべては「高度経済成長のまいた種」である。日本の文化自体がそう。たまたま20世紀には、メインカルチャーが一強構造だったが、21世紀にはそれがサブに、下層に、未知の領域にすら分散しているということ。これをどう付き合うか、私たちも考える必要がある。
同人誌販売やオートバイを利用する若者は今では当たり前だという。いずれも昔は有り得なかったものだ。今でこそ中高生でもできるような商業本デビューやアプリ作成も昔なら不良文化(私の父が高校時代小説出版で当時のお金で何十万円数百万円かもらって停学になりかけたことがある。)で、そのイメージを払拭したのが1980年代~2000年代の若者たち。これが今の現実の礎を築いたんだろう。
業界では前々から噂されていたらしいが、月額980円で電子書籍読み放題
Kindle Unlimitedが遂に日本でもサービスを開始した。
イケダハヤトやそのほか、「
Kindle Unlimitedでお勧めの作品一覧(随時更新)」なんて記事が多数出ているけど、
このサービス上陸で何気に喜んでいるのってこういうアフィリエイトブロガーなのかもな…
作品リストからめぼしい、有名っぽいものを適当にピックアップしてリンク貼りつけときゃいいわけだし。
って何気に喜んでいるのはブロガーとして、もう一つ、何気に炙り出されているのは、各出版社や作家の電子書籍への姿勢のような気がする。
出版系の就活を考えている学生とか、電子書籍系サービスで一旗揚げたろうみたいな人はラインナップをよく見るといいと思う。
日頃からKindleでセール情報やランキングをチェックしている人ならよく分かると思うが、
そもそも、Kindleのセールで前から1巻無料とかよくやっていたタイトルが多かったりして、つまり、元から、電子書籍への拒否反応が薄く、無料やセールにして読者を集める売り方にアレルギーが弱い版元や作家が参加している…って、まあそりゃあ、当たり前か。
西東社(歴史系書籍を100円にしてランキングをほぼ全占めしたりしたことがある)、ぶんか社(ここは電子コミック1円とか5円とかよくやっている)、日本文芸社(既存の無料読み放題アプリなんかにも作品を卸している)、太田出版(270円セールをよくやっているが読み放題に出しているコミックも結構それとかぶっている)
あたりの版元が数を揃えているのはかなり納得だし、
11円セールでかなり儲けた佐藤秀峰、また、権利元がプロダクションになっている青木雄二、こちらも、既に既存の無料読み放題(マンガBANG!みたいなのね。無料っつっても勿論広告料から利益分配される)に作品を出している新井英樹作品があるのも、さもありなんという感じ。
GooglePlay(電子)での配信にいち早く参入した講談社のタイトルは雑誌を中心に比較的多くて、
一方、GooglePlayでの配信参加がかなり遅かった集英社は、Kindle Unlimitedにも名を連ねていないっていうのも、物凄く案の定。
しかし、日本ではどうして電子がなかなか主流派にならないんでしょうね。
本を買うという行為には、ただ単に内容を読みたいという「読書の欲求」のほかにも、「所有の欲求」(こんな本持ってるぜ)、「顕示の欲求」(こんな本読んでるぜ)があり、電子では後者2つが満たされないからかしら。
始めに、この文章は「元少年A」や『絶歌』に対する世間の大多数と反応と「真逆の主張」であることを先に示しておく。
馬鹿じゃねえの。
この中川淳一郎っていう奴の『絶歌』の書評( http://biz-journal.jp/2015/06/post_10431.html )を読んで、正直こう思った。
ハッキリ言うけど、お前に元少年Aや太田出版を外道だなんて糾弾する資格なんてないだろ。正義ぶって身勝手な書評を書く前に、我が身を反省してみたらどうなんだ。
おそらく、中川淳一郎はこう思ってるんだろうな。
「元少年A」は叩かれて当然の「極悪人」で、それを一刀両断している中川淳一郎は「正義の告発者」だからな。
世間の感情と同調している中川淳一郎はきっと、どれだけ「元少年A」を扱き下ろしても大丈夫だと、そう思っているんだろう。
フザけんな。
非難してやる。ネット上の他の全員がお前の書評を褒めちぎっても、俺だけは非難してやる。
元少年Aを「外道」だと罵るお前の方がよっぽど「外道」だと、この場で主張してやる。
俺が最も中川淳一郎の書評で怒りが沸いた部分は、元少年Aが「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いに対して答えた箇所に、コイツが吐いた感想だ。
一応、元少年Aの言葉を引用しておく。前述の問いに対して、元少年Aはこう答えた。
(引用)
『「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」』(註:原文では「あなた自身が」の部分に傍点あり)
で、これについて、中川淳一郎はこんな風に言っている。
(引用)
あぁ、何もわかっていない……。どうしてこうも自分本位なのか。「あなた自身が苦しむから殺人はいけない」と言い、まるで自分が悲劇の主人公かのように「重い十字架」というエセ文学的表現を使う。人を殺してはいけない理由は、これである。
「誰もが他人の人権を蹂躙することはできないから」 「殺された人に近しい人が悲しむから」
酒鬼薔薇は被害者とその遺族よりも、自分自身(加害者)の側の論理でいまだに語っている。そしてこれがやっと見つけた唯一の答えとは、非常識かつ幼稚もはなはだしい。
ハッキリ言って、頭にきた。
何も分かってないのはお前の方だろう?
人の「本気の思い」をこんな風に平然と踏みにじる、お前の方がよっぽど外道だ。
確かに、元少年Aの答えは自分本位だよ。凶悪な殺人を犯したくせに、いまだに自意識の中でしかその理由を語れてない非常識で幼稚な答えかもしれない。
だけどな、ここにあるのは『本気の思い』だよ。事件の後の全人生を通じて、元少年Aが自分の頭で考えて言葉にした「人殺しをしてはいけない」ことへの『本気の思い』だ。
どれだけ自分本位で幼稚でも、本人があの事件を起こした後に見つけてきた『自分の答え』だ。
それを、お前は踏みにじった。
「あぁ、何も分かってない・・・・・・。」なんて、さも悲哀ぶった言い方で、お前は元少年Aの言葉から耳を塞いで、「自分の意見」で踏みにじったんだ。
「人殺しをしてはいけない」ことに、お前の考えや正義があるのは分かったよ。客観的に見れば、お前の考えの方に正当性があるんだろう。
でも、だからって踏みにじって良いわけじゃないだろ?
他人が自分の全人生をかけてたどり着いた『本気の答え』を、そんな風に無価値だと切り捨てて良い理由にはならないだろ? お前にとっては「何も分かってない」ような幼稚な意見でも、それが元少年Aにとっては「やっと見つけた正しさ」なんだぞ。
まあ、元少年Aの「答え」なんて、他人から見たらボロ布くらいの意味しかないのは分かってるよ。
ネット上の大多数、「元少年Aや『絶歌』に対する怒りを燃やす人々」はそれでもいいよ。
だけど、中川淳一郎。お前は違う。
お前は、婚約者を亡くしているんだろう?
正直、俺には信じられない。婚約者を鬱病の末の自殺で亡くしているにもかかわらず、あんな身勝手な書評を書くだなんて。
一応、読んでない人のために書く。
中川淳一郎の書評には、その昔、当時の婚約者が自殺で亡くなった件について書かれている。
そして、その際に本人が参考にしたのが『完全自殺マニュアル』・・・・・・『絶歌』の担当編集である落合美砂が、93年に世に送り出したベストセラーとのことだ。
これだけ書くと、まるで中川淳一郎が「『完全自殺マニュアル』のせいで婚約者が自殺した!」って主張してるみたいに誤解しそうだけど、そこまでは思っていないらしい。
ただ、その本が自殺した婚約者の本棚の中にあって、そこに書かれた「最も推奨されている方法」で自殺したという、それだけらしい。
中川淳一郎は言っている。「彼女が死んだのは鬱病のせいである。それは間違いない」と。
これは完全に憶測になるけれど、鬱病みたいな「心の病気」の最たる原因は「孤独」だ。
自分の抱えている問題を誰にも打ち明けられない、誰とも共有できない、そういう風に「一人でどうにかしなきゃ」という状況に追い込まれたときにこそ、「鬱病」みたいな精神病に人は陥る。
もちろん、実際にその婚約者が「孤独」だったかどうかは憶測の域を出ないけれども、誰にも相談できなかったことは間違いないだろう。
そうでなきゃ、『完全自殺マニュアル』なんて買うわけはないからな。
当たり前だけど、この本は自殺の「方法」を書いているだけであって、自殺を「推奨」しているわけではない。中川淳一郎も引用していたけれど、太田出版の紹介文ではこうなっている。
(引用)
「世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは、生命保険会社でも、破綻している年金制度でもない。その気になればいつでも死ねるという安心感だ! 自殺の方法を克明に記し、さまざまな議論を呼んだ、聖書より役に立つ、言葉による自殺装置。」
この文章で注目すべき点は、二つ。
一つ目は、「世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは」という部分。この箇所から、この本は「生きる僕ら」が「頼れる」ものを示したものであることが窺える。
二つ目は、「その気になればいつでも死ねるという安心感」という部分。この箇所から、あくまでこの本は「安心感」を提供するためのものであることが窺える。
以上の点から、この『完全自殺マニュアル』はあくまで「生きるための本」であることが分かる。具体的には「自殺という『逃げ道』を示したから、後は安心して生きればいい」という本だということだ。
イメージが掴みにくい人は、『完全自殺マニュアル』を「精神科医」に喩えてみてほしい。「『いつでも安心して、私を訪ねてきて下さい』そう患者に言ったら、二度と患者は訪ねてこなかった」一度くらいこういう話を聞いたことはあるだろう。要するに、「いつでも訪ねられる」という「安心感」が重要なのであって、実際にその選択肢を取るかはさほど重要ではというないのだ。その「安心感」を提供されただけで、患者の心の問題は半分くらい解決しているらしい。
おそらく、『完全自殺マニュアル』も、そういう「安心感」を提供することが目的の書籍なのだろう。事実、前書きや後書きの部分には「いざとなれば自殺してしまってもいいと思えば、苦しい日常も気楽に生きていける」旨が書かれているようだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/完全自殺マニュアル)。
というわけで、この『完全自殺マニュアル』はそういう、精神科医的な「安心感」を提供する本だ。
そんなものが本棚にあったということは、そんな「安心感」に頼らなくてはならないほど、その婚約者は精神的に追い詰められていたのだろう。
普通ならば、『完全自殺マニュアル』は買って読まれた時点でその役割を全うする。
「いつでも死ねるという安心感」さえ提供してしまえば、いつでも精神科医に相談できる患者のように、「生きる日常」に帰って行けるからだ。
『完全自殺マニュアル』に書かれている方法を実行して、本当にこの世から「逃げ」てしまったからだ。
その婚約者がいつ亡くなったかは分からないが、おそらく『完全自殺マニュアル』を読んですぐというわけじゃないだろう。
一度読んで、一度「日常」に帰って、そこで何かしらアクションがあったのだと思う。
そして、そこで「上手く行かなかった」からこそ、まるで精神科医に再び相談しに行く患者のように、その婚約者は『完全自殺マニュアル』に頼ってしまったはずだ。
そして『完全自殺マニュアル』に頼ったことからも明らかなように、その婚約者も「誰にも相談できない」状況に陥っていたはずだ。
それが行き着くところまで行き着いて、自殺だ。
何が言いたいかっていうと、その婚約者の死因は「周囲の無理解」だということだ。
中川淳一郎本人が語っている、「(自殺の)予兆に気づけなかった」という話が象徴的だろう。「婚約者」という最も近しい立場の人間ですら、本人の抱えている「問題」に気がつけなかった。
婚約者の男が居てもこの世を去らなくちゃいけないほど、自殺したその女性は「分かられていなかった」のだろう。
以上のことから、俺が言いたいのはこうだ。
「他人の言葉に耳を塞ぐ」ってのは、こんな風に人を鬱病になるまで追い込んで自殺させることもあるってことだ。
それを中川淳一郎は、「予兆」に気がつけず婚約者を自殺させてしまったお前は、知ってるはずじゃないのか?
にもかかわらず、中川淳一郎はよくも平然とあんな風に「人の思い」を踏みにじれるものだ。
自分の婚約者を殺したかも知れない「人の話に耳を貸さない」ことを、あんな風に実行できるものだ。
元少年Aの「問いへの答え」へ呟いた感想もそうだし、『完全自殺マニュアル』の「大義名分」を語ったこともそうだ。
確かこんな風に勝手に決めつけてたな。
(引用)
「自殺する自由はある」 「苦しい時の選択肢として、自殺もあっていいのでは」 「命の大切さを伝えたい」
こういった大義名分は『完全自殺マニュアル』発刊にあたってはあったのだろう。
きちんと紹介文を読めば、この発言が的外れであることが第三者にも明らかだろう。
『完全自殺マニュアル』は、「生きるための安心感」を提供する本なんだよ。本当は自殺のためじゃない。
婚約者が亡くなった後、「本当に後追い自殺をするつもりになり、彼女が愛読した『完全自殺マニュアル』を再度読んだ」ときに目にした前書きと後書きに、ちゃんと書いてあったはずだろうが。
そういう態度にこそ自分の婚約者が殺されたかも知れないことに、どうして気がつかない?
元少年Aは外道だと、いまだに悲劇の主人公ぶる幼稚な男だと、中川淳一郎はそう言った。
だけど、ハッキリ言うぞ。
元少年Aの「なぜ人殺しはいけないか」っていう問いへの答えを、お前は「自分本位」だとか「非常識」だとか「幼稚」だとか非難するけどな、お前の書評だって全く同じだ。
『完全自殺マニュアル』や落合美砂への「自分本位」の勝手な決めつけ、記念パーティでの「非常識」で「幼稚」な不謹慎発言。これらは元少年Aの態度と何が違う?
「酒鬼薔薇は被害者とその遺族よりも、自分自身(加害者)の側の論理でいまだに語っている。」ってお前は非難するけどな、だったら自分はどうなんだ?
自分が婚約者の自殺の予兆に気がつけなかったのを棚に上げて、『完全自殺マニュアル』や落合美砂という「外的要因に」文句をつけるしかないお前の態度はどうなんだ?
「『完全自殺マニュアル』を参考に恋人に自殺された、可哀想な自分」を気取っているお前は、「いまだに『罪の十字架』に苦しんでいる、可哀想な自分」を演出している元少年Aと何が違う?
「悲劇の主人公ぶっている」のはむしろ、今のお前の方じゃないのか。
他人の言葉に一切耳を貸さない、身勝手な「自分本位さ」にまみれているお前の書評は、いまだに被害者遺族の心情に寄り添うことのできない元少年Aの「自分本位さ」と良い勝負だ。
ハッキリ言っておく。
中川淳一郎。そして、元少年Aや『絶歌』を叩きまくっているネット上の大多数の諸君。
お前らがやろうとしていることは、れっきとした人殺しだ。
『絶歌』という本人の言葉を封殺して、元少年Aの人格を否定して悦に浸るその行為は、間違いなく「一人の人間」を社会から抹殺しようとしている殺人行為だ。
かつて、どこかの誰かの婚約者を自殺に追いやった「他者への無理解」を、今度はお前たちがやってるんだ。
かつて、どこかの十四歳が、か弱い十一歳の少年を殺したようなことを、今度はお前たちがやってるんだ。
元少年Aのことをお前らは「殺人犯」だって言って罵るけどな、今ではお前らの方がよっぽど「元少年A」に見えるよ。
正直な話、『絶歌』なんていう「ポエム」を出版「しなくちゃいけない」くらい元少年Aを追い詰めたのは、俺たち社会の方だと思う。
本当にこの書籍の出版を憎んでるなら、こんなものを出さなくて大丈夫なくらい元少年Aを社会の方が受け入れてやれ。
これが、俺の精一杯だ。