はてなキーワード: 天賦の才とは
美しさは神がくれた。天賦の才。かみがくれるんだよ。
池江さんがオリンピック代表に内定してとのことで、おめでとうございます。
大病を患い、一年以上、競技を離れながら、強う意思と不断の努力によって競技に復帰するだけでなく日本にトップに返り咲くなど、多くの人に勇気と感動を与えてくれました。
と、テンプレートの祝辞を述べた後に本音を書きたいのだけど、僕は池江さんを応援できない。池江さんを応援できる人は、池江さんに自分自身を投影している人だけだと思う。
僕は冴えない社畜なので、オリンピック代表になれなかった候補者に自分自身を投影する。
池江さんに負けた選手は何も悪いことをしていない。オリンピック代表候補になれる人は、池江さんと同じくらい努力をしているはずだ。
彼女が病気と戦っている間もオリンピック出場を目指して、素人には想像もできないような辛い練習をしてきたのだと思う。
それが、一年間ブランクのある選手に抜かれてしまった。練習量だけいけば池江さんよりも圧倒的に多いのに。練習効率だって、科学的な練習が広まり、コーチや協会で共有されている現在、それほど違いはないと思う。むしろ「池江さんがいないから出場できた」などの下らない後ろ指を指されないために今まで以上に努力をしてきたのだろう。それなのに負けた。「努力する天才」には勝てなかった。負けた理由は「天賦の才」の違いだ。
オリンピックを開催に関する議論の中で無観客でやった方がよいとう議論がある。
この論陣を張る人は「選手はオリンピックに出るために数年間頑張っており、オリンピックに出て、メダルの色でその後の人生が変わるため」と主張する。
オリンピックが金メダルを目指して頑張っている人のためのものであるというのであれば、池江さんに負けた選手はここで既に人生が暗転してしまった(3年後のパリオリンピックを目指すという選択肢もあるが、年齢的に今年が最後の人もいただろう)
負けた選手は、何か悪いことをした訳ではない。同時代に「天才」がいた。
池江さんのオリンピック出場からわかることは「努力する天才」には勝てないということ。
努力すれば報われるとか努力すれば夢が叶う。とかは周りに「努力する天才」がいれば実態を伴わない空虚な言葉に早変わりする。
オリンピックが開催されるかどうかわからないが、開催されるなら池江さんには頑張ってほしい。池江さんが頑張ることで同じ病気の人で苦しんでいる人に頑張ろうと思う気力と勇気を与えることができるから。これは池江さんにしかできない。
何かを始めようとすれば「ダメな奴は何をやってもダメ」と出鼻をくじかれ、じゃあ迷惑かけたくないんで何もしませんと言えば「逃げるな」「努力しろ」「甘えてる」、でしたら頑張ってやります、でも失敗しましたとなると「初めからやるな」「お前は引っ込んでろ」「努力が足りない」「そもそも努力してない」、仮になんとかやり遂げても「当たり前」「みんな出来てる」「そんなことで褒めてもらえると思うな」「下手くそ」
結局社会は無能に消えてほしいと思っている。同じく無能も社会から消えたいと思っている。双方の意見は合致してるはずなのに、無能は消えることも出来ず毎日社会の足を引っ張り続け、社会は毎日無能に迷惑を被る。ここで言う社会が受けている迷惑は仕事場でのミスや脛齧りの引きこもりだけではなく、電車の人身事故や投身自〇の巻き込み事故など〇殺が引き起こす二次被害も含む。
自分は無能で社会に要らないと確信し、社会から消えようとも今現在の日本では自主的に死ぬ時まで社会に迷惑をかけなくてはいけない。おまけに自〇未遂で病院送りになると治療費は全額自己負担となるらしい。
そこで私が提案したいのが⑴安楽死の合法化⑵希望制の人権剥奪⑶1と2で発生した死体の有効活用だ。
まず⑴の安楽死合法化。これは何度もネット上で議論になったり、これをマニフェストとして掲げる政党も現れるくらい広まった提案だ。まあ最近だとTwitterの自称反出生主義者が自分の気に入らない他ユーザーを叩くための免罪符にして暴れ回るので話が拗れて訳が分からなくなっているのだが、こういうネットチンピラを一掃するにも安楽死は是非実装されるべきだと思う。(かと言って合法化された所でコイツらが大人しく安楽死するとはあまり思えないが)話が逸れました。無能の話を続けます。家庭から、学校から、職場から、社会から爪弾きにされた無能を救ってくれる制度はありません。そして自主的に死ぬと死体蹴りされます。これじゃあどっちも損です。じゃあ自由に合法的に死ねる制度を作りましょう。これでwinwinです。でもそんなことしたら日本から人が居なくなる?これは完全に主観ですが人口は減っても大して損害はないと思います。あるSF小説であった話で、死後の世界を映すモニターが開発され、そこに映された天国の様子や死別した愛する人を観て多くの人々が自ら命を絶っていく。でも一部の人は拭いきれない死への恐怖から生き続け、ひたすら死体の処理をし続ける、という内容でした。この話をどう捉えるかは人それぞれでしょうが私はこう捉えました。「死にたい奴らは勝手に死んで生きたいor死ねない奴らは勝手に生きろ」と。私はこの物語の世界は凄く理想的だと思います。ただこの話だと死ぬ方法が苦痛を伴うものしか描写されてなかったのが少し残念ですね。かなり昔の作品なのだからでしょうか…。現実安楽死が合法化すればいわゆる自認のある弱者は淘汰され、人生お気楽有能ラッキーマンや根性論信者が生き残る「理想の社会」が生まれますね!そこでもカーストは生まれるだろうけど私みたいな底辺には知ったこっちゃありません。だって死んでるし。それに私らが受けた迫害なんかよりずっとマシだろうし。
⑵の希望制の人権剥奪は私の勘違いから思いついたことです。死刑=殺人の合法化=人権剥奪だとつい最近まで思い込んでました。馬鹿なので。でも不思議な話ですよね、法の下で人の生死を決められるのに自由な自〇は許されない。そもそも死刑確定しても何年間も国民の税金で生かして死刑にするときもあれこれ手順を踏まなきゃいけない。馬鹿らしいですよね?生きる価値がないと公式に認められた人間を血税でしばらく生かすなんて矛盾してますよね?それこそ某番組の雑ドッキリみたいに死刑確定したら即執行すればいいんですよ。罪人に死を覚悟する時間を与えるだけ無駄です。また通り魔がよく口にする動機で「死刑になりたかったからやった」、これは単なる建前かもしれませんがもし1%でも諸事情により自〇出来なかったから犯罪するしかなかったと考えてたら、是非人権を剥奪してあげてほしいと思うんですよね。
⑶は上の話の続きになりますけど、⑴のように自主的に命を絶つときにただ埋葬するのではなく、臓器移植など生きたいけど生き残れる可能性が低い方々のために役に立たせる方法を希望できるようになると良いと思うんですよね。また⑵のように死刑囚は人権を剥奪し今まで倫理の問題で出来なかった実験の被験者になってもらったり、死後も標本か何かにしてこれからの科学の発展に活用した方が遥かに明るい未来が待ってると思うんですけどねえ。
あるスポーツ選手はこう言いました。
「努力は必ず報われる。もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない」
あるアーティストはこう言いました。
「不遇を社会のせいにして、いつか大きな何かに無償の愛で救ってもらえると夢見てる負け犬どもが多過ぎる。いい加減目を覚ませよ。まだ間に合うから」
でもそれって成功したからこう言えるんですよね?努力が結ばれたからこう言えるんですよね?才能があったからこう言えるんですよね?周りの環境が恵まれてたからこう言えるんですよね?
「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」という有名な格言がありますが、これ裏を返せば1%のひらめきを生み出す才能が無ければそこでおしまいなんです。どんなに努力しても結局天賦の才能には勝てないんです。これ、ごく普通の人でも99%の努力しても1%の才能には到底及ばないのに、生まれ持っての無能となると99%努力してもやっとスタートラインかその手前なんです。それを「努力と呼べない」「社会のせいにしてる」なんて言われたらもう死ぬしかないですよね。じゃあ120%の努力をしろよとも思いますがそうして燃え尽きた無能を私は何人も見てきました。
ここで散々無能と呼んできた人の種類を詳細に伝えます。無能とは「発達障害」「精神障害」「知的障害」「サイコパス」そして「やる気のない人間」です。ちなみにわたしは知的とサイコパス以外全部当てはまります。このように書き連ねると今までの文章からして私のことを植松信者だと思われそうですが断じて違います。
優生学という考えがあります。簡潔に説明すれば劣った人間を減らし、優れた人間だけ生かして生み出そうというものです。世の中にはこの簡潔な説明文を見ただけで発狂し噛みついてくる人がいますが、それは植松事件や旧優生保護法、そしてナチスのT4作戦を想起させるからだと思います。これらは優生学に基づいた犯罪・政策であったから非難されていますが「『同意を得てない』人間に『有無を言わさず』優生思想に基づく方法で理不尽に命を奪ったり手術をした」という面にもっと注目してほしいんですよね。優生学自体を頭ごなしに否定するのははっきり言って思考停止してます。少し前某ミュージシャンの「お化け遺伝子」発言による炎上騒動がありましたが、これに反する意見としてナチスの政策と同じだ!と主張する人が多く見られましたが、ちょっとズレてるな〜と思いました。ミュージシャンの主張は「優れた才能を持つ人達(=お化け遺伝子保持者)を国がプロジェクトとして集め、その天才同士での結婚相手を決めるという、なんだか某アイドルが入信した統〇教会を思い出させる失笑モノの意見(もっと言えば結婚=子作りという旧時代の考え丸出しの発想がさらに大衆の失笑と非難を浴びた)でしたが、要するに彼の主張は「積極的優生政策」であり、一方ナチスが行ったので有名なのは前述のT4作戦やホロコーストなど「既に産まれてしまっている劣った人間を抹消する」方なので、お化け遺伝子をナチスと同じだ!と批判するのはあまり噛み合ってません。(一応ナチスも党の基準での「優れた人種」の女性とナチス親衛隊の男性を結婚させた事例があるので間違いではありませんが、例のミュージシャンのリプ欄でT4作戦のことを挙げ反論している方が多く見られたので敢えてこう述べさせていただきました)
それから記憶に新しいやまゆり園事件。これに関しては事件そのものより植松のダブスタっぷり、思考の浅はかさを指摘していきたい。「ケーキの切れない非行少年たち」という一昨年くらいにヒットした本がある。この本の内容をかなり要約すると「いわゆる非行少年と呼ばれるような少年院にいる子供達は軽度知的障害を抱えてるケースが多く、これを解決するにはある訓練が必要だ」となる。つまり知的障害があるから物事の良し悪しが分からないため罪を犯すのだ。そして植松は学生時代未成年飲酒や喫煙、さらに暴行事件や薬物乱用など起こした罪の数々を見れば典型的な「非行少年」である。ここで植松の思想及び主張を思い出してみる。「意思疎通のできない重度の障害者は不幸かつ社会に不要な存在であるため、重度障害者を安楽死させれば世界平和につながる」ケーキの切れない(略)と植松の前科、そしてこの主義主張、こうしてみると「軽度知的障害者が重度の障害者を攻撃している」という事が分かる。植松は正式に軽度知的障害と診断された訳ではないが、過去に軽犯罪を繰り返しその後件の事件を引き起こしたとなれば、立派なダブルスタンダードである。むしろ犯罪者は軽度知的障害者に多いとなると介護が必要なくらいの重度障害者と比べてどちらが社会に不必要かは言うまでもない。
最後に旧優生保護法について。私の正直な意見を言うと、この制度多少の改良を経て復活させてほしい。遺伝性の障害を持つ人が子供を持とうというのははっきり言って傲慢だ。だからと言って強制的に不妊手術を全員受けろとまでは言わないけど、発達障害精神障害知的障害を持ってて自分の面倒すらまともにみれないのに、同じ障害を持つかもしれない子供を育てられるのか?無理だろ。子供が生まれれば自分は変われる?幸せになれる?人生がバラ色になる?寝言は寝て言え。子供はお前らを幸せに導くラッキーアイテムじゃあないんだよ。これは健常者にも言えることだが、子供を作る動機として挙げられるもので、子供のためを思ったものがほとんどと言っていいほど存在しないのだ。「なんとなく欲しいと思った」「子育てがしてみたい」「夫婦間の中が悪いから仲裁役として」「とにかく楽しそうだから」「将来介護してもらうため」こんな感じである。(私はなんとなくで産み落とされました)せめて建前でも「子供にも幸せな人生を送ってもらいたいから」とか言えないのか。結局親というものは最初から自分第一なのだ。確証も無いのに何故か五体満足でオツムもまともな子供が生まれると信じて止まないのだ。そして実際出生前検査でダウン症など先天性の障害が見つかれば中絶を決断する親もいて、産まれても泣き声がうるさい言うことを聞かないなど予測可能なことで子供に危害を加え最悪殺害する親なんてのも後を立たない。さらにもっと視野を広げれば、人生なんて苦難の連続と散々言い伝えられているのに、それを経験しているはずなのに、ウエディングハイの延長で人ひとりの人生を強制スタートさせてしまう身勝手さと計画性の無さ、非常に軽蔑させられる。また優生保護法で強制不妊手術を受けさせられた方のインタビュー記事がネットにあったので読んでみましたときのことです。その方は精神障害を抱えており、自分に子供がいたなら人生は間違いなく幸せだったと仰ってました。いやー反吐が出る。子供は幸せを運ぶ天使か何かと思ってないか?こういう考えしか出来ないから自分の人生不幸だと思い込んで優生保護法に八つ当たりしてないか?まあいいや、少なくともこの方の子供となる不幸な人間は存在せずに済んだので良かったとしよう。
私は発達障害と精神障害を抱えているので絶対に子供は欲しくないし、もしこの先異性と体を重ねることになるとしても避妊失敗が怖くてとても出来ません。もし優生保護法がまだ現役で強制的に不妊手術します!費用は国が負担します!なんて言われたらきっと狂喜乱舞するでしょう。
まあ要するに何でも希望制にすれば良いんですよ。死ぬにも手術するにも人権捨てるのも。夫婦別姓も同性婚もしたい人だけやればいい。どうしてそんな簡単なことが出来てないんだ。多様性って何だ。あっ、でも子作りだけは免許制にしてほしいな。子育てって車の運転以上に知識・技量・適性が問われるはずなのに。おかしいよね、世界。
母があの子がインタビュー答えてるのみて「若いのにしっかりしてる」とか言ってて年甲斐もなくちょっとイラっとしたのな
あの子は普通なら見とがめられるような生活能力の低さを自らの才能と品のいい私立校に通っているという事実でねじ伏せてしまっていることが凄いんだ
この場合「やっぱり天才って浮世離れしたとこあるね」というのが正しい反応なのだ
人に気を使って周囲との調和を意識し集団を束ね他人からの期待に応えることをモチベーションに毎日ちまちまタスクをこなすようなたまではないのだ
己のイノセントな憧れや欲求がぶれることのない芯としてその体に備わっていて情熱のほとばしるままに鍛錬を重ねひたすら邁進しつづけるのである
たとえ国家の威信を背負うようなことになっても土台はそうであってほしい
ここに書き始めたのは、私自身がどこかに吐き出さないと、狂いそうになってるんだなって気がついたから。
でも、私が普段使っている媒体は全て何らかの名前と紐付かれているから、名前の紐付けがないここに投げ捨てていく。
彼女は、愛していると言う。私は……どうなんだろうな。もうわからない。
彼女に出会ったのは、一年半位前だろうか。元々別のジャンルに居た私は、別のジャンルの(こっちは同性の)人間関係に辟易して
今のジャンルに堕ちた。Pixivに投稿したら、反応があって。そのなかに彼女はいた。
それから一年。様々なやりとりを経て、私達は付き合うこととなった。最初は、べったべただった。
お互い、少し心が弱いところはあるけど、お互い弱いからこそ、お互いのことがわかるから、ふたり寄り添っていけるね、なんて言ってた。
一緒のところがあると嬉しくて、一緒だね、なんていって笑っていた。
私は、どこで何を間違えたのだろうか。
いっそのこと、私の事を嫌ってくれればいいのに、なんて思うけど、多分嫌われたら、私はそれはそれで悲しむだろうし、しばらく心沈むのだろう。
彼女は、私の事が羨ましいと言っていた。
でも、私はそれを天賦の才として得たわけではない。
高校の頃に書いた二次創作はもはや黒歴史で、それを唯一知っている友人の口を塞ぐのがどれだけ大変なことか。
でも書き続けて、書き続けて、そうして今がある。
そういうことを言うと、多分今の彼女はこう言うのだろう。「それは表舞台に立てた人だからだ、だからあなたにはわからない」って。
ああ、そうだ、わからない。
なんだったら、この間、同ジャンルの別の人が、初めて出した本は10冊も売れなかった、マイナーカプすぎた、と嘆いていた。
でも、彼女は、彼女の作品は、投稿されればたちまちみんなが「うぽつです!」と言い、感想を言われ。
そして、気がついたら私は串刺しになっている。
刺さった串は抜けない。
何度筆を折ろうかと思ったことか。
でも、私が筆を折ったら、困る人がいる。
そもそも、多分、私が筆を折ったその日は、彼女に別れを告げる日だろう。彼女にも、この世界にも。
彼女と直接会わなくなって、もう二ヶ月以上が経つ。最後に会ったのは、8月のまだ暑さが残る頃だった。
彼女は、いわゆる裏垢で、寂しい、なんだ、と言って、みんなによしよしされている。
結局、私じゃなくても、いいんじゃないか。
構ってくれる人が、欲しいだけなんじゃ無いか。
今日もそんなことを思いながら、このポエムをゴミ箱に投げ捨てる。
ちなみに、言及を見た。
増田に偏見を持っているので「黙れクソ○○○」みたいなのが来るかと思ったら、割と普通の言及が一件と、
すまんな、またポエムだ。
今のところこんな感じ
毎フレーム計算された値が加算されていく。正の値なら良い状況、負の値なら悪い状況。
初期値は0。
計算を開始すべき時期については諸説あると思うけど、受精したタイミングから測るのが妥当か。
天賦の才。親から受け継いだ遺伝的特性。文学的才能や数学的才能、身体的なものまで含む。
親が後天的に獲得した特性や、資金面での優位性、親族関係、幼少期を過ごす地域の風土や近隣住人などなど。
生まれ持った社会的なハンディキャップとなり得る身体的な特性、または事故による負傷や病気とその後遺症など。
自分がその時に何を選択したか。-1~1の範囲の値で、1が現状に対する最良の選択をした場合、-1が最悪の選択をした場合。
人には向き不向きがある。それは自然なことである。本来ユニコーンの角のように鋭敏で尖っているものが、計るものさしの向きによっては短所にもなりうる。周りはその角をしきりに気にするのである。そこに優劣をつけて、優れたものを崇め奉り、劣ったものを見下し、屈辱を与え、尊厳を剥奪する。私こそ、その力学の中で最ももがき苦しんだ人間の一人であろう。私は才能、誰をも圧倒し凌駕するほどの、人類で一番というほどの天賦の才がなかったこと、ただその一点によって人であることを剥奪された。人は「それでも君は優秀ではないか」と鈍感なことを言うが、人類の分布の先端を目の当たりにしてしまった人間にとっては何もかも慰めにもならないのである。私は自分の無能を呪い尽くした。集団に不適応を催しているのなら、「天才」でなければ存在価値を認めない。そういった一元的専門能力主義に毒され、歪みきった価値観が「上位」の集団では蔓延しているのである。周囲は私にそのことによってのみ侮蔑的態度をとる。私の角をことあるごとにあざ笑う。屈辱の極みだった。腹も立った。しかし、それはあらゆる評価に裏打ちされた客観的事実に思われ、自分よりも明らかに優れている人間が繰り出してくる蔑みには抗えなかった。何よりも私自身が、この醜悪な能力主義を内面化してしまったようなのだ。苦しかった。自分が価値のないものに思えた。どんなに上り詰めても頂点に君臨するものに畏怖し、怯え、下から追われることにも怯え、自分が何もできはしないちっぽけな存在に思われた。数学ができれば生きている価値があるのだろうか?特別な才能がなければ、平凡であれば生きている価値がないのだろうか? しかしながら残酷なことに人の興味は優れ卓越したものに向くのである。私は私を肯定できない。
・アイドルにレッスンを受けさせるのは、少なからずショービズとして成立する興業を行う為
・逆に言うとレッスンが必要なアイドルは、ショービズには出しづらい
・つまり、最初から天賦の才を持つ安室奈美恵のようなアイドルか、「レッスン費用を無尽蔵に支払える人」のみしかアイドルになれない
・あるいはアイドルとして登録? した際に「年間レッスン料」みたいな形でローンを組ませるやり方もできるのかもしれないが、それはいわゆる専門学校と変わらない
・そのアイドル学校方式で立てたアイドルグループは、経営者側として考えた場合には特にアイドルとして何か仕事を行わせなくても授業料を徴収できているので、アイドルをアイドルにする動機は薄い
みたいなところだと思うんやけど、どないやろ。
なぜここまで苦しいのかと思えば、もしかして昨日の出来事が生まれて初めて経験した、「大好きなことを利用されて揚げ足を取られる」経験だったからかもしれない。
ここまで人生20余年、親の環境作りが良かったのか自分にそういう天賦の才があったのかは知らないが、周囲の自分よりも年長の人物は皆、私が「大好きなこと」に対しては常に応援してくれる立場を取ってくれた。
親族だけではない。部活、趣味、学校。関わった大人の尽くは、何故かそうだった。大嫌いだった部活の顧問でさえ、試合で勝ちあがれば応援してくれた。今まで出会った大人は常に私の大好きなことを大なり小なり応援してくれた。
しかし今日、多分生まれて初めて、「大好きなこと」が原因で揚げ足を取られた。さらにまずい事に、その「大好きなこと」が続けられなくなりつつある。
今まで本当にそういう大人には出会ってこなかったからこそ、その衝撃が計り知れない。大人は味方。例え後輩や同級生に敵がいても、大人は味方。自分の気持ちを真摯に伝えれば、応えてくれる。それが私の常識だった。
しかし昨日、崩れた。一度崩れれば後は容易い。今まで味方だと思っていた人たちさえ敵に見える。
人を敵視するのは正直苦手だ。だが敵視しなければ生きていけない年代に自分も入ってきたということだろう。
こんな世の中なら、いっそ世捨て人にでもなった方がマシではなかろうか。
この漢文はマジものではなく、うちの息子が書いたものです。悪しからず。
鹿聞之輒怒啼。以為「甚矣、吾見辱也。吾且不勝怒。」
北国翁聖誕者、食鹿、愛鹿、能解鹿之意也。
聖偶知之。則諫曰「方昏時、我将召鹿。焉可啼哉。」
鹿聞之大喜、乃笑曰「聖及其使者也、器之。不亦説乎。」
(聖誕列伝)
北国に馴鹿あり。其の鼻の赤きこと猶日の然ゆるがごとし。然れども人これを見るに異能なき者におぼえ、又しばしばこれを笑う。
鹿これを聞きて輒(すなわ)ち怒り啼く。おもえらく「甚だしきかな、吾が辱めを見るや。吾まさに怒りに耐えざらんとす」と。
北国の翁・聖誕(サンタ)は、鹿を養い、鹿を愛し、よく鹿の意を解するなり。
聖たまたまこれを知る。則ち諫めて曰く「昏なる時にあたりて、我まさに鹿を召さんとす。いずくんぞ啼くべけんや」と。
鹿これを聞きて大いに喜び、乃ち笑いて曰く「聖の其の者を使うに及びてや、これを器にす。また喜ばしからずや」と。
北国にトナカイ(馴鹿)がいた。その鼻はちょうど日が燃えるように赤かった。しかし、人々はこれを天賦の才と思わず、笑って小馬鹿にしていた。
この度ごとにトナカイは怒り、泣いていた。(トナカイが)思うことには「あまりにもひどすぎるなぁ…この仕打ちは。もう怒りに耐えられない。」
北国のおじいさんであるサンタはトナカイをやしない、愛し、気持ちをよく理解していた。サンタはたまたま、このこと(トナカイと周りのものとの軋轢)を知った。
そこで、諫めて「暗いときには、お前を呼んで(その赤い鼻をうまく使って)あげよう。どうして泣くのか、いや泣かなくてよい。」と言った。
トナカイはこれを聞いて大いに喜んで、「サンタのおじさんは動物や人(者)を使うときにその性質や能力を考えている。(このような人に理解されるのは)なんと喜ばしいことだろうか」と笑って言った。