はてなキーワード: 天満宮とは
大阪から沖友天満宮に行く経路を調べているんだが、『乗り換え接続が3分間に合わないせいで1時間待ち』みたいなことが各ルートで発生していて発狂している。
新幹線から在来線への乗り継ぎタイミングもクソだが、電車からバスへの乗り継ぎタイミングがクソなことが納得いかねー!
電車との乗り継ぎタイミング以上に優先されるべきものなんて無いだろ!?
別に公共交通機関の利用者増やしたいとか思ってないのかもしんねーけどさあ、交通ダイヤがクソな地方はそりゃ当然人減るだろって思う。
いいとこだけどね、瀬戸内海。
新幹線で広島や三原まで行ってから呉市に行くよりも、東広島からバスで安芸津に入って電車乗る方が呉市に早く入れるのバグだろ。
東広島市(っつーか芸陽バス?)はちゃんとしてんだなって好感度爆上がりだった。
いや、1時間に1本あるかないかレベルの交通機関で乗り換え接続考慮されてないダイヤがありえねーだけなんだよ…日本中いろいろ行くけどクソダイヤにぶち当たることの方が稀。
素麺といえば、個人的には島原半島産のものということになっている。これは単に、同地に私の知己の人がいるので、贈答品として頂戴して食べる機会が多いからに過ぎず、別に他の産地のものが品質的に劣ると思っている訳では無い。なお、頂くだけでなく、ちゃんと自腹で買うこともある。
最近では、女優の満島ひかりが南島原市の公式PR動画に出演したことが、彼女の怪演技の甲斐もあって、ネットでも話題になっていた。ひょっとしたら、それを観たことがきっかけで島原手延べそうめんのことを知ったという人も、世の中には存在するかもしれない。
島原半島の素麺作り産業については、以前に聞いた話だが、島原の乱によって人口が減少した際、江戸幕府が肥前の国の外部から移住者を募り、その中に瀬戸内の小豆島出身の人々がいたことから、彼らが島原半島に素麺作りの技術を伝えたとのことであった。しかし、それはあくまでも民間伝承であって、確固とした史料が有る訳では無いとも聞いた。
史料の有無や民間伝承の真実性は、専門家ではないから判断する由もないが、この小豆島由来説を何とは無しに信じている。それは、小豆島由来説が語られる際に、同時に「島原半島は、瀬戸内海と気候が似ているために、素麺作りに適している」と語られることにも一因があると思う。
中央部にある雲仙普賢岳や高岩山(たかいわさん)、島原市のすぐそばに在る眉山(まゆやま)、これらを除けば開けた土地が半島の大部分を占めるように見える。そのために、気候がカラリとしているように感じられる。これで「島原半島は瀬戸内海に気候が似ている」と言われれば、一定の説得力を感じて小豆島由来説も信じられる気持ちになる。特に海岸線の近くではそうである。
この島原半島の南部を訪れた時、島原鉄道を利用したのは、ずいぶん前のことになる。これは、諫早市と半島の北部〜東部〜南部を結ぶ、左右反転のC字形に半島の外周沿いを走るローカル鉄道路線である。あった、と言うべきか。現在は、半島東部の島原市までしか列車が走っておらず、島原市よりも南の地域は部分廃線となっている模様である。
現在は市町村合併によって南島原市の一部となっているが、旧名・西有家町という町が半島南部には存在する。この町で島原鉄道の駅に私が降り立ったのは、別に観光などが目的という訳ではなく、不覚にも乗り物酔いになり、気分が悪くなって一休みしたかったからである。
「そうめんの町」という文字が建物の壁に掲げられた無人駅舎のベンチに少し横になり、冷たいジュースを飲んで落ち着いたは良かったのだが、あいにく、次に乗り直す列車を一時間は待たねばならなかった。手持無沙汰の時間をつぶすため、駅の直ぐ傍にある神社へと行ってみることにした。境内へと登る階段は、文字通り駅舎の目と鼻の先にあり、その長さは数十メートル程と短かったが、勾配はかなり急であった。島原半島の南側地帯には、海の近くで小高い丘陵や崖になっているような場所が、幾つもある。この神社があるのも、そうした丘陵の一つであった。
別に有名な神社とかではなく、少し田舎ならば何処にでもあるような、何の変哲もない小さな神社である。境内へ登る階段を跨ぐ鳥居は、その神額に「天満宮」の文字があったから、主たる祭神は菅原道真公で間違い無い。これは、グーグルストリートビューでも確認可能である。確認した。技術革新、すごい。
よほど小さなところでない限り、神社は大抵、主祭神だけでなく配祀神も同居している。その天満宮で私は、時間だけはたっぷりあったので、主祭神・配祀神のいずれの社殿にも平等に五円玉のお賽銭を捧げて「この後、乗り物酔いが酷くなりませんように」とゴニョゴニョ唱えながら参拝した。それを済ませると暇つぶしに、私以外には人の姿も無い境内を、気ままにぶらぶらしながら鳥居などを観察したりして過ごした。どの鳥居も、冠木・貫・木鼻に沢山の小石が降り積もっていた。素朴な民間習俗を今でも伝える地元民が、願い事の成就のために投げ上げたものであろう。
配祀神は、鳥居の神額に「大神」という文字があったと記憶している。「大神」は「オオミワ」と読むのであろうと思った。残念ながら、天下のグーグルストリートビューでも、この天満宮の境内の中までは確認が出来ない。「大神」の社殿は、主祭神との差を感じさせない程度の大きさはあったように思う。
神社でオオミワといえば、その大元へ遡れば無論、奈良県・三輪山であるが、その地は素麺との縁が有る。素麺の祖先は、奈良時代に唐から伝来した食物・索餅(さくべい、見た目はチュロスに似ている)とする説が一般的である。これを模倣して作ることが、最初に我が国で始められた場所が、他ならぬ三輪山の麓周辺なのだと言われている。「すべての道はローマに通ず」ならぬ、「全ての素麺は三輪山へ通ず」といったところか。
それらのことを知った影響で「移住者から素麺作りの技術が島原半島に伝えられたのに伴い、我が国内における素麺発祥の地・三輪山から神も一緒に来たりて、分祀されたものであろう」と考え、小豆島由来説を信じる気持ちも補強されたわけである。
しかし、素麺伝来の機会や小豆島経由以外の理由でも、この地に「大神神社」が分祀される何らかの歴史的な要因があったような気がしてならなかった。結論から先に言えば、これは単なる私の勘違いだったのだが、兎も角そのような気がして記憶を手繰り寄せたところ、風土記の一つである『肥前国風土記』にある、次のような記述を思い出した。
景行天皇が、現在の熊本県玉名の辺りに行幸した時、そこから有明海を挟んで島原半島の方を見て『あれは島か、それとも陸続きの地か』と疑問に思い、使いを送って調べさせた。すると、土着の神が、天皇の使いを出迎えて歓迎し、天皇に服属する意志を示したという。
この時に派遣された使いの名前を「大神宿禰」と、私は誤って記憶していた。この覚え間違いが、大神神社の島原半島に分祀される歴史的な要因があったような気になった原因であった。しかし最近、自分の記憶を頼りに人魚の話やら南斗北斗の話やらを書き散らしたところ、ブコメ等で鋭い突っ込みを受けて大恥をかいたため、今回は手持ちの岩波書店・日本古典文学大系版『風土記』を参照した。その結果、私の記憶違いに過ぎなかったことが判明したというわけである。確認は大事。
残念ながら、天皇の使いの名前は「神大野宿禰」とあり、読み仮名も「かむおほののすくね」としてある。しかも「他に見えず系譜不明。ミワ(神)氏の支族ではあるまい」とまで注釈が付けられている。これでは、妄想を膨らませる余地も無い。
もしも「大神宿禰」という記述だったならば、その時は大変であった。きっと私は「もしかしたら、三輪山の祭祀を司るミワの支族に連なる者が、古代に島原半島を訪れていたのかもしれない。この縁によって、大神神社が島原半島に分祀されたのではないか」とか何とか、思う存分に妄想力を発揮していたことであろう。間違いを防止できたから安心しても良いはずなのだが、その気持ちよりもむしろ残念な気持ちが強い。それほど、自由な妄想とは魅力的なものということである。
さて、私は雲仙岳には登っていないが、その直ぐ近くの高岩山には、地元の人の案内で登ったことがある(この時は、まだ火砕流などの火山活動が沈静化したと認められておらず、雲仙岳の登山が再開されていなかった)。登山ルートの途中にある樹林の中や山肌には、家屋ほどの大きさがある巨大な岩石がゴロゴロと有った。これほどの大きさの岩石群であれば、それらを見た昔の人々が、信仰の念を山や岩石に対して抱いても不思議は無いと実感した。その時の私は、或る種の神秘体験に近い精神状態にあったのかもしれない。高岩山に登って同じ光景を見た人にならば、私の実感にも同意してもらえるものと信じる。
件の神大野宿禰を出迎えたという土着の神は「高来津座(タカクツクラ)」と名乗ったと『肥前国風土記』には記されている。日本古典文学大系の注釈には「高来の峰(雲仙岳)を居所(座)とする神の意であろう」とある。この「クラ」というのは「イワクラ」などと同じく「カミの宿る座・場所」という意味であることに疑いは無いが、何が「クラ」であるかまでは断言されていない。しかし、高岩山への登山で巨大な岩石を見た経験から、おそらくは岩石もしくは山頂・山体そのものが、高来津座と名乗るカミの依代や御神体だったのではないかと私は思う。もしそうであれば、三輪山の神体山信仰と類似しているので、面白い話である。「タカク」に「高来」という字を当てたのは、単に高さを表現しただけでなく、天空の高みから山頂に降り来る垂直移動型のカミであったことの顕れであろうか。
このカミの名は、高来郡(たかきのこほり、たかくのこほり)の由来となり、市町村合併以前は、島原半島の地名「南高来郡(みなみたかきぐん)」として名残を留めていた。しかし、島原半島が島原市・雲仙市・南島原市へと統合され、旧来の地名が無くなったことで、熱心な郷土史研究家などを除けば、いずれ遠からず名を忘れられるのかもしれない。
しかし、名は失われても、島原半島中央部の山に登山する人が絶えない限りは、高岩山に登った時の私が俄に古き神の気配を覚えたように、雲仙岳一帯の山岳や巨岩に対する素朴な信仰そのものは、これからも人々の精神の地下水脈として生き残っていくのではないだろうか。
【2022/10/10】続きを書いた。anond:20221010212603
春月庵を出てしばらく歩き、大橋駅から大牟田線線に揺られて暫くすると太宰府に到着した。
太宰府では参道にある隈研吾設計のスターバックスも見たかったが、あまり寄り道をしていると日が暮れてしまう。
入り口前で既に多くの外国人の興味を集めているそれを通り過ぎ、天満宮に向かう。
何だろうと覗いてみると、天満宮の象徴の一つ、御神牛が石座の上に蹲っていた。
一枚撮ろうと並んでみる事にする。
待ってる間に御神牛について調べてみると、頭をなでれば頭が良く、疾患のあるところを撫でれば快癒するらしい。
良く見れば御神牛の頭は磨かれてピカピカだ。
自分の番が来てファインダーに収めたのち、折りたたんでいる前足をさすった。肘の痛みが治れば良いのだけれど。
鳥居を潜った太宰府天満宮は、その隅々までが美しく、息を呑んだ。
島の自然の中、雄大で幻想的な美しさを湛えていた厳島神社とは全く違う、配色まで計算して端整に造り込まれた様な美しさだ。
店内を撮り、店員のお姉さんと香港名物 鴛鴦茶風の仕上がりを再現できるカスタマイズについて話し合った後に一休み。
行きに通り過ぎた時に入り口で写真を撮っていたのもおそらくは中国人だったが、店内にも中国、韓国、香港、或いは台湾から来たと思しき人は多い。
残りの滞在時間に福岡でできることは多くないが、博多駅から驚異的な近さの国際空港、福岡空港国際線ターミナルは見てみたい。
降り始めた小雨に、折り畳み傘を広げ、スタバを出た。
大牟田線を天神まで引き返して、案内カウンターのご婦人に福岡空港までの行き方を尋ねると、バスが出ているという。
天神駅3階のバスターミナルに向かい国際線ターミナル乗車の列に並ぶ。
一緒に並んでいるのは当然だが外国人で、言葉を聞けば韓国の人だった。
あっという間に着くと思われた空港行きバスは遅々として進まず、結局国際線ターミナルまでは1時間30分程の乗車。
しかし、その大半は駅前の渋滞に巻き込まれていて、渋滞しない時間帯なら天神バスターミナルからは30分足らずで着きそうな距離だ。
降り立ったターミナルは思いの外落ち着いた雰囲気で、ややコンパクトな印象だったが、綺麗で近代的だった。
到着便の出発元は
桃園
全てアジアだった。
どうやら時間帯によってアムステルダムやグァムの便もある様だが、21:00過ぎには閉まってしまう福岡空港国際線ターミナルにあって、19:00過ぎのこの時間帯ではほぼアジアの到着便しかない様だ。
何れにしても全ての時間帯で東アジアからの到着便が一番多いのだろう。
歴史的な経緯からか、外国人の中で意外と欧米人の比率が多かった広島と違い、福岡は日本におけるアジアの空の玄関口である様だった。
行きの天神で、バスは渋滞に巻き込まれて正確な時間を計れないので、今度は国際線から国内線の短距離送迎バスを経由して、地下鉄を利用する。
このルートで戻ると、国際線ターミナルから博多駅はわずか20分だった。
これは、仁川から国際線に乗れば、出入国手続きやチェックインに1時間30分ほどかかったとして、フライトが1時間30分、諸々の待ち時間が30分あまりあっても、4時間あれば博多市内にやって来られる事になる。
韓国のLCC エバー航空で1週間後の往復便の価格を見れば、1万円余り。
韓国人にとって一番身近な外国の大都会が、北京、上海と、この福岡だった。
ネットで韓国の芸能人がナショナリズムめいた騒動に巻き込まれると、すぐに「Kの法則」だの「縁を切れ」だのと言った意見が書き込まれるが、そういう人はどうやって韓国人を御断りする気だろう。
日本旅行記を書く韓国人に「放射能まみれの汚染食品で死ね」「塩分過多で成人病まっしぐらだね御愁傷様」と海を挟んだ半島側で書き込む人々と、こちら側で「本当に…気持ち悪い…来なくていいです。」「チョウセンヒトモドキ」と書き込む人々はお互い相手の国に行った事があって書き込んでいるのだろうか。
そんな人々にきっと目も向けることなく、たくさんの韓国人、日本人がお互いの国を訪れ、ソウルや福岡の食べ物を食べ、街を見て、お土産を手に、思い出を胸に祖国に帰っていく。
この目で見てこの身体で感じない事を「知っている」ということは出来ない。
暇なので、考えてみた。
①日帰りコース
博多駅(or福岡空港)→地下鉄で天神(約10分・バスでもいいけど時間が読めない)→西鉄大牟田線で太宰府(約30分)→参拝→お昼ごはん(天満宮の裏のお石茶屋か松月、もしくは駅の近くまで戻って山菜日和)
→参道でぶらぶら、九州国立博物館の常設展でも見る→梅ヶ枝餅で休憩(どこでもいい。並ばずに入れるところで大丈夫)→天神に戻る→電車を降りたら北口の左側から出てエスカレーターを降りる→バスで福岡タワーへ(約15分)
→タワーのそばの浜辺を散歩→とりあえずタワーに登ってみて福岡の景色を楽しむ(高いビルはない)→天神に戻る→夕ご飯(もつ鍋、水炊き、ラーメン、サバ、フグ、明太子、うどん・・・)→帰路へ
神戸と京都に関する素敵な文章を読んでしまったので私は盛岡のことを書く。すごく需要は少なそう。
盛岡は新幹線が止まる町だ。一昔前までは東北新幹線の北端でもあった。というわけで全国のみなさんが想像する平均的岩手県像よりはちょこっと発展していて、町の中心部には生活に必要なお店とぶらぶら立ち寄れる場所がまばらにある。
駅前には何もない。女子の買い物はフェザンか郊外に2つあるイオンかで済んでしまうから町中を散策する必然性はない。それでも地下道を潜っていくと右側の道の2階にこじんまりとしたアニメイトがある。
観光客に人気のじゃじゃ麺屋をスルーして開運橋の交差点まで出る。(通ぶった地元民は岩手公園の近くのお店に行きたがるけど私はどっちもおいしいと思う。というか自分で調味料を混ぜるのでどこで食べても毎回違う味になる。冷麺は普通)
この開運橋の景色はちょっと有名。バスカードにプリントされたりNHKの朝のニュースの最後に映ったりかつて比嘉愛未さんが朝ドラのロケをしていたりした。
もうちょっと行くと大通りっていうさして大きくもないアーケード街に入る。半分がシャッターが降りた店で残り半分は美容院と歯医者とカラオケ屋だ。あと居酒屋。全国チェーンじゃない安いお店が結構ある。モンキーズキッチンという名前の通りびっくりドンキーみたいにちょっと薄暗い店内で葉っぱ飾りがいっぱいのお店があった。お酒を飲めなかった大学時代はばななみるくばかり飲んでいた。ところでみんな知らないだろうけどびっくりドンキーの1号店は盛岡の「ベル」なんだよ。メニューは普通のびくドンと同じなんだけど座敷の離れがあったりしてちょっと落ち着いた雰囲気が良かった。高校時代の部活の打ち上げにもよく使った。同級生のデートを目撃したりされたりしたのは淡い思い出だ。
ベルまで行くとすぐ岩手公園のお堀が見えてくる。現・盛岡城跡公園の名前の通りお城はない、石垣だけ。菜園のほうまで曲がっていき一際急な斜面を登って公園に入る。菜園という地名が好きだった。畑はなくて地元資本の百貨店がある。パン屋さんと親がお歳暮買うのに着いていったぐらいしかご縁はなかったけどたまにトイレは借りていた。無料のほう。
岩手公園の裏側っていうと失礼かもしれないけれど、まあ大通りと逆側にはベンチがいくつか設置されていて、脇を流れる中津川と対岸に構える岩手銀行本店の明治風建築をぼけっと眺めるのに良かった。中津川は常時川底の石が見えるくらいの清流で、冬には鮭が遡上する。それを地元のテレビ局や熊が追いかけにくる、のどかな町だ。初めて京都に行って鴨川を見たとき、「あ、盛岡だ」と思った。逆なのは分かっているけれど地元愛ということで許して頂きたい。ここもカップルが等間隔で並んでいることが多い。
盛岡は北上川と中津川と雫石川の間になんとか町を作ったようなところなので、少し歩けば必ず川に当たる。お気に入りの橋のひとつやふたつできるもので、私はやっぱり富士見橋、毘沙門橋、与の字橋の順で好きです。
バスセンターより向こうには友人の芝居を見るのに何度か足を運んだ。地下の小さなホールで間近に、でもいつもと違う友人達の姿に触れて、帰りのバスの中でもずっと別の世界から帰ってきた感覚が抜けなかったな。天満宮で願掛けし、急な石段を登って振り返れば真っ直ぐ長い道が町中まで続いているのを見通せた。
町のこちら側に寄ってくると青春の痛い部分が刺激されてきたのでもうそろそろ盛岡駅に戻る。でんでんむしバスで100円で着く。駅のドトールと西口のアイーナには受験勉強と称してよく入り浸った。贅沢でのんきな受験生だった。