はてなキーワード: 大阪とは
segawashin 2024/05/23
今週はふつうの軽音部ロスが昂じて「あぁロングヘアの厘ちゃんさんが重曹ちゃんをガン詰めしてる……」あたりまで幻覚が亢進したところで我に返った/全然性悪女になれてないウブい重曹ちゃんを堪能できて満足です
50代が書く文でいいのかな?これwいい歳してキモすぎるだろw推しの子なんて10代の小学生が読む漫画なのになwつうかこいつ散々オタク詰ってきたのに親安倍のうえ木村花をパクってお左翼様に燃やされてた推しの子なんて嬉々として読むあたり、単なるダブルスタンダードが理解できないアスペ障害者なのか?自分の発言に整合性とか取らない訳?アスペ大卒左翼に多すぎ問題
滅んだ方がいいレベルの男尊女卑体育会系のうちで、女が女がと馬鹿にされながら下手な男よりもハードワークを20年こなして40になり、少しは女もやるやんって空気を作ってきたやり手の女性社員(ただし未だに役職なし)が、
最近入ってきた新卒の女の子が、8:59に出社して1日中スマホいじり16:50にはパソコン落として17:00ジャストにタイムカードを押して退勤するのを受けて、ひっくるめて「女はやっぱり駄目だな」って女側に分類されてるの、気の毒だなぁとは少し思う。
ただ私は私で、その女性社員が男がドン引きする位のバーサーカー企業戦士だったせいで、「女ができることがなんてお前ができねぇんだよ!金玉ついてんのか!」って股間を握られるセクハラ・パワハラを受けてきた経緯もあって、正直気の毒よりもざまぁの気持ちの方が強い。
私は死んだ方がいいし、この会社は潰れた方がいいと思うけど、こんなゴミカスが社会に放出されたらますます大阪の治安が悪くなるので、ビルにミサイルが直撃して消滅した方がいい。巻き添えになる1階のローソンさん(店員さんがすごく可愛い)には申し訳ないが。
既に広く知られた話ではあるが、阪神(大阪〜神戸までのエリア)では、エピソードトークに面白さが求められることがある。
※ここでエリアを阪神に絞ったのは増田が阪神出身だからだ。他地域にも同様の文化があれば補足求む。
日常であった些細な話をしようにも、鬱陶しい人間に絡まれると「オチは?」とか言われる。現実の出来事が常にオチるわけねーだろ、と思うが、口を開いた以上何らかのユーモアを含むべし、という圧力がうっすらとあり、それを抑制する力が働かないのが阪神だ。
こうして常に笑いを求められ、笑いが起こることでのみ承認される幼少期を辿った人間の数割がたどり着くのが、いわゆる喋りまくるコミュ障である。
笑わせられない話者はゴミだと刷り込まれまくるので、他地方の人と話した時にリアクションが薄いと不安になり、盛り上げようと焦って更に多弁になる。相手の話す隙がなくなるほどに。
そしてもう一つ出る症状がある。それは真剣な話を途中で茶化してしまうというものだ。これは阪神に生まれ育ち、そのまま生きている人間の大半が当てはまる。
とにかく笑いのない話に耐えられない。途中で茶々を入れて、新喜劇的な明るい雰囲気に持っていこうとする。相手も阪神のノリがあればいいが、なければ空気が読めないとか、最悪ハラスメントと言われることもある。
たしかにユーモアは必要だが、それはあくまで相手との関係性や空気感の上に成り立つものであって、ゴリ押しや安易な茶化しからは生まれない。それでもやらかす。
阪神出身者でも、元々そういう風潮に対して一線を引いていた人や、他地方に出て対話をするということを学んだ人はそこまで重症化していないこともある。しかしある程度自分を客観視できる人でなければ、ほとんどみんな対話ができない人になる。まるで喜劇を常に演じ続けているような、そしてこちらまでその舞台に引きずり込もうとするような、違う世界の住民になっていってしまうのだ。
東京や大阪のような大都会特有の事情を聞いていると、なんだか怖くて面白い。
例えばある東京在住の人が、東京都心のトイレマップを頭に叩き込んでいると言うので理由を聞くと、気軽に入れる公衆トイレがほとんど全くないし、駅のトイレは汚すぎるからと言っていて目から鱗。トイレが見つからないままさまよい続ける可能性があるらしい。なんとも怖いが面白い。
また東京の人や大阪の人と遊ぶと、疲れたからカフェはないかと言う。甘いものがほしいの?と聞いたら座りたいというので、ベンチがあるけど座る?と聞くとちょっと驚かれる。聞くと大都会ではカフェでしか座って休めないらしい。な、なんということだ。
それから私が大阪に行った時、バス停でバスを待っていたら、近くの歩道を渡りながら大声で良くないことをたくさん叫んでいる中年の女性がいた。思わずみんなそちらを一瞬見たものの、次の瞬間にはもう元通りだった。怖いね、というと同行者は「これが大阪だから」と言っていた。バスに乗ると今度は年齢不詳の男性が甲高い声で独り言を言っていて、なるほどこれが大阪なのだと理解した。
そこまで大都会ではなく、かといって不便でもない地方都市に住む私は、こうした話を聞いて都会の大変さを学ぶ。それはもはや大都会を感じて大きな隔たりを感じる世界、縮めて隔界のようだと思う。しかし心の何処かではそれに憧れもする。大勢の人間の渦に混じって、私もその渦の一部となり、自我の輪郭をやんわりと失いながら、大きな流れに飲み込まれてしまいたいという憧れが。今住んでいる場所にもそんな流れはあるが、大都会のブラックホール的な強大さにはとても叶わない。憧れ、恐怖、そして好奇心。そこには確かに人々の日常があるはずなのに、私は大都会の話を聞くと、いつもそんな隔絶された世界を思い浮かべてしまうのだった。