はてなキーワード: 大凡とは
えー、悩み相談というのはそれを相談という形で他者に解るように言語化してしまう過程で、すでにその悩みの解法が一目瞭然誰の目にも明らかになってしまうということがまま起こるものでして。
それを他者から見ると「この人はなぜこのように自明なことで悩んでいるんだ?」などと不思議に思われてしまうものですが、一人で悩んでいる間はそにれ気づかないものなんですよね。
で、この場合もまさにそのケースで、きっともう御本人的にも悩みの答えというものはほぼ言わずもがなな状態だろうとは思いますが、一応ご相談へのお答えというものをここに返してみようと思います。
先ず、ご相談の元増田様がなぜ恋人を作らなければならぬと思っておられるのかという点についてですが、これは一読すれば誰もが解るように、
「自分が恋愛というものから落伍しているという烙印を押されることへの不満、あるいはすでに貼り付けられたレッテルを払拭したいという願望」ということに尽きるでしょう。
世間体とかプライドとか言われるものでしょうか、切実な悩みですね。
発端がそのようなものですので、元増田様が交際相手への条件として"自分と同程度の社会的地位及び容姿"を求めるのは、これもまた自然な話だと思います。
世間の目からも己の内的な目からも落伍者の誹りを受けないためには、一定程度の市場価値のある相手でないと困ります。
で、ここからが難しいのですが。元増田様が求めているのはそのような"ステイタス"であるにもかかわらず、ここにさらなる付帯条件がついてきます。
それは「ちゃんとした恋愛らしい恋愛がしたい」ということです。元増田様の表現によるなら「ちゃんとゆっくりお互い中身を知り合ってからちゃんと付き合える」ということになります。
なんということでしょう、元増田様が欲しているのは飽くまで"交際という実績"であるのに、そこに"形式的でない本当の恋愛"という矛盾した制限がかかっているのです。
解ります、
「恋愛のために恋愛するのではなく、真の恋愛(って何?)を演じることが出来るのだということを証明しなければ恋愛出来ないという誹りを免れ得ないのだ」
と考えておられるのは。
しかし、ここで「己のプライドの問題を解決する」という動機と「他人とお互いの中身を知り合ってちゃんと付き合う」という手段は決定的にすれ違っています。
だって元増田様は別に他人の中身になんて興味ありませんし、ここまで詳らかにしてきた貴方の中身を他人に知ってもらうつもりもありはしないのでしょう?
少なくとも貴方がおかきになったこれまでとこれからの中に、他者の中身に対する期待や不安、己の内面を受け入れて欲しいという渇望、のようなものが読み取れる箇所は一箇所としてありません。
持って回った物言いになってしまったので話をまとめると、元増田様は今の所他者を渇望する内的な動機はないが、ちゃんと恋愛出来るのだという証明はしたい。という現状にあります。
そのような中途半端な義務感で恋愛に取り掛かろうとするから良くないのだというのが答えになろうと思います。
学生時代の勉強のことを思い出してください。「なぜ勉強しなければならないのかは正直わからないが、やらないといけないものらしい」というように強制的にやらされるだけだと、
能率は上がりません。これが中途半端な義務感と私が言うところの状態です。
まあ勉強だったら別に能率が上がらないだけで、それでも出来るとは思うのですが、これが恋愛になると相手がいるものです。中途半端な義務感で相手を愛そうとしても、
相手から返ってくるのはやっぱり中途半端な義務感だけ、ということになりますでしょう? それは本意ではないはず。
で結局どうすればいいのかということですが、どうでしょう、ひとつ恋愛というものに対する興味をすっぱり忘れ去ってください。
そうした上で「そういえばかつて私を苦しめたあの恋愛というものは一体何だったんだ?」と、改めて興味を持ってください。
この時貴方にはかつての貴方にはなかった"批評性"というものが備わっています。そしてこの興味の持ち方ならば、
あなたの恋愛に対する興味は誰かに押し付けられたものではありませんから義務感もなく、"自分"と"恋愛"の間に適切な距離感を保ちながら取り組むことが出来るはずです。
とまあ、この処方箋部分はご参考程度に、その前段までの矛盾点の解説で大凡貴方がなぜ"恋愛"に苦しめられているのか、というのはお解りになるはずで、
その解決については自分なりに好きな方法をとってください。良い恋愛が貴方に訪れることをお祈りいたしております。
余談ですが、私はよく人生相談に乗ると相手のことをバカにしていると誤解されることが多いのですが、そのような気持ちは一切ないとここに弁明させていださきます。さようなら。
友達はいない。今後できない。作る気もない。人と関わりたくない。
もうマヂンガームリZ。。。マリカしョ。。。
独りで楽しみたい。独りだけでできる趣味見つけたい。
というわけで見つけたのがプログラミング。それ以外続かなかった。
面白い技術見つけて遊びたい。日々記事漁りして興味わいたら深掘り。
やりたいことが多すぎて時間は常に不足する。そして私の頭は非常に悪い。倍プッシュ。時間はなほ不足。
仕事で落ち込んでいる暇などない。残業する暇もない。なんと言われようともうるせえとっとと帰る。
が駄目。帰れたらいいが帰れない 。クソが。
プログラミングの集中力大凡1時間。そこから低下。2~3時間継続でおほしさまきれい状態。
集中切れたらとっとと退散。
プログラミングの肥やし候補を探すため別分野の調査を実施することもある。
意外と楽しいときもあるある。わけわからず投げて不貞寝して何事もなかったかのように
M-x Slimeでアルゴリズム体操することもあるあるある。
うまくツール化できたときは嬉しくて小躍りする。鼻歌も歌う。隣の人に怒られる。
知識が増えた気がする。知らないことも増えたけど。
寝る前は床に入ることを全力でン拒否したい気持ちを抑えてふとんに入る。
やり残したこと、やりたいことに最後までリソースを費やして寝る。
幸せ。
すでにTBで回答されてるけど「ちんこ入れてる方が攻」で「入れられてる方が受」だよ。
男女のSMの場合で女が男にサービスする場合は「女攻め」と「男受け」、あるいはM側が「男責め」みたいになるようなもんだ。
ここまで前提。
元増田が言ってる「精神的な部分」は「シチュエーション萌え」として解釈されている。
二次創作の場合、同じカップリング ((「A攻×B受」と「B攻×A受」は、作品とキャラが同じでも実質的に【完全に別ジャンル】であることに注意。)) でも人によってキャラクターの解釈は違うし、人によってキャラクター二人の関係性の受け取り方も違う。
だから同じカップリングジャンルでも「飛影はそんなこと言わない」は大凡発生しまくるし、その状況にも「地雷」という名前がついている。
「攻が受に依存する」というシチュエーションは女性向けの中では王道中の王道で、「依存萌え」と名前がついている。攻が受がいないと生きていけないという状況はロマンチックで人気があるし、それを実は受が操っていたというシチュエーションも悪女萌えの典型だ。pixiv なら作品ジャンルによっては「黒(受キャラの名前)」などのタグが付くくらいに定着している。
で、攻×受が2パターンしかないのに対し、シチュエーションは星の数だけある。それにいちいちラベリングして棚を作っていくのは難しいし、描き手にしたって自覚的でない場合もある。
だからアニメイトが棚をカップリングの攻/受で分けるのは実利にかなっている。まんだらけだって20年前からそういう風に棚作ってたし、そもそもコミケのサークルは作品/攻・受で配置を決めるんで、ちょっと同人を知ってる人なら「今さら何言ってんの?どこの世界から来た人?」っていう感じではある。
そのように「●●(のアナル)が△△(のペニス)を強姦するので『●△』のタグ付けときますね(はぁと」みたいな奴が発生して「それは襲い受だ」と即ボコられているのを偶に見かけるくらいには、攻受の概念は固定化されています。
それがいい悪いは別の話だし、細かい部分では「●+△」「●△●」「同軸リバ」などの概念もある。
そこからも外れたい人は「カップリング表記なし/主要キャラ」「オールキャラ」のラベルを選択していく。
男性向けの棚では人気ジャンルだけはそのコーナーがあるけど、その他は「百合」「ショタ」「男受け」「母子もの」と性癖(と作家)の区分で棚を作っていく。それに対して、女性向けは作品とキャラで棚を大きくわけて、そこからキャラの関係性(攻受)>作家、と並べていく傾向にある。
普通のセックスとどう違うの? ちょっと状況がイメージできないのでもっと具体的に詳しく、
実例をあげて、四つん這いになって説明していただけないでしょうか…?
この理屈で行ったら「されても構わない」って同意さえあれば、窃盗も強姦も殺人も合法化できるし大凡考えられる殆どの犯罪行為は問題なくなるではないか。
小学校くらいの時にこうやって(今で言う)ドヤ顔した奴がいて相手にされてなかったの思い出すわ。(笑)
いいかい? オマエさんの言ってるのは「俺国の法律は俺が決めるからなんでもあり、文句がある奴は入国禁止な!」と大して変わらんのよ。
だって考えてごらんな? この理屈で行ったら「されても構わない」って同意さえあれば、窃盗も強姦も殺人も合法化できるし大凡考えられる殆どの犯罪行為は問題なくなるではないか。
人肉食も死体なら構わんよね? もちろん自殺なんか典型例だし、そもそも法治の必要すらないのだよ。
一切の情をかけない前提で言うが、わしゃ獣を野放しにしてるそばには住みたくないんでお断りかな。近くにそんな離島があるのも嫌だよ。
発達障害者支援法が施行されて、とりあえず先天的に入力がおかしい人がいる、ということは理解されるようになってきた。問題は、後天的にもしくは不幸にもただのバカという場合だ。
そういう人の場合、一応教育で是正できるだろうという期待はあるのだが、その教育は大凡理性的、知的なものとはかけ離れたところに位置することが多い。知的、理性的、社会的といった類の能力に問題がある者のための教育なのだから、これらを前提もしくはこれらに期待するようなことはしないだろう。つまりはそれは古来から『体に覚えこますこと』とか『しつけ』といった文脈で語られる物事に属することになる。
Explorer | Science of Babies | National Geographic Channel
http://channel.nationalgeographic.com/series/explorer/3090/Overview
ヒトは他の動物と比べて、遥かに無防備で無力な状態で産まれてくる。それにも関わらず、そこから最初の一歩を踏み出すまでに、赤ちゃんは劇的な成長を遂げる。産まれる瞬間から二本足で立って歩き出すまでの約一年間、赤ちゃんに起きる様々な変化を、発達の経過に沿って検証した番組。
ヒトは一生の間におよそ6億回(一分間に10回として、一日で1440回。100歳まで約36,000日として計算した物と推測)の呼吸をする。その中で最も重要で、しかし最も危険な、初めての呼吸。母親のお腹の中に居たときには母体から酸素が供給されていたけれども、一度産まれてしまったら、そこから先は自分で酸素を供給しなければならない。ほんの数分酸素が断たれただけでも、ヒトの身体は回復不能な障害を受ける。産まれた瞬間の赤ちゃんの肺は、羊水で満たされ溺れている状態。だから、産まれて初めての呼吸は、通常の呼吸の10倍から15倍の労力が必要となる。肺胞の隅々まで空気をみたしてやらなければならないのだ。この最初の呼吸によって、肺の中の水は血流に吸収されていく。
産まれるまでは母親の体温で暖められていた身体も、自分のカロリーを消費して体温を保つように切り替えなければならない。その体制が整うまでの期間、充分に体が熱を作れるように、新生児は熱に変換しやすい褐色脂肪を豊富に蓄えて産まれてくる。冬眠中の熊のように。
赤ちゃんが、今現在の成熟度と大きさで生まれてくるようになったのは、今から約800万年ほど前。他の動物と比べると、ヒトの新生児の頭は(身体との対比で相対的に)大きい。赤ちゃんが産まれてくるタイミングは、母親の骨盤の広さと新生児の頭部の成長との兼ね合いで、ぎりぎりくぐりぬけられる大きさになったときである。真っ直ぐには出て来れず、一度頭を90度回転して骨盤をくぐり、さらにまた90度回転して出口の骨を避けるようにして生まれてくる。
ヒトの赤ちゃんはとても無防備な、無力な状態で産まれてくる。他の動物、例えばサルと比べても、自立するまでに長い時間がかかる。ヒトに最も近縁のチンパンジーでも六ヶ月くらいで歩き始めている。そのようにかなり未熟な状態で産まれてくるにも関わらず、ヒトの新生児も生まれながらにある種の動物的な本能を備えている。それは生存の為に重要な反射運動であり、またある種、進化を裏付けるような原始的な反応でもある。
まだ歩くこともできない生まれたての新生児は、抱き上げて支えながらかかとを地面につけてやると、両足を交互に繰り出し、まるで歩き方を知っているような反応を示す。でも、その反射は六週間後には消えてしまっている。ところが、不思議なことに、水の中ではその反応が蘇り、そうして反応を誘導してやると、それ以降は消えることがなくなる(番組では、透明な浴槽の中に赤ちゃんを抱きかかえて下半身をつけてやっていた)。
他によく知られている生まれながらの反射運動には、次のような反応がある。
これらは、どれも動物の生存本能に共通する原始的な反応といえる。
赤ちゃんの考えていることを知るのは難しい。しかし、赤ちゃんの認知力の一端を覗く、いくつかの方法がある。ある研究者は、赤ちゃんが何か違和感を覚えた時に、対象物を凝視する時間が長くなるという現象に目をつけた。この時間を計測することで、赤ちゃんが何に気付き何を認識しているのかを探ることができる。その研究者は、新生児が数を認識する(簡単な足し算引き算の)能力を持っていると考えている。行われた実験はこうだ。まず、一つだけ置かれている人形を赤ちゃんに見せる。そこをついたてで隠して人形を見えなくしてから、そのついたての裏にもう一体の人形が入っていく様子を見せる。そして、見えない位置からこっそりその人形を取り去った後で、ついたてをおろす。赤ちゃんから見れば、そこには二つ人形があるはずなのに、一つしか無いという状況。そのような矛盾がある場合、なにもトリックを使わない場合と比べて、人形を凝視する時間が長くなる。二つの人形を見せて、そのうちの一体がついたての後ろから出て行くところをみせたのに、ついたてをよけてみると人形が二体に残っているという引き算の矛盾にも、その反応が観察されることから、赤ちゃんは生まれながらに数の認識を持っているに違いないという話。
まだ自分で動くことのできない赤ちゃんにとって、飛び込んでくる外界の刺激はもっぱら光と音ということになる。聴覚は視覚よりも先に発達していて、お腹の中に居ても母親の声を聞き分けられるけれど、視覚は産まれてから外部の刺激を受けながら、徐々に発達していくもので、この段階ではまだぼんやりと対象物を捉えているにすぎない。
とはいえ、母体の中と比べて外界は刺激に溢れている。流れ込んでくる大量の情報を処理していく体勢を整えていく必要がある。ヒトの体には、約10億の脳細胞、神経細胞、ニューロンと呼ばれる情報処理に携わる細胞が存在する。これらが、外部から飛び込んでくる刺激を情報として捉え、ネットワークを構築していく。一つ一つのニューロンは、個別の電話機のようなもの。細胞間の情報は、シナプスと呼ばれるリンクを介してやりとりされる。最初は外界のあらゆる刺激がネットワークをフルに刺激していて、あちこちの電話機が絶え間なくなり続けているような混線状態。その中から、必要な連絡網だけが残るように、ニューロン同士が互いにリンクし合う相手を求めて競合している。この過程を可視化して映像に捉えた研究が紹介された。最初は筋繊維に複数のニューロンが繋がっているが、黄色と青色、色違いで染められた二つのニューロンがある筋繊維に連結しようとしている。最初はどちらも繋がっているように見えるが、この二つのニューロンは互いに競合し合って、最終的に一方の色に染められたニューロンだけが残るまでの過程が観察される。ニューロンネットワークが形成される様子が見て取れる。
未完成ながらも、ニューロンネットワークが成熟するに伴って、運動神経がやや発達してくる。頭を持ち上げたり、寝返りを打ったり、ものを掴んだりすることができるようになる。
野生の動物や鳥、昆虫などは、生まれながらに餌の捕まえ方や身の守り方を知っている。数を数えることさえ生得の本能だ。それが発揮できず、他者のケアが無ければ生きられない、ヒトの新生児は非常に未熟な状態と言える。そのような状態で産まれてくることは不利なことなのか、いやそうではない。生まれついての本能はそれ以上発展することがない。しかし、未完成な状態で産まれてくるヒトは、環境や経験から、より高次元の習性を構築することができる。これが学習する能力の特徴である。
学習して能力を獲得するのには適切な時期があり、その時期にきちんとした情報の入力とニューロンへの連結が行われないと、その能力は形成されない。使われない機能は失われていく。三ヶ月くらいの新生児は、各国の言語で微妙に異なるトーンを聞き分ける能力を持っているが、その後六ヶ月を過ぎてしまうと、一番身近な言語の発音を聞き取る能力だけが大きく発達していく(マルチリンガルに育てるためには、六ヶ月までにいろいろな言語を聞かせておけという理論の根拠はここにあるようだ)。
需要のない能力が失われていく話題に関連して。三ヶ月あたりで、目のレンズと視神経との連絡が完成する。この時期に、適度な情報が目を通して与えられることで視神経を構築する。ある赤ちゃんが片方の目のレンズに問題があることがわかった。このままだとその眼球からの情報入力がないために、ニューロンの連結に不備が生じてしまうということで、レンズの機能回復手術を行った。手術そのものは一時間ほどで無事に終わったが、その後の検査で、もう一方の健常な側の目に眼帯をした、なぜか。回復させた眼球を強制的に機能させ、視神経を発達させるため。
運動機能はさらに発達して、座ることができるようになる。つかまり立ちや、立ち上がるまでには至らなくても、ハイハイをして動き回れるようになり、行動範囲が広がる。ハイハイのスタイルには個性がでる。これは新生児それぞれの運動機能の発達状況は環境に依存するもので、成長に関してあまり重要ではない。この時期に最も重要な発達は、学習したことの再構築ができる柔軟性を得ること。自分から動き回れるようになって、取り巻く環境が劇的に変化する。外界からの刺激もさらに複雑なものになる。遭遇する危険も増える。座れるということは、バランスを崩して転ぶことができるということ。自分で動けるということは、溝に落ちたり、何かにぶつかったりできるということ。それなのに赤ちゃんには、届く/届かない、バランスが崩れる/保てるといった認識がまだ無いので、無鉄砲で失敗を繰り返すことになる。目標物以外に注意を払うことや、体バランスの取り方など、失敗の経験から、環境に適応していく脳の柔軟さが求められる。この時期の赤ちゃんの運動機能の発達を研究している様子の映像。何かを見つけてそれを取りにいくという動機で動き回るようになる。その間に溝などの障害があっても殆ど認知されていないで突き進む赤ちゃん。その過程で失敗を繰り返し、危険を回避するという学習の過程が認められる。
ニューロンネットワーク発達中の情報処理の取捨選択の別の例として、顔や表情の認識がある。ヒトやサルの顔写真を見せ、新生児の脳波の変化を測定することで、どのような違いを認識しているかを観察した。二ヶ月くらいまでは、人の顔のパーツの配置が乱れていても識別できない、三ヶ月くらいで、顔を顔として認識するようになる。この段階では、サルの顔写真一つ一つの個体の違いを区別している。しかし、六ヶ月くらいになると、サルの個体を区別しなくなっている。必要の無い情報処理の能力が失われている。代わりに、ヒトの表情の違い(喜怒哀楽)に敏感に反応するようになっている。
この時期の発達過程は、自閉症と関連づけて注目される。孤児をケアする施設で研究されている内容。一般的な家庭環境と比べて、この時期に人の表情に接する機会が少ないと、表情を識別する能力の発達に影響が出る。他者の感情を表情から読み取ることが難しいという自閉症の特徴に関わっているかもしれない。
運動機能の成熟、ニューロンネットワークの成熟、言語の獲得とそれに伴って起きる変化。
言語の獲得には多大なリソースを割くので、使われない能力はより顕著に消失していく。生後十二ヶ月で約40個の言葉を認識し、さらにその一ヶ月後には100個まで増えている。
ある新生児の言語獲得の記録。全ての部屋にマイクと天井から見下ろす魚眼カメラを設置して、起きている間の赤ちゃんの行動と言葉を発していくまでの過程を観察した映像。馴染みのあるモノや身近な者を通して、言葉やフレーズと対象物やイベントとをリンクさせようとする。新生児がある対象物を認識してBa、 buh、Dahといった発声をするようになる。それに対して親がDad、Ballなど、はっきりとした言葉でリピートしたり、Blue ballという形で発展させたり、あるいは動作や行動と組み合わせてフレーズで返したりする。フィジカルなイベントとソーシャルなイベントの関連づけが、言葉を学習していくプロセスである。
新生児が言葉を学習する過程を分析して、学習するロボットの開発に取り組む人たちの紹介。ロボットに「赤色」の「ボール」を取ってと指示するがロボットには対応できない。絶えず変化する状況にも対応できる学習する能力の柔軟性をいかに獲得させるかが鍵。
運動機能だけでなく、骨格も充分に発達して、肩幅も広がり、足も伸びて、筋力もついてくる時期。ここに至って、頭を持ち上げての二足歩行、つまり歩き始める準備が整う。
四本足で歩く動物はその移動の為にカロリー(消費カロリー全体の?/摂取カロリーの?)の約50%を消費する。その観点でみると、二足歩行は移動に関して非常にエネルギー効率が良い。さらに、両手をフリーにすること、より大きな容量の脳を支えることができるという利点もある。このような点に二足歩行の意味がある。
赤ちゃんすげえ。という完全に私的な興奮から、自分が理解した内容の備忘録としてここを利用させていただきました。理解のあやふやな箇所がたくさんあるので、誤った記述が含まれている可能性はかなり高いです。特に言語獲得のプロセスに関する部分は未消化だという自覚があります。何ヶ月〜何ヶ月というのは、整理のための大凡の目安として個人的に捕捉したもので、これを一般化して赤ちゃんの成長を評価するものではないです。水中で歩行する話だとか、数を数えられるよという映像は、ちょっと観察手法の正当性に注意が必要な気がしました。赤ちゃんのリアクションが周囲の観察者の期待に影響を受けていたりはしないだろうかと(昔、計算が出来る馬の話のトリックについて聞いたことがあるので)。
ナショナルジオグラフィック NATIONAL GEOGRAPHIC.JP 赤ちゃんの不思議
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忘れるように努力しても、やっぱり忘れられなかったことを引き摺っていたことに気づき、忘れるために遠くに離れたのに、遠くにきて益々自分の中ではきれいな記憶になってしまったりしていて困る。
煮え切らない関係を数年続けて、仕舞いはあっさり訪れ、お互いその頃は何かに忙殺されていて、疎遠になり、何かの行き違いが重なり重なりついに連絡が途絶えたり、よそよそしい関係になった。
連絡に対して応答がなくなったときは、それはそれは落ち込んだ。それでも、もとより自分の手に負えるような女ではないと思っており、荷が重いと感じていたので、多少は安心した。
顧みるに自分の煮え切らなさ過ぎる態度は相手からすれば不安だっただろうし、ときには侮蔑のように感じたかもしれないし、勿論相手に成り代わることは出来ないので、実際の所は分からないのだけれど、きっとだれもがそのように感じる筈。こっちはこっちで生活の忙しさと、自分とは大凡釣り合いの取れないような人と、仲が良いから先に進んでしまいそうなことに不安とかその他を感じながら過ごしていて、何でこうなってしまったのだろうと自問を繰り返していたりした。
そうこうするうちに僕らは互いに年を取り、多くの人が世間に対してある程度を示すべき時期が近づいてきていたっぽい。それはそれはそつのない人間に見えるので、てっきりもう適当な相手を捜して、ある種の通過儀礼を済ましているものと推測しているのだけど、こちらと致しましては知人関係にその様なことはついぞありませんでしたと言って回っているので、相手の消息は知れず、憶測だけが募る日々。連絡先もうっかりなくしてしまってさてどうしたものかと考える物の、一方でどうしたものかと逡巡する。
思えば連絡が途絶えたのも、ある程度は自分が望んだことなので仕方がないのかもしれない。どう考えても此彼の差は大きく、何で俺なんですか、意味分からないですとか、お前と付き合うのは俺ではないとか、もっとマシな男を選べよとか思っていて、毎回会う度、これが今生の別れだと思っていたりもした。
一方で、その後思い出す度に、もう一度同じ機会があれば今度はもう少し上手くやれるのにと思ったりもする。女というのは好きと言わせたい生き物だというけれど、今なら上手くその仕掛けに乗れそうだ。
何でそもそもそう思うかというと、やっぱりということになるんだけど、その辺はありがちな言葉、つまり、自分に素直になれなかったとか、気づかなかったとかそのようなものを充てておいて、なので自分でも思い残した所があるのでということになるんであろうなあ。こんな無趣味で無教養なののなにが気に入られたのかはしれないけど、そしてそれはまた別の話。
そして、会いたいと思えば思う程、会うべきではないという思いもあり、もはやどっちに転ぶか自分でも予想がつかない。唯一今の状況に収まっているのは、周りの人間に連絡先を訪ねないからで、恐らく知っていたら今更どっかで会う約束を取り付けてるのだろうなあ。
そういうことで、どうしたらいいかさっぱり分からないし、相手の迷惑もあるのでなんともしがたいのだけど、増田さんならどうするでしょうかという話です。
陵辱ゲーを楽しむ女もいるから陵辱ゲーは女性差別ではない、と言いたいの?
後半の内容はあっていますが、前提が違います。
『陵辱ゲーを楽しむ女もいるから』ではありません。(それは単なるきっかけに過ぎません)
凌辱ゲーム自体は『物』であり、
『明らかな意図を持って特定の人間を傷つける・差別する事を目的としている』かどうかは定かではないから、です。
勿論制作元メーカーや楽しむ側にその意図が含まれたりするかもしれませんが、
物そのものに性格はないといっているんです。
(制作側に明らかな『世の中の(実在する)女性を辱めたい』目的があったのならある程度作品にそれが反映されるでしょうが、
それでもやはりその会社ごとに個別に対応すべき案件だと思います。十把一絡げにまとめるべきではない)
あと、『凌辱ゲーム』というそのカテゴリ自体にその意図が含まれていたとしても、
なぜ二次元のキャラクターをわざわざ『自分』に当て嵌める必要があるんですか。
ゲームの中のキャラクターは所詮ゲームの中のキャラクターであって、それ以上でもそれ以下でもありませんよ。
(あえて二次オタ的なツッコミをするなら
「2次元と3次元を同列に語るなんて(2次元に)失礼すぎる。俺の嫁をおまえらと一緒にすんな」でしょうか)
女性の中でも傷付く人、傷付かない人が両方いるのならそれはそもそも『性』差別などという括りなのか。
一部の女性が受け取った『不快感』を『差別』という言葉に置き換えているのではないか、ということです。
あと、セクシャルな描写は受け取り手の解釈の仕方で大幅に変化する問題ですから
『銃で撃たれる』のと『乱暴に犯される』事を同列に語るのは勘違いもいいところかと。
こういうことを平気で言う方は、何故世の中に
ドメスティックバイオレンスやジェンダーバイオレンスなんて言葉がうまれたと思ってるんでしょうね。
『愛情ゆえの過剰な行為』なのか、『愛憎』なのか、『単なる暴力行為』なのか、誰が判別するんですか。
まぁ大凡どれだったとしても、『内心の自由』で片付く問題ですが。
プレイするだけでは『内心に留まらない』とはいえないでしょう。