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メインセッション
「東アジア反日武装戦線」とその時代を振り返り、見えてくるもの
https://www.youtube.com/live/ouGKVPIWh9s?si=1pm7-RACXU1kcPQl&t=7782
(約3600文字)
青木理氏:
中核派はまだ組織があるが、東アジア反日武装戦線はもう組織がない。
桐島聡「さん」
田原牧氏:
(「戦線」ではないが過激派の?)裁判支援をしている友人がいた。
私は急に森田童子を思い出した。
荻上チキ氏:
「ぼくたちの失敗」('76リリース、'93「高校教師」主題歌)の。
田:
もっと物議を醸しそうな曲もあったが、そういう時代を思い出した。
荻:
田:
「戦線」は新左翼とは一線を画している。全共闘の一つのエッセンス。
60年代学生運動は日本の戦争責任に触れていなかったが、70年代から問題提起が出てきて「戦線」は愚直に受け止めた。
田:
60年代半ばから80年代半ばまでの運動では人の死が珍しくなかった。
運動も竹竿→ゲバ棒→火炎瓶→爆弾となり、'71には三里塚の東峰十字路事件で警官が3人、'72には連合赤軍事件もあり、最終的には100人以上死んでいる。
荻:
田:
(男子の大学進学率 '60 13.7% → '65 20.7%。'66に18歳人口が+50万人)
田:
東大全共闘のリーダーの山本義隆氏が、闘っているに自分たちの特権性に目をつぶって正義を説くことを批判した。(「邪宗門」の)高橋和巳は「自己否定」を唱えた。
田:
60年代半ばまでは日韓基本条約('65締結)反対闘争で、革新側も「韓国に払う金があるんだったら自分たちに回せ」などと平気で言っていた。大日本帝国の責任は問われなかった。
田:
入管法の制定反対で結成された新左翼系の華僑青年闘争委員会(華青闘)が、集会で「抑圧民族である日本人は信用できない」旨の「華青闘告発」を行い、日本の新左翼党派は頭を下げた。
田:
この自己否定の流れと「戦線」自体のアナキズム的な性格が合わさって、実力行使に繋がっていった。
荻:
今振り返った時代の前半、大学自治や学費問題から階級闘争、安保闘争、反米などとリンクして新左翼が広がっていく経緯は割りと学ぶ機会もある。
青:
戦後の一時期共産党は武装闘争路線をとっていたが、1955年の「六全協」で武装闘争を放棄した。同時期にソ連でスターリン批判が起きた。
共産党指導ではだめだということで(既成左翼ではない新左翼として)「革共同」や「ブント」が設立され、これらが中核派、革マル派、赤軍派などの母体となる。
全共闘は当初セクト(党派)ではなかったが最終的に合体していく。
青:
学生たちはベトナム、日米安保、三里塚など正義感や葛藤の中で行動していたが、69年の安田講堂事件の鎮圧以降急速に沈静化「敗北」していく。
このあとよど号、大菩薩峠、連合赤軍などの事件がおき、さらに爆弾事件と先鋭化してくる。「戦線」活動もこのころ。
田:
「戦線」は71年に興亜観音・殉国七士之碑爆破、72年に総持寺納骨堂爆破など、怪我人は出ないが爆破は始めていた。
青:
「狼煙を見よ」や「腹腹時計」から読み取れる「戦線」の特徴は、現在まで続く日本帝国主義の粉砕にある。
荻:
60年代学生運動は抗議主体だったが、その後日本の加害性を発見し、植民地支配の反省中で農村コミュニティや市民と共に暮らす実践などもあったが、「戦線」のような組織は反省と攻撃を結びつけて行った(とまとめた)。
青:
「戦線」の事件を肯定はしないが、アイヌ、在日コリアン、沖縄などマイノリティに対する問題意識を持っていたというのは現代にも通ずる普遍性がある。
また、従来型の新左翼とは傾向が違い、ストイックに日々の暮らしをしながら爆弾闘争をやった。
荻:
田:
また時代の流れが、新左翼を国家権力が「暴力」で鎮圧することへの対抗として、自分たちも武装する、という意識が強かった。
昭和天皇暗殺未遂、朴正煕暗殺未遂の文世光事件、「命がけで闘った文世光への呼応としての」意識、暴力で時代を切り開く意識があったのではないか。
青:
松下竜一「狼煙を見よ」によれば、お召列車爆破未遂でしょんぼりしていたときに同世代の文世光(22歳)が事件を起こした、あんなに頑張っているのに俺たちは何をしているんだ、と、三菱重工爆破事件につながった。
お召列車爆破用の威力の高い爆弾を使ったので8人の死者を出す大被害となり、大道寺将司は痛切に反省をした。
荻:
今の若い人からすると左翼=マルクス主義だというイメージが強い。
新左翼とマルクス主義の距離、「旧左翼」とマルクス主義の距離、「戦線」の立ち位置はどうか?
田:
新左翼の各党派はマルクス主義に基づく綱領や路線がある。一方「戦線」は党派ではない。マルクスは時代的に当然読むが、全共闘の学生たちと同様に倫理感から直接行動を起こした。先鋭化する人たちのほかに、水俣や山谷に行った人、本格化する前の部落解放闘争に行った人もたくさんいる。
荻:
分かりやすいイメージだと革命を成し遂げるための手段という印象があるが
田:
「戦線」は革命ではなく落とし前。国家権力の奪取にこだわらない。政治ではない。倫理であり生き方の問題。ある意味ものすごくピュアな人たち。
(CMと前半の振り返り)
荻:
この半世紀どうか。
青:
ドイツは戦争責任によって東西に分断されたが、アジアでは朝鮮半島が南北に武断された。沖縄はまだ(アメリカの基地である)。こういった日本の加害性をピュアに突き詰めたからこそ「反日」を冠した。
荻:
青:
皮肉。かつては東アジア人民連帯の「反日」だったのが全く反転してしまった。
青:
新左翼各セクトは「戦線」に批判的だったが、鈴木邦男など右派陣営の一部が「戦線」のストイックさ、(「大地の牙」部隊のリーダー男性の)齋藤和(のどか)の服毒自殺を評価している。こういう流れが新右翼のムーブメントを生んだ。
リスナー:
田:
将来構想はなかった。個々人の落とし前。三菱重工等々の被害者にしてみれば雑談じゃないという話だが、彼らの論理は日本国家の転覆まで。
太田竜という、世界革命、世界赤軍を唱えたイデオローグ(理論的指導者)は、第三世界の革命勢力と手を結ぶ、その基盤は日本の最下層の人たちだと言っていたが、今の我々の建設的な視点とは違う位相にいた人たち。
荻:
青:
ただ、当時から90年代までの、爆弾闘争や内ゲバに先鋭化していく中では、公安警察が肥大化してきたのは時代の必然。
今後は超法規的措置で釈放された大道寺あや子や佐々木規夫などの追跡は担っていくだろうが、徐々に任務縮小か。
荻:
そして、マルクス主義はなくなっても、性教育や性的マイノリティの権利保護や選択的夫婦別姓などをすすめる「文化的共産主義」と、その抵抗としての「反共」が繰り返し保守論壇で語られている。
青:
妄想だけれども、一方で、当時千差万別の人が新左翼運動に関わった、理論家から夢想家まで。ただ結末が先鋭化した隘路、陰惨な結末になったことが「壮大な失敗」と捉えられて、日本の左派というかリベラルへの大きなダメージ、マイナス面になっていると思う。共産党や左翼へのアレルギー。ヨーロッパでは緑の党や旧共産党が政治ムーブメントを作っているのに。
荻:
「理想を掲げることは無駄なんだ」というカッコつきのリアリズムの空気のようなものは残ったかもしれない。
田:
今は、世の中自分が何しても動かないという風潮が強いが、当時の若者には自分たちが世の中の主人公なんだという意識が強かった。「戦線」がやったことはともかく、戦争責任を唱えたことが認知されてその後90年代の河野談話、村山談話につながっていると思う。
荻:
振り返るというのは何を残したのかとつなげる行為でもある。
ど素人の目線から、別に徹底的に調べたとかでもなく、妄想とか主観込み込みだけど、考えを書いて衆目に晒してみたくなったため投稿をします。
ざっくりだけど昔からポケモンのコンセプトは「ポケモンを仲間にして、育ててバトルする」だったはず。
「ポケモンとの日常生活」はゲームの世界観補強・フレーバーテキストの扱いに留まっていた、と感じている。
そう感じている理由は、ポケモンはあくまで90年代に主流だったRPGというゲーム体系の「レベルを上げてラスボスを倒す」の流れを汲んだ上で、その変化球として生まれたと見ているため。
なんなら「モンスターを仲間にして戦う」というアイデアは、完全な初出がどこかはわからないけど確実に1992年に発売されたDQ5時点では存在したわけで、1996年発売のポケモンはその部分の面白さに着目してより膨らませたものという気もしている。
しかしゲームの技術が発展して、表現力と自由度が格段に上がって、ついにはオープンワールド系が出てきたことで、消費者の需要が拡大し、夢想も大きく変質した。
オープンワールドやMMORPGによってゲームの中に暮らせるようになった時、「ポケモンもこうあればいいのに」という潜在的需要が生まれてしまい、おそらく一部では知覚されていてそれ以外でも無自覚に存在したその需要が、今回ブラックジョークじみたインディーゲームによって掘り起こされてしまったんだと思う。
一方でポケモンのコンセプトは当初から変わらず「収集とバトル」で、オープンワールドにおいても広がった世界を巡る目的もおおむね各地にいるポケモンを収集することといろんな場所にいるトレーナーとバトルすることに終始している。
もしかしたらeスポーツの隆盛も関係して大会や対人戦、バトル方面を重視した施策を一層進めていったのかな…その辺は本当によく調べていないのでわからない。
とにかく、多分ポケモンは「収集とバトル」という昔からのコンセプトにすごく忠実に進んできていて、「ポケモンとのMMORPG的な日常生活」についてはNPCとの会話を飛び出して、ぬいぐるみやフィギュア、ポケモンスナップやポケモンGOやポケモンスリープなんかで実現してきたつもりだったんだと思う。
てか「世界のあちこちで自然な生態を感じさせて動き回るポケモンを仲間にしてバトルできて写真撮れて、あとトレーナーが自分の家を持って好きな家具とか置いてポケモンとそこで暮らして1000種いるポケモンにそれぞれの個性を活かしてリアルな暮らしの手伝いをしてもらい、他のトレーナーとも交換できたり一緒に暮らせたり交流できるゲーム」って開発何年かかるんだろ?
例のインディーゲームは0から考えずにあちこちからアイデアや手法を借用して、それでも3年かかっているんでしょう?しかも3年かけて100匹くらいしかいないんでしょう?
ポケモンがそれをやるのはなかなか大変だよ。
ましてポケモンは小中学生の大会とかも開いてて、大人に向けたそれと同じくらいに子供へのブランディングを大事にしている会社だし、
そんな24時間パソコンにへばりついてやりたくなるような夢のポケモンMMOゲームが子供向けかといったら決してそうとは言い切れないわけで、
あるいは時間をかけて頑張ってみんなに喜んでもらおうと思って何年もかけて作っている途中だったと思うな。
今どき社会経験のないニートでも「企業のものづくりには年単位の時間が要る」って知ってるだろ…
もしこの妄想が本当だった場合、企画をぐちゃぐちゃにされたポケモンの開発側はどんな気持ちだろうな
追記!
という意見を見かけて
「確かになんでポケモンと暮らす自由なオープンワールド的なものって今ないんだろう」
と思ってツラツラ書いたものです!
フェラチオ得意ですか?
と尋ね返すのはどうだろう?
たとえば隣家や同僚に年収を尋ねられないのと同じで性生活も尋ねることはできないですよね普通
ふたつ並べてみると、答えないと不誠実に感じるではありませんか
もはや男が稼いで女が家を守る時代ではないですよね
ふたりで良い家庭を築くことです
「フェラチオは得意ですか?」という質問に対する答えはたくさんのことがわかります
家庭を築くにあたって避けて通れないとてつもなく大事な性生活への取り組みがわかります
子供を何人欲しいといういにしえにあるクッション質問の答えにもつながりますが、相変わらず人間にとって大きな娯楽としてセックスがあります
子作りのためのセックスとふたりの仲を高めるためのセックスと快楽のためのセックス
それぞれの考えや思いがあります
年収は高いですが、勤務時間が長いとか、週に2日は帰ることができない、単身赴任があり得る、(家族揃って)転勤ありき、かように様々な業種や労働形態があります
「フェラチオ得意ですか?」と尋ねた場合にうれしい回答はなにか?と考えると案外千差万別ではないかと想像します
嫌いですという答えが返ってきても、これまでご相手された方には好評ですと答えがきても、それを受けていろいろと考えるじゃないですか
嫌いならばこれから上手に調教しようとか、あまりセックスに興味はないのかなとか
得意なら経験豊富だから満足させる自信がないからいやだなとか、ビッチなのかとか、あるいはその技を試したいから結婚したいと思うかもしれないじゃないですか
経験がないので下手ですが興味がありますでもいいし、好きじゃないしそればかり強要する元彼のお陰でトラウマですでもいい
それも年収を答えたあとの女の顔同様です
「どういう家庭を作っていきたいですか?」に匹敵するくらい千差万別であることでしょう
だから結婚する上でとても重要でいい質問ではないかと真面目に思います
お金持ちの男のねるとんパーティなどから流行らせて一般化するといいなと夢想しております
参照ネタ元 5ch 【たすけて】フェラチオ大好きな嫁もちの人【しんじゃう】
(ここの自慢が羨ましいし、とても幸せそうなのです)
気づけば、ずっと文章を書いていた。
初めは確か二次創作を書くようになって、そこから色んな小説を書いた。
集中力も想像力も足りなくていつも短い小説ばかりだったけれど、ネットで出来た友人とごくわずかな現実の友人たちは皆言葉選びが上手い、天才だ、涙せずにはいられないと絶賛してくれた。
国語の成績だけがずっとずば抜けて良くて、中学生の頃から模試を受けたら偏差値が70以上あった。他の教科は大体偏差値が30~45ぐらいでずっと先生に怒られていたから、私はもう一生国語だけ頑張って生きていこうと思った。
高校に進学する直前の春休み、私は国語漬けになれる日々に期待を膨らませ、ずっと夢想していた。
高校ではエッセイやらなんやらと色んな文章を書く授業が用意されていた。その授業で文章を褒めそやされて、たくさんの賞を総ナメにする。そして有名大学に進学して、安定した職を得る。その傍ら小説を書き、小説家として活躍する……そんな妄想だった。
しかし、そんな妄想が現実になることはなかった。いつだって選考結果に私の名前はなかった。
そしてそんなことが数度繰り返された頃には、薄らと自覚していた。
私には様々な能力が足りない。
人を惹きつける書き出しを生む能力、書きたいことをまとめて取捨選択する能力、話を上手に展開する能力、そしてなにより独創性。私の文章は「よくある」の枠にいつだって留まった。
私が感じた喜びも、悲しみも、怒りも、孤独も、既に誰かが言葉にした後だった。私は誰かが既に言葉にした感情を継ぎ接ぎして、それっぽく見せるのが上手だっただけ。二次創作ですら大して売れずに燻っているのは、それっぽいだけで中身が伴っていないからだ。
こういうことをここで書く人間が、痛いと言われることを知っている。それでも書くことをやめられないから、やっぱり私は痛い。
名前が無いこの場所なら、自分が何者かになりたいなんて考えずに吐き出せると思った。でもそうでもないね。この文章が誰かの目に留まって、あわよくば色んなところで話題にあがればいいのになんて思ってる。話題にあがったとて、これを書いたのは私です!とか言ったら恥の上塗りをするだけなのに。
TRAに混じってトランスという盾を使って女性を叩きたいミソジニー男が多数存在するというのがまず1つ。
彼らはトランスがいかに女性の脅威となるかこちらがどれだけ訴えてもそれを無視し続けることによって自らのミソジニーを正当化している。
そして結論をはっきりさせておくよ。女性には「差別する権利」が本来存在する。そしてそれが家父長制社会によって抑圧されているのだ。
女性は男たちがオナニーしながら夢想するような心の綺麗な美しい存在ではない。そんなものを否定するのがフェミニズムだ。
ホモソーシャルの構成員たちは伝統的な「娼婦か従順な妻」の枠に閉じ込めて「女性はそんな汚いことをしちゃやだやだ!」と駄々をこねているだけなのだ。
女性にとっては、MtFのトランスジェンダーという生き物の実存そのもの、やつらが息をして日々女性の安心できる領域を侵犯しようとしていること自体が女性差別なのだ。
単に安心できる領域を侵犯しようとしているというからダメだということにとどまらない。繰り返すが「トランスジェンダーという実存」そのものが女性性への侵犯であり加害だ。
英語圏のフェミニズムでは”Sex is Binary"というスローガンがある。性分化疾患などの病気を抱えている方々でも彼ら彼女らは最初からはっきりとした性自認を持っていることは常識だ。
トランスジェンダリズムの名のもとに跋扈する変態たちはその原則に違反してエゴを膨らませたモンスターなのだ。
生物学はあなたのご機嫌をとらない。女性の領域は高貴で神聖なものであり、何人たりともそれを犯してはならない。
私達は、その尊厳を守る限りにおいて、私達の神聖な女性性を侵犯する獣を「差別する」権利がある。
ミソジニー社会では、差別するのは男の特権、女たちは男に仕えるか、聖人のように振る舞ってろという規範に縛られていた。これこそ家父長制の呪いだ。
もっとぶっちゃけて言っちゃうけど、私達は「マイノリティ」の中ではパワフルな存在だ。私達に聖人であれと要求するような規範などこの世にない。
どんなフェミニズムのテキストにも「どんな卑しい臭い生き物でも差別しちゃだめだよ!」などと書かれてない。
フェミニズムは抑圧された女性たちのための権利運動だ。汚い化け物に気を使ってやる必要もないし、そいつらのママでもなんでもない。
そしてなによりも女性にも言論の自由があることを忘れた?表現の自由、言論の自由はアニメ絵で自慰行為をしながら死んでいく男たちの特権ではないんだけど。
まず大体に於て、人間の空想も、一九四五年八月六日のバクダン以前までは、科学とトコトンのところまで、行っていた。
我々の祖先の無限の空想力といえども、その魔法、神通力、忍術のすべてをあげて、八月六日のバクダンを夢みてはいないのである。
夢みることができなかったのだ。
このバクダンに至って、そのエネルギーは、ついに空想をハミダシ、空想の限界を超えてしまったのである。
筑紫なる梅のオトドが雷となって落ちたところで、せいぜい千ポンドバクダンぐらいのことだろう。
筑紫一国、山の狸も、池のミミズに至るまで、ピカドンという一瞬に焼けてなくなるなどゝは、誰一人、夢想することも出来なかった。
空想の限界を超えるに至っては、これはもはや人間のものではなく、まさしく悪魔の兇器である。
それのもたらす被害は、当然利益よりも甚大であり、今日まで戦争がもたらした効能も、
この悪魔のバクダン以後は、ついに被害を上廻ることは出来ないであろう。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43143_31893.html
なんで共産主義にならないんだろうと思っていた疑問が徐々に晴れていった。
プロレタリアによる政治といっても、プロレタリアは一枚岩ではない。
弱者男性の議論でも指摘されていた、安定労働層も居れば貧困労働層もいる。
知識やスキルも違う。やはり、大なり小なり、権力勾配が生じてしまう。
労働価値説は作り手側の都合に終始していて、買い手の需要を見落としている。
たしかに現行の資本主義ないしは社会民主主義も、格差の拡大や経済成長の停滞といった課題がある。
が、だからといって共産主義を夢見るのは、何か異世界に転生出来たらいいのになあという夢想的願望なのだろう。
現実と理想の間をステップバイステップで地道に埋めていく作業をしてくれていたのが、いわゆる社会民主主義思想の人々であったのではないか。
それでもいまだ道のりは長く険しそうであるが。
相変わらずジェンダーがどうとかつまらない話が多いので、過去の用例から「奥さん」あるいは配偶者呼称についていろいろ考えたいなあ。と思って書きます。
勿論、女中などに似ようはないと、夢か、うつつか、朦朧と認めた顔のかたちが、どうやらこう、目さきに、やっぱりそのうつ向き加減に、ちらつく。従って、今声を出した、奥さんは誰だか知れるか。
それに、夢中で感覚した意味は、誰か知らず、その女性(にょしょう)が、
「開けて下さい。」
と言ったのに応じて、ただ今、とすぐに答えたのであるが、扉(ひらき)の事だろう? その外廊下に、何の沙汰も聞えないは、待て、そこではなさそう。
「ほかに開ける処と言っては、窓だが、」
さてはまさしく魘(うな)された? この夜更けに、男が一人寝た部屋を、庭から覗き込んで、窓を開けて、と言う婦(おんな)はあるまい。(「沼婦人」泉鏡花、1908(明治41年)
「奥さん」は、自分の配偶者というより既婚女性に対する敬称として用いられています。「女中などではなく」自分が夢想する上流階級を思わせる女性(奥さん)が誰か分からないが、夜更けに訪ねてきた「女性(にょしょう)」は普通の「婦(おんな)」ではないだろう……という流れですが、この呼び分けは、日本語代名詞の豊かな言語世界を垣間見せてくれますね。
「奥さん」という語がめちゃくちゃ出てくる小説と言えば、やはり夏目漱石「こころ」(1914(大正3年))でしょう。前半では「先生」の妻である静さんの呼称として、後半では先生が青年期に下宿していた、静さんの母親の呼称として「奥さん」が登場します。この作品は、一人称の語り手による手記の体を(前半後半とも)取っているため、固有名詞を避ける書き方をしており、その結果であると思われます。
私はすぐ玄関先を去らなかった。下女の顔を見て少し躊躇してそこに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまたうちへはいった。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。
「奥さんらしい人」という表現から、「奥さん」が「配偶者」の意味で用いられていることが感じられます。ただ、自分の配偶者を呼ぶ呼び方ではないですね。
私の知る限り先生と奥さんとは、仲のいい夫婦の一対であった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論わからなかったけれども、座敷で私と対坐している時、先生は何かのついでに、下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静(しず)といった)。先生は「おい静」といつでも襖ふすまの方を振り向いた。その呼びかたが私には優しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子もはなはだ素直であった。ときたまご馳走になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間に描き出されるようであった。
「こころ」は新聞連載ですが、奥さんの初登場は先の連載4回目、その後奥さんと先生(夫)の重要なシーンである第8回を経て、この第9回で初めて名前が登場します。この作品、先生を訪問してきた「私」と奥さんが共に食卓を囲むシーンなどが多くあり、この夫妻は大正当時の一般的な夫婦関係よりも幾分現代に近い感じで描かれているように思います。
次は、「先生」が若いころ、その奥さんの自宅に下宿をしたとき、奥さんの母親を「奥さん」と読んでいたというシーンの引用です。(中略があります)
それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷の士官学校のそばとかに住んでいたのだが、厩(うまや)などがあって、邸(やしき)が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人で淋しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人(びぼうじん)と一人娘と下女より外にいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極好かろうと心の中に思いました。
(略)
私は未亡人に会って来意を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て差支えないという挨拶を即坐に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、また判然(はっきり)した人でした。私は軍人の妻君というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性でどこが淋しいのだろうと疑いもしました。
(略)
私は未亡人の事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます。奥さんは私を静かな人、大人しい男と評しました。それから勉強家だとも褒めてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。
「上さん」「未亡人」「妻君」「奥さん」は全て同じ人物を指していますが、それぞれの場所でニュアンスが異なることが分かります。それぞれ「下宿屋の女主人」「(夫を亡くした)配偶者」「配偶者(尊称)」「既婚女性(尊称)」くらいに捉えるのが適切でしょうか。
そういうわけで、私たちは家の主婦を奥さんと呼んでいました。下宿屋のおかみさんを奥さんと呼ぶのは少し変ですが、前にも言う通り、まったく上品で温和な婦人で、どうもおかみさんとは呼びにくいように感じられるので、どの人もみな申合せたように奥さんと呼び、その娘を伊佐子さんと呼んでいました。家の苗字は――仮りに堀川といって置きましょう。(「白髪鬼」岡本綺堂、1923(昭和3年))
…「下宿屋のおかみさんを奥さんと呼ぶのは少し変」という言語感覚から、「おかみさん」「奥さん」の使い分けがくっきりと見て取れて面白い用例ですね。この話は、発表は昭和ですが、岡本綺堂は明治生まれですし、物語内時間は10数年前(つまり震災前)という設定ですから、言語感覚としては漱石の少し後、大正期の中頃を反映していると言った方が適切かもしれません(まあ、それを言うなら「こころ」の場合、おおむね時代は明治期の想定と言えそうですが。)
昭和に入ると、「奥さん」が配偶者を指す呼称としてライトに用いられ始めたように思います。太宰はこういう言葉のちょっとしたニュアンスが本当に上手な作家で、次の用例の言葉の使い分けは非常に印象的です。
「奥さま、もうすこしのご辛棒しんぼうですよ。」と大声で叱咤しったすることがある。
お医者の奥さんが、或るとき私に、そのわけを語って聞かせた。小学校の先生の奥さまで、先生は、三年まえに肺をわるくし、このごろずんずんよくなった。お医者は一所懸命で、その若い奥さまに、いまがだいじのところと、固く禁じた。奥さまは言いつけを守った。それでも、ときどき、なんだか、ふびんに伺うことがある。お医者は、その都度、心を鬼にして、奥さまもうすこしのご辛棒ですよ、と言外に意味をふくめて叱咤するのだそうである。(「満願」太宰治、1938(昭和13年))
医者が、夫の体の静養のためにセックスを禁止して…というちょっとした掌編なのですが、最初の「奥さま」は、医者が患者の配偶者である若い奥さんに言い聞かせるときの呼称、医者の「奥さん」は医者の(やや年配の)配偶者のニュアンスで用いられていますが、地の文での「奥さま」と「奥さん」の使い分けで、雰囲気が表現されているのは実にうまいです。
最後に、呼称という点で、最初に見かけてこれは書き留めておきたい(ぶっちゃけこの記事を書くきっかけになった)のがこちら。
妻は水の引くように痩せて、蚊帳の中で死んでしまった。死ぬ前「今度奥さんを貰う時は、丈夫な奥さんを貰ってね」と言った。
「莫迦、お前が死んだら俺は一生独身でいるよ、女房なんか貰うものか」
彼は妻の胸に涙を落しながら言った。その涙をふいている内にふと俺は嘘を言ってるのかも知れないと思った。
しかし、妻が死んでしまうと、彼は妻に言った言葉を守ろうと思った。死んだ人間に対しては、もう約束を守るよりほかに何一つしてやるものがないのだと思った。
この3つの呼称の呼び分けを、代名詞が豊富でない文化圏の人にどうすれば伝えられるだろうなあ、と思ったりします。
さて、蛇足ながら、このエントリを書いた理由について。呼称、代名詞というのは、時代によって変遷し、人の心を映すもの。だから、いろいろな意見や議論はあっていいと思いますし、そもそも言葉が時代のジェンダー観を反映するというのは、取り立てていう必要もないくらい当たり前のことではありますが、そういった、人々の内心の方を変えるのが面倒だからといって、言葉の方に罪を着せるようにして言葉狩りじみたことをするのは、正直「違うんじゃないかなあ」と思います。人々の心が変化すれば、誰が強制しなくても言葉は廃れ、変化していきます。〇〇という言葉を使うな!なんて言わなくても、それが指す事象が消えたり変化したりすれば、あっという間に言葉は移り変わっていくものです。だから、変えるべきことを人々の総意に基づいて粛々と変えるよう努力するのが重要であって、「言葉狩り」みたいな遊びで何か大きな社会貢献を為したような気分になるのは、正直やめてもらいたいなあ、と思っています。そんな感じのことを感じていただけたのなら、この記事を書いた意味があったというものです。ありがとうございました。
謝り方がなってねぇんだよ(笑)
ジャップのフェミナチが謝らねぇ理由は「運動が1歩でも後退するのを嫌っている」からだよ。
解説してやろう。
「運動」ってなんだ?
社会運動は、社会を良くするための活動だ、なんておためごかし夢想家のバカの価値観に寄り添ってんじゃねぇぞカス。
「運動」ってのを生み出したのは「学生運動の過激派」、要するに「活動する共産主義者」共の活動に過ぎねぇんだよ。
共産党と過激派は手を切った、なんておためごかしを誰が信じてるんだよ。信じてるのは共産オルグされてるバカはてなー共と、運動に参加した結果アイデンティティ化しちまったツイッタラー(笑)だけじゃねぇか。
代々木盗聴は「バレたから問題」なのであって、三叉路で警官焼き殺したのを指示したのは代々木だったってのは、亀井が不破にぶつけた戯言な?
学生運動過激派共は、非を認めれば総括、活動に手抜かりがあれば総括、真面目さと詭弁だけが取り柄のバカジャップのアイデンティティをそのまま共産主義運動に乗っけたバカどもだ。
安保闘争の時に、岸をぶっ殺せなかった(首相官邸に突入して、岸以下警察官僚全員ぶっ殺せばよかっただけ)のがオマエラの運動の敗北だよ(笑)
まぁ、コレに関しては公安警察が活動細胞のレポ員を微罪で片っ端から逮捕してたから、頭脳と活動体の分断が成功したからなのであって。
(レポ員逮捕→活動体の指揮に入るしか無い→隠れ家を出たとこで逮捕→活動体は放置。むしろ破壊活動させて全部しょっぴくまで警察は決めていた。でも、岸だけは首相官邸防衛のために自衛隊を呼びたがっていた)
……とまぁ、敗北者だからこそ「今の運動を後退させてなるものか!」が謝れない正体だよ。
要するに、フェミナチ共は共産党の運動の流儀をそのまま継承しているの。勿論オルガナイザーやメンターは何も言わないさ。でも、ルールは徹底している。
そりゃそうだ。これまで「運動」で「内々の実績」だけは作ってきたからな。「内々の実績(笑)」だけな。
要するに今のフェミナチ運動共は、「内々の実績(笑)=共産党の運動(笑)」としての価値に重きをおいてるから「謝罪なんか以ての外」なんだよ。
だって「敵」だもの。敵に謝るなんて、許されるわけ無いし、例え偽証だろうと「討つべき敵への攻撃」は「共産党とそのオルグされた連中の正義」でしかないからな。
つまりだ。
「ちゃんとした謝罪は、これまでの活動の導線を全部説明して、テメェが【謝ったら許されないドグマ】に毒されていることを示した上で、そうした【運動や活動と手を切って】本当の女性保護活動に立ち返ります」以外ねぇんだよ。
ブー。ちがいまーす
「猫であったら何でも大好き」
なんでーす
ほんでね、私が提唱する「年老いて猫化する」ってのは「人間性を失い、猫の形態をとる」ってことなの
まあ、認知症の老人なんかはほぼ人間性を失くしてるので、(わけのわからない)人間語を喋ったり箸やスプーンでご飯を食べたりすること以外は猫とほぼ変わらないのね
(トイレすらわからなくなって、その辺で粗相しちゃったりするんだから猫以下だけど)
そんなだから「元人間が猫(の形態)に変化しても名実共に十分猫らしいし、愛するに値する生き物になる」わけ
これが「人間の形態をとったまま人間性を失っていく」と、他の人間からの愛情は期待出来ない
極稀に仏みたいな人が無条件で愛してやることもあるけれども
極稀なんでね
実際は腹を痛めて産み、手塩にかけて育てた実の子供にすら毛嫌いされるなんてよくある話なんですよ
何なら殴られるし。ネグレクトもあるし
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共通点を分析し、辛口コメントをするというのは、面白い依頼ですね。私は以下のように考えました。
「将来を悲観していた」
某所某商業施設で客と従業員を切りつけ逮捕された高校生の言葉だ
将来を…悲観?
みんな計画を立ててそれに向かって努力したり、なんか良い未来を想像したりしてるけど
夢想してるのと変わらんのだよ
まあ、この高校生は「計画も立てられないし努力も出来ないし良い未来を想像することも出来ない」って状態なんだろうけど
でもそんな人間は山の様に居る(自分もそうだし。実際、高校生時分にそういった向日的な思考や生き方をしていなかったので現在の結果を迎えているわけだ)
学校の先生は忙しいだろうから、カウンセラーが教えてやらないと駄目だろ
(それを聞くかどうかは本人次第だけれども。しかし、カウンセラーは感受性が強い年代に対する言葉がけが出来る筈だよな?そうじゃなけりゃ居る意味が無いよな?)
学生ならば、授業を受けテスト対策をし受験対策をする。バイトしなくちゃならないやつはちゃんと働く。部活必須のやつもまあ義務だと思ってやる
ツレとの約束やSNSを覗いて情報を得たりするのは余力があったらやればいい
あと、「楽しい」と思うこともちゃんとやって欲しいね。その年で楽しいこと無い方が将来悲観してるよりも問題だわ
その中で「近い未来・遠い未来に対して良い想像が出来ない」ってなったら、どうしてそういう認知状態なのか、歪んでいるんじゃあないかと疑って自分で色々調べろ
そして認知の歪みを矯正し、「マトモ」な人生を歩める様に自分を設定するんだ
現代はネットにそういった情報が溢れかえっているんだからな。真実なんて分からないとしても、何かしら心に響くものも転がっているものだ