はてなキーワード: 多項式とは
理想的な量子コンピュータが作れたとしても、既存のコンピュータでできることの全てが速くなるわけではない。
量子加速が効くアルゴリズムは非常に限られていて、加速されるアルゴリズムであっても指数的に加速するものはさらに少なく大半は多項式加速に過ぎない。
多項式程度の加速だとデコヒーレンスやノイズにかき消されて優位性が消滅しがち。
そして量子計算は原理的に出力が確率的(ヒストグラム)にしか得られないので、厳密な計算が必要となる状況では使えない。
(なお「理想的な量子コンピュータ」を作れる見通しは現状全くなく、原始的な量子誤り訂正をどうにかこうにか実装しようと苦労してる段階)
海外のソースを参照して、運動方程式における因果性について調査しました。以下にその結果をまとめます:
以上の情報から、運動方程式における因果性は、その理論や文脈によって異なる解釈が存在することがわかります。したがって、具体的な状況や問いによって、適切な理論や解釈が変わる可能性があります。¹²³
(1) Causality in gravitational theories with second order equations .... https://arxiv.org/abs/2101.11623.
(2) Causality in gravitational theories with second order equations .... https://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevD.103.084027.
(3) [quant-ph/9508009] Nonlocality as an axiom for quantum .... https://arxiv.org/abs/quant-ph/9508009.
(4) www.repository.cam.ac.uk. https://www.repository.cam.ac.uk/bitstream/handle/1810/319156/causality.pdf?sequence=1.
(5) undefined. https://doi.org/10.48550/arXiv.2101.11623.
(6) undefined. https://doi.org/10.1103/PhysRevD.103.084027.
定数係数回帰数列が無限に多くの 0 を含むかを判断するアルゴリズムは存在し、もし無限に多くの 0 を含むのであれば、漸化式の特性多項式の根の代数的性質に基づいて、0 の位置の「分解」を周期的な部分列として示すことができる[3]。スコーレム問題の難しい部分は、0 が有限個である(したがって周期的でない)場合に、0 が存在するかを判定する部分で
ま、そんな冗談は置いといてオレ、すきなこ
いるんですわ。もちろん女の子ね(当たり前だろw)何で好きになったかって体育の時、理由は分からないけどその子見学してたんすわ。その時にちょっと苦しいのかお腹ぎゅってしててその姿がめちゃくちゃかわいいんすよ。で、べた褒れってわけなのだwでもまだ
あんまり話はできてないけど…(´- ̯-`)ま、今度話しかけてみるっす勇気出して
、んで本題なんすけどねオレ最近他言語にハマってるんすわ。しかも、めっちゃマイナーな言語(ズール語とかミゾ語とか)そん中でも一番好きな言語がスロバキア語なんすよ。でもまだ単語単語しか覚えてないけど(日本語も怪しいからだろw)でもスロバキア語って
ちょーかっこよくないすか?例えば聖者→ svätýとか 破壊→ zničenieとかめっちゃ気に入ってるんすよ!学校に持ってかない秘密のノートとかもうその単語ばっかりメモしてるwこんなかっこいいなら好きな子に教えたいとかならないすか?最初はこう、簡単な単語からあたふた教えていってでも「Páči sa mi to」ってのだけはなかなか教えないでいてある日突然耳元で囁くんすわ「好きって意味」だって。くーめっちゃたまらないのだ!あ、その子ことなんすけどめっちゃ見た目かわいい
系ですわ。プライベートなんか口紅してるんすよ!ブランドのバック持ってヤバくないすか??しかも、多分虫歯もないみたいで、歯医者の待合室で偶然会ったことあるんすけど
「今日は検査だね」って受付が言うと「はい」ってにこやかに微笑んでたんす。もう、めっちゃ羨ましい!あれっすね、昔の流行語に「貧乏人は麦を食え」ってあるじゃないすか。
彼女は貧乏でもないし麦じゃなくて愛情をたくさん食べてるんすね!だからオレも告白して愛情たくさん食べてもらいたいっす!阿諛なんか使わない様にしてるけどあの子の前だったらついぽろっと口にしちゃうっす!
ここ数日ブクマでも増田でも散々掘られているように、ソ連に端を発する共産党体制は「科学的」であり、党中枢が決定した具体的な仕様は「真実」とされ、その「真実」を下部組織が現実として社会実装する、観念論を奉じた完全な上意下達体制である。ニャこれはソ連も崩壊後のロシアも、今の中国でも日本共産党でも変わらない。下部構造で行われる議論は上部構造で尽くされた議論に完全に内包される。もちろん全ての議論は科学的であるから、建前で内包していることにして支離滅裂な呪文を書いてお茶を濁すにも限度がある。そして最高指導部だか書記長だかは知らんが、その人間組織のトップは共産党の御立派な理想に恐らく本気で忠誠を誓っている。
なれば普く共産党のやることなすことその御立派な理想と大枠で一貫性を持つ、ということになる。
しかし客観的に言って50年前100年前の御立派な理想など、そもそも生まれた当初は正しかったとて現実とは乖離してくる、いや人間社会の現実は露出度の低いセパレート型スクール水着を新しくフェチズムとして取り込むように意図を持ち明確であり科学的であり硬直したあらゆるものに適応しその意味を失わせるのである。しばし社会や競争環境について適応しないものは生き残れないと言われるのは単に一般的に言って競争は常に激化すると言っているのみならず、多項式の取る値を論じる上での定数項のように意味が薄いということも意味するのである。つまり共産党の科学的であり一貫性があり上意下達を旨とするその体制、その原理、その思想そのものが畢竟、時間とともに存在を失うことを決定されているのである。つまり共産党は真の共産党である限り滅ぶことが定まっているのだ。
余談だがこの硬直した理想主義体制の欠陥はソ連赤軍とその血を引くロシア連邦やウクライナ軍の弱さ、グダグダ感にも現れている。アメリカ実用主義は過程の正しさを重視しないから、末端が「反逆」しようが、上層部が現場に阿ろうが、官軍が敵方を虐殺する不公平な優位性を持つ戦闘を行おうが、勝てば官軍は勝つのである。明らかにその方が正しい。
いやだからさたとえば1=xって等式があるやん。これのxに対する解は明らかに1のみやん?
で、これの両辺を積分するとx=(x^2)/2+Cになるじゃん。これのxに対する解はその個数の時点で明らかに積分前と異なるじゃん?
等式で結ばれてれば両辺積分微分しても同値じゃない例になってるよなこれは。むしろ感覚的には等号で結ばれたものは両辺足しても引いても同じなんだから当然微積分しても同値だって感覚に陥ってそこで思考停止しがちだと思うけど(俺もつい先日までそうだった)。
で、変数分離形dy/dx=f(x)*g(y)は積分しても同値だからこそ、積分することによってf(x)を求めようとするんだよな。
この場合のf(x)やらg(y)やらは先の場合でいうxに対応してると思うんだ。
xに関する多項式の等式は積分すると同値性が崩れるから解も変わる。しかし変数分離形の等式はそもそも積分せずに解けないというのもあるが、積分しても解であるf(x)は変化しない、もっといえば積分前も積分後も等式を満たすf(x)は変化しないわけで、これは積分前後で同値性が崩れないからだよな。(逆に積分して同値性が崩れるならもうこのような等式を解く手法が無くなるともいえるが。)
追記:恒等式か方程式かの違いは考えなきゃいけなかったな。でも変数分離形って関数の方程式じゃないのか…?え、恒等式なの?あーもう頭ぐるぐるぱあだよ。
まあ純粋な数学的証明に挑むんでもないかぎりこのあたりの理解の欠如が誤った計算を助長するということもないから深入りするだけ馬鹿なんだろうけど。
数学書に書いてある日本語は全て完璧で論理的であるかような気がするが、たまには上記のようにしれっと面倒を避ける人間臭いところもあったりする。
上記の言葉は、複数回の微分や偏微分、微分形式などを説明するときに、微分する関数等が何回微分可能なのかをいちいち書き記すのが面倒だから、細かい説明を避けるために使う用語。数学書ではわりとよく出てくる。
でも私なんかは人間関係にこそ必要なだけ微分可能性(ある種の滑らかさ)を仮定して、そうであれば解析しやすい相手の心を数学のごとく計算して易々と生活したいものだと常々思っている。
例えば、相手の心が十分に滑らかであれば、ある時点で微分してテイラー展開できる。そうすれば、相手の心というあんな複雑な関数でも多項式で表せる。
まだ無限の多項式ではあるが、十分なレベルの項まで取れば後は誤差項として切り捨てられる。あんな面倒な相手の心というものが、こんな単純な式に落とせるなんて!
それが普段できないのは微分可能性が証明できないから。読者なんてまさにその典型例。微分可能性を仮定するあの言葉も、そんな叫びを隠したものなんだろうと私の心で思ったりする。
高校数学まで、「自然数」は正の整数を指すものとされているが、
大学に入ると、フォンノイマンによる自然数の構成法からの流れで、「自然数」は0を含む正の整数として扱われることが多い。
だから、論文で「自然数」という言葉を使うとき(そして、花文字の「N」を使うとき)は、
序文かどこかで、この論文ではどちらの定義で行くのか予め述べておかなくてはいけない。
これって面倒なことだと思う。本文を抜粋していきなり読むと、「自然数」の定義を間違えてけつまずく可能性がある。
そもそも、論理性が大事な数学という学問において、なんでこんな曖昧な単語が残っているのか不思議だ。
なので、境界となる数を含むかどうかで「0を超える」「0以上」と言い分けるように、「自然数」という言葉自体も2つの言葉に分けるべきだと思う。
しかし、「0を超える整数」は「正の数」と呼べばわかるのに対し、「0以上の整数」は「自然数」以外の、それこそ自然な呼び方が思い付かない。
最高次係数が1である多項式のことを「モニック多項式」と呼ぶのだが、
この「モニック」に対応する日本語訳をいまだに見たことがない。いまだに、外来語+漢字の組合せで呼ばれている。
ちなみに、「最高次係数が1である」場合を特別に扱うのはn次方程式からの流れ。
最高次係数で左辺・右辺を割ってしまえば、方程式では最高次係数が1の場合だけ考えれば十分であるため。
そんな中学生でも理解できる単純な概念なのに、しっくり来る日本語訳が無いのが不思議だ。
元増田です。
能動的行動/受動的反応 という言葉は、説明せずに使うには雑な部分があって、それを「一次創作(オリジナリティ)/二次創作」に対置するには、かなり間を埋めないとならなかったですね。反省。もうちょっと詳細に書き下したいと思います。
という2変数の式を想定しました。同人的二次創作においては、キャラクターは既知のもの、いわば流用物であり、さらに学園パロなどであれば、シチュエーションも流用物なんですね。この、「だいたいのものが流用物で出来ているつくり」が、ある種の巨大コンセンサスへの従属性を帯びる要件だと思うんです。
実際の創作(一次・二次を問わない)においては、式が2項で出来ているなんてことはなく、
と、変数は多数あるわけですが、この多項式におけるオリジナリティ成分の占める率が高まっていけば、一次創作と見なされる成分も増していくのかなと。そして、例えば、「オリジナルな世界で、オリジナルな物理法則が動き、オリジナルのキャラが動く」のであれば、それはもはや「キャラクターのリアクション=反応を描写する二次創作」ではなく、「キャラクターがアクションする=行動する舞台すらまとめて整える一次創作」みたいに(私には)感じられる。逆側から言い換えると、反応の根拠たる外的要因もすべてオリジナルで用意してようやく、「キャラクターが能動的に行動した」と言えるだけの一次創作性を獲得できるのではないか。
逆に、同人活動的二次創作においては、「原作から《ある程度》外れないこと」、すなわち、原作そのままっぽさをキープしていることが当然に重要で(だってファンアートだし)、だとすると、変数に代入するもののオリジナリティ成分を増やしすぎることは決して良いわけではないんですよね。したがって、多数の変数には、ことごとく「みんながよく知っている例のアレ」を放り込むほうが目的に添うわけです。繰り返しになりますが、学園・現代・閉じ込めてみた・幻想郷シリーズなどはシチュエーション変数によく利用されます。
大多数の変数を流用物にすることで巨大コンセンサスへの従属性が形成され、その「従属性」は、主たる原作が外部に存在することを暗に示すことができます。だったら、同人的二次創作においては、従属性はむしろ持っていたほうが良いものであり、オリジナリティ成分の導入は控えられるでしょう。仮にオリジナリティを導入する場合はある程度まじめに筋道を立てて創作しないと、ただ原作から離れて好き放題やっただけだわ、となり、それはファンアートではなくなるので。
……とここまでくると、言及しなきゃならないのは昨今隆盛の異世界転生ものですよね。異世界転生ものでは、上の式の「大シチュエーションA」の部分に共通性があることから「異世界転生」ジャンルというものが確立するに至ったわけですが、だからこそ、「どんな異世界なの?」「主人公の個性(活躍できる分野)は?」という変数にはタフな固有性=ユニークさ(=オリジナリティ成分)の導入が必要になってくる事情があるように見えます。
あらためて、「双方を含む一次創作も二次創作もあっていいしあるんだけど、最低限要求されるのはそれぞれ違う」という文に答えると、
という感じでしょうか……
書いてみて思いましたけど、二次創作アレヤコレを語るのって、言葉の定義の定め方や設計がめちゃ大変ですね。書き下しがうまくいってますように。
公理から初めて論述によって命題を示すという手法は現代数学の基本
ユークリッド幾何学では厳密な論証を学ぶことができる
もしユークリッド幾何学を学ばなければ抽象代数学などが理解できなくなることは明らか
微分積分などだけを教えていると群論やガロア理論などが理解できなくなってしまう
ガロア理論では作図が主に扱われるからユークリッド幾何学応用になっている
ユークリッド幾何学はまず中初等教育において論述を教える題材として適している
代数などはただの計算であって厳密ではないがユークリッド幾何学は公理から始めて曖昧さなく命題を示す
これは現代数学の基本であって群論やガロア理論を学ぶ際に必要な能力
代数では多項式とは?集合とは?などが厳密に説明されていないがユークリッド幾何学には曖昧さは無い
ユークリッド幾何学が扱う題材は図形であって初等教育にも馴染みやすい
現代数学を厳密に展開するには公理的集合論まで遡らねばならないが
このような条件を満たす単元は他には無い
群論やガロア理論などの抽象代数学はユークリッド幾何学の考えを継承している
これらが確立されたのは18世紀であり微分積分などはそれよりも大分昔の理論だから厳密性がない
ユークリッド幾何学は現代数学のモデルであるから論述を教えることができる
群論やガロア理論は対称性を扱う数学で対称性とは回転や相似変換などの一般化だから
やはりユークリッド幾何学を学ぶことは群論やガロア理論を学ぶことに役立つ
特に群論では、群の正規群(特異点を持たない群)による商で対称性を分類する
この割り算にはユークリッドの互除法のアルゴリズムを用いることができるからユークリッド幾何学の応用になっている
群論の一部であるリー群ではユークリッド空間の回転である直交群を扱うからこれもユークリッド幾何学が直接役に立つ
ユークリッド幾何学では公理系から始めて命題を証明するがこれは現代数学の基本
群論やガロア理論もこのスタイルを継承していてユークリッド幾何学を学ばないと抽象代数学が理解できない
ガロア理論はユークリッド幾何学と同様に、対称性の公理から作図可能性を論ずる
これはいくつかの公理から始めて可能な手順の組み合わせを厳密に論述することで様々な図形を作図していく
ヒルベルトが提唱した円積問題などもこの応用であって、現代数学において極めて重要
ユークリッド幾何学は公理から始めて論述のみによって命題を証明する
これは現代数学の基本であってガロアの理論やヒルベルトの理論などがその手法を受け継いでいる
ユークリッド幾何学をやらないと抽象代数学などを理解できなくなってしまう
ここでいう「ユークリッド幾何学」とは、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの解析的手法を用いないいわゆる総合幾何学のことです(*1)。2020年8月現在の高校数学のカリキュラムでいえば、「数学A」の「図形の性質」に該当する分野です。
ユークリッド幾何学が不要だと思う理由は単純明快で、何の役にも立たないからです。大学に入って、「補助線を引いて、相似な三角形を作って~」とか「コンパスと定規による作図」みたいなパズルゲームをやることは絶対にありません(*2)。これは常識で考えても分かると思います。たとえば工学の研究で、ある物体の弧長や面積などを測定しなければならないとして、ユークリッド幾何学の補助線パズルが適用できる多角形や円などしか測れないのでは話になりません。一方、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの手法は一般的な現象を記述する上で必ず必要になります。
もちろん、たとえば三角比を定義するには、「三角形の内角の和は180度である」とか「2角が等しい三角形は相似である」といった初等幾何学の性質が必要になります。そのようなものを全て廃止せよと言っているわけではありません。しかし、高校1年生で習う余弦定理:
を証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学の問題は解けます。それ以降は、ユークリッド幾何学的な手法や問題設定にこだわる必要はないと思いますし、実際それで問題ありません。
現状、少なくない時間がユークリッド幾何学に費やされています。数学の1単元を占めているだけではなく、その他の単元にもユークリッド幾何学の発想に影響された例や問題が多く登場します。たとえば、複素平面において4点の共円条件や垂直二等分線を求めさせる問題など。そして最も労費されているのは生徒の自習時間です。以前よりマシになったとはいえ、大学入試等には技巧的な図形問題が出題されるため、受験生はその対策に多大な時間を費やしています。
高校数学では以下のような事項が重要だと思います。ユークリッド幾何学を学ばせている時間があったら、このような分野を優先的に修められるようにすべきです。
これらの分野は数学の手法としても非常に強力ですし、大学以降で数学を学ぶ際、現実的な問題を数学や物理の問題として正確に記述する際に必ず必要になります。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で応用されるとしても、微分積分などと同レベルに重要だと真剣に主張する人っていらっしゃるでしょうか?
ユークリッド幾何学を初等教育で教えるべきだとする根拠には、大雑把に言って以下の4つがあると思います。
まず①は明らかにおかしいです。ユークリッド幾何学に限らず、数学のあらゆる命題は証明されるべきものだからです。高校の教科書を読めば、相加平均・相乗平均の不等式、点と平面の距離の公式、三角関数の加法定理、微分のライプニッツ則や部分積分の公式など、どれも証明されています。そもそも、数学の問題はすべて証明問題です。たとえば、関数の極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であるかそうでないかを定義や既知の性質に基づいて示す必要があります。したがって、ユークリッド幾何学だけが特に証明の考え方を学ぶのに有効だという理由はありません。
②もおかしいです。図形問題を扱うのはユークリッド幾何学だけではないからです。ベクトルや微分積分でも図形問題を扱います。たとえば、三角形の5心の存在や、チェバの定理、メネラウスの定理などはベクトルを用いても容易に示すことができます。また言うまでもなく、曲線の接線は微分で求めることができ、面積や体積は積分で求めることができます。また、ユークリッド幾何学の手法は問題ごとに巧い補助線などを発見しなければいけないのに対し、解析的な手法は一般に方針が立てやすく汎用的です。したがって、図形問題を扱うのにユークリッド幾何学の手法にこだわる理由はありません。
③は単なる個人の思い込みであり、科学的な根拠はありません。そもそも、数学教育の目的は「地頭」などを鍛えることではなく、「大学や実社会において必要な数学の素養を身につけること」のはずです。また、これも上ふたつと同様に「ユークリッド幾何学以外の数学では、『数学的直観』などは鍛えられないのか」という疑問に答えられておらず、ユークリッド幾何学を特別視する理由になっていません。
④もおかしいです。そもそも「歴史的に重要である」ことと「初等教育で教えるべき」という主張には何の関係もありません。歴史的に重要ならば教えるというなら、古代バビロニア、インド、中国などの数学は特に扱わないのはなぜでしょうか。もっと言えば、文字式や+-×÷などの算術記号が使われ始めたのでさえ、数学史的に見ればごく最近のことですが、昔はそれらを使わなかったからといって、今でもそれらを使わずに数学を記述するべき理由があるでしょうか。
数学で重要なのはその内容であるはずです。ユークリッド幾何学を擁護する論者は、「(表面的に)計算問題に見えるか、証明問題に見えるか」のようなところに価値を置いて、一方が数学教育的に有意疑だと見なしているようですが、そんな分類に意味は無いと思います。
大昔は代数の計算や方程式の解法(に対応するもの)は作図問題に帰着していたようですが、現代でそれと同様の手法を取るべき理由は全くありません。記述する内容が同じであれば、多項式や初等解析のような洗練された方法・重要な結果を導きやすい方法を用いればよいに決まっています(数学史家は別として)。同様に、ユークリッド幾何学も、解析的な手法で解ければそれでよく、技巧的な補助線パズルなどに興じたり、公理的な方法にこだわる必要はありません。
たとえば、放物線は直線と点からの距離が等しい点の軌跡として定義することもできますが、初等教育で重要なのは明らかに2次関数のグラフとして現れるものです。放物線を離心率や円錐の断面などを用いて導入したところで、結局やるのは二次関数の増減問題なのですから、最初から2次関数のグラフとして導入するのは理にかなっています。数学教育の題材は「計算問題か証明問題か」などではなく、このような観点で取捨選択すべきです。
三角比などを学んだあともユークリッド幾何学を教えたり、解析的な手法では煩雑になるがユークリッド幾何学の範疇ではエレガントに解けるような問題を出して受験生を脅したりするのは、意味が無いと思います。それは、「掛ける数」と「掛けられる数」を区別したり、中学で連立方程式を学ぶのに小学生に鶴亀算を教えるのと同様に、無駄なことをしていると思います。
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(*1)
現代数学では、n次元ベクトル空間R^n = Re_1⊕...⊕Re_nに
(e_i, e_j) = δ_i,j (クロネッカーのデルタ)
で内積が定義される空間上の幾何学はすべてユークリッド幾何学に分類されます。したがって、上にあげた座標空間、ベクトル、微分積分、一次変換なども敢えて分類すればユークリッド幾何学です。しかし、ここではその意味でのユークリッド幾何学が不要と言っているのではありません。飽くまでも、技巧的な補助線問題や、公理的な方法にこだわることが不要だと言っています。
(*2)
数学科の専門課程で学ぶガロア理論では、コンパスと定規による作図可能性が論じられますが、これは「作図問題にガロア理論が応用できる」というだけであり、「ガロア理論を学ぶのに作図の知識が必要」というわけではありません。
というより物理学からの必要に駆られた要請によって新たな数学の概念が切り開かれてきた。
したがって当然、物理を学ぶ際には現象そのものの理解とその裏に潜む数学的内容の理解が両輪となるのだが、
なぜだか日本の学校教育においては、この前提が上手く機能していない。
物理分野においてある現象を習ったその翌年に、ようやく数学分野において必要な概念が登場するといった具合だ。
具体的には、以下のようなものがある。
まあ大学まで来ると履修順もある程度好きにできるのであくまで一般的な例だが、それでも通常のシラバスでは上記時期に学ぶとされることが多い。
なぜこのようなことになっているのだろう?
はっきり言って物理が「公式の暗記ゲー」になっているのはほとんどこのすれ違いが要因だ。根本的に理解するための道具がないから、その結果だけを公式として先回りに輸入しているのだ。
単純に小学校低学年の段階で理科の履修時期を1年後送りにすれば済むと思うのだが、何か問題があるのだろうか?
(Appendix)
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/1356249.htm
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1384661.htm
ブクマ返し
確かにそこで知識として触れることになっている。ちゃんとやるのは中1だが、そこは誤解を招く表現だった。申し訳ない。
大学のカリキュラムはさすがに学校ごと、個人ごとに差が大きく、必ず上記の通りと言うつもりはない。しかしベクトル解析は通常1年次の微分積分学ではやらないと思う。
また一般的に、物理の履修が数学に先んじる傾向が大学でも続くという部分は、どの大学でもおおまかには認められると思う。
思ったより各校で工夫されているらしい。それ自体はとても好ましい。
だが基本は指導要領の通り教わっているものであり自分の教わり方が「例外的に素晴らしかった」ことは認識していただきたい。
必ずしも初学者が発見順に沿って学習する必要はないと思っている。
今の体系の中で、最もわかりやすい順番に並べ直すべき。
それ自体に反論はないが、であれば上記のように物理内で微積を導入するなどして必要な数学を身に付けさせなければ意味がない。
たとえば等加速度運動の二乗公式を暗記させる必要は一切ないはず。
また、個人的には数学はそれ自体完結する学問だと思っているので、常に物理のために数学があるような受取り方になるとしたらちょっと良くない(個人の美学だが)
「物理の要請で数学が切り開かれた」というのは、そういう一事実があると言いたかっただけで「全ての数学が」というように受け取らせるつもりはなかった。
ここも誤解を招く表現でしたね。
たとえば、数学がまともにできる人で、(a + b)(c + d)の展開公式を覚えている人はいないだろう。分配法則を知っていれば計算できるからだ。そして、多項式に対して分配法則が成り立つことは(もちろん厳密に証明することはできるが)自然な感覚であり、これも覚える必要はない。
こんな自明な例に限らず、数学で何かを覚えることが、遠回りであり、本末転倒であることを説明する。
また、読解力の低い奴のために補足しておくが、「覚えなくていい」というのは「勉強しなくていい」ということではない。まあ、こういう勘違いをする奴らはこの一文自体読めないから無駄なんだが、少なくとも俺が「ここに書いてあるだろボケ」と言うための根拠にはなる。
無い。
「定義や公理は他の事実から導かれないので覚える必要がある」という意見があるが、間違いだ。
それは単に論理的に導かれないというだけであって、考えている問題に対してそのように概念を定義すべき理由は存在するからだ。
たとえば、複素数は実数係数の2次方程式の解として生じるからi^2=-1と導入するのは自然であるし、三角形は2角と1辺の長さが決まれば決定されるから三角比の定義は自然なものである。
そもそも、どのような経緯でそのような概念が導入されるのか理解することは、別に数学に限らず重要である。
無い。
数学の公式はすべて論理的に導出できるのだから、覚える必要はない。特に、高校数学程度の定理・公式などに大して証明が難しいものは無いのだから、瞬時に正しく導けなければいけない。
また、大抵の公式は、その意味が理解できていればいくつかの具体例で試せば分かる。たとえば、三角関数の加法定理は、cos(π/2+θ)とsin(π/2+θ)さえ分かれば求められる。
無い。
用語などはどうでもいい。
たとえば、平方完成という名前を知らなくても、二次方程式の解の公式の導出や、二次関数の極値問題が解ければ全く問題ない。
無い。
集合Kが2つの二項演算+: K×K→K、*: K×K→Kを持ち、以下の性質を満たすとき、Kは体であるという。
K, Lを体とする。K⊂Lとなるとき、LをKの拡大体という。L/Kが拡大であるともいう。もちろん、これはLの部分群Kによる剰余群のことではない。
C/Rや、C/Qは体の拡大の例である。K(X)/K(X^2)なども体の拡大の例である。
L/Kを体の拡大とする。任意のa∈Lに対して、K係数の多項式f(X)が存在して、f(a)=0となるとき、LをKの代数拡大体、またはL/Kは代数拡大であるという。
そのような多項式が存在しない元が存在するとき、LはKの超越拡大体、またはL/Kは超越拡大であるという。
なぜならば、任意のz∈Cはz = x + yi (x, y∈R)と表わせ、z* = x - yiとおくと、zは二次方程式
X^2 -(z + z*)X + zz* = 0
の解だから。
Kを体とする。K上の任意の多項式F(X)に対して、Fの根を全て含む体Lが存在する。言い換えれば、FはLで
と一次の積に分解する。このようなLのうち最小のものが存在し、Fの(最小)分解体という。Fの分解体はKの代数拡大体である。
LをFの分解体とする。Lの部分環Vを
K[X1, ..., Xn]→L (f(X1, ..., Xn)→f(a1, ..., an))
の像とすると、VはK上のベクトル空間である。各aiはn次多項式の根であるから、aiのn次以上の式はn-1次以下の式に等しくなる。従って、VはK上高々n^2次元の有限次元のベクトル空間である。
Vは整域であるから、0でない元による掛け算は、VからVへの単射線形写像である。したがって、線形写像の階数と核の次元に関する定理から、この写像は全射である。よって、Vの0でない任意の元には逆元が存在する。つまり、Vは体である。
Lは、Kと各aiを含む最小の体であり、V⊂Lなので、L=Vである。
さて、Lの元でK上のいかなる多項式の根にならないものが存在したとし、それをαとおくと、無限個の元1, α, α^2, ...は、K上一次独立となる。これはVが有限次元であることに矛盾する。□
L/Kを代数拡大とする。LはK上のベクトル空間となる。その次元をL/Kの拡大次数といい、[L : K]で表す。[L : K]が有限のとき、L/Kは有限拡大といい、無限大のとき無限次代数拡大という(上の証明でみたとおり、超越拡大は必ず無限次拡大である)。
M/K、L/Mがともに有限拡大ならば、L/Kも有限拡大であり、[L : K] = [L : M] [M : K]。
α∈Lとする。K上の多項式fでf(α)=0をみたすもののうち、次数が最小のものが定数倍を除いて存在し、それをαの最小多項式という。
[K(α) : K]は、αの最小多項式の次数に等しい。なぜならば、その次数をnとするとαのn次以上の式はすべてn-1次以下の式になるため、[K(α) : K]≦n。1, α, ..., α^(n-1)が一次従属だとすると、n-1次以下の多項式でαを根に持つものが存在することになるので、[K(α) : K]≧n。よって、[K(α) : K]=n。
Lの自己同型σでKの元を固定するもの、つまり任意のa∈Kに対してσ(a)=aとなるもの全体のなす群をAut(L/K)と書く。
任意の有限拡大L/Kに対して、#Aut(L/K) ≦ [L : K]。
L/Kを有限拡大とする。#Aut(L/K) = [L : K]が成り立つとき、L/KをGalois拡大という。L/KがGalois拡大のとき、Aut(L/K)をGal(L/K)と書き、L/KのGalois群という。
L/Kを有限拡大、[L : K] = 2とする。#Aut(L/K) ≦ [L : K] = 2なので、Aut(L/K)に恒等写像以外の元が存在することを示せばよい。
[L : K] = 2なので、α∈L\Kが存在して、1, α, α^2は一次従属。したがって、α^2 - aα + b = 0となるa, b∈Kが存在する。解と係数の関係から、α, a - α∈Lは、2次方程式X^2 - aX + b = 0の異なる2解。
α∉Kより、K⊕KαはK上2次元のベクトル空間で、K⊕Kα⊂LなのでL=K⊕Kα。
σ: L→Lをσ(1)=1, σ(α)=a-αとなるK線形写像とすれば、σは全単射であり、Kの元を固定する体の準同型でもあるので、σ∈Aut(L/K)。□
C/RはGalois拡大。
L/Kを有限拡大とする。任意のα∈Lに対して、αのK上の最小多項式が、Lで1次式の積に分解するとき、L/Kを正規拡大という。
L=K(α)とすると、L/Kが正規拡大であるのは、αの最小多項式がLで一次の積に分解するときである。
K(α)/Kが正規拡大で、さらにαの最小多項式が重根を持たなければ、αを他の根に写す写像がAut(K(α)/K)の元になるから、Aut(K(α)/K) = αの最小多項式の次数 = [K(α) : K]となり、K(α)/KはGalois拡大になる。
nを自然数として、ζ_n = exp(2πi/n)とする。ζ_nの最小多項式は、Π[0 < m < n, gcd(m, n)=1](X - (ζ_n)^m)であり、Q(ζ_n)/QはGalois拡大である。
L/Kを有限拡大とする。任意のα∈Lの最小多項式が重根を持たないとき、L/Kは分離拡大という。
体Kに対して、1を1に写すことで一意的に定まる環準同型f: Z→Kがある。fの像は整域だから、fの核はZの素イデアルである。fの核が(0)のとき、Kの標数は0であるといい、fの核が(p)であるとき、fの標数はpであるという。
F_2 = Z/2Zとする。F_2係数の有理関数体F_2(X)/F_2(X^2)は分離拡大ではない。
実際、XのF_2(X^2)上の最小多項式は、T^2 - X^2 = (T - X)(T + X) = (T - X)^2となり、重根を持つ。
L/KをGalois拡大、Gal(L/K)をGalois群とする。
K⊂M⊂Lとなる体Mを、L/Kの中間体という。
部分群H⊂Gal(L/K)に対して、L^H := {a∈L| 任意のσ∈Hに対してσ(a)=a}は、L/Kの中間体になる。
逆に、中間体K⊂M⊂Lに対して、Aut(L/M)はGal(L/K)の部分群になる。
次のGalois理論の基本定理は、L/Kの中間体がGalois群で決定されることを述べている。
L/KをGalois拡大とする。L/Kの中間体と、Gal(L/K)の部分群の間には、以下で与えられる1対1対応がある。
- H'⊂H⊂Gal(L/K)ならば、K⊂L^H⊂L^H'⊂L
- K⊂M⊂M'⊂Lならば、Aut(L/M')⊂Aut(L/M)⊂Gal(L/K)
- 中間体K⊂M⊂Lに対して、#Aut(L/M)=[L : M]。つまり、L/MはGalois拡大
- 部分群H⊂Gal(L/K)に対して、#H = [L : L^H]、#Gal(L/K)/H = [L^H : K]
- 中間体K⊂M⊂Lに対して、M/Kが正規拡大(L/Kは分離的なのでM/Kも分離的であり、従ってGalois拡大)であることと、Gal(L/M)がGal(L/K)の正規部分群であることが同値であり、Gal(L/K)/Gal(L/M)〜Gal(M/K)。同型はσ∈Gal(L/K)のMへの制限で与えられる。
K=Q, L=Q(√2, √3)とすると、Gal(L/K)はσ√2→-√2とする写像σと、√3→-√3とする写像τで生成される位数4の群Z/2Z×Z/2Zである。
この部分群は{id}, {id, σ}, {id, τ}, {id, στ}, {id, σ, τ, στ}の5種類があり、それぞれ中間体L, Q(√2), Q(√3), Q(√6), Kに対応する。
位数が有限な体のことです。
集合Fに二項演算+: F×F→Fが定義され、以下の性質を満たすとき、Fは群であるという。
Fの元の個数をFの位数という。
上に加えて、さらに次の性質を満たすとき、Fをabel群という。
Fが環であるとは、2つの二項演算+: F×F→F、*: F×F→Fが定義され、以下を満たすことである。
Fが環であり、さらに以下を満たすとき、Fは可換環であるという。
Fが環であり、さらに以下を満たすとき、Fは斜体または可除環であるという。
Fが可換環であり、斜体であるとき、Fは体または可換体であるという。
位数有限な斜体は、可換体である。(Wedderburn)
逆に、任意の素数pと自然数n≧1に対して、位数p^nである体が同型を除いて一意的に存在する。q=p^nとして、この体をF_qと書く。
有限体F_qの有限拡大はF_(q^m)の形。
これはすべてGalois拡大であり、そのGalois群はFrobenius準同型
φ_q: x→x^q
中学高校の数学から、いわゆるユークリッド幾何学は廃止してよい。理由は単純明快で、何の役にも立たないからだ。
大学に入ったら、どの学部に行っても、「補助線を引いて、相似な三角形を作って〜」などと言ったパズルをやることは絶対にない。メネラウスの定理を高校卒業以降(高校数学の指導以外で)使ったことのある現代人はいないだろう。こういうことは、別に高等数学の知識の無い高校生でも、常識で考えて分かると思う。たとえば工学で、弧長や面積を測定する機器が必要になったとして、補助線パズルが適用できるごく一部の多角形などしか測れないのでは話にならない。現代の数学および科学技術を支えているのは、三角関数やベクトルや微分積分などを基礎とする解析的な手法である。
もちろん、たとえば三角比を定義するには「三角形の内角の和は180°である」とか「2角が等しい三角形は相似である」等のユークリッド幾何学の定理が必要になる。そういうものを全て廃止せよと言っているわけではない。しかし、余弦定理まで証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学の問題は解ける。また、実用上もそれで問題ない。したがって、余弦定理を初等的な方法で示したら、ユークリッド幾何学の手法はお役御免でよい。
これらはいずれも、高等数学を学ぶ際に欠かせない基礎となる分野である。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で使われるとしても、いくらなんでも微分積分などと同等以上に重要だと主張する人はいないだろう。
現在、これらの分野は十分に教えられていない。微分方程式と一次変換は現在(2020年5月)のカリキュラムでは教えられておらず、ベクトルは文系の範囲から除かれ、代わりにほとんど内容の無い統計分野が教えられている。また、高校生にもなって、コンパスと定規による作図みたいなくだらないことをやっている。本当に、どうかしているとしか言い様がない。
ユークリッド幾何学を教えるべきとする根拠の代表的なものは、証明の考えに触れられるというものだ。つまり、代数や解析は計算が主体であるが、ユークリッド幾何学は証明が主体なので、数学的な思考力を鍛えられるというものだ。
しかし、これは明らかに間違っている。別にユークリッド幾何学の分野に限らず、数学のあらゆる命題は証明されなければならないからだ。実際、高校数学の教科書を読めば、三角関数の加法定理や、微分のライプニッツ則など、証明が載っている。そもそも、数学の問題は全て証明問題である。関数の極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であることを定義に基づいて示さねばならない。数学的思考力を養うのに、ユークリッド幾何学が他の分野より効果的だという根拠は無い。
それより、「モニック」に良い和訳を付けてくれよ。
最高次係数が1である多項式のことを「モニック多項式(monic polynomial)」と呼ぶのだけれど、こんな単純な概念なのに、未だに「モニック」に対応する和訳が無いんだぜ。誰か考えてくれよ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E5%A4%9A%E9%A0%85%E5%BC%8F