はてなキーワード: 多読とは
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https://twitter.com/Sakai_Sampo/status/1075996738756866049
ま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜た出たよSFファンの「えっ!? この作品を知らない人がいるなんて!?」マウンティングが。腐臭がする。そういう態度とるくらいなんだからSF老害おじさんにおかれましては日本古典近代戦前文学は言うまでもなく英米仏西伊独南米東欧文学の名作は当然読んでるしアニメ漫画ゲームの有名処は全部触れてるんですよね? どんな人でも絶対に「あの有名どころを読んでいない」なんてこと当然あるに決まってるだろ。SFの業界人がSFの有名どころを読んでなかったらそうも言われても仕方ないかもしれないが、共同リファレンスみたいな一般市民が普通の司書さんに質問した程度の案件でなんだその態度は。大体そもそも多読が可能かどうかって個人個人の特性によることが大きいから名作を全部おさえるみたいなのってできるひととできないにとが明確に分かれるだろ。SF語るのに1000冊読んでいる必要はないって口では言いながらこういう事例ですぐマウンティングしてくるからSF老害は信用ならねえんだよ死ね。
姉の話をする
初めに、俺は姉と二人姉弟で、年齢差は3歳差だ。
俺たちは自営業の親のもとに生まれて、今は親父の仕事を俺が継いでいる(とはいえ親父もまだ現役である)
近所の子供は両手に収まるくらいしかいない上に同級生は1人だけ。
そんな田舎で俺達は伸び伸びと成長した、と思う。
俺と姉は割と姉弟仲が良く、遊び相手としてはちょうど良かった。
姉はなんだかんだで弟である俺に甘く、喧嘩はすれど結局は譲ってくれることが多かった。
何かと姉の言動が鼻に付いたのだ。
姉は、弟の俺が言うのもなんだが、そんなに頭がいいわけでもなく(一緒に公文式をやっていた)、俺よりも字が汚く(同じ習字教室に通っていた)、俺よりも運動ができなかった(同じ武道をやっていた)。
言ってしまえば、姉が何かで表彰されるたびに、俺がその一段階上の賞をとってしまったり、身体能力を上回ったりした。
だから多分、当時の俺は見下していたのかもしれない。
姉の優しさに甘えて、姉の言動に一々噛み付いていた。
話しかけてくる姉に、苛立ち、ドジをする姉に虫唾が走り、それでも朗らかに笑う姉にどうしようもなく腹が立った。
その頃の俺は中学生くらいで、生徒会をやったり、部活をやったりと忙しく駆け回っていた。
一方の姉はといえば、第一志望の高校に落ちて、県立の進学校へと通い、中学時代は学年10位以内をキープしていたのとは反対に、学年のワースト10から数えたほうが早いという堕落しきった学校生活だったのだ。
だからそんな姉に、たぶん矛先が向いたのだろう。
そんな姉への反抗期は、俺が姉の落ちた高校に受かり、姉は短大へ進学したあたりで収まった。
気付けば、俺は高校をサボりがちになり、姉は短大とバイトと自分で立ち上げたサークル活動と忙しく駆け回る。
まるで正反対だと思った。
姉は、本を読むのが幼い頃から好きで、小中高と多読者ランキングに名を連ねており、姉が進んだ短大も、司書育成の短大だった。
そんな姉は今、東京にいる。
嫁さんをもらって、親父の仕事を継いで、地元に腰を据える俺と正反対に、独身の姉は東京で派遣社員をしながら飲食店のバイトをしている。
「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」
とある。
おや、今まで幾度となく本を買いだめ、積読、積読、で知識の肥溜めを豊かにしてきたつもりが、
セネカ『人生の短さについて』に並ぶ、警句が光る本を見つけられた。
一方、読書の巨人、知の巨人の松岡正剛さんは読書をとかく推奨している。
ただ、ショウペンハウエルの主張と相容れないものではなく、いかに鋭く独自の読みをしていくのかが重要と説いている。
ただただ同化し、筆者の主張が脳内にこだまする構造は悪である。
一億円の純資産を手に入れるまでにやってきたことについてここに記す。
私は四〇代半ばの男である。借金は無い。純資産一億円を手に入れた。ここに至るまでの道のりについて書き記しておきたい。
何が有効で何が有効でなかったか。うまくいったことは何だったのか、うまくいかなかった事は何だったのか。それらについて出来る限りここで、若い人たちに伝えられることを書き遺しておきたい。
何のためにお金が欲しかったのか。私はただ自由が欲しかった。就職して思ったのは、自由のなさ、束縛の強烈さである。一従業員としてある会社に勤め始めて、馬車馬のように働いた。己の未熟さは確かにあったのだけれどもそれにしても辛かった。会社組織の中でうまく立ちまわっている同僚はいた。自分は要領の良い方ではない。むしろ要領が悪い、ひどい方である。しかしそれは自覚した上でがんばって働いた。しかし、そうしていると体を壊すのだ。
たいてい頑張り続けた人は体を壊す。この世のなか、そういう人は珍しくない。
ここで第一の重要なポイントであるが、体を壊すほど頑張るべき仕事、それだけの価値のある仕事というものはまず存在しない。99.9%そんな仕事はありえない。自分の命を削り、健康を害してまでやり遂げるべき仕事などないと思っていい。一番大切にすべきは己の体である。仕事などではない。
しかしお金がないとそうも言っていられないのだ。残酷な現実である。生活していかなければならない。そのためには、まとまったお金のなかった自分にとって、裸一貫から始めるしかなかった自分にとって、月々支給される給与は非常に大切なものであった。
なので一見理不尽にも思えるような大量の仕事を振られてもそれは黙々とこなしていかなければならない。さもないと生きていけないのだ。今にして思えば、あれは自分にとって必要な経験であったように思う。そのとき心の底から痛感したのだ。お金は必要である。そしてとても大切なものである。しっかりとお金をためないことには、他人の奴隷として生き続けなければならないのだ。自由が欲しい、そう強く思った。
動機は大切である。何故お金が欲しいのか。とにかくお金が欲しいのですと言うのでは、動機になっていない。動機が弱いとお金を手に入れる理由がない。理由が明確でなければいつまでたってもお金はたまらない。たとえ入ってきてもすぐ出て行ってしまうのだ。まずはこれを明確に認識すべきである。
私はとにかく自由が欲しかった。より具体的に言えば、嫌な奴との仕事を即座に断れる立場に自分の身を置きたかった。気の進まない仕事は即座に断れる立場に自分を置きたかった。そのために、お金が必要だったのだ。
続く(つもり)
※ここに続きのリンクを貼っていくつもり。需要があればですが。
(次)一億円の純資産を手に入れる方法 その2:早い時期に投資を始めるべきこと https://anond.hatelabo.jp/20180504233305
その3:本業でしっかり稼ぐべきこと
その4:お金は人を介してやって来る
その8:常識を疑うべきこと
その18:一億円を築くのは難しくないと知る 2018.5.20
その21:何やら大きなものに導いてもらう 2018.5.24
その22.5:たくさんのコメントをありがとうございました!2018.6.21 https://anond.hatelabo.jp/20180621143338
その23:独りの時間を意識して持つ 2018.7.25 https://anond.hatelabo.jp/20180725094259
その24:奴隷状態から脱する 2018.8.7 https://anond.hatelabo.jp/20180807172744
その25 不運につけ込まれない 2019.1.6 https://anond.hatelabo.jp/20200106161921
君は1年前の私か? 同じような悩みを抱えていた。俗に言う積ん読。気になる本や読みたい本はたくさんあるんだけど、買ってきたはいいが読む気にならない。本も読めないダメ人間なのかと罪悪感にさいなまれる。
しかし、そんな日々は終わった。工夫ひとつで誰でも読めるようになる。1年前に苦悩していた私は、今年は30冊くらい読んだ。大きな進歩だ。しかも努力不要。
1. 「本を開く」ことを目標にする
本を読もうとするから億劫になってしまう。1日◯◯ページという目標はあまり良くない。目標は「本を開く」ことだ。目標は限りなく小さくせよ。で、読みたかったら読めばいいし、そんな気分じゃなかったら読まなければいい。数ページでも読めたら儲けものだ。
2. 疲れてきたら読むのをやめる
読書=苦痛となってしまったら一巻の終わりだ。つまらないことは誰もやりたくない。世の中には1時間でも2時間でも読み続けられる超人もいるけれど、我々は凡人だ。私は今でも10分も読むと疲れてしまう。あ、もう読みたくないなと少しでも思ったらすぐに読むのをやめる。すると、読書の楽しい印象だけを持つことができるので、次に繋がる。
3. スキマ時間で読む
5分の空き時間があったら何をするか? 読書が最適だ。読書は腰を据えてしなければならないと思いがちだけど、そんなことはない。むしろ5分の積み重ねだけで1冊読める。スキマ時間はニュースのチェックにも最適な時間だけど、ニュースチェックに飽きたら読書だ。継続すれば、気がつけばいつの間にか半分も読み終わってたと驚愕することになるだろう。
4. つまらなかったら読むのをやめる
本は最後まで読まなければならないという固定観念がある。私も完璧主義的なところがあって、つまらなかったり難しかったりするけど最後まで読まなければという考えに縛られて、結局は読書がつらい体験となってしまっていた。もちろん、つまらないし難しいので最後までは読めない。自分に合わない本だと思ったら途中でもバッサリ切り捨てる勇気を持つことだ。相性ってものはどうしてもあるから仕方ないと割り切ろう。ふとした時にまた読みたくなったら読めばいい。
5. たくさん読みたいなら多読
読書量を多くしたいなら、多読だ。3冊とか5冊とかを同時に読む。こう書くと超人的に思われるかもしれないが、そんなことはない。上に示した「疲れてきたら読むのをやめる」を応用する。1冊目に飽きてきたり疲れてきたら、1冊目は閉じて2冊目に移る。頭がごんがらがりそうと思うかもしれないけれど、否、違う内容が書いてあるとなぜか読めるのだ。自分でもやってみてびっくりしている。1冊目が助走になる。2冊めに飽きてきたら3冊目。
さあ、まずは本を開くところから始めてみよう。読む読まないは自由だ。読まなくても罪悪感を感じる必要はない。だって、目標である「本を開く」ことはできたわけだから。
何かと白眼視されがちな仮想通貨取引だが、むしろ俺は今こそ仮想通貨取引を始めるべきだと思う。
この流れには乗っておくべきだ。
乗らなくても後悔はしないが、乗っておくといろいろといいことがあるから。
とりあえず、俺が仮想通貨取引をおすすめする理由を読んでみてくれ。
国内利用者がもっとも多いコインチェックという取引所の場合、アプリで認証して取引可能状態になるまでおよそ1週間。これは早い。まぁ仮想通貨取引になれるとこれでもクッソ遅いと感じるのだが、とりあえず株式投資などに比べると最初のハードルは劇的に低い。
しかも、数千円レベルから始められる。数百円レベルでも行けたかもしれない。詳細は忘れたが。
おまけに、面倒な勤め先情報の入力だとかあれやこれやおすすめされたりというわずらわしさがない。
株式取引が楽天で仮装通貨取引はamazonみたいなイメージだ。
とにかく手軽に、あっという間に取引を始められる。
仮想通貨はレバレッジをかける必要はほぼないので、破産におびえる心配もない。
万人にお勧めできる手軽さだ。
…と、このように書くと非難がすごそうだが、まぁ落ち着いてもう少し読んでくれ。
初心者の投資への心理的ハードルの高さというのは、「なんだかややこしそう」というイメージによるところが大きい。というかこれが全てだ。
チャートを読みとかなくてはいけないらしいし、ややこしい専門用語が飛び交うし。
ともすれば、「投資というのは一部の選ばれた人がやるものだ」と思ってしまいがちだ。
やたら上から目線で煽るやつとかも多いしな。
でも大丈夫だ。投資を始めればわかることだが、大体のやつは大してわかっていない。もちろん俺を含めて。君も含めて。
大してわかってないやつらが一生懸命それっぽく、自分の判断に理屈を付けようと頑張って語っているのが9割で、残りのごく一部ははそんな表に出てこないことが分かるだろう。
コインチェックのチャット画面とかもうびっくりするぞ。動物園かよ。
つまり、そんな「大してわかってないやつらがドヤ顔で投資理論を披露する」のに踊らされて、心理的ハードルを勝手にあげていたのだと理解できる。実に下らん。しかし、それが下らんことだとわかることは重要だ。
株式投資やFXはなかなか手軽に始められないので心理的ハードルはさらに上がる。
しかし仮想通貨は心理的ハードルが極限まで低く抑えられている。だからこそ、投資界隈特有のこけおどしにも早く慣れることができるだろう。
これを学んでおくと、今後の人生で無意味に心理的ハードルを感じる機会が減るだろう。
もちろん、株式投資に比べて仮想通貨取引は赤ちゃん状態なので、そこにいる人のレベルは非常に低い。だが、株式投資が特別に高尚なんてことはない。あくまでもほんの少しだけレベルが高いだけであって、そこにいる人たちは大して頭もよくないし、優れた投資家だなんてことはない。大体頭は悪い。俺も君も同じく。
そして、ゴミのような煽りと暴騰暴落、投資界隈のあらゆるトラブルを手早く体験するのだ。
2017年と違い、2018年の仮想通貨は実需ベースになるだろうとされている。
つまり、ビットコインのように「何に使われるかわかんねぇけどとりあえず持っておけ」という文字通りの仮想通貨から、「ブロックチェーン技術を使ってこういうことをしたいから投資してくれ」という具体的なビジョンのある暗号通貨へとトレンドが変化していく。
つまり、「とりあえず上がりそうな通貨を買う」という投機でなく、「このプロジェクトを応援したいから通貨を保有しておく」という投資に切り替わるだろうということだ。
まぁ、それでも十二分に投機的ではあるが。
多くの人の仮想通貨へのイメージは「何に使われるかわかんねぇけど」式のやつだろう。
しかしもうすでに一部のサービスは展開されていて、2018年上旬には暗号通貨を使った実際のプロダクトが登場してくる。この流れは今後も続くだろう。
そこで、投資をする際に「自分が応援したい銘柄は何か」「今後成長が期待できるプロジェクトは」と能動的に選ぶ楽しみが生まれる。
しかも、対象はブロックチェーンという未知の領域だ。すでにある程度固まっているマーケットでなく、ポンポンと新技術と詐欺通貨が出てくる玉石混交のマーケットである。
そして、「これは革新的だ!」と確信した銘柄が鳴かず飛ばずで、よく考えたら大したことない技術だった…みたいな投資によくあるミスもするだろう。そういうのを体験しておくのもいいことだ。
ただ、そんなゴミの山からごく少数の本物が生き残る可能性は十二分にある。
ITバブルで生き残ったやつらが今世界を牛耳ってるように、暗号通貨バブルで生き残った本物が今後の未来を決めるかもしれない。
仮想通貨取引では頻繁にICO(これから投資を募るぜ!というイベント)が起きるので、そこで「この通貨は来るんじゃないか?」とか予想するのは楽しい。
そして、明らかな詐欺銘柄に「期待しています!」と笑顔で突っ込んでいく人たちの姿を見て、また君は一つ成長を遂げるはずだ。それは鏡に映った自分かもしれんが。
はてブといえば英語勉強法。また今年も英語勉強法の記事が1000、2000ブクマを集め、実際にそれを実践するやつはほとんどいないという光景が繰り広げられるだろう。
海外で仕事したい?国内にいる外国人とコミュニケーションをとりたい?英語喋れた方がかっこいい?
はっきり言うが、必要に迫られないと英語は上達しない。そもそも日常で必要なシーンがないのなら、情熱は続かない。
ところが仮想通貨取引を始めると、英語が絶対に必要になってくる。どこもかしこも英語だ。英語しかねぇ。
日本語で得られる情報といえば、イケハヤだの与沢だの、もう絶望的なインフルエンサー(笑)しかいない。絶望的過ぎて髪の毛が抜け落ち、体重が増える勢いだ。
それにしても日本の仮想通貨界隈は本当にクソだよな。なんでまともな起業家がおらんのよ。OmiseGoの人とか日本すっ飛ばして東南アジアで始めちゃったじゃねーか。
海外だとまとも(そうな)人が結構いて、ちゃんと開発者集めたりまともな企業と提携したりめっちゃ動いてるのに、こっちはガクトだぜ。泣けるだろ。
だからこそ英語が必要になる。日本語はやめておけ。まぁ、煽られて踊らされて筋肉コインとか買っちゃうのも経験の一つかもしれんが。
仮想通貨取引は、テレグラムなどの各コミュニティが大きな役割を持っていて、自分が保有し応援する通貨のチャンネルに所属して情報を収集するのが一般的だ。
で、その場は当然すべてが英語で書かれるので、まともな投資をしようとするなら最低限英語を読み取る能力が必要で、さらに自発的に質問できたりするとより情報を得られる。
前述のように、仮想通貨取引をやる奴は全世界的に頭がよろしくない連中なので、英語でしゃべってるけど中身は俺らと大して変わらないと思えば、ゴミのような英語力でも質問してみようという気になる。「お前ひどい英語だな」とか言われながらもなんとか意思疎通が図れる。あとはまぁ、どのコミュニティに所属しても結局のところ「金の話」しかしてないわけなので、必然的に会話内容は限定される。だからこそ会話しやすい。「今何サトシ?」「500サトシ」このくらいの会話(?)でも、できたらちょっと嬉しいもんだからな。
投資を始めると、大体の人は気になって毎日チャートを見て、コミュニティの会話を見ることになる。
そこで英語を強制的に使うリズムが生まれるので、英語を勉強するモチベーションは上がる。
それに、俺は多読とかもう本当にやってられなかったからな。何が悲しくて興味のない童話やら小説やらを読まにゃならんのだ。それよりホワイトペーパーだとかサトシの行方について激論してる方がよっぽど楽で実践的だからな。
レバレッジはやめておけ。あと生活費を入れるのはやめろ。儲けが出ちまったら税金分は確保しておけ。
投資する対象を探して、調べて、買って、コミュニティに参加して、盛り上がるという経験はなかなか面白い。自分が投資に向いているかどうかもすぐにわかるだろう。
ハッキングされて自分の通貨を全部失うというマヌケでレアな体験もできるかもしれない。
儲かった成功体験に囚われて大損することもあるだろう。
最悪の(そして面白い)シナリオとしては、今度のG20で規制が本格化して阿鼻叫喚、って渦中にいられるかもしれないしな。
数千円~数万円の単位で、失う金と決めて始めるといいと思う。
手軽に始められるということは、それだけいろんなものがザルだということだ。ここは肝に銘じてほしい。本当にザルだからな。
ひと通りやらかすまではお金追加しないほうがいいぞ。
本をたくさん読むことが勧められ、学校では「夏休みの間に~冊の本を読みましょう」などと啓発される
しかし多くの本を読むことが必ずしも良いものとは限らない場合がある
僕は月に1~2冊が限度で、しかも何度か読んだ本であっても読み返すようにしている
忘れっぽいのもあるし、何度か読み返すことで新しい発見がある
僕にとって「読書」することは炭鉱夫がマイニングするようなもので、一瞥しただけでは見逃してしまう鉱脈を掘りあてるに等しい
一方で大学ではこれを「精読」といい、当然のように求められる
思うに学者が何年もの歳月をかけ研究し、培ってきた努力の結晶の塊たる専門書籍
たとえば「ダンゴムシ」について幾星霜もの時を費やして理解しようとした1人の学者が書き上げた本
それを素人がたったの1日で読んで全て理解されてしまったら研究者としての立つ瀬はない
ここで言っているのは、学者が一般向けに平易な言葉に直したそれではない
とにかく冊数だけ無駄に重ねていく行為は、まるで複数の異性とのひとときの、その性行為の回数を誇っているに等しい
一人のパートナーを心の底から理解しようとせず、ただ闇雲に回数に溺れていく
中を開けると夥しい数の「日付」が書かれていた
僕はその日付の意味を悟って涙がでた思い出がある
多くの本を読む人が褒められ、一語一文たりとも間違えずに言える自信があるほど読んだ1冊の専門書
義務教育では「精読」は「罪」であり「罰」であった
夏休みが終わった後に追加で何冊か本を読んで読書感想文を書けと言われた
僕は何か悪いことをしたのか・・・そんな日々だった
さて、今回は私の英語学習法の核心、「英単語の暗記をしない」ということについて語ってみたい。
http://anond.hatelabo.jp/20170524213622
ここで前回リスニングについて語った内容には、凄まじい反響があった。私は1500というブクマ数にoverwhelmされてしまった。
いきなり何を言ってるのか、と思われるだろうが、私の感覚の中では、1500ブクマという気分を一番表せるのは、日本語の「圧倒された」ではなく、英語の"overwhelm"だ。
この単語はただ「圧倒された」だけでなく、「圧倒的な力に晒されて、疲弊してしまった」という感覚がある。もしこれが増田でなく普通のブログだったら、プレッシャーで何も書けなくなっていたかもしれない。
他にも、前回の「英語をあるがままに受け入れなければならない」という結論の部分は、最初は「英語をあるがままにembraceしなければならない」と書いてあったのだが、伝わらなさそうなので書き直した。embraceは「抱擁するように受け入れる」というような感覚だが、日本語で書くと何のことやらわからない。
英単語を覚えるということは、こういった単語に伴う感覚を一つ一つ身につけていくことだ。そうすれば英単語が自分のものなり、ライティングやスピーキングでも自然に単語が湧いてきて、自由に使うことができるようになる。
英単語それぞれに固有であるこの感覚をどう身につけるのか、というのがここで語りたい話題である。
英語学習の世界で良く出て来るスローガンに「英語は英語のままに理解しなさい」「日本語に訳して理解してはいけません」というのがある。
しかし「英語は英語のままで理解しろ」と言われても、初心者には何のことか分からず、何か魔術的な、自分には絶対にできない思考法によってしか、英語は理解できないのではないか、という気にさせられてしまう。私も高校生の頃に、このスローガンを聞いて、そんな絶望感に襲われたことがある。
日本語しかできない日本人にとって、言語で思考する際に使える唯一のツールは日本語だ。英単語の意味を知りたいなら、日本語の訳語なり、日本語で書かれた説明によって理解するしかない。
日本語の訳語を当てはめ、文法ルールに従って語順を並び替えて、並び替えた日本語から文意をつかむ。ノンネイティブである学習者はそこからスタートするしかない。そして大学受験レベルになっても、難関校を受験するのでなければ、その方法論で通用するだろう。
そのレベルの英語力が欲しいならば、訳語を覚えることは有効だ。
ただ、「英単語を覚えるぞ!」と単語帳を開き、そこに記された訳語や例文を見たり、書いたり、発音したりしてみても、それで記憶できるのは記憶力がいい人だけで、普通は無理だ。
そしてそのレベルの、日本語の訳語を並べ替えるような英語力では、現実世界にあるほとんどの英文は読めず、あまり役に立たない。日本語と英語はあまりにも違いすぎるので、逐語訳、直訳はほとんど通用せず、日本語の訳語をそのまま適用しても英文を理解することは出来ない。
なので、受験と関係ない大人にとって、日本語の訳語による英語の理解は、目指すべき目標にはなりえない。
「『英語は英語のままに理解しなさい』か。ならば英英辞典を使って英語で意味を覚えよう!」と考えるのは自然な発想だ。しかし、これもうまくいかない。
日本語を介して英語を理解する段階を超えるには、英単語の持つ固有の感覚を覚える必要がある。
英単語から日本語の訳語が想起されるようではいけない。それと同様に、英英辞典に書いてある語の定義が想起されるのも、その隣に書いてある同意語が想起されるのもアウトだ。そういった余計なものが出て来るようでは、リスニングはできるはずもないし、リーディングにも苦労を伴うことになる。
日本人にとっては、日本語の単語が持っている感覚を想起するのは容易い。一方、英語から感覚を想起するのは難しい。英単語と感覚を結びつけるという意味では、日本語の訳語を介したほうが早い。
しかし、日本語の訳語と英単語では、意味に違いがある。日本語の訳語を介して英単語を理解しても、不正確な理解にしかならない。しかしそれは、英英辞典に書いてある定義にしても、同意語にしても同じことだ。同意語といっても、単語が違う以上はニュアンスの違いがあり、辞典の短い説明でそれを完全に言い表すことは出来ない。
なので、単語を覚えるために英英辞典を使うべきではない。(*1)
英和辞典や英英辞典では、英単語が持っている本当の感覚を掴むことはできない。
英単語の本当の意味は、その単語が実際に使われたシチュエーションの中にあり、その中にしかない。その単語を発した人の感情であったり、伝えたいメッセージがその単語の中に込められる。それを感じ取ることが出来れば、その単語の本当に意味するところが伝わってくる。
もちろん人によって、単語に込める意味には多少の違いがあるし、一度や二度その単語に出会っただけで、その感覚を本当に自分のものに出来るかはわからない。その単語に何度も出会い、修正を重ねながら、感覚を確かなものにしていく必要がある。
いずれにしても、実際にその単語が使われている生の英語を、深く理解し、言葉を発した人物の気持ちやシチュエーションをしっかりと読み取ることで、そこに出てきた単語の本当の意味を掴むことが出来る。辞書の定義や、ぶつ切りにされた例文からでは分からない。
小説や映画のシチュエーションを深く感じ取って理解し、記憶の中に蓄積していくことで、そこで出てきた英単語やイディオムといった英語表現の意味を、実感を伴って理解することが出来る。やがてその英語表現は自分の身体の中に染み込んで、感覚的に使いこなすことができるようになる。
http://anond.hatelabo.jp/20170522214348
私が以前ここに書いた学習法では、「辞書を引きながら小説を読む、映画の英語字幕を一時停止しながら解釈する」といった事が勧められている。それは小説や映画が、人物の心情があり、シチュエーションがある生の英語の塊だからだ。そして「自分が楽しめるものを見る」ことを勧めているのは、そうでないと登場人物の心情に寄り添ったり、シチュエーションにハラハラすることが難しくなり、英語を感覚的に深く読み取ることができないために、著しく学習効果が落ちてしまうからだ。
ここで使う辞書はもちろん英和で構わない。ただし辞書の記述はヒント程度にとどめ、単語の本当の意味は作品の中から感じ取ることが重要だ。辞書からは単語の感覚を理解することは出来ず、実際に使用されたシチュエーションを蓄積することでしか、単語を自分のものとすることは出来ない。
単語やイディオム等、全ての英語表現は、小説や映画や実体験などから、記憶の中にその表現が使用されたシチュエーションが蓄積されることで、その表現に固有の感覚が醸成されていく。
そのシチュエーションが印象深いほどに、感覚はより明確になり、記憶への定着率も上がる。そしてシチュエーションの数が増えるほどに、感覚はより正確に、記憶はより強固になっていく。
シチュエーション自体は時とともに忘れてしまう場合が多い。しかしその表現に染み付いた感覚は、シチュエーションを忘れた後も残っている。
そして英語表現からその感覚が直接想起されるようになれば、日本語を介さず「英語を英語のまま理解する」状態に至ることができる。その状態に至れば、その英語表現を感覚的に理解し、適切な時に適切な形でアウトプットすることも出来るようになる。
そうはいっても、「私の英語力では小説も映画もとても歯が立たない。それは語彙力が足りないからだ。まず単語を覚えなければ」と考える人は多い。
そして単語学習のあまりのつまらなさ、記憶の定着しなさに絶望して諦めてしまうというという人が後を絶たない。しかしそれは根本が間違っている。
辞書というものがある以上、英語を解釈するのに語彙力は必須ではない。テスト問題を解くためには、辞書なしで英語を読み解く力が必要かも知れないが、小説や映画を味わうために必須なものではない。
「単語を調べるためにいちいち辞書を引いていたら、話が先に進まず、読書体験がぶつ切りになるので楽しめない」という考え方もあるだろう。しかし私は「辞書を引きながら頑張って読んだからこそ、心に深く残る読書体験になる」と考えている。
通常の母国語の読書では、立ち止まり、辞書を引き、文法構造を考え、熟考しながら読み解くというような作業はまず行わない。学習者が文章を理解するために行うそれらの作業は、文章を深く読むことにも役立っている。
最初に読んだ一冊、私の場合は"There's a Boy in the Girls' Bathroom"という児童書だったが、当時の私には非常に難しく、何度も立ち止まり、辞書を引き、検索し、英文法に立ち返り、悪戦苦闘した。ただ、これは本当に素晴らしい本で、読む価値があると思えたから頑張ることができた。登場人物の心情に寄り添い、シチュエーションにハラハラしながら、苦しいながらも素晴らしい読書体験をすることが出来た。
一冊目を終えれば二冊目はずっと簡単に読めた。三冊、四冊と進むに連れて英語力がぐんぐんと増していき、読書から苦が減り喜びが増していった。やがて「ゲームの達人」のような大人向けにも手が出せるようになり、刑事ハリー・ボッシュシリーズにハマる頃には映画を英語字幕で存分に楽しめるようになっていた。
そして今はKindleがある。単語を長押しすれば辞書が引ける、検索も直ぐに出来る、洋書はなんでも安くダウンロードでき、スマホに入れて持ち運べる。これは英語学習のために存在するような素晴らしいツールだ。
Kindleがあれば語彙力は読書の障害にはなりえない。ただし、児童書レベルでも英文を読むためには、ある程度の文法力が必要だ。そのためには受験参考書を活用してほしい。日本の受験英語界には素晴らしい文法解説がたくさんある。
日本語を介してしまうと英語を深く感じ取れないため、基本的に日本語訳は使うべきではないと考えている。
ただ、どうしても理解できない英文に出会うことはある。いくら時間を費やしても理解できない、そういう時には、日本語訳を見る。日本語字幕であったり、訳書であったりだ。プロフェッショナルの訳からは、独習では得難いものが得られることも多い。
世の本屋には「基本単語1000」とか「TOEIC必須単語3000」といったような、頻出単語とその意味を並べた参考書が大量に並んでいる。
「英文に登場する単語の90%は1000語に含まれる、だからこの基本語をまず暗記して、それから英文を読むのが効率的だ」などと言う人もいる。しかしこれはほとんどデタラメである。
英文に登場する単語の大半が基本語なのは確かだ。しかし500ページそこそこの参考書に1000個も意味が書けるほど、基本語の内容は浅くない。私は今でも日常的に、基本語を辞書で引いている。そしてその単語のさまざまな使い方を見て、基本語の奥深さを噛み締めている。
英語は読むにしても、書くにしても、聞くにしても、話すにしても、基本語は身体の一部になるぐらいまで深く理解する必要がある。実際の英語の中で気が遠くなるほど何度も遭遇し、使用シチュエーションを蓄積し、自分でも使ってみる、そういった積み重ねの中でしか、その本当に意味するところは分からない。参考書レベルで基本語を分かった気になっても、少し派生的な意味で登場しただけで分からなくなるのがオチだろう。
そして英語の語彙の中で特に難しいのは、基本語の組み合わせによって発生する熟語、イディオムである。イディオムの意味は単語が意味するものから大きくかけ離れていることが多く、故にイディオムと呼ばれるわけだが、この知識も参考書ではほとんど得られない。このように、90%とされる基本語の中にも、参考書に含まれていないものが大量にある。
「それでも、頻出単語の基本的な意味だけでも抑えておくのは重要ではないか。小説などでランダムに出て来るのに任せたら、時間がどれだけかかるかわからない」そう思う人もいるだろう。
しかし、頻出語は頻出するから頻出語と言われる。基本単語1000ぐらいなら、小説を1冊読む頃には否応なく頭に染み付いているはずだ。それも単語の参考書で得たものとは違って、単語から想起される感覚を伴った、生きた英単語として身についている。
TOEIC3000語も、何の本でも数冊読めばほぼ頭に入っているはずだ。3000語を感覚的に理解できるようになれば、その3000語で構成された文は、日本語を介さず感覚的に理解できるようになり、「英語を英語のままで」理解できるようになる。そうなれば読書がスムーズに進むようになり、インプットのスピードが上がり、それが英語の上達を加速させる好循環に入ることができる。成長の実感は英語学習のモチベーションを高め、それがさらに成長を加速させる。3000語を感覚で理解できる頃には、英語学習にドハマリして抜け出せなくなっているはずだ。
高難度の単語は出現頻度が低くなるので、そういった単語を網羅的に学習するのは、小説や映画ばかりを偏って見ているノンネイティブには難しいかもしれない。英語上達完全マップによると、多読などの自然な方法に任せると二万五千~七千程度で語彙力は伸びなくなるという。
現在私の語彙は2万5千~7千と思われますが、多読などの自然なボキャビルにまかせると、この当たりで語彙の伸びは止まるようで、ここ10年くらい同じレベルにとどまっています。 http://mutuno.o.oo7.jp/05_training/05_training06.html
それ以上の高難度の単語を網羅的に学習したい場合は、単語の参考書を使うのは有効だろう。高難度の単語なら基本語のように意味が派生したりイディオムになったりということは少なく、参考書レベルの理解でもなんとかなるかもしれない。
ただ、参考書による単語学習はやっても覚えられないので、私はやらない。無数にある見たことのない単語の予習に励むより、知らない単語が出てきても、話を追い続ける力を磨いたほうが現実的だと考えている。
何の学習法でも言えることだが、自分が今やるべきでない学習法、自分に合ってない学習法は、やってみると身体が本能的に拒否する。そういう学習法は、無理にやっても身が入らないのでやらないほうが良い(もちろん私の勧めている学習法も含めて)。
気持ちよくて、クタクタに疲れられる学習法と出会ったら、それをやるべきだ。疲れているということは脳が働いているということで、気持ち良ければずっと続けられる。
そのうちに慣れると疲れなくなってくる。トレーニングしても疲れていない場合、上達は見込めない。そうなったら学習法をアレンジし、負荷を上げて、気持ちよく疲れられるところまで調節する。誰かに教わった学習法でも、こうして自分の今のレベルに合った形にアレンジすることで、効果を高めることが出来る。
追記:
*1 しかし英英辞典自体は、それを使いこなせる英語力が身についた後ならば、英語学習の強力な武器になる。 私は普段はオックスフォード英英辞典を使っている。グーグルの使用言語を英語にして単語をググると、一番上にオックスフォードの記述が出てくるので、まずこれを見る(出てこない場合は検索語にdefinitionを加える)。Kindleに無料でついてくる英英辞典もオックスフォードだ。 オックスフォードでは、英単語をより難しい英単語で説明している。その単語も辞書で引くことで、際限なく難しい単語に出会えるため、いくらでも語彙を増やすことが出来る。単語の定義も難解で味わい深く、その文章に触れること自体が英語力を向上させてくれる。
読んだだけで行動もアウトプットもしてなかったらまぁそうなるわな。
ちなみに、多読が必要な理由は「たくさん読まないとどれがいい本かわからない」から。逆に言えば、たくさん読んでも良書に出会えなければ意味がない。
で、ある著者曰く、「良書に出会ってその成果が本当に出るのは10年後」。
成果を出すために必要な年数の目安として、1−3−10の法則。
1年後ー微細な、小さな成果
3年後ー平凡だが実のある成果
10年後ーとてつもなく大きな成果
ちなみに、凡人の多くが成果が出る手前で挫折してやめるそうだ。
あと、書籍って言ったって、自己啓発書やビジネス書の他に「専門書」とか「実用書」だってあるだろ。
自己啓発書やビジネス書は胡散臭いのも多いけど、専門書や実用書が役に立たないわけがない。
追記。もし「書店」というのが小型書店のことなら、「そりゃそうなるわ」って思う。小型書店は売れない本を置く余裕がないから、売れる本しか置かない。売れる本の殆どが「誰でも理解出来るレベルの内容の薄い本」で、その殆どが、既存のロジックの焼き直し。希に良書がベストセラーになることもあるし、長年読み継がれている良書ももちろん置かれているが、小型書店でひたすら本を探し続けても、特にベストセラーにフォーカスして買い続けると、「入門以外の目的では読まなくていい本」を大量に抱えることになるだけ。
最近、職場の同期でも後輩にも、いわゆる「意識高い系」が増えてきた印象があります。
彼ら意識高い系は、距離をとって見ている分には楽しいのですが、少し仕事で関わるとクソのように使えず、
その割に「高尚な」ことばかりほざくので、最近ではイライラすることも増えてきました。
ですので、自分のため、そして同じような目にあっている皆様に、
意識高い系に対する理解を深め、彼らを見た時に感じるモヤモヤ感の払拭と、彼らの取り扱い方法の理解を目的とし、私見を申し上げたいと思います。
■意識高い系とは
エベレストのように高い理想と、マリアナ海溝のように低い実力を持った人がかかる、
■意識高い系の特徴
意識高い系と聞くと、何人かパッと頭に浮かびませんか。
彼らを観察していると、面白い程高い確率で似通った性質を示します。
個人的な経験からですが、大きく下記のような特徴があるので、照らし合わせてみてください。
1 理想は高いが実力が無い
公私共に、彼らは何の成果も生み出しません。生み出しても、一般人のそれより遥かに低いです。
逆に、成果を生み出している人は「意識高い系」ではなく「意識が高い」人ですので、今回の話の対象にはなりません。
「意識高い系」は、口だけは素晴らしいことを言います。多くは社交的でフレンドリーで饒舌なので、一見して凄そうな人に見えます。
ところが、実際に仕事で接すると、あるいは私用で軽いイベントの運営でもすると、実行力が全くなく、途端に尻尾を現します。
受け答えがイマイチ(言いたいことだけ言う)、成果物の品質が低い、納期に間に合わない、集合時間に遅れる、ドタキャンを多発する、等、
最初は、初対面の好印象もあり「ん?」と違和感を覚えるだけなのですが、それが恒常的なものだとしたら、意識高い系確定です。
2 実力が無いことに気付いていない
意識高い系はビジネス書や起業家が書いた本が大好きで、それらに惜しみなく投資(と思っていることを)します。
そしてビジネス書を多読する人が高確率でそうなるように、本を読んだだけで仕事ができるようになった気になり、自己認識と実際の実力に大きな乖離が発生します。
そのため多くの「意識高い系」は、頻繁に「最近調子がイマイチだなー」みたいなことを言いますが、
何のことはなく、本人が気付いていないだけでそれが単に彼らの実力なんです。
彼らを見ていると、「じつりょく」というものが、ドラクエの「ちから」のように、自身の中にパラメータとして存在し、
本を読んだりセミナーに行くと、その「じつりょく」が ◯ポイントあがった!みたいな認識があるようなのですが、
現実の世界ではその人が出した具体的な結果でしか評価をできないし、評価もされません。
彼らはそこに気がつかず、延々と平積みのビジネス書について「〜読了!」と呟いたり、
セミナーに頻繁に参加して、「アウトプットが大事だからブログにまとめました」といって単なる議事録を書いていたりするのです。
3 SNS
よく指摘されていますが、マグロが時速80kmで泳がないと呼吸ができないように、彼らは毎日高頻度でFacebookやTwitterのようなSNSをチェックしないと、死にます。
さらに、FBの「いいね!」は、彼らに取っては元気玉の元気であり、「もっとオラに、オラに元気を!!」という勢いで「いいね!」を欲します。
個人的に、親指を数mm動かすだけの評価をいくら集めても何の価値にもならない気がするのですが、
「この記事を読んで参考になったら、「いいね!」を押してくださいね」と言わないと、多分人質に取られている娘が何かされちゃうんでしょう。
ちなみに、LINEとかでも無意識に「いいね!」と言ったりするんで、要チェックです。
市場というのはよくできているもので、今まで接して来た色々な会社の人達を見ても、その人の労働価値と密接にリンクしています(大企業のおじさん達は年功序列ポイントの下駄付きですが)。
そのため、実力がなく、それに気付かず適切な努力をせず、大口を叩いているだけの「意識高い系」は、転職等で不思議な程年収を下げて行きます。
多くは今流行りのスタートアップ系やNPO系に行きますが、「やりがい」を餌に買いた叩かれているケースが多く、
転職後の業務実態は、単なるサイト運営や社内事務スタッフ等、やはり金額に見合った仕事しかしていない印象です。
5頭が良いと本気で思っている
彼らは、少し会話すると気付くのですが、本で読んだ内容や、偉い人の発言を、そのまま自分の意見として堂々と発言します。
その場その場で話の内容に沿って考えている訳では決してなく、議論のテーマに沿った中で、最も有用と思われる過去に仕入れた情報を反射的に発言しているだけなのです。
ですので、たまに「あ、あの本のここに書いてあった内容だ」とこちらが気付く場合さえあり、聞いている方が恥ずかしくなることさえあります。
また、現状の社会的、組織的な不満点を指摘し、「日本のココがダメ」「IT化したら省力化できるのに」みたいなことを頻繁に言うのですが、
どうやら彼らの中での「ゼロベース思考」なり「問題発見能力」という能力として評価できる発言のようです。(「ママーあの人また大企業の悪口言ってるー」「しっ!見ちゃダメ」)
また、最終形態に近づくに連れて、何故か名前をカタカナで表記することが増えてきます。(深い思索に耽る余り、非効率な漢字という表現方法を忘れてしまったのかもしれません)
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と、元々の構想の約半分まで書いたのですが、思ったより長くなってしまったので、一回切ります。
気が向いたらまた後半書きます。
『映像ミザンセーヌの黄金則 ヒットする映画の作り方』において金子は次のように指摘している。
シナリオは筋書き(プロット)と描写(レンダリング)から成り立っていますが、シナリオからの分析局面では、プロットそのものはあとに残る印象要素ではないということです。複雑なプロットであればあるほど、観る人をひきつけはしますが、覚えることは難しい。したがって他の人にも伝えにくいのです。したがってプロットに関しては「面白い」「いい」だけ。覚えている印象のほとんどは、描写です。つまり、シナリオライティングのミザンセーヌに関していえば、レンダリングが重要だということになります。
ラノベにおいても抽象度の高い「筋書き」を具体的に「描写」していくという作業は多くの作家が認めるところである。映画は「筋書き」である台本と「描写」である映像に明確に分離可能であり、それと比較すればその境界は曖昧でありつつも、基本的な考え方としてラノベにおいても両者を区分することは可能であろう。
様々な作家による小説、ラノベの創作技法において、そこに書かれた技術がどちら寄りかを意識してみると、人物設定はどうあるべきか、世界と主題の関係についてといった「筋書き」寄りの内容に対し、「描写」寄りの内容はその紙幅のほとんどが正しい日本語講座に費やされていたりする。
正しい日本語で書けるようになりました、とは読者に苦痛を与えずに「筋書き」を伝えられるようになりました、というに過ぎず、そして苦痛なく読める文章であることは読者にとっては当然であり、その意味でこうした日本語講座は「マイナスをゼロにする」ものでしかない。実際、ラノベワナビを数年続けているような人であれば読めない文章であることは少ない。しかしそれがなぜつまらないのか、といえば、まさしくそれがゼロでしかないからではないのか。
一方で「ゼロではなくプラス」のラノベは確かに存在する。とすると「ゼロをプラスにする」、すなわち「筋書き」を単に読者に苦痛を与えずに伝える方法ではなく、魅力的に伝えるための方法はあるはずである。
ラノベを含む多くの創作論では「とにかく色々読め」という指摘がなされている。それは直接的な知識の吸収のみならず、そうした多読から無意識に「魅力的に伝えるための方法」を抽出し、そしてそれを自作においても無意識に利用するようになることを期待してのものであると筆者は考えている。
であるならばそれは、システマチックに再利用可能な一定の演出法――いわば「テンプレート」として抽出可能なのではないか。
仮にそうだとすれば、筆者はこの演出法には大きく二段階あると考えている。一つは筋書きを主たる場面に分解したとき、そのそれぞれの場面をより魅力的に見せるための場面展開の組み方、いわば「レイアウトの仕方」であり、もう一つは場面それ自体の品質を直接的に上げるための「描写の仕方」である。
金子が映像に関して指摘するように、ラノベにおいても「描写の仕方」の影響は非常に大きいだろう。しかし一方で「よく出来た話だ」という感覚を覚えるラノベがあるとき、それはこうした「レイアウトの良さ」によって得られる感触であり、それは文体が合わないとか、パロディが不快だといった個人の直接的な好みとは一つ別の次元での評価――「自分の好みではないけれど、でもよく出来た話だと思う」といった、評価の底上げに繋がる効果があるのではないか、と筆者は考えている。
「描写の仕方」については稿を改めるとして、本稿ではまずこの「レイアウトの仕方」についてのいくつかの私見を述べることとしたい。
本稿で抽出したいのはラノベの「筋書き」を魅力的に見せるための展開の仕方であって、あらゆる物語に普遍的に存在する何かではない。ロシアの昔話とギリシャ神話とキャラ萌え特化の現代ラノベに普遍的に存在する要素を抽出したところで、物語構造論的にはさておき「よく出来たラノベ」を書くためという点で言えば糞の役にも立たないと筆者は考える。
と大塚と新城をDisった上で、つまりある特定の様式における「テンプレート」の抽出が必要なのであり、本稿ではボーイミーツガールの様式をもつラノベに限定することとした。
ボーイミーツガールの定義として、例えば伊藤ヒロは「涼宮ハルヒやゼロの使い魔など、メインヒロインとの「出会い」がきっかけで平凡な主人公が非日常に入る、という構造」を持つと述べる。裕時悠示もまた「ヒロインが非日常をつれてくる」としており、まとめると主人公とヒロインの出会いとそれによる非日常の始まり、といったところだろう。
まず本稿では「主人公」は単に語り手もしくは視点人物とする。『涼宮ハルヒの憂鬱(以下ハルヒ)』においてはキョンが主人公であり、涼宮ハルヒはヒロインである。加えて主人公とヒロインの性別は問わない。『マリア様がみてる(以下マリみて)』においては主人公もヒロインも女性であり、『エスケヱプ・スピヰド』においては主人公は女性でヒロインは男性である。表現上の混乱を避けるため、本稿では男性ないし無性であっても「ヒロイン」と呼称する。
次に、では「非日常」とは何か。
例えば『灼眼のシャナ(以下シャナ)』では主人公はヒロインと遭遇する前に外敵に襲われ、これは明らかに「非日常」として描かれる。もっとも襲撃直後にヒロインとの遭遇がある以上、広義にはヒロインが「非日常」を連れてきたと言っていいだろう。ところが例えば『化物語』では主人公はヒロインと出会う随分前から怪異に接する生活に入っており、ヒロインがそれをもたらしたとすることには広義といえどいささか無理がある。
そこで「非日常」とは主人公を取り巻く環境の変化ではなく、主人公のとる「意識と行動の変化」であると筆者は定義した。『ハルヒ』も『シャナ』も『化物語』も、いずれもヒロインと遭遇後、主人公の行動はヒロインを意識したものへと変化し、その意識した行動を軸に物語が展開していくことになる。この点から本稿ではヒロインを「主人公が意識している相手」と定義する。
以上をもとに、本稿では下記の条件を満たすラノベをボーイミーツガールと考える。
なお、本稿におけるボーイミーツガールは排他的なものではない。ゆえに例えばハーレムラノベの代表格と言えるであろう『IS〈インフィニット・ストラトス〉(以下IS)』も、本稿ではボーイミーツガールとして扱う対象である。
これを基本条件として、さらに人気作の方が魅力的な展開が内在する確率が高いだろうという推測から、映像化された作品を中心に絞り込むこととした。
シリーズ化している場合、本稿での調査は原則としてその第一巻のみを調査対象とした。最初の一巻はそれだけである程度のまとまりを見せる構造を持っているだろうと思われ、またその出来がいいからこそ続刊が決定したと言うことができるだろう、という推測によるものである(細かく言えばボーイミーツガールとしてのひとまずのオチが付いたと筆者が判断したところで区切ったため、『化物語』はひたぎクラブのみ、『星海の紋章』は全三巻と対象範囲に差はある)。
以上からWikipediaのアニメ化されたラノベ一覧からランダムに選び出し、上記の条件に該当する作品50冊を調査した(一部個別判断からアニメ化されていない作品も含めた。また本稿では「ラノベ」の定義については特に踏み込まない)。これらを以下本稿では「ボーイミーツガール」と表記する。
長くなったが、以下やっと本題に入る。
本稿では「ボーイミーツガール」を遭遇と関係構築で成り立つものと考え、それぞれについて「テンプレート」を抽出することを試みた。いずれも個々のラノベからその要素の類型化をまず行い、次にそれらが実際にどう扱われているか、またどのような扱い方がされるとより「よく出来ている」と筆者が思ったか、という恣意的な判断によってまとめたものである。学術的な検討がされたものではないし、類型化の際の用語も筆者が勝手に命名したものでしかない点は注意されたい。
「主人公がヒロインとの出会いののち意識するようになる」とは、主人公のヒロインに対する見方が変わる、と換言してもいいだろう。その意味でヒロインとの物理的な出会いのみならず、「ヒロインに対する主人公の見方が変わる」ことも含めて本稿では「遭遇」と定義する。
さて、「よく出来た遭遇」は印象に残るものであり、そして意外性は印象を残す一つの要素たりえる。実際多くの「ボーイミーツガール」は遭遇時にヒロインの「意外性のある設定」を明らかにする。
問題は、その「意外性のある設定」は凄まじい勢いで陳腐化する、という点である。
突然同じ部活に所属することになったヒロインが毒舌家であることが明かされる『やはり俺の青春ラブコメは間違っている(以下俺ガイル)』、突然同じ寮に入ることになったヒロインが天才画家であることが明かされる『さくら荘のペットな彼女』、突然同居することになったヒロインがサキュバスであることが明かされる『ご愁傷さま二ノ宮くん』などいずれも「意外性のある設定」が明かされるが、それが筆者に十分なインパクトを与える意外性であったかといえば否定せざるをえない。ヒロインが魔王だろうが神様だろうがそれがどうかしたのかと微塵も関心を示せない読者は特に筆者に限ったものではないだろう。
筆者が考えるに、これに対するアプローチは大きく2つに分けられる。ひとつは「設定の極端化」、もう一つが「演出の工夫」である。
「設定」の新規開拓はもはやほとんど絶望的だが、既存の陳腐化した設定を極端化することによって意外性を勝ち得ているものは確かに存在する。例えばヒロインが挨拶代わりに主人公を撲殺する『撲殺天使ドクロちゃん』はその典型例と言える。問題は極端化が進めば進むほど馬鹿げた内容になりがちであること、さらに所詮は既存の内容の延長上にあることから読者の十分な意外性を得ることができず、陳腐で馬鹿げたものとしか認識されないリスクを内包する、という点である。
既存の陳腐化した設定を使い回しつつも、その演出によって読者の興味を喚起することは可能である。そこでまずいくつかの代表的な遭遇における演出の類型を整理したい(以下で全ての類型を網羅しているといった主張ではない。為念)。
クーンツは『ベストセラー小説の書き方』において、物語冒頭で主人公が困難に直面することが読者の興味を喚起する重要な要素である、としている。ヒロインの設定に意外性が乏しく魅力が無くとも、遭遇の場面の魅力はこの「困難さ」で補填することが可能である。ヒロインの奴隷だと告げられる『ゼロの使い魔』、異星人に狙われる立場だと判明する『這いよれ! ニャル子さん』、突如男性主人公が美少女に変わる『俺、ツインテールになります』などが具体例としてあげられる。
とはいえこれらの例において実質的に主人公が困難を自覚しているものは少なく、その解決へ向けて真剣に行動することはほとんどない。いわば形式的な困難さでしかなく、そうした困難さは筆者の興味を喚起するものではなかった。
一方で『シャナ』は主人公が強く困難な状況を自覚し、絶望するところで始まる。トーチ云々の中二病はともかく、ヒロインに命を救われたと思いきや「いやもう死んでるから」と否定され、残りわずかな自分の人生に悩む流れは使い古されたそれでありながら、筆者は悪くない印象を持っている。形式的困難に全く効果が無いわけではないだろうが、より効果的にしたいのであれば実質的困難とした方が無難とは言えるだろう。
偶然からヒロインの秘密を主人公が知ってしまい、ヒロインもまたその漏洩を把握する、という遭遇の類型もまた古典的展開と言っていいだろう。『乃木坂春香の秘密』などはこの典型例と言える。
知ってしまった秘密を主人公はどうするのか、秘密を知られてしまったヒロインはどうするのか、という次に当然起こるであろう緊迫した事態への興味を効果的に喚起させることができる上、それまで互いに無関心であった主人公とヒロインが相互に強烈に意識し始めることが読者に必然的に伝わる、という強力な副次効果を持つ。また秘密の漏洩はヒロインにとってみれば「困難の直面」に他ならず、そこで極限状態に置かれたヒロインがどのような行動をするか、とはそのヒロインの人格であったり本性を端的に表すものと読者に暗黙に理解させる点でも効果的に機能する。
その状況が主人公にとって予期せぬ事態であり、なぜそんなことになったのかという困惑と疑問が生じる遭遇は読者の興味を喚起するという点で効果的である。
例えば『タイム・リープ あしたはきのう(以下タイムリープ)』においては記憶の混乱という謎がまず読者につきつけられ、その解決が物語の主たる軸となる。『のうりん』においては主人公の崇拝するアイドルが電撃引退の上突如転校してくるが、彼女がなぜ転校してきたのかが物語の中心に据えられている。
しかし『タイムリープ』と『のうりん』を比較すると遭遇の出来の良さは(筆者にとっては)圧倒的に前者である。その違いは、おそらく単純に「読者の興味を引く謎か」という一点に尽きると思われる。この類型はヒロインの設定の意外性ではなく謎の意外性で勝負していると言ってよく、ゆえにどれだけ読者の興味を惹起することのできる「謎」を思いつくかがこの類型の要点と言っていいだろう。
例えば『マリみて』における「タイが曲がっていてよ」のように、これまでに見たことが無いような強いインパクトを与える絵面を描くことで読者の興味を喚起することに成功しているものがある。
筆者は全く百合趣味が理解できないが、そうであっても「美人が美少女のネクタイを締めてあげる絵」というのはなるほど悪くない絵だという実感が得られ、印象に強く残っている。
『マリみて』ほどの強力さは筆者には感じられなかったが、例えば『とある魔術の禁書目録(以下禁書)』における「帰宅したらヒロインがベランダにひっかかっていた」という絵もこの類と言っていいだろう。
以上、いくつかの類型を述べたが、より効果的に演出する方法としてこれらを多段階構成にする、という手法があると筆者は考えている。
例えば『俺の妹がこんなに可愛いわけがない(以下俺妹)』ではまずヒロインのエロゲ趣味が主人公に漏洩する第一の遭遇(秘密の漏洩)があり、それについての一段落が描かれたのち、夜中ヒロインが主人公の自室に侵入する第二の遭遇が発生する(謎の提示)。
『化物語』の第一の遭遇は階段から落ちたヒロインを抱き留めるという古典的なそれであるが、これは同時に「ヒロインに体重が無い」という「謎の提示」と「秘密の漏洩」として機能する。次にヒロインの病弱さがひとしきり語られたあとで、ヒロインがカッターナイフとホッチキスを主人公の口に突っ込み脅迫するという第二の遭遇が描かれる。攻撃的性格のヒロインに特段の目新しさはないが、文房具を凶器として使うこの絵面は筆者にとって十分インパクトがあった(印象的な絵面)。
『とらドラ!』の第一の遭遇はヒロインが主人公を睨みつけるだけの地味極まりないものである。ところが第二の遭遇はヒロインが机を吹き飛ばし掃除道具入れに隠れるところを目撃するという奇妙なものであり(謎の提示)、ラブレターの入れ間違えの発覚を踏まえ、その「秘密の漏洩」への対抗策として主人公宅へ夜襲をかける第三の遭遇と畳みかける。
興味深いことに、このときいずれも各段階の間に一拍が置かれている。それぞれの遭遇は矢継ぎ早に連続して矢を刺すというより、一本矢が刺さってちょっと痛みに慣れてきたところで二本目を刺す、というテンポと言ってもいい。
例えば『俺妹』ではエロゲをヒロインに返した際、その場でヒロインが主人公へ自室でそのゲームをプレイすることを要求しても物語上何ら影響はない。しかし一旦そこで一区切りさせ、主人公に「これで今まで通り、互いに無視しあう兄妹関係に戻るのだ」と吐露させ、その上でヒロインに夜這いさせることで、単にその場で依頼をするより読者に強いインパクトを与える効果を生んでいると考える。