はてなキーワード: 多様性とは
倫理や人権のせいでイカコロな事にイキそ感謝するよしないといけない(戒め)みたいな
意識高い思想が余裕のないKMRの間で流行ってますけど、キエゲエバカMURがどこから来るのか考えた事とかないんですかね…
人間社会の高度さはレオとタクヤのコラージュのようなものだとわかったぜ、やっぱ多様性欲?は大事はっきりわかんだね
じゃけん遺伝子ガバグラムBabylonで更なる高みへさあ行こうぜ!もう待ちきれないよ!早く(クルルァを)出してくれ!
グラブをはめてバーベル台へ潜入…MU蔵も(筋肉が)落ちたなあ!まるで枝みたいだあ…殺す死ねの連呼で怒りのバワーを借りて何とか持ち上げるとあの疲労感がやってくる
立憲民主党はこれまでに国民民主党と共同で「政策活動費」の支給を禁止することなどを盛り込んだ政治資金規正法の改正案に加え、いずれも単独で政治資金パーティーを全面禁止するための法案と、企業・団体献金を禁止するための法案を提出・・・・・
これについて、立憲民主党の小沢一郎衆議院議員は21日午後、記者団に対し「規制強化ばかりでは自縄自縛になり、どうしようもなくなる。政治資金パーティーもダメ、企業・団体献金もダメと何でもダメにすると、お金については潜りに潜って裏の話になってしまう」と指摘しました。
そのうえで「政治にカネがかかることは変わらず、このままでは大金持ちでなければ政治ができなくなる。解決策は政治資金を全部オープンにするしかない」と述べました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20240521/k10014456201000.html
政治資金パーティー全面禁止法案については、立憲民主党に、絶対に政権は任せられないの一言につきる。
世の中には、規制をすればよくなる、と考えるひとと、規制を撤廃すればよくなると考えるひとの二通りがいる。
どちらも極端だ。
極端なことを言い出す奴は、そもそも信用できない。
国民の政治参加の観点からは、政治資金パーティーや企業・団体献金の全面禁止は、政治家が資金を集める手段を限定し、政治活動の多様性を損なう恐れがある。
特に、新しい政治家や小規模な政党にとっては、資金調達の選択肢が限られることが、政治参加のハードルを高めることになりかねない。
もっとも立憲民主党の法案は、政治資金の透明性を高めるという点で評価できる。
政治資金の規制を強化することで、政治家と特定の利益団体との癒着を防ぎ、政治の公平性を高めるからだ。
企業や団体からの献金が透明でない場合、政策決定において特定の利益が優先される恐れがある。
これにより、一般市民の意見が政治過程で十分に反映されない可能性がある、という視点は重要だ。
しかし全廃はさすがにないだろう。
政治活動の資金調達に関する多様性とアクセスを制限することで、国民の政治参加に別の影響を与える可能性がある。
政治家の首を自ら絞めるるということは、それに参加する企業団体、ひいては国民の首も絞めるということだ。
それは民主主義を阻害する。
ここでIT企業のトップだとか、メリトクラシーの極地を引き合いに出すのはナンセンスだし
自由、自由、って壊れたテープレコーダーのように、責任を果たさない無能が
遅刻しない、目を見て挨拶をする、ヒゲを剃る、でも何でもいいが、誰にでもできること。
人様に迷惑を掛けずに"自律"できると公に認められたということ
学歴じゃないとは思うよ。社会人1年目から出来ているのもいれば
3年くらい経って出来るようになるやつもいれば
30過ぎて体力の衰えを感じて出来るようになるやつもいるから
どれだけ頭が悪くても、身体的ハンディを持っていても、ブスだとしても
"人間"として扱ってもらえる最低限度の身だしなみというものがある
それくらいならここまで炎上もしなかったであろうことはわかる
ただ積極的におっさんに多様性を教えたいなんて若者がいないという目線が抜け落ちてるのが怖い
つまり同じコミュニティでよく話す若者から得られる情報は、年上に気を遣って話している話でそもそも多様性の理解にもそんなに繋がらないし、相手からは鬱陶しがられている可能性も高い
50歳の人が70歳の人と話す時の感覚と変わらないのに、と思う
それが自分がきっと30歳の時ならわかってたはずなのに怖いなと思う
「オススメの方法」とか言ってしまったのが一番まずかったのであって
自分と異質の存在と付き合えば多様性の理解が高まるのは当然のこと。
飲み屋でもオンラインでも趣味の場でも、よく会う若者(≒友達)みたいな存在が出来ることはあるだろう、ということもまあ判らないでもない。
でもそれを「方法」と言っちゃったから。他者を手段にしちゃってるんだよね。
良くいく飲み屋のカウンターに若い人も来てて~ 仲良く話してくれるんすよ~ これ見識高まるわ~!
という話であればそんな炎上もしなかったであろう。
為末大がXで50歳以降の多様性理解の為に一番おすすめなのは20歳以上下の異性の友達を作るって発言してて炎上して、ついに凍結してた
それに対して一定数100%誤ってるとは思えないと言ってる人がちらほらいて、本当に?と思ってる
20歳以上の異性と友達になりたい、おっさんおばさんと話していて対等で楽しいと思ったことなんかあるか?
自分の親が多様性のために自分と同じ年くらいの友達を作ろうと思ってるとか言い出したら、止めないのか?
ちなみにもし知り合いになれたとして、親子とかでない限り友達だと思ってるのは上の年齢の方だけで、下の年齢の方がその考えは変だよなんて指摘できるとは思えない
そもそも「多様性理解のために友達を作る」なんで言い方をしている時点で相手のことを下に見ているのに気づいていない
そして多様性理解なのであればもっと他の方法があるだろと思う、それこそSNS上でいい
ぱっと思いつくだけでもこんなに変だと思うのに、歳をとるとわかんなくなってしまうのかと思うと怖すぎる
話題になったアカデミー賞のエマ・ストーンの態度とか、なんとなく差別なんてしてなかった雰囲気で終わってるけど、意識の底にはアジア人を無意識に別モノというか、意識しなくて良いものと考えてるというのがあるんだろう
そういう意識を向けない、いなくてもいい人種という意識が根底にあって、かなり根強いんじゃないかと思う
きっとあの人たちは、例えばアジアの国がウクライナのような状況になっても、特に心も動かされないのだろうし、関心を持つ人も割合として少ないのだと思う
美しさの意識もそうで、アジア人は正統派ビューティー以外は受け入れないけど、欧米人に対する美しさのみ多様性オッケー感じがヒシヒシと伝わってくる
VOGUEのメットガラのインスタを見てたら、そんなことを思った。
そういう人たちのイベントなんだなぁ…と
話題になったアカデミー賞のエマ・ストーンの態度とか、なんとなく差別なんてしてなかった雰囲気で終わってるけど、意識の底にはアジア人を無意識に別モノというか、意識しなくて良いものと考えてるというのがあるんだろう
そういう意識を向けない、いなくてもいい人種という意識が根底にあって、かなり根強いんじゃないかと思う
きっとあの人たちは、例えばアジアの国がウクライナのような状況になっても、特に心も動かされないのだろうし、関心を持つ人も割合として少ないのだと思う
美しさの意識もそうで、アジア人は正統派ビューティー以外は受け入れないけど、欧米人に対する美しさのみ多様性オッケー感じがヒシヒシと伝わってくる
VOGUEのメットガラのインスタを見てたら、そんなことを思った。
そういう人たちのイベントなんだなぁ…と
話題になったアカデミー賞のエマ・ストーンの態度とか、なんとなく差別なんてしてなかった雰囲気で終わってるけど、意識の底にはアジア人を無意識に別モノというか、意識しなくて良いものと考えてるというのがあるんだろう
そういう意識を向けない、いなくてもいい人種という意識が根底にあって、かなり根強いんじゃないかと思う
きっとあの人たちは、例えばアジアの国がウクライナのような状況になっても、特に心も動かされないのだろうし、関心を持つ人も割合として少ないのだと思う
美しさの意識もそうで、アジア人は正統派ビューティー以外は受け入れないけど、欧米人に対する美しさのみ多様性オッケー感じがヒシヒシと伝わってくる
VOGUEのメットガラのインスタを見てたら、そんなことを思った。
そういう人たちのイベントなんだなぁ…と
かなり言葉に気をつけた一般論だと思うのだが、こういうのを「為末が言ったから」と燃やすのなら、それは「言葉に気をつけても結局意味がない」の証拠にしかならないよなあ。
というこれだけの条件が揃ってても、結局「為末が言ったらキモイ親父の妄言」としかならないのなら、結局言い方が良い悪い云々ってやっぱりいちゃもんの「どこにでもつく理屈と膏薬」に過ぎないよって思われても仕方ないよねえ。
上川外相の発言「うまずして何が女性か」だけど、メディアの取り上げ方がヘンだという、当たり前のことを、
生みの苦しみという比喩として昔から成立している表現を、まさしくそのような用法で発言しているにもかかわらず、マスコミは一体なんなんだ。
候補の当選によって新たな知事を誕生させたいとの思いがあったとみられるが、出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘が出る可能性がある。
一連の報道で、とても気になったのは「XXへのへの配慮に欠けるとの指摘が出る可能性」という表現。
こうして、「出産を願ってもできない人」というグループを示唆することで、それらが何かしら傷つきやすいメンタルを持っているという、配慮を要する人々としてイメージを固定してゆくのがとても気になる。これは発言の曲解よりも根が深い。(補記:なかなか伝わりにくいかもしれないが、以下で提起している問題は、<ある表現がいかに配慮に欠けるか欠けないか>ではなく、<ある表現が配慮に欠ける>というふわっとした規範的な圧力が、社会的包摂性とか社会経済的な脆弱性の分析を置き去りにして、主に政治的に利用されることの問題点だ)
実際には、出産を願ってもできない人々というのは多様だ。みんないろんな事情があるんだよ。
単に適齢期を過ぎているだけとか、仕事と両立したいなどの理由で機会を逸している、とか、あるいはそもそもパートナーに出会えないなど、
要するに、ないものねだりをしている場合だってある。経済的な問題で躓いているひともいるはずだ。
じゃあ、逆に「出産を願ってもできない人」というカテゴリーにはそういう社会経済的弱者は入りませんよ、というのかね?
体や心の障害に起因して、ある意味、病理的な意味で、出産ができない人を指すのだと定義したりしてしまう?
そうすると、今度はむしろ、健常ならできるはずのことができない人々は悔しいと思っているに違いない、かわいそうだから、産むとかそんな言葉に触れさせないよう配慮が必要っていう、潜在意識がますます透けてくる。
でも心身の問題で出産できないというのを、自分にはいかんとしもしがたい宿命的なものして捉えた場合、
それって社会経済的な理由で出産できない場合と実際のところ、地続きだと思える。
例えば、親の介護など家庭の事情で適齢期を逃した人がいたとするよね。それってその人にとっては、自分の意思で選んだわけではなく、自分にはどうにもできなかった、そういう運命だったという意味では、病理的に出産できないという宿命とさほど変わらないようにも思うんだよね。
「出産を願ってもできない人」
産みの苦しみとかいう表現を嫌がるような、そういう配慮を要するグループがあたかも存在するかのように、それを空気のように記事するマスコミのほうが怖い。
障害者や病人ができなそうなことを比喩的にでも表現するのは彼らを傷つける行為だとする空気をまん延させることは、「そういうカテゴリーの人たちを可哀そうだと思うべきだ」とする社会規範を空気として押し付けてくることだ。
そこでは、知らず知らずに、どこまでが可哀そうなグループで、どこまでが身から出たさびとみなすグループなのかの選別が空気として形成される。
実際には、よくよく考えると、どこからどこまでが配慮を要する、などと到底割り切れるものではない。誰かを傷つけるかもしれない、と配慮することはそのイメージから漏れた人を知らず知らずに排除することでもある。その意味で、病理的な意味で出産ができない人に限定して、「出産を願ってもできない人」というイメージを作り上げるなら、それは差別的ですらある。その場の雰囲気で、発言の文脈をよく考えずに配慮を求めることで、逆に、特定のグループを過度に保護し、そのグループを弱者として固定化する結果を招きかねない。
抽選結果で「落選」はやめます 都立中高説明会、表現めぐる指摘受け [東京都]:朝日新聞デジタル
これなんかも、「受験生」の感受性因子(susceptibility)を過剰に捉えていて、おかしなことになっている。
「出産を願ってもできない人」なんていうふわっとしたイメージは、そもそもそんなに必要かね?
これは、戦時中の、「兵隊さんご苦労さん」っていって兵隊を敬わせて背中を押し、銃後の守りを頑張らせようとするのと近い話で、マスコミは世間の空気をつくることができるのだから気を付けてもらいたい。
「配慮に欠ける可能性がある」という、世論を規範的に誘導する表現は、プロパガンダとしても機能してしまうので、正直、よっぽどのことがない限り使ってもらいたくない。
必要だとすれば、なぜ必要だと認識しているのか、マスメディアにはよくよく考えてもらいたい。
言論空間を浄化して、きれいな発言だけをすればいいというものではない。
浄化できるというのも幻想でしかなく、「女性なら生むべきだ」という固定観念を打破し社会的包摂性に配慮したつもりでいて、内実は単にステロタイプな別の固定観念が形成され、それが政治利用されることもある、ということも頭に入れておく必要があるだろう。
政治家の発言に過度な配慮が求められると、知らず知らずに本来の意図や文脈が歪められる恐れがある。
特に選挙に絡んだ発言については、妙な世論誘導に使われかねない。
自由な表現が妨げられることで、社会全体の健全な議論が損なわれることになる、ということの不利益をちゃんとマスメディアは理解しておくべきだ。