はてなキーワード: 固定観念とは
第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのときの感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています。
今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやかな感想を述べたに過ぎない」と述懐しています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。魯迅の感想が短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想をもつならば、それで満足です。
人は物事に触れて感想を持つものだと思います。SNSの批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想は自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というものも自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。
今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスがキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います。
今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成る」ものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的なもの、追憶的なもの、観念的なもの、象徴的なもの、風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています(岩波文庫、竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特の雰囲気をもった作品集です。
これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります。
そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会は作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり、言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味もキュレーターの解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレットの文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」
しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍や文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論の余地がありえますが、言葉と芸術の距離がそう遠いものでないことは確かです。
さらにテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきます。キュレーターが中国の出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙の試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文や文字が芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。
いっぽう、日本で一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭なものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたかも展覧会から「あなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。
では、「芸術(アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から「芸術(アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいものが芸術なのか?」とか「言語表現は芸術と無関係か?」といった問題はゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。
鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります。批判もひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要な展覧会であったと言えるのでしょう。
友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術は抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品を面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉の時代なのでしょう。考えずして何が現代の芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日にちょっと芸術に触れてみよう、子どもを芸術に触れさせてみよう、デートで美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品を面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」
たしかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館の改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。
私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います。
ここで、ちょっと過去のトリエンナーレを振り返りたいと思います。
私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています。
2014年の第5回「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家や芸術家がいかに体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代や脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治」であるという意識が出てきていたためかもしれません。
2017年の第6回「島と星座とガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権のさなかにあって、政治の右傾化が懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)
2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」、映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続。
きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います。
今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術が政治的であることの何が問題なのかとか、政治が生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーターが中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。
たしかに、今回の展覧会ではヨーロッパの戦争に関連する展示や国粋主義者の移民反対デモの映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつの世界に見立てて、このような出来事が遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます。
そのデモの映像のひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別のデモが行われています。ヘイトクライムの危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。
思い返せば2014年や2017年はかなり「政治的」な展示があったと思います。しかし今回、キュレーターは日本の問題をひとつも指摘しませんでした。日本で美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれた事件もそう遠い昔のことではありません。日本は美術の表現が自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときにもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっとも自由な表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身地である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパも安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります。
しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品のなかに普遍性を見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。
ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会のなかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅が木版画という簡易で複製可能な芸術を通じて、民衆に文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争を撮影した写真が展示されていたのは、芸術と政治の問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います。
(後編へ続きます。)
https://anond.hatelabo.jp/20240608093350
経験値を上げるためと、そもそも人を好きになりづらい女子が多いから、自然に身を任せると普通に無理(相当なイケメンを除く)
今ならネットでもよい
男子校や、男子ばかりの学科や、男子ばかりの部活などはできれば避ける
はじめまして〜初回デートまではテンプレが作れるから経験値でだいぶ変わる
はじめましてトークは当然はじめましてしかできないから、沢山会う必要がある
聞いていくとどこかである程度覚える、例えば今女子に人気なアイドルとか
覚えていくと「それ知ってる」だけでテンション上げてくれる女子が現れる、何故なら男子で知ってる人が少ないから
付き合わなくていいから沢山軽くあそぶ
2人きりであそぶ、3人と2人はコミュニケーションがあまりに違いすぎる
基本女子にあわせる、主導しなくていい、ある程度好みのパターンが見えてくる
慣れたら意志が弱い女子への対処を工夫していく(主導はぶっちゃけ難しい、自分の趣味に持ち込んでうまく行くこともあるけど)
まず話を聞いてやる、話が出てこなかったらこちらの話をする、それでも無反応な場合はかなり難易度が高い女子だから無理しない
当分彼女は作らなくていい
相手を好きにならない
好きになると行動全部壊れるから、理想的に思えるけどモテ度は下がる
好きにならないコツは毎秒その人のことを考えないこと、何人かと常にやりとりしてると惚れづらい
噂になったら嫌な子には配慮する、可哀想だから、ちゃんとデートじゃないと弁明してあげる
髪はショート〜ミディアムショートにする、毎日鏡を見る、ヒゲを剃る
服は最初はドシンプルでいい、ビジュアルで気を引こうとがんばらない、ビジュアルは減点方式であるという意識を持つ
だいたい50人〜100人くらいできれば
「女ってなんてめんどくせーんだ」「これだから女は」「男といるほうが楽しいわ」
くらいになると思うから、そしたらゴール
あとは好きになれそうな子を絞り込む
エッチについて
エッチが好きな子、まぁまぁな子、嫌いな子がだいたい1:1:1で存在している
好きな子のうち、仲良ければ割りと誰でもOKな子が3割位(全体の1割くらい)
だから基本的には「相手はエッチが嫌いな子」だと思って接した方がいい(それが当たる確率が高い)
なので下心や下ネタは控える
そういうのが好きな子は基本我慢できずふってくるので、1回乗ってみる
(というかそういうのに抵抗がない子はやたら二人で歩く時に距離が近いからすぐわかると思う、ハグとか好きなんだよね。逆に全然ダメな人は手を触るのすら拒否する)
でも乗ったら急に「セクハラやめろ」みたいに言ってくるうぜーやつも居るから注意する
彼氏になったら「エッチが好きな子」「まぁまぁな子」の6,7割は大丈夫になる
エッチが嫌いな子に当たったら、身の振り方を考える、無理はしない、一生セックスレスでもいいのか考えるべき
年によって多くの女子が何に惹かれるか、一部の女子が何に惹かれるかを理解する
小学生なら足が速いとか
具体的に何に惹かれるかは割愛
まあこんなところでしょう
俺はタイムスリップしたとしても多分やれないと思う
年取ってからはやった、100人から嫌われても何とも思わないくらいになれないと苦しいとと思う
あと、恋愛市場は転職市場に似てるという分析をすると先入観が無くなっていい
とにかく恋愛市場は「こうでなければならない」という固定観念が強い
男性の自殺率が高いのは「弱い」からだけなのか? 統計データから読みとく
男性の自殺率が高い背景には、複雑な要因が絡んでいます。厚生労働省の統計によれば、日本の自殺者数は男性が女性の約3倍1と、先進国の中でも高い水準です。以下に、男性の自殺率が高い理由を考察してみましょう。
性別による偏り: 長年にわたって、男性の自殺者数は女性よりも常におおよそ1.5~2倍も多い傾向があります2。2020年4月から10月までの自殺者数を男女別で確認してみても、どの月でも男性の数が顕著に多いことがわかります。男性という性別が自殺に影響を与えていることは明白です。
社会的圧力と男らしさ: 男性は「弱音を吐けない」という固定観念によって、自分の弱さや不安を表現することを避けることがあります。特に中高年男性は、このような社会的圧力を感じやすいとされています3。男性は「男らしさ」の枠組みの中で長年培ってきたノウハウが、現代の環境変化に適用しづらく、不安を抱えていることがあります。
経済的・家族関係のストレス: 経済的な困難や家族関係のトラブル、社会的な閉塞感、感染に対する恐怖心など、多くの要因が考えられます。特に経済的な問題は男性に影響を及ぼしやすいとされています。
自殺対策の重要性: 自殺対策を立てていく際には、これらの要因を慎重に分析し、適切な対策を講じることが必要です。男性だけでなく、女性や子どもの自殺対策も重要であり、日本全体で対策を進める必要があります。
自殺予防には、社会的なサポートや心のケア、適切な専門家の支援が必要です。4 また、男性自身が「弱さを見せてもいい」と感じられる社会環境を整えることも大切です。
by Copilot
男性もスカートを履いていいんです!ってなったところで「男性のファッションに馴染むスカート」はしばらく広まらないだろう
でもオシャレに敏感な人がカーテンか?って位ダボダボのスカートをまとい始め、やがてYouTuberや俳優の衣装にチラホラとズボンっぽいスカートが浸透し始める。きっとデニム地のロングキュロットみたいなやつ
そしてある夏のロケで芸人が「スカートデビューです!めっちゃ涼しいですわ〜これ〜!」とか言いながらスカートの中をうちわで扇ぐ姿が放映され、おっさん層の部屋着などにジンワリと浸透していく
気がつけばスーパーの衣類コーナーに男性用スカートの一角ができている。スカートではなく楽ちんステテコとか、既存の男性服の用語を交えたワードで売り出されるだろう
そうなるともう「男性がスカートでも変じゃないんじゃない?」という合意が形成され始め、逆にスカートを恥じらうのは昭和感覚、平成感覚と揶揄されはじめる
男子大学生や男子高校生がスカートを履き始め、同級生の男子に「パンチラ見せたろか?」と言いながら捲るという陳列罪スレスレのイタズラが流行ったりする
でも小学生にはしばらく浸透しない。スカート履いてると女の子みたいという固定観念がしばらく付きまとう。中学校高学年くらいから徐々に「男のスカートを恥ずかしいって言うやつが恥ずかしくない?」みたいな雰囲気になり、高校に上がる頃にはすっかりそっいが多数派になっている。子どもの感性は時に不可解だ。都会の小学校だと男子スカートによるイジメは起きない、先進的なので
学校の制服にも男性スカートが取り入れられ、選択可能になる。過渡期は男子生徒はパンチラに抵抗がないものの、浸透するに従いパンチラが苦手という男子生徒も現れ始め、「男性がパンチラを避ける心理を社会は許容すべきか否か」という話題が昼の情報番組で取り上げられる
やがてスカート世代は新社会人の年齢になり、社会へ参入する。この様子もまたニュースになる。おっさんがスカートを許容していた場合、ビジネススタイルにスカートが取り入れられているが、そうでない場合は新社会人が文化のギャップに悩んでいる様子が特集される。しかし夏のクールビズにいいですよ、みたいなところから結局普及する
これに伴い、男性の股開きもマナー違反だと扱われ、今以上に股を締める座り方を厳しく指導されるようになり、電車のマナーが改善する
フェミニストを名乗るなんておこがましいと思ってるけど一応、フェミニズムの片隅にいるものとして。ひと言だけ。
女性性の尊厳は自由にしていい、という性的な固定観念のままに、一方的に女性をまなざすのは、いい加減勘弁してほしい。学校のプールでは長袖の水着を着させられてるんですよ。実質的に、まなざされもせず/消費もされてない(こっちはゾーニングしてるのに!)という特権性に甘んじてセンシティブな側面を踏み荒らされ心理的安全性をないがしろにされるのが許される時代じゃない。結局
クレジットカード会社という外圧頼みだった件については溜息しかない。自浄とか最後まで無理だったなあ、としか。……でも反省するというなら話は変わってきます。
LGBT に配慮しろとか言いながら、自分たちは女性だけを選択的に殺す。そんな人たちを助けるなんて自傷行為ですので。
追記・女性の文化を見下してるからメイクとかのセルフケアも取り入れず、なのに「不幸率ガー」 と嘆いてる時点で失笑だし、そもそも「男らしさ」とかいう古臭い性役割を降りれば話は済むんじゃない? 下駄履いてる既得権益はキープなのに救済団体用意しろとか、逆に過保護に慈悲的差別されてない? とか色々思うところはあるけど、全部脇に置いた最小限の条件❶❷だから、そこんとこヨロシクね。
これね、共同通信だけの問題じゃないけど、そういうことだよね。ミスインフォメーション・キャンペーン。
[B! 上川陽子] 【内部文書入手】上川陽子「うまずして」切り取り報道の共同通信「全くひるむ必要は無い」差し替え経緯も判明
共同だけの問題じゃないというのは、共同通信に乗せられたとしても、各社一斉に
「出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘」で揃ったこと。いかにも日本的な乗せられ方だ。
これは欧米でミスインフォメーション・キャンペーンと呼ばれるもので、誤報による世論誘導だ。
ミスインフォメーション・キャンペーンとは、世論や有権者の行動に影響を与える目的で、意図的に虚偽の情報や誤解を招くような情報を流すことを指す。こうしたキャンペーンは、民主的プロセスに対する信頼を損ない、地域社会を分極化させる可能性がある。誤情報は、ソーシャルメディア、マスメディア、口コミなど、さまざまなチャネルを通じて拡散される。フェイクニュースを作成したり共有したり、事実を操作したり、問題を誇張したりして、有権者の間に疑念や混乱を生じさせるような戦術がとられる。
その目的は、選挙結果を左右したり、政敵の信用を失墜させたりすることだが、ひいては選挙制度に対する国民の信頼を低下を招くため、このようなキャンペーンは、選挙結果に対する有権者の信頼や民主主義全体の健全性に影響を及ぼす可能性がある。
これがいかにヤバいことかのメディア自身の自覚のなさが、世界報道自由度ランキング70位という結果にも反映しているんだよ。
今回の場合、完全に誤報を流したというより、もともと解釈に幅がある、どちらにとられてもおかしくない表現だったことが特徴だ。
それは、女性たるもの出産すべし、と解釈できる、そういう解釈しか思いつかない人が一定数いる、というのは、この記事がでてもなお、上川発言に非があるとするブコメが少なくないことでわかる。
上川氏が女性の役割に対して固定観念を持っている、という指摘はありうると思う。ただ、最初からそういう指摘をする報道だったら、ここまで炎上しなかったのではないか。
しかし、これが炎上したのは、実際の各社の報道が「出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘」だったからだと私はみる。
ジェンダーロールの偏見の指摘と弱者への配慮欠如の指摘は必ずしも同一のこととはいえない。
今回のメディアの場合、不妊で悩む女性を主に念頭に置いたのかしらないが、そういう方々が可哀そうだと、感情的な正義に訴えたわけだ。
上川氏の潜在的な差別意識を指摘するのとちがって、この訴え方は、「出産を願ってもできない人」というデカ主語を据えるものだ。
出産困難者というのは、もやっとしたイメージだ。人それぞれ「出産を願ってもできない人」のイメージが違う。
子育て環境の制度的な脆弱さを思い浮かべるひともいるだろうし、家族親族からのプレッシャーとして理解するひともいるだろう。
女性の出産の役割に自己実現の価値を見出している人もそうでない人も含めて、かなり多くの人が感情的共感の網にかかってしまう。
つまり、上川叩きの味方を増やす効果があって、上川氏からすれば、保守からも批判されうるし、フェミからも批判されうるという状況に置かれてしまったことになる。
今回の誤報キャンペーンでは、感情的共感をより広く、網を張り、特定のターゲット層に的を絞らない戦略が功を奏し、同町圧力の強い傾向のある日本で、あとに続くメディアを一斉に吊り上げ、ばっちりと効いてしまったというわけだ。
「出産を願ってもできない人」への配慮、という形で大衆の感情を煽ったのが今回のミスインフォメーションキャンペーンだったといえるだろう。
問題は、これが選挙に影響を与えかねない、ということを報道機関が自覚しているかどうか。
それに対して「全くひるむ必要は無い」というのが、共同通信のスタンスなのね。確信犯であることがよくわかった。
とはいえ、共同通信だけでなく各社報道機関は、「出産を願ってもできない人」への配慮を犬笛として使いたかったのかもしれないが、その副作用についてはやっぱり少しは考えてもらいたい。
「出産を願ってもできない人」への配慮を訴えたつもりでいても、出産を願ってもできない人々を一つのカテゴリーとして固定化することで、そのグループが常に特別な配慮を必要とする、社会的に弱い立場にあることが強調され、固定観念が強化されることもありうる。
これって女性の弱さ傷つきやすさについての別の意味の偏見が強化されるってことでもある。
社会的に弱い立場であるとの認識が広まれば広まるほど、社会的に敏感なトピックになり(タブー化)、それついて話す際に、他者の感情や意見を過剰に気にすることになる。これにより、人々は自分の発言を自己検閲し、無意識のうちに自らの意見を抑制するようになる。
「兵隊さんご苦労さん」みたいな、何気ない表現が大衆を戦争に巻き込むプロパガンダとして一番効果があるのと似た話で、こんな配慮や遠慮、忖度の積み重ねで、誰かが傷つくのを恐れて何もいえない社会にどんどんなってしまう。
これに対して、いやいやむしろ、偏見解消は積極的にキャンペーンをやるべきだ、女性に対する偏見が解消されて、社会全体としてハラスメントが減るならそれは結構な話じゃないか、といわれるかもしれない。
しかし、実際のところ、偏見というのは、配慮すればなくなるというものでもない。
強さや傷つきやすさの男女差というのは、いってみれば偏見なんだけど、悟りを開けば自分の偏見を解消できるわけでもないし、
言論警察よろしく配慮に欠ける発言をバッシングすれば解消できるわけでもない(公言しないようにすることは可能だとしても)。
近代の黎明期に、イギリスから隣国で起きているフランス革命で、反革命派が断罪されている様をみたエンモンドバークは、
なんでも理性的に判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤバいと考えた。
偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、偏見を生かそうという考えを進めた。
それが保守の出発点なんだけど、世の中が保守一辺倒というのもそれはそれでどうしようもない社会だ。伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとだっている。
さすがに、公平性については、制度が、最低ラインとして補助線というか設計図を引かないと、いつまでも伝統的な価値とか懐古的になっててもしょうがないだろう。
ということでまあ、ジェンダー問題は、極力、制度としての公平性、機会としての公平性という観点に限定して話をするように注意しておくのがいいってことかな。
もちろん、制度機会平等を理性的に討議したとしても偏見がなくなるわけじゃない。
偏見はなくならないけど、制度の普及・概念の進歩に伴い、ひとの意識は変わっていくだろうと期待する。それだけでよく、それ以上のことはあえてしないほうがいい。
ひとはすべて進歩した価値観にもとづいて幸福を追求しなければならない、みたいなのは押しつけがましい左翼の傲慢だからだ。
「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な価値観で自己実現をしたいひとだっているんだよ。
進歩的な価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。
「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」(中島みゆき、世情)というわけだ。
私から言わせると、そういう進歩史観を押し付けようとするところがもっともサヨクのムカつくところなんだよ。
かつて反戦フォークの全盛期、学生運動が最高潮を迎えていた時期、中川五郎の「主婦のブルース」のなかにこんな歌詞がある。
息子は今夜も帰らない 私は心配で眠れない
だけど私は家庭が一番 真面目に生きるのには疲れたわ
おお 人生は悩みよ ちっとも楽しくない 恋なんてしない間にふけちゃった
わびしい夢に はかない楽しみ 思い通りには何もならない
安保世代では親ですら論破すべき守旧派だった。しかし、学生運動は結局、どの社会階層とも連帯できずにスピンアウトしてゆく。1968年に作られたこの歌はそれを暗示しているかのようだ。一方、中島みゆきの「世情(1978)」は、この10年後の70年代の世界がうたわれたもの。ひとつ前の安保世代の情熱が新左翼へと変遷、空回りしてゆくさまを見せつけられたシラケ世代からみると、左翼残党はあたかも守旧派とさして変わらない頑固さでイデオロギー打破を訴えている、という皮肉な構図になる。
今回の場合でも、産みたくても産めない人が可哀そうだなどと感情的正義で持論を補強すると、そうした表現のタブー視が蔓延し、出産に自己実現を見出している人まで遠慮しなければならない、という空気をつくるかもしれないし、他方で、女性の傷つきやすさを過度に強調することで、女性が弱い存在であるという潜在的な差別意識が助長されるおそれだってある、みたいな妙な副作用が現れる。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのをひさしぶりに思い出した。
たまにはケシカラニズムに陥っていないか自己点検でもするか。フェミニストさんも自分の偏見を認めたほうがいい思うんだよね。
制度的に不幸になっている者は救済する、しかし、偏見ある社会のなかで生きている者の幸せや自己実現は否定しない、という具合のバランスがちょうどいい。
男性社会にあって嫁として母として子供を育ててきた誇りある人生を否定するのがフェミではないと思うし。
そういう意味じゃ、左翼は保守主義のマインドも頭の片隅に入れておく必要があるし、保守派も制度的な公正について左翼の主張に耳を傾ける必要がある、といったところか。
上川外相の発言「うまずして何が女性か」だけど、メディアの取り上げ方がヘンだという、当たり前のことを、
生みの苦しみという比喩として昔から成立している表現を、まさしくそのような用法で発言しているにもかかわらず、マスコミは一体なんなんだ。
候補の当選によって新たな知事を誕生させたいとの思いがあったとみられるが、出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘が出る可能性がある。
一連の報道で、とても気になったのは「XXへのへの配慮に欠けるとの指摘が出る可能性」という表現。
こうして、「出産を願ってもできない人」というグループを示唆することで、それらが何かしら傷つきやすいメンタルを持っているという、配慮を要する人々としてイメージを固定してゆくのがとても気になる。これは発言の曲解よりも根が深い。(補記:なかなか伝わりにくいかもしれないが、以下で提起している問題は、<ある表現がいかに配慮に欠けるか欠けないか>ではなく、<ある表現が配慮に欠ける>というふわっとした規範的な圧力が、社会的包摂性とか社会経済的な脆弱性の分析を置き去りにして、主に政治的に利用されることの問題点だ)
実際には、出産を願ってもできない人々というのは多様だ。みんないろんな事情があるんだよ。
単に適齢期を過ぎているだけとか、仕事と両立したいなどの理由で機会を逸している、とか、あるいはそもそもパートナーに出会えないなど、
要するに、ないものねだりをしている場合だってある。経済的な問題で躓いているひともいるはずだ。
じゃあ、逆に「出産を願ってもできない人」というカテゴリーにはそういう社会経済的弱者は入りませんよ、というのかね?
体や心の障害に起因して、ある意味、病理的な意味で、出産ができない人を指すのだと定義したりしてしまう?
そうすると、今度はむしろ、健常ならできるはずのことができない人々は悔しいと思っているに違いない、かわいそうだから、産むとかそんな言葉に触れさせないよう配慮が必要っていう、潜在意識がますます透けてくる。
でも心身の問題で出産できないというのを、自分にはいかんとしもしがたい宿命的なものして捉えた場合、
それって社会経済的な理由で出産できない場合と実際のところ、地続きだと思える。
例えば、親の介護など家庭の事情で適齢期を逃した人がいたとするよね。それってその人にとっては、自分の意思で選んだわけではなく、自分にはどうにもできなかった、そういう運命だったという意味では、病理的に出産できないという宿命とさほど変わらないようにも思うんだよね。
「出産を願ってもできない人」
産みの苦しみとかいう表現を嫌がるような、そういう配慮を要するグループがあたかも存在するかのように、それを空気のように記事するマスコミのほうが怖い。
障害者や病人ができなそうなことを比喩的にでも表現するのは彼らを傷つける行為だとする空気をまん延させることは、「そういうカテゴリーの人たちを可哀そうだと思うべきだ」とする社会規範を空気として押し付けてくることだ。
そこでは、知らず知らずに、どこまでが可哀そうなグループで、どこまでが身から出たさびとみなすグループなのかの選別が空気として形成される。
実際には、よくよく考えると、どこからどこまでが配慮を要する、などと到底割り切れるものではない。誰かを傷つけるかもしれない、と配慮することはそのイメージから漏れた人を知らず知らずに排除することでもある。その意味で、病理的な意味で出産ができない人に限定して、「出産を願ってもできない人」というイメージを作り上げるなら、それは差別的ですらある。その場の雰囲気で、発言の文脈をよく考えずに配慮を求めることで、逆に、特定のグループを過度に保護し、そのグループを弱者として固定化する結果を招きかねない。
抽選結果で「落選」はやめます 都立中高説明会、表現めぐる指摘受け:朝日新聞デジタル
これなんかも、「受験生」の感受性因子(susceptibility)を過剰に捉えていて、おかしなことになっている。
「出産を願ってもできない人」なんていうふわっとしたイメージは、そもそもそんなに必要かね?
言論空間を浄化して、きれいな発言だけをすればいいというものではない。
浄化できるというのも幻想でしかなく、「女性なら生むべきだ」という固定観念を打破し社会的包摂性に配慮したつもりでいて、内実は単にステロタイプな別の固定観念が形成され、それが政治利用されることもある、ということも頭に入れておく必要があるだろう。
政治家の発言に過度な配慮が求められると、知らず知らずに本来の意図や文脈が歪められる恐れがある。
特に選挙に絡んだ発言については、妙な世論誘導に使われかねない。
自由な表現が妨げられることで、社会全体の健全な議論が損なわれることになる、ということの不利益をちゃんとマスメディアは理解しておくべきだ。
30年間童貞として歩んできて、ようやく得た気付きをここに記そうと思う。
童貞とは?
→ ①自己変容を極度に恐れる者(ネガティブ面)②無知が故の空想世界の覇者(ポジティブ面)
この2つの要素に大別できると考える。
①童貞が恐れる変化とは何か?
例:異文化に触れたり、世界標準的な考え方を学んだりすることで、
旧来の日本的な価値観・考え方が上書き、抹消されるのではないか?という恐れ。
<変化に対する望ましい受け取り方>
→ 既存の価値観が無くなるのではなく、新しい情報と融合して進化する、
あるいは、新たな価値観と自身の価値観を照らし合わせ、適切な取捨選択が行われる現象と捉える。
・経験の不可逆性
例:その行為を行うことで、行う前の自分に戻れなくなるのではないかという恐れ。
自らの手で人を殺めてしまった、過ちを犯してしまった、女性を汚してしまった etc.
<変化に対する望ましい受け取り方>
→ 性行為は必ずしも男性側が(女性の何か神聖さを)搾取する行為を意味する訳ではない、と捉える。
(特に取り沙汰される)男性の性欲を悪とする風潮に流されない。
②未経験、無知が生み出す無限の想像/創造力 (ただし、百聞は一見にしかず)
例:目の前にニンジンが吊るされた状態ゆえに走り続けることができる
体験・経験したことがないからこそ「知りたい、理解したい」と想像を膨らませ、興味が持続する。
経験による固定観念、先入観を持たないニュートラルな視点で物事を考えることが出来る。
<注意すべき受け取り方>
→ 得てして美化されたイメージを抱きがち。
焦がしの効いた香ばしい味を出しつつ、カリッとした食感にはさほど重きを置かずしっとりと食べやすく仕上げようって魂胆なんだろうか。
せっかくカリッと焼き目つけたポワレなんかにベシャっとソースかけるのも割と嫌だ。
まあどうせ汁でクタッとなるなら最初からベチャッと焼いちまえばいいってもんでもないだろうけど、かた焼きそばは普通カリッとさせない麺類をわざわざ硬く焼き上げてんだから、なぜせっかくのその食感に重きを置かないのか。上等な料理にハチミツをぶちまけるようなもんだよ。
でもトンカツにソースかけて多少サクサク感が損なわれるのはまあ別に許せる。多分おれの中でトンカツとはそういうもんだろうっていう固定観念があるのかもしれない。その延長なのか、カツカレーもなんかまだわかる。餡かけかた焼きそばはそういう刷り込みを拒絶するくらいに何か違うだろって気持ちになる。
カツカレーはカツカレーとして、ココイチのパリチキカレー食う時はルーから逃れて生き残ってるパリパリ部分をそのまま楽しみたい。パリパリチキン言うてんねやからパリパリで食いたい。
https://anond.hatelabo.jp/20240430184240
あとスポーツしない&資本主義の最悪の表象(色を変えると欲しくなるとおもってるだろ)と思っている増田です。
ABCマートがなんか最近ハイイメージの別形態出そうとしてるけど、過去の悪行考えれば無理っしょ……
なまじ品質がよくカンファタブル&ストーリーも定評もある&色と形で冒険しない&いい感じに高価いと役がそろってるもんだから、
ここ5年くらい小金持ちオジサンの安定靴になっちゃって何も考えずに履くとまあまあダサい。加水分解でソールが剥がれる。
インスタパンプ。すぐ安売りして履きやすくて配色もバカっぽくて良かったんだけど
どうも親会社Adidasに見放され日本法人が撤退気味らしくて弾幕薄くなってる印象。
インスタパンプ以外もヘンな形の出してて好感はある。
ストーリーが薄い。
20世紀はゼロサムスポーツという合法ギャンブルで人間の精神をハックしてブランディングし、
21世紀は疑似も含むC2C投機という合法ギャンブルで人間の精神をハックした。まあそれはどこも同じなんだけど程度がね。
そこまで資本主義まつりに「あえてノる」仕草する気力もないので選択肢に入らない。
良くも悪くもストリートというか、曲がって受容されたのが面白いとおもうけど、最近はそれをブランド側が自覚しちゃって鼻につく。
ヒップホップからのダンスカルチャーはいい面なんだけど、流用されてドンキLDHソフトヤンキーとか
ローテクだけど履き心地はそんなに悪くなくて革モノは長く履ける。
基本おしゃれ女性が履く用でしょ、という固定観念があるのであまり目に入らない。
かつてはサッカーのブランドイメージをいい感じにスニーカーに落としてきたことがあった気がするが。
平成に培われた「asicsとmizunoはダンロップの次にアウト」という固定観念が邪魔する。
リブランディング成功したが、中国人向けインバウンド期に特化しすぎたのか
レトロ風なのにヘンなギラギラがついてる靴という印象になってしまった。
トレイルランブームがあるかのように商社ががんばってて売出中ですね。という印象。
基本アッパーが薄布なのでのっぺりしているところを蛍光色で埋めている。
あのクソダサスキーウエア屋さんがここ数年ハイテク分野で頑張ってる印象。
とはいえクソダサの印象は消えないので全面ロゴとか「これ……かっこいいのか?」となって手が出しづらい。
いい感じの機能の靴をお安く提供してくれる。完全防水ではないけどまあまあ防水とか。
機能靴としては優秀なんだけど、色がビビッド過ぎるとか形が丸すぎるとかで人を選ぶ。
全面的にデザインがトラッドでありつつトンチキでいいひねり方してると思う。
機能は期待してないわりにまあまあ丈夫で好感。
服飾系専門学校生が考えそうな靴。
だけどいかにも高価いんだよな……
よくわからん。ストーリーとか店構えがかっこよさげに思って店に入ると、
どれもウォーキング好きな健康的なオバさまが履いてる靴に見えてくる。
好きになりたいのに熱狂できない。
「『ブランド』というものがあるんだ!」と目覚めた中高生がまず履くものでありつつ、
ちょっと前のノームコアを機に大人のためのリブランディング頑張ってる印象。ユニクロと同じジャンル。
かつてはスケーター文化、パンクス文化とともにユース代表という感じだったのに、
なんとなくイメージ的にはロリータとかぶりっ子とか、女ウケ最悪で男ウケは悪ないってイメージだったけど、着てみると笑えるくらい真逆。
キラキラ今時女ファッションの時はもちろん、お疲れダル着社畜女(退勤時のすがた)でさえもの好きな男は寄ってくるが、かわいくロリータ着ている日だけはまったくキショいのが湧かない。女性ウケは女児からおばあちゃままでとても良いのだが。
社会人なので平日はさすがにロリータは着ていないが、それでもシークレットハニーや今は無きミルフィーユクローゼットを着て、毎日ツインテールで出勤してる。今の所いわゆる要注意お局さん系マダム全員に好かれている。ほかの女の人からもわりと好かれてる感じはする。男性陣からはそれとなく避けられている。
同じ人間のダル着すっぴん死んだ目よりもかわいいロリータ避けてくるのあまりにも意味がわからんくて男おもろい。別に寄ってきてほしくはないのだが、さすがに美的センスが理解できなさすぎるので男側の意見が聞きたい。
【追記】
とりあえず「男ウケが悪いというよりナンパ男ウケが悪いというほうが正確」「いろんな意味でめんどくさそう」あたりが理由なのかな。
街中で話しかけてくる同年代の男性≒ナンパ、まともな同世代男性は(良し悪しをどう考えているかはさておき)街中で知らない女の人に声をかけることはない、という認識が抜け落ちていた。確かに、全然性的に絡んでくるわけではないおじいちゃんとかは通りすがりに「お人形さんみたいだね!」「イケてるね!」と言って通り過ぎていくことがある。そう思うと大好きな格好をしながらナンパ男から身を守れるロリータありがたい。
めんどくさいに関しては「物理的にめんどくさい(脱がせづらい、服を汚してはいけないと気をつかう」、「精神的にめんどくさい(気が強そう、病んでいそう)」の複合めんどくさいといったところだろうか。
ついでに異質さが怖いと感じることもある。女性であれば程度の差はあれ着飾ることが好きな人は多いので、自分が着るかはさておきロリータがファッションと認識しがちだが、男性から見るとコスプレ等に見えがちで、街中でコスプレしている怖さを感じやすいとかだろうか。
服装は、出勤時は上記の通り。休みの日はアンジェリックプリティとかロイヤルプリンセスアリスとか検索すると出てくる感じの服。
それにしても、本文ではただ「なぜ同じ女が死んだようなボロボロの姿の時のほうがかわいい服に身を包んでメイクも髪型もばっちりキメてる時よりまだ声をかけてくる男が発生するのか」という謎を呟いているだけで、特に他意はないのだが、これだけ本文にはないようなことを勝手に読み取って賛否が出てくるロリータという服は、いかに良くも悪くも偏見というか固定観念をもたれているのかというのを改めて感じて面白い。
ただ、なにはともあれ、世の中には服を「浮いているか否か」という視点でしかとらえていない人がいるというのは、お洋服大好きな自分からすると未知の世界で、そういう考え方を知ることができただけでも、書いて良かったなと思う。
「男らしくない弱者男性を女が選ぶようになって初めて、男の生きづらさは解消する」
みたいに言われたから。
恋人なんていなくていいじゃん、って返したらメチャメチャ切れられた思い出。
数年前結構人気になったエントリだから、覚えてる人もいると思う。
私的には、『女性に認められることこそが男らしさ』という固定観念こそが男らしさの正体だと思ってる。だけど実際には「あなたは男らしい」というと喜び「あなたは男らしくない」で怒るんだよね。
なのに今、自分から男性性を降りるのではなく社会が男性性から降ろさないのが悪いって話が出てて、男は実は社会の構成員たる女性に男らしくないと言われたい、とのこと。もう、愛想が尽きました。