はてなキーワード: 四葉とは
端的に言って、思いのほか面白かったです。
監督の過去の作品から憶測して「どうせまた雰囲気だけの恋愛映画だろう」と思い、
あまり乗り気ではなかったのですが、
実際にはそうではなく、非常にエンターテイメント性に富んでいて、
過去作とは段違いの人気があるのも素直にうなずけましたし、見に行って本当に良かったと思います。
その上で、気になったことが主に二つありました。
それは、恋愛作品としての欠点と、恋愛以外のストーリー上の欠点です。
前半のコミカルな入れ替わり劇から、後半のシリアスな展開へといっきに変える重要な部分であるだけに、
こまかいことではありますが、違和感のようなものが最後まで残ってしまいました。
今が何年かというのは、嫌でも目や耳にする機会はたくさんあるはずですし、
もし何月何日という日付が同じで気づきにくかったとしても、曜日がちがうはずです。
テレビで彗星のことを見て、それを思い出せなかったのはすごく不自然に思えます。
ただし、このことについては、設定上の説明はいちおうされていると思われるので、
「入れ替わってるあいだは、まるで夢の中にいるように、意識や記憶があいまいになる。」
というような説明が何度かあったので、
おそらく、日付のちがいに気づけなかったり、彗星や糸守の惨事のことを思い出せないような、
ただし、この入れ替わりの能力自体が、糸守を惨事から救うためにあるとしたら、
記憶があいまいになるように働く力は、その目的に反したものになってしまうので、
その矛盾を解くために、さらなる説明が必要になる気はしますが・・・。
そういえば、入れ替わった瀧が、朝、制服を着て学校に行こうとして
四葉に「なんで制服着てるの?」と言われるシーンがありましたが、
もしかしたらあれが、「曜日がちがっているけど気づけない」ということを
表現したシーンだったのでしょうか。
さじ加減の難しい部分ではあると思います。
そして、恋愛作品として、はっきり欠点と言えるのがこの部分です。
入れ替わる前までの二人は、せいぜい胸を揉んだり、都会の生活を楽しんでいただけで、
入れ替われなくなり、シリアスな展開になったとたん、
「お前が世界のどこにいても、必ず会いに行く!」などと言い出してしまうほど、
たしかに、急にもう会えないと知って、もういちど会いたいという気持ちが盛り上がるのは、
瀧は三葉のことを好きになっていることを先輩から指摘されていますし、
ということは、入れ替われなくなり、会えなくなる前から、
すでに二人は好き合っていたということになるのですが、
そうなった理由もわからないですし、それらしい描写も何もなかったように思います。
自分一人では行き詰ってしまっていた問題を、入れ替わってる間に相手が献身的に解決してくれたなら、
そうやってお互いの心の深いところまで知るうちに、
相手を大切に思う気持ちが芽生え、それが徐々に好きという気持ちに変わっていって、
ラストシーンでようやくそれが最高潮を迎える、というような展開であったならば、
おそらくもっと納得できたでしょうし、感動できたのではないかと思います。
でも実際には、瀧は自分の感情から机を蹴って意地悪な同級生たちを威嚇してみせただけですし、
三葉は、興味本位から先輩との仲を取り持って余計なお節介を焼いただけでした。
これだけではとても、お互いの心の深いところまで踏み込んだことにはならないと思います。
にもかかわらず、ストーリーの中盤ですでに、二人の恋愛テンションはマックスになってしまう。
これでは、観客は置いてけぼりにされた上にどん引きされてもしかたありません。
結局、この問題は、監督自身の恋愛に対する価値観から生まれているのだと思います。
ささいな出来事でも惹かれ合い、出会ってしまえば恋に落ちるのは当然、ということでしょう。
宮水の神様から与えられ、三葉のご先祖様たちから受け継がれた、
「時を超えた入れ替わり」の能力のことなのだと、いちおうは理解できます。
本人たちの意志とは関係なく無理やり結び付けられた二人というのは、
もし、瀧と三葉がその「運命」によって惹かれ合っていただけなのであれば、
糸守の人々を救うことができた時点で、その必要はもう無くなってしまうことになり、
五年後に再会した時に、お互いを「運命の人」とすぐに認識できた理由が説明できなくなってしまいます。
このように、「運命の人」という言葉自体は、この上なくロマンチックな響きのようではありますが、
実は本来のロマンスとは異なるものだというジレンマを併せ持っています。
だからこそ、その「運命」によって惹かれ合った二人が本当の恋に落ちるための理由、
いわば「運命の人のジレンマ」を埋めるためのプロセスが、本来であれば必要なのです。
また、運命の人かどうかはともかく、
誰かを好きになるために、第三者が納得できるような客観的な理由というのは、
じつはほとんど無いのだろうと思いますし、必要も無いでしょう。
たんなる直感や一目惚れといった、本人だけにしかわからない理由であったとしても、
本人さえ納得していれば、何の問題もありません。
そう考えると、瀧と三葉が恋に落ちた理由も、べつに無くても良いのではないか
と、思えてしまうかもしれません。
ですが、ことフィクション作品においては、それではダメなのです。
監督や脚本家という第三者によって、観客という別の第三者が見るためにつくり出された
ですから、その第三者が納得できるだけの理由が、絶対に必要になります。
もし本当にリアルな、つまり理由の無い恋愛を描いた作品にしたいのであれば、
監督や脚本家がつくり出したものでもなく、観客が見るためのものでもない、
実際に恋愛をしている二人のありのままを撮ったドキュメンタリー作品をつくるべきです。
そうではなく、あくまでフィクション作品をつくりたいのであれば、
たとえ恋をしたことが無い人でもそれが「リアル」だと感じられるような「リアリティ」、
わかりやすく言えば、たとえ「ウソ」でも「リアルっぽい」と思わせる説得力であり、
もしそうでなければ、リアルにおいて「理由の無い恋愛」をしたことのある人にしか、
これは恋愛だけでなく、たとえば、殺人や戦争などの表現に置き換えてみると、
たとえどんなにリアルでも、
実際に殺人や戦争を体験した人でなければ、理解も共感もできないような表現を、
フィクション作品に用いることは悪手なのです。
そもそも、今作のようにオカルトやSFなど、リアルではない世界観を扱っている作品で、
それは一つの作品の中で各要素における「リアリティのレベル」が合っていないことになるでしょう。
恋愛体験の異なる人たちのあいだで論争になっているようですが、
そのこと自体がすでに、恋愛をテーマにしたフィクション作品として、
この作品が大きな欠点を有していることの顕れである、と言えると思います。
恋愛作品としての欠点が、監督自身の恋愛観に因るものであるとすると、
今後の作品において何度でも繰り返されることになってしまうのでしょうか。
今回は、監督のその間違った恋愛観を表現するための設定や伏線の副産物として、
エンターテイメント性の高いストーリーがたまたま生まれてしまっただけだとすると、
今作のヒットは、ただのラッキーパンチだったということになってしまうでしょう。
できれば、そうならないことを願いたいと思います。
「君の名は。」で口噛み酒のシーンが気持ち悪いと言う話になっている。
http://togetter.com/li/1029154
口噛み酒自体は新海監督のある種のフェティシズムの発露であるというのはインタビューでも言っていたのでまぁ気持ち悪く感じる人がいるのもわからなくはない。
本来性癖は人によって千差万別でかなり慎重に扱うべきものだからだ。
一方でエロは万人にほぼほぼ普遍的に存在するものなのである程度の公約数的な部分を確保してしまえば多くの人間にフックするという強みもある。
新海誠監督は今まで過去作においてエロティックな場面をほとんど描いてこなかった。
その理由は私にはわからないがある種の特徴の一つでもあったと思う。
そういった点がこじらせた「童貞」臭さと言われる一端でもあった。
※ちなみに新海監督は童貞臭いと言われることを一定程度評価している旨をラジオ番組で発言している。
おそらく童貞臭いという評価に内在する純粋さ・ピュアさが新海監督がターゲットにしている思春期の男女にまさにクリティカルにHITする部分だと思っているからだろう。
今回はそこから一歩踏み出し、フェティシズムや一定程度健全なエロさを作中に含ませようと考えたのは恐らく言の葉の庭の足フェチ描写が観客に評価されたからであると思う。
ということに気づいたのだと思われる。
東宝に出した最初の企画書の時点で三葉の胸を揉む描写が既にあったことが見て取れる。
一方で性欲を丸出しにしてしまうと下品すぎて観客が引いてしまうことは恐らく既に把握していて、言の葉の庭では足を触る描写をエロティックだが徹底的に崇高かつ審美的に描き下品さをかき消すと言う手法を使った。
それに対して今回使った手法はベタベタと言っているように定型的で既に出来上がった文脈の手法をそのまま持ってきた形だ。
つまり笑いを使うことでエロさに健全さをくっ付けることで観客が引くことを回避させようと言う手法である。
つまり観客にこのシーンを見て笑ってもいいんだぜ?
というわけだ。
最近エロの手法を取り入れたにしてはこの辺の技巧に非常にしびれたし、単純にうまいなと思わされた。
なんとなくこの辺で瀧君を「ちょっとエッチな東京から来たイケメン」という卑近さを生み出すの成功しているような気がする。
股間に手を出すのはアウトだが、胸ならギリギリという非常に危ういラインだ(瀧が三葉の状態でトイレに行く描写がないのはそういうことだろう。三葉in瀧ではあるのに)。
その他こまごました部分を含めてその辺の舵取りはかなりきっちり詰めたのだろう。
お見事でした。
しかし、この入れ替わりシーンは置いておくとして問題になっているのは口噛み酒のシーンである。
と言うシーンである。
ここにオタク男性的感性をどうしても感じてしまうと言う点である。
四葉が女性の性的価値を少女でありながら感じていることに違和感を感じると言うことだろう。
しかし、正直この点に男性性をいきなり感じてしまうというのは少々飛躍しすぎではないだろうか。
実は作中に少女向けのファッション雑誌が部屋に転がっていると言うカットが存在する。
つまり、四葉はそういう点にわりと自覚的であるのではないかというエクスキューズをわざわざ用意してあるのだ。
あるいは三葉の言うとおり「思春期前のお子様」であるのでそういった視線に知識はあるものの無頓着である。
という解釈もできるかもしれない。
いずれせよ、安易に一方的な男性性を見出すには少々待ったをかける必要はあるはずだ。
ネット上の論評をいくつか見て回って、少し思ったことがある。
思ったのは新海誠が男性であるからといった点が論評において強く作用しているのではないかという点だ。
もちろん秒速5センチメートルが強い男性目線からの作品であったのは事実だと思うし、実際作中のモノローグの量はタカキの物が大半だ。その様な作品で男性性を強く見出すのはわかる。
しかし、だからといって一足飛びに「君の名は。」をすぐに男性的であると決め付けすぎるのはすこし早すぎる気がする。
もちろん過去作の文脈をまるごと無視するというのはさすがに無理があると思うが、言の葉の庭における雪野の描写や彼女と彼女の猫が女性主人公であるという点を無視しすぎである。
一方で日本では従来の男性ファンがあまりにも多すぎた気来がある。
そのせいかどうも、評論すら男性的目線から見たものが多すぎる気がする(特に上白石萌音が秒速でどちらかというとコスモナウトに感情移入したというのは示唆的だ。ネット上であまりその視点から言及した記事を見たことがない。)
女性が自分の性的価値を認識していないというのは少々一方的過ぎるだろう。
女性受けを狙ってアイドルをやっている人もいるという説明もまぁそういう人もいるだろうが、皆男性からの目線を意識していないなどというのは少し純粋性を女性に求めすぎだ。
特に三葉が口噛み酒販売に対して斜め上の回答をしたのはまともに回答するのが恥ずかしいからであり、それは三葉に対するジェンダー的抑圧の強さを示している部分でもあると思うし、「イケメン男子にしてください」という台詞にもつながる。
わりと重要な部分だと思うので安易に監督の男性性に固執するのは危険だと思う。
勅使河原の口噛み酒の部分もあれは作品のメッセージではなく勅使河原の認識とみなすのが相応だろう。
同じ縁故に縛られた立場として土着にまつわる行為を否定されることにある種のシンパシーからの擁護であるとも取れる。
※つまり、必死こいて神事を行ってるのに友人まで否定するのは酷ではないかという同情的心理。縛られていることに息苦しさを覚えていながら糸守に愛着があるという描写を事前に行っているのはその辺の示唆なのではないか。三葉がどう思うかは別である。
http://anond.hatelabo.jp/20160925060352
辻褄あってるというか「整合性の塊」なんてコメントもでるくらいだけど、やっぱ辻褄あってないんだよなー
映画の始まり、彗星が落ちてくる場面のあと、瀧と三葉がそれぞれ東京暮らししている家で目覚めて、
2人とも「何かが消えてしまったという感覚だけが、残る」という意味のことを言って、出勤。
電車に乗って、それぞれドアの近くに立って外を見ながら、
「ずっと誰かを探している、そんな気がする」「そんな気持ちになったのは、たぶんあの日から」となる、
そして、瀧は、自宅団地というかマンションの屋上っぽい場所で割れている彗星を見上げている場面の回想シーンになる。これはいい。
しかし、三葉のほうは、浴衣姿で、割れている彗星を眺めているシーンを回想する。これは明らかにおかしい。
彗星落下日に浴衣姿だったのは、【彗星が落ちて500人死んだ時】のものだ。
考えてみて欲しい、彗星落下日に避難訓練というテイで奇跡的に三葉も四葉もテッシーらも死なずに住んだあの日、
中身が瀧の三葉は、朝、制服姿で学校に行って、「このままじゃ全員死ぬ」とか言って作戦を練るも、
中身が瀧の三葉は、「俺じゃダメなのか」ってなって例の酒のある場所に行って三葉と会う。
あの日、中身が瀧の三葉も、中身が三葉に戻った真三葉も、一度も浴衣姿にはなってない。
制服姿で街中をあちこち走り回って、彗星落下のグラウンドゼロ周辺から住人を避難させたわけで。
だからこそみんな生き残って東京で電車に乗れて、そして最初の場面が最後の場面につながるわけで。
世界線が変わって2人が入れ変わって奔走したわけでない浴衣姿の時にも被害でなかったってなら、
東京の電車に乗ってる2人は入れ替わりもなく出会うこともないし。
浴衣姿で空を見上げていた世界線でさえ2人が出会うならそれはもう単なる運命でしかなくて、
辻褄合ってるとかじゃなく、辻褄合わせようとして設定とかあれこれこねくり回しているレベルにすぎない。
「運命だとか未来とかって言葉がどれだけ手を伸ばそうと届かない場所で僕ら恋をする」ってことと真逆のことにもなるしね。
落ちてくる彗星、死んだはずの人々、そういう運命を、互いを好きだという2人の行動で変えたからこそ、その2人がラストで出会うことに意味があるわけだし。
個人的にこの作品大好きでだから何度も劇場に行ってるわけだけど、辻褄合っている、整合性の塊みたいなのは言いすぎかな。
自分の大好きで最高だと思う作品が、完璧で誤謬も矛盾もない素晴らしい作品だ、
あるいはほとんど矛盾もなくほぼすべてのことに説明がつくんだ、と思い込みたい気持ちや、
自分の大好きな作品へのツッコみや批評を、まるで自分が否定されたかのような気になってイラついてしまう気持ちはわかるけどね。
設定ゆるゆるだしツッコミどころやおかしなとこともあるけれど、俺は好きだよ、おもしろかったよって言ってる人たちはずっと真摯だよね。
バイトや学校行ってるのにまったく時間のズレに気づかないとか、都合のいい部分だけ忘れる、とか、
そういうあれやこれやのご都合主義解釈や、スピンオフ小説や、監督の後説でツッコみどころもなんとか説明できないことはない、
くらいのレベルのお話って、少なくとも「辻褄合ってる!すごい!」って言えるレベルのものではないと思うよ。
盛り上がる印象的なシチュがまず第一で、それらのつながりの辻褄はこの映画はお世辞にも上手いものじゃない。
でも俺はおもしろかった。俺はあわなかった、そういうことでいいじゃない。
http://method-of-pharmacist.hatenablog.com/entry/%E5%90%9B%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%81%AF%E3%80%82
>そもそも「入れ替わり」の原因って何?
>二人が入れ替わった理由って、物語中で明示されていましたっけ…
>三葉の家の血が、「入れ替わりの夢」を見せる力を持つからってことでしょうか?
>一葉おばあちゃんも「昔私も同じような夢を見た」って言ってましたよね?
>「入れ替わり」が起こったのは、三葉が持つ特殊能力?
二葉さんにも、同様の事が有った様です。
「妄言は宮水の血筋か」と、宮水トシキ氏(三葉と四葉の父)が言ってましたから、彼も、常識的には理解しがたい事を、奥さん(二葉さん)から聞いて居た筈です。
一葉さんとの会話で、瀧入りの三葉の「その能力は、この時の為に有ったのでは」て発言が、部屋に飾ってあった宮水家歴代の方々の写真が映っている画面で、有ったかと思います。
>都会のイケメン男子として暮らしたい」という三葉の願い(遺志?)が、
>3年先の世界で生きる瀧との入れ替わりを実現したんでしょうか?
過去の隕石落下当時や、200年前の大火でも、似た様な事が有ったのかもですね。
>なんで瀧と入れ替わったの?
>なんでわざわざ3年先に生きる17歳の瀧と入れ替わったの?
>三葉の死亡、糸守町の壊滅を防ぐために?
そうであろうかと思われます。
>「3年のずれ」、途中で気づきませんか?
>二人の世界に3年のずれがあることを、
>お互い入れ替わっている間に気づかないもんなんですかね。
>スマホ開けば今は何年何月何日かとか、
>友達と話せば微妙に話題がおかしいこととか、気づかないものですかね…?
>本編では瀧は「糸守町は3年前の事故で壊滅した」ことを、実際に岐阜県に行って初めて気づきます。
>そして、三葉が2013年までしか生きられなかった人物であること、
>自分が「入れ替わり」で経験した世界は2013年だったことを、そのときやっと気づきます。
>正直、もっと早く気づかないんですかね?週に2~3回は入れ替わってたし、日記もつけていたし。
入れ替わりの発生期間は、何度も有ったにせよ、そんなに長くはなかったのでは。
もう少し長く続いていれば、また違ったかもです。
それと、日記では、年は省いていたのでしょう(確か、スマホのアプリでも月日だけだった様な)。
また、「夢」で見聞きした情報は、醒めた後は、断片的に不鮮明に成る様です。
よって、戻っている間は、時間のずれに気付けなかったと思われます。
瀧が糸守町を探していた折りも、探索中は名前を認識していませんでしたが、ラーメン屋夫妻から聞いて「そう、糸守町!」と思い出しました(一旦認識はしても、覚醒中は薄れるという事)。
>なんで瀧は三葉を好きになったの?
>なぜ瀧が三葉に入れ込んで
>命がけで三葉を助けに行くまでになったのかが、あんまり伝わってきませんでした。
>このとき三葉と出会った記憶が無意識に刷り込まれていたから、
>瀧は三葉のことを好きになったのかな。
>序盤でも、三葉に組紐を託されるシーンが夢の中に出てきていましたよね。
思春期の少年にとっては、可愛い女の子と知り合えた時点で、大事件ですよ。
ましてや、その子が死んじゃう(死んじゃっていた)んですよ?
で、瀧の感情は。
入替わりの日常化/
奥寺先輩とのデートと其の不調、「別の誰かが意中に居るのでは」と指摘される/
入替わり起きず、連絡も不通。不安/
諦めきれず、御神体の所まで行き、口噛み酒を飲む/
トリップ。三葉の人生を俯瞰し、三葉が自分に逢いに来てくれ、組紐を託してくれた件を認識(その時の事を思い出す)/
最後の入替わり発生/
カタワレ時、奇蹟的な出会い
て過程で、強まっっていったのでは。
こうやって見ますと、特に、《三葉が自分に逢いに来てくれ、組紐を託してくれた件》で、キュンときますかねえ(“刷り込み”も、有るかもですが)。
>別に東京が舞台じゃなければならない理由って、なかったかなーって思います。
>3年前の事故とはいえ、彗星が日本に落ちて500人以上死亡したって、
>未曽有の災害だと思うんですけれども。
災害を知ってはいても、自分が入れ替わっている人間の住む町との認識が、上述の理由により、無かったのでしょう。
最後、瀧は就職したばかりで22-23歳くらいで、三葉は25-26歳くらいです。
>そういや三葉は東京へ瀧に会いに行ったとき「14歳の瀧」を見つけたわけですけど「あれ?子供じゃん?」って思わなかったのかな。
彼が、入れ替わっていた瀧だと、見て、直感したのでしょう。
>あのとき14歳の瀧に邪険にされたから、そして組紐を瀧に託したから、三葉は髪を切ったんですね。
(文責.ID:popoi)
君の名はマジよかったよ!
やっぱシンゴジラだよねみたいな再評価に落ち着くかと思ってたけど裏切られたよ!
新海誠いいよ!
おっさんだろうけどすごいよ!
レビューで年取った人が見ても所詮主人公に感情移入できなくてヘコんで虚しいだけみたいなこと言ってたけど、全然そんなこよないよ!
おっさんの思い出も掘り起こされたよ!
甘酸っぱい青春なんてなかったけど
むりやりないものを掘り起こされたよ!
そしてなんか見つかっちゃよ!
捏造だよ!
三葉生きててよかったよ!
四葉もだよ!
ラッドもよかったよ!
それで満足しちゃったよ!
applemusicでラッドDLしようと思ったけどなんか日本未対応とか言って怒られたよ!
映画みたてで興奮してるよ!
圧倒的にレビュー数少ないよ!
君の名が知りたいよ!
おっさんの前に座ってるザワンのおっさんの降りる駅が知りたいよ!
おっさんの名はまさおだよ!
帰ったら早く寝るよ!
起きて事務のおばさんと入れ替わってたら困るよ!
http://mercury-c.hateblo.jp/entry/2016/09/12/224030
そっちの方が、お客さん達が入り込み易いのでは?
>瀧が三葉を助ける話に変わってしまったように感じた。
>ここで、事件において瀧の側も何かしら影響を受け、
>それが将来に繋がっていくなどがあれば、まだ2人の対等関係が維持されたはずだが、
>そういったことを描くにもやはり瀧側の物語が希薄であったように思う。
思春期の少年にとっては、可愛い女の子と知り合えた時点で大事件ですよ。
ましてや、その子が死んじゃう(死んじゃっていた)んですよ?
あと、リストバンドにしていた組み紐が、伏線に成っているのですね。
>三葉の環境に対する不満はどうなったのか。
>同じように三葉が抱えていた田舎への不満と東京への漠然とした憧れも、
故郷を喪失してから、其処への想いを痛切に感じるとか、まあ、有ったでしょうけど、其処は観る側が想像すべきかと。
>そこに三葉はどう影響したのか?
>それには入れ替わりの、また瀧の影響があったのか?
直談判の場面で、町長室にお祖母さんと四葉ちゃんが居ましたが、あれ、三葉の異変について話していた可能性が有る様です。
お祖母さんが、自分や二葉さんにも、その様な現象(未来の誰かとの精神の入れ代わり)が有ったと、お父さんに証言していたかもしれません。
お父さんは、「妄言は宮水の血筋か」と言っていたので、お母さんから其の種の話を聞いていた可能性も有ります(或いは、この2人の間にも入れ替わりが?)。
で、この事象は、お父さんが神社を捨てる切欠となった、二葉さんの早世(病気に成っても、町から出ようとせず、治療の最善手を放棄していた由)の問題にも繋がる様です。
お母さんは、お父さんが妻の死を悲しみ神社を捨て、町長に成る事、巡り巡った結果、大惨事からの避難を可能とした事など、先々の大筋を把握していた可能性が有ります。
>父親に直談判するシーンにその答えがあったはずだが
とりあえず、三葉父の家庭の事情や個人的な心情は、加納新太さんによる小説『君の名は。 Another Side:Earthbound』(角川スニーカー文庫)を読むとイイらしいです。
>そのへんが省略されて
>ぼくは腑に落ちないのだった。
瀧と三葉、両者の関係は、ダイレクトに、個人と個人の結びつきです。
立花家と宮水家とかが前提に、入れ替わり現象が発生していた訳ではありません。
・追記
宮水家の血統に伝わる不思議とか、父親の権力の要素で、三葉と其の環境を重視する(故に、“主人公2人の結び付きは個的なものではない”、由)意見が有りましたが。
宮水と無関係な瀧は、瀧であればこそ、三葉だけではなく、縁もゆかりも無い人々をも救う為に動きました。
糸守と宮水家に生まれ育った三葉は、彼女自身であればこそ、同様に動きました。
自ら無為に見える死を選び、状況を導いた(と思われる)二葉さんについても同様。
(文責・ID:popoi)
「君の名は。」を観た。映画としては面白かったが、監督の東京至上主義的発想がにじみ出ていて気分の悪い作品だった。以下ネタバレこみでどこが気持ち悪かったか書く。
まず、三葉が飛騨に住んでいるのに東京の話ばかりするところが気持ち悪い。飛騨は一応岐阜の一部であり東海地方である。テレビも名古屋のニュースが入るはず。ならば、まず三葉が向かうべき都会は東京ではなく名古屋のはずである。もちろん、東京と名古屋では都市の規模に明確な差があるけれど、「カッフェ」はたくさんあるし雇用も最低限はある。実家の様子を見に行くことを考えれば名古屋に就職するという選択肢も考えられるはずで、そこがすっぽり抜け落ちているのが不思議だ。小説版では三葉が名古屋のことを「大きな田舎」と表現する場面があるらしいが、当たり前だが飛騨よりは名古屋のほうが何倍も都会だ。三葉たちが困っていたのは「カッフェ」がないこと、雇用がないこと、訳のわからない因習があることだ。それらから逃れるためだけならば東京ではなく、岐阜市なり名古屋市なり富山市なり近くの地方都市に引っ越せばいい話である。(岐阜や富山は雇用が少ないかもしれないけれど)三葉が「田舎」を脱出したいという気持ちはわかるが、その向かう先が「東京」である必然性は感じられなかった。
次に、三葉たち糸森村の若者たちが最終的に三人とも上京するというのが気持ち悪い。繰り返し書くが、三葉たちが「田舎」から脱出するなら名古屋に引っ越すという手段もある。それなのに三人が三人とも東京に出てくるのはなぜなのか?また、百歩譲って名古屋が飛騨と同じレベルの「大きな田舎」だとして、「田舎」に彼らが残らなかったのはなぜか?糸森が消滅したとして、その地元に愛着があるなら欠点はあれど飛騨に残るという考え方も抱けたはずだ。特にテッシーは親父が土建屋でその跡を継ぐという選択肢も考えられたはずであり、岐阜で就職することもできたはず。東京に行った三葉と地方に残ったテッシーという対比もできたのに三人とも上京してしまうというのが腑に落ちなかった。
そして、彗星が墜落したあとの三葉とテッシー夫婦以外の糸森町民の姿が描かれないのも気持ち悪い。町は半分くらい吹っ飛んだが避難は完了したはずで、三葉の妹やおばあちゃん、親父さんは生き残ったはずである。それなのにせいぜい三葉の親父さんが週刊誌に載ったことがわかるくらいで妹やおばあちゃんの後日談はない。あたかも彗星によって三葉たち以外の糸森町民は抹殺されてしまったかのようだった。また三葉たちは生き残ったが、糸森という文化は彗星墜落によって消滅してしまった。これは瀧が過去を改変する前も後も実は変わっていないように思えた。田舎の文化や田舎に残った人たちを瀧は実は救えていないのではないか。
(そもそもおばあちゃんや妹は生き残ったのかという疑問もある。ラスト付近で瀧が彗星の被害について振り返ったとき、彼は「突然の避難訓練によって、奇跡的に『ほとんど』の町民が生き残った」といった。この言葉からわかるのはあの彗星墜落によって少なからず死者が出ていたということである。その死者の中にテッシーの親父や三葉パパや四葉が入っていた可能性も後日談が描かれなかったから十分ありうる。神社や土建屋といった「田舎の因習」の象徴である彼らを監督は観客にはわからない形で彗星で消し去ってしまっていたのかもしれない。)
①「君の名は。」の世界には「東京」と「ど田舎(=飛騨)」しか存在しないのが気持ち悪い。地方都市の存在を無視している。
②若者たちは必ず「東京」へ行かなければならず、彼らが抜けだしてしまった「ど田舎」は描く必要がないという思想が気持ち悪い。東京は必ずしも「地上の楽園」ではないし、若者たちが抜けだしても飛騨に残った人たちの生活は続いている。「田舎」は「東京」へ向かう若者たちの踏み台ではない。
この二つは監督の「東京至上主義」から出てきているのではないか。東京以外に日本に都会はなく、あとは全て「田舎」である。「都会(=東京)」は素晴らしく、「田舎(=東京以外)」はくそったれであり、若者は必ず上京しなければならない。自分は新海監督のファンではないので彼が今までどういう映画を撮ってきたかよくしらない。だけど、「君の名は。」を自分なりに解釈するとこういうメッセージがあるように思えて仕方ない。そしてこの発想は「東京以外」にすむ自分としては非常に気持ち悪い。セカイ系だなんたら言われてる人らしいがその手の批判もむべなるかな、と思ってしまうような映画だった。
・追記
一部ブコメに返信
「miruna 軽井沢の田舎のボンボンにはTOKYOがあんなキラキラに見えるんだよきっと。ファーストフードの豊かさを無視してブルジョア高校生がクソ高いカフェでお茶してトラットリアでバイトするんだから。」
これは全くその通りだと思います。自分がなんでこんな増田を書いたかというと恐らく新海監督は長野のご出身(それも関東圏にかなり近い)なので都会=東京なんですよ。彼の原体験にはど田舎(長野)と都会(東京)しかない。近くに札幌や福岡、名古屋のようなそこそこ都会な都市がない。だから地方都市をぶっ飛ばして若者がみな東京にすい寄せられていく話を書いたんだと思います。でもそれは福岡や名古屋、札幌のほうが東京より近いエリアでは微妙に事情が違ってくるはずなんですよね。だから本当はご自身の出身である長野東部を舞台にされたほうがしっくりくると思います。
「Phenomenon あんだけ飛騨を美しく描いてるのにその解釈②はないんじゃない」
この点については「星の降る夜に”『君の名は。』(ネタバレ) - 私設刑務所CHATEAU D'IF http://chateaudif.hatenadiary.com/entry/2016/09/09/232626」というエントリーが自分以上にわかりやすく解説しています。
“ 新海誠本人の田舎への郷愁は景色のみで、ヒロインの言う「都会に行きたい」、東京大好きが本音というところだろうか。彗星には世界が滅びる鬱映画『メランコリア』的な破壊衝動も感じる。人が死ぬ必要はさらさらないけれど、場としての田舎は滅び去れ! 災害描写は3.11メタファーなのだが、滅びるのが予言通り、みたいな乱暴さもあり、ババアの教えや伝統芸能が、街が救われることプラス自分の恋愛のために存在した、というのはすごいナルシシズムだ。 ”
“ ヒロインや友人ら主要登場人物はみんな東京へと去り、親以上の世代のその後は語られないあたり、まさに「親殺し」の物語であったとも言える。”
「メランコリア」は未見なのでよくわかりませんが、自分は「君の名は。」を観て「アクシズが墜落してしまった逆襲のシャア」みたいな映画だなあ、と感じました。人は死ななかったわけですが、彗星の落下自体を「奇跡」で回避できなかったということは、実はかなり絶望的な映画なのではないか、と。彗星の落下は自然現象ですが、その落下を設定したのは監督自身です。彼には田舎の人間(若者以外)を全て抹殺したいという願望があったのでは?少なくとも私は田舎に対する愛着は感じられませんでしたね。
とにかく自分は事実誤認(四葉や彗星の死者数)をたくさんしているということもわかったので、もう一度見返したいと思います。そしたらまた追記を書くかも
君の名は。にはまってしまい、劇場2回の視聴に加え、小説と外伝も読んでしまった。
それで思ったのが、瀧と三葉の入れ替わりは、赤の他人同士のものでは無く、瀧が三ツ葉の生まれ替わりであることに起因するという仮説。
また瀧が思い出すのが三葉の隕石落下までの記憶に限られることから、瀧は隕石落下で死んでしまった三葉の転生ではないかとも思う。
ネタバレ注意。
瀧くん、入れ替わった時に胸だけでなく性器もめっちゃ観察してそう。三葉もか。
奥寺先輩は瀧くんをどう思っていたのか。
三葉の時の瀧が好きだったのか、単に面白いな〜と思ってたのか。
最後に、東京に出たから会いにきたというのは、なんだったのか。
気まぐれか。
三葉、つまずきからのローリング転がりが火サス風味で死んだかと思った。
三葉、瀧になっていた時はうまくトイレできたんだろうか。
てっちゃんは少年院にぶちこまれたりしていないのだろうか、心配。
新海さんは年上好きなのかな。
飯描写がんばってた。
襖、障子、電車のドア、そういう境界として意識的なカット多かった。
ほしのこえ→雲の上、約束の〜→秒速〜→星を追うこども、と、過去の作品があったうえで、今作だなあと。
奥寺さんと司がつきあってたりしないかなー
http://anond.hatelabo.jp/20121204195754
魔法科高校の劣等生を読んでいる間、ヘルシング読んでるときと同じような「え、こんなチートどうやって倒すんだよ」的なわくわくを感じている。
更に言えば1章のブランシュとか2章の中華マフィアとか、大亜連合とか、Web版の●●編で出てきた●●ーズの隊員たちがやられていく様を見て、ヘルシングのリップヴァーン中尉が船乗っ取ってからアーカードにやられるまでの焦燥感を思い出した。
もっと達也さんがキチガイで、もう少し敵キャラに魅力があったら更にわくわくできるのに。
頼るべき組織もなくて、むしろ四葉の生まれじゃなくて一般家庭の突然変異で。
もちろん異性にモテない。異性の影がない。友達はいる。風紀委員にはならない。
森ナントカさんに絡まれたので倒し、はんぞーくんに絡まれたので倒し、ブランシュ襲撃の場にいたので倒し。でもいろいろ誤解されて評価は上がらない。
で、横浜争乱でみんなが疲労困憊となっているところに、韓国沖に並べられた軍艦達が日本を目指す。どうしよう、やばい。戦える奴がいない。劣等生しかいない。やばい。
やめとけよ劣等生、お前なんかが戦ってどうにかなるレベルじゃないってほら下がって・・・・・
シバさん「マ テ バ」
「(外野の)熱いドラマ、熱い戦い、そして全てを吹き飛ばすワンパン」「どうせワンパンでカタつくんだけどそれでも」的なものを魔法科でも感じたかったんだ。
今回はこれは良いなって思った言葉をご紹介。
1)良い言の葉は良い樹を育てる
それでは続けてご紹介。
2)冬来たりなば春遠からじ
3)思い込みを捨て思いつきを拾おう
7)苦労を貯めると幸せと交換できる
9)変わらないことのリスクは大きい
11)ボールハンドリングがうまくてもシュートを打たなきゃ意味が無い
13)努力に逃げるな。挑戦しなさい
15)今日は恥をかきに行く。と決めたら良い
16)ダサいことを本気でやっちゃうのがカッコイイ
21)見るべきは最先端よりも足元
22)誰かを自分にいつかを今に
25)人は10の内、9つ幸せでも、残りの1つの不幸の不満を言う
26)どこへでも続く道はある
今回は27個も紹介してしまいましたが、
今回はここまで。
今回はこれは良いなって思った言葉をご紹介。
1)良い言の葉は良い樹を育てる
それでは続けてご紹介。
2)冬来たりなば春遠からじ
3)思い込みを捨て思いつきを拾おう
7)苦労を貯めると幸せと交換できる
9)変わらないことのリスクは大きい
11)ボールハンドリングがうまくてもシュートを打たなきゃ意味が無い
13)努力に逃げるな。挑戦しなさい
15)今日は恥をかきに行く。と決めたら良い
16)ダサいことを本気でやっちゃうのがカッコイイ
21)見るべきは最先端よりも足元
22)誰かを自分にいつかを今に
25)人は10の内、9つ幸せでも、残りの1つの不幸の不満を言う
26)どこへでも続く道はある
今回は27個も紹介してしまいましたが、
今回はここまで。