はてなキーワード: 嘘も方便とは
ラジオの国会中継を聞くのが趣味の自分の妻は基本的に安倍支持である。
そのことについて特に論争することはない。
ラジオを聞いて
いまいちピンとこないので「でもそれははぐらかしてるだけでは?」という自分
「それはそうだけど、世の中って嘘も方便よ」という妻
そんなもんかねえと思いつつも噛み合うことはない
「まあそういう意見もあるよねえ」となって話は終わる
当然のことであるが、政治のことで夫婦喧嘩などするわけがないのである。
妻が韓流アイドルを絶賛するのがいまいちピンとこないのと同じことである。
いや、マスク配布自体は評価していたが、じっさい使ってみて使い心地が悪すぎて
付き添いでキリスト教の教会の礼拝に何度か参加したのですが、どうしても考えが相容れなくて困っています。
牧師にも直談判していくつか疑問をぶつけたのですが、細かいことだと言うのみでほとんど答えてもらえませんでした。
私個人としては不可知論(神や真理には人間はたどり着くことができない)であるが、世界は決められたルールによって動いていて科学的方法によって真理に近づくことはできるという立場(信仰?)です。
キリスト教のメインの主張の1つは、「旧約聖書・新約聖書が聖典である」ということであると思います。
福音派の聖書が全て正しいという主張を信じるなら、普遍史(聖書が叙述する内容に基づくキリスト教的史観から構成された世界史)が妥当だと思えますが、科学的な歴史(宇宙論、進化論)とは矛盾しています。世界五分前仮説などを持ち出せば(聖書には叙述トリックが用いられているとすれば)説明がつきますが、人類を騙すように世界を創造した神は、嘘のない聖書をもたらすとは思えません。
逆に聖書はストーリーであって字面とは違う本質を理解しなくてはいけないという主張をする人も多いですが、どのように解釈すればよいかのコンセンサスがとれるように思えません。
精霊によって正しい解釈は得られるという主張もありますが、霊感が得られたのか単なる思い込みなのかを区別する方法については語られず危険です。
教会で行われているのは、現代の常識に沿って聖書を解釈して活用しているようでしたが、もはや個人の思想を聖書の記述よりも上位に置いているように感じられました。
実際、「神は正しいので、戦争は間違っていると神は考えている」という主張をしていましたが、戦争は間違っているということの正しさについては語られませんでした。
変なことは教えていないと牧師は語っていましたが、もし聖書から真実を学べるというのなら、現代の常識と違う変なことこそを教えなくては意味がないのではないでしょうか。
また、牧師や信者の発言は、聖書に書いてあることそのもの、聖書を読んでいる人の間でコンセンサスがとれているもの、独自解釈のいずれであるかの区別がなされず、すべて同等の確度で成立する(あるいは自明の真実である)かのようになされていました。
さらに、説教の中で「この話を神様が今日私にするようにおっしゃいました」という主張がなされましたが、牧師には特別に神の指示があるのでしょうか。
この発言を許すと、神の名の下でのテロリズムを否定することも難しくなりますが、特に誰からも反論が出ていないようでした。
牧師に尋ねたところ、教会の上層部がこの発言を許したから間違えていないという答えを得ましたが、納得がいきません。
私のような素人の思いつくような疑問に対しても、過去の事例などを教えてくれず、信仰すればわかるが説明は難しいとの答えが返ってくるのみでした。
すでに我々は答えにたどり着いているので批判に対応する必要がないというスタンスのように思われました。
嘘も方便という東洋哲学的な思想も理解はできるのですが、キリスト教では嘘をつくことは良くないという教えのようでした。
もし相手を幸せにするためなら騙してもいいという考えで嘘の理屈を話していたとするならば、詐欺として訴えるのが妥当だと考えています。
インド映画ってバーフバリに代表されるようなダンス&アクション&(キスシーンも許されない宗教性による)純愛っていうイメージだった
バジュランギおじさんなんていうオモシロ邦題からそういうハジけ方を期待して観に行ったんだけど全然内容違ったよね
結論から言ってこの作品は取り敢えず見ろ、溢れ出る感情をそのまま曝け出してこいって感じ
ご都合主義ではない現実的なストーリーテーリングが最後のほんのちょっとの奇跡を許してくれるそんなストーリーだった
大まかに言って
1.主人公パワンの人となり
2.チャーンドの加入による変化
3.迷子を送り届けたその後
1.主人公パワンの人となり
主人公のバジュランギおじさんことパワンは、日本人的感覚(無宗教もしくは八百万の神が暮らす神霊信仰)としてはあまりにも愚直なおっさんである
まるで子供のように正しい事を正しい事として、ハヌマーンへの誓いである「嘘をつかず正々堂々」を貫こうとする
子供に好かれる姿や婚約者(とヒンドゥー的に言っていいのかわからないが)ラスィカーとの信頼関係など人との関係から彼がいかに"イイ奴"なのかがはっきりと描写されていく
そんなおっさんが密入国という手段でもって少女を家まで送り届けようとするわけだが初っ端から「嘘をつかず正々堂々と密入国」というオメェ何言ってんだ?という展開から始まるのだ
もうその時点で視聴側は「あ、絶対この人色んな所で損するやつだ」と今後の展開を察しちゃう
期待を裏切らず"正しい事を正しい事として"(法律上の)罪を敢行する姿はまさに愚直と言っていい
少なくとも嘘も方便であるとか思いやりの嘘だとかそんな当たり前の事すら出来ず、なんやかんやで勾留される姿は愚かで真っ直ぐとしか表現できない
愛すべき、失ってほしくない、周囲が守ってやりたい、そんな愚かで真っ直ぐな姿がそこにある
2.チャーンドの加入による変化
そんな姿を見てもう一人のおじさんであるチャーンドが加入し、以降は彼が嘘を担当していく
その嘘によってハプニングが起きるのもパワンの"正しい事を正しい事として"のスタイルを肯定する要素として効いている
中盤に「ついに嘘をついたな」とチャーンドが茶化すシーンも序盤の流れをうまく利用してパワンの正しさと変化・成長を示唆している
とはいえ正しいだけでは実際何も解決せず、同情し手を貸してくれる人々の手助けも虚しく迷子の家は見つからない
そんな当たり前で現実的な流れの中で神頼み的な展開になるのだが、元からおじさんは「ハヌマーンが導いてくれる」という姿勢なので唐突性も「都合のいい時だけ神神言いやがって」感もないのだ
そしてハヌマーンか、はたまたアッラーかの導きにより家が見つかる細い糸のような手掛かりにたどり着くわけだが、コメディ以外でのご都合主義な展開はここが作中唯一の部分である
唯一であるが故に、おじさんが信心深く正しかったが故に、このご都合主義が正しく"導かれた"ように映るのが本当にシナリオの計算高さを感じるのだ
更に言うならこの導きは細い糸のような手掛かりであり、その手掛かりをモノにしたのはあくまでおじさん達の行動によるものなのだ
決して奇跡が起きたわけではなく人事を尽くして天命を掴み取った結果をご都合主義とは呼ぶまいという事である
3.迷子を送り届けたその後
中盤でパワンは「自首してテレビに映ることで迷子を見つけよう」とさらっと言い出すのだが、そもそも密入国だったわけで迷子は送り届けられるが無事逮捕と相成る
大事になった手前、収まりがつかないからか彼をスパイということにしたい軍?警察?上層部だが、チャーンドの「そら当然そうするわな」という当たり前の行いにより民衆の声が動き出す
この民衆の声は本作を観ている視聴者の声をそのままに代弁してくれる舞台装置であり、その後の展開を作り出す「そらそうなるわな」という舞台装置でもある
正に最後まで"正しい事を正しい事として"貫いた結果を描ききった傑作である
現実において正しい事をした奴が必ず報われるなんてことはない
"正しい事を正しい事として"貫いた結果、損をしただけなんてこともザラだろう
だからこそ数多の主人公たちのようにおじさんたちの姿が輝いたのだが、本作の素晴らしい所は一貫して自然であったことだろう
眼の前に困っている人が居れば手を差し伸べようとする
現実は出来すぎた偶然なんか起きない
そんな当たり前の事が当たり前のままに進み、そして"導き"によって得た機会を掴み取るという自然な展開こそが本作の素晴らしさだ
パワンという非現実的な愛と誠実さに溢れたおじさんが居なければ起き得なかった旅
チャーンドが共感し行った「自分の立場ならそうする」という当たり前の行動なしには起き得なかった結末
当たり前の行動によって心動かされた民衆の現実的な愛によって起き得た無理を通す力
ご都合主義や奇跡に頼らず人が人として愛をもって行動した結果の物語、是非ともご覧頂きたいものである(上映時間159分だそうです。長ェ)