はてなキーワード: 呼び戻しとは
書き捨てのつもりだったけど、いっぱい反応があってちょっと嬉しかった。みんなありがとうございます。
それで本題なんだけど、本当にこれ治るのか?
本当に?
流石に毎秒ではなくなってきたが、それは涙が出てもちょっとずつ気を逸らすコツみたいなのが身体的にわかってきて(意図的に深呼吸するようにするのが自分的には一番効く)、それやってるから泣き止めるだけで、ほっとくと一日泣ける予感がしてるんだが。
もうね、本当、日課とか日常的なあれこれといろいろ結びついてるのがきつい。
食事をたかりに来ないし、食後にくっついてダラダラしに来ないし、寝息が聞こえないし、朝起きてもそこにいない。
廊下とかその辺の部屋の床とか、そういうありふれた場所が空っぽなのが本当にきつい。
泣きまくった方がいいというけど、例えば「もうナデナデできないんだなー」とか、「足元くっついてきてたけどもうさわれないんだなー」とか意識すると、指とか脚がむずむずというかシビシビしてきて猛烈に悲しくなってきて涙が止まらなくてつらい。
仰向けでゴロゴロしてるとよくあいつが足元に来るから、つま先がいつもふわふわしてたんだけど、そのふわふわがないことを俺のつま先が訴えてきてつらい。
ぬいぐるみでも買えばマシになるだろうか?
でもあんなに、あんなにツヤツヤの手触りのぬいぐるみなんかあるわけない。かといって毛皮なんか本末転倒だし多分毛皮でもあんなツヤツヤなのはない。あのツヤツヤ具合を再現できるようなのは。
「いない」みたいなことを意識すると、何でもういないんだよう、いないなんていやだよう、もっと遊びたかったよう、もっと遊びたいよう、それで頭がいっぱいになってあとはもうダメよ。これ書きながらもボタボタ泣いてるしな。いい年こいてな。
こんなんじゃダメだ、しっかりしなきゃみたいな気持ちが全然湧いてこないのもまずい感じがする。
だって、しっかりって何だよ。
あいつがいないなんて緊急事態で非常事態だよ、それがこのあとずっと続くらしいんだよ。意味わからねえよ。
でも、じゃあ、呼び戻せるなら呼び戻すかっていうとそれも違うんだよ。高齢で病気もあったしさ。
病気してない若い頃で呼べたとしても同じことだよ。食事とか気をつけてたし、病院にも連れてってたし、それでも病気したんだから要するにトシで、寿命だったんだよ。
病気してからだっていっぱいかわいがって、やれることは何でもやってたんだよ。それを全部消去して呼び戻したって、それはなんか違うだろうよ。もちろん戻ってきたんならまたいっぱいかわいがって何でもしてやるけど、それはそれとして、あいつはずっとがんばってて毎日かわいくてちゃんとえらかったし俺たちは楽しく暮らしてたんだよ。
これがベストだったんだよ。
でも、これがベストって何だよ。
今こんなで、それで、これがベストって。
もうやだ。もうやだよ。
昨日書いたこれ読み返してて思い出したのが、2008年って相対性理論がブレイクした年なんですよね…。
鮮やかなオレンジ色の西日を浴びながらお姉さんと勉強してたときも、泣きっぱなしだったコミケ帰りの車内のラジオでもLOVEずっきゅんが流れてたし、冬休みのオフ会にカラオケで私が歌ったのも地獄先生だったし。
聴けばすぐに各々の思春期の頃に呼び戻してくれるようなあの甘ったるいメロディと、私のちょっと歪んだ甘々な青春が同時代にクロスしていたと考えるとやっぱりエモいなあ…。
2008年のあの頃、ラジオで普通にボカロが流れてて曲が流れるたびにDJの皆さんが一生懸命ボカロとはなにかを解説してて、雑誌やら友達経由で色々知識を得ていた私は「ほうほう、大人のくせになかなかわかってるじゃないか、すげー浅いけどw」みたいなノリで聞いてたのを思い出して耳がカッと熱くなるような思いですが、翌年末頃にけいおんが密かに流行りだして、私が高校進学したときに二期が始まって、その頃にはうちの学校にもけいおん部作ろ!って声が全国とは言わないけどかなりの広範囲で広がって、うちの高校も軽音楽器部っていうのが出来て。
自惚れた私は澪ちゃんに似てるからって自分で言って、まあ髪型とタッパだけ似てるかなって他の子にも言われましたけど、うちに結構いいベースあるからってアリアプロSB-R60ブラックフィニッシュを持ち出してベース担当になったのは思い出したら懐かしくてウルッときましたけど、あのベース音量がやたら小さくて現代のロック音楽には不向きだとだけ言っときます。あと卒アルのライブ中写真で集中しすぎて変顔してる私の写真がクラス中どころか実家でも笑いのネタになって今でも思い出すと耳が熱くなる思いなんですけどあのときの軽音部は本当に楽しかったな…。DTMとかQY-100で曲作ってくれるピアノ得意な後輩も入ってきてバックトラックに合わせながら演奏合わせられるようになって、卒業のときの芸祭はお姉さんに教えてもらったギタリストのバケットヘッドさんのbinge and grabとかnight of the slunk、sooth sayerとか部員の皆に聴かせて私こんなんやりたんやけど!って言ったら歌無いのやばくね?って拒否されて、結局私の第二候補のtommy heavenlyのim your davilとそれのパクリみたいなオリ曲になったり。まあどっちも名曲ですけどね!!!!
ボカロ曲も考えたけど誰もあんなん歌えないし諦めましたよ、もう!
私が一番好きなクローバー♣クラブなら自分でもベース弾けて歌えた(当時)けどあの曲マイナーやし!
あと1/6の夢旅人も候補に上がったけど兵庫県民は基本水曜どうでしょう知らんねんて!
ただロシアのリアルミクちゃんがこないだローリンガール完璧に歌っててまじビビったし、あの子と高校の頃に軽音部組みたかった…。wowakaさんの曲全部すき…。
高校の頃はあんまり絵描かなくてこんなことばっかしてたけど音楽にスキル身につけられて有意義じゃんと思ったけどさっきベース引っ張り出してちょっと弾いてみたらもう全然指動かなくて笑っちゃった!!スラップとかぜったい無理!
んでベース弦死んでるから変えようかなって検索して買おうとしたらとんでもなく値上がりしてて倒れそうになりましたよ。4弦で3500円ってどゆこと????
スティーブ・ジョブズがAppleに戻ってきたことを歓迎する人なんてほとんどいなかった。
ワオ、スティーブをAppleに呼び戻してBeOSを却下しただって?
君は自分とAppleへの死刑執行書にサインをしたってわけだね?
そんな感じだった。
ジョブズのことをApple社員の中にはカリスマとして仰いでいる人もいただろうが、
少なくともAppleファンには(当時)人気がある存在ではなかった。
それはAppleから追い出されたあと作ったコンピュータが商業的にそれほど成功しなかったこととも関連していると思う。
つまりジョブズは過去にすごいもの(Appleというコンピュータと会社)を作り上げたけれど、
それは宝くじを引き当てたのと同じような時代の運によるものだったと考えられていたのだ。
ひとつにはジョブズがエンジニアでなかったことも影響している。
彼は(純粋なエンジニアである)ウォズニアックを上手くコントロールして成功の果実を横取りした詐欺師のように思われている面もあった。
当時、Appleコミニティの開発者たちはOpenDocという幻想を現実のものとして定着させ始めていた。
未だに興奮して眠れない記録魔の自分がすることはやはり記録することだった。
時間による記憶の喪失が愛しい者を失うことの感慨さえも洗い流してしまうなら
それは人にとって救いであり、希望なのかもしれないが私はそう思わない。
私の猫が死んだという事実は私が生きている限りにおいて永遠に記憶されるものであって欲しい。
死んだ瞬間は悲しくなかった。
実を言うと今も悲しくはない。
死んだ瞬間はその事実に気づき、やはり死んでいる、生き物ではなくなり
外界を認知し変化させることのなくなった物体に変化した、そう認識した。
だから後悔はなかったのかもしれない。
医学は専門ではないがわからないなりに病院に行き、母と二人で注射器での薬の経口投与を繰り返した。
本人がどれほど嫌がろうとも。
猫の体調が悪いと気づいたのは一ヶ月ほど前からだった。
食事後に餌を吐くようになり、吐いた餌を食べたり食べなかったりした。
3日ほどで病院に行くことになった。
猫の体調が悪化するのと逆に自身の長年の体調不良は回復していった。
糖分を取らなければもろもろの不定愁訴が解消していったのだ。
2年以上に渡る体調不良は米を取らない。その一つの行動から回復していった。精神科にも通った。薬の効果も実感している。
しかしながら生まれてきた中で思い出せる限りの長い期間常に自身は体調不良だったのではないかと気づいた。
薬理的な効果以上に炭水化物を取らないことが自身の体調に寄与していることは明らかであった。
猫に話を戻そう。
とにかく彼女は餌を食べられなくなった。
異物を飲み込んだのではないかと判断した医者は様子見の生徒剤の投与後、内視鏡による異物摘出を試みた。
その時点に至るまで二週間ほどがすでに経過していたと記憶している。
また、気管挿管の際にミスをしたのか、呼吸音が異常になっていた。
次にしたことは猫を飼い始めた時にノミ・ダニの薬とワクチンを打ってくれた看護師に連絡することだった。
彼女らはすぐに来てくれ、この食事が良い。だの、この時期に猫が吐いてしまうのはよくあること。だの、医者は変えた方がいい。だの、と違う立場で自由な意見を述べた。
親切にしてくれたし、変化が必要かもしれないと、私は彼女らの言葉を聞き、近くの病院に医者を変えた。
今思うに、この判断は貴重な時間を空費するだけに過ぎなかったと考えざるを得ない。
やはり、医者を変えたあとも猫は吐き続けた。
次の病院で行われた治療は元の病院とは種類の違う吐き気止めとステロイドを繰り返し投与だった。長い二週間だった。
彼女は嫌がった。苦しいので当たり前だ。餌も飲み込めず、後に水すらも飲み込めず苦しがるほどの猫に経口投与を繰り返した。
しかしながら呼吸音はステロイドにより落ち着いた。そのように思えた。
ただ、嘔吐は二週間の間に違う餌に切り替えた努力も虚しく、変化がなく無駄だった。
私は調べうる限りの症例を聞いたが、最後にガス性のイレウスではないかと聞いた際にはっきりとそうでない理由を伺うことはできなかった。
このままでは食事ができずに死にますよ。そう伝えると彼の助手である女性の看護師は二次診療専門の病院を提案した。
この病院でのカルテは渡すので、治療データがこちらより豊富な元の病院から二次診療専門病院に連絡をつけるようにと言われた。
元の病院に連絡すると少し驚いた様子であった。
事実上、さじを投げたと言ってもいいだろう。
二番目の病院からでも出せる診察依頼を出すことなく、元の病院に戻したので少し呆れていたのかもしれない。
しかし私はそんなことはどうでも良かった。
20万円ほどの少ない蓄えも底をつき始めていたが、友人に借金してでも治療を完遂させようと考え、友人にもその旨を伝え、了承を得ていた。
そこからは彼女なりの治療プロトコルに従わないので苛ついているような反応を返すノミ・ダニの薬を売ってくれた看護師に話を聞いたり
死んだ場合どうすれば良いのかを考え始めたり、たまに来る母親に猫を見てもらったりした。
モノになったのだ。席を立ち、ジョナゴールドの発泡スチロール箱を見てやはり実感する。
眠っているのではないことは知っている。もう彼女は外界に何ら影響を与えることを許されないのだ。
ただただ衝撃だけがある。
元の病院の男性の医者ではなく、別の女性の医者が対応してくれた。
彼女は胸にあるしこりと、胸水が気道と食道を圧迫していることに気づいた。
猫はここでも抵抗した。麻酔なしでは胸のしこりを生検することはできなかった。
また彼女は、胸水の原因を特定しようと試みたが確実にリンパ腫が原因であるとは判定できなかった。
もしくは、今の胸水を専門医に判定させる。
私はCTを受けさせることにした。
そして初診を予約できたのがそれから三日後だった。
初診の前に血液検査を行うことになった。
血液検査の結果、異常は特に無いように思えたが猫白血病ウイルスが陽性であった。
こうなると寛解はしない。高額な医療費を請求されて生きられるのは半年から一年程度。
そういった認識があった。
友人とは相談した。
つねづね私は話していた。
単純な功利主義だけでは世の中回っていかないが、重度のケアが必要な猫を一匹救うより、未だに健康を保てている猫を二匹救うべきだと。
友人と私は話し合ったが明確な答えは出ず、それでもざっくりとした方針をなんとか決定した。
飼い猫はまだ4歳前後であることから、一度治療に成功すれば5年以上の生存の見込みがある。
そのためにならば50万から最大100万円程度の治療費を貸し付けることは容認できる。
しかしながら、一年の延命治療のために高額な費用がかかるのは私自身の考えからは外れてしまうこと。
つまり、リンパ腫など予後が悪い病状の場合は安楽死、ないし積極的な治療を放棄することを決定した。
初めてあった時から肩に登ってこようとし、私の無茶な要求にも反抗しようとすることはほとんどなかった。
左耳の部分が腐ったのか落ちており、付け根は膿んで肉が露出していた。
さくらねこというのだが、猫は避妊処理の後のリリースされると耳の先をカットされる。
メス猫は普通左耳の先をカットするが、彼女には左耳がなかったので右耳をカットされていた。
彼女は飼い猫以上に友人であった。
自分の鼻をすぐに舐めたがる犬のような猫であった。
その癖意地を張ってウェットフードを食べない頑固な猫だった。
時に一緒に眠り、また、顎をブラシで撫でてやるとゴロゴロと音を鳴らした。
肉付きはよく、4.4キロほどあったと思う。
話を戻すが治療方針を決めて二次診療専門の病院の初診に向かった。
母親に車を出してもらい向かった先でしたのは、元の病院の女医の話す内容とほとんど変わらない内容の説明を受けることだった。
また、治療方針として、胃ろうをして欲しいと言うと彼は自身が胃ろうは好きではないと話した。
ここでは結局治療をすることはなかったし、進展はなかったので詳しい話は省略する。
初診料として8500円ほどを支払い、帰路についた。
それからまた3日ほど経った日、水を飲んでも吐くようになった。
このままでは保たないと判断したので、点滴で水分だけでも入れてもらおうと元の病院に連れて行った。
体調が悪いこと、胸水を抜くのは抵抗されたので難しかったこと、9月1日にCTを取りに行く前にもう一度点滴を受けて万全の状態にすべきであることを女医は告げてきた。
次の日、つまり昨日(8月30日)その瞬間は訪れた。
呼吸音が異常ではあったが、それほど異常の度合いが高いわけでもなかった。
しかし母親が突然来訪し、ちゅーるを持ってきた。友人と話していた自分は母親と話すことになり、もう一匹の猫にブラシをかけるなどの世話を始めた。
帰ってものの十分程度で発作的な呼吸が始まった。
初めて失禁し、のたうち回った。
夜間病院に連れて行くかどうか、20分ほど思案した後、母親を呼び戻した。
母親が到着したのは35分程度後だった。
それまでに、死んでしまい、死後硬直が始まった時のためにダンボールとタオルは用意していた。
車で来てくれた母親に事前に電話した動物病院に行くようにお願いをし、移動を初めて20分ほどで呼吸音がなくなったことに気づいた。
助手席から降り、確認したがすでに瞳孔は開きっぱなしで力の全く入らない死体になった猫がそこにいた。
動物病院に行くのはやめ、大きいディスカウントスーパーに向かうことにした。
保冷を始めるためだ。
私はもう次の準備を考え始めていた。
アドレナリンが出て興奮していたのもあるが死体を腐らせる訳にはいかないと思っていたし、覚悟はしていたからだ。
スーパーに向かい、発泡スチロール箱の有無を聞き、もうなさそうだとわかると氷だけを買ってそこを出た。
23時になっていたのでコーナンなども空いていない。
家の近くにあり24時間開いているスーパー玉出に向かうことにした。
普段から無愛想なおじちゃんに声をかけるとそこになかったらないと言われたが無事キレイな発泡スチロール箱があった。
おじちゃんに礼を言って車で自宅まで移動し、母親と別れ、友人と話をした。
そんなにしんみりはしなかったが、衝撃はあったと話をし、故人の話をしてくれたりしたが、騒音が気になりほどほどで話は終わった。
風呂に入ったが猫を何度も風呂に入れたことを思い出し、喪失感を感じてすぐに出た。
もう一匹の猫を膝の上に乗せていると少し眠たくなったので寝たがやはり一時間ほど寝れずにこれを書いている次第だ。
これから葬式をどうするか考えないといけないし、行動している内、考えている内は悲しくなることはないだろう。
この文章も一時間半ほど書いて疲れたのでこのあたりで筆を置くことにする。
死ぬ前に考えた。
自身は無神論よりの不可知論者ではあるが、猫が死んだらどうなるのかと。
自分は肉体と精神に関しては唯物論的な思考でいるので肉になるのだと考えた。それでも悲しくはなかった。しかし救いはなかった。
私は幸いにも救いを必要としていないのだろうけれど、なぜ宗教が必要とされるのかは少しわかった気がした。
思うに愛別離苦、別れは経験であり、自身の糧にするべきで背負っていくべきものだ。
死は絶対で覆すことはできない。それはあらゆる命にとっての救いでもあるのかもしれない。
とあるインターネットの片隅に、増田が住んでいた。増田はずっと人間と仲良くなりたいと思って、「心のやさしい増田のうちです。どなたでもおいでください。名前を隠して楽しく日記をします。必ず優しい返信をいたします」という嘘のメッセージを書き、トップページに立てておいた。しかし、人間たちは疑い、誰一人として増田の家に遊びに来ることはなかった。増田は非常に悲しみ、信用してもらえないことを悔しがり、終いには腹を立て、せっかく書いたメッセージを削除してしまった。
一人悲しみに暮れていた頃、友達のブクマカが増田の元を訪れる。増田の話を聞いたブクマカは「俺が人間の村(訳注:Twitter、ヤフコメ等を意味する)へ出かけて大暴れをする。そこへ増田が出てきて、俺をこらしめる。そうすれば人間たちにも増田がやさしいということがわかるだろう」という策を思いつく。これでは友人に申し訳ないと思う増田だったが、ブクマカは強引に増田を連れ、人間達が住む村へと向かうのだった。
そしてついに作戦は実行された。ブクマカが村をスパム行為、誹謗中傷などで荒らし、増田が懸命に通報しまくる。作戦は成功し、おかげで増田は人間と仲良くなり、人間達は増田の家に遊びに来るようになった。人間の友達が出来た増田は毎日日記を投稿しトラバし続け、充実した毎日を送る。
だが、増田には一つ気になることがあった。それは、親友であるブクマカがあれから一度も増田をブックマークをしないことであった。今人間と仲良く暮らせているのはブクマカのおかげであるので、増田は近況報告もかねてはてなブックマークを訪ねることにした。しかし、はてなブックマークは閉鎖されており、トップページに「増田くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い人だと思われるかもしれません。はてなブックマークは、荒らし行為をし過ぎて閉鎖されてしまいました。だから旅に出ます。もう増田くんをブックマークすることもできないけれど、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。ぼくはどこまでも君の友達です」というブクマカからのしおりが貼ってあった。増田は黙ってそれを2度も3度も読み上げ、涙を流すのだった。そして増田はその悲しみをバネにし、新しいはてなブックマークを自ら立ち上げ、ブクマカ達を呼び戻した。それが現在のはてなブックマークである。
国が金を出せという主張はある意味では正しいが、無い袖は振れないというのがあるのも正しいだろう。
金が研究費に流れないってのは、産業利用につながらないというのがある。
単一要因ではなく、複数の理由が絡み合っているのだと推測する。
仮説の1つとして、メディアや日本に住む人の関心がないことが挙げられるのではないだろうか。
Webに移行してきたが、アクセス数が稼げない記事は価値が少ないのが1つ。
難しい話をしても誰も読まないというのもあるだろう。
毎日世界のどこかで起こっているセンセーショナルな出来事を提携している海外メディアやSNSから探してくる方が楽なのだ。
日常的に伝えられないので、それをウォッチし、活用する方法がないかを考える人がいない。
(例えばGAFAからどう守るか、利用するかばかりだ。どうやったらなれるかについてはビジネスモデルが違うのでなれない)
そもそも国内に詳しいというのはステータスにならない。海外製品をどれだけ持っているかがステータスだ。
地方都市在住の50歳。妻子あり。東京に単身赴任中だが、コロナが始まってからは東京の借家には月に一度、一週間ほど滞在するだけになった。
中学2年生の時から書き溜めてきた日記帳を東京の借家に持って来ている。20年前の1月に書いたのを最後に更新が途絶えている。死後に読まれたくないが、処分してしまうと自分が自分でなくなってしまうような気がして、ドキュメントスキャナーでPCに取り込むことにした。
部活でいじめを受けていた中学時代。高校は県内トップ校を受検するもボーダーラインに数点足りず、県立高校の二次募集で片道1時間半の中堅高校に通うことになった。学校に馴染めず悶々としていた高1の夏、母親が癌で入院し、その冬にあっけなく逝ってしまう。その頃、今の高校を退学して大検を受けようと考え始め、父親とも激しく対立する日々──。
日記を読むつもりはなく、ただスキャン作業だけを淡々と進めるつもりだったが、どうしても作業の都合上、目に留まったページは読んでしまう。辛い記憶が蘇ってくる。
4冊目の大学ノートをバラそうとしたら、高1の進路指導のプリントが挟まっていた。提出したプリントに担任の先生がひとりひとりに手書きのメッセージを書いて、3学期の終業式の日に返却してくれたものだ。国語と書道を担当する年配の男性教諭である担任のS先生には、退学や大検受検のこともよく相談に乗っていただいたものだ。プリントの余白には、こんなメッセージが書かれていた。
今年度はいろいろ辛い思いをして、本当にたいへんでした。一ぺんに学校以外のことで試練を受けましたネ。それにくじけなかった増田君は、本当に強い、と感心しました。新年度は、又、心機一転がんばってください。この1年、何の役にも立てなかったこと、許してください。K先生(部活の顧問)や必要あれば進路指導部の先生などとよく相談して、最終的には自分自身で決意してください。悔いのないように! 将来を期待しています。
藁半紙のプリントにボールペンで書かれたこのメッセージを見た瞬間、涙が止めどなく溢れてきて、声を立てて泣いてしまった。記憶から抜け落ちていたこの文章が、あの頃の辛かった記憶を呼び戻したのだろうか。あまりにも予想外のことで、自分でもびっくりした。
S先生は翌年度から県内の別の高校に転任され、それ以来お目にかかっていない。ご存命なら、今は80代中頃だろうか。
結局、高校は退学せずに卒業した。大学受験は何度も失敗し、就職してからも苦労が絶えなかったが、今では人並み以上の幸せな生活ができている。当時は自分のことで精いっぱいだったが、今思い返せば、S先生にはずいぶんと支えていただいた。直接お礼を伝える機会はもうない気がするのが、なおさら悲しい。
「スーパーモンキーズ」初期メンバーが明かす“アムロの圧倒的才能”
「(安室)奈美恵は最初、友達の付き添いでアクターズスクールに来たんです。第一印象は、色が黒くて、すごく細くて、ごぼうのよう」
そう語るのは、ダウン症の子どもたちのためのエンタテインメントスクール「LOVE JUNX」の創設者・牧野アンナさん(46)。父は、あの安室奈美恵を見いだした沖縄アクターズスクール(以下・アクターズ)の創設者で校長のマキノ正幸さん(76)。アンナさん自身、スーパーモンキーズの結成メンバーとして、安室とともにデビューした元アイドルだ。
引退後も、アクターズのチーフ・インストラクターとして、MAXやSPEED、三浦大和、黒木メイサ、満島ひかりなどを育ててきた。現在は、AKB48やSKE48の振付指導も担当。SKE48のファンからは、その厳しい指導ぶりに「鬼軍曹」「クラッシャー・アンナ」などと呼ばれている。
安室がアクターズに現れた’87年当時をアンナさんが振り返る。
「どちらかというと暗い感じで。レッスン場でも隙間に隠れるようにしているし、発声練習のときも手で口元を隠すような女の子でした」(アンナさん・以下同)
ニコリともせず、事務所の隅でモジモジする10歳の安室に、誰もがスター性など感じなかった。ところが、正幸さんは違った。安室の歩き方だけで、輝くオーラを感じたのだ。一度、帰りかけた安室を呼び戻し、母親に電話を入れ、「特待生にします。授業料はいりません」と、その場でスカウトしてしまう。
そして、正幸さんはアンナさんやアクターズの生徒たちに、「俺は奈美恵を特別扱いする。おまえたちとは才能が違う。奈美恵は絶対、スターになる」と宣言した。当初、アンナさんは、半信半疑だった。
「後になって、奈美恵を後のMAXのミーナと一緒に『ちびっこのど自慢』に出したんです。ミーナは歌がうまいと評判で、私たちの間では断トツの優勝候補でした。ところが本番になったら……」
無口で、いつも隅っこにいた安室が、ステージの上で突然、スパークした。明るくはじけて、踊り、歌った。
「驚きました。その姿に、私も『イケる!』と思いました」
歌と踊りがとにかく好きで、無類の負けず嫌い。母子家庭だった安室が、往復260円のバス代を浮かすために、片道1時間半の道のりを歩いて通っていたという話は、アクターズの伝説になっている。
「難しい子ではありましたね。まず、言うことを聞かない」
練習をサボるのではない。練習をしすぎてしまうのだ。「練習しすぎで、喉の状態がおかしいから控えなさいね」とアンナさんが言った直後に、レッスン室から、安室の歌声が聴こえてくる。慌てて、注意をしにいくと、聞かないふりをして、まだ、続ける。
「人から指示されてするのは嫌だったんでしょう。嫌なことは、絶対に嫌。何時間、説得しても、横を向いてツーッと涙を流し始める。後年、本人が言っていました。『言いたいけど、うまく説明できないから』と。言われたことが理不尽だと感じていても、それをうまく伝えられなくて。葛藤の涙だったんでしょう」
やがて、20歳のアンナさんをリーダーに安室、後のMAXのナナとミーナ、そしてヒサコ(新垣寿子さん・振付師)の5人で、スーパーモンキーズが結成された。’92年1月、5人で上京。大田区の3DKのマンションで共同生活を始め、9月には、第1弾シングル『ミスターU.S.A.』がリリースされた。
だが、すぐに売れたわけではなかった。東京のスーパーマーケットのレジ前で、パフォーマンスをしたことも。
「私なんて、胸のうちで『サイアク』と思いながら踊っていたのに、奈美恵は『歌えて踊れて、楽しかった』って、ニコニコしながら言うんです。私とは違うなと思いました」
デビュー前は、アンナさんがセンターだったが、デビュー後は、安室に代わった。
「ステージで一緒にパフォーマンスをしていると、わかるんです。観客もスタッフも、みんなの視線が奈美恵に集中する。技術も大事だけど、もっと大事なのは、人を引きつける魅力。奈美恵にはそれがある。でも、私にはなかった」
圧倒的な才能の差を目の当たりにして、アンナさんは、父の言葉を思い出していた。
《スターになるのは、才能を持った人がさらに努力した結果だ。おまえは裏方。裏方として輝く道だってある》
’92年年末。アンナさんはスーパーモンキーズをやめて、沖縄に帰った。スターになる夢はきっぱり捨て、指導者として生きる道が定まった。
「奈美恵は、できる子なのに、チヤホヤされてもてんぐにならず、もっと努力できる。あ、でも、彼女のは、努力じゃないのかもしれません。道を歩いていても、奈美恵は自然に体が踊っちゃってる。私だったら、どんなに楽しくても、『さぁ、やんなきゃ』になる。でも、奈美恵は自然に踊っちゃって、歌っちゃってる。『やんなきゃ』じゃない。それこそが才能なのでしょう」
ここに出てくる病気や症状について、私自身はまったくの勉強不足なので何か失礼があったらすみません。本当にただ、疲れた…って話です。
大学の頃、少人数の講義中にいきなり教授や学生にキレて、怒鳴ったり物投げたり講義室を飛び出したりする同期がいた。もう嫌いだから言うけどブスでデブ!
わたし発達障害だから、わたしADHDだから、家族みんなそうだから!が口癖で(やばい)、一度発作が始まるとビョーキなんだからそっちが我慢しろ!みたいな態度でもう破茶滅茶だった。大学生でもこういう人いるんだ…ってなったのを覚えている。
いつもお気に入りの毛布を持ち歩いていて、それが側に無いともう大爆発。大学に来て毛布が無いことがわかった時なんて「お前らが盗んだんだ!!」って同期たちに喚きまくって大変だった。結局自宅に置き忘れていたという恥ずかしいオチなんだけど、その後もケロッとしてた。
もちろん友達はいなくて、みんな地雷を踏まないようにやんわり避けてた。学科の飲み会とか旅行とか、みんな少しの罪悪感はあったけど、でも滅茶苦茶にされちゃうから誘わない方がいいよな…といつもなってた。そういう人って学年にひとりはいるよね。
でも私は色々鈍いので、浅い会話ならなんとか続けられたからか在学時はちょっと懐かれてた。
卒業して6年、久しぶりに彼女から連絡があって研究を手伝ってほしいとのことだった。
彼女は学校?みたいなところに通って何かの勉強をしているらしい。学校で友達ができず、近場に住んでるどの人にも断られて遠方の私に連絡したようだ。お金を貰えることと、かわいそうだなーという同情心で話を受けた。
本当にやめておけばよかったな、と今でも後悔している。
つまらない研究だった。この歳でやることか?と正直思ってしまう感じの。でもそこは、まあ金入るしという気持ちで乗り切れた。
しかし対面がきつい。大学時代のような発作が起きれば八つ当たりされるし、成果が出ないのは環境や私のせい。
急に怒って、バーンッと部屋から出て行ってしまったこともある。そして数分後「なんで呼び戻しに来ないの!?」とキレられた。
まさかこの歳で、音楽室から怒って出て行ったやばい音楽の先生に謝るため、生徒全員で職員室へ行く(この例えわかりますか?)みたいなイベントが発生すると思わなかった。しょーもない。
半年程手伝って最後は突然、もうあなたとは縁を切ります!と怒鳴られ、何故かこちらが振られた感じで終わった。何が地雷だったのかは未だにわからない。なんでだ…?
自分の精神をすり減らしてくる人とは関わらない方がいいなあと改めて思いました。
すっきりした!
俺が数年前に今の勤務先に転職してきたとき、一人だけ、前の勤務先からついてきてもらった部下がいた。
その後、今の勤務先でも順調に昇進して別の部署に異動していったのだけど、半年くらいで病気休職。
休職直後、そのことを知らなかったときに俺から個人的な連絡をし、相手の家族に「連絡は控えて欲しい」と言われて、もうすぐ一年経つ。
近々、異動していく際に「このプロジェクトが実現したら呼び戻す」と話していたプロジェクトが実現することになった。
任せると約束していたポジションを他のやつに任せてしまったら、がっかりさせてしまうのだろうか。
それとも、今更連絡など欲しくないと思っているのだろうか。
損をするのは生産性を上げられない中小企業経営者(倒産する可能性大)、間接部門の職種で働く一部の被用者(業務見直しで仕事がなくなる恐れあり)。
最低賃金を上げることで、最も影響を受けるのは「ノンスキルな若手労働者」だよ。
同じ最低賃金を払うんだったら、経験豊富な高齢者のほうがいいわー、って考えるから。
新卒を雇うより、定年退職者を呼び戻したほうがいいと。なにせOBですから実力は既に知っている、トレーニングなどしなくていい。
「今後も継続して年金もらえるか分からないでしょう? 戻ってきません?」って声をかけてあげると。
これらの人に職が回ってくる順番は一番最後であって、まず企業は、OBを全力で刈り取りにかかります。
新卒を一括採用してちゃんと教育しろ? それは大企業だからできるんです。