はてなキーワード: 吐気とは
http://irorio.jp/jpn_manatee/20150620/238851/
Facebookに、この絵について「肯定してはいけないもの」「命の無い不気味さに吐気がした」「人のこころの大切さを」とか言ってる人々が多数いてちょっと驚いた。
これは、「人間が作ったアルゴリズムが偶然もたらした、思わぬ結果」に過ぎず、あくまで人間の知的活動の成果である。私はそこに感嘆していたので、こういう反応は想像もしなかった。
私は母が病気で倒れた時に1年毎日家で料理を作らされ貶され倒して、最終的には料理をしたら吐気がこみ上げてえづくようになって、味覚がおかしくなったのか得意料理ですら失敗しまともな味付けも出来なくなって料理から開放された。
胸が引き裂かれる思いで泣きながら母にどれだけ辛かったか一言でいいから謝って欲しいと求めたら鼻で笑われ、癒すのを諦めて忘れるのに徹する事にした。
思い出すだけで傷口を開くような痛みがあって涙が出るし誰にも話せていない。
夫は美味しいありがとうと笑顔で食べてくれる人で、失敗して落ち込んでても何で?美味しいよと笑ってくれて、結婚して料理が楽しくなった。
子供も出来て幸せだったが、今日3歳の子が食べるのを嫌がっておかずを私の皿に入れてきたりしたので「ママのご飯がまずいって言うの?」と言ってしまった「まずい!!」子供が言った。
我が家はまずいという単語が出ないせいか、子供がまずいを勘違いしていて好きじゃない物を食べた時には何でも「からい」と言う、オウム返ししているだけでまずいという意味で言ったわけじゃない。
それなのに古傷がいきなり開いて涙がボロボロこぼれだし吐気がこみ上げてきた。
子供は異常を察知して私を撫でながら「よしよしごめんしゃいごめんしゃいママ怒った?」と必死に謝ったり、「ほらママばぁー!!!」と笑わせようとしたりしてきたが表情を作れなかった。
子供はいつも遊び食べをしたがり食べさせるのに苦労する、子供にご飯を作るのが辛いとさっきから急に頭をグルグルしだしている。
私の手が死人みたいに白い何だこれ。
ドラマとかでよくあるショックを受けた人にあなた顔真っ青よ!みたいなのって本当にあったのか。
自分がここまで親として弱い人間だと思っていなかった、死にたい。
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書いた後に泣きながら寝落ちし、昨日は目が覚めた瞬間から涙がボロボロ出てきて、いつもは一晩寝たら引きずらないので驚いた。
食べずに遊んだら頭に血が上るかもしれない、まずいと言う人に作るのが怖いと、子供に朝ごはんを作るのに変な抵抗があって、子供には食パンとバナナだけ出して食べさせ遊んでも放置していた。
夫が「どうしたの?」と驚いていたけど「実は料理をまずいと言われるのにトラウマがあって、昨日子供が言ったのでこうなってる」としか言えなかった。何も作りたくない外食したいと思ったけど、壊れた蛇口みたいに涙が出るぼてぼての顔で出かけられるわけないし作らなければ・・・お弁当を作るついでに晩御飯も作っていると少し元気が出た、作れるのに安心もした。
「大丈夫?」と不安げに夫は仕事に行った、いつもは子供と一緒に駅まで夫の見送りに行っていたので子供が「いくー!!!」と怒っていた、正直1人になりたく2人きりで乗り切れるか不安もあって無理だけど夫と一緒に出かけてくれたらいいのにと内心思っていた。
気力が出ずアンパンマンをつけて涙をボロボロこぼしながら座っていた、昼ごはんは炒めたしらたきにレトルトのパスタソースを絡めただけの物を子供の分も取り分けて食べさせた。
泣きすぎて頭がしびれてボーっとしていて子供の「トイレ」に反応がのろのろしてしまって、パンツを脱がせている時に手の上にうんこをされた。
子供から「ホッケーキつくって」と言われてホットケーキを作った、作るのが怖い抵抗感が消えていて、子供にご飯をちゃんと作れると安心し涙が止まった。
子供がこけて泣き出したので痛いの痛いの飛んで行けー!をしている時に思いついて「お母さんも痛いから痛いの痛いの飛んで行けやってくれる」とお願いしたら、何度も「いたいのいたいのとんでけー!!」とやってくれた。
それから一緒に絵本を読んだりブロックで遊んで子供を寝かしつけた。
夫が帰ってきてから「朝言ったとおり母に貶されたりしてまずいと言われるのがトラウマだった、今日は驚かせてゴメン、あなたから不味いと言われる心配はなかったけど、この子は言うだろうからどうしよう」と言っていると「もっと子供向けのご飯にしないとな」と言われた(まずいといわれた日のおかずは鰆と菜花の煮物、イカと里芋の煮物、小松菜の胡麻和えで確かに子供向けではない感じだった)
ずれているけど、子供受けするご飯は私も良く解らず難儀している所だったので、明日はもう少し子供受けを考えてみようと思った。
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今日起きたら少しすっきりしていた。
涙で濡れて不快だったので寝心地のいい寝具と部屋にしようと、毛布&枕&シーツの洗濯や大掃除を始めた。
温かい言葉をありがとうございました、心配してくれてる人も居るしとりあえず続きを書いたほうがいいだろうかと思い書く事にした。
何でこんなに傷ついたのか考えてみた、私は大型地雷を持っている自覚はあったので、万が一まずいと言われた時の防衛策&自分の料理に自信が全くなかったのもありおひたしのような簡単な料理でもいつもきっちりレシピどおりに作っていた「このレシピまずかったねー次からは作るのやめとく」と流せる予定だった。
子供のまずいの意味も解ってない連呼でこんな事になるとは思わなかった。
一昨日の方が過去よりも傷ついていたように思う。
今いい所に居るから辛い過去は消えていくものだと思っていたのに、覚悟なく不意打ち的に過去に戻ったから傷ついたんだろうか。
正直トラウマとかメンヘラとか対岸の火事だと思っていて、可哀想に治るといいねなどと思っていたので、私がそうだったのか確かにこの反応は病気だと頭を抱えた。
病んでいると思うと罪悪感と羞恥心がわいてきた、知らなかった旦那ゴメン恥ずかしいとか。
何でこんなに罪悪感がと考えると、母がたまに傷口をえぐってきた時に「その話はやめて」と言うと「まだ恨んでるの?いつまでもネチネチと恨みばかりで私はお前の為に言ったのになんでそんなに」と切れて責められていたので、(自己紹介を私に押し付けるな、傷つけられなければ地雷なんて出来なかった)と反感を覚えながらも忘れないのは悪いと刷り込まれてたのだろうか。
反論はしたかったが、母に訴えた時に「お前のせいで体重が減った!!美味しいって言った時も本当は全部無理して我慢して言ってあげてたの!美味しいって言わなきゃしょうがないから!」等々散々責められ鼻で笑われ、ごくたまに美味しいと言われるのを心の拠所にしていた事もあって、自分で引き裂いてた傷口をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたくらいのダメージを負ったので、母相手にはひたすらに触りたくなかった。
母の親が兄弟に差をつけるタイプの毒親で母がいつも親からされた酷い事を嘆いていたのを見て同情すると同時に、親が死んでからも恨みを引きずり楽しい会話に割り込んですぐに暗い過去を話しだす母のようにはなりたくないと思っていて、それに私が近いかもしれないと怖いのも原因かも。
押し込めて幸せに生きていれば薄れて忘れて大丈夫になっていくと思っていた。
まずいと言われなければ大丈夫だけど、こんな大型地雷を抱えて子供の思春期突入はヤバイ。
病院に行けという意見が多いけど、私の周りに2人病院に行った人が居て、一人は躁鬱傾向だけど普通に働いていたのが薬を飲みだして壊れて電車にも乗れなくなって働けなくなった、もう一人は老人なのにいつもハイヒールを履いて社交ダンスや華道をするくらい元気だったけど、心配されたくなって病名を貰おうと健康といわれまくりながら病院めぐりをした挙句にやっと欝の病名を貰って薬を飲んだとたんに1時間おきに死ぬ死ぬと電話をしてくる本物になって足腰が立たなくなって亡くなった。
薬には不信感と恐怖心が大きすぎる、薬を飲まずにこの地雷スイッチを消せるんだろうか、子供に言われる覚悟をしておけば何とかならないだろうか。
連鎖といわれると怖すぎる、母みたいに親にされたタイプは避けられても違うタイプの虐待に走ったら最悪だ。
今は大丈夫でも更年期と大病が重なったら自分が制御できずに子供にあたって傷が向かうかも知れない、でも治せるのか。
といった具合にグルグル回っている状態。
思い出すだけで涙が凄かったのに、ここまで書くのに涙が滲む程度であまり出なかった、マシになっている気はする。
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帰りにすき焼きを食べ、家に帰ったら疲れ果てていたけど、ここ4日ジクジク痛んでいた物が消えていた。
昨日はここに書いてなかったけど料理にジクジクと不快感が残り、子供の遊び食べに真剣にイライラしてしまい、危機感を募らせていたので安心した。
ここを見ても涙も出ない、消えたか深い所に押し込めるのに成功したのか、料理しなかったから楽なだけか、久しぶりにいい牛を食べたテンションで一時的に持ち直しているのか。
気力も体力も湧かなくて外出せずに家の中でずっと縮こまってたのが良くなかったんだろうか。
家族に言えてネットにも書けて涙をまとめて出したのが良かったんだろうか。
落ち着いてよかった、地雷が残っていない事を願う。
http://blog.plutan.org/entry/2014/11/08/125421
https://twitter.com/sakko_o/status/530520417149390848
個人ブログに鍵付けろって何様?お前ルール人に押し付けるな。読者はフォロワーだけじゃない。キャッシュのリンクまで貼る粘着にも吐気。元エントリーは普通の愚痴だがこのエントリーは不快でしかなかった。そもそもお前一人が元エントリー広めたんだろ。お前も(id:wm-hijiriko)(弱者)を殴ってる。陰で悪口言い放題しているのに私悪口言えませんってどの口が言う?暇潰しで八つ当たりいい加減にしろ。
http://b.hatena.ne.jp/Yagokoro/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA/
この御仁にとって「在日朝鮮人」と決め付けるだけが精神安定であり
嘘でも何でもいいのだ。
id:Yagokoroという差別主義者(1)
吐気がする
臭いに敏感ですぐに気分が悪くなり吐く、私は軽い方だったが、酷い人は水も飲めないらしい、妊娠は外から見て解らない初期が一番体力的にもつらいし危険も大きい。
病的に眠くなる
つわりの一種らしい。とにかく眠い、1日中眠れるくらい眠い。つわり中は体を動かしたらダメな時期だから、休むように出来てるんだろうな。
お腹が出っ張る
私はお腹が目立たない方だったけど、7か月あたりからちょっとお腹が目立ち、8か月から急激に出っ張りはじめた、この辺りから肉割れ注意。何キロものカイロをお腹に入れているようなもんで暑いし重い。
お腹が毛深くなる
理由は良く解らん人体の不思議、守ろうとする所に毛が生えたりするんだろうか?産後はすぐ抜けるらしいので期待する。
おへそが小さくなってくる
8か月あたりから徐々に内側から押し出されておへそが小さく。最終的にでべそになるらしい。
乳が大きくなる
ワンサイズアップ、はりがなくなり、ちょっとたれる。産後元に戻るがさらにたれるらしい。
乳輪が大きくなる
乳が大きくなるから引っ張られるのかな、皆大きくなったらしいが今はそれほどでもないので、産後戻ってくれるのを期待。
乳輪が真っ黒になる
赤ん坊の吸い付き噛みつきから乳首を守るために、皮膚が分厚くなる。
皮膚の手触りがよくなる
理由不明ホルモンの関係?
シミが増える
妊娠だけが原因でできたシミは産後に消えるらしいが、妊娠中はとてもシミができやすく、日光に無防備に当たったら一生シミまみれ顔になる。
湿疹などの肌荒れトラブルが増える
体の抵抗力がグッと落ちている感じ
頻尿
逆子だったのでしょっちゅう下の方を蹴り飛ばされて急激な尿意に襲われる、尿切れも悪くなる。
酷い便秘
まさか痔なんかになるとは思わなかった…。母は脱腸したらしいのでまだマシか。
まとまった睡眠がとれない
やたらに朝早く起きるようになる。育児に備えて睡眠が足りなくても大丈夫なように体がトレーニング中らしい。
濡れやすく感じにくい
2011年2月初旬、はじめての妊娠がわかって、とてもうれしかった。
昨日、稽留流産の手術をした。まだ、気持ちの整理がついていないけれど、幸いに術後の痛みもほとんど無いので、記憶が確かなうちに記録する。
様々な方が経験を手記やブログとしてネットで公開されていて、それがおおきな助けになったので、自分も増田として一助になれればと思う。長文お許し下さい。
筆者、36歳、自宅で自由業。結婚10年目。夫は38歳、研究職。ふたりぐらし。
仕事が落ち着き、経済状況も安定してきたので赤ちゃんをむかえることに、2010年秋からとりくみはじめた。
基礎体温は2010年7月から記録をはじめた。葉酸は、1年ほど前から意識して摂取するようにしていた。
夫は頭の中が研究のことばかり。いつも帰宅が遅く、ごはん食べてそのまま泥のように眠るのが日常。
仕事を家にもちかえって、私がデータ整理を手伝いながら、夜半まで趣味とも仕事ともつかない作業をする日も多い。
そんなわけで、いままでかんばる回数は月に2回あればいいほうだった。
夫の妊娠についての知識は「排卵日にがんばれば命中する」というもので、
「顕微鏡でためしに自分の精子を観察したところ、活動も活発で数もいた」という自負がある。
私の周期は28日で、サイクルはわりあい正確、基礎体温もはっきり2層に分かれる変化をしていた。
基礎体温記録、周期の予測、予告などで、下記のサイトを有効活用させていただいた。
記録をまとめて印刷することもできるので、医師に妊娠の経緯を説明する時にとても便利だったし、「がんばる日」の予想もしやすい。
上記の通り、夫の妊娠に対する知識はかなりアバウトであったし、私もネットを使って本気で調べるまでは、知らない事が多かった。
挑戦して、3ヶ月くらいまでは、基礎体温から予測した「だいたいこの日が排卵日」という日を中心に一晩か二晩、がんばった。
夫が仕事でつかれていて、お願いした日に寝てしまったり、お酒を飲んでいい気持で忘れて寝てしまうこともあった。
年齢の事もあり、また自分に自信がなくなってきたので、不妊治療の事も真面目に調べた。
とてもお金がかかり、体への負担も大きい事が分かった。
20代で子供を産み、子供を小学生に育て上げてから、仕事をはじめた友人や、
私の20代には、経済的にも精神的にも余裕はなかったし、夫も自分の身を立てることで精一杯だった。
たいへんでも、親に援助をもとめても、もっとはやくに赤ちゃんをむかえることにすればよかったのかな……
冬になってから、もっと真剣になった。排卵日に関係なく、回数を増やした。それでも週に1度くらい?
妊娠しやすい体にしていくためには、普段から夫婦の接触が大事で、がんばる日が多いと、
お互いのホルモンが活発になって、生殖機能が活性化されていくらしい。科学的根拠は不明?
そして、妊娠しやすい期間の前に4日やすみの日をつくり、排卵日周辺に2日おき、または1日おきにがんばった。
カレンダーに「がんばる日」の印をつけて、多忙な夫が忘れないようにしてみたけど、それでも夫は忘れることがあった。
夫は、理性では、子供と私への気持から、その「予定」に前向きだったが、仕事の締切りや年末進行などで体力的にきつかったし、プレッシャーも感じていた。
私も強制して性交させるのはとても嫌だったので、時に喧嘩になることもあった。夫はいつも一方的に謝るばかりだった。
夫が最大限に努力してくれている事はよくわかっていたはずなのに、自分は焦って思いやりを忘れていた。
年末年始、大掃除もてきとうにして帰省をせず、はじめてふたりだけの大晦日とお正月をすごした。
いつもは組立てない炬燵を出してきて、パソコン並べて仕事しながら、お雑煮やおせちをたべてゆっくりした。
その甲斐もあって、1月のおわりにくるはずの月経が来ず、基礎体温も高いままだったので、
妊娠検査薬を使わずに、2月の初めに産婦人科にいった。病院は、近所の奥様がすすめる病院を選んだ。
子宮のなかに小さな黒いまるがうつっていた。なかみはまだ見えないけど、子宮外妊娠ではない事がわかりほっとした。
妊娠が確定して予定日を告げられてから そのママ に夫婦で登録し、
2月の半ばに2回目の検診にいった。
先生がカーテンをあけて、心臓が動いているのを見せてくれて「順調です」と言ってくれた。
黒い楕円の中で、ちいさい心臓がぱくぱく動いていて、思わず涙腺がゆるんだ。
赤ちゃんは週数のわりに少し小さかった。
調べると、後から追いついて大きくなったり、排卵日が遅かったりしていたために小さく見えたりするそうで、
あまり問題はないということだったけど、今思うと、その時のことがとても気になる。
つわりは、吐くようなつわりでなく、とにかく眠くて眠くて夜も早く眠くなり、昼寝で夕方まで寝てしまう事もあった。
つわりは人それぞれで、これで赤ちゃんの状態を推測する事はできないということだった。
回数を増やすようにがんばってから、夫が活性化したらしく、要求が増えたので、手などを用いて別の方法でお世話をした。
3月の初めに3度目の検診に行った。
この日に母子手帳の手続きができるはずで、その後に、しかるべき人々に報告しようと思っていた。
ちょうど夫の仕事が休みだったので、いっしょにうきうきしながら行った。
いつものように、エコーの検査をしてもらうと、時間がいつもより長く、先生が焦っているようだった。
何度も確認してみても、前回の検診から大きさもあまり変化していなくて、あんなに動いていた心臓のあたりがしんとしていた。
先生によれば、大きさからみて一週間前に心臓が止まってしまったそうだ。
稽留流産、といわれ、先生から説明を受けた。自分では一週間前に何の心当たりもなかった。
夫によれば、ちょうど一週間前から私が吐気でえづくことが増えたので、変化?と思っていたそうだ。
ネットで調べればいろいろ書いてあるので、細かい説明は避け、私個人の体験を記す。
丁寧な説明を受け、自分でもどうして良いかわからなかったけど、
とにかく、早めがよいということで、4日後に手術の日を予約した。
待合にいた夫を呼んで、小さな部屋で、助産師さんからより詳細な説明を受けた。
「わからないことや不安な事は何でも聞いて下さい」といわれたけど、何が不安なのか、何がわからないのかも見当がつかなかった。
あまりに突然の事で、夫婦して感情が固まってしまった。とにかく、私の母と夫の両親に報告した。
母が祖父の看病で家を離れられないため、義母が私の手術前から家に来てくれる事になった。
義母がくることに私はとても不安を感じていたが、案の定、相変わらず、無邪気に笑ってはしゃいでいたので、応対にひどくつかれた。
夫があとで「こんな時に笑うな」と言ってくれたので、助かった。
未婚の友人は、よく「夫を産んでくれたお姑さんに批判的になるのは変よ」と言うが、誰でも最初はそう思うのだ。
誰が好き好んで尊敬すべき立場の人に嫌な感情をいだくだろうか……それなりの経緯というものがあるのだ。
これを書いている今も、横で笑顔で孫がはやく欲しいなどと言っているが、赤ちゃんが亡くなった直後の無神経な発言に気分がささくれ立った。
前夜に話を戻すと、義母ひとりで付添いをするとはりきっていたが、頑なに拒み、夫ひとりについてきてくれるように頼んだ。
義母は多分いい人かもしれない。しかし、いい人がよいことをするわけではない。私は自分が我侭だと思ったが、あとでこの判断はよかったことがわかる。
海外で稽留流産をされた経験のある方の手記をネットで読んだ。その人は夫が激務でひとりで手術に行く事になったそうだ。
手術前夜からの入院で、夜中に耐えられずに泣いてしまったら、年配の看護師さんに抱きしめられて慰められ、
夫を病院に呼ぶようにすすめられ、夫が来てくれたのでとても助かった、と書かれていた。
手術前夜は、飲食禁止だったが、家で留守番をする義母と付添の夫のお昼に炊き込みご飯でおむすびをつくり、
病院に持っていく分と帰宅後の安静時に飲むための番茶をたくさん煮出して、空のペットボトルにつめ、
夫は、手術の前夜も仕事を家に持ち帰っていた。年度末の仕事がギリギリで、とても忙しい時期だ。
そういうわけで、夫は、赤ちゃんがいた実感も、赤ちゃんが亡くなった実感も薄く、私も事務的に手術の仕度をするだけで、
何が起こってどうなるのか、わからなかった。ただ、ネットで様々な人が書かれた手記や質問の応答などを読んで、
「こういうことがある」のがわかり、ふたりで「痛いことはたくさんあるようだけど、いちばんつらいのは赤ちゃんだから、耐えよう」と思った。
当日、3月7日朝9時、夫と直接、産婦人科病棟のナースステーションに行き、書類を出して手続きをした。
病院には自家用車で行った。服装は、お腹をゆるく保護する妊婦用のやわらかい部屋着のズボン、Tシャツ、パジャマの上着、フリースの長いコートで、
家に帰ったらそのまま寝られる服装で行った。手記をみると電車で行き帰りする人もいて術後は歩いて移動できるようだけど、楽にできるならその方がいいと思った。
ナプキンをつけてから、担当医とは別の当直の先生が、子宮口を開く処置をしてくれた。
赤ちゃんは最後の検診の時と変わらず、動いておらず、形も少しいびつになってしまったように見えた。
この処置はとても痛いという手記が多いが、私の場合は、それほど痛くなかった。痛覚が鈍いのかも知れない。
それから点滴で輸液をし、午前中の外来が終わるまで病室で安静にしていた。
午後になり、手術着に着替え、点滴をつけたまま、手術する部屋へ歩いていった。夫は病室で待機。
多分、分娩とおなじ場所だと思う。途中の廊下で元気な赤ちゃんの声がたくさん聞こえた。
担当医の先生が手術の道具を調えていて、天井には大きなライトがあったり、
計器をつながれたり、看護師さんがてばやく準備を整えはじめたので、急に怖くなった。
台の足の部分が開かれて持ち上がり、足にカバーをかけられて、足首を固定された。
肩に麻酔を効きやすくする筋肉注射を打たれた。これが全ての経過の中で最も痛く、
思わず呼吸が大きくなり、その痛みが引かないうちに、アイマスクをつけられ、看護師さんに点滴を刺している手を胸を載せられると、
先生の「麻酔を入れたら、手術を始めます。子宮口に詰めた消毒綿をとります。はい麻酔を…」というとこで、
器具の冷たい感触があって、下腹部が激しく痛くなったと感じたら、麻酔が効きはじめ、突然、幻覚が始まった。
事前に「意識はうっすらとあって、声が聞こえるくらい。眠くなったら寝て下さい」といわれていた。
しかし、私は意識はしっかりあったと思う。ただ外とつながっていないだけで。
もし、赤ちゃんが次に何処かに生まれることができるなら、できるだけ暖かくて自然がいっぱいあるとこへいけるといいなと考えて、出張した時に見た熱帯の森を手術中はイメージしていようと思い、痛みをこらえて、その木々の茂る風景をイメージしてみた。
だけど、アイマスクで暗いはずの視界が急に明るくなって、上からレゴブロックの白いのみたいな小さなものがザーッと落ちてきて、自分の体がとても小さくなってしまったように感じた。痛みも体がある感じも消え、白と灰色と黒の格子みたいのがある空間の底にいて、格子がうねりながら昇っていった。うねった隙間から、キミドリとピンクの光がでてきて、渦を巻いてまるくなってくっついたり離れたりして激しく動いていた。私は自分の家や猫のいる温かい感じがあるとこへもどりたい気がしたけど、仕事や、大学のころに勉強していた事、その意味が、バラバラに浮かんできて、消えていって、その間、気持ちいいテクノみたいな音楽(フロアに流れるかすかなオルゴールの環境音がアップテンポに聞こえた?)がずっと流れていた。格子の四角がだんだん大きくなってきて、その合間にフラッシュバックみたく家にいて西日が当たる暖かい感じが懐しく浮かんできて、そして、キミドリとピンクの光がうすれ、シューッシューッと機械が動く音が聞こえて、視界がもやもやした暗い灰色になって、人の話す声がなんとなく聞こえてきた。
しばらくして、アイマスクがはずされた。目を開けようとしても薄くしか開かず、まだ視界がぼやけていて、遠くから声が聞こえた。
「お腹はいたくないですか?」 「わかりません」と答えたと思う。
顔を横にして時計を見てみたら、20分くらいしかすぎていなかったのがぼんやり見えた。
ご主人を呼んできます、と看護師さんが出て行き、夫が来て手を握ってくれた。
すごく暖かい感じがして、涙が出てきた。夫も泣いていた。
麻酔がしっかり醒めるまで、一時間ほど、その場所でそのまま2人でいた。
時折、看護師さんが来て出血を確認していった。
いつの間にかパンツを履かされていて、看護師さんがナプキンを交換してくれた。
持参したナプキンのうち未使用の2コをとり、交換したナプキンと今着けたばかりのナプキンの空袋を持って、計量にいった。
重さの差から出血の量を計測しているのだろう。種類を混ぜて持ってこなくてよかった。
なので、手術の日に持参するナプキンは全部を同じ種類のものにしておくとよいと思う。
麻酔が醒めてくると、点滴の支柱と夫に支えられて、歩いて病室にもどった。不思議とどこも痛くなかった。
病室でズボンをはいて横になり、点滴がはずされると、遅い昼食がでた。
夫も昼食をとっていなかったので、いっしょに食事をした。
夫は前日まで、「手術してる間にちょっと外でごはん食べてくるから、おむすびいらないよ」と言うほど、
手術の時にどうするか何も知らなかったし、手術の間は待機しているようにと説明された事も忘れていた。
私は飲み物をのんでおかずを少し食べてみたが、点滴のせいかお腹がすいていないので、勿体ないけどほとんど残してしまった。
夫は「自分がここにいるべきだし、おむすびとお茶を持ってきてよかった」と言った。
薬がでて、会計が終わると、手術着を脱いで、帰る仕度をした。このときも、お腹は全く痛くなかった。
看護師さんが手術前に、担当医の先生は手術がはやいと言っていたが、きっと処置が上手だったのだろう。
子宮を収縮させる薬を飲むとお腹が痛くなるというが、薬をちゃんと飲んでいる1日後も痛みはほとんどない。
来週に検診があって、また病院にいく。
元気になったら、赤ちゃんのことをおぼえておけるように、地元で名木の桜の保護をしている会から苗木を分けてもらって、実家の土地のいい場所に植えようと思う。
その木がもっと時間が経って大きくなって花をたくさん咲かせたら、それとは知らなくても、いろいろな人が見に来てくれると思う。
・次の月経以降の周期に、「妊娠したい 私はこれで妊娠しました」 を参考に、排卵検査薬を使って、排卵と基礎体温変化の様子を観察し、今後に役立てる。
私は浮気をする方が悪いと思うが、妹は父親にとても可愛がられてきて父も妹の前ではぶりっこだったのでわりと父親よりだ。
「私は1度でも浮気されたら絶対許さないしすぐに追い出す、それだけの収入もあるけど母は違う、父は私も吐気がするくらい嫌いだけど、あれだけ冷たくされたら浮気するのも仕方ないし、浮気されたくないなら結婚相手選びを間違ってる、別れたかったならこうなる前に別れられるように手に職をつける正社員になるなど準備すれば良かった、浮気夫が居る状態を生活の手段と割り切って母も浮気すればいいのに」
ん?
わりと父親よりの妹が
「父は私も吐き気がするくらい嫌い」って言ってるの?
凄い家庭環境だw
オタクって自分に媚びてくれる物を本当に極限まで見下すんだな。
レイヤーとかゴスロリがオタクを一段下に見て、便利に利用しながらも絶対に付き合う対象にしないってのも解るわ。オタクも媚びながら本心では見下して付き合ってるんだろうな。
芸能人に金儲けているんだから自分の精液ごくごく飲むのも当然とか思ってる人は居ないよ?
芸がない子でも可愛らしさとかそんな部分に価値見てるだけで、自分の精液なすりこむ所までは求めてない。
ジャ二タレファンレベルの酷いファンでも彼女居たから嫌がらせしてやめさせてやった!芸がないウリセン男に金払ってやってんだからこれくらい当然!!!!みたいな性格ではないわ…。
気持ち悪い自覚はあるだろうけど、世間から見ればそれ以上に気持ち悪い。人として終わってるレベルだよ。
CDやDVDチケット写真集ポスター程度の出費で何でそこまで思いあがれるんだか。金出した分だけ商品が手に入って、そこで終了だよ普通は。