はてなキーワード: 名門校とは
タイトルの通りだが、スポーツ系の社会人サークルに入って感じたことを率直に記載していく。
・男女問わず楽しめる
・道具代は数あるスポーツの中ではちょっとかかるくらい(ゴルフよりはかからない)
・ チームで取り組むことが多い
といったところ。
色々なところに顔を出すようになって3年ほどが経過した。
もしかしたら自分の記載内容は人によっては不快に思われるかもしれない。
でも人によっては「ほーん、そんな世界もあるのか」と感じて貰えると思うし、自分も新鮮な気分を現在進行形で味わっている。
先に補足しておくが、サークルメンバーに対して上から目線で接したりバカにしたりという態度は表面上一切出さないようにしている。
ただ、自分のこれまで生きてきた世界とのギャップに少なからずショックを受けたため、はてなにだけ、こっそりと投稿させていただきたい。
どこにでもある地方国立大の院卒。理学系の専攻で、現在は日系大手メーカーに勤めるエンジニア。住んでるところは北関東とだけ。
年収は800万円+α。ポイ活、持ち株、NISA、副業等そこそこ嗜んでおり、それらも含めた総収入は900万くらいになる。
31歳既婚で、学生時代から付き合ってる彼女と順当にゴールイン。そのためサークルには出会いを一切求めていなかった。むしろ男友達ができると嬉しいくらい。
件のスポーツは中学、高校と経験しており、地方大会で入賞できるかどうかくらいのレベル。当時はゲームの方が100倍楽しかったのであまり真剣に取り組んではいなかった。
サークル内での序列は平均して中堅の中でも中堅どころで、サークル参加は月3回ほど(+プレーの反省や自主練)。
これでも少しずつ実力が伸びている、らしい。自分ではよくわからない。
とはいえ実業団の方や名門校の高校生、社会人になってもなおそのスポーツを人生の重きに置いてる人間には到底敵わない。
自分は運動不足の解消を一番の目的としてスポーツをしている。スポーツはジムよりも金がかからず、筋トレやランニングより楽しい。趣味と実益を兼ねる楽しいスポーツと言う認識。
理系学生よろしくコミュ障のため、サークルメンバーとサークル活動以外で絡むことはさほど多くない。でも、関わったサークルや仲良くなった人とは細く長く付き合っていければいいな、と思っている。
【サークルについて】
どこも同じようなものだと思うが、実力や人数など、多種多様なサークルが自分の生活圏内に点在している感じ。
自分は3つくらいのサークルをそれぞれ月1くらいのペースで参加している。
大会とか積極的に参加するような自信をお持ちの人がいるところにノコノコ乗り込んでいくことが多い。で、勝ったり負けたり。
大体毎週1回~2回ほど開催しており、参加費は数百円ほど。一回の時間は2時間~5時間くらいだけど、ほどよく全身に筋肉痛を感じる、本当に良いスポーツだと思う。
【感じたことまとめ】
まあわかっていたことなんだけど、世の中って学歴的な意味では俺より低い人が大半なんだな、ということを身を以て実感した。
俺は自分自身をさほど頭の良い人間とは思っていない。そもそも地方国立大だし、研究の世界から早々にドロップアウトして、民間に逃げることが前提の大学生活だったし。
ただ、受験勉強という競技においてそこそこの成績を収めただけ。ついでに言うと就職に関してもやることやって順当に収めた進路であり、血の滲むような努力を日々続けてきたわけではない。
ただまあ、人生の要所要所で大きく道を外さなかった自負はある。
でも。こうして社会人サークルの中に入ると俺よりも頭のいい人、収入を多く稼いでいる人が少ないというかほとんどいない。これには少なからず驚きを覚えた。
高卒でも自営業やフリーランスで高給取り、みたいな人が社会にたくさんいるもんだと思っていたが、今まで見たことがない。サークルに来ないだけなのかもしれないけどね。
大多数は工場の製造現場、介護、飲食、事務、医療系専門職それと公務員。
今後記載していく内容はこの低収入、低学歴の方々の生態をまとめたものと思って貰っておおむね差し支えない。
自分が関わってきた中では、教員の自己&他己評価が意味不明なほど高い。優秀と思われそうな職業の筆頭だからだろうか。
自分に自信があるのは良いことだが、視野が狭いんだなあ、と不思議な気持ちで彼らを見ていた。
つい最近、小学校教師の方に年収を聞かれた。彼は38歳だったため、咄嗟に彼の年収を予測し、それより少し低めの年収を答えた。
この判断は今にしても間違いでなかったと思う。彼はあからさまに安堵していた様子だった。
「そすか、俺と同じくらいなんすね笑」とにこやかに言われた。こいつ…教員採用試験に落ち続けて講師を長くやっていたと聞いていたが、そんくらいしか稼いでなかったのか。
教員は残業も多く、成り手が年々減少していると聞いている。もう少し給与体系を考えてあげてほしい。
そして願わくば、もっと質の高い教員を増やして欲しい。俺はあんなプライドだけのクソバカ共に自分の子供を任せたくは無い。
自分が勤めている会社は別にエンジニア部隊でなくとも既婚者が大半を占める。仕事に人生のリソースをほとんどつぎ込む職人気質な方々を除き、大半が結婚している。これが普通なんだと勝手に思っていた。
だが、スポーツサークルにはスポーツしか能の無い独身共がゾンビのように蠢いている。
俺みたいな既婚男性は歯牙にもかけない。既婚女性、独身オバサン辺りも同様で、若い女性とばかりコミュニケーションを取りたがる。
ねじ曲がったコミュニケーションの仕方が自分の立ち位置を狭めることに独身の彼らは気付いていない。
そうしてサークル内に「勝手な連絡先の交換禁止」や、「女性に声かけすぎたため除籍」など、様々な問題が発生する。
俺自身、陰キャだし、女性との接し方がわからず飢える気持ちはすごくわかる。
だからこそ、昔から付き合ってきた彼女はを大事にしてこれたし、そもそもそれ以前に学生時代にきちんと恋愛経験を積まんと努力した事があった。
タイミングと方向性が間違っていることを彼らは学ぶべき・・・と俺は思うが、彼らの学習能力を見ているとなんとも言えない。
・金遣い粗すぎ問題
これも彼らを見て率直に思ったこと。単純に俺よりも金をかけたがる人が多いと感じた。
風俗、スマホゲーへの廃課金、スパチャ、ギャンブル、タバコ、飲み代・・・とにかく何でも良いので金を浪費している感じ。やはり自分が生きてきたコミュニティとは何か差のようなものを感じてしまうのだ。
車をローンや残価設定で買う人も多い。なのにNISAやふるさと納税はやってないみたい。何か事情があるのだろうと勝手に思っていたが、そういう訳でも無さそうだ。ただ概念にないだけ。
ここまで読んで見て、 「大学生みたいだ」と思った人、いるのではないか。大学生のほとんどが経験する通過儀礼を経ずに社会に放り出され、年食った大学生みたいな奴のなんと多いことか。
また、スポーツ用品にやたらお金をかける人もいっぱいいる。彼らは道具に対して愛着を持っていたり、こだわりを持っている訳ではない。
道具のせいにしたり、中にはキレて破壊する人間もいるのだから驚きだ。
ちなみに自分はRPGで言うところの初期装備に近く、それを昔から大事に大事に使ってる。
自身の肉体と知識を高める方が長期的に見て人生によって有益だと自分は思っている。それと同時に目先の結果だけに囚われるべきではない、と。
スポーツに限らず、仕事でも勉強でも、何か実力を身に付けたい場合、投下時間は大事な要素だと思う。
そして学び方も非常に大事だと俺は思っている。
これは例のスポーツも同様。うまくなりたいのなら、自分のプレーで悪かったところ、良いところを振り返り、今後どんな練習をするべきか考え、実践する必要がある。
だが、彼らは投下時間のみ重要視している印象を受ける。ただ試合して、負けて、それで終わり。
だから実力が伸びない。負けた理由が腑に落ちず、イライラする。道具を破壊したり、他人に対して当たりがキツくなる。女性はよく泣き出す。で、お●んぽボローンな方々に慰めてもらう。
ぶっちゃけ、俺は彼らよりも仕事が忙しいし、就業時間外でやりたいこともたくさんある。だからサークルに参加したときはできるだけ自主練に励み、できるだけ多く試合に参加する。
でも彼らは「疲れた、休みたい」を連呼し、休憩中はタバコやスマホいじりをしている人が本当に多い。人生を無駄にしていると思わざるを得ない。
そもそも、マネタイズできる訳でもないスポーツにそこまで入れ込んで、イライラしているというのがいまいちよくわからない。
勝ち負けを楽しむギャンブルみたいな気分で取り組んでいるのだろうか。
ついでに言うと、本を読む人、仕事のために一生懸命勉強をするなんて話も聞いたことがない。
「日本人は勉強しない」なんて言う話を時たまネットの世界で見かけるが、そもそも勉強する必要性が無い仕事や境遇を持つ人々で溢れているがゆえの必然なんじゃないかと思う。
感情的になる人は以下に分類されるが、一歩引いたところから傍観してると面白味さえ感じてしまう。
ただ、自分に被害が及ぶと面倒なので、キレてる奴がいたらそっと離れるようにしている。そうすることで自分はサークルを細く長く続けられていると思う。
②実力がプライドに追いついておらず、自分の思うようにプレーができなくてキレるタイプ
③無駄に煽る奴(こいつも大概だが)に対してガチギレするタイプ
うまく表現できないんだけど、何か嫌なことがあったとき、「キレる」があまりにも近くにある人が多い気がする。手前に「我慢」があるでしょ?普通はさ。
アンガーマネジメント、アサーション。社会人になったら自然と学ぶものと思っていたが、意外とそうでもないらしい。
・でも楽しそうな人が多い
オチになるけど、彼らって別に自分自身に絶望している訳じゃないんだよね。
ただ彼らの収入に見合った生活をして、彼らなりの楽しみを日々感じて生きている。
あと残業も俺と比べて少ない人が多い。年齢によらず実家暮らしの人も多い。無駄に使える金と時間を好きに浪費するのもまた人生。勝手ながら、そんな選択肢を学ばせてくれた彼らに小さく感謝をしている。
キレ散らかしてサークルを去ってしまうような人も結構いるけど、サークル以外の場で話してみると結構普通。低学歴だろうと、低収入だろうと。
だから彼らとの差を随所に感じつつも、それなりにフラットに接することができている。「こういう人もいるよね」っていう社会勉強みたいな気持ちで日々サークルに参加しており、それを一種の娯楽に感じることができている。
前
https://anond.hatelabo.jp/20240502193039
この時期は多くのことを考えた。特に就職のことだ。第一志望の大学には入れなかった。だからこそ、今後の人生では逆転したいと思っていた。
就職四季報を読み耽ったし、就職活動の参考になるサイトは巡回したし、就職課の方々にもクソお世話になった(ワンピース的な意味で)。
リクナビとかあるじゃん。あれで友達とかにURL付きの回答ページを送って、送り主のことを回答してもらって、そしたら他人から見た自分自身の分析結果とか、どんな業界が向いてるとか、どんな価値観で仕事をしたいとか、いろいろわかるサービスがあった。そういうのをやってた。
当時は、LINEとかTwitterが一般的だった。ひと昔前の人って、LINEとかなかったんだろ? もしかして、全部メールとか郵便で就職活動をしてたんだろうか、一体どうやって? という疑問を感じていた。
本格的に就職活動が始まろうとしていた。自分は、1回生の頃から【TOEIC】の勉強に励んでいた。少しずつではあるけど実力を身に付けていた。勉強時間はそれほどでもないけど、ずっと続けていた。二年半。
受験にはお金がかかるし、実力を付けてから挑んでみようと考えていた。そしてついに、秋頃だったかな。受験料が少ないタイプの学内試験(※本番で実施済のテストを使い回すやつ)を受けることにした。
人生で初めてのTOEICは……うん、こんなもんかって感じだった。緊張していて、そこまで問題は解けなかったけど、ベストを尽くすことができた。
その結果は、なんと……(ドラムロール鳴る)……760点だった!! 当時の自分は、大喜びだった。狂喜乱舞だった。心の中でもリアルワールドでも小躍りをしていた。実際、佛教大学でのランキングは堂々の二位だった。一位は確か、文学部英米学科の人だったと思う。
これは、この結果は……紛れもない一流である!! おそらくきっと、この点数は、同志社だろうと立命館だろうと飛び抜けた点数だろう。京都大学でも通用するし、ましてや就職活動で通用しないはずがない。祇園や木屋町などの飲み屋街、東本願寺や渉成園とかの観光地で【外国人】とトークをしても通用するだけの英語力を、ついに、ついに身に付けたのだ!!
※そんなふうに考えた時期が俺にもありました。
そんなこんなで、就職活動が本格スタートした。俺は必死で、シューカツとやらに取り組んだよ。リクスー集団に交じってさ、学内の企業説明会とか、大阪城ホールでの合同説明会とか、東京までOB訪問に行ったこともあったっけ。とにかくマジだった。
あの頃の自分は飢えていた。なんの実力も実績も持っていないのが嫌だった。とにかく何か、ほかの人から見て、「あいつはスゴイ」となるものを最低一つはほしいと考えていた。
いつからか知ることになったのだが、この佛大というのは宗教系の比較的裕福な大学である。当時の週刊誌の大学職員給料ランキングでは、慶應や関西大学などの有名私大と肩を並べていた。キャッシュフロー的な意味で裕福な理由はいくつかあるが、そこまでは述べない(この日記の趣旨ではない)。
大学構内には、相応の見た目の講義棟(兼研究棟)が鎮座している。学生時代は「おしゃれ~でかい~」くらいの印象だったが、歴戦の社会人となった今ではわかる。あの1棟ものの巨大な建物は、建設工事だけで百億とかいってるかもしれない。同じ規模の大学で、あれを作れるところは少ないだろう。
あれは確か、3回生の終わり頃だったかな。本日の部活もさあ終わりだ、という時に、部長(※教員側の部活責任者)から声がかかった。ほかの3回生も一緒だった。「佛大の就職試験を受ける気はないか? 希望者がいたら優遇する」ということだった。
考えたのだけど、大学職員というのは、その大学がすんごく好きな人がなるものだと思った。当時は、民間企業への就職を視野に入れていた。優遇できる枠は1名ということで、ほかの同回生が手を挙げることになった。
まあ、年収であるとか、職務内容とかのバランスを考えると、「魅力的だ」とは正直思った。当方は、人生の方向転換が苦手なタイプである。この頃は、先輩やOB・OGを探して、就職活動に関する考え方や情報を集めていた。何でもいい、そういう生のデータがほしかった。
けど、嫌なことはやっぱり起きる。わざわざ日記に書いているのだから、当時の俺は相当ムカついたのだろう。
就職に関する情報を探してる中で、聞き込みのために学内アルバイトをすることがあった。それは講義の出席者からレポートを受け取って、受付番号を整理して、最後に整頓するようなアルバイトだった。1日勤務で六千円だった気がする。
二人一組で受付作業をするのだが、隣の組を見てると気分が悪くなった――と日記には書いてある。
その組は、男子と女子の組み合わせだったのだが、男子の方がやたらと女子の方にがっついている。レポート提出者がいない時に、割と雑談をしていた。
その中で、男子の方が「彼氏いる?」と聞いた後で、女子の方が「いる」と答えると、男子の態度が急に悪くなったのだ。それは仕事終わりまで続いた。
最後にレポートの仕分け確認をする時も、その男子は怒鳴りつけるようにして女子に当たっていた。俺はあまりにムカついたので、「ちょっと静かにやってもらえます?」と声をかけて、ようやく静かになった……。
と、記憶を思い返したけど、今の俺にそこまで思うことはない。「男の態度がひどいね。でも、オスってそんなもんじゃね?」くらいしか思わない。間近で見たらムカつくんだろうけど。注意とかするかもしれない。
当時は、実際どんな人間だったんだろう。俺って。記憶が薄らいでるとかいう次元ではない。消失している。全然わからない。
なんかさ、十年前の自分ってさ、もはや『他人』じゃないか。体の細胞でいうと、20回分は完全に入れ替わっている。もはや完全に他人である。
余談だが、佛教大学に通ってる女子には可愛い子が多いと、アルバイト先の立命館大学の人に言われることがよくあった。
根拠は全くないものの、社会に出た後の個人的感想では当たっていると感じる。福祉や教育に強い大学はそうなのだろうか?
就職活動に本気だった。この頃は、大手企業は今よりも早く内定を出していた(4月の1週目くらい?)。就職活動以外に教職課程のこともあったが、時間の隙間を縫って面接試験を受けに行った。まあ、書類選考でお祈りされることの方がずっと多かったけど。
うちの大学の卒業生で、すごい就職先に進んだ人っているのだろうか? 自分は高望みをしていないだろうか? そんなことが気になっていた。大手病に罹患していた可能性が極めて高い。
当時は社会学部で政策学を学んでいた。社会学だけじゃなくて、社会科学ならなんでも学べる学部だった。地域を盛り上げる系のゼミに入っていたのだけど、どんな先輩方がどんな進路に進んでいるか、正直気になるところだった。
ほかのゼミと交流する機会があった時に、同輩や先生方に聞いて回ったのだけど、凄い人というのはやっぱりいた。学生が六千人もいるのだから、レベルが高い人は一定数存在しているのだ。
社会学部の先輩(俺と同じ公共政策学科)の例だと、自分が入学する数年前に総合商社の内定を取った人がいたらしい。学業だけじゃなくて、外の世界に飛び出して活動していた人だと聞いた。とにかく忙しい人で、授業にはそこまで出席してなくて、水商売の仕事に明け暮れていたらしい。
単位はそれなりに取得して、教職課程最難関の講義(兼演習)ではチーム全員で百点満点を取って、大学同士の研究分科会では発表役になって、大学の学園祭ではパヒュームのダンスを踊ってウケを取って……とにかく活動的な人だったらしい。
学歴って、仕事の実力とは相関が薄いよな。多く見積もっても3割くらいだ。『誰もが嘘をついている』という本に書いてあったのだが、高偏差値の名門校に1点差で受かった人・落ちた人を追跡調査する社会実験があったらしい。結果的には、学歴と現在の地位に相関関係はないという結論だった。相関係数は0.1程度とあった。
アメリカ合衆国での話なので、日本だとどうなるかわからない。けど、自分も同意見である。どんな中学・高校・大学を出てるとか、そういうのは人生での成功にはほぼ関係ない。
どんな瞬間だって、自分が今どこにいて、何を目指していて、どんな努力をしているか。それが大事だ。学歴を振り返ってる暇があるなら、さっさとやることをやって次の先に進むのだ。
就職活動の話に戻るけど……就職活動の面接で問われる内容(志望動機、自己分析、自己アピール、就職活動の軸、ガクチカ)とかってさ。釈迦人になった今ではわかるんだけど、ぶっちゃけ茶番だよな。はてなブログだと、借金玉さんがそんなことを言ってた。部族の掟に近いものがあるってさ。
就活的なキャラの型枠を、リクルートその他の人材会社が用意したうえで、企業側が「茶番」に対して本気になれる人材(会社の方針を素直に受け入れて、貢献してくれる)を探してる。それだけだ。
若き大学生が当日記を読んでる可能性は低いけど、たったひとつだけ、ただひとつだけ、会社選びで言えることがあるとすれば……以前、どっかの増田日記に書いてあったのを参考にすると、こんなところだ。
「自分が入りたい会社というのは、自分が将来、どんなキャリアを描きたいのか、どんな人生を歩みたいのか、どんな人間になりたいのか。そういうところから逆算して決めていく」
就職活動の軸というよりは、人生の軸という観点である。ちなみに軸、というのは「他人に関係なく、自分が正しいと思える考え方」という意味だ。
経済社会でバリバリ働きたいなら、そういう会社に行くべきだし、あなたが大事にしてる『たましいの仕事』があって、仕事は副業でやりたいなら暇そうな業界を選ぶべきだ。
将来、どんな人生を歩みたいのか? それさえ決まっていれば、業界や会社を決めることはできる。職種についてはナントモだが……敢えて言うと、保育所とか幼稚園とか小学校とか、それくらいの年頃に何が面白かったのか、が答えになるんじゃないか。その年代に心から楽しめたものは、大人になってからもきっと楽しい。
結局、その年の春の終わりに就職活動を終えて、内定をもらえたのは……京都市内にある電子機器メーカーだった。
大手企業を受けるのはやめた。大手病を克服したのだ。それで地元の会社一本に絞った。ここまで絞ると、受験できる会社の数は十社程度になった。自分の力をそんなに分散する必要もない。十分に集中できる。
当時は嬉しかったよ。両親に報告したら、父も母も衝撃を受けていた。うちの親って、自分の子どもを親戚の子と比べたがる嫌いがある。それはムカつくのだが、いい結果を報告できてよかった。
両親が、俺が出した実績をありがたがって聞いている。その実績を、電話などで親戚やご近所に知らせて調子に乗りまくっている。スタンダールの小説の『赤と黒』を思い出した。小説の中で、こんな感じの場面がなかったっけ? ブクマカで詳しい人がいたら教えてほしい。
両親よりも喜んでいたのは就職課の人だった。内定先を告げると、ご機嫌なビートで小躍りするようにして、ハッピーな感じでターンをキメていた。ずっと以前から、いろいろとお世話になっていた。喜んでもらえてよかった。
この年度の終わり頃、卒業間近だったか。大学が出してる何かの広報で、俺の就職先がデカデカと上の方に載っていた。トレーニングルームでそれを読んでいる時、隣にいた学生達も同じ広報の同じページを読んでいた。
「ん。どこどこ?」
「ほら、ここや。この会社」
「ああ、それマンコやろ」
「……」
「女の一般事務職だって。総合職ちゃうし。こんな掲載は詐欺に近い」
俺の怒りは有頂天に達していた。当時の日記には「有頂天」と書いてあったが、怒髪天と書きたかったのだと信じたい。
こういう連中はどこにでもいる。気にしたら負けである。増田の読者の人も、レベルが高い解釈と低い解釈があるとしたら、迷わず高い方を選ぼう。そっちの方が心身ともに健やかな人生を送ることができる。
次
小学校の学級会で女子に糾弾されて女嫌いになったそうだが、そんなの普通なら可愛い思い出に変わる程度のもの
むしろそんな記憶が嫌なことのトップにくる程度なんて平和な6年間だったのだろう
そして順調に高等部に進学
中等部に入れば自動的に高等部に入れるわけではなく、あまりに成績が悪いと肩を叩かれる
暇空は中学に入ってからネトゲにハマって身を持ち崩したと自伝で語ってはいるが
高等部進学を許されたということは、ネトゲをやりつつも学業と両立できていたのだ
なにが起こったのか
現在暇空は41歳、堀口は25歳
いつか出会うことが運命づけられていた二人は、この時から既に互いに磁力を放ち惹かれ合っていた
堀口の暇空を引き寄せようとする磁力が、暇空の脳を変異させた
注:創設年や前身校が曖昧だったりすることもあるのでそこそこ独断で決定している。
こうしてみると「ここ10年」というよりは1990年代から増えはじめて2000年代に最盛期を迎えていたことがわかる。
これは「共学化」や「合併」で改名の機会が増えたことが一因であろうと思われる。
1990年代は高校数の増加が止まった時期であり、さらに2000年頃からは減少に転じてもいる。
少子化に伴って、全国の高校が共学化や合併を余儀なくされ、その際に「〇〇館高校」と改名したパターンが多いのである。
古めかしい字面の「○○館高校」は江戸時代の藩校や私塾が源流にあることが多い。
もともと「○○館」という名の藩校や私塾があって、それが紆余曲折を経て「○○館高校」になったものである。
そうした高校は、必然的に歴史が長く、地元では「伝統校」「名門校」と見なされている。
推測だが、そうした「伝統校」「名門校」のイメージを持たせるために「○○館高校」に改名したところも多いのではないか。
「○○館高校」の数は県ごとに偏りがあり、特に福岡県・鹿児島県・愛知県・広島県・山形県あたりで多いが、いずれの県にも古くから「○○館高校」がある。
それらの地元では何となく「○○館」にかっこよくて頭が良さそうなイメージがあるのかもしれない。
また、同じ県で近い時期に続けざまに公立の「○○館高校」が開校している例がまま見られる。単純に命名者が重複している可能性もある。
『子どもは「贅沢品」になったのか。上位大学と中堅以下の大学の学生たちに見えた「意識の差」』
https://news.yahoo.co.jp/articles/e8dd6ebe824bc0984ceff04d12d5c429cb88678a
この記事、昨今話題の「若者の恋愛離れ」に対し、上位大学の学生と中堅以下の学生とで子供を持つ意欲に差があるという調査結果は凄く納得いくけれど
この記事で残念なのは意見の実例を挙げているのが男子学生ばかりで、女子学生が少ない事だな
実際、上位大学と中堅以下の下位大学とでの子供を持つ意欲の差って、男子学生よりも女子学生の
自分は故あって上位大学の女子学生が多く集まる場所にいるけれど彼女達本当に凄いもの
都内や大都市の実家の太い名家に生まれ、当たり前のように女子御三家のような名門校から東大や私立トップ大に入り
それに加えて海外旅行やお金のかかるレジャーも楽しむ、キラキラした学生ばっかり。
そして何よりも、生まれついてのブルベ色白の肌で大きな二重の瞳、童顔小顔の似たようなルックスばかり。整形やメイクではあれは無理だろう。
おそらくは彼女達の親の世代で既に婚姻における選別と淘汰が進みきって、容姿が良くないと結婚出来なくなっているんだろう。
そういう女性はコンプレックスも何もないから、似たような上位大学の男子と結婚して自分達の優秀な遺伝子を子供に受け継がせる事に何の不安もないんだよね。
そして「子育て」についても、福利厚生が充実した公務員や大企業への就職が約束されているので当たり前のように仕事と両立する予定でいる。
フェミニストにしろそうでない女性にしろ、「子育ては女性に負担がかかりすぎるから女性は本心では子供なんてほしくない」という事にしておかないと
自己の主張に不都合だから困るんだろうけれど、実際は上位層の女性ほど自己実現の一環として子供を望むし子育てに負担感なんて感じてない。
一方、中堅以下の下位大学の女子学生は学業の成績や親の資産のみならずルックスも劣った人が多いので、自分の遺伝子を受け継がせたくないから結婚や出産に尻込みする。
よく言われる、「少子化は女性が一人でも生きていけるようになったから」「自立した女性は結婚したがらない」なんてのは大嘘で
実際には経済的に安定し『自立』した女性ほど結婚と子育てを望み、そうでない女性は望まないというのが現実だと思う。
「私立」と言うと金持ちが行く名門校としか思いつかない人もいるようだけど
地方は大体公立優勢で私立=公立に落ちた人が行くすべり止め校、って所が多い
だから私立も助成しないと成績の悪い貧困家庭の子が行ける高校がなくなってしまうんだよ
幼稚園も同じで地方によっては公立幼稚園がほとんどなくてほぼ私立なんて所もある、
幼保無償化は私立幼稚園の場合は「一般的な保育料相当額を補助」って形になってて
元々高額な名門私立幼稚園はそれ以上の金を取るけど、一般的な私立幼稚園はその範囲内で収めてるので
高校も同じ事になると思う
高額な金取っても生徒に困らない名門校はもっと取るだろうけど、それじゃ生徒が集まらなくなるような学校は補助金額内に収めようとするだろうよ
時と場合にもよるけど、個人的にはそれほど問題ないと考えている。
大阪桐蔭や明徳義塾、かつての帝京のように、甲子園のヒール役で、スタンドからの応援が少なくても順調に甲子園を勝ち上がっている強豪もたくさんある。思われているほど応援の偏りで負けたりはしていない。
過剰に声援が偏りがちなのは、2007年の佐賀北や2018年の金足農など、基本的に甲子園の常連ではない平凡な公立校が勝ち上がった時で、普段の力関係を考えれば、そういうことは許容範囲だと思う。
今回は、昨年優勝したメンバーが中心の絶対王者・仙台育英に、107年ぶりを目指す日本を代表するエリート名門校・慶応が挑戦する、というわかりやすい対比と、六大学野球の応援スタイルを全面的に甲子園に持ち込んだことが原因。見たことのある人はわかると思うが、優勝争いの時の早慶戦の応援は阪神以上にすごい。
個人的には2011年の2回戦、帝京ー八幡商戦。8回までは優勝候補だった帝京が3−0の楽勝ムードだったが、9回に八幡商のヒットやエラー(日ハムの松本剛)が続いて観客が盛り上がってスタンド全体が八幡商応援団状態になり、最後には満塁ホームランが飛び出して大逆転勝ち。
2009年卒の就活は氷河期どころか思いっきりバブルだったぞ。07年卒、08年卒はもっとザルだった。
ちなみにこの時期は、マーチ内ですら
「みずほ銀行とりそな銀行は無対策で応募してもかなりの高確率で内々定までいっちゃうから行く気ないなら受けないほうがいい」
みたいに囁かれてた。学内で親しい先輩のうち、この年度にみずほ銀行を受けた人は5人いたけど5人全員内定してた。
早慶なんかだと
というのが常識だったようだ。今の時代の就活生や20世紀の就活を知っている人からしたら衝撃的だろう。
リーマンショック由来の就職氷河期が始まったのは2010年卒の人間の就活から。
この就職氷河期は、不景気突入の嚆矢となる象徴的事件(リーマン破綻)から新卒採用抑制の時間差が全然ない珍しいものだった。本当に突然バブルから氷河期に突入したのだ。
秋頃にメガバンクの採用予定計画が発表されてどこも軒並み半減してて「あーこれはヤバいわ」とNHKのニュースを見ながら血の気が引いたのを覚えている。結果、やはり前年までの就活が嘘のような超買い手市場と相成った。圧迫面接が大流行した。
「マスコミとかパイロットとかじゃない限り大手企業の最終面接は儀式だから落ちない」
という新卒就活の常識が全く通用しなくなったのもこの年度からで、大企業の最終面接落ちも大流行した(増田の友達は東大法学部でしかもコミュ強で容姿も別に悪くなかったのだが、のべ7社の大企業で最終面接まで進んだのにも関わらず全て落とされ無い内定のまま就職留年した)。
そして、このリーマンショック起因の就職氷河期は11年卒、12年卒と年度を重ねるごとに地獄絵図になっていった。
さすがに13年卒の親しい人間は自分にはいなかったので、この年度以降の就活戦線がどういうふうになっていたのかは全くわからない。
誰か教えてほしい。
とりあえず2009年卒はバブル、2010年卒から突然氷河期突入っていうのは強く言っておきたい。
【追記】
メガバンク内定が学友から「うん、まあ良かったね……」程度の反応されるような微妙な位置づけだったのには理由がある。
当時の就活生は「大手でしかも高倍率でホワイト待遇のところが一番エラい」という価値観を抱いており、
したがって、「大手・低倍率・給料と福利厚生以外が非ホワイト」なメガバンク内定は大して凄いと思われなかった。
この価値観がよく表れていたのは2ch就職板の『就職偏差値ランキング』なる有志が独断と偏見で作成したもので、
記憶が確かならそこではメガバンクよりも食品メーカーとか素材メーカーとかのほうが上に据えられていた。
実際、三菱東京UFJを蹴ってサッポロビール、三井住友銀行を蹴って中央発條に入社を決めた人間が友達にいた(生涯賃金で5000万円以上差があると思うのだがそれでも激務は何より恐れられていた。ドラマ半沢直樹が放送されるずっと以前だったが、もうメガバンクが健康に人間らしく働くにはあまりに苛烈でエグい職場環境であることはネットのせいでバレバレだった)。
ちなみに日興コーディアル証券なんか日大や専修あたりの大学からでも内定バンバン出てた。
このように大手金融の採用は(基本的に)ザルだったのだがこれにも例外があって、
東京海上と日本生命(営業幹部採用じゃないほう)の総合職はマーチ男子程度だとほぼノーチャンスだった。
いずれも体育会系有利と言われる会社ではあるが、マーチに関しては体育会系とかどうとかもはや関係なく、各大学0~3人程度の内定にとどまった。
身分違いだったのだろうか。
さて、
当時の就活生は「大手でしかも高倍率でホワイト待遇のところが一番エラい」という価値観を抱いており、
「無い内定にならないため、万一入社しても高給が保証されているから、戦略として仕方なく受ける企業」
でしかなく、基本的に不人気だったのだが、これにも例外があった。
みずほ証券については「ホールセールばかりでリテール全然やらなくていいから」、
信託銀行については「メガバンクと違い、残業全くしないで30歳1000万円まで一律昇給できる地上の楽園だから」
という大間違いでしかないイメージが当時の就活生のあいだで広まりに広まっており、
学歴とコミュ力とルックスとスクールカーストに自信のある就活生が猫も杓子も信託銀行を希望するという謎のブームが生まれていた。
ノー残業・ノーパワハラ・ノー怒声なんていかにも嘘くさいっていうか100%ありえないと確信していたし、
完全に諦められた窓際社員でも自動的に到達できる年収は30歳700~800万円・40歳1000~1100万円くらいがせいぜいなのではという見立てだったからだ。
書いてる途中に思い出したけど、当時は楽天もソフトバンクも本体内定者の学歴ボリュームゾーンは日大って感じの会社だった。
大事なのは大学名、その場でいかに「論理的に落ち着いて会話できるか」、本人の雰囲気であり、超人エピソードを作りに動く就活生は嗤われていた。
バイトかサークルのどれか一つやっていれば充分であり、インターンに応募しようとするやつはそれがたとえ1dayであっても周りから「凄まじく就活に気合を入れている」という見方をされていた。
これはつまり、あっと驚くような体験や活動のおかげで就活結果が大きく変わることがないというシビアな現実を意味しており(テレビ局とかの採用は違うんだろうけど)、
裏を返せば課外活動をせずともコンビニバイトでも適当にやって面接の場をどうにか凌げば大手から内定が出るような時代だった。
筆者には法政大学に通う仲の良い友だちがいたのだが、
彼は今で言うチー牛で(当時は非リアといった)、サークルには所属せずボランティアなどの課外活動のエピソードもなく、
週3のコンビニバイトと1日2度のオナニーをするのみであったが某中堅損保に内定した。
ちなみに体育会野球部であろうが同大学の一般学生と比較してさして就活で有利にならない時代でもあった。
チー牛友人は内定者懇親会に参加したとき、同じ大学の野球部の有名選手がいたことに
と大変なショックを受けたと言っていた。
実際、筆者は野球が好きなので六大学や東都大学の4年制進路を毎年チェックしていたが野球部ブーストが全然効いてなくて毎年苦笑したものだ。
東大や早慶でも一般学生と期待値は大して変わらず、マーチや日東駒専にいたっては一般学生より下手すりゃちょい悪いのではというほどだった。
マーチ野球部から全国紙とかサントリーとかADKとかにいけるのは直系附属出身者や県立トップ校から一般入部してきた選手とかで、野球名門校出身者は主力選手であろうとも野球継続しないのなら大手百貨店が関の山だった。◯◯自動車”販売”とかもお馴染みの進路だった。
そして日東駒専大東亜帝国あたりの野球部の進路はこんなもんじゃなかった。
当時の就活も嘘つき合戦ではあったが、今の就活はインターン当たり前、エピソード作るために大胆に動くの当たり前だと聞いて本当に大変だと思う。
ブクマ先が消えていたので、Googleキャッシュにあったものをコピペしました。
高校野球部への人材あっせんで飯食えるどこらかベンツ乗れるくらい稼げてるおっちゃんと知り合って、マジで色んな裏話教えて貰ったけど、
たとえ人材不足の代であってもプロのスカウトが挨拶がてら必ず顔を出す、
こういうレベルの高校の野球部で監督が清潔なところがあまりに少なすぎる
→レギュラー獲得順当な実力があることが大前提でそこからさらに親が監督に少なくとも100万円包まないとレギュラーには絶対にしてもらえない、
みたいな高校
日本人の大半がその名を知る、甲子園の歴代名勝負に登場する某名門校もこのパターン
→これもめちゃくちゃある。結果出てるのに唐突に謎の辞任をした有名校の監督はこっちパターンが多い。
監督が母親に「あんたの子はレギュラー(あるいはベンチ入り)当落選上だよ」と伝えて、監督が肉体関係を強いるパターンも、母親が言外の意味を察して自ら抱かれに行くパターンもある。
きっしょい世界だなあと思った。
そんで一番クソだなと思ったのが、
そういう泥水すすって家族も巻き込んでレギュラー獲得して上手いこと甲子園出られるまでいったとしても(本人の実力あっても奇跡みたいに薄い確率。甲子園出るためのハードルがシビアすぎてたとえ田舎県の名門校であっても運の要素がデカすぎる)、
高卒プロ確定くらいのズバ抜けて実力がなければ野球なんかに秀でても全く潰しがきかないという現実。
3年に1回は甲子園出られるレベルの野球名門校レギュラーの進路実績見てみ?
MARCH、特に六大学くくりの明治立教法政はめちゃくちゃシビアで、ここらへのルート自体がない名門校が凄く多い。
大阪桐蔭で甲子園優勝した正捕手の主将ですらAOで慶応SFC受かったとき「大阪桐蔭野球部史に残る快挙」って扱いだったからな。
しかも恐ろしいことにこんな人材でもAOの1期も2期も不合格食らって3期でようやく12月に合格できたって経緯だから野球枠で早慶合格はマジで日本中の名門校でその名を轟かす球児であってもほぼ全員実質ノーチャンス。
(特に慶応野球部はAO入試の合否の下馬評が全くあてにならないのが昔からでリスクが高すぎる。
文武別道野球超名門校において、勉強特化型の一般生徒たちがせっせと稼いだ指定校推薦枠を高校側に出来レースとして回して貰って早慶に入るのが野球部的には一番確実。
しかし、それでも野球部レギュラーで指定校で早慶に行けるのは早稲田と慶応それぞれ足し合わせても例年0~2人程度しかおらず、そこから漏れたら4番だろうがエースだろうが一気にE~Fラン私大行きの確率が跳ね上がることを付け加えておきたい)
家族はたくさん私のことを愛してくれたし、友だちもみんな優しくて大好きな存在である。来世もまた私として生まれたい。それくらいに、幸せな日々を送っている。
でもひとつだけ、もし叶うのなら次の人生で中学受験はしたくないと思っている。私の人生のなかでいちばん苦しい記憶だからだ。
先に言っておくと、塾の先生たちも、両親も、みんな私のことを想ってくれていたと思う。そこに在るのは確かに愛であって、その他のなにものでもなかった。ただ、小学生の私には分からなかっただけ。すれ違ってしまっただけなのだ。だから誰も悪くないし、私は両親のことがずっと大好き。
でも、似たような気持ちを抱えている人もきっといる。だからせめて、ある程度の言葉の整理をつけられるようになった自分が残しておきたいと思う。
小学四年生のわたしは、中学受験というものをあまり理解していなかった。それまでもたくさん習い事をしていたし、いずれ塾に通うことは聞かされていたからなんとなくそういうものなんだと思っていた。
そして入ったのは、某大手中学受験塾。狙うは日本屈指の名門校。そのために毎日たくさん勉強をした。テストの点数が悪かったら怒られてしまうから、放課後は急いで帰ってすぐに塾に行って、テストが始まるまでずっと机に齧り付いて勉強していた。
小学校での成績はいちばんだった。先生に褒められて嬉しかったし、誇らしかった。友だちにすごいねって言われるたび、私は皆とは違うんだと思っていた。多分、周りを見下していた。世界は私を中心に回っていると思っていた。
同時に、朝学校で友人たちが「昨日は楽しかったね」って笑い合ってる会話についていけないことが悲しかった。前述の通り、当時わたしはだいぶ性格が悪かった。その自覚もそれなりにあって、だからこそ私にも屈託なく「次は一緒に遊ぼうね」と言ってくれる友人たちのことが本当に好きだった。本当に、大好きだった。当時は塾や家が(強制的に)勉強をさせられる場所だったからこそ、余計に。
そして小学六年生になった。
受験勉強が本格化していく。友だちと遊べる日なんて1日もなくて、土日は塾に12時間以上拘束されている。家に帰っても勉強、息抜きといえばご飯を食べながら観るテレビアニメだけ。そんな毎日だった。
でもそれは私だけじゃない。同じ塾に通う子たちもみんなそうだった。テスト中、何度も何度も鉛筆を腕に刺し続けている同級生がいた。テスト中、ずっと髪を抜き続ける同級生がいた。テストの結果が悪かった次の日、大きなもみじ型の跡を頬につけてやって来る同級生がいた。テストの結果が悪かった次の日、当時流行っていたDSを半分に折られた同級生がいた。もう勉強したくないと言って喧嘩になって、そのときいちばん大好きだった漫画をびりびりに破られたことがあった。私の部屋の壁にいくつかの穴があいた。私の部屋の壁が私の足型にへこんだ。生徒を集めた決起集会で、先生が教壇にマイクを投げつけていた。
そのひとつひとつ、すべてが誰も悪くない。何も悪くない。いまの人生への影響なんて、何ひとつない。たぶん皆そう言う。そんなこともあったなあって、しみじみ言うだけと思う。そこに在るのは、ただ、愛だった。
それでも、それでも。たぶん、そのひとつひとつの光景を死ぬまで忘れないと思う。あの時、いつも私はきっと同じ時間、公園で遊んでるのであろう大好きな友人たちのことを思い浮かべていた。目の前で広がる現実を、一歩後ろに下がったような場所で見ていた。なんで私はここにいるんだろう、そんなことをぼんやり考えていた。
そして私はついに我慢ができなくなって、中学受験したくないと親に言った。受験の総本山である夏を乗り越えた、11月のことだった。もちろん大喧嘩になった。このままいけば、確実に志望校に受かる。あと数ヶ月頑張れば終わるのに、ここまでやってきた努力に報いるためにも、あとちょっとだけ頑張ろうと言われた。それでも、当時のわたしはもう限界だった。いちど口に出してしまえば、止まらなかった。友人たちと同じ学校に行きたいし、少しでもみんなと遊びたい。そう思う今が大事なのであって、未来のことも過去のことも、どうだっていい。
そう泣き叫びながら家を飛び出して、塾をサボる日々が始まった。でも遠くに行くのは怖かったから、隣の家との塀の間にずっと隠れていた。屋根と屋根のあいだから見えた突き抜けるような青い空が綺麗だったことを今でも覚えている。当時の私は、自分の意思でもないのに、ここまで苦しい思いをして入る学校に何の意味があるんだろうと思っていた。それは実際、今でも思っている。
ただ昔と違うのは、今の私は、子どもの将来のためにレールを敷くことの大変さも分かるつもりでいる。朝6時に家を出て、夜11時に帰ってくる父親は、そのあと私に勉強を教えてくれていた。土日も、私が家にいるあいだはつきっきりでずっと。社会人になった今、それがどれだけ大変なことだったか、分かるようになった。母親は、塾のお弁当にいつも私が好きな食べ物をたくさん入れてくれていた。成績には厳しいけど、代わりに良い成績を取ったらたくさんたくさん褒めてくれたし、友人たちの誰よりもたくさんの物を買ってもらっていた。服も、本も、文房具も。不自由なんて何ひとつなかった。いつだって私は愛されていた。ずっと、愛しかなかった。でも当時の私は、その愛を目一杯享受して利用しながらも、見ないふりをしていた。
名前欄に自分の名前を書かないこともできたはずだった。でも、しなかった。わたしは名前を書いて、見直しもして、解答用紙を提出した。結果は合格だった。それが確かに自分の意思なのか、既に私の道は最初からまっすぐ一本道しかなかったのかは分からない。でも合格発表のとき、母親と抱き合って泣いた。たぶん、色んな感情があったと思う。こうして私の中学受験は幕を閉じた。
この話を通じて、中学受験の是非を問いたいわけじゃない。ただ、あの日々が健全なものだったとは今も思わない。大好きだった漫画がびりびりになったときに、一緒に破れてしまった何かはきっとあったと思う。私にも、親にも。仄暗い恨みみたいなものも長年消えなくて、中高時代は嫌なことが起こるとすべて親のせいにしてしまっていた。嫌なことが起こるたび、私にレールを敷いたあなたたちのせいだ、とずっとずっと詰っていた。今から思えば、まだ親の責任下にある「子ども」に対して与えられたひとつの逃げ道だったのに。私の言葉は、親をたくさん傷付けていたと思う。その後の大学受験では、わたしが100%自分自身の意思で選んだ進路を一切否定されなかった。そして私は私の意思で、文学部に進学した。ずっとずっと昔はいずれ医学部に行ってほしいということを言っていた親も文学部に賛成してくれた。
中高時代のわたしにとって「勉強」は、小学生時代の苦い記憶と共に在るものだった。閉塞的で、強制的な、苦しいものだった。でも大学で、自分の意思で選んだ学問は楽しくて仕方なかった。そして、不意に思い出した。ずっとずっと昔、まだ塾に入る前の小学校低学年のとき。図鑑や百科事典を読むのが楽しかったこと。いつの間にか、そうしたものが苦しい記憶と結びついて蓋をしていたけれど、たぶんいちばん初めは、わたしも勉強が好きだった。
文学部を卒業して、わたしはずっと夢だった仕事に就いた。他の誰でもない、わたし自身の選択の果てに辿り着いた。そのことを親もずっと喜んでくれていて、今は離れて暮らしているけれど、わたしの仕事を一番応援してくれている。親はめちゃめちゃわたしのことが好きなんだろうなと思う。そうやって私が自分の夢を叶えることができたのは、たぶん親がわたしの選択肢をたくさん増やしてくれたから。その始まりは、中学受験だった。中学受験してなかったら今、夢は叶えられてないかもしれない。だから、わたしはこれで良かった。中学受験が苦しかったことも、たくさん喧嘩したことも、その果てに自由な選択肢を与えられたことも。その過程はきっと健全なもので、まるごとひっくるめて正しかったと思う。でも、それでも。もしいつか自分に子どもができたとしたら、わたしは子どもに中学受験させないと思う。もちろん、本人が自分の意思で中学受験をしたいと言ったらそのときは全力で一緒に頑張るけれど。
中学受験をして得たものはたくさんある。今の私の人生、幸せだから。でも、たくさんたくさん苦しかった中学受験の記憶から救われるには、いまのわたしが幸せになることでしか報われないという意地のようなものも強かった。たぶん中学受験をしていなくても、わたしはわたしの力で、幸せになれてたと思う。もちろん、あくまで空想でしかないけれど。わたしは小学生の頃のわたしが、みんなともっと沢山遊びたかった気持ちをずっと覚えていてあげたい。世間一般から見たらわたしはめちゃめちゃ恵まれていて、小学生時代の悩みなんてたぶん本当に本当にちっぽけで、贅沢すぎる悩みだったのかもしれないけれど。それでも、わたしだけは、覚えていたい。あの日々のなかで見た光景のこと。確かに悲しかった記憶たちのこと。そうすることでしか、あの頃、家と家の隙間で泣いていた自分をひとりぼっちにさせないことができないと思うから。
【海外発!Breaking News】「私は刑務所で生まれた」18歳女性、今秋から全額支給奨学金で名門ハーバード大学へ(米)
オーロラ・スカイ・カストナーさん(Aurora Sky Castner)は18年前、米テキサス州ガルベストン郡の刑務所に収監されていた母親から誕生し、生まれてすぐに父親に引き取られた。
双極性障害を抱えていた父親に育てられたオーロラさんは、シングルファーザー家庭で決して裕福とは言えず、同州モンゴメリー郡内で引っ越しを繰り返したが、幼い頃から成績は常にA(日本の5段階評価の5)で読書が大好きだった。
欧米では刑務所で産まれた児童が、この状況からハーバード大学まで進学できる。
日本では同じことができるだろうか?
先日、不惑(forty years old)を迎えた。今では草臥れたおじさんだけれども、昔はサッカーが大好きで、自他ともに認めるサッカー馬鹿だった。
小学校から始めた。当時は、とにかくドリブルが大好きで、どんな形でもゴールを決めたら嬉しくて、勝っても負けても楽しかった。何も考えずにサッカーやってた。そんないい思い出もあるが、人生トータルでは辛い思い出の方が多い。
この日記は当時の個人情報でいっぱいだけど、俺はもういいよ。十分に生きたと思ってる。どうなってもいい。特定されても大したキズじゃない。クビになるのを恐れるような会社勤めでもない。
小学校も中学も高校も、部活一筋だった。中学時代にユースに誘われたことが一度だけあるが、自分は超一流にはなれないと何となくわかっていた。本当に才能がある奴は輝きが違う。自分はサッカーを楽しめればそれでよかった。全国優勝とかには興味なかった。
高校は、京都府内にある名門校だった。懐かしい。思い出すにつれ、いい思い出と悪い思い出とが交錯するみたいになって、感傷的な気分になってくる。今はトニックウォーターを飲みながら書いてるけど、気分がいい。
それでさ、高校で補欠or正レギュラーに選ばれるようになったのは高二の秋以降だったんだが、最後の年になると1回戦から最後の試合までフルで出場できた。国立競技場で戦えなかったのは残念だが、あの時の自分は輝いていたと思う。輝いていたのだ……。
大学は、とその前に、当日記は、いわゆる人生の落後者の振り返り日記になる。たまに、増田とかはてなブログでもそういうの投稿してる人いるだろ。自分もやってみようと思ったのだ。
俺という人間が落っこちたきっかけは、大学だった。これから書く文章を要約すると、高校卒業後はスポーツ推薦(セレクション)で同志社大学に入った。そこでも、運や努力の甲斐があって人並以上に活躍ができて、チアリーダーの彼女ができて、学業も順調で、アルバイトも楽しくて、四回生になって、さあ就職活動だ、、、というところで人生の敗北を味わった。そこから転落していった。
俺より凄い奴なんて、世の中にはいくらでもいた。その一人が、当時の大阪大学のサッカー部でキャプテンをやってる奴だった。以下アイツとしよう。
これがまた凄かった。価値観が大人びていて、熱血漢で、スポーツは当然できて、面白い小話ができて、総合商社に内定して、それで最後に、俺の彼女はそいつに取られてしまった。あの時は、そりゃあキツかったよ。
俺がいい会社に内定できていればもしや、という思いは当時あったがその線は薄いだろう。俺がアイツより優れていたのはサッカーだけだった。俺とアイツは、サッカーで対戦したことが一度だけある。高校時代に府大会でやり合った時、圧倒的な差で点をもぎ取って勝利を収めた。
ピッチ上で1on1にもなったが、俺の勝利は歴然だった。見え見えの目線トラップに引っかかって、アイツは筋違いの方向に足を蹴り出した。それで、スルッと抜いてやった。高二の春季大会だったと思う。
大学以降は、リーグが違ったので対戦することはなかった(うちは一部で、阪大は二部)。しかし会場で見ることは稀にあった。
まあ、これから昔の日記を読みながら、ちょっとずつ書いていく。辛い思い出にはなるけど、他者から見たら参考になることがあるかもしれない。そう願っている。
今回、この日記を書こうと思った最初の切欠は、先日まで放送されていたアニメ『ブルーロック』の影響だったりする。あれだけ見事なサッカーアニメを見せられて、つい昔を思い出してしまった。
今の自分は、アニメの後半で出てきた、サッカーを諦めた馬狼照英が自宅テレビでサッカーの試合を見ながら発泡酒を開けるシーンがあっただろ。まさに、あれだ。あれが今の自分なのだ。契約社員で、ワンルームマンション暮らしで、あんまりお金がなくて、実家も太くないから帰るわけにもいかない。
それでも、人生一度くらいは筆を取ってみたい。思い立ったが吉日ということで、ちょっと書かせてもらう(4/27時点)。どれくらいかかるかな。三週間くらいか。みんな五千字は書いてるイメージがあるから、それ以上の文量でいくことにする。ほとんど大学生になってからの体験記になる。
運のいい人間だった。サッカーというのは、誰でも想像はつくだろうが足を酷使する。高校時代は全国大会で活躍するような選手でも、ある時から怪我に悩まされてしまい、まともに練習ができなくなり、実力が落ちて試合に出してもらえなくなり、ハードな練習をしてまた怪我を……といった悪循環に陥る選手が少なからずいる。実際、俺の同期の一人はそれでサッカーを辞めた。
高校と違って、大学の場合はセレクションで入って部活を辞めても大学生をしていいのだが、律儀だったそいつは、出身高校に詫びを入れたうえで潔く退学していった。
幸いにも、そういう怪我とは無縁だった。かといって、そこまで実力があるわけでもない。府のトレセンに選ばれた経験もない。選ばれかけたことは何度もあるらしいのだが。ポジションは……すまないが内緒でお願いしたい。フォワードみたいに目立つポジションじゃない。
大学二回生までは順調だったかな。部活は毎日キツイけど成長している感覚があったし、トレーニングメニューとか選びやすかったし、アルバイトも始めた(木屋町の居酒屋だった。どんがまと、さざんか亭と、あとはジャンカラでも働いたっけ)。
本当に順調だった。学生生活は楽しかった。サッカーの腕前も上がって、二回生の秋季にはベンチ入りして、三回生になる頃にはスタメンが基本だった。関西サッカーの一部リーグで活躍してる大学生、といえば聞こえはいいけど、実際、精神的にはそんじょそこらの学生と一緒のレベルだった。
練習中に調子に乗ることはあったし、アルバイト先で後輩にマウント取ることもあったし、体育会の悪い連中に至っては、女遊びに夢中になって、今だと警察沙汰で逮捕されてニュースになるようなこともやっていた(俺は無縁とは言わないが、断じて犯罪は冒していない。むしろ、やりかけた先輩も後輩も止めていた)。
勉強も部活もマジメにやったつもりだ。普通の大学生だった。でも、三回生の夏前だったかな、幸せな大学生になったのだ。
関西地区での試合だと、応援団のチアリーダー部がやって来ることが稀にあった。本当に稀だったけど。それで、ある交流試合だったんだが、その日は調子がよくて活躍できた。敵味方の動きを読んだポジショニングは完璧だったし、要所要所で相手のドリブルをカットして、俺が蹴り上げたボールはセンターラインを飛び越えて味方のところにドンピシャで飛んで行った。ただ、ゴールを決めることは叶わなかった。ゴールを決めるポジションじゃないので、どうしようもないのだが。
試合が終わった後で、帰りのバスを待つ最中にチアの子達とちょっとした話になったんだが、その時にメアド(※TwitterやLINEは当時ない。GREEやmixiの黎明期だった)を交換した女の子がいた。
その子(千亜子とする)の見た目は、そりゃあ可愛かったけど、英語が話せるところとか、知的なところとか、お酒に酔ったら暴れがちなところとか、某飲食チェーン店で花形店員だったのとか、品のあるところがよかった。性格は明るかったりドライだったり、区別が難しかったな。演技するタイプだった。
体型は普通だった。ふくよかとか、細いとかは何ともいえない。胸はそれなり。好みのタイプではあった。オムライスとか作るのうまいし、たまに唐突に泣き出したりする。
千亜子は、恋愛に積極的な方だった。デートではよく手を繋いだ。セックスの相性はよかったと思う。最中はよく緊張してたけど、段々と気分が乗ってきて、いろんなことを言ったり、やったりしてくれた。
交際期間は、三回生の秋から一年と少しだった。まあ、平凡なカップルだったと思う。喧嘩とかもなくて。終わりはあっけなかった(最後のあたりに後述)。単位をほぼ取り終えて、学生生活の最後を満喫してる一月頃に遠回しな言葉でフラれてしまった。
三回生の秋頃だった。ある男子学生と知り合った。阪大のサッカー部でキャプテンをしていた。上で説明した『アイツ』のことだが、さすがに失礼なので以後はキャプテン君とする。彼とはリーグこそ違えど、顔を合わせる機会はたまにあった。といっても、こちらから話しかけることはなく、せいぜいすれ違ったり、試合を遠目で見たりする程度だった。
それで、ある時に知ったのだが、そのキャプテン君は、千亜子と同じアルバイト先だった。二回生の時に同時にその飲食店に入って、それから一緒に働いていたらしい。
俺がそのキャプテン君と千亜子が一緒にしゃべっているのを見たのは、ある試合場での一度きりだった。まあ、普通のアルバイト友達みたいな感じだったな。千亜子のマイミク繋がりで、俺のアカウントにもキャプテン君の情報が表示されていた。
ところで、キャプテン君の試合風景だが、圧倒的闘志でもってプレーするスタイルだった。反則スレスレのチャージは当たり前であり、プッシング(相手を押す)やトリッピング(相手を蹴る)も恐れなかった。本人がどんなつもりなのかはわからないが、とにかく闘志が凄かった。
ただ、残念ながら……実力が足りなかった。キャプテン君は反則っぽいプレーをするにしても、審判からするとモロバレの位置取りで、かつ見えるようにやっていた。相手の身体に触れることで反則を取られていた。あれではダメだ。
(注)
サッカーでどこまで相手と接触してよいかだが、概ね次の三点に要約できる。サッカーの試合を見ることがあれば意識するのも面白い。
・自分から接触するのは、肩だけで押す行為に限って可。腕や手や足はダメ。
・自分から触れない不可抗力とみなされた場合は、相手と接触しても反則にならない。。
・ボールを狙った行為でも、真後ろからのスライディングなどは危険行為とされる。
そのうえキャプテン君は、まともなプレーについても大学レベルに達してなかった。いや、そこらの高校生に比べると遥かにうまいが、大学サッカーで活躍できるレベルにはないという意味だ。
当時の阪大は、関西二部リーグと三部リーグを行ったりきたりだったと思う。大学の練習設備もおそらく不十分であり、練習時間だって他の部活と融通を効かせてやっているようだった。そんな環境だし、受験勉強もサッカーも一流の選手なんて、そうそういるはずもない。
キャプテン君の試合を最後に見たのは大学四年の時だった(リーグが違うと試合を観る機会がほぼない)。相手選手と1対1になってる時に、ボールを取るために肩をぶつけに行っていた。右足でボールを手繰り寄せようとしたらしいが、相手のふくらはぎを蹴ったうえ、身体をぶつけて吹き飛ばしていた。わざとか……? と思ったが、それにしては迷いがなかった。
レッドカードと思いきや、イエローで済んでいた。が、その十分後にはまた相手の足を狙ったスライディングをかましてしまい、さらにイエローを食らって……しょっぱい試合になった。
当時、俺はある意味でキャプテン君を尊敬していた。これまで俺がいたサッカー部で、あそこまで勝利にこだわる人間を見たことがないからだ。下手ではあったが、精一杯にボールを取りに行って、仲間に檄を飛ばして、試合を終始いいムードにしようとする。
ある時などは、試合が終わった直後の屋外ミーティングだったと思うのだが、別の選手を試合場の壁に押し付けて怒号を発していた。「俺らは本気になる力が足りとらん。もっと自分を主張せんと!!」みたいな要旨だった。
人に対して、ここまで熱くなれるヤツを見たことがなかった。中学でも高校でも大学でも、ここまで自分の言葉で自己主張できるヤツはいなかった。キャプテン君は、俺の心に爪痕を残していた。
続き
昨日のことだ。ちょっと聞いてほしい。今、すごく気分が悪い。
旦那がしばらく遠くで仕事をしてる。最近は部屋の掃除もしてないから、窓を開けて掃除機をかけてあげようと思った。部屋の押し入れを開けて、襖の真下に溜まった埃を吸っている時、置いてあった白い段ボール箱が気になった。
掃除を終えた後で中を覗いてみたんだけど、旦那が子どもの頃に集めていたと思われるグッズが詰まっていた。
少年ジャンプに、ぬいぐるみに、ガンダムのカードに、子どもチャレンジ(1986生まれ用の中学版)に、小学校の卒業式の写真に……いろいろあったけど、その中にとある冊子があった。写真が入ったアルバムだった。高校時代と思われる。
最初のページには、グアムかハワイのような光景があった。旦那が真ん中にいて、8人くらいで記念写真を撮っていた。
次のページには、柔道着姿の旦那と、その学友が並んでいる写真があった。進学校かつスポーツの名門校の名前が柔道着の胸のところに書いてあった。私と旦那が同じ商社に勤めていた時、友達や上司から、「増田さん大学で国体に出たことあるって」という話を聞いたことがある。
柔道場の前で、学友二人と並んで笑顔だった。坊主頭だった。スマイルがまぶしい。ほんわかした気分になった。
「昔は、こんな顔してたんだ」
感傷に至りながら次々にページを捲っていった。私の知らない旦那の姿があった。坊主頭の旦那はかわいいなって思った。昔から明るくてお調子者キャラだったのかな。
でも、途中から様相が変わった。真ん中あたりからかな。気持ち悪くて吐きそうになった。
真ん中ほどのページからは、柔道の大会中に旦那が撮影したと思われる柔道女子の写真があった。相手と組み合って対峙する直前のような光景だった。
細身で、小柄な女の子だった。顔はよくみえないけど、かわいいかな……? 遠目なので何ともいえない。
そして、その写真の右上にはマジックペンによる旦那の字でこうあった。
次のページにも、そのアイカワさんの写真が続いた。寝技で相手を抑え込んでるのを撮影していた。「粘ってようやく撮れた!! 超ラッキー」という文字があった。
次は表彰式だった。アイカワさんが優勝旗を持っていて、旗竿に顔を傾けて目を閉じている(疲れてる?)写真だった。矢印と、アイカワさんのフルネームが書いてあった。
あとは、大会が終わって、アイカワさんの高校の選手が柔道場の板張りのスペースで着替えているのを二階から撮影していた。やっぱり、アイカワさんだけ拡大してある。マジックペンでの名前の表記付きで。
キモイ、キモイキモイキモイキモイキモイキモイキモイキモイキモイキモイキモイキモイキモイ!! マジで無理。
こんなの犯罪じゃん。
え、これはなに? ひどすぎるよ……。
この子だけじゃない。ほかの女の子が柔道をやってる写真も撮っていた。大体4,5人分。しかも、写真の端っこにはその子のフルネームが書いてある。
ほかにも、高校卒業の時の柔道部の寄せ書きが出てきた。色紙の真ん中に旦那の名前があって、それを囲むように部員からのメッセージがあった。衝撃を受けたメッセージがいくつもあった。ちょっとだけ、いやもう、好きなだけ書かせてもらう。私が読んだ順だ。
後輩A
「同人誌コレクター増田さんへ あなたの変態っぷりにはほとほと呆れるばかりでした……大学生になっても、変わらず変態でいてくださいね。自分もリッツが第一志望です。京都まで遊びに行きます」
後輩B
「増田さんは、△△高校のアイカワさんがロリロリで好みなんですよね!! アイカワさんを是非モノにしてください 応援しています」
後輩C
「増田先輩の変態エクストリームハートには緊張させられっぱなしでした。スーパーハードロリータ増田!! 早く警察に捕まってください!!笑 カノジョさんともお幸せに 愛のキューピッド 藤本より」
後輩D
「ロリータ戦士 増田さんへ あなたのロリータっぷりにはびっくりでした。あなたのそのロリータ魂を受けつぐ戦士が欲しいです。ぜっひ増田さんにはロリータ魂を忘れてほしくないです。ファックfuck!!fuck!!fuck!! アダルト西村」
「増田君が入部してきた頃にはどうなることかと心配をしました。ご卒業おめでとうございます。キャプテンとしての重責、大変ご苦労様でした。柔の道は、将来どこかで役に立つ時がきます。力必達(つとむればかならずたっす,のフリガナ)。何事も最後まで諦めず努めてください」
「増田先輩ご卒業おめでとうございます これからも頑張ってください」
Bさん
「3年間お疲れさまでした 面白い先輩でした笑」
Cさん
「これからも今までみたいに頑張ってください」
※自分も一応女だからわかる。書くことがないときのテンプレートだ。
元々、夫とはそこまで合わないとは思ってた。でも、なんでも全部が一応、標準以上にできる人だったから、そのへんは割り切ってアプローチを受け入れたつもりだ。
あまりにイライラして、周りの誰にも愚痴を吐き出せない。もし吐き出したら、こっちまで変な人扱いされそうだ。とうてい話せない。話せないよ……。
別れたいけど、これは離婚できる理由になるんだろうか?でも、とにかく別れたい。気持ち悪すぎる。旦那が気持ち悪い。気持ち悪い。