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2024-03-06

[]WBC侍ジャパン周東選手会長は1番センター足りうるか

柳町1番センター派>

柳町通算出塁率.362

周東通算出塁率.301

福本豊さんの、名言盗塁のコツは、塁に出ること」が思い出されます

福本さんが名球会メンバーなので、迷言扱いされてたけど、周東見てるとこれに尽きる。

塁に出れないリードオフマンは要らない。代走切り札でしょう。

逆に競っている場面の終盤に周東代走で残っているほうが良いかも。去年のロッテ和田がそんな感じでしたよね。



周東推し

周東の足を活かしたセンター守備範囲の広さは捨てがたい。

ライト、レフトはベテランで一抹の不安



周東への疑問>

周東はどうしてバットを長く持つのだろうか?ホームランバッターではないのに。

かつて1番打者韋駄天活躍をした村松バットを短く持ち、叩きつけるバッティングでとにかく塁に出る、内野安打でもいい、いわゆる泥臭い野球をしていた。

バットを短く持つのを拒んでまで今のセンスでいいのだろうか? 

とにかく塁に出る泥臭さを目指して欲しいんだが。



周東が前に言ってたけど、将来足が衰えた時に、当てるだけのバッティングじゃ生きていけないから、強いスイングが出来るようになりたいとか言ってたね。

落合の有名な言葉野球選手個人事業主周東の考え方も間違いではないとは思うよ。ただ、それで今を戦えるのかといえば疑問は残るけどね。

2023-03-13

ナベツネ高校野球のせいで日本WBC準々決勝で負ける

2022-11-16

名球会入り初の外国人って金田・張本・王あたりじゃないの?

2021-12-26

江川氏は94年スタート前身番組スポーツうるぐす」で

江川氏は94年スタート前身番組スポーツうるぐす」でメインキスターを務め、2010年から「Going」に11年8カ月出演。この日の放送では「江川卒業SP」と題して、番組での江川氏のMCぶりや、試合解説選手の様子や変化を見極めて結果を当てる「予言解説」を展開してきたことなどが特集された。

巨人原辰徳監督(63)からビデオメッセージが届き、これまでの労をねぎらわれるとともに、「まだまだ江川さんは体も知力もお若いでしょうから、少し時間があるんであれば、実弾飛び交うジャイアンツのところに降りてコーチ、あるいは監督という形でやってもらえる可能性も、ちょっと増えたのではないかと思っています。先輩、ご苦労さまでした」と、今後の監督業も期待された。

MCくりぃむしちゅー上田晋也(51)もこのVTRを受け「我々としても、江川監督って言うのを見てみたいというのは長年思っているんですけど。そういう方向性というのはいかがでしょう」と問いかけると、江川氏は「ほぼないですね」と回答。上田が「え~やりましょうよ」と食い下がると「ないと思いますよ」と淡々と続けた。

上田あきらめず「ひょっとしたら原監督からちょっと江川さん、お願いします』って、臨時コーチとかあるかもしれませんよ」と粘ると、江川氏は「そうですね、臨時であれば、やらないですね」とクールな返答で笑いを誘った。ただ、最後上田が「やってくださいよ、日本中に見たい人がいっぱいいますから。その日を楽しみにしたいと思います」と言うと、江川氏はまとめるように「はい」と回答。今後の監督就任を“完全否定”はしなかった。

終盤には、今年まで巨人の場内アナウンス担当した山中美和子さんの「9番ピッチャー江川背番号30」のアナウンスに送られてあいさつ。江川氏は視聴者スタッフ感謝言葉を述べると、「私はもう少しマウンドに登ってみたいと思っていますありがとうございました」と、意味深コメントで締めた。



選手としての特徴

江川の球速は高校時代に既にピークを迎えていたとも言われ、当時スピードガンはまだ無かったが、150km/hを超えていたのではないか推定されている[49](プロ入り後の最速は154km/h[50])。スピードガンが各球場に導入された頃、江川ストレートの球速が135km/h前後と表示される記録映像が残っている。これについて掛布雅之西本聖槙原寛己など多数の人物異口同音に「江川の球速が140km/hを下回ることはありえない」と証言、当時のスピードガンは精度が低く、数値の正確さには疑問があると指摘している。特に掛布は「最低でも150キロ好調時は155キロ以上出ていただろう」と述べている。2021年12月4日Going!Sports&Newsにおいて、江川自身が最も速かったとする1981年中塚政幸に投じたストレートの球速を分析したところ、158km/hと算出された[51]。

江川が投じる速球の威力の高さは、投手としては指が短めだったこともその理由とされる。指が短めだったことは、スピンをかけるには有利だったが、フォークボールなどの変化球を投げるのには適さなかった。そのため、プロ入りまで変化球カーブしか投げられなかった。掛布高木豊の弁によると江川は手首の関節が非常に柔らかく、打席から見るとリリースの寸前まで手のひらが見えたという。この柔軟かつ強靭な手首によりボールに強烈なバックスピンを与え、江川独特の伸びのあるストレートが生まれたのではないか高木解説している。このことを掛布は「スピンが効いた独特のストレート」と評した[52]。

1980年代では、スピンが効いたストレートは「球質が軽い」「長打を打たれやすい」などと呼ばれ軽視もされていた。 しか2000年代に入り流体力学を使った解析により、バックスピン数が高いストレート普通の直球よりも沈まず、打ちにくい球であることが判明した。 江川の浮き上がるようなストレートはこの効果によるものと考えられている。

《なお、2021年MLBでは、回転数が高いボール効果があり過ぎるため、指に粘着物質を付ける投手が激増したことから、取り締まりに至る事態になっている。》

1985年から投げ始めた「相手の腰を引かせるスライダー系のボール」、コシヒカリ話題になり、本当にコシヒカリが贈られてきたエピソードがある。このことに味をしめた江川は、今度はメロンを貰おうと「相手マスク(顔)をメロメロにしてしまう顔の前を通すボール」、マスクメロンを開発している[19]。現役時代ライバルだった掛布雅之は、「ストレートへの強いこだわりを持ったボールを感じさせてくれる」唯一の投手だったと述べている[53]。

阪神ランディ・バースが55本塁打や7試合連続本塁打などで王貞治の記録に迫ったとき、逃げ腰の巨人投手陣の中にあって勝負を挑んだのは既述の通りだが、バースが2年連続三冠王を獲得した1985年1986年において、1985年は被本塁打0、1986年の被本塁打も7試合連続となった本塁打連続試合打点記録更新中の最後試合(13試合目)で打たれた2本だけであった。江川引退時、バース江川を「日本アメリカを通じて今まで対戦した中で最高の投手」と讃えている[54]。

9回を完投するため、中心打者には「最高出力」まで上げ、下位打線選手にはコントロール重視とするなど、メリハリをつけていた[55]。9回に全力の投球で三者三振を取ることを「やっぱり打てない」という印象を与えるという点で重視し、そのために7回・8回は少し力を落としたと述べている[55]。現役時代チームメイトだった篠塚和典は「江川さんにはギアがある」と表現しており、「試合の中でここぞという時、特に主力打者と対戦する時はトップギアに入れた。あの大きな体が更に一回り大きく見えた」と述懐している。

江川は与死球が極めて少なく、これは高校時代、自らが頭部死球を受けた経験から厳しく内角を攻めることにためらいを見せたためと語っている[56]。江川自身は、捕手が構えたままのギリギリコースに投げることができたため、わざと打者の体の近くには投げることはしなかったとも述べている[57]。また与四球も少ない。江川場合、豪速球で圧倒できた全盛期の与四球が非常に少ないのが目立っている。江川ボール球を投げること自体が嫌いだったと述べており、当時の巨人ではカウント2ストライクノーボールからヒットを打たれると罰金を取られたため、捕手から懇願でその場合は仕方なくボール球を投げていたという[58]。一般的に速球派投手コントロールが悪いことが多いが、江川はそれにあてはまらず、コントロール面も卓越したものであったことが伺える。

本塁打が多く、「一発病」といわれた投手の1人であり、本塁打を打たれた際、マウンド上で両手を腰に当てながら首を捻るシーンがよく見られた。1982年リーグ最多の36本塁打を打たれた。9イニングあたりの被本塁打通算で1.23である[59]。

上記の通り、デビューした対阪神戦では敗戦投手になったが、その後は阪神キラーとなり、対阪神通算36勝(18敗)を挙げた。これは通算135勝の1/4強を占める。逆に小林繁阪神移籍した1979年こそ対巨人戦8勝0敗と意地を見せたが、その後は引退までの4シーズンで対巨人戦5勝15敗と対照的な結果になった。入団2年目の1980年8月16日、対阪神戦(後楽園球場)での小林繁との初対決では、打撃でも小林から決勝適時打を放つ活躍で、3失点完投勝利を収めている[60]。のちに、「プロ野球でやっていく中で絶対に負けられない試合は数試合しかないだろうが、その中の一つがその試合だと思って試合に臨んだ」と懐述している。

打撃の優れた投手としても知られているが、初安打デビューから36打席目だった[† 28]。プロ入り最初打席で、阪神山本和行が初球に投げたストレートがあまり速くなかったため、「プロってこんなレベルか」と思っていたところ、そのあと「打ちごろ」と見て振った球をいずれも空振りして三振を喫した。江川はそれがフォークボールであったと気づき、「これはやばいぞ。プロはこんな高いレベルなのか」と思ったと回想している[61]。

人物

少年時代写真笑顔で写っているものはない。それは父親から写真は真顔でとられろ」と言われたかである[62]。

裕福な少年時代を送っていたわけではないが、父親財産管理が上手かったこから、年2回の旅行を行えたり、電化製品をそろえることができるなど、物資には全く不自由しなかったとのこと[63]。

幼い頃に父に背負われて散歩に出かけた際、背負われたまま崖の下を覗かされたことが原因で、極度の高所恐怖症となった。そのため妻が元客室乗務員でありながら飛行機いであり、国内の移動はどんなに時間がかかってもいつも鉄道などを用いている(妻との馴れ初めは、江川米国開催の日米大学野球選手大会に出場するため、やむを得ず飛行機に乗っていて青くなっているところを、客室乗務員だった妻が親切にしてくれたこである)。かつて巨人北海道遠征取材東京盛岡青森函館札幌と一日かけて陸路を乗り継ぎながら出かけたほか、宮崎キャンプ取材でも東京博多新八代鹿児島中央と乗り継ぎ、車で宮崎入りするなど、時間がかかっても陸路移動にこだわっている。現役時はまだ青函トンネルが開通しておらず、チームの北海道遠征時は登板がある場合のみ飛行機を利用したが、自らの登板予定がないときはチームに帯同せず東京に残った(江川引退した翌年、1988年青函トンネル開通)。松山でのオールスターゲーム取材したときでも、松山岡山東京と乗り継いで帰京したために、翌朝の『ザ・サンデー』のエンディング江川は既に松山を発ったとのフリップが出ていた(同行した女子アナ松山市内でゆっくり買い物をした後に飛行機で帰京し、江川より先に東京に到着した)。陸路がない沖縄キャンプ取材する際も、時間に余裕があるとき鹿児島から24時間かけてフェリー沖縄に移動するほどである横浜DeNAベイスターズ春季キャンプ取材沖縄に行った際、このときはさすがに飛行機には乗ったが、中畑清監督に「どうやって来たの? 潜水艦でも乗ってきたの?」といわれてしまい、名球会ハワイでの取材時にも長嶋茂雄から江川さん、よく飛行機に乗れましたね」といわれたほどである飛行機嫌いの一因には幼少時代体験だけでなく、現役時代に発生した日本航空123便墜落事故も影響しているといわれている。この事故で同じ球界関係者である阪神タイガース・中埜肇球団社長犠牲になっていたため、球界全体にも大きな衝撃を与えていた。

大学時代、後の夫人となる女性交際していたときデート東京六大学の試合登板予定が重なると、待ち合わせ時間として「試合開始から時間後」というように時間指定していたという。夫人によれば、指定した待ち合わせ時間に遅れることはほとんどなく、逆に試合の進行が早すぎると、わざと遊び球を投げて時間調整をしていたほどであった[64]。

現役時代から財テクに精を出し、不動産投機で大失敗して多額の借金を背負う。「投げる不動産王」とも呼ばれた。プロ入り直後には契約金を使って土地を購入したところ、予定納税のことをすっかり失念していたために資金繰りに窮し、結局土地を手放さざるを得なくなる[65]など、投資に関する失敗談も多い。この他、一時は第一不動産(のちのエフアール・イー、2007年1月破産)や、東京ベイホテル東急の運営会社役員にも名前を連ねていた[66]。なお、同様の呼び名桑田真澄にもあったが、こちらは本人が直接作った借金ではない。

現役引退の年、自宅に近い横浜市緑区霧が丘に喫茶店「きりんこ」を開店した。元々は巨人で打撃投手をしていた同僚が転職を考えているという話を聞き、その支援目的で当時近所に住んでいた黒澤久雄や羽川豊らと共同で出資したのがオープンきっかけだったという[67]。しかし、住宅地で回りにほとんど店が無いこと、すぐ隣に老舗の喫茶店があったことなどから、数年で閉店。その後駐車場となっており、建物の遺構の一部が駐車場の壁として残っている。

本人曰く「成金趣味」に結構金額を費やしている。一時はワインにはまっていたほか、ゴルフ好きが昂じて純銀パターを特注で作らせたこともある[† 29]。それらの贅沢には「ストレス発散」の意味合いもあったという。

テレビでの野球中継において選手呼び捨てにしている解説者が多い中、江川基本的呼び捨てはせず「○○選手」「○○投手」といった呼称を付けている。

2021-01-10

anond:20210109195546

名球会はもともと昭和名球会昭和生まれしか入会できなかった

もともと金田・長嶋・王の仲良し会で、年長の川上哲治らが入ってくると単にうざいからだけど

しょせんは任意団体(今は一般社団法人)なんだから好き嫌い運営して全く問題ない

学術会議なんかとか全然違う

2021-01-09

ラミレス外国人初の名球会かいうけど金田とか張本、王はどうなってんの?

属国日本みたいなもんか

2020-09-07

助っ人外国人名前記憶に残らん

サッカー世界選手日本に来るからいつまでも忘れられることはないが野球

ブライアントデストラーデオマリーも、クロマティーもタフィーローズロバートローズも、当時は野球知らん人でも名前いたことある的だったけど、今はいわれてみればすごいのいたなー的なイメージしかない

現役時なんとなく知っていてこれだ

いまはユーチューブがあるからプレーを見れるっちゃ見れるけど、まずは名前を知らせなきゃ

長嶋イチローみたくバンバン名前さないと忘れられちゃう

殿堂入り名球会だなんて一般人には関心さそうものではないみの

語り継ぎが足りていないよ

助っ人外国人で語り継ぎがうまくいってるのはバースだけ

あと即刻帰ったグリーンウェルが悪い見本としていつまでもいわれるくらい

関西メディアうんざりするほど喩えに使うのは非難もあるだろうが、語られ続けなければ名選手でも記憶から消えていく

そこそこ凡百の選手だったらば記憶に残ることは絶対ない

ロメーシとか覚えてないでしょ

2012-12-27

日本プロ野球レジェンド

なんJ PRIDE : 歴代プロ野球レジェンドベスト10選ぶとしたら http://blog.livedoor.jp/rock1963roll/archives/3650792.html

この手の記事は定期的に立っては基準がわからずにいろいろ意見が出て結論が出ない。まあ、それがこの手の記事の醍醐味でもあるんだけど、俺個人としては「この人がいなかったら日本プロ野球史は語れない」という観点で考えてみた。さほど詳しい訳ではないので、突っ込みどころありまくりだろうけど、そう言うのがあったら教えてちょ。

1. 長嶋茂雄
日本野球アマ野球が中心だった頃に大活躍して人気を博し、そのままジャイアンツ入団することで日本野球の中心をアマからプロへと動かした、正にミスタープロ野球。天覧試合などでの勝負強さは日本野球人気を決定付けた。
2. 王貞治
不滅の868本塁打を打ち立てた、真のホームラン王。日本だけでなく世界から尊敬を集める。国民栄誉賞はこの人のために作られた。
3. 川上哲治
赤バット異名で知られる、日本最初2000本安打達成者。監督としては巨人軍V9を達成し、日本での巨人人気を不動のものにした。全国に巨人ファンがいるのはこの人のおかげ。
4. 野村克也
選手監督としての実績もさることながら、「ノムラスコープ」の確立など、日本野球理論化に貢献した。今の捕手ゲームメーカーとしての地位はこの人によって作られた。
5. 金田正一
日本唯一の400勝投手名球会設立者。いろいろ意見はあるものの、球界ご意見番であることに変わりはない。
6. 張本勲
日本野球界としては唯一の3000本安打達成者(イチローは日米通算)。指導者経験はないものの、金田と同じく球界ご意見番
7. 福本豊
通算1065盗塁、シーズン106盗塁の不滅の盗塁魔。彼の足を止めるためにクイック投法が開発された。
8. 落合博満
天才的な大打者である一方、選手待遇改善を声高に訴え、日本人選手としては最初年俸一億円を獲得した。中日監督としても好成績をあげ、全権を把握するやり方は、監督にあり方に一石を投じた。落合野球は今後日本野球界にどういう影響をもたらすだろうか。
9. 野茂英雄
投手としての実績もさることながら、独自の行動力でメジャーリーグへの道を切り開いた。今の日本人選手が「メジャー行きたい」と言えるのはこの人のおかげ。野茂の前に道はない、野茂のあとに道が出来る。
10. イチロー
王の確立したホームランという野球の華を安打でも達成できることを証明した。日本のシーズン200安打最初の達成者、7年連続首位打者という不滅の記録保持者。メジャーリーグでも怪物的な記録を出し続ける、日本世界最高の安打製造機。正に生けるレジェンド
番外 板東英二
高校野球中日でも十分な活躍をした後、バラエティタレントとして大成日本野球選手タレント化に貢献。視聴率30%男。
根本陸夫
選手としてはからっきしダメだったが、フロントに取り入って暗躍、広島西武ダイエー(当時)の体制を作り上げた。有力選手獲得のために100億の金を動かしたと言われる、日本プロ野球の影の大立者。

2012-10-12

名球会候補

とりあえず

A・ラミレスDeNA通算2000本安打まで、あと7本
中村紀洋(DeNA日米通算2000本安打まで、あと27本
 通算2000本安打まで、あと 32本
谷繁元信中日 通算2000本安打まで、あと31本
谷佳知巨人通算2000本安打まで、あと86

2000本安打への道より

2012-04-02

(雑感)Facebookに見る実名主義と経歴社会

日本Facebook流行らないと言われていた。(実際には利用者数は増加し続けている訳でその懸念はどうだったのかというところに疑問を感じたりもするのだが)流行らないと思われていた理由に実名主義日本で受けないというものがある。実際、Facebook上にはニックネームらしい人物の多数登録されているので実名主義が完全に浸透したというわけではなさそうである

 そこで、日本で何故実名主義流行らないかを考えてみた。

個人の経歴に対する考え方の相違

 経歴に対する考え方が日本アメリカでは決定的に異なっている。どう異なっているのか?

日本

各個人の人生全てを判断しようとする。

アメリカ

各個人の成功歴を判断しようとする。

と私は考えている。つまりアメリカにおける経歴の考え方は、ある特定の個人がある行動を達成させるだけの能力があったのか、また現在その能力を有しているのかという判断指標であると私は思うわけである

ここではその例を一つあげようと思う。「マイクタイソン」と「江夏豊」を比較してみる。

マイクタイソン江夏豊

この二人を同列で並べるのは少し馬鹿げているかもしれないが、共に覚せい剤経験者でありその国のスポーツ分野において多大なる貢献をした人物という点では変わらない。

マイクタイソンの悪歴

耳噛み事件

翌年6月28日に行われた再戦では、ホリフィールドWBA世界ヘビー級王座に挑戦するが、耳噛み事件(雑誌等で世紀の噛み付きとも称された)を起こし、2回の耳噛みにより3R終了時に失格負けとなった。この反則行為により、試合後はリング上で大混乱となり、一年間のライセンス停止処分を受けた。

1999年に復帰するも、年に1試合程度と試合間隔が極端に開くようになる。2002年6月8日にレノックス・ルイスの持つWBCIBF、IBO世界ヘビー級王座に挑戦。結果は8RKO負け。2003年6月暴行容疑で再度逮捕

2004年4月15日K-1試合出場契約を結ぶ。日本国内でのプロモート契約であるが、薬物犯罪者という理由で日本に入国できなかったため、実現は不可能であった。2004年7月30日、復帰戦となるノンタイトルマッチで1ラウンド中盤で膝の靭帯断裂。その怪我が響き、ダニー・ウィリアムズに4ラウンドKO負け。2004年12月、器物損壊容疑で逮捕

波乱に満ちた生活

2006年12月29日自動車ナイトクラブから帰宅する途中にパトカーと遭遇。衝突しかけた折りに取り調べを受けた際、飲酒運転およびコカイン使用所持(再犯)が発覚したことにより逮捕された。2007年11月19日禁固1日と執行猶予3年の判決

2008年5月16日ジェームズ・トバック監督によるドキュメンタリー“Tyson”が第61回カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映された。同日行われた記者会見では、タイソン本人が作品の題材となった自らの人生について語った。

2009年6月6日ラスベガスで3度目の結婚式を挙げた[4]。11月12日ロサンゼルス国際空港自分家族写真を撮ろうとしたカメラマンともみ合いになり暴行をした疑いで逮捕されたが、その後証拠不十分のため不起訴処分となった。

2010年7月2日メッカ巡礼のためサウジアラビア入りをする[5]。

表彰歴(実績を除く)

国際ボクシング殿堂

2011年6月12日ボクシングを志してから目標でもあった国際ボクシング殿堂への殿堂入りを果たす。

WWE殿堂

ライセンス停止中の1998年3月29日アメリカのプロレス団体WWEの『レッスルマニアXIV』のメインイベントにて特別レフェリーを務めた経緯から2012年3月31日WWE殿堂に迎えられた。


江夏豊の悪歴

1993年3月3日覚醒剤所持の現行犯で、覚せい剤取締法違反により逮捕される。覚醒剤の所持量が多かったため、初犯ながら懲役2年4ヶ月の実刑判決を受け静岡刑務所に服役、名球会からも退会した(これについては自主退会とも、金田正一会長による除名とも言われている。現在は復帰)。1995年4月27日に仮釈放され、出所後は野球解説者・評論家に復帰した。

表彰歴

なし

何故江夏豊野球殿堂入りを果せないのか

一時の気の迷いで薬物に手を出し、自ら指導者の道を断ってしまったことを悔やむ声は多い。また現在の選定方式で江夏が選ばれる事はもう無いが、野球殿堂入りを熱望するプロ野球関係者も多い。

とあるように野球殿堂入りを望む人間も多い。にも関わらず殿堂入り果たしていない。世界記録であるシーズン401奪三振、最優秀救援投手5回、オールスター9連続三振ノーヒットノーラン達成。功績から考えれば殿堂入りをすべきものである。これがアメリカ社会であったならばマイクタイソン同様に殿堂入りしているだろうと私は考えている。マイクタイソンはその悪歴を有しながら殿堂入り果たしている。これは彼のその分野における功績のみが評価されたものだと言ってもいい。必要なことは成功、実現したという経歴であって決して悪歴ではない。しかし、日本に至ってはそうはならない。一度でも道を踏み外せばどれだけの実績を持っていても社会的に評価されなくなってしまう。そのことを表しているいい例だと私は思っている。

実名主義の浸透に望むこと

これは私の希望である実名主義の浸透の鍵を握るのは経歴に対する考え方にあると私は思っている。一つの汚点によってその後の人生全ての功績が無駄になるのが今の日本だ。だからこそ実名を避け匿名を利用する人が多いと思うのである。経歴において必要なことは過去の失敗や悪行ではない。これから成そうとしていることが成功可能かどうかにある。あって欲しいというのが私の意見だ。Facebookに望むこと。それは実名主義の浸透によって今の日本の経歴に対する考え方を一掃して欲しいと思うのである。仮に日本FaceBook実名主義が浸透する時には、経歴に対する考え方は変わっているであろう。失敗しても立ち直れる世界。何らかの理由により犯罪者となった者が更生することのできる社会。それを私は望むのであり、Facebook上での偽名利用は止むを得ないのではないのかと思う。。

以下参照及びに引用
マイクタイソンに関する事項

マイク・タイソン - Wikipedia

江夏豊に関する事項

江夏豊 - Wikipedia

 
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