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金魚で有名な奈良県大和郡山市の「金魚の電話ボックス」について、大和郡山お城まつり終了後の4月9日以降に撤去されることがわかった。
福島県在住の現代美術作家・山本伸樹氏の作品とそっくりであると各方面から指摘されていた大和郡山の金魚電話ボックス。4月9日に撤去されることになったそうです。設置場所の K COFFEEの森和也さんに確認しました。
大和郡山のお城祭りは4月8日まで開催されます。それが終了してからとの配慮で、4月9日の撤去となる模様です。みなさま、お城祭りに行かれたら、最期にぜひひと目、見てください!
撤去されるのは、京都造形芸術大学の銅金裕司教授と1回生6名からなる金魚部が水都大阪フェス2011で「テレ金」として発表したもので、イオンモール大和郡山、第52回大和郡山お城まつりでも展示された後、部材を譲り受けた街おこし団体のK-Pool Projectが第53回大和郡山お城まつりで「テレ金2013」として再度展示。さらに、金魚の会がアートイベント「HANARART 2013」で柳町商店街に出展したことをきっかけに、現在は同商店街のカフェ「K COFFEE」が管理している。
いまでは観光名所となっているこの金魚の電話ボックスだが、現代美術作家の山本伸樹さんが1998年に発表した「メッセージ」に酷似しており、これまで山本さんが抗議し続けていた。
1、京都造形芸術大の「金魚部」が2011年に私の作品と同じものを作り、大阪キャンバスに入選して、出品し、2012年には私の指摘で、それを認め、出品を辞退し、活動を休止した。
2、それによって放置されていた、作品の部品を譲り受けた、「金魚会」という別なグループが、私の作品を知りながら、それを使って新たに私の作品と同じものを制作し、2013年に奈良・町家HANARART2013に出品した。
3、私の指摘にも関わらず、その後2014年まで常設として設置し続けた。
https://www.facebook.com/nobuki.yamamoto.5/posts/602183623243317
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2017年2月以降ようやく話し合いの場が設けられ、山本さん、K-Pool 、K COFFEE、郡山柳町商店街協同組合理事長の間で「金魚電話ボックスが、山本伸樹の著作物であると認めること」「オリジナル作品である緑の電話機への付け替えを認めること」「山本伸樹は著作権使用料や慰謝料、付け替え費用を請求しないこと」で一度は合意しかけ、2017年8月21日には「柳町商店街協同組合と山本伸樹のコラボレーション作品」と明示されるようになったが、郡山柳町商店街協同組合の理事会では一転合意しないことが決定。結局撤去という形で幕引きを図ることとなった。
山本氏は「いままでもこれからも、著作物使用料は一切もらわないから、せめて著作権を認めてほしい。オリジナルの緑の電話に付け替えさせてほしい」とほぼ1年前から商店街に申し出ていました。緑の電話への付け替えも自腹とのことでしたが、地元商店街の結論は「撤去」でした。大変残念なことです。
回 答 書
前略、当方は、通知人郡山柳町商店街協同組合の代理人として、貴殿の平成29年12月28日付発送の内容証明郵便に対し,以下のとおり回答します。
通知人は、本件「金魚電話ボックス」が貴殿の著作権を侵害しているとは認識しておりませんが、紛争発生の経緯および現状に鑑み、当該「金魚電話ボックス」を撤去する旨を今般決定しましたので、その旨ご連絡します。
平成30年3月28日
読みました。宗教にはまった、って…かなりフツーのことをしていると思うんだけど。
キリスト教に触れて、日曜日にミサ・礼拝に行くのはかなり普通。ただし、収入の十分の一を献金しろ、になると異常。
客観的に言うと、
仏教徒や無意識に六曜を信じたりしてる人を「宗教にはまっている」と思う?
たぶんノーだと思う。
信仰を持ったことを何故そんなに恥ずかしいように書いているのかわからない。
元々親がキリスト教徒という人から人生につまづいてキリスト教の扉を開く人まで見ることができるから。
もちろんいいことばっかじゃなく、トラブルにもぶつかるかもしれませんが、
教会の司教・主教、神父・牧師、そういった方々はあなたの話を聞いてくれると思いますよ。
この世の中で、自分を優先させて主張できないと、もっと自己主張の強い他人や身内の人に飲み込まれます。
ただ、もし受洗、の時には、自分に何かあった時に教会や牧師に連絡してくれる人がいるといいのは事実だけど。
もっと自信を持って!
教会に信頼や自信が置けないんなら、キリスト教の中でも最も古い正教の教会に行ってみてはどうかな。
一番古いだけあって、信頼度は最強だと思う。ただ、文語に慣れるかどうかが問題だけど。
近くにはないかもだけど、まあ勉強ついでに。
ちなみにわたしはカト。文語が無理だった…
ブコメの方。
カトリックなのに何故正教を勧めるかって?
第二バチカン公会議の前後ではカトリックも大きな変化が起きたんですよ。
日本人はなにかトラブルが起こった時、裁定者を求めるのが普通である。例えば、駅前に停めてある自転車が邪魔だと思ったら、自分で自転車の所有者に文句をつけるのではなく、市役所や駅員にどうにかするよう言いに行く。
これは日本人の個の弱さだ、と喝破する論説を読んだことがある。その時私は、これは日本人なりの文明的な態度なのだ、という感想を持った。揉め事が起きた時に当事者同士で言い争うのではなく、第三者に訴えて両者裁定を待つのが日本人的だと思ったのだ。
そんな日本だからこそ裁判を活用しそうなものだが、日本は訴訟国家ではないというのがアメリカと比べての結論らしい。とすると日本では裁判沙汰になる前に決着が着いてしまう、ということなのだろう。裁判官以外の第三者の裁定で納得してしまうのだという推測ができる。
なるほど、これはたしかに個の弱さだ、と今になって思う。
この日本人的な気質がどのように作られたのか、というと、その答えは天皇陛下の存在以外にはない。あの戦国時代でさえ、各武将は「陛下のため」というお題を錦に掲げていたのだ。日本人には従うべき絶対者がいる、というのは多神教が支配する日本の中に存在する一神教的な点であり、非常に興味深い。
さて、島国日本ではそれでよかったが、翻って大陸ではどうだろう?同じ神を信じる者同士であれば司教などの裁定が通じたが、宗教が違ってしまうとそれも出来ない。つまり、どこまでも個以外に頼るものがなく、個と個の激しいぶつかり合いがあった。それは、彼の地で生まれ育った人々の気質にも大いに反映されているはずだ。というか、そうした個の強さこそ世界のスタンダードだといえる。
日本が外交をする際に、こうした日本人と世界一般の人々の気質の違いを踏まえていないと、大変な火傷をすることになるだろう。
例えば領土問題。この問題を国際裁判所に訴えればいいという言論があるが、これは一概にそうとはいえないのではないか。これは日本人同士の争いではなく、国と国の争いなのだ。人種はもちろん宗教も憲法も違う国と国の争いを裁定するのは何者なのか。その裁定にはどんな意味があるのか。これを、普通の裁判と同じように考えてしまってはならない。
国際裁判所には、裁判は争いあう両国の同意があって初めて成立する、という大前提がある。これはある意味当たり前のことだ。国という個が裁判結果を受け入れる姿勢がなければ意味が無い。司法裁判でもないからなんの強制性もない。だからこそ、どこまでも個がぶつかり合う国際社会の場では裁判という問題解決方法はあまりにも意味を成さないのだ。
つまり、国際社会に日本の主張を受け止めさせたかったら、どこまでも主張を続ける以外にない。第三国の裁定も裁判と同じだ。争う両国にその裁定を受け入れるという最低限の同意がなければならない。誰かに問題の解決を頼むのではなく、自力で問題解決に向けて行動するしかないのだ。
何であれ、拡散したものを元に戻すことはできない、特に文化の世界では。「覆水盆に返らず」だ。
乱暴な(ただのレスリングでしかない)「柔道」をやる外国人選手を見ると、多くの日本のマスコミ・識者・日本人たちは「こんなの柔道じゃない!柔道をやるなら、(もちろん日本人になる必要はないが)ちゃんと柔道の精神を理解・尊重したうえでやれ!」と不快に思いますね。しかし、だからといって「柔道やるなら日本人になれ!」と言っていることにはならない。
これと同じことです。
申し訳ないが、私は彼らが柔道をやることを特に不快には感じない。柔道を一旦外に持ち出したからには、彼らがそれをどのように解釈しようが自由だ。文化とはそういうものなのだから。
ゴータマ・シッダールタが、もし今の「仏教」や「寺」を見たら卒倒するかもしれないし、イエス・キリストがバチカンの司教たちを見たら「神の庭を汚す者どもが!」と怒り狂うかもしれない。そもそも「クリスマス」が始まったのは、イエスが死んで何百年も経ってからの話である。…だが、それは、それらがことごとく「偽物」でありそこに捧げられた全ての人の思いは全て「偽り」であるということを意味するのだろうか? そう考えるのが妥当であろうか? 私はそうは思わない。それは余りに狭量なものの考え方だと思う。
正当、正統にこだわる、いわば原理主義的なものの考え方は、物事が混乱する時期により確からしい指針を求める意味から人々にもてはやされるものではあるが、ある物事の出発点に「より純粋な原理を確立する」という発想が強く強くあったというのでない限り、結局のところ出発点の思いとはずれたものとならざるを得ない。原理主義は、しばしばその意に反して、「原理」とは異なるものに変質する。
たとえ石景山遊園地がどれほど見苦しく見えようが、親に連れられてそこで遊んで楽しかった子どもの思い出を否定する権利が誰にあるのだろう?
「あなたの遊んだ遊園地は偽物なのですよ!だってそれはディズニーに版権があるのですからね!!なんて見苦しい思い出なのかしら?1」
文化とは、今生きているもので、今を生きている人間のものである。生きている人間に本物も偽物もありはしない。まあ、この島国の人間が、自分たちのもたない、世界のどこかにある「ホンモノ」幻想を追い求めることで、千数百年間自国文化発展のモチベーションとしてきたことも事実であるし、その歴史を否定するつもりもないのではあるが。
【ローマ藤原章生】児童などに対するカトリック神父らの性的虐待を巡り、ローマ法王ベネディクト16世の対応の甘さが批判を浴
びている。「憎むべき罪」と非難しながらも、告訴といった司法介入などの具体的な措置に踏み込まないためだ。
バチカンでは今月15~16日にかけ、法王とアイルランドの司教24人が特別会合を開いた。アイルランド政府の調査委員会が昨
年11月、国内の神父による児童などへの性的虐待を詳報したのを受けた集まりだった。
報告によると、74年から04年に320人が教会付属の学校などで性的虐待を受け、教会はそれを黙認してきたという。
会合後、法王は広報官を通じ「教会による指導、信頼を揺るがす重大な危機」「神に背く重罪であり人類の威厳を傷つけた」と声明
を発表したが、司教の免職や司法当局への報告には触れなかった。
カトリック神父らによる児童などに対する性的虐待は02年に米国で大問題となり、その後も各地で明らかになった。今年1月には
ドイツで、3神父がベルリンのイエズス会系高校で70~80年代にかけて多数の生徒に性的虐待を加えていた事実が暴露された。
法王は一連の問題を軽視はしていないが、個々の罪を問うのではなく、性的虐待が広がる原因の探求に着目していると、カトリック・ニュース・サービスは伝える。
http://mainichi.jp/select/world/news/20100222k0000m030099000c.html
キリスト教を盾にとるお前らwwでもその盾腐ってるからwwwww