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はてなキーワード: 古典的とは

2024-04-26

筑波大学お薦め図書リストの「まず読みたい100冊」についての感想

個人の感想です

学生のためのお薦め図書リスト | 筑波大学 比較文化学類公式ホームページについての感想です

・「まず読みたい100冊」の話しかしません(次に読みたい100冊は単に好きな本リストでしょうから


三四郎』 『地獄変・偸盗』

最初にこの2つを持ってくる意味が分かりません。あらゆるリストにおいて最初の2つはこのリストがどういった順序になっているのかを示すものであるべきです。五十音順かと思いましたが、それなら次は『二千日回峰行 大阿闍梨酒井雄哉世界』になるはずですから違いますね。大学生向けということですから対象年齢順ではないでしょうし、難易度順というはずもないでしょう。

もしもあえての順不同だとしても、最初のいくつかはコンセプトの紹介となるものを選ぶべきです。このリストを見た人がどういう思いを受け取ればいいのか迷わないように。

まさか、それで選んだのが「漱石明治時代大学生を描いた名作です。自分と比べて見るのも一興。」「何百もの小説を残した芥川。「羅生門」だけじゃ物足りない。」ですか?ならば多くの人がこのリストを見限るでしょうね。「若造ども、俺が超おすすめ古典文学ってのを教えてやるよ。無教養な君たちはまずはこの辺でも読みなさい」ですか?まあ確かに、そういうリストなのかも知れないですね。だからといってそれをいきなりぶつけてみせるのは初対面の相手に対しての礼を失している。礼を失しているようなものが作ったリストに載せられたあらゆる作品不憫でなりません。

コメントなしの紹介

紹介としての体をなしていません。ただ名前を挙げるだけで仕事をした気になっていいのは山手線を暗記したことを自慢する幼稚園児の鉄道オタクぐらいのものです。なぜオススメするのかを書いてください。オススメされたものへの礼儀です。オススメする側が上で、された側が下だと考えるから礼を失するのです。

大学とは大人の通うものです。先日まで高校生だった人間であっても、言動子供っぽさがあっても、大人として扱ってやることによって、彼らに自分たちはもう大人なのだという自覚を与えるのも大学役割です。学生大人として対等に扱ってあげてください。大人同士だと認識しているのに教える側が絶対的に偉いと思ってるなら、それはもうただの人格破綻です。

紹介コメント(80字以内)「一般教養」 「古典的名著」

どう一般教養なのか、どう名著なのかを書いて下さい。最低限の表現力が欠如しています先入観を持たれることを恐れて書かないというなら、そもそもが間違っています。入門的な書物名前を出した時点で多くの学生は「お前らはまずこの程度のものから身につけなさい」という説教のような印象を受けるでしょう。実際にそう言いたいのですか?そうだとしても、それは効果的な態度ではありませんね。

なぜ学生がまだ最低限の教養を身につけていないのかを考え、そこからバカからだ」という結論にでも至ったのでしょうか?それなら、そんなバカ相手にただオススメするだけで意味はないですよね?それでなにかやった気になって「俺はやれっていったけどなー」とチャチいペシミズムにでも浸りますか?そうじゃないでしょう。なぜ、これをまず学ばなければいけないのかを、言語化してください。それが無理ならリスト作成に関わらないで身を引いて下さい。リスト作成者の人も、こういう人に身を引かせられるようにしてください。座組の段階の問題でもあるのですよ。

ギリシャ神話』 出版社岩波文庫ほか」

一番オススメ出版社のものはどれですか?いくつもの出版社作品を読み比べて欲しいと言うならそう書いて下さい。もしもこれを読んでほしいという一番のオススメがあるならそれを書いて下さい。少しでも多くの情報を伝える努力をする姿勢を。

あっ、駄目だ。

そろそろイライラして変なこと書きそう。

もうここで俺は辞める。

誰か続きを書いてね。

ツッコミ自体はまだまだあるから

まあ6割ぐらいは割と悪くないんですけどね。

参考文献が書いてあったり、オススメ理由が書いてあったり、とりあえず興味を持った順に読むって形に持っていきやすいし、自分がひとまず何から読むべきなのかの道筋もある程度示されていると思いますし。書店での入手可否やkindleでの有無なんかがあるのもいいと思います結構いいと思いますよコレ。

2024-04-25

   宮地昌彦先生講義は、古典的で力強いようにみえるが、難しい部分を簡単に言っていて何が魅力なのか分からないようにしていますので、ちょっとむかつくねこのジジイ

     あえていえばなんというかというと、古典的な力強さと生産性を見せつけているように思いますが、フーリエ級数結論の魅力とか、証明技能の美については、言う気がないような気がしますね。

   二次元タイルに関する積分を題材にして、古典的生産性の主張しているような動画に思う。

    平成29年10月6日に東大理学部数学科に発表された参考動画である趣旨は分からない。

2024-04-23

anond:20240423181021

昼もやってるから職場の昼休みに見てる勢が結構いると思う

(休憩室のテレビチャンネルNHK固定、とか古典的職場だとよくある)

2024-04-18

ある人気漫画家が居た

彼の作画は素晴らしく、そして人気の理由は何よりもその緻密なストーリーにあった。

いつも読者を最後にはアッと驚かす意外な結末を作り出しては、人気を博していた。

しかスランプに陥ってしまったのか、いつものような冴えたアイデアがまったく浮かばない。

どのような結末にすれば、読者をアッと言わせられるだろうか?

漫画家は悩むもまったくアイデアは浮かばない。

どうしようかと三日三晩悩みに悩み、考え尽くしてもアイデアは出ない。

そのうち疲れてしまってうとうとし始めると、気づけば眠っていた。

すると夢の中で天使が現れ、こう告げた。

あなたの願いをひとつかなえてあげましょう」

「本当か!?では、読者を納得させられるような、結末のアイデアをくれ!」

「いいでしょう」

天使は微笑み、漫画家が求めることを言った。

「…いいですね?最後の結末をこうしなさい。さすれば、願いはかなうでしょう…」

天使は全てを言い終えると、透き通るように透明になっていき、消えていった。

はっと、目を覚ますと、漫画家は夢の内容を明確に覚えていた。

「なんだったんだ、さっきの夢は…」

これは啓示であると思った漫画家は、天使に聞かされた事をそのまま作品の結末に採用した。

後日。

作品は無事に完結した。

「いやあ、あの結末、評判が良いですよ!」

担当がニヤついた笑顔漫画家にそう告げる。

「そうなのか?」

漫画家は意外そうな声を出す。

「ええ!でも、まさかあんな結末にするなんて、思いもしませんでしたよ!」

「私もだ」

「えっ?」

「いや、なんでもない。それにしても、本当に好評だったのかね?」

「それはもちろん!いやあ、大反響ですよ!あの結末は、さすがにどの読者も予想できなかったみたいですから!」

「だろうな」

はいネットでも話題ですよ!」

「そうか…」

漫画家は感慨深い眼差しを窓に向けた。

謎が謎を呼ぶミステリー作品

その結末はこうだ。

ヒロイン美少女が突如、全裸披露して終了。


夢の中で天使は言っていた。

人間というものは、誰もが似た体を持ちながら、ある特定の一人の裸を見たがるものなのです。いいですか?彼らにとっては、服の中身こそ最上ミステリーなのですよ。だからそれを描けば、たとえそこになにがあるか分かっていようとも、人間は満足するのです」



タバコ、いいかね?」

窓辺に歩み寄った漫画家担当に訊ね、「ええ、どうぞ」と言われて、一本を吸い始める。

それから天使言葉を頭によぎらせ、ふと思った。

ありきたりな密室トリック凶器トリックは、古典的ものや有名なもの使用すれば大いに批判される。

しかし、女の裸となれば、下着の先には何があるのか分かっているくせに、それを描こうが文句は言ってこない。

まさに、それこそが最大のミステリーだ。


タバコをふかしながら、漫画家は深くため息を吐いた。

古典的な美の概念

美術史家のハインリヒ・ヴェルフリンは、イタリアルネサンス絵画建築に具体化された古典的な美の概念について考察している。

イタリア ルネッサンスの中心的な考え方は、完璧バランスです。この時代は、建物と同様に人間の姿においても、それ自体の中に静止している完璧イメージを達成しようと努めました。あらゆる形態自己存在する存在へと発展し、全体が自由に調整され、独立して生きている部分にすぎません…。古典的作曲システムでは、個々の部分は、たとえ全体にしっかりと根付いていても、一定独立性を維持します。それは原始芸術無政府状態ではありません。部分は全体によって条件づけられていますが、それでもそれ自身の命を持つことをやめません。観客にとって、それは分節、つまり部分から部分への進行を前提としており、それは全体としての知覚とは非常に異なる操作です。

古典的概念では、美しさは、比例、調和対称性、および同様の概念に従って、統合された部分を配置して一貫した全体を形成することで構成される。

これは西洋原始的な美の概念であり、古典および新古典建築彫刻文学音楽のどこにでも体現されている。

アリストテレスは『詩学』の中で、「生き物、そして部分から構成されるすべての全体が美しくあるためには、部分の配置に一定の秩序がなければなりません」(アリストテレス、第 2 巻)と述べている。

そして形而上学では、「美の主な形式は秩序、対称性、明確性であり、数学科学は特別な程度でそれを実証しています。」(アリストテレス、第 2 巻)

アリストテレス示唆しているように、この見方黄金分割などの数式に要約されることもあるが、それほど厳密に考える必要はない。

この概念は、とりわけユークリッド原論などの文書パルテノン神殿などの建築作品に例示されており、また彫刻家ポリクレイトス (紀元前 5 世紀後半から 4 世紀初頭) の正典によって例示されている。

カノンは、完璧プロポーションを示すように設計された彫像であるだけでなく、今では失われた美に関する論文でもあった。

医師ガレノスは、この文章の特徴として、たとえば、「指と指、すべての指と中手骨、手首、そしてこれらすべてと前腕、および前腕と腕」の比率指定していると説明している。

その論文身体のすべての対称性私たちに教えてくれたポリュクレイトスは、その論文に従って人間の像を作り、論文と同様にその像自体正典と呼んだ作品でその論文裏付けた。

古典的テキストにおける「対称性」の概念は、双方向鏡像関係を示すために現在使用されているものとは異なり、より豊かであることに注意することが重要

それはまた、古典的意味で美しい、物体の特徴である部分間の調和の取れた測定可能比率一種にも正確に言及しており、道徳的な重みも担っている。

たとえば、『ソフィスト』 では、プラトン高潔な魂を対称的である説明している。

古代ローマ建築ウィトルウィウスは、その複雑さと、適切であるがその根底にある統一性の両方において、中心的かつ非常に影響力のある定式化における古典的概念体現している。

建築は、ギリシャ語タクシーと呼ばれる秩序と、ギリシャ人ディアシスと呼ぶ配置、そしてギリシャ人エコノミアと呼ぶ比例と対称、装飾と配分から構成されます

秩序とは、作品の細部を個別バランスよく調整し、全体としては対称的な結果を目指して比率を配置することです。

プロポーションは、優雅な外観、つまり文脈の中で詳細が適切に表示されることを意味します。これは、作品の細部がその幅に適した高さ、その長さに適した幅である場合に達成されます一言で言えば、すべてが対称的な対応関係を持っているときです。

シンメトリーは、作品自体の細部から生じる適切な調和でもあります。つまり、与えられた各細部が全体としてのデザインの形に対応することです。人間身体と同様に、キュービット、足、手のひら、インチ、その他の小さな部分から、リトミーの対称的な性質が生まれます

アクィナスは、典型的アリストテレス多元主義的な定式化で次のように述べている。「第一に、誠実さ、あるいは完璧さです。何かが損なわれていると、それは醜いからです。次に、適切な比例または調和があります。そして明晰さもあります。明るい色のものが美しいと呼ばれるのは、このためです。」(『神学教典I』)

18 世紀のフランシスハッチソンは、この見解を最も明確に表現していると思われることを次のように述べている。

「したがって、体の均一性が等しい場合、美しさは多様性と同じです。そして多様性が等しい場合、美しさは均一性と同じです。」 (Hutcheson)。

実際、この見解の支持者はしばしば「数学スタイルで」話す。

ハッチソンは続けて、最も美しい対象として数式、特にユークリッド命題を挙げる一方で、次のような普遍的物理法則によってその根底にある巨大な複雑性を持つ自然熱狂的に賞賛している。

「美しさはある、と彼は言いますアイザック・ニュートン卿の計画における重力がそれである」(Hutcheson)

美とは部分間の特定比率問題であり、したがって古典的概念に対する一連の非常に説得力のある反論と反例が、エドマンド・バークの著書「私たちアイデア起源についての哲学的調査」で与えられている。

植物界に目を向けると、そこには花ほど美しいものはありません。しかし、花にはあらゆる種類の形とあらゆる種類の性質があります。それらは無限に多様な形に加工されます。 …バラは大きな花ですが、小さな低木の上に生えていますリンゴの花はとても小さいですが、大きな木の上に生えていますしかし、バラリンゴの花もどちらも美しいです。 … 白鳥は、自白すると美しい鳥で、首は体の他の部分よりも長く、尾は非常に短いです。これは美しいプロポーションですか?私たちはそれが事実であることを認めなければなりません。しかし、首が比較的短く、尾が首と体の残りの部分よりも長いクジャクについてはどう言うでしょうか。 …人間身体には、相互一定比率を保っていることが観察される部分がいくつかありますしかし、美しさの効果的な原因がこれらにあることを証明する前に、これらが正確に見出されればどこでも、それらが属する人は美しいということを示さなければなりません。 …私としては、これらの比率の多くを非常に注意深く検討したことが何度かあり、多くの主題においてそれらが非常に近い、あるいはまったく同じに保たれていることがわかりました。それらは互いに大きく異なるだけでなく、一方が非常に美しい場合には、 、そしてもう1つは美しさから非常に遠いです。 …人体のあらゆる部分に好きな比率を割り当てることができます。そして私は、画家がそれらすべてを観察し、それにもかかわらず、もし望むなら、非常に醜い人物を描くことを約束します。

2024-04-16

anond:20240416095040

テスト対象は大小さまざま。OS保守だったり、アプリだったり。レガシーだったり、モダンだったり。個人だったりチームだったり。GUIだったりCUIだったり。

OS保守なら無いのはおかしいだろう

GでもCでもUIはまた別

結論としては書かないほうがいいと思った。

そういうこともある

テストを書くためのコストが小さいなんて妄想もいいところだ。クソデカである

全然小さいというか書くためと変更のコストがクソデカなら何か間違ってる

結局、テスト対象も変わってしまうし、プロジェクト設定も変わるし、Jenkinsも変わるし、人間の頭の中も変えないといけない。

Jenkins?jUnit等ではなくて?

100人以上かかわる巨大プロジェクトでも「テストコードを書かなかったので破綻した」、とかはなかった。

まあそれはないだろう

テストコードを書くと実装の見落としが見つかってありがたいことはあった。

テスト設計図から

デバッグするよりテスト書いたほうが早いことがあった。

それはデバッグの一環のような

git pushするたびに毎回走っても全くの無意味だった。

無意味ものを流してはいけない

テスト対象が変わるとテストを書き直さないといけないのがサイアクだった。非効率化の極みだ。人生無駄

一番よくあるやつ

そこのバランス考えないと

バックエンドビジネスロジック担当するがっちり仕様が決まっていて勝手に変更されてはいけないものなんかをやる

UI場所が変わって破綻するようなのは大概はしない方がいい

その次にサイアクだったのは、テストコードの実行が失敗したときテストコードバグであることが大半であったことだ。

コードのパーツがでかいのでは?

GUIソフトテストコードは相性が悪いが、そもそも世の中のソフトウェア開発の大半はGUI開発である

いね

テストコードを書くと、テストやすクラス実装をするようになる。それは美徳とされているが、実際には直感的でない長くて複雑なプログラムになっている。

例えばテストコードを書くためにDependency Injectionとか言って外から内部を変更できるようにすると

メンバ関数でやるべき処理が実際にはクラスの外にある、となる。最初面白く感じたり達成感があるかもしれないが、しばらくして見返すと酷い状態だ。

DIはSOLIDに入ってるくらいで基本だし今時のフレームワークなら普通に使うよね

上にも書いたけどパーツがでかいのでは?って「直感的でない長くて複雑なプログラムになっている」とのことなのでやっぱりでかいんだろう

その辺はOOのやり方の問題じゃないか

ふつ~に古典的デバッグをすればいいと思う。

デバッグというか手動テストの話かな?

テストコードを書いたほうが早い時もあったけど、トータルで考えれば、テストコードを完全にやめたほうがシンプルコードで早く完成する。

要件が固まらない、毎週変わるようなのとか、システムが絡むテストコストが凄く高いものUIマイナーな変更なんかは書かない方がいいけど

バックエンドビジネスロジックなど書いた方が絶対にいいものもある

テストコードをやめた方がシンプルというのはわからないな

ものすごくシンプルな小さな機能にしてそれに対するシンプルテストを書くものだと思うけど

テストコードを書いて意味があるのか懐疑的であった。

ネット上ではテストコードを書かないのは低レベル開発者という風潮だ。

10年以上、テストコードを書く開発と書かない開発の両方を経験してきた。

■前提

テスト対象は大小さまざま。OS保守だったり、アプリだったり。レガシーだったり、モダンだったり。個人だったりチームだったり。GUIだったりCUIだったり。

結論としては書かないほうがいいと思った。

テストを書くためのコストが小さいなんて妄想もいいところだ。クソデカである

 結局、テスト対象も変わってしまうし、プロジェクト設定も変わるし、Jenkinsも変わるし、人間の頭の中も変えないといけない。

100人以上かかわる巨大プロジェクトでも「テストコードを書かなかったので破綻した」、とかはなかった。

テストコードを書くと実装の見落としが見つかってありがたいことはあった。

デバッグするよりテスト書いたほうが早いことがあった。

git pushするたびに毎回走っても全くの無意味だった。

テスト対象が変わるとテストを書き直さないといけないのがサイアクだった。非効率化の極みだ。人生無駄

・その次にサイアクだったのは、テストコードの実行が失敗したときテストコードバグであることが大半であったことだ。

GUIソフトテストコードは相性が悪いが、そもそも世の中のソフトウェア開発の大半はGUI開発である

テストコードを書くと、テストやすクラス実装をするようになる。それは美徳とされているが、実際には直感的でない長くて複雑なプログラムになっている。

 例えばテストコードを書くためにDependency Injectionとか言って外から内部を変更できるようにすると

 メンバ関数でやるべき処理が実際にはクラスの外にある、となる。最初面白く感じたり達成感があるかもしれないが、しばらくして見返すと酷い状態だ。

・ふつ~に古典的デバッグをすればいいと思う。

 テストコードを書いたほうが早い時もあったけど、トータルで考えれば、テストコードを完全にやめたほうがシンプルコードで早く完成する。

2024-04-15

 (1)  科学の実質は、いわゆる偉いことにあるのではなく、 古典的制限的な生活の中における集中によって確実な真理を確定させ、それらの間に美しい関係精神活動によって

    発見し、成長していくという常識にすぎない上、人生の意義は、生きることにあって、生きた結果ではないことは、ゲーテがつとに言っていることであるから

 (2)  現在東京都民バクサイの労働者は、人生の意義は生きることにあって生きた結果ではない、というゲーテの言明について、真剣に信じているわけではなく、世間的対面上、他に

    拠り所がないから、それによっているだけで、真にやりたいことは犯罪であるから

  (3)  戦後30年の活況はとうの昔に終わっているし、昭和50年代にこの国がどのようにやっていたか不明である上、 加藤周一が、経済至上主義を主張したのは1996年の

     岩波ブックレットからであって、金は相当昔からまり信仰されていない上、金が最強であると言っているのは会社事務方だけで、平成の幼稚な文化に比べると魅力が劣っているから。

  (4)

      八千代台の嫁がいる総務課の原田は、科学技術と金知能指数が全てでそれに反する者は死刑であるという思想を持っているが、独りよがりの考えに基づくものであり、経緯や動機

     酌量の余地がないこと、無差別殺人連想させ、日本世間に与える不安や恐怖には甚大なものがあることからすると、刑事責任は軽視できないから。

2024-04-14

anond:20240414200540

これな

古典的な例だと、「ま〜ん笑」って煽りに対して「ち〜ん笑」って女さんが返すの何度もみたことあるけど、

男がノーダメージどころかむしろ面白がるのがまったく理解できてないのよな

2024-04-12

   しかし黒羽刑務所のような制限生活の中で集中していたとしても、森脇と言う驚愕的な体験があるので、それなりに成長すると思うが黒羽には座学授業がないので、系統的体系的に

  何かを教わるわけではない。幾何学の授業はない。 驚愕の森脇に、古典長谷川、が10工場の中身である長谷川古典的な生活指導して対象事物の中に真理を見出させ、

  森脇が驚愕させて発見させたり技術的に完成させる。しかし、森脇が驚愕させたとしても、受刑者発見するのは指数定理程度である。森脇が驚愕させることでIMO問題発見できれば世話

  はない。ゲーテは非常にあいまいなことを言っており、真理は深いところに収まっているので、誰でも発見できるものではないという。そういうことになると、幾何学なら、定理問題発見できなくなるし

  教科書に書いている基本的方程式すら発見できなくなる。これだと何が天才で何が平凡であるかの区別も分からない。

   経時的時間の中で美しいものけが最終的なものであろうと思う。しかし、数学では、定理は、一般には美それ自体とはされていない。数理哲学者のロタは、定理は、永遠不変に美の輝きを

  持つわけではなく、 発表されたとき驚愕される。逆に、証明における驚愕的な証明は、その証明自体永遠不変の輝きをもつとされる。したがって数学では構成手段の中に永遠不変の美が

  あり、結論における美は、そのうちになくなるということである。そうすると、神は、技術構成中の美において永遠不変を認めて、結論の美については、いつまでもそれに対して美を与えないという意思

  があるように思う。

   ゲーテの言っている、 未知の無限可能性、可能もの限界は測ることはできないか絶望よりは希望する方がよいと述べているが、仮に到達不可能領域があるとしてもそれも結局、

  経時的時間の中でやがては飽きられて陳腐な真理になってしまうということである

   次の文章は、佐藤美男による「成長の本質とは何か」という文章の一部である。これを読んで後の設問に答えよ。

  人間は脳神経により物事を知覚する物体であるから、成長の度合いが置かれている環境その他に、見えていないか理解できない、また人により物事をどのように認識しているかは分からない。

  仮に警察がこれを織り込み済みのものとして行動していると解するとしても、自己中心的迷惑な話であり、理解できない。次に西洋人オーストラリア人は、 成長は驚愕体験からくると

  されるが、日本列島は、驚愕体験をするような環境がない。価値のあることをひらめくということは感情的驚愕することと同じである制限生活の集中の中でいか驚愕するかで古典的

  到達できるところが決まってくる。古典的ではなくローマン的なものは病的で間違った方向にいくというということは、ゲーテが既に言っていてここでは考える価値がない。

   数理哲学者ジャックカルロロタは数学の偉大な定理ほとんどは驚愕の1つからくるとされている。証明技術の方は様々である。残念ながら中華人民共和国には法がない。3つぐらいの

  条文しかないという。日本にもない。我が国に本格的なそういうような法が導入されたのは、1868年である明治天皇がやっきになってドイツ憲法からもってきてやったということである

  

2024-04-09

[] 2024-04-09

新しい趣味としてオンラインゲームをやってみたが、少しやってみて「あれ、これ時間無駄遣いじゃない?」と思ってしまった。

アルビオンオンラインという、FF14劣化させたようなゲーム

そういえば、FF14を辞めたとき時間無駄に感じるという理由で辞めたのを思い出した。

映画鑑賞読書とかであれば、まだ何某かを学んでいる感じはするが、ゲームは爽快感のある時間の使い方じゃない。

この調子じゃ、どのゲームをやったとしても感想は同じだろう。

古典的ゲーム(テキサスホールデムポーカーチェス)であればまだ楽しめる感じがあるかもしれない。

ゲームといえば、ヤングシェルドンではシェルドンがバアバとゲームに熱中して学業サボりビックバンセオリーではペニーゲーム中毒になって廃人と化すのを思い出した。

やっぱゲーム麻薬だ。注意しないとどんどんと時間を溶かしてしまう。

2024-04-06

この前ネトフリでふとみた「キャビン」って映画ツボにはまった

謎の組織誘導され、山中の古い屋敷に泊まることになった学生たち

その屋敷には様々な殺意MAXバケモノ召喚するためのオブジェクトが配置されている

吹けば魚人の出てくる法螺貝、鳴らせば少女姿の怪物が出てくるオルゴール、解いたらヤバイブロックパズル、身につけるとヤバイアクセサリー

全部謎の組織が設置したもので、一見ただの古臭い屋敷は最新の技術が搭載されあちこちに隠しカメラがあり

組織の人たちが「今度の奴らはどれを召喚するかな」と賭けをする

シラフならよくわからん屋敷の探索などしない真面目で慎重な学生らだが、

謎の組織による巧みな照明コントロール精神作用する薬物の噴霧により、ホラー映画ありがちな好奇心がやたら強い向こう見ずでバカ若者的行動を取っていく

結局学生らは、「殺人鬼一家日記」に書かれた音読するととヤバイ呪文を読み上げることでゾンビと化した殺人鬼たちを召喚王道ホラーっぽくなる

謎の組織はなんなのかなどに迫りつつ展開が二転三転していきずっと面白かった

ある動作をすることでバケモノを呼び起こしてしまうというのは古典的な設定だが

バケモノを呼び出すアイテム屋敷のあちこちに配置してどれが出るかな~♪って発想がすごい

バケモノガチャ

2024-04-02

観測意識

量子力学は、測定が行われるまで粒子は重ね合わせの状態、つまり同時に 2 つの状態にある可能性があることを示唆している。

そのとき初めて、粒子を記述する波動関数は 2 つの状態のいずれかに崩壊する。

量子力学コペンハーゲン解釈によれば、波動関数崩壊意識のある観察者が関与したときに起こる。

しかペンローズによれば、それは逆だという。

意識崩壊を引き起こすのではなく、波動関数自然崩壊し、その過程意識が生じるとペンローズ示唆した。

この仮説の奇妙さにもかかわらず、最近実験結果は、そのようなプロセスが脳の微小管内で起こっていることを示唆している。

意識はすべてを包括しており、現実のもの構成しており、物質世界は単なる幻想である、と言う人もいる。

意識幻想であり、実際の現象的な経験意識的な制御感覚はないと言う人も。

この見解によれば私たちは「ただの無力な観客であり、ただ乗り物に乗っているだけ」である

そして、脳をコンピューターとして見る人もいる。

機能歴史的に、蝋の「封印リング」としての記憶という古代ギリシャの考え方から電信交換回路、ホログラムコンピューターに至るまで、現代情報技術比較されてきた。

神経科学者、哲学者人工知能 (AI) の支持者は、脳を、可変強度のシナプス接続された単純なアルゴリズムニューロンからなる複雑なコンピューターに例えている。

これらのプロセスは、意識を持たない「自動操縦機能には適しているかもしれないが、意識考慮することはできない。

意識基本的ものとして捉え、宇宙の微細な構造物理学に何らかの形でつながっていると考える人たちもいる。

例えば、意識は量子領域古典的領域の間の境界における活動である「量子波動関数崩壊」という客観的還元プロセスに関連しているというペンローズ見解が含まれる。

基礎物理学とのそのようなつながりをスピリチュアルもの他者宇宙とのつながりと見る人もいるが、意識現実基本的な特徴であり、生命のものよりもずっと前に発達したものであることの証拠である考える人もいる。

ペンローズは、客観的還元意識科学的根拠としてだけでなく、量子力学の「測定問題」の解決策としても提案していた。

20世紀初頭以来、量子粒子は、シュレディンガー方程式に従った波動関数として数学的に記述され、複数可能状態および/または位置を同時に重ね合わせて存在できることが知られてきた。

しかし、そのような重ね合わせは見られない。

なぜなら、初期の量子研究者にとって、測定または意識的な観察という行為自体が、波動関数を明確な状態位置に「崩壊」させるように見えたかである

2024-03-29

普段推定無罪とか手続き主義とか主張するのに女性絡みの事件になるとガバガバになる人

あの現象なんなんだろうね?

3がつくとアホになるレベル

古典的ヒロイズムみたいな?だったらむしろ家父長的な気がするんだけど。

2024-03-28

変な家見た(ちょっとだけネタバレ

結構よかったよ

音でびびらせるのはダメな人居そうだけど

なるほどなーと思ったのが、主人公YouTuberのものなんだね

動画ネタ必要から」で首突っ込んでいくのって、ミステリー作家構造まるっきり同じなんだよね

ある意味古典的だった

ツッコミどころもたくさんあるけど

古典ってやっぱ強いんだよね

久々にホラー映画見たなーって感じがした

レベルはそこらのホラーゲームと大差ないと思う

目の肥えた評論家ダメ出しするだろうけど

YouTube世代にはこのくらいのエンタメホラーで良いんじゃないか

チャーハン頼んでチャーハン出てきた感じ?あとは「YouTubeで見たやつだ」のフレーバーがあればいいのよ

 

このフォーマットって、雨穴さんがもっと動画出せばある程度何でもいけそうだよね

この構造に気づいた人が賢いわ

2024-03-26

anond:20240326164935

そもそも古典的ネトウヨは、アベが韓国の手先だったことを受け入れられずに反転自民アンチになってるか、狂死してるから…。

ギリギリ生き残った一部のネトウヨ日本保守党とかを持ち上げているけど、もはや政治的には何の影響力もないゴミカス勢力

未だにネトウヨがーとか言ってるのもっと危機感持った方が良いよ。

anond:20240325134852

増田パンティ話題とは珍しいですね。男性がなぜパンティをありがたく思うのか?その仮説を3つほど考えてみました。

エンドコンテンツ

女性が体を許す印でありその通過点であるパンティ

女性といちゃいちゃすると気持ちが良く、その手前の通過点としてのパンティ

パンティイチャイチャパンティイチャイチャという経験を繰り返すうちにパンティの先にあるエンドコンテンツとの条件付けが強化されパンティのものに興奮してしまうというもの

この説は女性のエンドコンテンツ想像もいたらない小学校低学年がパンティ大好きという事実をうまく説明できない。

御簾の向こう説

パンティはあの部分を隠すもの。それでも隠し足りないのでスカート等で更に隠す。

隠れているからこそ気になり気になるからこそ見えたらご褒美感が出てパンティに執着するもの

見てやったぞという攻略感・達成感からパンティに執着してしまうというゲーミフィケーション要素がある。

この説は小学校低学年でもパンティ大好きという事実もよく説明できるし、一部の強者男性が「ただの布」という引いたスタンスを取るのもパンティを見る程度のことにレア感がないからとすれば符合する。

ポケモン

パンティはそれ単体でバリエーション豊富である

まず単体ではこのような観点がある。

パンティ単体のスペック

付属物との組み合わせの観点ではこういった観点がある。一部に特に強い執着を見せる人たちが存在する。

アンダーコンビネーション

パンティオーナーにもこのような観点がある

ボディライン
コーデ

(略・・・ワンピスカートや靴とのコーデ)

本尊

(略・・・お顔、お仕事、お声、お胸、性格女子カースト、など)

ポケモン説の前置きが長くなったため一旦このあたりに留めておくが、パンティ及びその周辺に関して概ねこういったバリエーション存在する。パンティの面積は狭いながらその選択肢や履きこなしは男性スーツに近い楽しみ方があることが分かる。更にこの外に通常衣服としてのワンピスカートや靴のコーデがあり、またお姉さんが強そうなのか甘目なのか、お仕事中のアパレル店員さんなのか有名人に呼ばれたらほいほいアテンドされる港区女子なのかといった人となりの部分も存在する。

ポケモンにハマると能力値や色柄にこだわって収集活動が止まらなくなってしまうように、パンティもさまざまな条件が組み合わせ爆発を起こしており、理想パンティを追求してしまものである

例えばオーダーコールは「白系のサテン生地で縁取りは約5mm間隔のざっくり目で濃色の見せるステッチ。形状はフロント・バックともややゆったり寄りのノーマルでクロッチシームレスフロントリボンは黒の土手はふっくら系マシマシ」あたりとなります

またお越しくださいませー

2024-03-24

ダンジョン飯の奴らってドラゴンステーキも食ったことないんだよな

マルシル達がドラゴンステーキを食べている様子を見て俺は理解してしまった。

あの世界ではドラゴンさえ食材じゃないのだ。

俺達の知っている近代RPG世界では、異世界のご馳走といえばドラゴンステーキだ。

A5ランク黒毛和牛みたいなものとしてドラゴンステーキが扱われているイメージ現代人は共有しているはずだろう。

だがダンジョン飯世界古典的WIZ世界においてはドラゴンは素材に放っても食べ物にはなっていない。

不思議だ。

古来より狩人という物は外敵を倒すために殺したとしても、その肉は食料として溜め込んでいたはずではないのか。

そうはいっても狼は食べられはいなかったが、これは誰かが狼を食べて不味かったという感想を述べた過去がまず存在している。

ドラゴンを食べたことがない理由が「不味いと聞いたことがある」からではなく「そもそも食べるという発想がなかった」というのはなかなかおもしろい。

まりあの世界においてダンジョンというもの独立した自然生態系というよりも、一つの異界としての側面が強く、そこに住むものは口にするようなものではそもそもないと考えられていることがこの一件からも分かる。

たとえば宇宙飛行士が未知の惑星に不時着して、いきなりその星の食べ物を口に含まないのと同じように、安全性が確保されていない物にそもそも手を出さないという意識なのだろう。

宇宙飛行士が異星のものを口に含むのは、救援が来るまでの日数と積み込んだ食料のバランスを加味して、どうしてもそれを接種しなければいけないという前提条件が揃ったことに確信を持ってからであるということだ。


WIZというゲーム世界自体が「油断大敵。基本的にチキれ。無茶するなら2軍にやらせろ。少なくとも救援部隊脱出経路が固まってから動け」で作られていることからダンジョン飯世界観もそのように「臆病こそが冒険者美徳。蛮勇もまた美徳ではあるが命は保証されない」となっているのは想像に固くない。

ドラゴンを倒せるほどの冒険者であればこそ、未知の物を口に含むなんてリスクは侵さないし、素材として持って換えるにしてもまずは換金レートが固まっている鱗からというわけだ。

そうして鱗を運んでいるうちに肉は腐るわけだが、ドラゴンが住むような下層で腹を壊したら危なっかしくて仕方がないので、誰もその場で調理なんてしないと。

からドラゴンステーキの味を知らずに過ごす。

なるほど。

夢がないな。

そういう環境で育った反動がセンシのような異常者を生み出すわけだな。

anond:20240323091420

ダレル・ハフ著『画面で嘘をつく方法』という古典的名著があります。    

                

嘘を嘘と見抜けない人は....

2024-03-21

anond:20240321202823

うそう、おまえみたいな反応が普通なんだよ

そこで「古典的表現」とか言い出してるから、顔真っ赤だなーって思う訳よ

anond:20240321202717

「強調するためにわざと漢字を開くのは古典的文章表現」というのを「チン説」のみに対して言ってるって解釈してんの? お前マジで言ってんのか。

anond:20240321202558

実際、そういう奴に見られてるってことだぞ?

それを「古典的表現」とかわけわからん言い訳しはじめたから、顔真っ赤だなと思ってるだけで

anond:20240321201552

「強調するためにわざと漢字を開くのは古典的文章表現」というのを「チン説」のみに対して言ってるって解釈してんの?

お前マジで言ってんのか。

だが、もしこれが大本増田だとしたらちょっと納得感あるわ。

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