はてなキーワード: 反戦とは
これね、共同通信だけの問題じゃないけど、そういうことだよね。ミスインフォメーション・キャンペーン。
[B! 上川陽子] 【内部文書入手】上川陽子「うまずして」切り取り報道の共同通信「全くひるむ必要は無い」差し替え経緯も判明
共同だけの問題じゃないというのは、共同通信に乗せられたとしても、各社一斉に
「出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘」で揃ったこと。いかにも日本的な乗せられ方だ。
これは欧米でミスインフォメーション・キャンペーンと呼ばれるもので、誤報による世論誘導だ。
ミスインフォメーション・キャンペーンとは、世論や有権者の行動に影響を与える目的で、意図的に虚偽の情報や誤解を招くような情報を流すことを指す。こうしたキャンペーンは、民主的プロセスに対する信頼を損ない、地域社会を分極化させる可能性がある。誤情報は、ソーシャルメディア、マスメディア、口コミなど、さまざまなチャネルを通じて拡散される。フェイクニュースを作成したり共有したり、事実を操作したり、問題を誇張したりして、有権者の間に疑念や混乱を生じさせるような戦術がとられる。
その目的は、選挙結果を左右したり、政敵の信用を失墜させたりすることだが、ひいては選挙制度に対する国民の信頼を低下を招くため、このようなキャンペーンは、選挙結果に対する有権者の信頼や民主主義全体の健全性に影響を及ぼす可能性がある。
これがいかにヤバいことかのメディア自身の自覚のなさが、世界報道自由度ランキング70位という結果にも反映しているんだよ。
今回の場合、完全に誤報を流したというより、もともと解釈に幅がある、どちらにとられてもおかしくない表現だったことが特徴だ。
それは、女性たるもの出産すべし、と解釈できる、そういう解釈しか思いつかない人が一定数いる、というのは、この記事がでてもなお、上川発言に非があるとするブコメが少なくないことでわかる。
上川氏が女性の役割に対して固定観念を持っている、という指摘はありうると思う。ただ、最初からそういう指摘をする報道だったら、ここまで炎上しなかったのではないか。
しかし、これが炎上したのは、実際の各社の報道が「出産を願ってもできない人への配慮に欠けるとの指摘」だったからだと私はみる。
ジェンダーロールの偏見の指摘と弱者への配慮欠如の指摘は必ずしも同一のこととはいえない。
今回のメディアの場合、不妊で悩む女性を主に念頭に置いたのかしらないが、そういう方々が可哀そうだと、感情的な正義に訴えたわけだ。
上川氏の潜在的な差別意識を指摘するのとちがって、この訴え方は、「出産を願ってもできない人」というデカ主語を据えるものだ。
出産困難者というのは、もやっとしたイメージだ。人それぞれ「出産を願ってもできない人」のイメージが違う。
子育て環境の制度的な脆弱さを思い浮かべるひともいるだろうし、家族親族からのプレッシャーとして理解するひともいるだろう。
女性の出産の役割に自己実現の価値を見出している人もそうでない人も含めて、かなり多くの人が感情的共感の網にかかってしまう。
つまり、上川叩きの味方を増やす効果があって、上川氏からすれば、保守からも批判されうるし、フェミからも批判されうるという状況に置かれてしまったことになる。
今回の誤報キャンペーンでは、感情的共感をより広く、網を張り、特定のターゲット層に的を絞らない戦略が功を奏し、同町圧力の強い傾向のある日本で、あとに続くメディアを一斉に吊り上げ、ばっちりと効いてしまったというわけだ。
「出産を願ってもできない人」への配慮、という形で大衆の感情を煽ったのが今回のミスインフォメーションキャンペーンだったといえるだろう。
問題は、これが選挙に影響を与えかねない、ということを報道機関が自覚しているかどうか。
それに対して「全くひるむ必要は無い」というのが、共同通信のスタンスなのね。確信犯であることがよくわかった。
とはいえ、共同通信だけでなく各社報道機関は、「出産を願ってもできない人」への配慮を犬笛として使いたかったのかもしれないが、その副作用についてはやっぱり少しは考えてもらいたい。
「出産を願ってもできない人」への配慮を訴えたつもりでいても、出産を願ってもできない人々を一つのカテゴリーとして固定化することで、そのグループが常に特別な配慮を必要とする、社会的に弱い立場にあることが強調され、固定観念が強化されることもありうる。
これって女性の弱さ傷つきやすさについての別の意味の偏見が強化されるってことでもある。
社会的に弱い立場であるとの認識が広まれば広まるほど、社会的に敏感なトピックになり(タブー化)、それついて話す際に、他者の感情や意見を過剰に気にすることになる。これにより、人々は自分の発言を自己検閲し、無意識のうちに自らの意見を抑制するようになる。
「兵隊さんご苦労さん」みたいな、何気ない表現が大衆を戦争に巻き込むプロパガンダとして一番効果があるのと似た話で、こんな配慮や遠慮、忖度の積み重ねで、誰かが傷つくのを恐れて何もいえない社会にどんどんなってしまう。
これに対して、いやいやむしろ、偏見解消は積極的にキャンペーンをやるべきだ、女性に対する偏見が解消されて、社会全体としてハラスメントが減るならそれは結構な話じゃないか、といわれるかもしれない。
しかし、実際のところ、偏見というのは、配慮すればなくなるというものでもない。
強さや傷つきやすさの男女差というのは、いってみれば偏見なんだけど、悟りを開けば自分の偏見を解消できるわけでもないし、
言論警察よろしく配慮に欠ける発言をバッシングすれば解消できるわけでもない(公言しないようにすることは可能だとしても)。
近代の黎明期に、イギリスから隣国で起きているフランス革命で、反革命派が断罪されている様をみたエンモンドバークは、
なんでも理性的に判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤバいと考えた。
偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、偏見を生かそうという考えを進めた。
それが保守の出発点なんだけど、世の中が保守一辺倒というのもそれはそれでどうしようもない社会だ。伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとだっている。
さすがに、公平性については、制度が、最低ラインとして補助線というか設計図を引かないと、いつまでも伝統的な価値とか懐古的になっててもしょうがないだろう。
ということでまあ、ジェンダー問題は、極力、制度としての公平性、機会としての公平性という観点に限定して話をするように注意しておくのがいいってことかな。
もちろん、制度機会平等を理性的に討議したとしても偏見がなくなるわけじゃない。
偏見はなくならないけど、制度の普及・概念の進歩に伴い、ひとの意識は変わっていくだろうと期待する。それだけでよく、それ以上のことはあえてしないほうがいい。
ひとはすべて進歩した価値観にもとづいて幸福を追求しなければならない、みたいなのは押しつけがましい左翼の傲慢だからだ。
「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な価値観で自己実現をしたいひとだっているんだよ。
進歩的な価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。
「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」(中島みゆき、世情)というわけだ。
私から言わせると、そういう進歩史観を押し付けようとするところがもっともサヨクのムカつくところなんだよ。
かつて反戦フォークの全盛期、学生運動が最高潮を迎えていた時期、中川五郎の「主婦のブルース」のなかにこんな歌詞がある。
息子は今夜も帰らない 私は心配で眠れない
だけど私は家庭が一番 真面目に生きるのには疲れたわ
おお 人生は悩みよ ちっとも楽しくない 恋なんてしない間にふけちゃった
わびしい夢に はかない楽しみ 思い通りには何もならない
安保世代では親ですら論破すべき守旧派だった。しかし、学生運動は結局、どの社会階層とも連帯できずにスピンアウトしてゆく。1968年に作られたこの歌はそれを暗示しているかのようだ。一方、中島みゆきの「世情(1978)」は、この10年後の70年代の世界がうたわれたもの。ひとつ前の安保世代の情熱が新左翼へと変遷、空回りしてゆくさまを見せつけられたシラケ世代からみると、左翼残党はあたかも守旧派とさして変わらない頑固さでイデオロギー打破を訴えている、という皮肉な構図になる。
今回の場合でも、産みたくても産めない人が可哀そうだなどと感情的正義で持論を補強すると、そうした表現のタブー視が蔓延し、出産に自己実現を見出している人まで遠慮しなければならない、という空気をつくるかもしれないし、他方で、女性の傷つきやすさを過度に強調することで、女性が弱い存在であるという潜在的な差別意識が助長されるおそれだってある、みたいな妙な副作用が現れる。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのをひさしぶりに思い出した。
たまにはケシカラニズムに陥っていないか自己点検でもするか。フェミニストさんも自分の偏見を認めたほうがいい思うんだよね。
制度的に不幸になっている者は救済する、しかし、偏見ある社会のなかで生きている者の幸せや自己実現は否定しない、という具合のバランスがちょうどいい。
男性社会にあって嫁として母として子供を育ててきた誇りある人生を否定するのがフェミではないと思うし。
そういう意味じゃ、左翼は保守主義のマインドも頭の片隅に入れておく必要があるし、保守派も制度的な公正について左翼の主張に耳を傾ける必要がある、といったところか。
「大日本蹴球協会杯」が84年越しに“奇跡の返還” 三田ソッカー倶楽部からJFAへ 戦争激化で所在わからず
引っかかる記事だ。
まず、”戦争激化で所在わからず”ってあり得ないだろう。まあ金属の拠出を避けたということではないのか?
このあたりの経緯をきちんと調べないのは歴史の捏造だろう。慶応大学には歴史の先生もたくさんいるわけで、きちんと経緯を調べて発表してほしい。
別に金属の拠出を逃れたことを今更どうこう言ってもしょうがないけど、それは当時はあまりフェアな行為じゃないですね。
もちろん当時OBの中でも、拠出に応じるべきというひとがいたでしょうから、そういう声をどのように出さない派のひとが対応したのかも、ぜひとも関係者の証言を探してほしいですね。まさか、当時の関係者がみんなしまった場所をなくしたわけではないでしょうし、もしかすると総意で隠したのかもしれませんけど、それはそれで一つの歴史の話でしょう。
もっと問題なのは、その後、長い間出さなかったのも理由はあったのでしょうからそれも明らかにしてほしいですね。合宿所はそれほど広いものではないでしょうし、建て替えなどもしているのでしょうから、これまで気が付かなかったというのはありえないと思いますけど。
もしかすると上記の隠したということがあるので、出せなかった、ということかもしれないと思います。こちらは関係者が経緯をしっているでしょうからきちんと話を聞いてほしいですね。
そういったこと抜きで昨年見つかってようやく今出してくるというところに、体育会のなんとも閉鎖的、かつまずい話は出さないという嫌な面をみたような記事のような気がします。新聞もそういう疑問抜きで、公式発表だけ書いていればいいのでしょうか?
ネガティブなことを書きましたが、むしろ、ぜひともこどもたちへは、サッカーをすることが禁じられたり、このようなカップを拠出させるようなことが戦争になると起こったことを教えて平和教育にしてほしいですね。
という話は抜きなのが今のサッカー界であるようにも思いますが。(反戦的なことをいっちゃあいけないみたいな風潮は日本のスポーツ界には強い、特にサッカーには強いように見えます)
反戦。戦争反対です。TVに映るものは、あんなもの戦争ではありません。唾棄すべき表面化した組織暴力です。
戦争はTVそのものです。メディアが悪いのではありません。メディアは薄汚れた媒介にすぎず、真の因果の元は我々にあります総括せよ。
戦争はコミュニケーションに端を発します。我々の会話です。口を慎んでください。そしてすべての財を投げ売ってください。財=罪。裸になってください。
男性器のある者はペニスを露出してください。女性器のある者はヴァジャイナを露出してください。どちらもない者は拳を突き上げてください。拳のないものは、叫んでください。叫べない者は狂うしかありません。見開いた視線の先に、そこに平和があります。目がなければ、そこになければないです。
「安倍三代」をゆっくりと読み進めているのだけど、安倍家の世襲に対する考え方が興味深いのでメモ。
安倍晋三の祖父は戦中も反戦を貫いた信念のある人間で、翼賛会に属さず、戦後の第一回の総選挙後に無念の死を遂げた人物である。安倍晋三の父晋太郎は、父が亡くなった際は若かったので、間に後援会が推す人物を挟んでから、山口の同じ選挙区を引き継ぎ、首相への道半ばにして病死。。安倍晋三は言わずもがなの人物である。
安倍晋三の祖父は地元の学校の校長、村長から成り上がった叩き上げの人物である。政治家になろうと自身で決めた人物であり、そのバックグラウンドには地元への愛と問題意識とがある。安倍晋太郎は地元の学校で他の子供にまじって育ちながら父のそうした姿を横目で見、おそらくは政治家として立ち上がる際の困窮も経験しながら成長していった人物である。安倍晋三に関しては、物心ついた時点で父は有望な政治家であり、東京の私立学校で良家の子弟に混じって成長してきた人物である。
政治家の世襲ということを問題にする時、わたしはこれまで二代目と三代目とをあまり区別してこなかったが、親と自身のライフサイクルや年齢を考慮すると、「生まれながらの政治家」として育ってきたデメリットが大きく働くのは3代目以降であると言えそうだ。
政治以外の世界でも「3代目の社長が会社を潰す」とか、すこし毛色の違う例では「三代続いてからが江戸っ子」みたいなのも、同じ話なのかなあと思う。
興味深く読ませてもらいました。そもそもこんな殴り書きにわざわざ言葉を綴ってくれてありがとうございます。
>一方で現実の戦争体験は反戦平和を訴えるという決まり切った文脈・パッケージでしか語りようがなかった。
こうした語りすら許されていないのが自死遺族だと思っている。だからこそ、
>我々は同じ空間を生きてるようでそれぞれ別の宇宙にいるということだ。
自分と同じ宇宙にいる人が本当に見つからない。自治体主催の当事者の会みたいなのも出たけど、ものすごく心が動いてしんどいから行かなくなった。(あと当事者の会の人間関係も気になるところがあった)
コメントを読んで自分でも返信を書いているうたに気づいたんだけど、自分は配慮してほしいというより、「配慮しろ!」と叫んだり、「被害者がいるんだから配慮したほうが良いのでは?」と知らん人に気にかけてもらえるのが羨ましいんだと思う。
にくもり?安藤?と言えば、のちの思想検事の小山松吉法相告発事件、偽証言で政友会代議士を騙し虚偽告発をさせた赤坂の女将、大臣たちの妾
1934-4-13 - 全米大学生連盟、戦争反対軍縮維持の示威ストライキ2万5千人 / 小山法相誣告罪の岡本一巳、逮捕
戦争を体験した世代、眼の前で戦友がバラバラのグチャグチャになったり家族全員黒焦げになったり自分自身も体が不自由になったりしたその人びとは
戦争は絵空事のフィクションの種としてさんざん消費され、一方で現実の戦争体験は反戦平和を訴えるという決まり切った文脈・パッケージでしか語りようがなかった。
その莫大なフラストレーションや怨念はどこに行ったか?といえばどこにも行かなかった。それぞれがじっと抱えて生きて死ぬしかなかった。
「戦争体験に比べれば自死遺族なんかあまっちょろいよ」という話をしてるわけではない。
我々は同じ空間を生きてるようでそれぞれ別の宇宙にいるということだ。多重露光みたいに別々の世界が重なって見えているだけなんだ。
上っ面の「配慮」なんてあってもなくても大した違いはない。
戦後日本のはずなのにやたら現代的な価値観で動く脚本が評価されたわけでもないのに
「物語に貢献してるからな―。反戦のストーリーにゴジラの恐怖が貢献したからな―」
みたいなコト言ってるの……なんなん?
外人「やぱーりHOUSHA-NESSENNデースよねー」
ってだけの賞でしょ?
なんか勘違いしすぎじゃないの?
ゲームのレビューで「音楽は最高に良かった」ってコメントが並んでたら、それは逆に「あっ……ストーリーやゲーム性は……」ってなるでしょー???
世界中の人権教育反戦教育自体は合理的で劇薬じゃないはずなんだが、日本の戦後の反戦教育はひどいからな
ただ学生運動もどうだろうね、日本人が挫けた政治無関心のきっかけは安保理反対運動と言われているが、安保理をやめさせるなんて無理だと理解できない学生運動当時の日本人の知能の低さが根本的な原因だよ
ちょっと英語がわかって国際社会情勢に興味があれば、日本軍の野蛮さは当時の価値観ですら受け入れられないほどに突出してたから。
安保理なしにあんな野蛮大日本国家の野放しを許す政治家なんて政治家やめたほうがいいわけ
野蛮国家は必要に迫られてるわけでもないのに意味不明なことを言って自国民を抑えきれずに戦争仕掛けてくるでしょ
表現規制に関する議論で「自殺すれば殺されずに済む」理論を唱える連中が多くてマジで辟易する。
「過激な」水着やポーズもNG 県営公園での水着撮影会新ルール公表:朝日新聞デジタル のブクマ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASS356S3FS35UTNB00G.html
規制の不在や曖昧さをタテに「自由に」やった結果がコレ。オレは「規制派」だが、これは最悪に近い落としどころと思う。行政の介入の口実を与えただけだ。こういう事態を避けるために自主的な規制は行うべきなのよ。
典型的な、「自由」より「行政に介入されないこと」の方が重要だと言っている例。
群馬の森の朝鮮人追悼碑も、自主的に撤去していれば、行政の介入(代執行)は無かっただろうね。
単なる偏見。
この件で得られたのは公共施設でバカがチキンレースやると行政が無駄なルールを作らなければいけなくなる、という当たり前かつ不毛な教訓。なぜ過激なのがダメなのか説明しろやって人らが他者の自由を奪ってる。
そうだね、各地の公共施設で行われ、自治体の冠付けが行われてきた反戦、平和、歴史認識問題に関する催し物について、行政がルールを作って排除するようにしてきましたけど、素晴らしいことなんでしょうね。
表自界隈が毎度の如く暴走した結果、アホな規制を呼び込んでしまった例がまたひとつ。暴走族が二輪通行規制を呼び込むのと同じ。
黙ってたら、単に排除されて終わりでしたね。
日本共産党が破防法(規則)に基づき監視されているのは、日本共産党が悪いってことですね。
そうだね、ちゃんと社会の暗黙のルールに逆らわずに生きてくださいね。
左翼が騒ぐから、警察が細かいルール決めざるを得なかったんですね。
自由を「俺らのやり放題」と曲解すると首を絞めるという話。社会性に欠ける表自戦士は他者の存在という観念がないので公共を私物視する。逆に他者の政治主張を排除したがるのも公共空間を私物と勘違いしているから。
そりゃ、最初から水着撮影会なんかやらなければ規制もされないですけど、それって意味あるんですか?
あと、公共において、一方の自由を「私物視」として、別の一方の「政治主張」をたれ流すことはそうではないとするのは、非常に恣意的ですね。
社会的調整の領域でコンセンサスを取る努力をしないで「禁止されてること以外は全て自由だ」というスタンスで好き勝手やってると、結局その中間領域もどんどん統制側がコントロールするようになるのよね
正義や道徳を笠に着て、政治的圧力をかけてくる民主集中制の連中は交渉不可能でしょ? こっちが譲歩したら許すの? そんなわけないでしょ?
「コンセンサスを取る」って、人民裁判でコンセンサスを取るのは屈従しかないですからね。まだ、行政のルールのほうがなんぼかマシでしょ。役人は憲法擁護義務があるし、変なことをすれば裁判で負けるからね。
良識に照らせば判断できるものをバカの振りしてナイナイしてきた馬鹿どもがこういうルールを呼び込む。馬鹿は表現の敵でしかない。
なるほど、良識に照らせば、慰安婦などの歴史認識問題についての展覧会については判断できるでしょうね。(なんせ、各地で排除されてきてますからね)