はてなキーワード: 危機意識とは
こちらのサイトを見てもわかるが、総大将の後ろを見張るようにして、後詰を配置している。
後詰は副将級の武将が担当することが多く、2つ以上の軍勢で守ることもあるようだ。
https://www.touken-world.jp/tips/18700/
関ケ原では家康本陣は桃配山に陣取っており、万一に備えていたことがわかる。
http://tanaka-takasi.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/index.html
犯人が立っていた場所の左側には、本来、警察車両が配置されているべきだったというものである。
警察車両にはカメラも配置され、かなりの抑止効果があったはずである。
https://www.youtube.com/watch?v=HreN31RMoAY&ab_channel=%E6%97%A5%E3%83%86%E3%83%ACNEWS
また伊藤氏によると、本来立っているべき警察官の数が絶対的に少なく、
・警備人数、警備車両の手薄さ
また、手薄であればそれなりの危機意識で防御態勢を築くことはできたと思う。
SPと警官が10人以上いたということだが、一人も後ろを配慮することなく、前方だけ見ていたのは本当に奇妙である。
ガードレールに囲まれ、街宣車を乗り入れることもできず、高さが利用できない。
見晴らしがよく、鉄砲隊からすれば「撃ってくれ」といわんばかりの場所である。
また風水・方位学的にも、あのような踊り場はよくない場所といわれる。
クルマによる四方からのエネルギーが交錯する場所であるからである。
興味がある人は実際に訪れたり、Googleマップで調べてみるといい。
戦国時代の勝敗が、布陣で決まるのと同じ結果となってしまった。
やはり今回の最大の犯人は、あの無防備な平地を指定した人間だと思う。
もし、ビルを背に向ける布陣や、階段や車両の上に乗る高さのある布陣だったり、
いついかなる時でも、戦闘できる体制を作る必要があるのではないだろうか。
そのためには自衛隊の培った軍事知識を、警察庁・海上保安庁にシェアし、高いレベルの調練を繰り返すことだと思う。
また、我々はそうした報道を通して、常に戦時状態を認識し、危機感を持つことが必要である。
多くの現場を見てきた伊藤氏からは、ある程度、疑いの目をもって不審者を見抜くことも重要だと分かった。
性善説の日本人は素晴らしい民族だと思う。しかし、もはやそのフェーズではない。
サイバーセキュリティによる企業攻撃だけを見ても、ここ2年で数倍に増えているのである。
先日の駅員の大声で叱る動画は物議をかもしたが、
テロリストに対するあのような公然・毅然とした態度が、日本人に求められている。
こちら、岸田首相の警備であるが、ガラリと変わって、高いレベルのものになっている。
このレベルの緊張感さえあれば、日本を守り抜くことは絶対にできると思う。
自衛隊・警察・民間警備業、すべての関係者の仕事をありがたく思う。
https://www.youtube.com/watch?v=8qVWxMYLVxg&ab_channel=ANNnewsCH
どうも自作の銃は、2発装填しかできない「一発必中」タイプだったようだ。
一発目の派手な空砲で振り向かせ、ミスしたとしても2発目で振り返ったところを仕留める、という、
宗教団体への私怨、といった情報錯誤で混乱させるところも訓練で織り込み済みなのだろう。
1発目で肩をすくめ、あたかも他人事のように緩慢に振り向いて硬直している。
レーガン氏の暗殺未遂事件では、後ろに配備していたSPが1秒以内に車に押し込んでいる。
https://www.youtube.com/watch?v=31Q52_rc2IA
もしSPもしくは県警が同じように動いていたら、確実に救われた命である。
18歳の目撃証言者によれば、3~4秒の間に犯人は間合いを詰めて、致命の2発目を撃ったようである。
その3~4秒というのは、SPが命を張って元首相に飛びつくのに十分な時間であると思う。
2007年以降、同様のテロ事件が起きていない平和な日本で銃撃など起きるわけがない、
テロリズムに付け入る隙を与えた、恥ずべき職務怠慢であるとしかいえない。
先日の尼崎USBメモリ紛失事件も、20年に渡って多重委託が行われており、
結果として重大事故となった。
連日の企業へのサイバー攻撃もそうだが、本当に日本の国防意識の甘さを露呈してしまった。
しかし、曲がりなりにも彼らはSP、シークレットサービスなのだから、
弾丸の音に首をすくめて、のそっと突っ立っていた事実は、まったく言い訳ができない。
ただ要人の横に立ってにらみを利かせていれば良い仕事と思われていたのではないだろうか?
かつて明治維新直前の日本は、欧米の外国人商人や政府関係者が多数来日していた。
「我々のもつ短銃は、サムライの日本刀・居合術の前には無効である」
ということもよく知れ渡っていた。
中距離から一瞬で間合いを詰めて致命の一撃を食らわす日本刀は、非常に恐れられていた。
またそれは武士階級の持つプライドとセットであり、常に死と隣り合わせの緊張感を持っている、
中にはそういう知識がなく、日本刀と居合術を軽視して、斬撃にあって命を落とす外国人もいた。
被害者は蛮勇で挑戦的な性格があったといわれ、大名行列に馬で突っ込んだ。
馬頭を何度もひねって列を乱したため、数秒のうちに2名が切りかかった。
1撃目の袈裟懸け斬りで硬直させ、逃げようとしたところを下方向から顎に向けての深い抜き身の一撃で致命傷を与えた。
ほぼ一瞬の出来事であったろう。
また、92年の金丸氏銃撃事件では、周辺の日本人は、瞬間的に犯人を捕らえるために動けている。
まったく訓練を受けていない議員ですら瞬時に犯人を取り押さえている。
この時期はまだ平和ボケしていない、日本人らしい俊敏な所作ができていたということだろう。
このように、日本人は危機意識さえあれば、極めて統率性の高い武力・俊敏性を本来的に持っている。
今回の問題は、銃社会でない日本において、どう対処すればわからなかった、というのが本音だろう。
しかし、本当に任務意識があれば、首相に飛びつくなり、防弾カバンを投げつけるなり、
いくらでも「動けた」はずである。それを怠った3~4秒で、運命は決まってしまった。
まるでゆったりとした刈り入れ期の終わった農民のような所作で、武士の動作などみじんも感じられない。
偉大な宰相を失わせてしまった罪は大きく、世界に恥を晒し、まったく恥ずべき対応であった。
物理戦闘だけでなく、サイバーセキュリティや経済戦争など、多方面で防御力が問われている。
攻撃は最大の防御ともいうが、そのためには「自衛を想定とした先制攻撃訓練」も必要ではないだろうか。
まさに上に述べた、1人で5人を相手にできる居合術・抜刀術のようなことがそれである。
銃社会でない日本には、銃以外に適した短距離戦技術があるはずである。
それを研究してもらいたい。
全市民46万人余の個人情報入ったUSBを紛失 兵庫 尼崎市が発表
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220623/k10013684811000.html
兵庫県尼崎市は、すべての市民46万人余りの個人情報が入ったUSBメモリーを紛失したと発表しました。住民税の額や生活保護の受給に関する情報などが含まれているということです。
尼崎市によりますと、USBメモリーは、新型コロナの影響で生活に困窮した世帯に支給する給付金に関する給付業務を委託していた業者が、21日、紛失したということです。
USBメモリーには、46万人余りのすべての市民の、氏名や住所、生年月日などのほか、住民税の額、生活保護の受給に関する情報などが含まれていました。
業者が市の許可を得ず、USBメモリーで個人情報を持ち運び、大阪 吹田市にあるコールセンターでのデータ移管作業を行ったということです。
作業の終了後もデータを消去せず、USBメモリーを持ったまま飲食店で酒を飲んだ際に、USBメモリーが入ったかばんを紛失したということです。
市は、USBメモリーにはパスワードがかけられていて、これまでに個人情報の外部への漏えいは確認されていないとしています。
市は謝罪したうえで「セキュリティマネジメントを徹底していくとともに、個人情報保護の重要性について改めて周知を徹底し、職員の危機意識を高めるなど、信頼回復に全力を尽くします」としています。
訴訟だろうなあ
そこには目を血走らせた平均的な小学校高学年男児程の体長のボノボの群れが人間を生きたまま喰らってる様子が写っていたのだ! しかもその中心に映っている人物の顔にはモザイクがかけられていた。しかし美和子にはすぐにそれが誰なのか分かったのだ。
「これ、やっぱり…!?」
そう言うと美和子は、全身から力が抜けていくのを感じた。
「なぁにそれ?」
時江がそう言って首を傾げた。美和子の目の前にあるタブレットPCを不思議そうな目つきで見つめながら。
ここは、美和子の自宅マンションのリビングルーム。時刻は午後三時過ぎ。天気はよく晴れ渡っていて、何をするにもいい天気だ。
美和子は時江から送りつけられたボノボの群れの写真については話した。ただし、「黒魔女伝説の事について調べようと思って」という言葉は伏せておいたのだが。
時江は興味深そうに美和子の説明を聞いている。だが、やがて納得したのか小さくうなずいた。そして言った。
「なるほどねー、そういうことだったのねぇ」
「えっ?どういうこと?」
時江の反応が思っていたものと違ったので思わずそう聞き返した。
「あのね、うちの実家で働いてた人の中に一人変り者がいたんだ。何というのか、こう、妙なこだわりを持ってるというか……。そう、たとえば、こんな感じかな」
時江はそう言いながら、左手の掌の上に右の拳を乗せてみせた。そして続けた。「たとえばね、ある物を見て『これはいいものだ!』と思うとする。するとね、必ず『この商品の良さはそれだけではない、この商品の魅力はもっと別のところにある、つまりは』なんて、やたら長々と解説し始めるんだよ」
時江の言葉は美和子にとってとても分かりやすいものだった。美和子にもそういった経験があったからだ。
だが、時江の様子は明らかに変だ。
美和子のロシアで培われた危機意識がフル稼働し始めた。美和子はソファから立ち上がって後退りした。
「じゃあ、あたし、そろそろ失礼するわね」
「どうしてよぉ?」
時江は不満そうだった。しかし、だからといって引き下がるわけにはいかない。美和子は必死になって笑顔を作った。すると時江は悲しげな表情になった。
「そう…やっぱりあのボノボの群れの写真が良くなかったのね…」
時江が操作している間、美和子は何気なくその様子を見ていたが、すぐに後悔することになった。
そして、時江はその写真を拡大した。
そのせいで再び、目を血走らせたボノボの群れが人間をむさぼり食う様子を見てしまった。
美和子はあまりの出来事に絶句していたが、やがて我に返ると聞いた。
――黒魔女秘法書?そんなものが本当に存在するっていうの!?でも……まさか……
その考えを頭の中で否定しようとする美和子だったが、どうしてもできなかった。
なぜなら、その昔、自分の父が語ってくれた昔話の中の世界が、目の前に広がっているような気がしたから。
いや、それはもう、ただの昔話などではなく、実際にあった出来事なのだ。
その考えが頭の中に浮かんでくると次第に心臓の鼓動が激しくなり始め、ついには胸が苦しくなるのを感じた。
先日、日本のサイバーセキュリティの司令塔である内閣サイバーセキュリティセンター(NISC=ニスク)の関係者に話を聞いたところ、「各省庁の調達時に、ある特定メーカーを名指しして排除はしていない」と言うのだ。さらに2020年12月に平井卓也デジタル改革担当相(当時)も記者会見で「我が国のこの申し合わせでは、特定の事業者とか機器を名指しで排除するような記載はしていません」と発言している。
「機会均等という観点で、調達にも特定の企業を排除するということはしないのが防衛省。さらに備品などもなるべく安く購入できるならそちらを選ぶこともあり、セキュリティがトッププライオリティになっていない現実がある」
さる自衛隊関係者も最近、「これだけ(スパイ疑惑が)言われているのに、職員に中国系のメーカーのノートパソコンが配られて唖然とした」と嘆いていた。
ロシアの例をとってもそうじゃん
憲法的にはプライバシー権、思想の自由を侵害しており不法に当たるので損害賠償を請求できるはず。
請求額は睡眠妨害が拷問に当たるとの判断があるので、このような症状が証明できれば決して安いとは言えない。
さらに、思考盗聴送信が人体に与える不快感およびそれに伴う一般国民の危機意識から非常に特別な裁判となり重い罪にならざるを得ない。
思考盗聴自体を対象とした刑罰条文はない、特別法には似たような物もあるが思考盗聴を仮定していないので実務家・学者レベルで刑罰条文に該当するか議論になりそう。
犯罪後に刑罰条文ができても処罰することはできない(遡及効の禁止)が韓国など民主主義の発展が遅れている国はこの遡及効という国際的原則を無視する事もある。
今すぐにできる対策はない。
現状で最良なのは、被害者で大規模な集団を構成し、政治や司法への圧力を与え、被害の実態とその危険性をマスコミなどを通じて一般社会に認知させ、
被害者への支援体制の確保、処罰法の制定、正確な関連知識・技術の収集、政治的権力・経済的権力の取得等を目指し、行動するのが最善。
こんなもん地上で爆発したらどうなるねん
https://www.youtube.com/watch?v=wtthhilAO3Y
昭和17年(1942年)5月、日本軍の攻勢により推移していた太平洋戦争は、後に戦局の変わり目として位置づけられる事になる「ミッドウェイ海戦」を目前に控え、重要な局面を迎えていました。
しかし、戦時中とは言え普段とほとんど変わらない生活を送っていたここ下湧別村の漁民にとっては、そんな国家の重大事など知る由もなく、折しもオホーツク海沖合に現れたニシンの大群の行方が目下の関心事でした。
ニシンの豊・不漁はその年の村民の生活水準にそのまま直結するため、その群の到来に村はにわかに活気づきます。
そんな5月17日、その日も沿岸では村の漁師たちが総出で網を仕掛けていましたが、その作業中に一人が波間に浮遊する金属製の樽状の物体を発見します。
そして、素人目から見ても異様な雰囲気を醸し出すその”水に浮く不思議な鉄の塊”がおそらく「機雷」であろう事に彼らが気付くまでにはそれほど時間はかかりませんでした。
思わぬ危険物の漂着に漁場は騒然となりましたが、「これが機雷であればなおさら放置しておく訳にもいかぬ」との”勇気ある”漁労長指示により網に掛けながらひとまず浜まで引き揚げる事にします。
数十分後、幸い移送途中で爆発する事もなく「ポント浜」の砂上に”恐る恐る”陸揚げされた直径約1.2m・長さ約1.5mの機雷と対峙した一同は、まず警察への通報が先決との判断により代表者が市街地にある派出所へと向かいました。
ところが、その時派出所では村の東側に隣接する「サロマ湖」内で時を同じくして発見された”もうひとつの機雷”を巡って既に大騒動となっていたのです。
”国籍不明”の危険物が二つ同時に漂着したこの”大事件”については、一帯を所轄していた「遠軽警察署」を経て直ちに「北海道庁警察部」へ連絡が取られましたが、意外にも警察部からの回答は「所轄署責任において爆破処理せよ」というまことに素気ないものでした。
実は北海道の特に日本海沿岸地域における浮遊機雷の漂着は当時それほど珍しくはなく、これまでの事例では当該所轄警察署の手によって難なく処理されていたという事実が、先の無関心とも思える本部指示につながる訳ですが、当地では前例がなく、ましてや爆発物処理の専門知識もない遠軽警察署としてはその対処方法に頭を悩ます事になります。
その後即刻開かれた署内幹部会議上では「軍の協力を仰ぐ」という策も提案されたものの、遠軽警察署長としては「他の署が自力で処理しているレベルの事案について他所の助けを乞う」などその自尊心が許しませんでした。
こうして、意地でも地元の手によって行わざるを得なくなった作業は約1週間後の5月26日午後1時に決行すべく、二つの機雷を「ポント浜」一箇所に集め、遠軽警察署の監督の下、その運搬・管理を地元警防団(警察や消防業務を補助する民間組織)に、そして爆破処理を管内にある「生田原銅山」の”発破技師”に依頼する事が正式決定されました。
しかし、この時署長の頭の中ではこれを機にもうひとつの”とんでもない”計画が進行中だったのです。
ここ下湧別村をはじめとする遠軽警察署所轄管内では普段大事件が発生する事もなく、平穏であるがゆえ警察署長の立場としては至って”退屈”な日々を過ごしていました。
また、生活のため日頃と変わらず農・漁業に勤しんでいる人々が、署長の目には「戦時中にも拘わらず危機意識がない不心得者」のようにも映っていました。
そこで、この機雷爆破処理作業を一般に公開、爆発の威力を見せる事で庶民の「戦意」と「国防意識」を高めると同時に、警察の威信を確固たるものにするべく画策していたのです。
かくして、村役場などを介し回覧や口コミで村内はおろか近隣地域にまであまねく周知されたこの”一大イベント”は、物珍しさも手伝っていたずらに人々の興味をそそり、更には当日わざわざそのために臨時列車が手配された事もあって、その日は爆破時刻の午後1時に向けて老若男女合わせて一千人規模の見学者が各地から現場へ向かっていたと聞きます。
さて、決行2時間前の5月26日午前11時頃、現場のポント浜では遠軽警察署長以下警察官9名と、署長命令によってなかば強制的にもれなく召集された下湧別市街及び近隣集落の警防団員約150名が事前集結していました。
二つ並べられた機雷を前に、あとは生田原から火薬の専門家が到着するのを待つばかりでしたが、しかしここに至って爆破方法を巡り現場が混乱する事になります。
通常、機雷の爆破処理というのは水中において一つずつ行われるのが定石であり、その日もそれに従って実行される予定でしたが、当日になってその事実を知る事になった漁業本職の警防団からの猛反対を受けます。
というのも、海中での爆破は一帯の魚介類を死滅させる恐れがあり、それは漁民にとっては明日からの生きる糧を失う事を意味しました。
彼らにしてみれば死活問題だけに警察側からの再三の説得や恫喝に対してさえ一歩も退く事は出来ず、しばらくの”攻防”の末、漁師たちのあまりの頑強さについに根負けした署長は陸上処理への変更をやむなく了承します。
粘った甲斐あって勝ち取った結果に安堵した警防団員たちでしたがその代わり、陸上で爆破するには現在近過ぎる二つの機雷を、誘爆させない距離として設定された約50mの間隔まで引き離す作業が待っていました。
こうして気乗りしないまま予定外の力仕事をする羽目となった彼らの心中には、これらが「既に機能を失った不発弾に違いない」という思いが一様にあったようです。
発見されてから1週間まったくの変化も見せなかったこの”錆びた鉄塊”に対して徐々に警戒心が薄れていった事に加え、ことサロマ湖から運ばれてきた方には、実は数日前に”命知らず”な村の鍛冶屋によってあろうことか持ち寄ったハンマーで叩くという危険極まりない試みがなされていますが、結果その衝撃にもびくともしなかったという事実も、「もはや危険ではない」と彼らを暗に確信させる要因になっていたのでしょう。
それぞれ多忙な仕事が待つ警防団員たちにとって、本業もままならない毎日を無理強いするこの”いまいましい敵”への扱いは、そんな思いもあってか最初と最後では大きく異なっていました。
初めこそその取扱いには慎重を期され、移動も衝撃を与えないように砂上をゆっくり”引きずる”方法がとられていましたが、この段階では労力を惜しんでか本体にロープが巻きつけられ無造作に”転がされて”いたと言います。
しかしやがて、鍛冶屋の”無謀な挑戦”を受けていない方、つまりオホーツク海で発見された機雷が、軟らかい砂から馬車道の硬い轍(わだち)の上に転がり出た瞬間…それは既に浜に到着していた気の早い数百名の”観衆”が見守る中で起こりました。
今まであれほどいかなる反応も示さなかった機雷が、まるでこの時を待っていたかのように火花一閃、大爆発を起こしたのです。
そもそも軍艦をも爆沈させるほどのその破壊力は当初の想像をはるかに超えるもので、破片は爆風に乗って障害物がない砂浜の中を数百メートルに渡り飛散、傍らにいた警防団員や警察官は言うまでもなく、一応安全を考慮して遠巻きに置かれた一般見学者の多くも無事ではいられませんでした。
爆発による黒煙が消えた後には、直径10m・深さ3mの穴と共に、周辺に斃れたおびただしい数の人々が残され、そのほとんどは瞬時にしてその命が失われたであろう様子が一目で判るほど現場は凄惨を極めたそうです。
現場から4kmほど離れた下湧別市街地でさえもその轟音と震動に激しく揺れたと言われるこの前代未聞の機雷爆発事故においては、死亡者112名・重軽傷者112名という未曽有の惨禍を見る事になりました。
そして、この”公開爆破”を企画した遠軽警察署長や、直前において爆破地点を変更させた警防団の代表者も、その過ちを悔やむ時間すら与えられないままこの日帰らぬ人となっています。
この大惨事により現場に居合わせた警防団員のほとんどが死傷し、下湧別村は多くの”働き手”を、そして家族にとっては一家の”大黒柱”を一瞬にして失いました。
「一体誰のせいでこんな事になってしまったのか」…機雷を放った知らざる敵か、現場に丸投げした道庁警察部か、それとも無謀な計画を立案した警察署長あるいは陸上処理を主張した警防団員か…もはやそれをぶつける相手もいない中、人々の行き場をなくした怒りと悲しみだけがポント浜には残されました。
合掌
そのうちお父さんを忌避するとか、いつかは他の男にとか、そんなのはライフステージ上の選択だ。
でもそんなことを心配する以前に、都市部に生まれた子は、最初の性的体験を性犯罪で行わされるのだ。選びも好みもせず強制される。
知らないわけはない。通学、通勤時に電車を使って痴漢されたことの無い人は少ない。
大勢が声をあげれば、車内監視カメラくらい設置されるだろう。公共の場だから人権侵害でもない。でも拒否する声が大きいから行われていない。
ちょうど性依存の増田が上がっているが、電車内の性犯罪行為はそもそも発見されにくいから、止めなければならないという危機意識も生まれにくい。病識の無い人は治療できない。
他者の身体に合意無く接触する行為が漏れなく咎められれば、行わずに済む人もいるし、一人が行わなければ何十、何百の人権侵害が未然に防がれる。
でもやらない。
何もしない結果として娘が性犯罪に遭っても構わない。
何が愛だ。自分の視界にかわいいものがあればいい愛玩趣味じゃないか。その子が視界の外でどんな目に遭うか、知っていても目をそらす。
その積み重ねで今がある。すべての親を許さない。すべての人が許されていいはずがない。
子どもの食について考えてみませんか?(写真:プラナ/PIXTA)
食品添加物の現状や食生活の危機を訴え、新聞、雑誌、テレビにも取り上げられるなど大きな反響を呼んだ『食品の裏側』を2005年に上梓した安部司氏。70万部を突破する大ベストセラーとなり、中国、台湾、韓国でも翻訳出版され、いまもなおロングセラーになっている。
その安部氏が、『食品の裏側』を発売後、全国の読者から受けた「何を食べればいいのか?」という質問に対する答えとして、このたび『世界一美味しい「プロの手抜き和食」安部ごはん ベスト102レシピ』を上梓した。15年の間に書きためた膨大なレシピノートの中から、たった5つの「魔法の調味料」さえ作れば、簡単に時短に作れるレシピを厳選した1冊だ。
発売後、たちまち6刷5万部を突破し、各メディアで取り上げられるなど、大きな話題を呼んでいる安部氏が「子どもの食生活に迫る危機」について語る。
『食品の裏側』がベストセラーとなったことで、私は講演会や食育セミナーに招かれ、全国を飛び歩くこととなりました。そこで私は「家庭で今、なにが食べられているのか」、その実態をうかがい知ることになります。
『世界一美味しい「プロの手抜き和食」安部ごはん』にも書いたことですが、衝撃的だったのは、「手作りのおにぎりを初めて食べた5歳の子ども」でした。
『世界一美味しい「プロの手抜き和食」安部ごはん ベスト102レシピ』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします。紙版はこちら、電子版はこちら。楽天サイトの紙版はこちら、電子版はこちら)
ある保育園の食育講座で、「おかか入りのおにぎり」を作ったときのことです。それを食べた5歳の子どもが「おにぎりってこんなにおいしいんだね」と言って感動しているのを、保育士さんが「よかったね」と言って抱きしめて泣いているのです。
その子は「手作りの温かいおにぎり」を5歳になって生まれて初めて食べたということでした。おにぎりとは「コンビニの冷たいおにぎり」であって、手作りのものを食べたことがなかったのかもしれません。
別の保育園では「味噌汁が『臭い』と言って飲めない子どもがいる」という話を聞きました。
給食に味噌汁を出すと「こんなものは飲んだことがない」「変なニオイがする」と言って飲めない子どもが、毎年必ず何人かはいるというのです。
子どもたちの食生活の実態がどうなっているのか、疑問に思った私は、機会があるたびに子どもたちに「今日は朝ごはんに何を食べてきた?」と聞くようにしました。
「ご飯とみそ汁と焼き魚」「トーストとハムエッグとサラダ」などという、いわゆる一般的な朝ご飯を食べている子どもももちろんいましたが、それはむしろ少数でした。
多かったのが「菓子パン」。それと「インスタントのポタージュスープ」という組み合わせも多くありました。
なかでも好まれているのはコーンポタージュで、「冷凍のタコ焼き」「ロールケーキ」というパターンもありました。
それから、これはあるお母さんから聞いたのですが、その家では朝ごはんに「(冷凍食品の)餃子」を食べると言っていました。
そのお母さんは、「餃子はお肉、野菜、小麦粉と、栄養バランスが一番いい。この(冷凍食品の餃子)1品で必要な栄養が摂れます」と胸を張っていました。それは確かにそうかもしれませんが……、私は返答に困ってしまいました。
これで驚いてはいけません。さらに驚いたのは「カップ麺の牛乳戻し」です。カップ麺をお湯で戻すのではなく、熱々に沸かした牛乳で戻して食べるのだそうです。
「なぜそんなことを?」と思いますよね。「お湯を使うよりも、牛乳のほうが栄養価が高いから」だそうです。
朝からカップ麺ではあまり体によくないから、牛乳を使うことで罪悪感を帳消しにするということでしょうか。とにかくそれが「5歳の子どもの朝食」だというのです。
返答に詰まるどころか、絶句してしまいました。「朝から冷凍餃子」の朝食が立派に思えたほどです。
「カップ麺の牛乳戻し」は極端な例としても、私が気になったのは、朝から「甘いもの」を食べる子どもがとにかく多いということです。
「朝はパンです」といっても、よく聞いてみると、食パンではなくて「菓子パン」なのです。「あんパン」や「メロンパン」「デニッシュ」といったものです。
親も朝は忙しいから、トーストを焼く時間も惜しい。菓子パンなら買っておいたものをそのまま食べさせられるから便利だということでしょう。
「食パン」という人もいましたが、「マーガリンと砂糖を混ぜたものを塗る」「チョコなどの甘いスプレッドを塗る」などのパターンが多いのが印象的でした。
それに呼応してかどうか、今は市販の食パンもビックリするほど「甘いもの」が多いと感じています。糖分をたっぷり入れていて、菓子パンと変わらないほどの甘さになっています。
折しも「高級食パンブーム」だそうです。店によっては行列ができるほどの人気だといい、メディアでもよく取り上げられています。
どの食パンも「しっとり、モチモチ」がウリだそうですが、あれは私などに言わせれば糖分と油の入れすぎで「じとっ」としているとしか思えません。
「何もつけずにそのまま食べてもおいしい」というけれど、あれだけ糖分と油が入っていれば、何もつけなくておいしいのは当たり前です。
いずれにしても、私が食品加工の現場に立っていた現役時代からは考えられないほどの糖分の使い方です。
それをみんな「おいしい」といって奪い合うように食べているのです。昔ながらのオーソドックスな食パンは、姿を消していく運命にあるのかもしれません。
日本人が糖分を摂りすぎていることについては「日本人の体を壊す『隠れ糖質』とりすぎの深刻盲点」に書いたように、かなり深刻な問題だと私は思っています。
ましてや、子どものうちから、糖分をたっぷり体に入れることがどんなにリスクが高いか。親御さん方には、ぜひ危機意識を持ってほしいと私は切に願います。
しかしこの話をすると、「うちは子どもの自主性を大事にしたいから」とおっしゃる方がいるのです。つまり、子どもの食べたがるもの、好きなものを与えることが、「子どもの自主性」を尊重することになるというのです。
たとえば子どもが野球をやりたいというなら野球をやらせてあげるとか、ピアノが習いたいというならピアノを習わせるというのは、確かに自主性を大事にするということでしょう。
でも、それと「好きなものだけを食べさせる」のは根本的に違う話です。「子どもの好きなものだけを食べさせる」のは、たんなる「好き嫌い」をさせているだけです。
「野菜を食べないと、栄養が足りなくなって元気が出ないよ」「魚を食べると頭が良くなるよ」などと教えるのが家庭教育ではないでしょうか。「子どもの舌を作る」のは親の教えなのです。
好きなものを好きなだけ食べさせる食生活を続けたら、子どもの味覚はおかしくなるに決まっています。
全国を回って、子どもたちの味覚がおかしくなっていることに危機感を覚えた私は、「令和の時代の和食のバイブル」を目指し『安部ごはん』を出版しました。
家庭で「手作りの和食」を増やすことが大事ですが、面倒で手間のかかる作り方では、誰しも忙しいので、作ってくれない。そこで「5つの魔法の調味料」を考案し、「これさえあれば、おいしい和食が簡単に、時短で、誰でも失敗せずに作れる」レシピを開発しました。
「子どもの舌」は発達途上です。今ならまだ取り戻せます。そのためにはやはり「和食」で、「天然のだしを使った和食」を食べさせることが一番だと私は思うからです。
「だしの素」をやめた家族に起きた変化
私の講演を聞きに来たことがきっかけで「だしの素」をやめたお母さんがいました。昆布とかつおぶしで、だしをとるようにしたのです。
「だしの素をやめたい」という人に対して私がいつもアドバイスするのは、「徐々に切り替える」ということです。
「だしの素」をいきなりやめると、必ずと言っていいほど家族から「おいしくない」「味が薄い」と文句が出ます。だから、最初は少しずつにして、徐々に切り替えることが大事です。そのお母さんもそのとおりに半年かけて「だしの素」をやめたのです。
ところが、半年後にそのお母さんの妹さんが来て「今日はおばちゃんがご飯を作ってあげるね」ということになったそうです。
妹さんは台所に残っていた「だしの素」を使ってみそ汁を作ったそうです。その味噌汁を飲んだ子どもたちは「いつもと違う」「後味がもわっとしておいしくない」と言い出したそうなのです。
わずか半年で、子どもの舌は「だしの素」ではなく、「天然のだし」をおいしいと思うようになっていたのです。
これはだしの話ですが、もちろん糖分、油分についても同じことです。「正しい味」を教えれば、必ず「子どもの舌」は取り戻すことができます。そうすれば自然と「甘すぎるもの」「油っこすぎるもの」「人工的なつくられた味」を遠ざけるようになります。
「頭」ではなく「体」と「舌」を変えることが「糖分や油分のとりすぎ」を減らす、確実な、そして大きな一歩になります。
18時半くらいまではそんなに混まなかった。最近、フリーター女子アルバイトさんがお水風俗の世界に片足を突っ込みたがっている、という話をAさんとする。まだ未成年だと諸々の支払いが来ないので、気軽な気持ちで大金を稼ぎたがるのでは? とAさん。なるほど。今時はキャバクラとかでも雇用契約を結ぶ時にマイナンバーを要求されたりするんだろうか。仮にそういうのが無かったとしても、最近は税務署が厳しいので、稼いだお金を銀行に預金したことがきっかけで脱税がバレるとかありそう。税金払ったら夜の仕事なんか、やるだけの価値があるほどの手取りは残らなさそうだ。そんな話をした。
19時を過ぎた頃から、家族連れがやたら多く来店。別に、良さげな一番くじがあるとか、アイスやお菓子を何個か買うと良いものが貰えるキャンペーンとかをやっている訳でもないのに。
小さな男の子数人と女の子を連れた一家が来店。まあやんちゃ坊主がそれだけいるとご両親でも制御しきれるはずもなく。アイスケースに群がる子供達の一人が、置いてあった台車(4段重ね)の上によじ登ってしまい、台車が動いた弾みにアイスケースの縁に顎をぶつけそうになった。慌てて飛んでいって「ごめんねこれには危ないから乗らないででね」っていってお子様を台車から降ろした。ご両親からめちゃめちゃ謝られたけれど、こっちも平身低頭で謝罪した。子供達がアイスケースに群がり始めた時点で、足場になるものを全て退かすべきだったので。
やばいな、自分の子供が大きくなるに連れて、幼児の行動の読めなさに対しての危機意識が鈍麻している気がする。きっと、3年前の私だったら、子供達がぞろぞろ入店してきた時点で、危ないものはバックヤードに片付けたはず。たかが子供を自分の腹から産んだくらいで育児のエキスパートになどなれるはずもなく。というか、育児スキルなんかほんの一時のもので、幼児のいない暮らしに戻れば、徐々に失われていくものなのかもしれない。過去の経験から子供の面倒を見るのは朝飯前と思い込んで孫を危険に晒すばあちゃんへの階段を、早くも昇り始めている自分に気づいた。
とかいうことをAさんに話したら、「そういうもんなんですか!」と驚かれた。おう。私も、ついさっき気づいたばかりだしの。
21を過ぎたら流石に暇になった。猫が好きなのに猫に好かれないAさんに、猫と戯れるためのコツを教えた。まず猫の方を見ずに座り、不燃ごみになった気持ちで、猫の方から近づいて来るのをじっと待つ。もし猫が人に可愛がられた経験を持っていれば、どんなに不燃ごみみたいにしていても人間は人間とちゃんと認識しているし、近寄ればエサはくれないまでも背中くらい掻いてくれるだろうと考えて、近づいて来るものだよ、と。「そういうもんなんですか!」とAさん。人間の育成方法は忘れても、猫と共存する方法は忘れないというのも、変な話かもしれないけれども。
俺もアラサーで初めて彼女できてそのまま結婚したからマジレスする。
悪いことは言わないから、結婚する前に1年でも半年でも同棲しとけ。
できれば家計もお試しのつもりで一緒にしちゃった方がいい。
そうしないと確実に見えてこないものがある。
具体的に例に挙げると、
・金銭感覚(何にどれだけ金をかけるかはもちろん、日頃の節約意識)
上記3つは自分に近ければもちろんいいけど、許容できる範囲ならまあいい。
→趣味があれば一番いいけど、何か食べたり、買い物で解消するタイプは危険かも。
でも一番危険なのはパートナーに八つ当たりしたり、依存するタイプなのでそこは絶対確認したほうがいい。
依存タイプは付き合ってる最初は可愛く感じるけど、精神的に自立していないので確実に重荷になる。
→メンタル不安は絶対にやめた方がいい…。自分も引きずり込まれるか、破局するかの二択だと思う。
「理解ある彼くん」を本当に一生する覚悟があるのか問い直して。
結婚してからは「健やかなる時も、病める時も」という言葉が重くのしかかるよ。
俺自身は非モテ人生から「ここ逃したらもう一生結婚できないかも」という気持ちもあって、
同棲もせずに付き合って半年で結婚して、今結婚3年目だけど、何度も離婚を考えたし、子供がいなかったら絶対別れてたと思う。
子供のために我慢、忍耐だけする結婚生活は正直苦しいので、増田にはどうか同じ轍を踏まないように気をつけてほしい。
ではお幸せに。
もともと言論・表現の自由って、自分が考えた思想や意見を表現したり、他人のそれを受け取ったりすることで、人間は全体として向上していくんだ、っていうことから出てきた考え方だよね。特に政治の分野とかではそういう思想・言論・表現の自由がないとヤベーことになっちゃうし、実際に何度もなっちゃったから、やっぱりそういうことは自由にしようねとなったんだよね。
で、何がそういうものを守るのに大切な言論・表現で、何がそうじゃない言論・表現かを決めるのは、その決め方自体が権力にとって有利だから、こういう言論・表現はOKとかNGとかって線引きはなるべくやめて、幅を広くとっとこうね、ということになってるんでしょ。
でも、もっぱら読者の性欲を満たすために描かれてる暴力的・凌辱的なロリエロ漫画とかは、そういう意味での思想や言論はほとんど含んでないし、逆にそういう思想性や言論性を見出したらヤバいわけじゃん。女の子を連れ去って凌辱して主人公たちが満足して終わる漫画表現に思想を読み込んだら、女の子を連れ去っては凌辱して主人公たちが満足して終わる行為をストーリーを通して肯定するものだ、ってなっちゃう可能性が高くて、それは他者危害原則に抵触する扇動行為にあたるわけじゃん。だからこそ作者も、LOとかも、擁護派も、この漫画はそういう行為を実際に肯定するものじゃないよ、あくまで単なるフィクションだよ、と予防線を張るわけでしょ。実際に漫画の手口を真似して犯行した犯罪者が出てきても必死にその関係を否認するわけでしょ。
で、そういう「思想性がない」(と主張する)、フィクションの、専ら性的欲望を喚起するためのポルノグラフィって、理屈から言えば、法律で保護しなきゃいけない根拠も相対的に薄弱になっていくんだよね。そもそも今だって別に「表現の自由は絶対」じゃないし、それぞれの国で定義された価値の低い表現(増田が言ってるわけじゃないよ、法律学に「低価値表現」っていう概念があるんだよ)の一部には自由を認めてないわけだ。名誉毀損とか、わいせつ表現とか、ヘイトスピーチとか、優良誤認とか、医事法違反とか、著作権侵害とか、プライバシー侵害とか、偽証とか、法律で規制されてるNG表現は、今の日本の法律でもいっぱいある。
ちなみに性表現に寛容なイメージがある米国でも、性行為のみを描写したハードコアなわいせつ物は、写真や実写動画だけなくイラスト(二次絵)も言論の自由による保護物に該当しないとされてるし、ミラー・テストというわいせつ性判断の基準では
①平均的な人が、その所属する地域社会等のコミュニティのそのときの基準(contemporary community standards) に照らしてその表現物を見た場合、全体として好色的な興味に訴えていると考えるか。
の3項目で言論・表現の自由の保護に値するかどうかが判断されている。ちなみに米国では「正常で健康的な性的欲求を喚起するだけ」のポルノや性器描写は、ここでいうわいせつ物にあたらず、「裸体、性、または排泄行為に対する恥ずべき、あるいは、病的な興奮に訴えるもの」ということになっている(Brockett v. Spokane Arcades, Inc.)。ようはその社会・時代の文脈のなかで平均的人物像によって「異常な」性行為とみなされるものについては、思想の自由市場での取扱商品にはしませんよ、ということ。日本人にとってアメリカンポルノのストーリー・演出・演技が妙に「健康的」に見えるのは、そうでないと法に抵触するわいせつ表現になるかもしれないリスクがあるからなんだよね。ちなみに児ポはミラーテストに関係なく問答無用で違法。
だから「思想・言論・表現の自由」には「なるべく幅は広くとろう」とは言いつつも、その中身には中核と周縁とすでにNGと決められたものの3つの領域があって、周縁部では、表現の価値と表現のもたらす社会的害悪性との衡量が個別になされたり(わいせつ性の判断)、総じて社会的害悪性が認められたときには新たにNG枠に入れられたりしてる(ヘイトスピーチ法)、というのが実態だと思うんだよね。
で、そういう「NG枠」の側に一部のロリエロ漫画が加わるかもしれないことを、「これまでしっかり守られてきた表現の自由が、これを皮切りになし崩しにされる! 蟻の一穴!」みたいに煽るのは、ちょっと違うんじゃないかな、とも思う。体制が自由を認めた表現だけが許されているって意味では、今までもそうだったんだし、仮にロリエロ漫画が法的に規制されても、その規制の時に使われた理屈を保護法益が異なる表現に対してまで拡げるのは、そう簡単なことじゃない。「グレーからブラックに何かを移動させたら、他の表現もどんどんブラックに動かせるようになるぞ」という警鐘は、そういう現実的状況を踏まえない雑語りに聞こえるし、そもそも「ロリエロ漫画自体が法的な保護を受ける価値がある表現かどうか、そして実際に社会的害悪性をもたらすかどうか」を真正面から議論する自信がないから、「ここを規制したら他の表現の自由も脅かされるぞ!」という論法に頼ってるんじゃないの、って印象もある。
そういう人達が、「表現の自由」が脅かされることへの危機意識を、たとえば愛知トリエンナーレの「表現の不自由展・その後」をめぐるあれこれでも堅持してたのならまだ納得できるんだけど、いま二次元関連で「表現の自由」を強く主張する人達の中には、愛トリの時に「天皇に対する冒涜的表現は、人々が大切にしている価値観に対する攻撃」みたいな理屈で展示中止の抗議活動(威力業務妨害的なやつも含め)を正当化してた人達もいたんで、それについてはやっぱり「あなたがたのいう表現の自由って、結局自分が消費したい表現にだけ適用されるダブスタで、表現を区別するなという自分たち自身も十分セレクティブに振る舞ってるんじゃないの」という印象を持っちゃう。もちろんそのダブスタ批判は、かつて表現の不自由展を擁護していて、いま「非実在児童ポルノ」への規制論を容認してる人にも当てはまることなんだけど、さっきの衡量論にもとづけば、それは完全に対称の関係じゃないとも思うんだよねー。
(「ロリエロ漫画の害悪性の根拠を出さないと保護法益が決められない」というのは、そういうダブスタ系の人達よりもずっと筋が通った理屈だけど、わいせつ物陳列・頒布罪にせよヘイトスピーチ法にせよ、その害悪性の根拠が、国会や法廷の場でしっかりしたエビデンスのかたちで示されたことはないと思う)
胸が揺れてたらそりゃ原則的に嬉しいし、なんで嬉しいかっつったらそれが美しく可愛くエロく魅力的な姿だから。
スポーツ選手がいじめ防止とかよ広告に起用されたときに、焼けた肌が日を浴びて光ってたり、汗が弾けたり筋肉が隆起してるシーンが使われるのは、その姿が魅力的だからだ。
マッチョが汗流してようといじめ防止に直接的な関係はないけど、魅力的な描写なら目を引く機能を果たすわけで、広告として正解だ。
シズル感と近似でもあるな。
アスリートの筋肉と汗、ペットボトルの水滴、アイドルの笑顔やひらひら服やおっぱい、これらは同じようなものだ。
「私たちの日常では日焼けを避けてるし、汗を飛ばすのもマナー違反。広告の内容と関連も薄い。日常目にする広告でスポーツ選手の日焼けや汗の表現は苦手です」なんてことは言われないよな。
でも胸揺れなどに噛みつく奴が目立つのは、女の魅力描写に過敏な人間が一部にいて、その声がやたらでかいからだ。
結局、「女は、男に魅力を見せるとすぐに性的に食い物にされて被害を受けるから、団結して防御体制を取っていなければならない。ごく限られた安全地帯でしかやるべきでない」という感覚がとても強い人たちがいるわけだ。
そういう人たちが女性の魅力描写についてばかり危機意識を働かせすぎる。
男性スポーツマンの引き絞った腕や、トマトやお茶を井戸水で冷やす様子は楽しめてるのに、女性の魅力が出てる広告(胸に限らない)にばかりピリピリするのは一般的感覚ではないぞ。
一般的感覚ではないのだが、そういう主張をされると「うーん、その危機意識はそこまでピンとこないけど、困ってるんなら言うことを聞いてあげればいいかな」と譲ってしまう、善良だか弱腰すぎる人たちが世間には多かったので、抗議を通せることもそこそこあったのだろう。
確かに現代においても女性は性的被害に合いやすいからある程度の危機意識を持つのは妥当だけど、やりすぎ。
そしてこういうことを言われても、「女性の被害を矮小化していて聞くに値しない」とかで容易にシャットアウトできてしまうので、自省に繋がらないんだわ。
問題を不正に矮小化しようとしてるって考え方が大事な場面は多いけど、議論相手への拒絶として強力かつ便利すぎるので慎重に使った方がいいんだよなあ。
ともあれ、プライベートではエロを個人的に楽しんでるとしても、ちょっと人目がある場所ではピリピリしちゃうってのは、それもそこそこ性嫌悪が入ってるんじゃないか。
なにか嫌な経験があったのかもしれんけどさ。
個人的な経験からくる個人的な恐怖を、政治的社会的な議論に繋げる時は、恐怖と復讐に駆られて妥当な話をこえがちなのでよくよく我が身を振り返りつつやった方がいい。
自分もマクロ視点では氷河期世代を雇うべきだと思うけど、じゃあ自分の会社に誰かれ構わず入れるべきかと言われると残念ながらNOと言わざるを得ない。実際、そういう会社は多いと思う。
自分は30代前半で面接官としてたまに氷河期世代と相対することがあるけど、自分より年齢が上なのにスキルが明らかに低い人に対しては相当厳しくなってしまう。それはたとえ希望年収が低くても厳しくなる。そもそも予算から入社枠は限られていて、そこにねじこむ魅力がないならあとで苦しむのは自分なので、少なくとも会社平均より上の人材を入れたいと考える。
30代後半の人には、氷河期世代や正社員で働いていたとか関係なく、経営をリードするような人材だったり、会社の中核的な存在になるような人材を求める。「教えてもらってがんばります」という人はもはや20代でも不要になってきている。単純作業が不要になってきているため、生産性・効率性を上げるための方策を考えて実行できる人材、「人に教えて導き、部署内の指針を示して、会社に利益をもたらす」という人がほしい。社内でその立ち位置を担っているのがまさに30前半世代か氷河期世代のサバイバーの人で、そういう導き手のような存在が今はめちゃくちゃ不足しており、実際不安に感じているので、そういう人はいくらでもほしい。
逆にそういう人でなければ、優秀な20代前半の人を雇った方が、デジタルネイティブであり、同じように安いのに成長率は高く、愚痴もなく、体力もあり、会社を下からの圧で活性化させるし、最新の知識を入れてくれるしでいいことずくめなことが多い。
それから、自分と同世代である20代後半〜30代前半でも決して楽な道なようには感じられてない。氷河期世代ほどではないとはいえまだ不景気だったため、未だに一切安心することができていない。そのため、20代後半〜30代前半で燻っているような人はまだまだ大勢いる。あえて氷河期世代を入れるよりかは、そちらを入れた方が給与レベルが同じなためお買い得だと思っている。同世代バイアスがあるかもしれない。
正直、自分としては20代前半〜後半の追い上げ速度が怖く、30代前半ではハイスペック同士で熾烈な競争をしているような感じすら見受けられる。そもそも自分の立場に危機意識を抱いているので、限られた入社枠を潰してまで救いの手を差し伸べるようなことはできない。そういう余裕はない。正直、戦争だと思う。
チェックポイントをいくつか考えたので、自己診断をしてみてほしい。