はてなキーワード: 卒園とは
30年以上昔の話。
私は生まれる前に父が病気で亡くなってて、母は精神的に不安定なところがあったから幼稚園を卒園した辺りで父方の祖母の家に預けられた。
早くに亡くした息子(私の父)の一人娘の私を祖母は溺愛してくれた。
叱る時はそりゃあめちゃくちゃ怖かったけど、私もばあちゃんが大好きだった。
そんなばあちゃんは毎年イチゴのジャムを手作りしてくれてた。甘さ控えめで美味しいばあちゃんのジャムが私は大好きで、熱を冷ます前に食べたがって駄々をこねまくって、そんな私を見てばあちゃんはよく笑ってた。
小学二年生の頃にばあちゃんがジャムをたくさん作ったから先生に少しお裾分けをしてあげてとタッパーにジャムを入れて私に渡した。
私はめちゃくちゃ美味しいジャムだからきっと先生も喜んでくれるだろうってウキウキしながら学校に行って、先生に早速ジャムを渡した。
先生は凄く嬉しい、ありがとう!ってとても喜んでくれて、ジャムの感想も私に伝えてくれた。
私は凄く誇らしかったし、ばあちゃんのジャムはやっぱり美味しいって満足してた。
あれから30年、いい年になって思うんだけど、きっとこういう事って今はあまり受け入れられないんだろうなと思う。
手作りの物を人に前振りなく渡すのも憚られるし、先生に一人だけ贈り物をしてそれを先生が受け取れば今ではえこひいきを生むからと問題になるから受け取ってもらえないかもしれない。
でも小さい子にはそんな事全く理解できないよね。
あの頃の私が今のルールに則ってジャムを拒絶されてたらきっと「どうして?美味しいのに」「私恥ずかしいことをしたの?」って混乱して、ジャムも、それを持っていけと行ったばあちゃんも恥じていたかもしれない。
親がいなくてあまり豊かな家庭環境ではなかったし、皆が遊んでるようなゲーム機も持ってなかった、でも心が貧しくなかったのは自分の周りの自分を受け入れてくれた人達の優しさの積み重ねだろうなと思う。
娘の七五三で自分の胸に花のコサージュをつけて以来コサージュにはまってしまった母親である。
しかし、コサージュって自分のためじゃなくて他人のお祝いのためにつけるものであり、私には七五三、入園、卒園式 入学、卒業式 結婚式くらいしかコサージュをつける機会がない
シンプルなコサージュやちいさいコサージュなら普段使いできるけど
私が好きなのは入学式や卒業式に参加する母親が胸につける大きくて華やかなコサージュ
普段使いむり
どこかのお祝いパーティーに招待されないと
コサージュってとてもよいものですね。自分の写真見てコサージュを見て、ニヤニヤしてしまう
入園式だと赤ちゃんがいる家庭のママは「赤ちゃんが舐めるから」とネックレスもコサージュもつけないことがあるらしいけれども、私は赤ちゃんは旦那に押し付けてぜったいにコサージュつけたい
くだらないことだけど書く。
私は学区外の幼稚園に通っていた。クレヨンしんちゃんに出てくるようなバスに乗って毎朝登園していた。
周りの仲いい子は幼稚園が近いからか、皆ママチャリの後ろに乗って登園していた。
卒園が近くなって、皆は幼稚園の近くのK小へ通うことがわかった。けれど何故か私だけS小に通うことになっていた。
1番仲の良かった千景ちゃん(仮)もK小だった。千景ちゃんは「ランドセルは水色を買ってもらうんだー!」なんて言ってた。
親に「私も水色がいい」って言ってたけど、「水色のランドセルはいじめられるよ」の一点張り。そしていつの間にか遠くに住んでいる祖母が勝手に決めた赤いランドセルが届いていた。
私は「ランドセルを選ぶ」というイベントがないまま、希望ではない色のランドセルを無理やり背負うことになった。
ある日、母が運転する車の助手席に座っていた。ふと「あーあ。K小行きたかったなぁ…」と呟いたら、上から母の手のひらがバチンと降ってきた。
「そんなこと言うなら、他のママの子供になれ!!!」と怒鳴られたの覚えている。怖くてそれ以降は「K小行きたかった」なんて言ってない。
数年経って、何気なく「なんで学区外の幼稚園に通わせたのか」母に聞いてみた。そしたら「ママ友付き合いが嫌だったから」らしい。
でも未だに母は幼稚園のママ友と交流がある。コロナ前は同じクラスのママ友と飲みに行ったりしていた。母曰く、「こんなにママ友付き合いが続くと思わなくって!」らしい。同じクラスのママ友たちのLINEグループもあるらしい。
正直、ふざけんな。としか言いようがない。
私は卒園してから千景ちゃんや皆に会えてない。私はみんなに会いたいのに。なんで母親だけは会えているんだろう。
この前成人式だった。
「○○見て!幼稚園の子、みんなで集合写真撮ったみたいよ!」と母がLINEの画面を見せてきた。
みんな面影があった。懐かしいなと思った。
幼稚園の子たちは今だに交流があるらしい。楽しそうに笑っている写真を見て私は悟った。
「もし私がみんなと会っても、みんな気まずくなるだけだな。」
結局、S小に入学したけど、皆ほとんど同じ保育園から上がってきた子ばかりだった。少し友達ができたけど、仲良しグループは私以外同じ保育園。保育園の話はついていけなかった。
成人式もS小の区域で集まったけれど、正直あまり楽しくなかった。
どうやら転校してしまったらしい。
本当はK小に行きたかった。千景ちゃんや他の友達と一緒に「そういえば幼稚園の頃はさぁ!」なんて話したかった。
千景ちゃんと同じ小学校へ上がれば、もしかしたら連絡先の交換とかできて、交流があったかもしれない。
本当は水色のランドセルを背負いたかった。千景ちゃんと同じ色のランドセル。違う小学校へ通うから、せめて同じランドセルの色で繋がれればなって思っていた。
本当に大好きな友達だった。
会いたい。本当に会いたい。
でももう会えないと思う。
同和地区に生まれ育ち、多分『それなり以上の同和教育を受けた最後の世代』だと思っている私。
私は昭和の終わりかけに、関西の大都市に生まれた。自営業の父と専業主婦の母のあいだに生まれ、1歳児の頃から公立保育所に通った。
現在は幼児をもつ親でもあり、『保活』『保育園落ちた』などのワードをネットで見るにつけ、自分の育った地域や時代か現代のどちらがおかしいのかわからなくなるのだ。
まず、私の母は専業主婦だ。母方の祖父と同居だったが、その祖父が要介護だったとか、母自身が病気だとか何もなかった。1ミリも『家庭での保育に欠け』てなどいない私が、普通に公立保育所に通った。
母は私を幼稚園に入れたいと思ったそうだ。しかし、親族を含む周りの多くの人たちが、いつ保育所に預けるのか、保育所の申し込みをまだしてないのかとものすごくうるさかったらしい。『保育所が当たり前だった。同じ小学校に行く子は町内のどこかの保育所出身で、幼稚園に行く子なんていない』と言われたらしい。
母は心配しながらも私を保育所に入所させた。まず、町内に公立保育所がいくつもあった。1学年1クラス、私が通った保育所はその中でも人数が少ないところだったので、年長クラスで一緒に卒園したのは12人だった。最近の『保育所が足りない』どころか、どう考ても当時の子供の数を考えれば保育所が多すぎるくらいだった。
運動会や宿泊保育、遠足、卒園式などは合同で行われた。保育士さんはどうだったか忘れたが、市の公務員である給食調理員さんたちは、その町内の保育所のどれかにしか転勤しない。(当時給食調理員だった知人が近所にいたため、知っている)
今、雨の日でもお昼寝布団セットを自転車で運んでいる保育園パパママさんを見かけるが、私が通った保育所ではお昼寝布団の他、給食で使うスプーンや箸など、肌に触れるものや口に入るものも持参する必要はなかった。かばんに入れて持って行ったものは連絡帳以外思い出せない。
私は二人の子供を私立幼稚園に通わせた。ひとりは卒園し、ひとりは在園中。まあ、これでもかというほど指定用品を買わされ、毎日スライド式のカトラリーセットを始めあれこれ通園鞄いっぱいに持って行く。最初は自分の子供時代とのあまりの違いに驚いたが、『あ、こっちのほうが普通なんだ』と最近では思うようになった。
保育所時代はほぼ同和教育はなかったが、小学校に入ると一変した。
まず、入学時に必要なもののほぼ全てが無料支給だった。ランドセルまでタダだった。母と一緒に入学用品を近所の『会館』に取りに行ったことを覚えている。鉛筆や消しゴムまであった。筆箱は自分のものを使えたかな。それが最初の一回だけではなく、『とくしゅうひ』というものがあって、冊子が配られて必要な学用品に丸をつけて提出すると支給された。これはいつの間にかなくなった。高学年になる頃にはもうなかったかと思う。
私の実家は貧乏ではなかった。後に書くが、学用品を無料支給してもらわないと就学できないほど生活に困窮している同級生などいなかった。
ランドセルはデザインも何もかも皆同じ。ほとんどの学用品が全員同じだった。出どころが一緒だからそうなるんだろうけど、他の学校のことを知らないのでそれが普通だと思っていた。給食で使うお箸、食後に使う歯ブラシまで皆同じ。歯ブラシの色選びでじゃんけんをしたことも覚えている。
それから『子供会』というものがあった。放課後に行くところで、別に親が働いているからとか何もなく、ほとんどの同級生が在籍していた。行くか行かないかは自由だったが、小学校の下校時に集団になって歩いて行ったことを覚えている。おやつが出たり、遊んだり、土曜日は昼食も出た。学童保育のような感じだったが、違いは『(ほぼ)全額無料』で『まあまあゴリゴリの同和教育機関でもあった』こと。そこで働く人たちのことは、先生やさん付けではなく、『指導員』と呼んでいた。(例 田中指導員)
主に教えられたのは狭山事件のことで、歌まであった。私はその歌をなぜか今でも覚えている。小学校1年生のときから教えられる。それから、何の日だったかは忘れてしまったが、5月23日と10月31日が近づくと、狭山事件のことをいつもより色々聞かされた。
大人は集会もやっていた。たまに祖父について行ったことがあったが、集会の最後はシュプレヒコールがお決まりだった。後になって祖父はその集会になぜ参加していたのか母に聞くと、『お父ちゃん、その年確か町内会の役しとったからちゃうかな』そんな理由だった。
小学校の名札のところに『差別裁判をゆるさない』とかワッペンをつけて登校する期間があったりもした。『ワッペン登校』と呼ばれていたが、今考えるとすごい。小学生の制服に、別にその子の意思でもなくそういうワッペンをつけさせていたのだ。
学校の道徳の授業は、同和問題を始め、とにかく何かと差別を絡めた内容だった。在日コリアンの問題とか。私の子供が入学して教科書に名前を書いていたとき、道徳の教科書を何気なく見ると、『金の斧 銀の斧』の話が載っていたりして、自分のときとの違いにまた地味に驚いた。
小学校1年生に狭山事件のことを話してこれは差別だ!とか言われても正直よくわからなかったし、狭山がどこかもあまりよく知らなかった。『かなり昔、遠い関東で無実の人が逮捕されて、裁判が何か差別らしくて………』といった感じで記憶している。
他にも後で特殊だと気づいたことがある。天皇制の否定、国歌を教えない、卒業式の定番『仰げば尊し』はなぜそこがダメなのか忘れたが『我が師の恩』のところに文句がついていたっけ。
ある日の子供会の集会のとき、『天皇制はおかしい』という話を聞いたのをおぼろげながら覚えている。『天皇誕生日が祝日なのはおかしい』と力説されたが、子供心に『学校が休みになるんだし祝日にまで差別とか言うのか』と思った。
洗脳レベルの教育だったが、低学年頃にはなくなっていった(後述)こともあり、『差別に負けない大人になってほしい!!』だとか『(何にか忘れたが)誇りをもってほしい!!』と言われても全くピンとこなかった。
ワッペンをつけたり、子供向けの集会があったりというゴリゴリの同和教育は私が高学年になるより前くらいから一気になくなった。そのため、冒頭に『最後の世代』だと書いたのだ。
理由は、狭山事件の容疑者とされた人が仮出獄となったからだと思う。学用品がタダとかそういうのも、その頃からだんだんなくなっていった。
一世代上、私の母世代は、狭山事件が起こった頃に小学生くらいなので、大人になり、子育てをする頃までずっと続いたということになる。
母は私立高校を卒業しているが、『タダだった』らしい。無料だから私立高校を選んだわけではなく、公立高校に行く学力がなかったかららしい。高校の無償化なんてつい最近一部の地域で始まったことだが、これも『同和特権』のひとつだろうか。それよりも驚いたのが、自動車教習所の授業料も『タダだった』と言うのだ。私も運転免許をもっているが、確か教習所に入るときは30万円くらい払ったと思う。それもタダ?
それから、これは自分の家族にはいないが、市の公務員になれるルートみたいなものもあったそうだ。失礼な話だが、『この人、どうやって公務員になったんだろう?』と思うような人が、市の職員だったりした。
母も私と同じで、そういう環境で周りもそれが普通だったし、他のところのことを知らないので、疑問をもったことがなかったらしい。大人になってから、『あれは普通じゃなかったんだ』と思ったという。
江戸時代の身分制度の名残で同和問題や差別があるわけではないと、成長するにつれわかった。私が背負ったランドセルも、入学試験で特待生だったわけでもない母がタダで通った高校も、税金から…と考えたら、嫌われるようなこともしてるよなあ、知らなかったとはいえ…といつからか思うようになっていった。
その後、高校、大学と進むうち、部落差別っぽいものは時々あった。というより、特に悪気のない、同和地区に対するイメージを誰かが話しているのを聞くことがあったというくらい。
まず、『あのへんは治安が悪くて行くもんじゃない。どんなやつがいて何をされるかわからない。最寄駅で降りないほうがいい』と言っていたバイト先のおじさんとか。
確かにイメージとして、ガラ悪いとか治安が悪いとか思われがちだが、これが意外とそうでもない。麻痺してるのか慣れきってるのかとも思ったが、夜になると人通りはほぼなく、ガラの悪い人や治安を乱しそうな人もいない。夜の町は、『ここ?本当に関西の大都市?』と思うほど人通りもほぼなく静か。逆にそれが不思議だとか怖いだとかで動画サイトに載っていたりするが。
確かに治安がよくて人が住みたいイメージではないよなと長年思っていたが、最近では転入者も増えて、昔はボロボロの団地ばかりだったところに一戸建ての家が建ち並ぶようになった。相変わらず市営住宅が多く、整備されているものの見た目がほぼ同じ。スマホのマップが普及するより前は、宅配ピザの配達員さんが迷って電話をかけてくることもあるくらいだった。
そういう街はここだけではない。似たようなところをたまたま電車などから見ると、『あ、ここ…同和地区かも』とわかるようになった。
人生で、『あ、これが部落差別?』と思ったのは一度だけある。結婚のときだった。目の前でやりとりしたわけではなかったが、夫の両親は同和地区の嫁が来るのは嫌だと言っていた。私に直接言ったことはなかったが、義母から夫へのメールを見たら結構すごかった。
結局結婚したのだが、10年経っても『ほら、同和地区の人となんか結婚するから』みたいになったことはない。結婚を反対されたことを知った両親も、『まあ、そりゃ、どうぞどうぞ大歓迎ですってことはないよな』というような反応だった。従姉妹たちも同和地区出身でない人と結婚している。親である伯父と伯母は、娘の結婚相手の両親に出自を話したらしいが、それを理由に反対や差別はされなかったという。
私が昔受けた同和教育の題材にもよく結婚差別が出てきたり、同和の子は貧乏でいじめられて排除されて…みたいな内容が多かったが、思い出してみれば小学校の同級生には食べるのにも困るような生活をしている子は誰一人いなかった。それでも色々支給されたり…あれは何だったんだろう?と思う。
これもまた同和地区特有の話だと知ったのだが、とにかく近所の人達の情報を何でも知っている。私達世代はそうでもないが。今時隣の家の人のこともあまり知らないのが普通みたいな世の中だが、母より上くらいになると、『全くの他人のことを何でそこまで知ってるの?』と驚くほどだ。
私は聞いているだけのことが多いが、たまたま何となく会話にAさんという人が出てきたとする。たとえば私が『Aちゃんのお母さんが入院したんやって、Aちゃん大変そうで心配やなぁ』とか言ったとする。
すると母と伯母が、
『A?ああ、あの子な!うちの一学年下の子で旧姓増田やろ?増田のおっちゃんとこは立ち退きなる前は◯◯に住んでて、今団地入ってるやろ?おばちゃんは滋賀から来た人やったわ。Aは高校出て化粧品屋に勤めとって、学会の男の人連れてきて結婚して西宮のほう行ったけど、結局別れて娘二人連れて帰ってきてたなぁ。増田のおっちゃん怒ってたわ。あの子入院したんや、それは心配やな』
『増田のおっちゃん覚えてるわぁ、Aちゃんて姉ちゃんの一個下やったら、うちの二個先輩やろ?その子の弟がうちと同級生やねんけどな、中学の同級生のCと結婚して、夫婦で市に勤めとったから、お金持ってんで。団地出て関空とかあの辺りに家買うたらしいわ。増田のおばちゃん不倫しとったん覚えてる?近所同士でようやるわぁとかみんな言うとったなぁ』
こんな感じ。一体何の話だったかこちらが忘れそうになるが、私の友人の母親の実家事情を、同学年で仲が良かったわけでもない二人が知り尽くしている。
これは、同和地区出身者同士の結婚が多かったこともあるからかなと個人的に思っている。大人になってからは、では近所に住む誰かの会話に『私』が出てきたとすると、ここまで知られているのかとゾッとして、母に聞いたこともある。
『まあ、このへんやったらそうやろうな。でも、若い子らはそこまででもないと思うけど。うちの娘ていうことはみんな知ってるやろうし、行ってた学校ぐらいは知ってるやろな』
と、当たり前のことのように言われた。
同和地区も、私のように町並みでわかる人でなければあまり他の町と変わらないようになってきた。それに、顔を見たら同和地区出身者とわかるわけでも、戸籍を見たらわかるわけでもない。有名な同和地区が現住所や本籍であった場合はわかるかもしれないが。
解放会館も人権センターとか名前を変えた後、いつの間にかなくなった。『部落差別をなくそう!』『差別落書きを見つけたら云々』という文言が書かれた町内会のポスター掲示板もなくなった。私が少し通ったあの子供会もなくなった。
今でも、『住まないほうがいい町』とかググると私の地元が出てきて、理由に同和地区がどうのこうのと書かれているが、外から人はたくさん来ている。市営団地の入居者は全員知り合いだとか、市会議員や解放同盟のコネで団地に簡単に入れるという話も聞かなくなった。
実際、24年ほど住んだが、事件らしい事件のひとつも見たことがない。通り魔やひったくりに遭った人が近所にいようものなら3分で噂になるはずだが、これも聞いたことすらない。いや、別に『B地区とか犯罪がとかヤクザがどうの、治安悪いとか言われてるけど、全然怖くないですよ、町も綺麗で平和で、他のとことそんな変わりないですよ』とここで主張したいわけはない。
イメージしかない同和地区と、そこに生まれ育った私とでは、全く違うだろうなと思って書いたに過ぎない。
改めて、自分の生まれ育った場所を考えてみたとき、そこがたまたま特殊なところで、確かに差別されたり嫌われたりしても仕方のない面をもっていて、でも何だか『普通の生活の中で出さないほうがいい話題』のひとつであって…
何かそんなことを思って書いてみた駄文だ。
私は恋人どころか友達いない歴が小学校入学以来続いているコミュ障女。
保育園まではまあいたんだけどな。卒園と同時に引っ越し&引っ越し先がマンモス園からほぼ持ち上がり進学というハードな環境にやられちまったよ。
仕事もひぃこら残業してやっと人並みにできるくらいには手際が悪い。
なので愛するカレピッピと同じ姓になりたいの♥️みたいなもんはないし、
姓が変わると今までのキャリアが途切れて云々なことも起こらないし、
今までの「家」が破壊されて伝統がーみたいなもんは背負ってないし……。
個人的には姓が変わった程度で揺らぐほど安くてペラい人生を送ってきたつもりもない。
億が一結婚することがあったとして、姓は私が変えてもいいし向こうが変えてもいい。ただ手続きはお互い有休とって一緒にやろうぜ、そんな程度の愛着しかない。
初めは選べんならそれでいいんじゃね?とは思ってたのよ。
ただ「夫婦別姓=片方の親と強制別姓」と知った(気づいた)ときに待ったがかかって、そして「現段階では反対派」になった。
親や祖父母世代はどうしても「男が家を継ぐ」みたいな価値観は強いだろうし。
あと「お前はずっと腹の中で子供を育ててきて、痛い思いをして産んだから母親の自覚は存分にあるだろう。
だけど俺はお前の苦労は見てきてお前の夫だという自覚はあるけれど、この子の父親であるという本当の自覚があるかは怪しい。だから俺と同じ姓にしてしっかりと自覚とけじめを~」みたいな。
クソな言い分だな、とは思うけど言うやつは絶対出てくるし、家事の分担とかですこーし男が負担を増やせば「まぁ…」って女は出てくるんじゃないか。
それと国際結婚はあくまで「例外」で認めてるだけっぽいし……。
あと、これが一番気になってるのに話題にしているのを見たことない。
夫婦別姓だったら離婚したっていうのが分かりづらい。(子供のために結婚時のままの姓にしておく親子もいる、っていうのは承知済)
あそこは離婚したから父(or母)が迎えに来るはずない、とか子供を渡しちゃいけないとか、そういうのって離婚して姓が変わる(戻る)からこそ印象に残るイメージ。
元から夫婦で違ってて、そのまんま別れていって、だといつ離婚したか?どっちの子になるか?ってわかりづらいと思うし、ミスが生まれると思うんだよな。
死別とも重なるけれど、例えば佐藤父と鈴木母の子である佐藤娘で両親離婚、鈴木母が佐藤娘の親権を持ち一緒に暮らすとか、絶対面倒だと思う。
まだ自分も周りもよくわかってない二歳三歳だったり、自立している/自立が目前に迫る年齢であればいいけど、でも、それ以外の年齢だとなぁ……。
不倫もさ…これ今の段階でも「既婚者だと知らなかった」と証明されれば慰謝料は取れない。
この言い分はわりとシビアに判断されるそうだが、別姓になるとそのハードルは下がるように思う。
AとBは名字が同じ=家族や親戚である、という判断は一度はしたことがあると思う。
不倫を知って訴えを起こしたらCから独身だと思っていたと主張され、Cの言い分が認められ。Cから「独身と偽って交際され傷ついた」と訴訟を起こされ負けたら。
夫婦は家計を同じくしてるから、結果として負担がかかるのは妻と子供だよなぁ…。
あと単純に結婚詐欺できそう。「君を尊重したいから」なんて言って別姓婚したと思ったらしてなかった、みたいな……。
「自分のため」を優先しないと別姓でいるのが難しい気もしてる。
子供を作る気ないし、とかいう人たちもいるだろうけど、ヤるだけヤって自分だけ気持ち良くなって無責任な男に捨てられた、追い詰められてどうしようもなくて遺棄して子供を殺した母親の何割かは子供を作る気なかったと思うし。
夫婦別姓問題は女が弱者、という論調で進んでいくのが見えるけれど、本当の弱者は(まだ生まれていないが、それなりの確率で生まれる)子供だと思うんだよ。
その子供を尊重し、納得して託せる法律案みたいなのが見えてこない限り、賛成にはなれない。
こんなぼんくらですら浮かぶ疑問の解決法がないってことは、それ以上に厄介な問題が出てきたとき対処に後手に回るってことだろうし。
賛成派の人でこの辺論じてるひとおらんのか
今年公立幼稚園のPTA役員になった。去年からコロナでろくに活動できておらず、でも慣れればなんてことはなく、むしろラクで良いくらいなので、今年役員になったのをいいことに「この機にPTA自体無くしてしまったらどうか」と提案するつもりだったけど、園長先生に悪い気がして言えない。
PTAって市や県の連合会と繋がっていて、この園だけの活動じゃないらしかった。また(確認してはいないが)「PTA活動を保護者に上手く運営させること」も園長先生の公務員としての評価ポイントになるかもしれず、「うちの園だけPTAありません」じゃあここに赴任してきた園長先生に悪い気がした。今の園長先生はとてもいい方なので、余計言い出せない。結果、「PTA役員、PTA活動という形は残しつつ、中身はラク」な感じにするのがせいぜいだった。
私がPTAを無くしたい一番の理由は、この公立幼稚園に存続してほしいからだ。園庭は広いし、先生方は優しいし、遊び中心の自由保育をしてくれて、私はこの園に子供を通わせられて心から良かったと思う。でも給食なし、園バスなし、預かり保育も日数少な目ではやはり周辺の私立幼稚園に負けてしまう気がする。子供が卒園した幼稚園が数年後には無くなっていた……というのでは寂しい。保護者が幼稚園を選択する際、「公立園はPTAが忙しそうだから無理」と言われ真っ先に候補から外されるようでは、この先生き残れないと思う。
市や教育委員会はどう認識しているんだろう。幼稚園は小中学校とは違う、保護者に選ばれる立場なのに。「競争力アップのためのPTA廃止」など思いもよらないのだろうか。PTAを無くすくらいなら公立幼稚園が無くなればいいと思っているのかもしれない。
初めて親として参列した。
子ども側でいる時も好きじゃなかったのは、親になっても変わらなかった。
服装は暗黙の了解で統一されていた。それなら最初から黒のフォーマル着用と書いてほしい。
みんなで一斉に述べる感謝の言葉は、親に虐待されている子がいないか、「楽しかった◯◯(行事名)!」は当時の写真で楽しくなさそうな表情の子もいたので、せめてどこかで楽しめただろうかと願うばかりだった。
一家庭ごとに子どもが親へ一言メッセージは、テンプレ台詞だったようだ。うちの子は「お母さん」と呼ばないよ…と余計なことが気になって中身が頭に入らない。
無事育ててもらえただけで充分なので、卒園証書授与と簡単なコメントで終わらせてほしい。
なんてことを考える親は少数派なんだろうな、とハンカチ片手に泣いてる親達を見て思った。
別に障害者本人に何かされたわけじゃないけど、周りのせいで被害こうむったって話。
ショッピングモールの増田は対一で嫌なことされたからまぁ分かるんだけど(たまたまイカれた客が障害もってたってだけとも言えるけど)
障害者本人には責任ないけど、イカれた保育士とイカれた障害者の保護者のせいで、障害者にまつわる嫌な思いしたって話。
もうはるか昔の話になるけど、保育園でずっと知的障害持つ子の世話させられてた。
その時はまだ特別学級とか田舎の方ということもあってあんまり普及してなくて、保育園ならなおさら。普通に20人にも満たないクラスに、知的障害持つ子がふたりと、たぶん発達障害だろうなって子がひとりいた。
自分は割と発育早くて、身長も大きいし、他の子より聞き分けも良くて、先生から何かと頼りにされることが多かった。
だから、その3人の世話を任されること(押し付けられること)が多々あった。
一番重度の知的障害を持つH君は、会話もままならず、顔もなんか変で体も小さくて、周りの人とのコミュニケーションが取れなかった。
だから庭遊びの時とか、いつも手を繋がされてふたりで放置された。
他の子が縄跳びとか竹馬とか追いかけっこしてるとき、自分はH君と黙々と砂遊びしたり、園庭をぐるぐる散歩することしか出来なかった。
もう1人の知的障害を持つFちゃんは、癇癪が酷くて、自分のままならない事があると奇声をあげて泣きながら、とにかく周りの人もものも叩きまくった。
工作なんかは他人の倍時間がかかるので、手先の器用だった自分がいつもお手伝いとして投入されていた。この時間があれば、もっと絵を書き込んだり、工作も丁寧に出来るのになと思いながら、たまに癇癪おこされて頭ぶっ叩かれながら卒園までお役目は続いた。
発達障害のN君も癇癪持ちな上、ワガママで暴力的。お昼寝の時間になるとこっちの布団に潜り込み、陰部を触ったり、キスしてきたりとなんかこれはこれで大層ヤバい子だった。
布団を離してくれというと、泣きわめいて先生を蹴るので、「我慢してね」と言われて長らく園児による園児へのセクハラを受けながら過ごした。
自分の灰色の保育園生活はこんな感じだったけど、いずれも障害者本人達には何も責任はないと思う。(むかしは本人達が嫌いでしょうがなかったが)
今思えば、スケープゴートを差し出してクラスの安定をはかろうとしていたバカ保育士や、そもそも園に通わせていた保護者がむしろ加害者であると思っている。
でもその時の嫌な思い出が原体験としてはつよすぎて、未だになんか障害者とは関わりたくないんだよね。
どんだけ強いかといえば、あんな子持つぐらいなら子供いらないなと思うぐらい。
実家に用事があるのに携帯にも家電にも全く出ないし、同居の兄貴も同じだし。
また2人が大ゲンカでもして内側にこもって外界を遮断している(母と兄はそういうところが似ている)のかと思っていたら、今朝兄貴から電話がかかってきて
「母さん、コロナで入院した。軽症病棟にいたんだが、血中酸素濃度が低いとか食欲がないとかで、昨日経過観察から投薬治療に入った。人工呼吸器は、これ以上悪化したらつけるかもしれないってところだ。お前には知らせるなって言われてたが、こうなっちゃ、なあ…」
それにだ。
今月下旬には、長男の卒業式と次男の卒園式、4月には2人の小学校中学校の入学式がある。
いつも写真を送った時みたいに、長男のことイケメンだねって、次男のこと可愛いねって言って欲しいよ。
逝ってしまうのはそりゃあ仕方ないさ。
頼むから。
ほどほどに陽当たりの良い台所で、小さな鉢の観葉植物を二つ育てている。
どちらも元々は実家にあり、伸びすぎた茎を切って分けてもらったものだ。自宅に持ち帰って水を入れた瓶に挿しておき、根が生えるのを待ってから鉢に植え替えた。
二つのうち、一つはブライダルベールで、札幌に住む祖母が、家で育てていたものを同じように切り分けて持って来たという。祖母は認知症になり、今は施設で暮らしている。もう何年も会っていない。
もう一つはポトスで、いつからあったのかはわからないが、物心ついた時から実家の景色の一部だった。
植え替えた鉢を、初めは自宅のリビング(と言うほどでもないが)に置いていたのだが、陽当たりが良すぎたせいか、見る見るうちに葉が変色してしまった。ほぼ枯れかけの状態だったが、よく見るといくつか新しい芽が出ていた。まだチャンスはあると思い、まずは鉢の場所を移し、元気のない葉を切り落とし、土の状態をこまめに確認するようにした。場所を移してから半年程経って、ようやく様子が安定してきた。今では植物を育てることに対して楽しさのようなものも感じている。
ただ、どうしても花を育る勇気は出ない。また枯らすんじゃないかという不安があるのももちろんだが、多分それだけではない。小学生の頃、クラスの友達のお誕生日会に行った日のことを思い出すからだ。
*
小学校1年生。お誕生日会というものに初めてお呼ばれした。まだ友達になってから1年も経っていない自分を呼んでくれるのがとても嬉しかった。
ところで、お誕生日会って何をするんだろう。自分の他にも、数名の友達が呼ばれているということだけは知っていた。みんなで誕生日の歌を歌ったりするのかな?学校じゃないからそんなわけないか。ごちそうやケーキを食べたりとか?
ドキドキしながら当日を迎えた。友達の家は少し遠いところにあったので、母が送ってくれることになった。
家を出る直前に母が言った。
えっ。と思った。だって、花束とか、持たないじゃん、普通。わたし、花束もらっても別に嬉しくないし。友達も花なんかもらって嬉しいのかな?嬉しくなかったら嫌だなあ。恥ずかしい。
しかし母はすっかりその気だったので、嫌だとはとても言い出せず、結局花屋に行くことになった。
近所の小さな花屋は、当時から既に古い佇まいだった。今でこそレトロな雰囲気は持てはやされるが、当時は何だか暗くて、できることなら行きたくないと思っていた。
店先の、あまり多くはない選択肢の中からいくつかが選ばれ、花束が作られた。
花束には白くて小さな花がたくさんあった。手に持つと、その小さな花が顔に当たってくすぐったかった。
友達の家に着いた。花束は目立つから、必然的にすぐに渡すことになった。
「わあ!」と、友達のお母さんが喜んだ。
よかった。変じゃなかったんだ。
しかしわたしは見逃していなかった。友達が笑いながらも、少し困った顔をしていたのを。
やっぱりそうだよね。花なんかもらっても困るよね。わたしも知ってるよ。でもお母さんが買うって言うから。
お誕生日会は、みんなでお菓子を食べたりゲームをしたりで、普段遊ぶのとあまり変わらないなと思った。
それはケーキを食べた後だったと思う。他にお呼ばれした友達が、主役の友達に誕生日プレゼントを渡す時間があった。
えっ。と思った。
何でみんな、プレゼントを用意してるの?何でわたしだけ、プレゼントを用意するって知らなかったの?
他の友達があげていたプレゼントは、かわいい文房具とか、エプロンとか、とにかくもらったら嬉しいだろうなと思うものばかりだった。そんなプレゼントを選べる友達が大人に見えたし、なぜそんなに高そうなものが買えるのかわからなかった。
わたしは(お母さんが買った)花束をあげたからセーフ?でも、友達、喜んでなかったし。
夕方になり、その日はお開きになった。少しホッとしながら帰り支度をしていると、そこでまた、えっ。という出来事があった。主役の友達のお母さんが、「今日はみんな来てくれてありがとう」と、全員にお礼の品をくれたのだ。しかも結構大きな袋だった。
家に帰って袋を開けてみた。かわいい文房具や雑貨の詰め合わせだった。花束を渡したとはいえ、自分で何も選んでいないのに、お返しだけもらってしまった。罪悪感で胸がいっぱいになった。
その後も、他の友達のお誕生日会に呼ばれることが何度かあった。その度に母は花束を買ったが、わたしも自分でプレゼントを用意した。だがそれは、他のみんなが用意しているような文房具や雑貨ではなく、手作りの工作のようなものだった。「他のみんなはこういうプレゼントを渡しているんだよ」とは、母には言えなかった。「みんなと違う」と打ち明けるのが何となく嫌だったから。
そして、お誕生日会の最後には必ずお返しをもらった。お返しの品は、決まって文房具や雑貨の詰め合わせだった。
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わたしが住んでいたのは、市が合併する前の、学区の外れだった。家の目の前は違う市だったし、2年通った幼稚園も違う市にあった。一学年20人もいない、教会附属の小さな幼稚園だった。
卒園すると、学年の半分くらいは違う市の小学校に入学し、残りはバラバラになった。一人だけ同じ小学校に入学した子がいたが、クラスは別になった。
入学した小学校は、目の前に幼稚園があり、クラスの半数以上がその幼稚園出身ということだった。当たり前だが彼らは元から友達同士で、持っているものもみんな同じだった。みんなキャラもので、両面開きの筆箱を使っていた。わたしは「いろいろ機能が付いていると気が散って良くないと聞いた」という理由で、地味な片面開きの筆箱だった。みんなはビニールのケースに入ったクーピーを持っていた。わたしのクーピーは缶のケースだった。缶は開けるときに大きな音がするし、ビニールに比べると古臭いから恥ずかしかった。みんなのクーピーには「はだいろ」があるのに、わたしのクーピーにはなかった。悔しいから、クーピーを赤から順に虹色に並べて気を紛らわせた。
3年生に上がると、お小遣いを貰えるようになった。わたしは今までの恥ずかしさを精算するように、両面開きの筆箱を買ったし、はだいろのクーピーも買った。はだいろは虹色の列の中では座りが悪く、端っこが指定席になった。
そして、友達のお誕生日会で渡すプレゼントも自分で買うようになった。
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みんなが同じものを持っていたのは、幼稚園に向けて一斉販売があったからだと思う。筆箱も、親同士で情報交換をした結果、同じようなものになったのだろう。
そして、「お誕生日会」も、そのコミュニティの中で出来上がった文化なのかもしれない。誕生日の子が、仲の良い友達を5~10人、家に呼ぶ。みんなでゲームなどをして遊ぶ。お菓子やケーキを食べる。呼ばれた子たちが、主役の子にプレゼントを渡す。主役のお母さんが、帰りがけにお礼の品を渡す。そういったフォーマットが存在していて、みんなそれに則ってイベントをこなしていく。思えば、お誕生日会の主催者はみんなその幼稚園の出身だった。親もその文化を知っているから、子どもと一緒にプレゼントを買いに行くのだろう。だから子どもだけでは買えないようなプレゼントが出てくるのだ。
小学校での日々はそれなりに楽しかったけれど、既に出来上がった輪の中にお邪魔しているような気もして、何となく疎外感のようなものがあった。自分の行動がずれていないか、みんなはどうしているのか、仲間外れにされないかといつも気がかりだった。
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花束の中にあった白い花は何だったのだろうと思ってネットで調べたら、どうやらカスミソウのようだった。「ちょっと昭和の印象もあったりして、オシャレなお花屋さんでは置いていないこともありますが…」という紹介文に思わず苦笑いした。あの花屋はまだやっているのだろうか。おそらくもうやっていないだろうな。
そんなことをいちいち思い出すので、未だに花は買えないでいる。
子供が1歳で入った保育園は小規模事業なので3歳で卒園。このタイミングでの保活に失敗し、認可外園になった。
ところが子の持病が見つかったとたん2度も診断書提出させたあげく言葉を尽くして退園させられた。
認可外なのだから仕方がない。次の園が見つかるまでうちの子だけ遠出の外出をさせずに留守番させたのも仕方がないだろう。
ただ、退園を通告した園長はわたしがすんなり受け入れたと見たとたん「将来きっと今の状況も笑い話になりますよ」などとすぐに他人事の過去の良い話にまとめ上げようとしたことは覚えておく。
それでは認可園に転園しようと区役所に行ったら区の独自フォーマットの診断書を提出させるくせに、希望園は自分で探すルールだということで、普通の保活と同じ手順を踏むことになった。「やはりご自分で見て希望を決めていただかないと」ともっともらしいことを言って看護師勤務の園がどこかも教えてくれない。
そこで親がかたっぱしから10以上の園に電話して全ての園に1から持病の説明する。そして見学や面接もすることになる。そのうえで大抵「体制が整っていない」と丁重に断られるんだが、いくつかの園からは「おたくが入れるかどうかはこちらが決めることじゃない」とか言われるは新鮮だった。ほんとですよねー区が決めてくれたらお互い楽なのにねー。こういう園はつまり看護師が勤務しているということだろう。体制整ってると強い。
病気の説明が悪いのだろうかと思って持病を説明するサイトをぐぐると「この病気の子の親は過保護になりがち。健常な子と同じように集団保育させましょう」的に書かれてる。そりゃ過保護にはなるでしょうよ。この状況で子の教育のためだけに保育園や幼稚園に入れる鋼メンタルな親はいねーよ。
主治医は「まあ保育園は義務教育ではないから・・・」と言いながら度重なる診断書の要求には全部応じてくれた。内容はいつも「集団生活に支障はありません」というもの。うちと同じ思いをしているたくさんの子を見ているのだろう。
横浜市の子供の医療費がタダなのもありがたい。今までかかったのは入院時の付き添いベッドレンタル代と診断書3通の代金だけ。わたしの年収が百万単位で上がらない限り、今後何年も毎日飲む薬代を含めずっとタダなのだ。
そんな主治医や医療制度に感謝して、不平不満を言わない主義を貫いていたら、結果的には「うちが決めることじゃない」と言い放った園に普通に通ってるよwww区が決めたんだから仕方ないよねwwwww1歳の時も3歳の時も普通の保活では入れなかった超絶近所の認可園に決まったのでほんとラッキーだわwwwwそういえば認可園って保育料タダなんだなwwwwww
わがままを言うこともあるけど、わがままを言われない方が逆に無理してないか心配になるのでどんどん言っていい
度を越えればそれは諭すけど
母である私は子と同じ幼稚園の卒園生だが幼稚園の先生、友達が嫌いで仕方なかった
まあ全体的には楽しんでいたが、先生や友達の理不尽な物言いが嫌で嫌で仕方なかった
90年代当時としては普通の物言いだったが現代の風潮をみると幼稚園児の私の感じ方は間違っていなかったんだと思える
しかし幼稚園が嫌いすぎて子供への問いかけもそれを前提とし過ぎてしまう
幼稚園で嫌なことがなかったか、苦手なお友達や先生はいないか、そんなことをつい聞きたくなってしまう
母の心配を知ってか知らずか子供はいつもうーんと考えて「ないっ」と言い切る
本当にないのかな
私は幼稚園が大嫌いな幼稚園児の経験しかしていないので、幼稚園で嫌な思いをしていない幼稚園児がいることを、自分の子供なのに信じることができない
本当は子供を信じたい
なのにあの幼稚園で嫌なことがないはずなどない、と心の底から信じることができないのだ
この心配な気持ちが子供に伝わって、母を心配させないために嫌なことはないと子供に言わせてしまっているのではないかという不安もある
しかし現代の幼稚園は私の頃とは違ってちょっとした怪我や子供同士のトラブルなどがあればどんなに些細なことでも電話連絡がある
だからお友達と少し喧嘩をして仲直りしたことなどへのフォローがすぐにできた
なのにそれ以外の気持ちのモヤモヤなんかを抱えていないか不安で仕方ないのだ
ちなみにそんなに大嫌いな幼稚園に子供を入れたのは母の猛烈な推しに負けたからである
実際に送り迎えなどをするのはフルタイムで働く私ではなく母なので、母の都合に合った園が一番いいのかと思って
我が家の小4の息子はお絵描きしていないと息が出来ないんじゃないかと思うほど、
ずっと絵を書き続けている。
万人が「この絵いいね!」というほどでもなく、面白い絵を書くなぁ程度のものだと思っている。
絵画教室等に行けば、もっとスキルアップできるのかもしれないけど、
本人が楽しく書き続けるのが一番!人に指導されるのは嫌だというので、
日々、紙とペンを与え続けて、書き散らかしたものを片付けなさい!と怒っている。
毎日、数十枚の紙が散らかって片付かないのも腹が立つけど、まぁ、それは本人の問題。
最近面倒なのが、2年ほど前に越してきた隣人親子。
隣の女の子も同学年でお絵描きが好きらしく、お絵描き仲間として時々遊んでいる。
が、この隣人母がイラストレーターを夢見て破れたタイプの人らしく、
自分の子よりも絵が上手いと認識した息子に対して、変な絡み方をしてくる。
目の前で息子が書き上げた某キャラクターの絵よりも、
卒園アルバムにあった幼稚園の時に書いた数字やひらがなを擬人化した絵をほめちぎり、
「そんな誰でも描く絵よりもこっちを磨けばいいじゃない!」とか言いだす。
あまりに自分の現在の絵をほめてもらえないので、息子は一時期、なんとも言えない絵を書き続けた。
それでしばらく親子での出入りは、それとなく控えてもらっていたけど、
コロナ後はまた時々親子で来るようになった。
そしたら、妙に息子に迎合するようになっていた。
「紙とペンがないと俺生きていけないわ」
「わかる、わかる。おばちゃんもね、そうなのよ!紙とペンがないと無理よね!
みたいな、妙に仲間意識を作ろうとする感じが非常に気持ちが悪い。
目の前で書いているあなたの娘は?と、つっこみたくなる。
「もう、これだけ気があうと、自分の子供みたいな気分になるわ!
みたいに言われて、息子ともども閉口し始めている。
ちなみに息子は、隣のおばちゃんにまったくもって親近感はない。
そして、息子の絵と隣人母の絵の質は違う。
勝手に仲間にすんな。
息子が人に絵を書くときは、見た人の感情を動かしたくて書いている。
人に見せた時に、笑い声や驚きの声が出たら、息子はいい笑顔をする。
「わぁ、上手い」は誉め言葉じゃないのだ。
これを息子が隣人母に言ったら、
「わかるわかるー。上手いって言われるのが当たり前すぎて、誉め言葉じゃないよね!」って、
答えが返ってきた。
だから、違うって。だから、絵のキモを見ないおばちゃんって言われるんだって。
第一声で「上手い」って言われるのは、その絵に「上手」以外の受け取り方を相手が出来なくて、
本人の書いた意図が伝わらなかったということだからなんだって。
彼にとって絵が上手になることは、自分の絵の意味を相手に伝える手段にしか過ぎない。
それ以外の絵を見せない隣人母とは、正直、相容れないタイプなんじゃないかと思ってる。
いや、それはそれですごい技術だと思うんだけど、自分と息子を同一視するにはあまりにも姿勢が違う。
音楽鑑賞中に落書きしてるんで近づいたら、その音楽のイメージをリアルタイムで書き続けてました!
初めての事態に動揺しましたが、授業はちゃんと受けているので、許可というかそっとしておきました!
自分の手帳の片隅やスマホに、自分で描いた絵の一つもないやつが、
人に褒められる場面でしか絵を書かないやつが、勝手にうちの息子を自分の子にとか言うな!
ああ、これ以上絡んでくるようだったら、同じ学区での引っ越しも視野に入れないとかなぁ。
■俺の経歴
平成20年 文科省幹部および最高裁判事、東京大教授を脅迫したとして警視庁から逮捕
平成24年 さいたま県警および群馬県警に対して偽計業務妨害をしたとして逮捕
平成24年10月18日 さいたま地裁越谷支部において1年10月の実刑判決
平成25年5月 国選弁護士の事務怠慢で最高裁に上告せず、実刑が確定し、東京拘置所で刑が執行される
平成25年7月 黒羽刑務所第10工場に配属(担当教官 長谷川 森脇)
平成30年6月12日 脅迫罪に対する第一回再審請求が棄却される (担当裁判官 東京地裁刑事11部 任介辰哉)
平成30年10月 再審請求棄却決定に対する即時抗告が棄却される
平成30年11月19日 再審請求棄却決定に対する即時抗告に対する特別抗告が最高裁で棄却される
平成31年3月8日 関東厚生信越厚生局にした等級変更処分の取り消し請求が棄却
令和元年8月 さいたま地裁越谷支部に偽計業務妨害罪に関する第一次再審請求
令和元年10月29日 再審請求棄却決定に対する即時抗告が棄却される