はてなキーワード: 卑下とは
回答やアドバイスが欲しい訳じゃなく、ただ吐き出させてくれ。
病気が酷くなりパートナーのための家事などが困難になり治療に専念するため離婚をして一人になった。
離婚した後パートナーはご両親がご健在で今は実家で暮らしてる。自分の両親は自分が若い頃に亡くなっている。
自分はその後障害年金を受給し足りない分を生活保護受給して生活費としてる。
福祉に支えられなければやっていけない人間など死んでしまえというような書き込みを見ると胸が痛い。
精神病を抱えての生活は社会に何も貢献出来ず生産も出来ない。社会に何も役に立ってないだろう貴様と言われても反駁できない。
でも死ぬのが怖い。病気は大変だけれど死にたくない。自分が消えるのが怖い。生きていたい。
お願いします。どうか福祉に支えられて生きる事を許してください。
そして精神障害や身体障害、発達障害や知的障害の病名など(メンヘラ、糖質、ハッタツ、境界知能等)をつかって他人を卑下するような事をネットで書き込むのは止めて欲しい。
障害や重い病気を持つ苦しみ、辛さ、理解して貰えない悲しみ、患者家族の苦しみ、本当に辛いんだ。
LGBTQ+の方々が少し羨ましい時がある。
様々な障害者を馬鹿にしてこけおろし死ねと書き捨て、病名症状名等をつかって他人を卑下するような事を書いても誰もとがめないし強く否定する声を上げる人もいない。
精神障害者が全て自己否定が強く希死念慮に苛まれている訳じゃない。
100年200年それよりもずっと先まで生きていたい自分がここにいる。
どうか、伏して乞い願う。100年先は無理だろうけど、限界まで生き続けることを許してほしい。
元のアーカイブ読みました。
27歳で初めてできた彼女と結婚しましたが、半年で離婚した男です。
それまで実らなかったデートをしたことはありましたが、元妻とのデートは自然体でいられてとても幸せでした。
私の場合、結婚して半年経った頃にたまたま「元妻が数年間とある男性のセフレだったこと」を知ってしまったことが離婚の原因です。
行為の詳細やその男性の元妻の扱い方などを知ってしまいました。
私は元妻にそのことを切り出し「この話は本当か?」と聞きました。
「自分が大切に思っている人間が、誰かにとっては取るに足らない人間でぞんざいな扱いを受けていた」という事実があまりに屈辱的で耐えられませんでした。
元妻のことを非常に清楚で上品な女性だと感じていたことも余計嫌悪感に拍車をかけたのだと思います。
離婚を切り出し、粘り強く「もう一緒に暮らせない」ということを伝え、最終的に離婚を受け入れてくれました。
彼女が震える手で長い時間をかけて届出の記入が終わった時、何かから解放されて心が軽くなった気分になりました。
しばらく淡々と仕事をするだけの日々を送っていましたが、そのうちに新しく職場に入ってきた女性と仲良くなりました。
それが今の妻です。
妻はあっけらかんとした性格で、付き合う前から自分がとんでもない男と出会った話や、逆にとんでもない理由で男を振った話を笑い話にしていました。
私が前妻との話を伝えた時に妻は「くっだらな!」と笑い飛ばすような人でした。
歳が離れていたことと、彼女のあっけらかんとして取り繕うことのない所に惹かれて付き合うようになり、最終的に結婚しました。
元増田さんも気を落とさず、自分を卑下しないで日常の出会いを大切にしていればいつか自分に合う人と出会うことができると思います。
『親の知能の問題』と『学校のお勉強とテストは得意だけど一切の働くための訓練してなくてワープーや無職になる問題』はあるの見本のような回答やね
強いて言えば、国公立のオンラインと図書館オンライン化は進めるべきくらいで、ほんましょーもな
教育に社会選別以上の意味がないと思っているからこういうことが平然と書けるのでしょうけど、学歴コンプは下記を噛み締めてもろて
バリバリの学歴主義で移民もハッスルしてて新卒枠などなく席取りゲームが苛烈なアメリカですら
データサイエンティスト・データアナリスト・データエンジニアって呼ばれる職に
高等教育を受けていない人も就いている
現代社会では、国ガチャに勝利し、高値で売れる能力があるからこそ、高所得を得られる
そういう人々は、ご家庭に問題がなければ学歴を得やすい、ただ、それだけのことであり、以上でも以下でもない
だから、低学歴でも高所得者も存在し、高学歴でありながらワープーや無職の人も存在する
しかし、ご存知だろうか?世の中には、高所得者や有名企業に在籍している人々、ある界隈で有名な人々(価値があるかどうかは別として)でも、
- 低所得で学歴コンプを抱えている人たちの目には、高所得の学歴コンプがどう映っているのか気になる(興味1)
- 高所得の学歴コンプに、大卒ですら無い世界的富豪がどう映っているのかも知りたい(興味2)
研究活動を主目的としない場合、一般的には高所得を得る為に高学歴を得ようとするもんだからな
ちなみにポンコツだけどペーパーだけ得意って人もいるが、就活はクリア出来ても、ちゃんと大企業に入った後に落ちこぼれているので、
みんな落ち着くべきところにちゃんと落ち着いている感はある
ご家庭のご両親のお仕事です
それから、大学は就職予備校ではなく、大学は専門家を育成するところです
IBM のエグゼクティブ チェアである Ginni Rometty は、2016 年に「ニュー カラーの仕事」という用語を作り出しました
IBM はまた、多くの職位から教育要件を取り除くことで、新しいカラー ジョブの波を推進しました。ロメッティとチームが最初に学位よりもスキルを優先したとき、IBM の職務の 95% で 4 年制の学位が必要でした。会社の手紙によると、2021 年の時点で、必要とするのは半数未満です。
米国国勢調査局によると、25 歳以上の人の 40% 未満が学士号を持っていません。これは、就労資格のある人の過半数 (62%) が、1 つの学位要件だけでジョブプールから除外されることを意味します。
「企業は、大学の学位を必要としない役割、仕事、規律、および責任があることをようやく理解しています」と Herrera 氏は言います。「彼らは、才能ある人を惹きつけたり採用したりすることに関して、自分たちの思い通りになっていないことに気付きました。」
「彼らは、履歴書に学位しかないエントリーレベルの個人を採用するのではなく、実績のある仕事、ボランティア、およびスキルの経験を持つ候補者をターゲットにしています。」
2016年にニューカラーの雇用モデルを採用して以来、Rometty氏はフォーチュンに、IBMが学士号を取得していない従業員は、学士号を取得している従業員や高度な博士号を取得している従業員と同じくらい成功していると語った. スキルを持った学位を持たない人材を採用しても、企業のビジネスに悪影響を与えることはありません。雇用にかかる時間を節約し、多様な労働力を育成するための資産となる可能性があります。
New Collar Jobs: Why Companies Are Prioritizing Skills Over School
君の名は。以前の新海誠は殆ど見てきてるし、小説にしたら短編にしかならないような内容を美しい映像で引き延ばす作品に好かんという気持ちを抱きながらも「それが新海誠という表現者」となんだかんだで心のうちに留めていたが。
君の名は。を見てから、こんなたくさんの大人が関わったら「こんないい感じの商業アニメできました!」という作りにショックを受け。その後の作品を観ることはなかった。
311をテーマに扱うにはまだ早過ぎるし、この映画は直接的過ぎる。アニメである利点は非有表現が得意なところだと思うので、誰にでもわかるレベルで描く必要は無かったと思う。
こんなに直接的な表現をした割に、「みんな当事者意識もとうね〜、トラウマ克服しようね!」みたいな浅いメッセージ性にもドン引きを通り越して、人の死や絶望を馬鹿にした悪趣味作品にしか見えなかった。
常世は常に綺麗な場所であって欲しい。人の思いが風化させないことが大事と言いながら、常世をあんな禍々しい描き方をするのは如何なものか。
すずめのトラウマ克服ストーリーだから、あれはすずめのトラウマの具現化であり。死者を禍々しく捉えてるのはすずめ本人であり。卑下することもなく受け入れることで、常世に静寂が戻るみたいな解釈もあるだろうし。色んな解釈をしてきた。
良いように捉え方を変えても、やはり直接的な表現は必要無かったと思う。着想を得たくらいに留めて、物語上でそれを表現するのはやめておけばよかったのではないか。
新海誠の作品はどれも綺麗事、他人事で絶望を味わったことがない人なんだろうなとしか思えない。だったら一層のこと、「当事者意識なんて持てるわけないよね?自分たちは平和に暮らしてるんだから。」という新海誠自身の心情を表現した方が価値ある作品になると思う。
ポスト宮崎駿として相応しい作品を作りたいのか。何か本当は表現したいという気持ちはあるんだろうが、表現者としては心の鬱屈が足りないんだと思う。
描写や細かい点の指摘は散々されているので細かく言わないが。お気持ち表明だけの便所の落書きでした。私が理解不足な点もあるでしょう。不愉快に思われる方いたら申し訳ないが、現状自分はこのように捉えている。
自己肯定感アゲアゲ文化は労働奴隷を育てるためという指摘は正しい。
アメリカはプロテスタンティズムの影響も強く、労働を通して実力で認められ勝ち取るという価値観が異常に強い。美醜などの価値観もこの枠組に包含されている。
反動で多様性が推し進められているが、それすら「あれも美しい、これも美しい、全部美しい」というように、「美しい=善」という、強弱や善し悪しの枠組から逃れられていない。
社会のものさしに沿って自己を肯定しなければならないのは辛い。ものさしが一方向(良い悪い=強い弱い)しかないので、そこにはまらない人間は自己を卑下するか増田の言うように欺瞞的な肯定を言い聞かせるしかない。
「良い」のベクトルは一方向性で、社会に役立つかどうかという視点に貫かれているので息苦しい。みんな違ってみんないい、よりも、みんな違ってみんなだめ、という方が気は楽だ。幸福な家庭は一律で、不幸は多様だというのと似ている。だめなままでも気楽に生きられるのが本当に多様ということである。
自分はこんなにだめなところがあるが、人間くさくていいじゃないか、自分は好きだ、と開き直ると生きやすい。実際、強い人間より弱さを見せる人間の方がよほど好かれる。だめなままで、社会の基準を半分降りて生きる物語は寅さんなどに代表される。
社会のものさしは社会維持や拡大をめざす構造上それを大っぴらに許容しない。許容される必要があるだろうか?と最近思う。半径を狭くして、社会とは違うものさしを持ちたい。