はてなキーワード: 動脈瘤とは
その日の事をつらつらと書いたら長くなってしまった。
良くある義両親への愚痴だ。
頭が痛いと数日言っていたのだが、念の為と行った総合病院でまさかの大動脈瘤診断。
とりあえず義両親に連絡してすぐ来てもらう事にした。
幸いにも土曜日、義両親はすぐ向かうと連絡がきた。
仕方ないので指示された入院セットを鞄に詰めて、1歳児をおんぶ、3歳児に迷子ひもを付けた上で手を繋ぎ、5歳児にはミルクの入った袋を持ってもらって駆けつけた。
某保険会社のCMで渡辺直美さんが「あなた!」と病室に駆け込む姿そのままだ。
否、化粧もしてないし子供もパジャマに上着引っ掛けただけなのでそれより酷い。
とりあえず入院セットを置いて、書類諸々にサインをして、2人の風邪が悪化する前にお暇した。
15時頃義両親が来た。
「ねぇマスダさんは病院に行かなくていいの?」
30分事に聞いてくる。
こっちはまだグズグズの1歳児をおんぶして、突如来た義両親に出せるよう夕飯の支度をしているのに。
「誰も居ないと退屈よね」
「面会は8時までだっけ?行かなくて大丈夫?」
なら貴方が行ってくれ……
子供や私の体調を慮る内容は一切無く。
私じゃないと泣き叫ぶ1歳児と、
また熱が出てきたみたいで不機嫌な3歳児と、
目を離すと要らんことしかしない5歳児の方が、
正直リタイア年齢もとうに超えた義両親(特に義父)に子供を預けるのが危なかっしい。
今も3歳児を抱っこしようとして拒否され思いっきり蹴られてる。
育児にも参加してない団塊の世代に孫の世話など怖くて預けられん。
夕飯は簡単で良いのよ。
という言葉に甘えて、昨日買ってた惣菜とチルドレトルトの諸々を温めて出した。
配膳も手伝わない義父の前に並べるだけ並べて、1歳児と3歳児を連れて寝室にこもった。
5歳児には悪いが、好きな物並べたから喜んで食べてくれるだろう。
1時間かけて2人を寝かしつけて戻ると私の分だけ残って後は食器まで洗われていた。
良かれとやってくれたのは良くわかる……が、そこは箸立てでなくスポンジ立てだ。
というかどのスポンジ使った??
5歳児も寝る時間という事で義両親も寝ると言い出した。
風呂はと問うが要らないと言われる。
シャワーだけでもと言っても断られたので仕方ない。
2階の客間に案内しようとすると、自分でするからと客間兼物置に入ってく。
(使ってない部屋が3部屋ある。)
まて そっちじゃない
だが、義母は聞かずに隙間に布団を引いて寝るという。
シーツを出して渡してる間に1歳児が泣いてるのが聞こえたのでそのまま退散した。
翌日、シーツを片付けようと行くと使われて無かった。
最後車代を包んで渡した。
義母は不機嫌になって帰って行った。
また来週末来るらしい。
まさかこんな展開になるなんて思ってもいなかった。彼氏いない歴10年。親の介護に明け暮れてもう咲かす花もなくこのまま人生終わると思ってた。
最初に彼にこのパチンコ屋で出会ったのはかれこれ5年くらい?もっと?あんまり覚えていない。だって全然タイプじゃなかったんだもん。
でも、凄く目立つ人ではあった。豪快なのだ。シマの大半は彼のことを知っていて、彼もシマの大半の客を知っていた。そしてよくしゃべる人だった。誰とでも。
僕も知人は多い方だけど、彼ほどではない。
彼は頭の低い人だった。なんで僕みたいな人間に頭を下げるのだろうと思っていた。身なりはいつもキチンとしていたし、髪も小奇麗にカットしていた。そしてなにより貫禄があったし、賢そうだった。
はじめて会話したときのことを思い出した。向こうから声をかけてきたのだ。自分が単発当たりでガックリして打っていたときに彼は僕の台を覗き込み「入ってるよ」と教えてくれた。
そう、ゼグが当たっていることを教えてくれたのだ。「あっ、そうなんですか?」と半信半疑で打っているとパールフラッシュが眩しく光り、キュインキュイン鳴リ響いて確変に変わった。
「あっ、どうも」「でも凄いですね。全部覚えてるんですか?」と訊いたら彼はにっこり笑ってうなづいた。
今年に入ってから彼はレインボー(出玉が5万円以上になると出玉レベルの色がレインボーに変わる)になることが多くて、目立っていた。
「おじさん、最近調子いいですね」「今日はいくら勝ったんですか?」と訊くと
当り前のように「今日は今のところ8万くらいかな?」「この前は12万勝ったよ」と教えてくれた。
パチンコが傾斜産業になって久しいことは誰もが知ってる。この店が遠隔、ホルコンなんでもありな店なのもみんな知ってる。みんな知ってて来てる。(だって田舎の地域密着型のホールってどこもそんな感じでしょ?)
はは~~ん。このオヤジさんサクラなのかも、と思っていた。でも違った。負けも凄かったから。
そんなこんなで、羨ましさと妬ましさで「今日も凄いですね~」なんて言いながら首筋あたりや肩らへんをボディタッチしていたら「肩もんでくれたら嬉しいなぁ」なんて言われたりして。
でもまだ好きという感情はなかった。でも惹かれていくのをなんとなく感じた。
そして決定的な事件が起こった。
彼は僕の左横の台で打っていた。そして気付いたときは、彼の右手が僕の股間にあった。ギョッ!!!
彼は僕のコカンをまさぐってつまらなさそうに笑ってこう言った。
「なーんだ。立ってないじゃん」「立ってると思ったのに~」
僕はノンケを装いその日はなにもなく終わった。
え~このオヤジなに、なに?ホモなの?でもこんなところで触る?普通じゃないよ?ここはハッテン映画館じゃないし、第一暗くないし...
少し警戒した。頭おかしい人?でも会えばいつもどおりに会話する。
二週間くらいしてからまたタッチしてきた。今度は少し長い。「あれ~?、また立ってない...(笑)」
僕はノンケを装いその日もなにもなく終わった。
どうしよう?と思った。恋が始まるかもしれないと焦った。
しばらく経ったある日、僕がパチンコ屋に到着したときに帰る彼とバッタリ会った。彼は車を停めた場所が分からなくなってしまって、困っていた。(それが本当か嘘かは知らない。ただ一緒に車を探して、運が良ければホテルにしけこむつもりだったのかもしれない。)
僕がホールに入ると、いつの間にか彼もホールに戻り打っていた。
「打ちながら考え中」と笑った。当たりに夢中になってるといつの間にか彼は帰っていた。
翌日、「お父さん、認知症になったんじゃないよね?」と訊いたら
真剣な顔して「脳動脈瘤があるんだ。あと5年って医者から言われてる」と沈んだ声で答えた。
そしたら彼は恥ずかしそうにくしゃくしゃに笑いながら頷いて遠くの台に移動していった。
彼の意思表示ははっきりと分かった。僕のことが好きで僕とエッチしたい。
今度は僕が答えなければ。
このまま何もない人生よりも何かある人生の方がいいよね?つぼみのまま朽ち果てるより小さな花でもいいから咲かせた人生がいいよね?
彼はほぼ毎日パチンコしてる。その理由も分かった。いつ破裂するか分からない動脈瘤。いつ終わってしまうかもしれない人生。考えれば息が詰まってしまうよね。悩んでたら頭がおかしくなりそうだよね。だからパチンコで紛らわせてるんだ。
そして、思い切った行動を取ってしまった。思い切ってアタックしてしまった。
僕の答は
YES!
自分用まとめ。今年は医療増田が充実していたので、別立てとした。
俺的増田大賞2017は、「骨髄提供をしてみた」「骨髄移植させて頂いた」の組み合わせに進呈。
02/14 1人で初ラブホテルに行った
02/28 俺はオークだった。
04/19 同人界は変わらないのう。 でも婆が若い頃はもっと凄かったぞ。 20年以上..
06/03 偏差値30の高校は、間違いなくジャパリパークだった
07/07 モブおじさんと私
11/29 俵の中
08/05 人工妊娠中絶を受けた話
11/10 骨髄提供をしてみた【追記/ 11/16さらに追記】 11/10 拝謝】骨髄移植させて頂いた【勝手返信
anond:20171110125209 anond:20171110205203
02/26 妊娠した。緊張してる。 05/23 昼ご飯食べて、旦那の布団(ほんのり旦那の香りつき)に寝っ転がって、旦.. 12/26 出産しました。その節はお世話になりました。
anond:20170226082819 anond:20170523141330 anond:20171226191304
05/08 明後日デートなんだ 緊張してきた 30にもなって デートでこんなにどきどき..
07/02 赤い靴を買ったぞ
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20170117145052
ここだとどうでしょう
https://column.clintal.com/disease/4937
怖がらせるわけじゃないけど、乱視で矯正があってないと二重に見えるとかもあるらしいけど
脳だったら??? 電話で市区町村の医療相談してもいいのでは???大丈夫ですか。
頭痛+物が二重は怖いみたい。
脳に動脈瘤がある場合、動脈瘤が大きくなることによって動眼神経が圧迫されて物が二重に見えることがあります。動脈瘤は破裂すると命の危険性が高いくも膜下出血を起こす可能性があるので、緊急手術になることも少なくありません。
複視のほかに、まぶた(眼瞼、がんけん)が下がっている(眼瞼下垂)、黒目に光を当てても瞳孔が開いたままといった症状が現れ始めると破裂の可能性が高くなっているとされています。
あるいは、疲れ眼であるのがいいのだけど。
"生まれつきタトゥーの入ってる人はいないのに差別差別いうのおかしいし"
人格(好き嫌いや宗教やファッションなども含む)の形成には遺伝と環境の二つの要因があって、生まれてくる国や親を選べないんだから、生まれつきタトゥーが入ってるかどうかは関係ないよ。全てひっくるめて人格だし、お互いに尊重し合うべきだと思う。
"今回禁止されているのは免許なしにタトゥーを入れる仕事であり、タトゥーをしている人じゃないから"
「今回禁止されているのは免許なしに米を作る仕事であり、米を食べる人じゃないから」に言い換えたら、これがタトゥー文化を潰す判決だと気付いてもらえるかな。文化を潰すのは差別だし、それに気付かないのは差別意識の無自覚だよね。
他のものに言い換えてみれば、どれだけ変な事態なのかわかると思う。偏見や先入観があると、それに気付けないんだよね。脳みそは大丈夫だと思う。激しい頭痛で脳動脈瘤検査(
こんな愚痴みたいな記事の返信に推敲していただけてるようで嬉しい。
ロリコンに関しては内心の自由は保証する、表現はゾーニングをしっかりする、児童虐待、特に性的虐待の被害者のケアにはまだまだ整備することが多いと聞くし、加害者は単に罰を与えるのではなく治療を課すべき。「わたしは、ぜったい、だいじょうぶ」ってやつね。ていうのが個人的な考え。
なにか反論があれば何でも書いてください。よろしくね。
小児の片頭痛はどのように診断するか(周期性嘔吐症、腹部片頭痛)
http://www.jhsnet.org/GUIDELINE/7/7-2.htm
http://www.okayama-u.ac.jp/tp/release/release_id300.html
医者は恐らく筋緊張型頭痛だと考えられるが、念の為頭部MRIを撮るかと言ってその日のうちにMRIを取ることになった。MRIはCTと違い放射線ではなく磁気で人体内部を走査するもので、1回に40分ほど、1万円くらいかかった。
3テスラ以上の機械で行うMRIは1600点である。単純計算で4800円である。
この日は初診料、採血なども加わったので1万円程度になったと考える。
そこで初めて医者から「未破裂脳動脈瘤」という単語を聞かされることになった。
http://www.sankikai.or.jp/tsurumaki/disease/brain/miharetu.html
http://neurosurgery.med.u-tokai.ac.jp/edemiru/miharetsu/
未破裂脳動脈瘤について
https://square.umin.ac.jp/neuroinf/medical/102.html
脳動脈瘤の原因について尋ねたが、未だによく分かっていないらしく、先天的に血管の壁が薄いところがあって、そこが年を経ていって膨らんでいくというふうに考えられているということだった。
知られているリスク:
家族歴:1親等以内の2人以上に脳動脈瘤がある場合は一般の人の4倍程度
多発性嚢胞腎では10%程度
歯周病(https://medicalnote.jp/contents/160216-002-PZ)
関東では全身麻酔でやることが多いらしいが、関西ではカテーテルを入れる入り口である太もも付け根に局所麻酔をするだけが多いらしく、関西の病院だったので局所麻酔だけだった。
治療中にどこに血栓が飛ぶかわからんから全国どこでも目が覚めたままでやると思うけれど。
くも膜下出血を起こしてからでは遅い。MRIを撮ったことがない人、特に片頭痛に悩んでいる人は一度MRIを撮ってもらうことをおすすめする。
こういうお勧めはどうかなと思う。今回は片頭痛とは違う痛みだから医師の判断でやったわけでしょ。(たぶんAVMのほうを除外したかったと思う)医者に任せよう。
むしろ頭痛がある人は頭痛日記つけて、頭痛専門医にかかろう、ってアドバイスが良い。
恥ずかしながら、僕は研修医1年目なんだけど、僕より知識があるようですね。
患者さんの気持ちになれとよく教えられるんだけど、治療後の後遺症とかもありますよね。そういうの含めて患者さんは生きていくと。
1年前,数日間頭痛が続くことがあり,病院に行った.もともと偏頭痛持ちで小学生くらいのころから定期的に頭が痛くなる体質だったが,そうした偏頭痛は大体半日くらいで治るので心配になったのだった.
医者は恐らく緊張型頭痛だと考えられるが,念の為頭部MRを撮るかと言ってその日のうちにMRを取ることになった.MRはCTと違い放射線ではなく磁気で人体内部を走査するもので,1回に40分ほど,1万円くらいかかった.
結果が出るのには1週間程度かかると言われ,その日は家に帰った.私は緊張型頭痛だったのかと安心し,それから数日して頭痛が収まったので,MRの結果をうっかり聞くのを忘れたままそれから1年が経った.
ある日,病院から手紙が来た.手紙には頭部MRの検査結果でお話したいことがあるという旨が書かれていた.頭痛はすっかり良くなっていたが,私は心配になり,1年ぶりに病院へ足を運んだ.
そこで初めて医者から「未破裂脳動脈瘤」という単語を聞かされることになった.
未破裂動脈瘤という病気がある.未破裂動脈瘤は動脈血管の何らかの理由で薄くなった部分が風船の様に膨れる病気で,それが破裂すると大量の出血が起こる.この未破裂動脈瘤が脳の動脈に起こるのが未破裂脳動脈瘤である.
逆に,破裂さえしなければ,瘤が相当大きくない限り(そもそも瘤が破裂せずにそこまで大きくなることは稀)何らかの症状が出ることはまったくない.また破裂するタイミングは予測ができない.
脳と言っても,瘤が脳を覆っているくも膜の内側にあるか外側にあるかで破裂した場合の結果が変わってくる.
脳動脈瘤がくも膜の内側で破裂した場合はくも膜下出血となり,1/3の患者が死亡,1/3の患者が重篤な障害,1/3の患者が特に何もなく日常生活に復帰できるという話だった.外の場合は硬膜外出血という別の病気となる.
私の場合は左目の奥,くも膜の内側にあるためくも膜下出血の恐れがあるということだった.
聞かされたときはなんだか現実感がなかった.「この一年で破裂しなくてよかったですね」「そうですね.ははは」という会話をして再度MRを撮るということになった.
脳動脈瘤の原因について尋ねたが,未だによく分かっていないらしく,先天的に血管の壁が薄いところがあって,そこが年を経ていって膨らんでいくというふうに考えられているということだった.
タバコやアルコールが後天的な原因と考えられているらしいが,私はタバコも吸わないし,アルコールも一滴も飲まない.なりやすさは遺伝するらしいが,くも膜下出血で亡くなった近しい親族はいない.男性より女性の方が若干なりやすいということだったが,私は男性である.なぜ動脈瘤が発生したのかはよく分からなかった.
再度撮ったMRの結果としては,瘤の大きさは1年前と変わっていなかった.未破裂動脈瘤は破裂する前に大きくなることが多いため,期せずして1年間観察することになったが,とりあえずは安定しているように見えるということだった.
動脈瘤の手術を受けられる病院への紹介状を書いてもらい,今度からはその別の病院に通うことになった.
新しい病院で脳血管造影を受けた.これは造影剤を流すためのカテーテルを腕から脳まで入れてCTで血管の三次元構造を撮影するもので,血管の様子を3Dモデルとして見ることができるという優れものである.
造影剤が流された瞬間,血管がカッと熱くなるのが分かり,普段は意識することのない自分の脳内の動脈がどこを走っているのかが体感として分かるという斬新な経験をした.
理由はよく分からないが,CTを撮っている時に,閉じている目の裏に飛蚊症のようなつぶつぶが動くのが見えた.
検査の結果,私の動脈瘤は細長い形をしており,長径が4mm,短径が2mmほど,先端に乳房に対する乳首のようにぽっちりと膨れている部分があることが分かった.
「通常5mm以下で形が均一なものは様子を見るということが多いが,君の場合は5mm以下だが形が不均一で,daughter sac(ぽっち)があり,かつ平均余命から考えて君はまだあと30年は生きてもらう必要がある.手術したほうがいい」医者が言った.「普通,君の年齢でこうした未破裂の脳動脈瘤が見つかることは珍しい.ほとんどが破裂してから病院に運び込まれて緊急手術して死んだり障害が残る」「破裂する前に見つかってよかったね」
破裂する確率はどれくらいか尋ねると,形や大きさにも依るが君の場合はだいたい1年で1%から2%くらいじゃないかなということだった.「君が80歳のお爺さんなら様子見するところなんだが」長く生きるならその間に破裂する確率は累積してやはり高くなる.
「そんなベルヌーイ試行みたいなことを言われても」と私は思ったが,実際そんなもんなのかもしれなかった.要は不発弾がいつの間にか脳内に埋まっていたということなのだ.
昔からある偏頭痛はこの動脈瘤と何か関係あるのか問うと,「全く関係ない」ということだった.「偏頭痛は生まれつきのもので,治るということはなく,それぞれの患者さんが偏頭痛の起こるきっかけを把握して予防するしか無い.ちなみに60を過ぎると起こらなくなることが多い.今は良い頓服薬があるから出しておこう」というので偏頭痛用にマクサルトという頓服薬を貰った.「頭痛があったからこそ今回動脈瘤が破裂する前に見つかったわけで,何がどう転ぶか分からんね」
私は病院からの帰り道に死ぬまでに破裂する確率を計算してみた.医者が言うように1年で破裂する確率が2%とすると,98%の確率で来年も破裂しないまま今と同じように生きているということだ.2年後も破裂しないままでいる確率は0.98*0.98でだいたい96%すなわちこの2年間の内に破裂する確率は100-96で4%ということだ.同様に平均寿命である80歳まで生きるとすると,残りの寿命は54年,0.98^54は0.34.34%の確率で破裂しない.逆に言えば,80歳までに66%の確率で破裂するということだ.
実際のところは破裂しても1/3の患者は日常生活に復帰できるので,80までにくも膜下出血で死ぬか重篤な障害によって死んだ感じになる確率は0.66*(2/3)で44%ほどと言える.
手術せず破裂しないのを祈るのは分の良い賭けとは言えなかった.
同様に,今から24時間で破裂する確率はどれくらいだろうと考えてみた.1年で破裂する確率を同様に2%とし,1年を365日とする.1日24時間で破裂する確率をxとすると,(1-x)^365=1-0.02であり,これを解くとxはだいたい0.000055となる.
すなわち0.0055%で24時間以内に破裂するということだ.後で調べて分かったが,これはだいたいスマホのガチャゲーで一回の試行でトップレアを引くのと同じくらいの確率である.私はとりあえず安心した.
同時に,自分って死ぬんだなと思った.幼い頃に死んだ祖父の冷たくなったゴムのような手を思い出し,それから交通事故で亡くなった小学生の時の親友を思い出した.
思い返すと,私は日々を死んだように生きてきたなあと思った.そしてこのまま突然死ぬのは嫌だなあと思った.死んだら何もかもどうでもよくなるので,生き残った場合に備えるべきだと思った.今まで研究にも就活にも後ろ向きな態度だったのを恥じた.
出すつもりのなかった研究予算に無理やり応募し,興味のある企業のインターンに応募した.
脳動脈瘤の手術のやり方は2種類ある.ひとつは頭を割り開き外からクリップで瘤を留める方法,もうひとつはカテーテルで血管の内側からプラチナ製のコイルを瘤内に詰める方法である.私の場合は瘤の位置がかなり脳の奥にあり,クリップで留めるのは難しいということだったので,カテーテルでコイルを詰めることになった.SFが好きなのでいつか身体に機械をインプラントしたいと思っていたが,まさか治療のためにこうして脳内に物体をインプラントすることになるとは.
コイルが詰められた瘤は血が血栓として固まって破裂しなくなり,二週間程度で膜ができて固まった血栓が飛ぶ心配が無くなるということだった.ただし,術後二週間は血栓ができにくくなる薬を飲む必要がある.
治療の過程でカテーテルの様子をCTで観測する必要があり,そのため長時間放射線に被爆することになるが,最近の機械は少ない放射線でかなり見えるようになっているので,そこまで気にする必要はないらしかった.昔は皮膚が放射線でやけどして赤くなったり,まれに白内障になったりということもあったらしいが,今はそんなことはまったくないとのこと.実際に放射線で皮膚や目に異常が起こることはなかった.
手術の成功率はだいたい97%程度ということだった.単純に考えて2年様子を見るくらいなら手術したほうが良いということだ.私は手術を受けることにした.
結論から言うと手術はうまくいった.関東では全身麻酔でやることが多いらしいが,関西ではカテーテルを入れる入り口である太もも付け根に局所麻酔をするだけが多いらしく,関西の病院だったので局所麻酔だけだった.
なので手術中は自分の脳内でカテーテルが動いているのが分かった.血管自体に痛覚を感じる神経は無いらしく,違和感だけで痛みはなかった.術中はバルーンで血流を一部止めるということだったが,脳というのはよくできていて,一箇所を堰き止めても全体の血流が滞らないように根本の血管が輪になっているので大丈夫だという話だった.後で医者曰く,「いつもは破裂してくも膜下出血を起こして運ばれてきた高齢者の動脈硬化した動脈瘤ばっかり手術してるんだけど,未破裂だし動脈硬化も無いし手術はやりやすかったよ.血栓による脳梗塞も見たところ起こってない」とのこと.
結局のところ手術のための入院で最も辛かったのは尿道カテーテルだった.脳に異物を入れるのよりも尿道に管を入れるほうが痛いというのも妙な話だが,入れるのも痛かったし,抜くのも痛かったし,抜いてから排尿するのも勇気を振り絞る必要があった(痛いが思い切って出すのがコツ).抜いた後排尿しようとして時折尿道から空気が出てくるのは奇妙な感覚だった.
手術直後は凄まじい頭痛が起こった.偏頭痛とよく似た慣れた痛みで,今までの偏頭痛では見たことのなかった歯車のようなギザギザしたものが空中に見えた.朦朧とした意識の中でこれが閃輝暗点というやつかと思った.気分も最悪で手術後にコイルの様子を見るためのMRを撮っている途中で我慢しきれず吐いてしまった(大変申し訳なかった).
翌日になるとだいぶ頭痛は収まったが,それでも一ヶ月ほど偏頭痛のような頭痛は続いた.最初の一週間は眠れないくらい痛い時もあった.他の脳動脈瘤の治療をした人の話を調べると術後にこうした頭痛を起こしている人はいなかったので個人差があるようだ.
1日経って,シャワーを浴びるために頭に湯をかぶった時に,左目に奇妙な筋が走った.明るいものを見て目が部分的に眩んだような感じだ.初めは何か明るいものを見て焼き付いているのだろうと思ったが,いつまで経っても消えなかった.閃輝暗点の一種だろうかと思い,しばらく様子を見ることにしたが,一向に消える気配が無い.翌朝眼科を受けたところ,左目の網膜の一部に浮腫ができているということが検査で分かった.原因は不明で,考えにくいが詰めた動脈瘤から血栓が網膜の血管に飛んだ恐れがあるということだった.通常,血管にはそうした血栓を通さないための仕組みがあり,そうした血栓が目に行くことはあまりないことらしい.
私としては熱いシャワーを頭に浴びたのがよくなかったのではないかと思う.それで血管が広がり血栓が通過してしまったのではないか.眼科医は「時間がかかるだろうが,浮腫は軽度のもので年齢的に若いから治る可能性が高い」と話した.神経の修復を促進するためのビタミン剤と血行を良くする薬を処方された.もしかしたら左目はずっと一部が見えないままなのかとウンザリしたが,見えていなかった左目の奥の動脈瘤という危険な穴が,命を脅かさない代償として目に見える位置に移動したのだと考えることにした.
退院後は血栓を作りにくくする薬を二週間飲んだ.応募していた企業のインターンが受かったため,それから二ヶ月の間インターンに参加して企業で結構忙しく働いたが,最初の方は頭痛が残っていた以外に動脈瘤の治療が何かの問題になることは無かった(目も実際のところそんなに気にならなかった).痛みや症状がある内は不安で頭が一杯になるかもしれないが,少なくともそうした不安がずっと続くことは決してないということが分かった.人間は適応するのだ.
それから数カ月が経ち,今現在は左目の網膜上の浮腫もほぼ無くなった.目が暗順応する過程でもやもやとした揺らめきが時折視界の外側に見えることがあるが,ほとんど日常生活する上では気にならなくなっている.
また,あれだけ頻発していた偏頭痛がほとんど起こらなくなり,起こっても以前ほどの痛みを伴わなくなった.思えば偏頭痛で毎回痛かった部分が動脈瘤のある場所だったのでやはり何か関係があったのではないかと思う.
手術前に応募した研究予算はやはり燦々(*1)惨憺たる結果だったが,インターンさせてもらった企業からは内定を貰ったので,来年から務める予定である.
脳動脈瘤は年齢に関係なく成人の5%程度が持っていると言われている.ほとんどの人にとって知り合いの内の数人は持っているということだ.ほとんどの脳動脈瘤は小さく,破裂することは稀だが,それでも全ての脳動脈瘤は破裂してくも膜下出血を起こす恐れがある(というかほとんど全てのくも膜下出血は発見されていなかった未破裂動脈瘤が破裂することで起こる.逆に未破裂脳動脈瘤が無い人はくも膜下出血を起こすことはほぼ無い).
くも膜下出血を起こしてからでは遅い.MRを撮ったことがない人,特に偏頭痛に悩んでいる人(*2)は一度MRを撮ってもらうことをおすすめする.
たとえ,未破裂脳動脈瘤があったとしても,パニックになる必要は無い.5%は引くかもしれないが,スーパーレアを引くのは難しい.
(*1) 20170108修正.コメントで多数指摘があった通り「燦々」は誤字.燦々たる結果だったらよかったのだけれど.指摘ありがとうございます.
(*2) 20170108修正.偏頭痛と脳動脈瘤は無関係なのでこういった提案はおかしいという指摘があったが,その通りである.医者の言によれば,脳動脈瘤を持っている人の中には偏頭痛持ちの人もいればそうでない人も脳動脈瘤が無い場合と同じようにいるということだった.ただ,私の実体験として,脳動脈瘤の治療後に偏頭痛の発生する頻度が激減したことと発生しても以前と比べて痛みが軽くなったことから,私の場合は両者には何らかの関係があるのではないかと考えている.しかしながら,これはたかだか一個人の体験から来た本人の推量であるので,一般的な話と考えるのは無理があった.指摘ありがとうございます.
身体の不調を訴えて来院する人に、問診でいろいろ聞いてから診察と検査をはじめる。
半分ぐらい終わってから、
と声をかける。大抵はうーん、と一度首をかしげるので、
「頭のてっぺんから足の先まですべての異常を内科医には伝えるもんです。水虫だろうが虫歯だろうが全部です。全身を診るのが僕らの科です」というとやっと、
(これは本当で、虫歯が動脈瘤の原因になったりするのだから本当にすべてを伝えるのは大事なこと。だからほんとうは診察の時は本人もしらない発疹があったりするから個室で裸になるべきなんだけれど時間がなくて全員にはできません。何度も通っている人はそのうちちゃんと診ています)
「1か月前からワイ○ックスをもらっていて…」というような話をはじめる。
「昨日からトレ○ミンに変わりました」
という経過でなんとなく精神科の先生が考えていることがわかる。薬歴重要。
それはそれとして、何を言いたいかと言うとせっかく医者に来たんだから利用してくれないと損じゃない?
「うーんと、何を話そうかな」
「めまいって二通りあって、ぐらぐらとぐるぐるがありまして、そのうちぐらぐらの人が来るとする」
「そんじゃあどこかにつかまってごらん、と言うわけです。そうするとぐらぐらがちょっと良くなる」
「当たり前の事なんでして、支えがあるとふらつきは楽に感じるわけですね。それで回復を待った方が得じゃない」
「あなたが船だとして、風が吹くと波が起きて不安定になりますよね。風は職場のことだったり家族のことだったりするんでしょう」
「船が小さくて不安定なのだから一生懸命大きな船になろうと努力する。そういう人が多いような気がします。みんな真面目なんですね。あなたは最初僕にそのことをおっしゃらなかったからなるべく自分で解決しようとしているんだな、っていう印象を持ちました。でもいったんドックにはいらないと船を大きくは改造しにくいでしょ?ちょっと安定させた方が良くない?」
「ちなみに僕は人間ドックは嫌いなんですね。彼らはそういう役割はしないから勘違いしないでね。ドックのあとにカウンセリングの時間がある場合はいいです。1万円ぐらいのオプションでカウンセリングがついているドックはあるのですが、それは良いと思うけれど、これは余談です」
「ああ、それで沢山のロープで固定した方が安定しますよね、船。水はぬいてないとして」
「そういう支えっていっぱいあったほうが良いと思うんです。血縁の方でも良いんだけど、ときどきそれではだめ、って時もあるでしょう?」
「もちろん信用できるお友達もおられるでしょう」
「これから残りの検査をしますけれど、なんとなく異常がない、みたいな言い方はしません。こういう理屈であなたは大丈夫である、この病気にはなりにくい。そういう事を申し上げる予定。そういうのがあなたに役立つとうれしいです」
「いろんな不安があるときには、どうぞつかまっちゃってください。つかまられた方が単独で立っているとふらふらするんですけど、人間社会ってそうじゃなくてまた別の人とつながってますからね。本当は電車の中だってお互いに手をつないじゃえば安定するんだと思うんですけれどね。まあそれは見ているときっと可笑しいですよね。でもそうやって支えあうと安定するんだと思うんですよね。内科には全身のことを話してください、からちょっと話がそれてしまって申し訳ないんだけれど、まあ来ちゃった以上は利用した方が得ですよ、って話です。じゃあ次の検査しますよ」
病名の使い方の基準が厳密化されたという可能性を検証すれ。
あと、著名人の訃報だけに注目したってしょうがないんじゃないか。
って大騒ぎしてる人もいるくらいだから、
今、おれががんになったら放射能のせいだと言われるんだろうな
そんなに大変なことじゃない。
他の死因は知らん。正直、なんとも言えん。
だが、急性大動脈解離だけは別だ。
脳卒中、大動脈瘤破裂、脳梗塞、心筋梗塞、急性心不全、突然死における病名は前からいろいろニュースでも見かけるし、知識としてはあった。
が、急性大動脈解離という病名をきちんと認識したのは、ここ1年くらいになってだ。
それまでは、聞かなかった。あるいは、聞いたとしても忘れるくらい、数は少なかったのだと思う。
それが、ここ1年、「またこれか」だ。完全に憶えた。
以前からあった病気だろうが、少なくとも頻繁に耳にするようなことはなかったはずだ。
みんなだってそうだろう?
・ただごとじゃなさそうだったので救急車を呼んだ。
・救急車到着、即行病院搬送かと思いきや、「普段服用している薬は?」「持病は?」「保険証は?」とか色々訊かれた。それが死の原因ではないけど、かなり焦ったしイライラした。
・服用薬のリストを作って、保険証と一緒にわかるところに置いておくといいかもと思った。特にある程度の年齢になったら。
2.死んだとき
・今まで特別病気とかしたことのない人だったので、ただただ急過ぎて意味が分からなかった。
・死因は大動脈瘤破裂。これと心筋梗塞と脳梗塞とくも膜下出血あたりが突然死四天王みたい。
・死んでからすぐに「どこの葬儀屋に頼むか決めてくれ、ここで」と言われた。マジか。
・結局農協へ依頼。
・シンプル火葬とかのサービスもあるけど、その辺を利用する決断をこの場で下すのは難しい気がした。故人が生前からシンプル火葬希望の旨を周知徹底しておくとかでもない限りは。葬儀業界は市場原理とかあんま無いみたいで、地場に根付いているかがほぼ全て。
・逝ったのは月曜だけど、最寄りの斎場が混んでるらしく通夜告別式は次の土日に行うことに。冬の方が他の季節より死ぬ人が多いみたい。
・「今くらいの寒い時期なら、ドライアイス敷いとけば一週間近くは平気でしょ」とのこと。そんなわけで我が家に仏が5泊。
・その日の内に葬式の見積もりとか色々もらう。誰が花をいくつ贈るかとかそんなのに気を遣う。本当はそんなことより泣きたい。
・実際、すぐ焼かないで何日か一緒にいられたのはラッキーだったのかもしれない。
・納棺した仏に顔を近づけ過ぎると、ドライアイスから放たれた二酸化炭素をめっちゃ吸い込むので注意。
・戒名たけーよ。1文字3万円くらいよ。いっそ戒名ジェネレータとかあればいいのに。
・どこの誰なのか正直よくわからない人達が何人も来る。でも、ありがたい。
・離れて住んでる親戚とかって、盆と正月と身内が死んだときくらいしか会わないね。
・アサヒスーパードライがめっちゃ届く。エビスとかプレモルは何となくダメで、こういう場だとスーパードライなのかね。ウエットな場なのにね。
・坊さんが地味めの袈裟で登場。何を言ってるのかよくわからない。
・式の司会担当のおばちゃんがやけに抑揚をつけた声で「天国から見守っていることでしょうーー」とか話す。三文芝居みたいで興ざめ、でも、泣く。このおばちゃんに3万円。
・寿司やらを皆で食べる。会場には瓶を下げてくれたりするおばちゃんが3人。このおばちゃん達に一人当たり1万円。
・嫌味なくらいに気持ちのよい朝。
・昨日よりもかなり高級そうな袈裟を纏い、坊さん満を持して登場。相変わらず何を言っているのかは不明。
・式が終わり、皆で棺に色々詰める。もう焼かれてしまう。仏をよく触る。泣く。
・「1時間程度で火葬が終了しますから」と、待っている間にまたプチ宴会。酒を飲むも、酔えない。
・「ご遺族の代表の方は、遺骨の確認をお願いします」のアナウンスを受け、席を立つ。
・頭蓋骨とか大腿骨とか、丈夫な骨はちゃんと形を保っているものだと思っていたが、かなり強い火力で焼くらしく、全部ばらばら。自分の時は、ミディアムレアくらいがいいな。
・確認とか言われても、こうなっちゃ誰のを出されてもわからんわ。
・その後みんなで骨を拾い、壷に入れて帰宅。
6.帰宅後のこと
・帰って早々に諸々の清算。いっそ前払いでクレジット決済とかにして欲しいわ。
※今ここ
おばさんが趣味で作っていた大根の漬物が絶品で自分もよく食べていた。
「旦那さんが突然倒れた」
仕事場からの急な知らせで母は「心配だわ」と言いながら代行に出かけていった。
そして自分が家に帰ると母は泣いていた。
聞いてみると
朝、急に倒れてそのまま亡くなってしまったらしい。腹部大動脈瘤という病気。
旦那さんが腹痛いということで病院にかかったけれど、検査で異常なし。
安心していた矢先のコトだった。
確かに悲しいことだけど、ふと考えてしまった。
もし自分の友人の近親者が亡くなってしまった場合、自分は泣くのだろうか。
それとも泣いてもいいのだろうか。
少なくとも自分の周りにはそういった不幸は無かったので分からなかった。(知らなかっただけかもしれないけれど)
「旦那が亡くなりました(悲しい顔の絵文字)とりあえず連絡まで」
それを見て母は忙しいのに連絡をくれて…と言ってまた泣いてしまった。
母はきっとまた泣いてしまうんだろうな。
http://anond.hatelabo.jp/20130614231123
(1)発症年齢が若い 一般的にアルツハイマー型認知症は65歳以上で発症することが多いのに58歳で発症というのは稀。しかし前頭側頭葉変性症ならば65歳未満発症でも稀ではない。
(2)「脱抑制」という前頭葉障害に起因する症状の記載がみられる。”突然怒り出すようになった” ”暇さえあれば悪口を言うようになった” ”病院でも少し待たされただけで受付のお姉さんに怒鳴りつけたりする” ”食事も自分の分が食べ終わると、他の人の皿に箸を突っ込むようになった”
(3)「被影響性の亢進」というこれまた前頭葉障害に起因する症状の記載がみられる。”大きな声で遮るようにテレビと会話をはじめる”
(4)家族からみて明らかな性格変化がみられており、発達障害の可能性は皆無。幼馴染の医者はメモを見ただけで本人を診察もせずに好き勝手なことを言っているので、信用できない。
脳ドックは大脳動脈の狭窄や動脈瘤の有無を中心に診ていると思われるので、たぶん前頭側頭葉変性症では異常は出ないです。
前頭側頭葉変性症は治療の方法がない進行性の病気ですが、それでも病気と分かっていれば周囲の対応の仕方もわかってくるので、早期診断の必要性は大です。
専門医は日本認知症学会 http://dementia.umin.jp/g1.html または日本老年精神医学会 http://184.73.219.23/rounen/a_sennmonni/r-A.htm で探しましょう。
埼玉県春日部市の高齢者介護施設「フラワーヒル」で平成22年、入居する高齢者4人が短期間に死亡したり大けがをしたりした問題で、95歳の女性を殴り死なせたとして、埼玉県警捜査1課は11日、傷害致死の疑いで元職員の無職、大吉崇紘(おおよし・たかひろ)容疑者(29)=同県松伏町、別の入居者への傷害容疑で逮捕=を再逮捕した。
捜査1課によると、大吉容疑者は「拳で胸付近を複数回たたいた」と容疑を認め、「第一発見者になって同僚にほめられ、認められたかった」と供述。同課は事件の経緯について詳しい裏付けを進める。
逮捕容疑は22年2月18日午前、介護福祉士として勤務していたフラワーヒルで、入所していた無職、三笠みさゑさん=当時(95)=の胸を拳で殴り肋骨(ろっこつ)を折るなどして死亡させたとしている。
三笠さんは施設の関連病院に搬送されたが同日午後2時35分ごろに死亡。「胸部大動脈瘤破裂」による病死と判断されたが、当時撮影されたCTスキャンの画像を精査した結果、骨折していたことが判明した。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130611/crm13061116480012-n1.htm
県警によると、3人が死亡したのは、同市一ノ割の高齢者介護施設「フラワーヒル」。
平成22年2月15~18日の4日間に入所者の女性3人が死亡し、1人がけがをした。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130523/crm13052312230006-n1.htm
このたびの東日本大震災で、東北から関東の一部まで大被害を受けましたが、我が社も陸前高田の坂井宏所長御夫妻とそのご子息および、各店の所長の御家族五人、YCスタッフ一〇人がお亡くなりになりました。深く哀悼の意をささげます。また、YC店舗は全壊六戸、半壊・一部損壊一七戸という被害を受けました。
今回の震災の被害対策については、政府の対応は誠に非能率で憤慨するところ大でありますが、グループ本社及び傘下各本社は、宮本副社長販売担当のもと、労力的にも、資金的にも迅速に対応し、その報告を聞いていささか心を癒されました。今後とも被災地YCの復興に全力をあげるつもりであります。また政府の被災地全体にわたる救済、復興の不手際については、紙面で厳しく批判し、督促してまいります。
さて、震災後の五月二十六日に、読売新聞が週刊新潮の無責任なデマについて提訴した名誉毀損訴訟に対して賠償金の支払いを命ずる判決が出て、全面勝訴しました。
この新潮報道では、二〇〇九年六月十一日号で、「新聞業界最大のタブー"押し紙を斬る"」というタイトルで、「読売18%、朝日34%、毎日57%が配られずに捨てられていた」と断定しております。判決では「読売新聞においては"押し紙"が存在すると推察することもできない」として、新潮報道が全面否定されました。
新聞が二割、三割、五割以上もの紙を配らずに捨てるというような不合理な無駄をしていれば、用紙代、印刷代、輸送費及び人件費の消耗で直ちに倒産しているでしょう。
過去十年間の読売新聞の決算報告をもとに数字を申し上げれば、この十年不況で日本経済が停滞し、また新聞外のメディア、特に電子メディアの普及等もあり、販売部数が減少したことは事実であります。
しかし、二〇〇二年三月期と、二〇一一年三月期の十年間の読売新聞の収支を申し上げると、販売収入は二六四九億円から96.61%の二五六〇億円に減少、その落ち込み幅は3.39%に過ぎません。その間のABC部数は一〇一五・二万部から98.74%の一〇〇二・四万部に減少、落ち込み幅は十年不況の中で僅か1.26%であります。
それに対し、景気を最も敏感に反映する広告収入は、一五〇六・九億円から53.16%の八〇一・二億円に減少、落ち込み幅は46.84%にも達します。
それにもかかわらず、黒字経営を続けているのは資材、人件費の節減や、製造工程の近代化、合理化による節減と保有株の配当収入、不動産賃貸収入の安定もありますが、最大の原因は販売収入の減少が極めて僅かだったからであります。
週刊新潮の言うように、印刷した新聞の18%も捨てていれば、このような安定した販売収入はあり得ません。
大きく言って、読売新聞の収入構造は、販売6、広告2、不動産賃貸収入、配当収入、巨人軍等の事業収入2の割合です。そのうち二割を占める広告収入が十年不況で半減したのに、堂々たる黒字経営を続けていられるのは、ここにおられるYC所長の皆さまの日常の努力による販売収入の安定でありまして、皆さまの献身的な愛社精神と堅実な経営努力に心から感謝申し上げます。
ちなみに、最近倒産の多発している米国の新聞の広告収入依存度は、七割から八割であり、これは宅配制度の不備によるものです。
さて、原発問題と今後の日本と世界経済の問題について若干言及致します。
現在稼働中の原発もいずれ点検による稼働中止になり、このままでは来年には、日本の全原発が稼働停止になります。もし、日本の電力の29%をまかなってきた原発が動かなくなれば、日本の産業生産は縮小し、かなりの企業が倒産し、失業者が増大し、税収は減り、国家財政は破綻する恐れがあります。
菅首相は、現在9%の再生可能エネルギーを20%とか25%に増大するという夢を語っていますが、彼の言う再生可能エネルギーのうち8%は水力発電です。これを増強しようとすれば、民主党政権の言ってきた「コンクリートから人へ」を逆転させ、ダムを建設しなければなりませんが、それには五年、十年かかるし、また日本にはその適地もなく、コストは巨大になります。
菅首相の言う太陽光、風力発電は、現在全発電量の0.5%くらいで、日本の地理上、適地が少なく、風力発電は海上に巨大な浮体を作って乗せるほかなく、それも巨額な出費をもたらします。
太陽光発電は、理想としては良いのですが、実際に広大なパネルを作ろうとすれば、それも巨費を要し、一朝一夕にできるものではありません。
そうなれば、今問題になっている玄海原発のように、政府が安全を保証する点検済みの原発を再稼働させていく以外には、日本の経済、財政、産業、国民所得を維持する道はありません。
私が枝野官房長官をはじめ、関係政府要人や専門学者達に聞いたところによると、福島第一原発の事故は、地震によるものではなく、大津波によるものだということです。
つまり、地震による揺れで原子炉が破壊されたのではなく、大津波によって原子炉の冷却装置を稼働させる電源と冷却装置をつなぐ配電管が破壊され、冷却装置が止まってしまったこと、また海水を汲み上げるパイプ、そのための発動機の損傷もありました。
海面上一〇メートルの所に作られた第一原発は壊れましたが、一五メートルの高台に作られた女川原発は、津波による被害がなかったので、今すぐにでも稼働できるのです。日本海側、瀬戸内海側の原発は、二〇メートルの津波をかぶる心配はありません。静岡県の浜岡原発も、完全な防潮施設を作れば安全になるでしょう。福島第一では電源を地下に設置してありましたが、浜岡では建屋の屋上に設置してあります。
福島第一の事故で、たくさんの人災的原因が明らかになりました。この経験と知識と高度な日本の技術をもってすれば、耐震性は証明されている日本の原発に対し、さらにどんな津波が来ても、外部電源とつながる炉の冷却装置を損傷しないような防御装置を構築することは可能でしょう。震災後四カ月たっても、こういう措置を稼働中止中の原発に対して取ってこなかった政府は、一体何を考えていたのでしょうか。
ドイツが原発を中止したといっても、ドイツはフランスの原発から電力を輸入しているからできることです。
過剰な原発アレルギーで、日本の電力の三割を止め、節電とか自粛とかを連呼しているのみでは、日本はいずれ産業国家として世界三等国に転落し、貧困や失業に悩まされるのではないでしょうか。
読売新聞社は、この不況の中で、大手町の一等地に三三階の新社屋を建設します。首都直下型地震が来ても安全な耐震性、非常の時の自家発電や、交通途絶対策としての非常食の備蓄等、完壁なビルを無借金で建てます。
私が社長に就任した二年後、借入金はピークで一六四一億円余ありました。社長就任以降今まで五六五四億円設備投資しましたが、現在すでに返済し、数百億円の預金があります。つまり、二十年前に千数百億円借金をしなければ、新規設備投資ができなかったのです。しかし今、大手町に最新の建設技術の全てを取り入れた高層ビルを建てるのに、新たな借金は必要ありません。
現在の我が社の基本的な経営体力は、皆さんの努力による安定した販売力、YCの店力、全従業員の愛社精神が基軸であります。
さらに、読売新聞の主張する税制改革案を含む財政、経済、社会保障、産業政策等が、ポスト菅の内閣によって実現されれば、不況も解消し、広告収入の低落にストップがかかり、増収になり、その成果を皆さんとともに享受できるようになるでしょう。
次に今回の読売グループの人事異動について説明します。すでに新聞等に細かく報道されているので、重点について述べます。
内山前社長は昨年春、令夫人が大きな手術をして以来、術後が思わしくなく、そのショックで本人もいささか精神不安定になり、特に3・11の地震後の社務にはほとんどたずさわらないという状態になり、私宛に、夫人の看護に専念したいとの辞表が提出されました。
内山君は私の永年の忠誠な部下であり、私には万感こもごも至る思いもありましたが、新聞社として緊急非常の事態の中、その辞表を認めました。
老川東京本社社長は定年に達していたので、グループ本社の最高顧問としてグループ全体について指導してもらうこととしました。
私は依然、事実上の最高経営責任者として残りますが、八十五歳という高齢を考え、実務は白石興二郎君に、グループ・東京本社の代表取締役社長を任せることにしました。白石君は、編集局長、論説委員長、メディア戦略局長、社長室長等を歴任、社務の全般に通じており、最適任と思います。また、政策理論家として社外でも評価されている早川準一君にグループ本社の副社長兼副主筆として私を補佐してもらいます。
販売担当の宮本友丘君は東京本社副社長に昇格、私の直轄下で、東西の販売政策を指揮してもらいます。
内山君の病気のこともあるので、八十五歳という最高齢で、事実上の最高経営責任者である私の健康状態について報告しておきます。
今月、慈恵医大病院で、世界的な血管外科の大家として知られる大木隆生先生に、全身の内臓検査をしてもらいました。その検査結果の一部を読みます。
これは大木教授より読売診療所の近藤所長にあてられた報告書です。
「渡辺さんは、息切れなどの症状もなく、極めて健脚です。血液検査については、γ-GTが少々上っている以外、異常はありません。肝機能は極めて正常です。
次に、心電図と脈波検査を行いました。血圧は正常、閉塞性動脈硬化症がなく、脚の血流が良好です。
CT検査の結果、まず脳に関し驚くべきことに脳の萎縮が全く進行しておらず、頭がさえていることが見てとれます。脳動脈瘤、甲状腺、嚢胞や腫瘍もありません。心臓も肥大や大動脈弁石灰化もなく、極めて若々しい状態にあり、六十歳代くらいの若々しさと言えます。肺にはがん、腫瘍も認められません。極めて健康的な肺です。膵臓が唯一の所見のある部位で、萎縮があり、前糖尿病と言えます。腹腔動脈、上腸間膜動脈、および左右の腎動脈に狭窄はありません。
腰椎に高度の変形を認めます。腹部大動脈、腸骨動脈に動脈瘤や狭窄病変などはありません。膀胱に異常はありません。現時点で治療を行う必要はないと思われます。
内臓脂肪が多く、膵臓が萎縮していますので、一層のカロリー制限と定期的な運動を続けられることは膵臓のみならず、高血圧、痛みのある膝関節にとっても良いことです。
最も素晴らしいことは、八十五歳と高齢であるにも関わらず、脳に萎縮が全く見られないことです。人間にとって肝心な脳、心臓、腎臓、肝臓が全て六十歳代と思えるほどの若々しさです。
東京慈恵医科大学外科学教授血管外科 大木隆生 読売診療所 近藤和興先生御侍史」
以上が目下の私の健康状態なので、新社屋の完成する年、つまり米寿までは持ちこたえるでしょう。この世には小生が早く往生することを願っている人も少なくないようですが、その人達は失望されても仕方のないことです。
最後に、ポスト菅の首相が誰になるかを予想することは、巨人の勝敗の予測よりも困難であることを告白してごあいさつと致します。
お袋は既に別居して実家に戻っており、先週木曜にそのような話をしてきたそうだ。自分は親父と同居している。今年で27になる。そろそろおっさんだ。結婚も考えてる。
家は、借金の担保に入っており、売ることになるそうだ。不渡りは今のところ出さなくてもいいそうなので、倒産というよりは、廃業という形になる。
話を聞いたときは、来るべき時が来たかと思った。正直、そこまで動揺はなかった。
しかし、自分という人間は頭が悪い。しかも鈍い。だから、いつもこういう「ショック」な出来事は、聞いた瞬間はうまく感情の処理が出来ないらしい。あとからじわじわ沸いて出てきて、長期間にわたり体調を崩す、そんなことはもうごめんなので、はてな匿名ダイアリー、通称増田に自分の感情を書き綴って、整理をしようかと考えた。
そんなことはチラシの裏にでもかけよ、というのもごもっともだ。ただ、一つの人生のサンプルとして、もしかしたら誰かの役に立つかも知れないとも考えるので、増田に書いておきたい。一石二鳥が好きなんだ。せっかく書くんだから、ってことで。不愉快に思った人は、ここらへんでブラウザなり、タブなりを閉じることをおすすめする。
今回の倒産は二度目になる
最初に親父の会社が倒産したのは中学一年、1995年だった。文化祭を謳歌していた僕は、親から倒産の報を受け取った。しばらく家を離れているようにとのことだった。
家に帰り、荷物をとり、母、妹、僕の三人で成田空港まわりの安いホテルに泊まった。平日だったので、安く泊まれた。
その時僕は、ひたすら星新一のショートショートを読んでいた。あの短く、そしてあのライトな皮肉のこもった文章ですら、どうにも心がざわついて、読んでるうちに気持ち悪くなったことを覚えている。
一方、親父は、会社更生法の適用に走り回っていた。混乱の無いよう、このときの会社をA、今日廃業が決まった会社をBとする。しばらくAの話をする。
そもそも、「親父の会社」と書いたが、父が社長になったのは倒産する一年前の事だった。その前は、母の父、僕の祖父が社長を務めていた。
親父が僕の母親と結婚した際、母の両親が「是非うちの会社に来てくれ」と何度も頭を下げて頼みに来たそうだ。今でも「あのとき断っていたら、今頃どうなっていたろうな」と親父は振り返る。
そして、親父が会社Aに就職して十数年が経ち、製造業だった会社Aは円高の影響を受けて苦しい状況になる。その中で、アメリカにも会社を作ることとなる。その時点で、会社は東北と関東に分社化しており、関東社長を祖父、東北社長を叔父(母の弟)が勤めていた。アメリカにも会社を作ると言うことで、その社長に叔父が就任することとなった。空位となった東北の社長に祖父が就任、そして空位となった関東の社長を誰にしよう、という話になった。親戚類で、社長になれるのは親父しか残っていなかった。代表者として、自宅を、会社借金の抵当にいれることになった。
その一年後、会社Aは倒産する。実質代表は、関東社長である親父になっていた。数社来たテレビや新聞のカメラの前で、親父は深々と頭を下げた。
その後親父は、会社更生法の申請、アメリカ会社の存続(他の会社に買収して貰った)、会社整理などに駆けずり回った。あの頃、親父は「家から出るのが嫌で嫌でしょうがなかった」と言っていた。債権者からは怒鳴られ、従業員からは責められていたそうだ。家は、競売に売られた。資産があった祖母に競売で買い取って貰ったが、その後祖母には家賃を納める事になった。
祖父と叔父も代表権を持っていたため、家を売ることになった。叔父はアメリカに既に家があった為、日本の家を売っても問題はなかった。祖父は、祖母が名目上の役員として給与を数十年貰っていた貯金があり、家を買い戻すことが出来た。祖父は既に年金を受け取っており、叔父はアメリカの会社が存続できたため社長として仕事を続ける事が出来た。倒産の際、一番苦労をしたはずの親父には職が残らなかった。持ち家も無くなった。結果として割を食ったのは我が家だけとなってしまった。
初めての会社設立
問題は、親父が無職になった事だった。他の会社から「うちで勤めませんか」というお話をいくつか頂いた。が、我が家は差し押さえの対象となっていた。20万円の給料を貰った時点で、それ以上は差し押さえられてしまう状態だった。
説明すると、家は競売に出されたが、他の家具なども差し押さえるかどうかという話になった。が、持ち出す費用、売る費用考えると、ということで家具は差し押さえられずに済んだ。しかし、親父の給料は、20万以上の給与を貰った時点で差し押さえられる、という事になった。
よって、給料を貰えば、一家の収入は20万しかない。うち10万は祖母に家賃として納めなければならないため、一家四人で10万で暮らすのは、学費含めてやや不可能に近い状態だった。
そこで親父は、起業をすることとなる。それが会社Bだ。会計上、母を名目上の社長に据えて、母親が給料を受け取る仕組みにした。これならば、差し押さえられることもない。
そこで、家を担保に入れて借金しながら、どうにかこうにか年収700万前後の収入を15年間その後親父は稼ぎ続けることになる。それは、来月で終わるわけだが。
そして、この家も、借金の担保に消えて、売らなくてはいけなくなったわけだが。
一方の家庭事情
端的に言って、親父とお袋の性格相性は最悪だった。たびたび皿が飛び、怒号が鳴り、もうどうしようもなかった。
まず、横浜の社長令嬢だった母親と、大阪でどん底の貧乏から這い上がってきた親父とでは、そもそも金銭感覚も生活感覚もずれていた。二人は、ハワイで知り合い、その後親父が大阪から横浜へ熱烈なプロポーズをしにいき、それをお袋が受け入れる形で結婚した。お互いの性格をちゃんと確かめなかったのも、こういった状況の一端だったろう。
自分はそれこそ5歳ぐらいのころから、両親の喧嘩の仲裁をしてきたことを思い出す。自分は両親が好きだった。両親の言い分はどちらも理解出来た。そして、なぜ、人によって見える世界がこれほど食い違うのかと繰り返し繰り返し思った。端的に言えば「絶望」といった形なのだろうが、そんな言葉を理解出来ないころから、お互いの言葉を通訳して相手に伝える、というようなことをしていた。そのころは、まだ二人が仲良くやっていけるものと、どうにかいい方法があるはずであると、信じていた。
自分にとって、お袋は怒りっぽくて片付けができないけど、優しくて感情豊かで料理のうまい母親だった。
自分にとって、親父はクールでデリカシーのない人間だけど、いざという時には頼りになる、一家の大黒柱だった。
その二人が、互いの事をひどく罵り合うのを聞き続けた。今でも一番聞きたくない言葉達だ。それでも、二人はその文句を理解してくれる人間が僕しかいないということで、ずっとそれを僕に言い続けた。今でも、言い続けている。
両親の仲は「当然」1995年の会社A倒産以後さらに悪化する。親父はどこかで「あのとき会社Aに入らなければ」「倒産の時の一番の被害者は俺だ」と思ってるし、お袋はお袋で「起業するのはいいけどなぜ母親(僕の祖母)の持ち物である家を抵当にいれるの?」と思っていた。悪化しないほうが無理というものだった。
それでも、お袋は「自分に出来ないことはない」とどこかで思っている節があり、関係修復しようと親父に話しかけた。しかし、やはりその話し方は非常にぎこちなく、結果として高圧的で、それこそ親父の状況を見ずに話しだすようなやりかただった。そして、そのやり方は親父が一番嫌う物だった。親父は押しつけが嫌いであり、お袋は押しつけあうことこそがコミュニケーションだと考えていた。
親父とお袋の仲を修復しようとする「不可能」に対して母親は挑み続けた。結果、余計にストレスをため込むようになった。また、会社Bで借金をする度に祖母に僕の自宅を抵当に入れてくれと頼みに行く(会社A倒産後、僕の自宅を競売で競り落としたのは祖母なので)時も、「あなたの勝手に私の母親を巻き込まないでよ!」と、たびたびヒステリーを起こすようになっていった。さらに2008年以後会社Bの経営が悪化すると、母自身が無職であることによる生活への不安感で、よりストレスをためるようになる。父が休日家にいると「テレビ見てる暇があったら営業に行ったらどうなの!」と怒号を発し、それが喧嘩の発端になることも度々だった。
そんな中、極度のストレスの結果か、母は大動脈瘤を患うこととなった。2009年、冬の事だ。
いつ動脈瘤が破裂するか分からない、しかし妹は既に嫁に行き、父と僕は勤めにでていて平日は母の様子をみられない。なので、母は実家に帰ることとなった。その後、母は快方に向かう。母は、父と顔を合わせているだけで、体調が悪化するという状態になってしまっていたのだった。
父が先週の木曜、母の実家に顔を出して、話をした。そこで、標題の話になった。
母はそのまま実家に居るだろう。父は神戸にいる父方の祖母、および父の姉の面倒を見るため神戸に帰ることも検討しているらしい。妹は嫁に行っている。僕も一人暮らしをして、その後結婚を考えている。実質上の、一家離散となるだろう。
今こうして、キーボードを打っている家には、20年近く住んだことになる。僕の後ろには、まだ妹が寝ていた二段ベットが残っている。この家も、来月には売りに出さなければならない。
色んな事があった。色んな事があった。たぶん、誰にも悪気は無かったように思う。全てが食い違っていった。何が悪かったんだろう?
* 祖父が父を会社Aに誘ったことが悪かったんだろうか?
* いやいやそもそもハワイで出会っただけの二人が結婚しようとしたのが間違ってたんだろうか?
* 祖父が父に社長を押しつけなければよかったんだろうか?
* 僕がもうちょっとうまくやれば、両親はもしかしたら、うまくやれる日が来たかもしれなかったんだろうか?
* 会社Aが倒産した後、親父が20万しか稼げなくても、俺が中学を辞めるなりして勤め始めれば良かったんだろうか?
* 会社Bが出来た後、俺も今の会社じゃなくて親父の会社の手伝いをすれば良かったんだろうか?
どこで間違えたかはよくわからない。ただ、親父は起業後、毎朝5時半に起き、一日も休まず会社に行き続けたし、母親は毎日美味しい料理を作り続け、たとえば僕や妹の愚痴なんかも受け止めたりして、祖父もその後起業して親父に仕事を回したりして、祖母もそもそもこの家を買い取ってくれたりもして。
色んな人が、色んな事をやって、それでもダメだったときは、いったいどうすれば良かったんだろうか。
ようやく、泣きそうになってきた。どうすれば良かったんだろう。ほんとうに。
そんなことを振り返る。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。
お袋は既に別居して実家に戻っており、先週木曜にそのような話をしてきたそうだ。自分は親父と同居している。今年で27になる。そろそろおっさんだ。結婚も考えてる。
家は、借金の担保に入っており、売ることになるそうだ。不渡りは今のところ出さなくてもいいそうなので、倒産というよりは、廃業という形になる。
話を聞いたときは、来るべき時が来たかと思った。正直、そこまで動揺はなかった。
しかし、自分という人間は頭が悪い。しかも鈍い。だから、いつもこういう「ショック」な出来事は、聞いた瞬間はうまく感情の処理が出来ないらしい。あとからじわじわ沸いて出てきて、長期間にわたり体調を崩す、そんなことはもうごめんなので、はてな匿名ダイアリー、通称増田に自分の感情を書き綴って、整理をしようかと考えた。
そんなことはチラシの裏にでもかけよ、というのもごもっともだ。ただ、一つの人生のサンプルとして、もしかしたら誰かの役に立つかも知れないとも考えるので、増田に書いておきたい。一石二鳥が好きなんだ。せっかく書くんだから、ってことで。そのくせ、感情の整理の為に、一つ一つを思い返して書いていくからそれなりの長文になると思う。しかも、たぶん結論なんてない。不愉快に思った人は、ここらへんでブラウザなり、タブなりを閉じることをおすすめする。
最初に親父の会社が倒産したのは中学一年、1995年だった。文化祭を謳歌していた僕は、親から倒産の報を受け取った。しばらく家を離れているようにとのことだった。
家に帰り、荷物をとり、母、妹、僕の三人で成田空港まわりの安いホテルに泊まった。平日だったので、安く泊まれた。
その時僕は、ひたすら星新一のショートショートを読んでいた。あの短く、そしてあのライトな皮肉のこもった文章ですら、どうにも心がざわついて、読んでるうちに気持ち悪くなったことを覚えている。
一方、親父は、会社更生法認可後の後処理に走り回っていた。混乱の無いよう、このときの会社をA、今日廃業が決まった会社をBとする。しばらくAの話をする。
そもそも、「親父の会社」と書いたが、父が社長になったのは倒産する一年前の事だった。その前は、母の父、僕の祖父が社長を務めていた。
親父が僕の母親と結婚した際、母の父である祖父が「是非うちの会社に来てくれ」と何度も頭を下げて頼みに来たそうだ。今でも「あのとき断っていたら、今頃どうなっていたろうな」と親父は振り返る。
そして、親父が会社Aに就職して十年が経ち、製造業だった会社Aは円高の影響を受けて苦しい状況になる。その中で、アメリカにも会社を作ることとなる。その時点で、会社は東北と関東に分社化しており、関東社長を祖父、東北社長を叔父(母の弟)が勤めていた。アメリカにも会社を作ると言うことで、その社長に叔父が就任することとなった。空位となった東北の社長に祖父が就任、そして空位となった関東の社長を誰にしよう、という話になった。親戚類で、社長になれるのは親父しか残っていなかった。代表者として、自宅を、会社借金の抵当にいれることになった。
その一年後、会社Aは倒産する。名目代表は、関東社長である親父になっていた。数社来たテレビや新聞のカメラの前で、親父は深々と頭を下げた。
その後親父は、会社更生法の申請、アメリカ会社の存続(他の会社に買収して貰った)、会社整理などに駆けずり回った。あの頃、親父は「家から出るのが嫌で嫌でしょうがなかった」と言っていた。債権者からは怒鳴られ、従業員からは責められていたそうだ。家は、競売に掛けられた。資産があった祖母に競売で買い取って貰ったが、その後祖母には家賃を納める事になった。
祖父と叔父も代表権を持っていたため、家を売ることになった。叔父はアメリカに既に家があった為、日本の家を売っても問題はなかった。祖父は、祖母が会社Aの出資者として役員をやっていたため給与を数十年貰っていた貯金があり、家を買い戻すことが出来た。祖父は既に年金を受け取っており、叔父はアメリカの会社が存続できたため社長として仕事を続ける事が出来た。倒産の際、一番苦労をしたはずの親父には職が残らなかった。持ち家も無くなった。結果として割を食ったのは我が家だけとなってしまった。
問題は、親父が無職になった事だった。他の会社から「うちで勤めませんか」というお話をいくつか頂いた。が、我が家は差し押さえの対象となっていた。20万円の給料を貰った時点で、それ以上は差し押さえられてしまう状態だった。
説明すると、家は競売に出されたが、他の家具なども差し押さえるかどうかという話になった。が、持ち出す費用、売る費用考えると、ということで家具は差し押さえられずに済んだ。しかし、親父の給料は、20万以上の給与を貰った時点で差し押さえられる、という事になった。
よって、給料を貰えば、一家の収入は20万しかない。うち10万は祖母に家賃として納めなければならないため、一家四人で10万で暮らすのは、学費含めてやや不可能に近い状態だった。やや、と書いたのは、不可能ではなかったからだ。しかし、社長令嬢でもあり金の少ない暮らしには耐えられない母親が、10万円での暮らしに耐えられたかどうかは、正直厳しいところだったと思う。思えば、これが最大の問題点だったのかも知れない。
そこで親父は、起業をすることとなる。それが会社Bだ。会計上、母を名目上の社長に据えて、母親が給料を受け取る仕組みにした。これならば、差し押さえられることもない。
そこで、家を担保に入れて借金しながら、どうにかこうにか年収600万前後の収入を15年間その後親父は稼ぎ続けることになる。それは、来月で終わるわけだが。
そして、この家も、借金の担保に消えて、売らなくてはいけなくなったわけだが。
端的に言って、親父とお袋の性格相性は最悪だった。たびたび皿が飛び、怒号が鳴り、もうどうしようもなかった。
まず、横浜の社長令嬢だった母親と、大阪でどん底の貧乏から這い上がってきた親父とでは、そもそも金銭感覚も生活感覚もずれていた。二人は、ハワイで知り合い、その後親父が大阪から横浜へ熱烈なプロポーズをしにいき、それをお袋が受け入れる形で結婚した。お互いの性格をちゃんと確かめなかったのも、こういった状況の一端だったろう。
自分はそれこそ5歳ぐらいのころから、両親の喧嘩の仲裁をしてきたことを思い出す。自分は両親が好きだった。両親の言い分はどちらも理解出来た。そして、なぜ、人によって見える世界がこれほど食い違うのかと繰り返し繰り返し思った。端的に言えば「絶望」といった形なのだろうが、そんな言葉を理解出来ないころから、お互いの言葉を通訳して相手に伝える、というようなことをしていた。そのころは、まだ二人が仲良くやっていけるものと、どうにかいい方法があるはずであると、信じていた。
自分にとって、お袋は怒りっぽくて片付けができないけど、優しくて感情豊かで料理のうまい母親だった。
自分にとって、親父はクールでデリカシーのない人間だけど、いざという時には頼りになる、一家の大黒柱だった。
その二人が、互いの事をひどく罵り合うのを聞き続けた。今でも一番聞きたくない言葉達だ。それでも、二人はその文句を理解してくれる人間が僕しかいないということで、ずっとそれを僕に言い続けた。今でも、言い続けている。
両親の仲は「当然」1995年の会社A倒産以後さらに悪化する。親父はどこかで「あのとき会社Aに入らなければ」「倒産の時の一番の被害者は俺だ」と思ってるし、お袋はお袋で「起業するのはいいけどなぜ母親(僕の祖母)の持ち物である家を抵当にいれるの?」と思っていた。悪化しないほうが無理というものだった。
それでも、お袋は「自分に出来ないことはない」とどこかで思っている節があり、関係修復しようと親父に話しかけた。しかし、やはりその話し方は非常にぎこちなく、結果として高圧的で、それこそ親父の状況を見ずに話しだすようなやりかただった。そして、そのやり方は親父が一番嫌う物だった。親父は押しつけが嫌いであり、お袋は押しつけあうことこそがコミュニケーションだと考えていた。
親父とお袋の仲を修復しようとする「不可能」に対して母親は挑み続けた。結果、余計にストレスをため込むようになった。また、会社Bで借金をする度に祖母に僕の自宅を抵当に入れてくれと頼みに行く(会社A倒産後、僕の自宅を競売で競り落としたのは祖母なので)時も、「あなたの勝手に私の母親を巻き込まないでよ!」と、たびたびヒステリーを起こすようになっていった。さらに2008年以後会社Bの経営が悪化すると、母自身が無職であることによる生活への不安感で、よりストレスをためるようになる。父が休日家にいると「テレビ見てる暇があったら営業に行ったらどうなの!」と怒号を発し、それが喧嘩の発端になることも度々だった。
そんな中、極度のストレスの結果か、母は大動脈瘤を患うこととなった。2009年、冬の事だ。
いつ動脈瘤が破裂するか分からない、しかし妹は既に嫁に行き、父と僕は勤めにでていて平日は母の様子をみられない。なので、母は実家に帰ることとなった。その後、母は快方に向かう。母は、父と顔を合わせているだけで、体調が悪化するという状態になってしまっていたのだった。
父が先週の木曜、母の実家に顔を出して、話をした。そこで、標題の話になった。
母はそのまま実家に居るだろう。父は神戸にいる父方の祖母、および父の姉の面倒を見るため神戸に帰ることも検討しているらしい。妹は嫁に行っている。僕も一人暮らしをして、その後結婚を考えている。実質上の、一家離散となるだろう。
今こうして、キーボードを打っている家には、20年近く住んだことになる。僕の後ろには、妹が寝ていた二段ベットが残っている。この家も、来月には売りに出さなければならない。
色んな事があった。ここには書けないようなことも。たぶん、誰にも悪気は無かったように思う。全てが食い違っていった。何が悪かったんだろう?
どこで間違えたかはよくわからない。ただ、親父は起業後、毎朝5時に起き、一日も休まず会社に行き続けたし、母親は毎日美味しい料理を作り続け、たとえば僕や妹の愚痴なんかも受け止めたりして、祖父もその後起業して親父に仕事を回したりして、祖母もそもそもこの家を買い取ってくれたりもして。
色んな人が、色んな事をやって、それでもダメだったときは、いったいどうすれば良かったんだろうか。
ようやく、泣きそうになってきた。どうすれば良かったんだろう。ほんとうに。
そんなことを振り返る。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。