「加虐性」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 加虐性とは

2017-12-06

BLレイプものがある理由

たまにこれを「女のレイプされたい願望」と結びつける人達がいるけど、絶対間違い。

BLレイプものがあるのは、女にも男のような加虐性支配欲があるから

好きなキャラを虐めたい、虐められてるところが見たいという気持ちはそれ以外に説明がつかない。

ただ女にはチンコがついてないので、攻めにチンコ役割をしてもらう。

からBLレイプは、被虐趣味とは真逆の、加虐趣味なんだよ。

はいえ、ただのレイプで終わると不快になる女性が多いから、何かしら救いがあるのは常なんだけど。

2017-12-05

🛵珍走団🏍

いじめ」や「いじめっこ」という言葉が軽いんだよ

これが、「小児加虐性障害」とか、「小児加虐性癖」みたいな名称だったら自然消滅するんじゃない?

2017-12-04

同性愛不寛容な男

同性愛不寛容人間には、圧倒的に男性が多いように見えるのは、多分気のせいではないと思う。

何故か?

男性女性と違って「性を搾取される側」になることに不慣れだからだと思う。

まれときから搾取する側の性としての傲慢さが、同性愛への嫌悪感に繋がっている。

推測だが、普段女性無差別性的対象として見ている男性ほど、自分搾取される側になることを嫌悪する傾向が強いのではないか

昔、テレビレズビアン女性に対して男性タレント嫌悪と共に「貴女銭湯で他の女性無差別に興奮するのでは?」といった発言をしてた。もちろんそのレズビアン女性は冷静に反論していたが、表情から本気の怒りが見てとれた。

これはこの男性タレントこそが「女の裸であればどんな他人でも無差別に興奮する」からこういった発言が飛び出してきたのではないだろうか。

同性愛に反対する男性は、自分加虐性認識してるからこそ、逆の立場性的搾取される恐れを取り払おうと躍起になっているように見える。女は普段からその危険性に常に晒されて生きているわけだから、身勝手な話だが。

ゲイは、銭湯で他の男の裸に無差別に興奮するのか?一度聞いてみてはどうだろう。

2017-09-03

蚊を殺す人間はいつか人をも殺す

数日前に話題なったあれ

たとえ対象が蚊であったとしても「死ね」という言葉を用いるのは

攻撃性残虐性加虐性を備えていることの証明であり、一度でも用いたなら

その後に何度も使うようになるし、次第に対象が拡大しやがて人(特定人種民族)にも用いることは

想像にたやすい。

なので「死ね」という言葉を一度でも用いたアカウントの凍結は妥当である

っていう理屈を考えたんですがどうでしょうか。

あとバルサンスプレーの用いた害虫駆除毒ガス使用した大量虐殺に繋がる

というのも考えました。

思っちゃったんだからしょうがない。

2016-06-06

http://anond.hatelabo.jp/20160605201527

あれをまんま男子がなんかやらかしてる話にすると

DQNの行き過ぎた"いたずら"にしか見えないんだよな

から女という関係性だとどうしても性をおもちゃにして弄んでいる格好になってしま

なんとか映画として耐えられる話にするためには

思春期での性への嫌悪なんかに無理やりでも絡めることが必至だったと見えるし

加虐性をそこまで高ぶらせるだけの当事者意識登場人物にないとやはり不自然

そこまでして映画にしなきゃならない題材か?といわれればそれまでだけど

2015-08-07

加虐性問題を引き起こさなければ、という前提ならばね。

http://anond.hatelabo.jp/20150807150037

加虐性問題を引き起こさなければ、という前提ならばね。

2014-08-20

http://anond.hatelabo.jp/20140820015153

とても微妙問題を提起していると思った。

元増田の論点に乗れば、確かに、解釈(妄想)と実行のあいだには無限の距離があって、エロい妄想をするということ自体性犯罪の予備軍扱いするなら、共感は得られない。

だけど、今回のテーマは個人の解釈に留まるものではなくて、解釈する共同体(お笑い鑑賞)に矛先が向かっている。

自分どぶろっくというのは知らないから確信もって話せないけど、要約から察するかぎりは、たんに女性の振る舞いを性的解釈するだけでなく、その解釈をアイロニカルに提示することで笑いを誘っているのだろう。

これを鑑賞するひとはどういう考えを内面化するか? と言うと、ひとつには、この種の妄想家の愚かしさを相対的に眺めることができるようになるから男性妄想けん制する役割を果たすかもしれない。

しかアイロニー効果は、たんにその対象を相対化するだけじゃなくて、保存しもする。つまり、「こういうひとって馬鹿でしょ、でも世の中そういうもんなのよね」っていう。アイロニーメタ的な目線から

それだけじゃなくて、この笑いが描く女性は、対象としてしか登場しない。元増田性的主体として現れている(からこれを否定すると女性性的主体性のもの否定するんじゃないか)と書いてるけど、妄想のなかで男の性的欲望に照らして解釈されている女性が「主体的」だなんて(そしてそれを否定したら主体性のものが消えてしまうなんて)、まさか元増田も本気で書いているわけじゃないだろう。

ましてこの笑いにはその妄想嫌悪なり拒絶なりで反応する女性がお仕舞いに現れるわけでもない。自滅する振りをする男芸で閉じていると言っていい。

そういうわけで、自分としては、性差別的な状況を容認するような笑いだと思う。

でも、これが個人の妄想に過ぎないのなら、それはどうしようもない。

だけど、これは公共放送にのってて、その流通には社会メンバーひとりひとりが少なから責任を負ってると思う。

さっきも書いたように、解釈(妄想)と行為あいだには無限のへだたりがある。

問題は、両者を隔ててるものが何か、わからない、ってことだ。

けっきょくは、結果論的に「犯罪を犯したやつ」と「犯さなかったやつ」との区別しかできないかもしれないんだけど、それじゃ犯罪を予防することもできない。

メディアの影響はしばしば指摘されている。

今回のケースでは、どぶろっくお笑いが直接性犯罪を引き起こす、なんてことは言われなくて、そういうものを「ただのお笑い」として流通させようとする社会メディアのありかた全体が問題にされていると思う。

からといってもちろん、規制するための法律を……なんてことは、現状では受け容れられない。

表現の自由は大いに保証されるべき。

でも、そもそも法制度に頼るのって、社会の最終手段とまではいかないまでも、とりうる手段ひとつに過ぎないのでは?

たとえば、隣人がうるさいからという理由で、即警察通報するのって、近隣住民とのコミュニケーションが不在だからこそ起きることだと思う。苦情を直接言う、ということがなくなっている。

同様に、いま、何か世の中でまずいことが起こってると考えたときに、頼れるもの法律しかない、って事態になってるんじゃないか。

ほんとは道徳とか倫理とか、そういうことが語られてもいいと思うんだよね。

表現行為ポルノお笑い加虐性問題にしたいからって、即規制だ、とかそういうことにならずに。

話し合いじゃなにも変わらない、個人では社会を変えられない、そういうペシミズムが、すぐに法や規制行為に頼ろうとする振る舞いに繋がってくるんだと思う。

記事だって元増田だって、これが社会の考え方を変えるとまで信じるのは、ちょっと楽観的すぎるかもしんないけど、でもこういう提案を受けて、規制とまではいかないでも、自分がそれを変えるひとりなんだって意識することは大事なのではないかな。

移動中なんで支離滅裂でごめん。元増田の疑問にちょっとは応答したつもりです。

2013-10-24

ガッチャマンクラウズ正義の構想

http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20131015/1381840117

 2013年9月でテレビアニメガッチャマンクラウズ』は終了したが、それに絡めて(上記URL)書かれたガッチャマンクラウズの描像に違和感を覚えたので、それをきっかけにして『ガッチャマンクラウズ』について私が考えたことを記しておきたい。尚、本稿は読者が『ガッチャマンクラウズ』を最後まで観ていることを前提に書かれている。

 さて、上述したブログの筆者(以下Rootport氏)の見解一言でまとめるなら、『ガッチャマンクラウズ』とは「社会秩序を守るタイプヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ということになるだろう。だが私は、寧ろそうでなかったからこそ『ガッチャマンクラウズ』は面白かったのであり、現代日本ヒーロー像を書くことに成功したのではないかと考えている。つまり、『ガッチャマンクラウズ』に登場するヒーローたちは元々が「社会秩序を守るタイプヒーロー」ではないのではないかということだ。Gメンバーは一ノ瀬はじめが加入するまで確かに襲来する宇宙人から密かに地球を守っていたが、それは単にJ.Jの指揮下で仕事をこなしていただけであり、奉仕していたのは地球とは文字通次元の異った高度な秩序である社会秩序に「人間の理解すら及ばない高度な秩序」は含まないだろう。地球ガッチャマンたちがやらされていたのは全貌を見渡すことのできない「大きな」仕事の一部でしかない。それは結果として地球を守っていたのかもしれないが、積極的に「地球を守る」こととは明らかに違う。『ウルトラマン』が全宇宙的な秩序を守ると言いつつ地球準拠の正義に隷属しているのとは対称的だ。

 だが、はじめが加入したことで、ガッチャマンの内実は明らかにそれまでとは異ったものとなる。敵として認識されていたMESSは無害化され、「本来は手出ししない」はずのローカルな事件へ次々と関与していくこととなるのだ。その中でGALAX開発者:爾乃美家 類と出会いベルク・カッツェとも関わってゆくこととなる。はじめは何を変えたのか?ガッチャマンたちの「社会秩序を守る」という規範意識か?いや、違う。彼女が齎したのは、そもそも彼らが持っていなかった視座、即ちJ.Jが体現する高度な秩序から離れたローカルな秩序への眼差しである。はじめはそれまでのGメンバーの誰もが実は見ていなかった足元に、持ち前の強引さと直観で目を向けさせた。はじめの出現とベルク・カッツェの暗躍を通して初めて彼らはローカルな秩序と結びついたのである。端的に言って、『ガッチャマンクラウズ』は「社会秩序を守るタイプヒーローが、秩序の破壊と変化を受け入れる物語」ではない。変化を受け容れるのは神々の視座に安穏としていたヒーローたちの方で、ローカル社会秩序ネットはGALAXによって既に変化をはじめていた。自分たちの変化を受け容れたヒーローは、受け容れて初めてローカル社会の変化を知りその実感を得るのである自分が大したことないヤツだと思い知らされたからといって不貞腐れている場合ではない、自分能力に怯えてうつうつしてる場合ではないと気づき、彼らはようやく立ち上がった。

 はじめとベルク・カッツェは真逆の方向からそのことをGメンバーに知らしめる役目を負っていた。彼らはインターネットの正負両側面をそれぞれが体現していたのだ。はじめは世代職業を越えた人々と繋がりが生むポジティヴ連帯を、ベルク・カッツェは猜疑心加虐性無限に増幅させて破壊を生み続けるネガティヴ連帯象徴し、各々自らがその先頭に立つことで「流れ」を引き込もうとする。この両者は、決してバランスのとれた均衡の上で争っているのではない。はじめがネットツール:GALAXに依拠しながらもあくまで立川市内という極ローカル連帯を核にしている一方、ベルク・カッツェはネット上にありふれた不満と破壊衝動をほんの少しつついてやるだけで、姿を見せることなく、文字通り「どこからでも」破滅種子をばら撒くことができた。彼(彼女)が立川に拘ったのは、まさに憎むべきガッチャマンたちがそこを拠点としているからでしかない。この圧倒的に不利で不均衡に思える状況の中で、劇中唯一元来の意味ヒーロー活躍をしていたのがはじめだ。彼女は一切ブレることのない精神の有り様でローカルな視座から遊離していたガッチャマンたちの視線を「足下」に惹きつけ、ネットの向こう側に存在する人々と結びつけた。これに対し、ベルク・カッツェは爾乃美家 類の能力:クラウズを奪ってネット内で辛うじて留まっていた憎悪と欲望を直接現実世界へと送り込んだ。両者が別々の形でネット現実接続させ、物語クライマックスを迎える…

 正体を明かし、それまで触れることのなかった他者を知ったガッチャマンたちは、その時はじめてヒーローになった。はじめて守りたいものを思い浮かべ、傷つきながら戦い、己の無力さを痛感するヒーロー入り口に立ったのだ。それまでの彼らは、与えられた力で全貌の知れない「高度な秩序」に奉仕するだけの傀儡だったとも言えよう。だが、各々の意志翼を広げて立ち上がった彼らは、従うべき規範を越え、ローカルな秩序を守ることに全力を尽くす。しかし、立川防衛するという一見ローカルな戦いは、爾乃美家類によってGALAXを通したグローバルなゲームと直接接続された。そのことによって、ローカルグローバルな舞台となり、グローバルな力がローカルに及ぶ。暴走するクラウズとの戦闘に、Gメンバーゲーム参加者達は勝利する…皮肉にも、そしてある意味当たり前のことだが、これはベルク・カッツェが行ったことと表裏一体である。いや、同じことだと言ってもいいだろう。彼が先に仕掛けたのは、まさに類が提案したゲームであり、参加の動機付けけが異なっていたに過ぎない。だからこそはじめは「正義ってなんなんスかね~」と戦いの後で口遊む。彼女は理解しているのだ。理解しているからこそ、ベルク・カッツェとの対話を試みる。

 ネットだけでも、人智を越えた力だけでもダメなのだ。戦いを終え、ようやく彼らは入り口に立った。ゲーミフィケーション世界を救ったようでいて、実は違う。GALAXは、単体では無色透明なツールでしかない。そこに参加する者達がどのような動機を持っているのかによって、はじめにもカッツェにも成り得る。目指すべきは秩序を根底から覆す変革ではなく、既にある秩序の漸進的な「アップデートなのだ

蛇足

 『ガッチャマンクラウズ』は「ヒーローは最早必要なく、世界は我々の手に委ねられている」なんて呑気な話ではない。少し長く引用するが、Rootport氏によれば

 『ガッチャマンクラウズ』では、誰もがスーパーヒーローに準ずるような力を手にした。『キックアス』のように「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばすのではなく、ほんとうにヒーローにしてしまう。これは現実世界メタファーと見なせるだろう。ネットが一般化して20年あまり私たちは実際に、英雄に準ずるような力を手に入れてしまった。

 世界を変えるのに、肩書きも立場もいらない。

 名も無き個人でも、世界に影響を与えられる。匿名のままでも、世界に向けて発信できる。

ということらしい…言いたいことが沢山ある。まず、Rootport氏が言及している映画版キック・アス』は「ヒーローになれるわけがない」と笑い飛ばしてなんかいない。力(スーパーパワーや金)のない者が現実ヒーローになろうとした時にどれだけの代償を払うのかを冷酷に示して見せている作品だ。勿論、コメディ的要素も色濃く入っているが、本質的には「力がなければ正義をなさなくても良いのか?」という問いに否を突きつけようとして、血塗れになる物語である。そして、コミック版の『キック・アス』は映画版を超え、ヒーローをある種の病気として扱い、その行き着く悲惨さと哀しさを描いてみせた。どちらもアメリカ特有のヴィジランテ文化立脚したヒーロー解体し尽くしても尚、何が残るのかを問うている…大いに話が逸れた。話を戻すが、私達は一般化したネットによって「英雄に準じるような力」を手に入れてなんかいない。決していない。手に入れているのなら、ガッチャマンたちは必要なかっただろう。お役目御免で、そもそも出てこない。人々は手に入れた「英雄に準じるような力」でさっさとカッツェを撃退してしまえばよかったのだ。だが、それはできなかった。代わりに見せつけられたのは、匿名のままでは、名も無き個人のままではダメだということ。匿名でない誰かがインセンティブを与え、ゲーム動機付けを行わなければ動かない現実だ。匿名の誰かによって動かされたゲーム暴走し、手が付けられなくなる様だ。これは何も特別なことがわかったわけではない。ただ、ネットというツールの「当たり前」を見せられただけなのだから。『ガッチャマンクラウズ』は、寧ろ我々が「英雄に準じるような力」を手に入れたわけではないと戒めるような作品だと思っていたのだが…Rootport氏は「世界アップデートする」をただのキャッチーな標語かなにかとして受け取ったのだろうか?

蛇足蛇足 

 Rootport氏は細かい点(その実重要な)について気にしないのか気づかないのか、とにかくざっくりした区分けで語る傾向がある。ヒーローの系譜を何故か『マトリックスから始め、『X-MEN』『スパイダーマン』『V for Vendetta』『まおゆう』『キック・アス』『ダークナイト』『タイガーバニー』『サイコパス』を辿っていく。日本なの?アメリカなの?どっちなんだ。アメコミの方は何故映画ばかりで原作に言及しないのか。日本アニメに触れるなら、何故大元の『科学忍者隊ガッチャマン』含めたヒーローアニメの系譜に触れないのか。ライダー戦隊には何故触れないのか。その辺りが謎である特にローカルヒーローモノに触れないのは、『ガッチャマンクラウズ』が描いてみせた「現代日本ヒーロー像」がそれまでのものとどのように違うのかを明らかにできない点で致命的だ。寧ろ『ガッチャマンクラウズ』が彼の言うような作品なのだとしたら、『東のエデン』にこそ触れて比較すべきではないのか?…このRootport氏が諸作品を引用した部分について言いたいことはまだまだ山ほどあるのだが、虚しくなってきたのでこの辺にしておく。

2013-09-01

善くない事をしたと思っている。

小学一年生ときに、私はかなり苛立っていた。周囲の同級生はバカだったし、大人は「子ども扱い」をしてきた。だから故意に「こども」を演じた。

鍵をつけたままの自転車路上にあったら、鍵をとって地面に落として持ち主を困らせるという、憂さ晴らしをよくしていた。人より加虐性を持っている、と気づいた。

にこにこ笑っておけば自分が「憂さを晴らしたい」と考えているとは誰も思わないんだろうな、と思った。下校時に、上級生の上履きを左右逆にして、憂さを晴らしていた。

よくつるむクラスメイトが一人いた。彼は単純な人だった。

所謂集団的な公開のいじめ」はバカがするものだと思っていた。周囲に誰が加害者被害者なのか筒抜けなのに、バカだなあと不思議だった。私は、保護者監督からの叱責を恐れていたし、報復は受けたくなかった。

私と彼は、そっと窃盗器物破損をくりかえした。

あるとき、「上履きが見つからないのでみんなで探しましょう」と先生が言った。私と彼が隠した上履きだった。「見つけた人にはチョコレートをあげます」と先生が言うので、生徒は盛り上がった。すると彼はすぐに上履きを取りに行こうとしたので、あ、これはだめだ、と私は落胆した。彼にはなぜ先生が「チョコレートをあげます」と言ったのか理解できていなかった。数分が過ぎてから私は上履きを見つけたふりをした。チョコレートは貰えなかった。

その後、自分加虐性二次元キャラクターへ向けるようになったり、引っ越したりで、だんだん周りと話が合うようになった。

幼稚園小学校低学年のときに「周囲の人間はバカだなあ」と見下したことがある人は、どのぐらいいるのだろう。

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