はてなキーワード: 力ずくとは
近年のキャンセルカルチャーの暴走ぶりを見ていると不買運動って理性的な運動だったんだなって思うようになった。
「私は買いません(自己決定)」、「あれは買わない方が良いと思います(提案)」までで抑えて他人の「いや私は問題ないと思うので買います」という選択肢を奪わない姿勢は人それぞれの正義を尊重していると言えて、自分達が正しいと思ったら問答無用で相手を潰そうとするキャンセルカルチャーとは対象的。
少数の文句でも声の大きさと付け火の上手さでゴリ押しできてしまうキャンセルカルチャーと違って、不買運動は買い続ける派・買わない派がそれぞれどのくらい出るかでそれなりに民意に添った程度のダメージだけを対象に与えるようにできているし。
まあ、個人や小規模事業者が少数の信者を相手にするような現代的なネットビジネスなんかには相性が悪いとか、最近キャンセルカルチャー絡みで燃えてる呉座氏の話題のような経済原理の支配の外にあるアカデミック系の問題には無力とか、不買運動ではカバーできない問題も色々あるけれど。
あとは不買運動も過激化すれば「あんな問題のある所の商品を買うようなヤツは許さん!」みたいな攻撃性に繋がることはあるけどさ。
ただそれでも理念としては異なる正しさを持つ人の選択も尊重する余地がある分、今の野蛮で力ずくなキャンセルカルチャーと比べると不買運動の方が穏当で理性的だなとは思う。
ぎっくり腰のおばあさんを助けたらおばあさんに「あの人の車にぶつかられた!」と言われた
ドラレコをついてなくて、目撃者もいなくて、冤罪なのに警察に事情聴取された
という人がTwitterにいた
人助けをして恩を仇で返されるというのはよくある
具合の悪い妊婦を男性が助けたら、後で妊婦の旦那がきて「うちの嫁になにベタベタ触ってんだ?痴漢か?」と言われたり
道に倒れている高齢者を助けたら高齢者に「こいつに突き飛ばされた!」と言われたり
海外でも人助けをしたら助けた女性に痴漢冤罪をでっち上げされた男性が刑務所にはいり、妻子を失い、職も失う…という話も
溺れている子供を助けたら死んでしまい、溺れた子供は助かったけどその母親が自分の過失がバレないためにおぼれ死んだ人を不審者だと嘘をついたり、
あ、最近では飛び降り自殺しようとした高校生を力ずくで助けようとしたら抵抗されて、助けようとした人も高校生も高所から落下して死んだ事件もあったっけ
を読んでモヤモヤしたことがあったんだけど、被害者(と自分を思っている人)を責めていると取れる内容だったから書き込みはしなかった。
を読んで、俺のこのモヤモヤは男女関係と縁がないが故の世間との認識の齟齬なのかなと思ったので書いてみる。
不同意性行罪を求めている人達に訊いてみたいんだけどさ、力ずくでの強姦や脅迫による性行の強制みたいな既存の法律でも逮捕されような場合以外で、セックスした相手を逮捕してもらいたい場合ってどういう状況なの?
『嫌だけど仕方なくさせられた、ただし既存法律でも犯罪になるような強要はなかった』ってどういうシチュエーションなの?
例えば、『今日はノリ気じゃないけど相手に迫られて』みたい状況ならあり得るかと思う。でもさ、逆に今日じゃければヤッても良いと思えるくらいの相手に対してそれだけで「訴えてやる!」みたいになるの?
相手に対して好感度が下がったり、パートナーだったら最悪別れるとかはあるだろうけど、『訴える』までになるモノなの?
次に考えられるのは、『そもそもセックスしたくない相手に迫られて』だけどさ、一番気になるのはここなのよ。
既存の法律で犯罪になるような強い強要がある場合を除いて、そんな状況になることある?
え? 皆そんな関係になる機会あるの?
俺の認識の中だと、『強い強要はなかった。でも嫌だった』ってさ、要するに『流されて』ってことだと思うんだけど、そういうのってヤりヤりヤりヤーな火遊びしてるコミュニティの中だけじゃないの?
皆、そんな『流れでセックス!!』みたいなことしてるの?
仮に俺の認識通り、そういう感じの世界に身を置いているとしたら、それはもう正直、自業自得じゃない? って思ってしまうんだが。
そうでなくて、世の一般的な女性の皆様はフツーに生きているだけでもそういう機会があるものなのか?
う~ん、俺には縁が無さすぎて分からん。
あと書いてて思い付いたのは、『シても良いと思ってたけど、実際シてみたら訴えたくなった』って状況か?
いやでも、実際シて良くなかったからで訴えられたら相手側はたまったもんじゃないし、相手側が「殴りながらやるのが最高だぜ~~!!」みたいなゲス野郎だった場合なら傷害罪で訴えられそうなモンだけどな。
ちなみに俺はこういう考えなので不同意性行罪には反対。
冤罪問題ももちろんあるし、一部の火遊びしつつ男女関係の築き方に失敗した人(と俺は認識している人)のためだけに、フツーに『男女の機微』とやらでセックスできる人達がヤる前に同意だなんだとやらされて良い雰囲気をブチ壊されるのは違うと思っているから反対している。
・ネーブルオレンジ 残り4
・桃1箱1万円(ふるさと納税) やわらかくなったものから剥いてなにかにのせたりする
・大トマト12個1箱800円、残り11
これ食べ終わるまで素材もかわないし料理もしないし外食もしたいけどしないぞぉ的宣言
・タコス肉味付け粉1袋200円+・牛赤身挽肉半額400g400円 袋にかいてあるとおり炒め味付け肉つくる
・カゴメのサルサソース1瓶300円 がんばって開ける、きれいな専用スプーン
・とまと お好みで湯むきして包丁を研いで洗ってダイスに切る、種はお好みで取る(自分は残す派)。皮付きトマトをダイスにするときはタマネギとちがってドーム型ではなくどんぶり型において切っていくのがどんな包丁でも楽に済む(切れない包丁だとつながりやすいので注意)。
・シュレッドチーズ1人前50g50円 いつも1キロ袋で買うが小鉢にいれないと食べ過ぎてふとるので小鉢に50gずつわける
・ワカモレ アボカド1個サービス価格100円 やわらかくなるまで室温放置してへたとって縦半割にして種とって中をスライスしてスプーンでえぐって空きサルサの瓶につめてレモン汁小さじ半分とわさび適量と醤油大さじ2とサラダ油大さじ1でぐりぐりまぜる
弱火で油(サラダ油だがバターかオリーブ油でもよい)を敷いた圧力鍋にセロリ、タマネギ、にんじん、キャベツ、長ネギをこの順に1~2センチ角ダイスに切って追加。最後に皮を剥いたジャガイモダイスをのせ、ひたひたになるまで水をいれ、1%の塩、コンソメキューブ2~3を足して圧力で12分加熱+放冷(急ぐときは火を止めて8分まったら水かけて急冷していい)。
開封して牛乳カップ2(なければ水とスキムミルク粉でつくった低脂肪乳)、黒こしょう追加。味をみて塩がたりなければ追加。コーンとかアサリとかが好きな人はたしてもいい。
カボチャ煮
カボチャ半玉の種をとって力ずくで3~5センチ角に切って(包丁のかかと側に皮があたるように切ると切りやすい。一玉買ってしまって最初の1太刀が面倒だったらまっすぐに切れ目をいれてきをつけて包丁をぬいてから床にビニール敷いてカボチャおいて鋳鉄フライパンで切れ目がないところからたたき割る)
ショウガをすりおろして皿に敷いたサランラップの上に平らにのばしてもう一枚サランラップ敷いて皿ごと冷凍してくだいてジップロックにいれるという作業をしたのだが、一部のショウガはまるのまま冷凍してしまって解凍したら絞れるほどふわふわになってたので汁は皿にしぼったのこりかすに残りの氷砂糖まぜて振ってる。さすがに汁がなかなかでないので酢と水を足したけどあんまり赤くならないな。まぁそのうち炭酸水でのばして茶こしで漉しながら飲もうとおもっている。
青梗菜は根元を4つわり、太くなったらさらに2つわりにしてほそい束にする。水で根元にはさまった黒いのをよくあらう(泥だととれるが、とれない着色の場合もあるからやりすぎない)
でかいフライパンに青梗菜を並べて上でしぼったショウガ汁とベーコンとチキンブイヨンと水と油(多め)いれて蓋して煮る。蓋まで泡がきたら蓋あけて上下を返してよく煮る。根元の白いとこは変わらないがそのまわりが透明感がでたらできあがり。汁ごとよそう。ベーコンがなければツナでもいいし味付けはショウガチキンじゃなくてオイスターソースでもよい。上に豚角煮とかほんの少しのせてもおいしい。のせなくてもそこそこおいしい。
酔った勢いでフルチンになってボコられ大恥をかいた話を前に書いたけど、似たようなことを地元の祭りの日にもあった。間違いなく俺の人生の「痛い記憶ベスト5」には入るな。
たぶん二十歳になったばかりのころで、トイレでの集団いじめがきっかけで中退した二年後だから、ふつうに地元の工場で過酷な勤務を続けていたころだ。
ほとんど親しく話せる年配者や年少者がいないにもかかわらず、祭りだけは強制参加だった(そんな了解がむかしからあった)。
でも最後まで誰とも親しくせずにフンドシですごすのはさすがに酷なんだ。
なんというか虚しさが先行する。どこにいても居場所がない。居場所がないのは慣れてて、いつものことなんだけど。祭りはなにしろ長いから。
それに非力だから地味に重い神輿がきつい。肩もいかれる。ほかの兄弟は休日だからいいけど、俺にはよくじつ肉体労働があるんよ。睡眠不足にもなるし!きつい
孤独の時間をまぎらわすため、俺は二十歳になって覚えたばかりの酒ばかりをハイペースで飲んでいたな。
酔いが回るのが超絶早かったな。
俺は悪いところだけは親父と似ていて、飲んでいるうちに何もかもにムカついて喧嘩腰になるなんだな。喧嘩が弱いくせに喧嘩をふっかけ逆にボコられるケースはこれまでに何度もあった。
祭りの後半、十一時過ぎ、神輿をかつぐ連中もだらけてきたあたりの時間だったけど、当時19歳頃の弟や当時22歳頃の兄貴が女をつれてことあるごとにイチャイチャしていた。
俺はそのころようやく出会い系で知り合った女に金だけ絞られ罵られ捨てられたばかりだったんだよ。職場でもろくなことないし。
だからむしょうにムカムカしてきたのを覚えている。それに基本的に男ばかりの祭り空間に女がチャラチャラ入り込んでいることにも不満だった。あの和気藹々のムードをぶちこわしてやろうと思った。
(俺をゲジゲジのように毛嫌いする妹によれば)これぞ人間のクズ
(俺が話しかけても全て無視する弟によれば)キング・オブ・腐れチンポ
酔いの勢いも借りて、兄貴カップルと弟カップルが仲良くしている場に乱入し大声で怒鳴ってやった。この場をなんだと思ってるんだ、いますぐ女は帰れ、みたいなことを口汚く叫んだ気がする。
想像通り、すぐに返り討ちにあったんだな。ミゾオチに兄貴の一発をくらい死ぬほどの痛みにもがいたね。一瞬目の前が真っ暗になるあれ。
兄貴もかなり飲んでいたのでメチャクチャ手荒くて、腹蹴り股間蹴りを何回も何回も繰り返してきて、地面に倒れこんだよね。その時点でK・Oだった。K・Oしてる俺の足をつかんで兄貴はかなり派手に引きずりやがった(その地面がコンクリートだから背中が残酷なくらいに剥けて、その日のシャワーはもう地獄で悲鳴あげた)。
たしかその引きずられた直後のタイミングでめちゃくちゃ吐いたと思う。腹ボコボコにされてタマ蹴りもモロで食らってたから。それにやたら息苦しかった。
祭り自体がメチャクチャやかましいのでこういうリンチはたいして目立たなかった。だからだんだんエスカレートしたんだと思う。
それに俺が盛大にボコられるのを祭りの参加者は毎回見てる(一番無意味にボコってくるのは親父なんだけど)。
兄貴は一度怒ると誰にも止められないんだよ。特に俺への怒りはすさまじいものがあったな。
地面に崩れ落ちていた俺からフンドシを力ずくで外して、グロッキーになったフルチンの俺を羽交い絞めにして、弟やその不良系の同級生どもに「おいお前ら、やりたいだけやれ」とか面白そうに叫んで、俺はかなり長いあいだ弟達のサンドバッグ状態だった。
羽交い絞めのフルチン男を五、六人の男が交代で殴るなんてありか?
尋常ではない痛みと恥ずかしさのせいで意識も遠ざかっていたな。だから細かいことは覚えていないなー。
だって殴る奴ら全員本気だし普段からガチの格闘系の喧嘩やってる連中だったから。顔は腫れあがって怪物みたいにパンパン、腹もボコボコ、足の関節も集中して蹴られたのでおかしかくなった。野球の軟式ボールを本気で投げたのも当てられるし、弟の得意技タマ蹴りは見事に直撃して気絶しかけるし(だってフルチンですから)、石や空き缶の的にもなるし、ちん毛ファイヤーはされるし(軽い火傷もした)、プロレスの関節技の実験にもされるし、顔も踏みつけられまくるし、殺虫剤はかけられるし、唾や痰は吐かれるし、もう酔いに任せた集団リンチ。
ところで俺、そこまで悪いことした?←素朴
ただ、兄貴と弟の女なんかももかなり酒が入っているので、楽しそうにキャッキャッキャッキャッ騒いでいたのは記憶してる。何人かは携帯カメラとかも向けてたし。
もっとやれ、ぶちのめせ、キンタマ蹴り上げろ、その不潔な腐れチンポ攻撃しろ、キモイだけの嫉妬野郎は退治しろ、なんてことを女どももガキどもも叫んでいた。集団リンチは怖いことを知ったな。
しょうじき殴られてるのは俺じゃなかったら絶対に誰かが止めてるはずだけどね。やっぱりボコられるのは俺で決まりという空気。それを身に染みて感じた。ふだんから嫌われてて暗くて生意気で友達ナッシングだから。しかもとびきりの不細工。周囲の評判もめちゃくちゃ悪い。
そういや弟はボクシング大好き人間でいつもシャドーボクシングみたいなことやってたので、いつも兄弟喧嘩があるとこんな展開になってたな(兄弟喧嘩といってもけっきょく俺が一方的にボコられるだけだが)。
ボコボコにされて痛くて気持ち悪くて立ち上がれないでいた俺はさいごに飲みかけのビールを頭から盛大にかけられて、いつの間にか集まってきた人垣の帰れコール、笑われながらチンポをかくして着替え場所のある公民館に命からがら帰りましたとさ(というのもフンドシは捨てられて見当たらなかったから)。
その日は帰って若槻千夏ちゃんの写真集でマスかいて寝ようとしたが、腹部と背中の中央部が痛すぎて全然寝られなかった(調子にのったガキが軟式ボールをがちで当てやがったから。しかも皮がめくれてた)。というか腹を殴られ過ぎて気持ち悪く何度も吐き戻した。そもそも殺してやりたいくらい兄と弟にムカつていた。というかあの場にいた奴ら全員をめちゃくちゃ呪っていたね。その後数か月は歩くたびに足に膝に激痛を感じて仕事にも支障出たよ。医者にみてもらったのは当然だが。あのころのメンタルはがちでやばかった。
生まれてから身も心もいつも安定してボロボロだけど、その頃はいつも以上にボロボロだったな
翌朝親父がその件を聞いて、俺はまた猛烈なビンタと腹蹴り(これはたいていセットだった)を食らい、兄貴と弟に対して土下座させられる羽目になった(親父はとにかく謝罪感情を土下座で表現させたがった。ほとんど俺だけになんだけど。俺が土下座ナンパになんの抵抗もないのはその経験のおかげなのかな。ある意味親父のおかげなのか?)。
おしまい。なんのタメにもならないクズエピソード、読んでくれてくれてありがと。
俺みたいになるなよ、みんな。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/108967
これ見て思ったことの殴り書きです。
あくまで僕の感想ですが、高校生カップルという存在が持つステータスは以下のようなものがあると思います。
僕は26歳にして彼女がいたことがない終わってる人間なんですが、カップルを見た時にまず抱く感情がこれです。
何か特別な才能が無い限りは、家庭を持って子孫を残して死ぬことが最も多くの人間をたくさん喜ばせられる生き方なので、モテないという問題はQoLの上限を一気に下げます。
言い方を変えると、人生をしくじった人は基本的に親がハズレなような気がします。
「生きてるだけで偉い」という旨の愛情をたくさん受けた人ほどちゃんと他人にそれをおすそ分けできるんですね。
歳を重ねるほど、ここの存在が希少になっていくはずです。
僕も30代になるころには詰んでしまっているんじゃないかと怯えています。
もう死のうと思っている人の前にこれほど人生に有利なステータスを持ってる人が現れたとして、「逃げちゃ駄目だ」と言われたら流石に絶望しますね。
恐らく男性にとって、人生の向き不向きを痛感されられたことでしょう。
正直な話、赤の他人が自殺しようとしているのを止めるメリットが特にありません。
(今回は感謝状を貰ったということで、高校生の2人にはさらに良いステータスが付きましたが。)
死を選ぶ人間にとって法的な善悪などは通用しないので、接触することで自分の身に危険が及ぶことがあります。
また、この男性は事件を起こそうとするでもなく死のうとしていたので、辛うじて他人への危害が無く済むところでした。
高校生が動いたのは、自殺を止めなければ寝覚めが悪いなどといった、割と利己的な動機なんじゃないかなと思います。
これに関して合理的な判断をこの高校生に求めるのは流石に酷だとは思いますが。
また、これが自殺未遂ではなく急病で倒れた人とかがいた時に助けてくれるのもこの高校生みたいな人なんじゃないかという気がしているので、一概に悪く言うことができないです。
めだかボックスみたいな言葉が出てきてしまったのですが、間違いなく男性にとって人生はトータルでマイナスだろうし、高校生にとってはプラスだろうなと思います。
確かに全人類がいろんな苦悩を抱えていてなんぼだとは感じていますが、それをケアしてプラマイゼロもしくはそれ以上に持っていけるかどうかは割と自分の力だけじゃどうにもならないでしょうね。
上手く生きている人にとってはそういった時の依存先が細かく分散できているんですが、環境が悪くて育ち方をミスった人はこういう時に他人をアテにする能力も育ってないと思います。
「生きてりゃ良いことある」っていうのは誰にでも通用するものじゃないんでしょうね。
男性にとって、ただ力ずくで自殺を止められたことは何の救いにもならないはずです。
生かされるのであれば生きたいと思うだけのそれなりの救済が必要だったのですが、「諦めないで」とだけ言われて帰されてしまったんですよね。
のうのうと生きてるだけで責任を持って自分を幸福にしてくれる人が現れるなんて都合の良いことはないです。
僕も、自分の人生を良くできるのは自分自身しかいないんだなと思って血反吐を吐きながら生きています。
この先の人生が良くなる気もしないのになんで生きてるんだろと考えることもあります。
僕はこれだけで男性が心機一転頑張るぞという気持ちになるとは到底思えません。
早ければ帰り道でそのまま自殺してしまったのではないかとすら思います。
最悪のケースだと社会への報復として他人に危害を加えてしまう恐れもありますね。
世の中は生きたい人の方が多いので、こういうニュースで自殺志願者の気持ちにフォーカスが当たることは少ないと思われます。
いかにも高校生が主役で偉くてすごいという視点で語られていますよね。
そして世間が高校生の行いを認めて「正解」としてしまったら、この高校生がこの騒動について顧みる機会ってもう無いんでしょうね。
できれば、もっと生きて色んな経験をした果てにエンパシーを磨いていっていただきたいです。
自分の常識と違う行動をとる人が現れた時に、その人をそうさせる心情や環境について思いを馳せることができると不幸な人が減るんじゃないでしょうかね。
一応言っておくと流石に男性をそのまま死なせることが正解だったとまでは思わないですよ。
https://anond.hatelabo.jp/20210602141308
若いころの私は体力も自信も溢れんばかり。生意気で唯我独尊、傍若無人で傲岸不遜。今の私が会ったら「貴様、いい加減にしろ!」と、まず一発ぶん殴ってやりたいくらいの人間でした。
YMOで大ブレイクして、三十歳代半ばまでは、まさに人生の絶頂期。
遅刻やすっぽかしもしょっちゅうでしたし、運転手が気に入らないとすぐに殴ったり蹴ったり、今思えばとんでもないことですし、私の理不尽な暴行に耐え切れず辞めていった運転手の人たちには申し訳ないと思っています。
月刊『文藝春秋』2012年2月号(『坂本龍一60歳 還暦の悦楽』)より引用
――東京芸大作曲科、同大学院ではどんな学生生活を送っていたんですか。
(中略)
「こんな出来事がありました。新宿でライブをした後、翌朝まで飲み明かし、甲州街道のあたりを酔っ払って歩いていたら、喫茶店のガラスケースがふと目に入った。その中にあるスパゲティやパフェなどの食品サンプルがホコリだらけで汚れていたので、僕にはどうしても許せず、いきなりガラスを蹴りつけて壊してしまった。
今とは違って、かつては親の体罰も普通にあったように思います。
私の父親(ミュージシャンの坂本龍一さん)も昔はとても激しい人で、時には怒りに任せて手が出ることもありました。私が悪いことをしたから叱っていたのか、父自身のイライラをぶつけていたのかわからない時もあり、そういう時はただ父の威圧感に怯えていたような気がします。
その時に感じた怖さは今でも心に残っていて、娘を叱る際に「今の私、あの時のお父さんみたい」とハッとすることも。
(中略)
『婦人公論』2018年7月24日号(60頁「父・坂本龍一との幼き日の記憶 坂本美雨 虐待の連鎖を断ち切るため、母となった私にできること」)そのインタビュー記事より引用。
djsouchou そういうブレあっての教授だから全部許せる。流石にこれはどうかと思うがw https://block.fm/news/ryuichi_sakamoto_restaurant_playlist /トラバが総じて浅ましくて半端ない🤮
うわきっしょ。
こういう京大の数学入試問題が私は大好きです。一方、東大の数学入試問題は最初に解く方針を決めたら
多くの面倒くさい計算を超高速でやって力ずくでやった者勝ちの傾向が大昔から顕著だと思う。
この数学入試問題の東大のセンスは皮膚感覚レベルで合わなかった。
多分、京大の問題は純粋数学が好きな人向けなんだと思います。それに対し、
東大の問題は工学系の応用科学の研究者としての適性を見ることに重点をおいているように思います。
昔、『数学セミナー』という雑誌に「エレガントな解答を求む」というコーナーが
あって、中学の頃から愛読していました。私の感覚はこれの影響が強いのかもしれません。
このコーナー今もあるのかな?
日本の演劇界が停滞しているのは「チケットが高すぎるから」か「給料が安すぎるから」か?
https://togetter.com/li/1679865
ここのブコメさあ
演劇のことまっっったく知らんやつが何とかなんかしら言おうとしすぎだろwwww
ほんとは演劇めちゃ見たいんだろwwww
舞台沼とか言ってる人たちが羨ましいんだろwwwwwwww
と思った。
個人的に興味のないエンタメ、たとえばサッカーにあまり興味がないんだけど、
サッカー業界がどうやってこれから発展していくかみたいなまとめにコメントしないもの
そもそも書けることがないし書きたいとも思わんし
なぜわざわざ、知りもしないことを語ろうと思ったの?
好きなんだろ、ほんとは見てみたいしはまってみたいんだろ?
有名な役者を舞台で応援しててワシが育てた顔してみたいんだろ?
テレビでは単なるアイドル的人気かと思ってた俳優の思わぬ身体能力や演技力に驚嘆したりしたいんだろ??
(三浦春馬の身体能力はほんとに素晴らしかった、かえすがえすも惜しい)
ただなーはてなーには演劇楽しむのが難しいってのはねーわかるようんうんよくわかるー
ていうのも演劇って一度「批評する自分」をはずさないと楽しめないからねー
そこはライブと少し似ていると思うんだが
ライブで細かい演奏ミスや歌詞の間違いなんかを気にしてCDと同じ音質を聞こうと思ってたら楽しめないわけじゃん
でもその場の生の体験、プレイヤーと同じ場にいて観客席の中で震える空気を直接感じとる体験をするときやはりそれは得難い喜びがある
なぜかというと、そのライブの場を「楽しかった」ものとして記憶するには、
そのパフォーマンスを「楽しむため」に感覚を全振りしなくてはならないから
集中して、手を叩いて、声をあげて、音楽を楽しむためだけの自分になろうとするし
それが舞台の上に伝わるのがわかる
そこに火はないし水もない、絶世の美女もいないし犬もいない
舞台女優は近くで見たら案外普通だし夜の月明かりは単なる色セロファンだ
でもそれを、騙されるために見る
彼女は絶世の美女で、あのカップには酒が入っていて、血も吹き出ないけど彼は切られて死んだし、いきなり歌をうたいだすのは普通のことだ
そういう意識の開きかたをした先に、演劇でしか味わえない喜びがあるし
そういう意識の開きかたを、よい舞台というのは力ずくに仕掛けてくる
なお一応書いておくと
https://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/sp/
http://www.moon-light.ne.jp/news/tv/
なに見たらいいかわかんない人は普通に賞とったやつ見ればいいと思う
https://www.hakusuisha.co.jp/smp/news/n12020.html
https://www.kinokuniya.co.jp/c/label/20191217150000.html
ところで冒頭のまとめ、今の日本の演劇の現状に課題がないとは思わんが
有名どころのチケットはとりづらくてかなわんくらいだし
むりでしょ? 演劇楽しむの
半笑いで斜に構えてバカにするとこ見つけられる方がかっこいいと思ってるもんね?
いいよいいよそのままの君でいてくれ
追記。
ふつうに興味のある人向けに真面目に演劇関連のリンク張ったところで
演劇題材という時点でにわかウエメセ説教フェチの遊び場になるのが目に見えてたから
とりあえずそいつらがアホに見えるように明らかに文体変えて煽りをおいといたんだが
言葉の意味にこだわるのなら、元増田が指しているのは「義務」と「強制」、その違いはなんだ?という指摘と捉えられる。
義務は、「人がしなければならないこと、従うべきとされること」、どちらかというと社会的ルールに(自ずと)従う、というニュアンスが強いだろうか。論理的思考を養う数学も、「義務」教育となっている。
強制は、「力ずくでさせる、無理強い」、義務よりも強く、権力や暴力も想像させる言葉だ。これは本人の意志とは関係なく、拒否権もないニュアンスがある。
では、学校へ行って言葉や思考方法を習うことは強制的ではなかっただろうか?義務ではあった。だから当然親は子を学校に通わせたし、自分は言葉や計算を身につけた。おかげでこれを書いている。でも、望んだからこうなったか?社会の強い要請、当然そうなるべきという方向づけが無かったか?(これを悪いこととは捉えていない。必要性があると捉えている。)
社会の必要性によって、ある種の強制、義務と強制の間の力によって、考え方や行動がインストールされているのかもしれない。という根本的疑問は持っていていいと思う。
https://xkxaxkx.hatenablog.com/entry/2021/01/27/155301
この記事でちらっと触れられた「対案を出せ」という言葉、小泉元首相がめちゃくちゃに高い支持率の中でイケイケで言った言葉だった。なにか法案を出す、野党が質問をする、という中で「だったら対案を出せ」というふうに応戦し、これがどういうわけかすごい勢いで広まったのは、異論を力づくで排除するための最高の方法論を首相が示したからかもしれない。
そしてこの「対案を出せ」にみんなで正当性を認めてしまったがゆえに、どんなにでたらめな理屈でも「対案出せない?じゃぁこれで決まりね」というような乱暴な議論がまかり通るようになった。
ちなみに野党がいくら対案を出そうが、与党のほうがパワーがあるので負けるに決まっているのだが、当時の国民はこの辺に対して全く冷静ではなかったし、マスコミのヨイショ報道もすごかった。
ちなみに、冷静な人々は「対案を出せというのは政治家として失格」という立場だったと思うし「これが万能な答えとは絶対に認めない」という人々もいたが、なんともマイナーな雑誌の隅っこにしかいない人々で、結局「対案を出せ」というのは「俺のアイデアに文句をつけるくらいならお前がもっと優れたアイデアを出せ、今出せ、すぐ出せ、さぁさぁ、出せない?じゃぁお前は黙っている」という意味合いを持つようになった。
文句をつけているのではなく、単なる質問や不備の指摘についても対案を出せがまかり通るようになった。
そして最後に「みんながこれいいんじゃない?っていう雰囲気を作り上げた人の勝ち」という状況が出来上がった。
いや、もともとそういう雰囲気を日本人は持っていたが、「雰囲気で決めちゃだめでしょ」というとこをの最後の防衛戦が「対案を出せ」によって崩壊した。そして政治家は口をつぐむしかなくなった。
対案を出せ、という言葉の招待は、結局力を持った人が力ずくで少数派を押さえつけるための理屈でしかなかったことを当時の国民は見抜けなかった。そのまま20年近いときがたち、対案を出せ、がすっかり国の中に定着してしまった。
ちなみに、私は当時社会人になりたてくらいだった。小泉首相がとにかく嫌いだった。いいことしか言わない政治家が気持ち悪かったのは、ゴーマニズム宣言の影響だったかもしれないが、とにかく嫌いだった。だが、あらゆる方向からもたらされる小泉政権よいしょ報道によって「大嫌いだけどこういうところは評価できる」になり、「なんだかんだで日本をよく導いたと思う」と気持ちが傾いていったのを何故か客観的に感じていたのは今でもよく覚えている。今では「日本を単にぶち壊していなくなっただけの人」になっている。
本来、マスコミは小泉首相が対案を出せとか騒いだ時点で「お前何いってんだよ、与党としてその法案に対して説明仕切るのがお前の仕事だろ」という反応を示さなかった時点で異常だったと今では思う。
対案を出せ、というのは「発案者が自分のアイデアを説明することに全く無責任でいい」ことを認める時点で本当に同しようもないし、パワーバランスで押し切れてしまうという時点で単に強者の凶器でしか無い。だからこの記事を書いた人が感じる嫌悪感は全く正しい。
ストッキングの絵だとか、宇崎ちゃんの絵だとか、不快に思う人、嫌だなと思う人、ショックな人、傷つく人、そりゃいるでしょうよ。そんなこと否定していない。否定する人たちは問題の在り処を完全に見失っていて、個人のわがままかどうかの問題にまで矮小化している。でもこれって何気にすげー重要じゃねって思うんだよな。
だけどこういう構図に持ち込まれて一番悔しいのは、本当に嫌だなと思っている人たちで、一番嬉しいのは明日の飯の種が今日も手に入った変な自称フェミニストたちだ。自称フェミニストたちは問題をすべて男女の対立に単純化するからこじれるし、アンチも生まれる。アンチにはいつでも美味しい餌を巻きつつ本当に救われたい人々は今日も色眼鏡で見られる。いやマジでかわいそすぎんだろ。
フェミニストって言うことすらはばかられる社会を作っているのはこのエセフェミニストたちだ。本当の意味で変えていきたい人たちはその問題を見据えている。だが、エセフェミニストたちの組織力は半端ない。フェミニズムとはこういうものだと数の暴力で押し流している。
これの巧妙なポイントは、問題の本質から力ずくにでも目をそらさせて永遠に解決不可能にする点、一見正論を言っている点、そして他の色眼鏡で見られている人々をますます差別の地獄の奥に押し込む点だ。
はっきり言うんだが、環境型セクハラ、とか、主体がどうした客体がどうした、とか、なんか一見もっともらしい理屈を述べる人たちは、どうして素直に「私はこういうのが嫌だ」と言わないのか、もしくはそういう言説がどこかに消え去るのか。どんなにもっともらしい理屈で飾り立てようが、これは「故人の感情論」であるわけだから、「わがまま」なんだよ。わがままが悪いわけじゃない。わがままをまるで客観的で科学的な事実であるように理屈を述べるところが問題なんだよ。
まずは、「これは私のわがままなんです」から始めない?俺は全然わがままでいい。個々人のこういうワガママをみんなが真剣に議論したから社会のコンセンサスが取られてきたんだよ。
街の中にセクシーな女性の絵がはられている、これをなんとも思わない人もいれば、気絶しそうなくらいショックな人もいる。ショックな人たちをもっとすくい上げようよ。