はてなキーワード: 分部とは
これ
https://www.youtube.com/watch?v=uGnJHA1rPJM
英語圏の歌い手が、『全編日本語で』、今英語圏で何故か今更一大ミームになってるメタルギアライジングの悪役剣士のキャラソンを歌った動画。
正直言ってかなりおかしい日本語(英語歌詞を日本語に機械翻訳したものをそのまま無加工で出した感じ)をめちゃめちゃ真面目に熱く歌ってる様は一種珍妙なものを感じさせるが、コメント欄を覗くとかなり好評の様子。どうやら、英語圏の人々にはこの歌がかなりクールに聴こえるらしい。
これを見て思った感想が、
「日本人が作詞作曲した全編英語の歌って、英語ネイティブの人が聴いたらこれくらい珍妙に聴こえるんだろうな…」
ということ…。
全編英語でないにしても、歌詞が部分部分英語になってる日本人作詞作曲の歌は本当に山ほどあることを考えると、(英語ネイティブの人がその英語歌詞部分を聴いた時に思うことを考えると)何とも恥ずかしい気分になってくるわ…。
声優さんが好きなら行くものだと、なんとなく思っていたからだ。
しかし行くのをやめてしまった。その流れを書いてみようと思う。
そんな光る棒の振り方にも…ルール、というか流れがある。
上下に振る時、左右に振る時、ゆーっくり念を送るかのように下から上に押し上げるように振る時などを、曲の部分部分によって使い分ける。
光る棒を振る時の掛け声の出し方にも色々ある。
「はい!はい!」「おー、はい!」といったものや曲ごとに特殊なセリフの合いの手があったり、それぞれお決まりの流れが存在する。
慣れてない私は、楽しむためにyoutubeでのライブ映像なんかを見て予習をしていた。
覚えてくると音ゲーのような感じで、周囲とぴったりと息を合わせられるようになってくる。一体感があって、だんだんと成長が感じられて、その達成感が楽しい感じがした。
…でも次第にだんだんと「なにやってんだコレ」と思うようになった。
セリフ合いの手を忘れたときにはごにょごにょと誤魔化した合いの手をしたりして小学校の時のトラウマが蘇ったし
新曲が出るたびに「周りに合わせないと」ということを必死に考えている小さな自分がそこにはいた。
元々分かってはいたことなんだけれど、私と声優さんは格が違うと強く意識するようになった。
キラキラ輝く舞台上に、浮かないように、外れないように、予習をしてまで周囲と合わせようとする私は、声優さんと比べると比較にならないくらい矮小な存在だと思わされるようになってきた。
わちゃわちゃとした一般人の群れの中で、外れないように、乱さないようにして光る棒を振りながらひしひしと「あぁ…なんて私は一般人なのだろう」と感じるのだ。
憧れの存在を、大好きな存在を、遠く離れている存在だと自認させられに、ライブに行っているような気がした。
…それきり行くのをやめた。
おしまい。
今の販売管理システムどっかで入れ替えないといけないんだけど、今メンテ頼んでる電算屋さんとか某塚商会とかが提案してくるシステムだと現状よりもデータ引っこ抜きできる範囲が狭くなるみたいな説明を受ける
現状はどうかというと、だいたい全部自社内サーバーからアクセスでデータ引っこ抜けちゃうので売掛買掛残の管理から価格改定からお歳暮の送り先までほぼ全部をアクセスで引っこ抜い済ましており、それが出来ないと困ると担当者(実質のシステム設計者だね)から言われている
しかしそれで便利かというとアクセスから抜いたデータを半ば手作業的に加工しており(多少のマクロは使うがマクロ使う前のデータ修正とか細かいとこでなんか引っ掛かる)、サーバーがオフラインな都合で仕入れデータ入力や支払いデータ入力も手入力を経由してしまっており(そこで金額や数量のチェック作業を兼ねている形になってるのも変更しづらい理由のひとつ)、営業端末からシステム在庫を見るみたいなことも出来ないでいる
ソリューション展示会とかでソフトの説明を聞いても部分部分の改善は判るんだけどそれをどう繋げるか、線引きするかのデザインは小さい変更で済みそうにない気がしてる
某塚商会の営業とかでなく、もうちょっと詳しく突っ込んで聞ける人おらんかなあとなってしまっており、いいかげん危機感があるんだが下手なコンサルの意見ではとてもまとまりそうにないとも思ってしまい、躊躇しまくりである
なんとなく事務じゃなくて業態そのものを見直せ、と言われそうなのだが、そこはちょっとおさえて、事務処理改善が可能というアドバイスがあるなら教えて欲しい
ミソジニストのみなさんの女叩き記事、拗らせてるなあと思いつつもちょっと応援してしまう
・出羽守は嫌い
・マイノリティをウザく感じる
同性愛者、大変だろうけど、キモい異性愛者も大変だし、そこまで騒ぐかあ?みたいなことを思ってしまう パートナーシップ制度がないのは大変ですね 俺にはパートナーがいないが…
シンプルに、さすがにどんな政権だろうとやることなすこと完全にマイナスでしかなかったってことはないだろ 総合して良かったってことはなくとも、部分部分をみてどこにもプラスがないってことはないのでは?
・反SDGs
こんな社会持続させてどうすんだよ 滅ぼせ滅ぼせ 俺はあらゆる生命・自然に特に価値を感じないので、人間はドンドン好き勝手やって全部破壊していいと思う
・反ヴィーガン
積極的に罵倒しようとも思わないが、俺は動物がいくら苦しんでもどうでもいいし、環境破壊はいくらすすんでもいいと思うので、食える限り肉は食うだろうな
あれ人権侵害だし、シンプルにキモいからやめたほうがいいだろ 君が代もダサいし暗い さくらさくらとかの方がまだマシ
・ネトウヨは嫌い
なーにが家族の絆じゃ、カス!という気持ちあり 夫婦別姓には反対する動機がない 積極的に賛成する動機もないが…
大学時代、身近に非モテ男子が多かった。皆性格は良かったので普通に仲良くしていた。
非モテ男子は服がとにかくダサかった。そのくせ彼女がほしい、とか言うのが謎だった。
そんな服着ててモテるわけないだろ??という格好なのだ。お母さんが西友の2階で買ったのを中学時代から着続けているのか、はたまたジーンズメイトで自分で買ったのか、というコーディネートなのだ。まじで。実際はどうなのか知らないけど。
顔はどうしようもない。身長もどうしようもない。しかし服は予算の問題はあるにしてももう少しどうにかなるだろう。
そのままじゃ200%女子から恋愛対象にはならないだろって服を着ている。
弱者男性論者を見ていると、「社会適応という名の悪」に対してあまりにも潔癖すぎると強く感じてしまう - 自意識高い系男子
モテるためにファッションに気を使うことは、就活で経歴を盛るくらいのくだらない茶番で騙し合い、という感覚があるらしい。
少女漫画だと、恋した女子が「もっと可愛くなりたい!」と友達にファッションを相談して一緒に買い物に行ったり、メイクを勉強したり、髪型を変えたり、メガネをコンタクトにしたり、めちゃくちゃありがちな展開である。(ありがちだけど、ファッションや変身ぶりに納得感があるとすごく好きです)
全然茶番でも騙しでもない。むしろ王道。レベルアップ。基本のキって感じ。
でも少年漫画で恋した男子が「もっとかっこよくなりたい!」つって髪型変えたり、ファッション勉強したり、って王道じゃないんじゃないかな。
どっちかってーと部活を頑張るとか、勉強を頑張るとか、頑張って話しかけるとかが王道なんじゃないかな。
私としては「恋愛したい=まず見た目のレベルアップ」だから、ジーンズメイトの服でモテたいとか言ってる意味が分からなかったんだ。
でも就活で経歴盛るくらいの嫌悪感を覚えることだったんなら、そりゃジーンズメイトの服のままモテたいとか言うよなって。多分部活とか勉強とか頑張ってるのに!くらいに思ってたんかなって思いました。
自分の好きな作品を深く考察する、というのは本来は知的な行いであるはずだが、どうにもイメージがよろしくない。特にウェブ上で公開されているような考察は、ほとんどが行き過ぎたこじつけで、作者もそんなこと絶対考えていないだろとしか言いようがなく、その独りよがりっぷりが気持ち悪くさえある。俗に考察厨と呼ばれる彼らだが、何故あのような状態に陥るのだろうか。そもそも考察は見ていて明らかに良し悪しを感じるが、これはどのような基準によるものなのだろうか。考察厨について考察するというメタなことをやってみた。
まず初めに分かっておかなければならないのは、考察(解釈)は自由であるということだ。考察ができるという時点で、それは作中で明示的に語られていない事柄があるということで、それをどう解釈するかは読者に委ねられている。しかし自由だからと言って好きにしてもいいのかと言えばそうでもない。何故なら考察者は作品に隠された作者の意図というひとつの正解を目指しているからだ。つまり考察とは答えの無い問題ではなく、答え合わせの無い問題なのだ。これこそが考察において誤解してはならないポイントであり、最も難しい所でもある。考察者は答え合わせの無い環境で、自分の評価を自力で客観的に評価してやらなければならないのだ。
さて、考察厨の考察で最もありがちなのは、何が何を暗示しているだの、象徴しているだのといった情報を思いつくままに書いてそれで終わってしまっているパターンだろう。作品は無数の要素から構成されており、暗示的な意味など実のところ、いくらでも抜き取ることができる。考えついた人にとってはもっともらしく思えるし、考察者に対して肯定的な人間なら「すごい! そんな意味があったなんて!」と言ってくれるかもしれないが、傍から見るとふって湧いたように唐突なものとなってしまう。これは要するに作者が意図して秘めた要素でない要素を解釈してしまっている状態である。難しいのはこの種の解釈は正解ではなかったとしても間違っていると云う根拠も示せないところだ。多くの人が感覚的におかしいことは分かっても、それを説明することは難しく、結果的に客観性のない考察が横行してしまうことになる。
では、正しく、そして作者の意図に沿う考察とはどのように行うべきなのだろうか。指針となるのはずばり、作品のテーマ、文脈(コンテキスト)、あるいはストーリー構成といった作品に対するマクロな視点である。何らかの意図を込めてデザインされた作品は、論理の展開にも似た一定の流れを踏んでいるものだ。最も分かりやすいのは作品の結論、あるいは一言で言い表した場合のテーマなどで、これは大抵の作品においてクライマックスやエンディング、あるいはタイトルなどの中で分かりやすく提示される。この結論が分かれば大まかなコンテキストを逆算することができ、それに沿う形で抜け落ちた部分を考察していけばいいのである。逆に言えばコンテキストの中で役割を持たない暗示については無視していい。正しいかどうかの判断ができないし、作品作りの過程で偶然そうなっただけの可能性さえあるからだ。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はタイトルが作品のテーマとなっている分かりやすい例だ。作中で主人公は、「ライ麦畑で遊んでいた子供が崖から落ちそうになった時キャッチして助ける、そういう人になりたい」と語ってる(手元に無いので不正確かも)。当初は抽象的な話として語られているが、物語として考えるなら、この話は主人公が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』になった所で終わるのが一番自然だろう。そこで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の具体的な意味が示されており、当然その対になる『崖から落ちそうになっている子供』も存在しているはずだ。ここまでは読めば明らかなことで、考察というより読解のレベルだろう。(とはいえ、このことさえ分かっていない人もいる。念のために言っておくと、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は中二病の人ではなく、中二病の人を『助ける人』こそが主題だ)
ここで定番の『赤いハンチング帽に関する考察』を見てみよう。この考察では、帽子を受け渡すシーンが『キャッチャー』と『子供』の役割の交代を示している、とされている。成程、たしかに主人公は『キャッチャー』になれただろうが、作品を通して『崖から落ちそうになっていた』のは寧ろ主人公の方だ。相手が一緒に『崖から落ちそうになった』結果、主人公は踏み止まった。『キャッチする』と同時に『キャッチされた』とする解釈は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がつまりどういう人なのかということをより具体的にしてくれている。作者がその解釈の手助けとして『帽子』という象徴を仕込んだ、とするのは非常に合理的で腑に落ちる話だ。コンテキストに沿った上でコンテキストを補強している、まさに美しい暗示の好例と言えるだろう。
このように考察とコンテキストは相互に補強し合う。ゆえにコンテキストを意識することが考察の最大の指針であり、評価基準となるのだ。
最後に実際上の話として、考察文の取捨選択について触れておこう。考察というは時に長大で、全て読むというのは結構な苦労を伴う。一目で考察の良し悪しを判定できる手段が欲しい、という気持ちは共感できる人も多いだろう。実のところ、このコラムを書いたのは、これを自分の中で纏めておきたかったがためだ。まず経験的な話として、悪い考察文というのは得てして読みづらい。その理由は実はここまでの話で明らかになっている。考察者が全体のコンテキストを意識していない場合、部分部分の考察が全体の中でどういう役割を持つか分からない。つまり、情報としてバラバラで一連した意味が分からなくなってしまうのだ。一貫した流れの無い文章は読みづらい。これは正しい考察の工程と一致しているかどうかと同義、つまりは『読みにくい考察≒間違った考察』であると思っても構わないわけだ。厳しく判別するなら、最初に考察者が全体のコンテキストを明示しているかどうか、というのはひとつの基準になるだろう。全体像を共有する、あるいは用語を統一しておき、その上で個々の解釈を全体の各所に当てはめていく、というのは良い考察なら自然な帰結としてそうなるだろう(考察者が単に情報伝達に慣れていないだけの可能性は残るが)。逆に不味いのは部分の考察からスタートしているもので、これなら先に結論部分を読むのが良さそうだ。結論部分でも全体像に触れていない考察であれば読む価値は間違いなく無い。
SW1-6は影響を与えてるけど、7-9は影響与えてないから×(設定パクってる作品無いでしょ)
ターミネーターも新作は影響与えてないし。アベンジャーズはそれなりに与えてるから名作かも。エンドゲームは部分部分だよね。
ポリコレ作品は新しさより正しさを優先して保守的になるから、後世に影響与えるの難しいよね。
鬼滅の刃は将来あれをパクって作品がでるか?と言われると微妙。ジャンプの完成形ではあるが、あれは面白さ優先して保守的になったパターンよね。
ジョジョとかはかなり影響与えてるから名作かな。SAOなんかはなろうに影響与えてるから名作に分類されると思う。
一気読みした
ちょくちょく部分部分では読んでたけど、通して読んだことなかったから
だんだん大ゴマ多くなってきたから読むスピードがどんどんはやくなっていった
ふつーの社会人がテキトーな暇つぶしに読むレベルで110巻を1週間でよめるってのはそうそうないだろう
立ち読みでチラ読みしたときは飯食って終わりかよと思ったら全然違った
単純な強さだったら勇次郎なのは明確だから、それ以外のところの強さってところでうまいとこ落としたなって感じ
あとバキって今大相撲編やってるけど、グラップラー刃牙のトーナメントでも一応横綱でてるのね
横綱の名前が金龍山かなんかで喧嘩商売はこれをオマージュしてんだなと思った
ただこっちはグラップラー刃牙だとほんと展開はやい
トーナメント参加者も多いけど、一戦一戦が短いからサクサクいってストレスがない
そのぶん記憶にも残らないから、あとになってあいつがどうこうとか言われても思い出せないけど
もとべうぜえと思ってたけどやっぱりうざい
でもお話上、宮本武蔵と対決させたら絶対死ぬか大怪我になるからそれはさけたかったんだろうなってかんじる今読むと
作者がもとべだったんじゃないかなと
キャラを殺したりはできるだけしたくないと
烈ころしただけでも大概だし
あいつ超人気キャラやろ・・・めっちゃいい人やし、ボクシング編で俺TUEEおもろかったのに
異世界転生しても、ちゃんと礼儀とかわきまえてる一方で常識とのずれもある、ちょうどいい面白さの話ができそう
死刑周辺はシコルスキーとドイルが、キャラデザ的にダブっちゃって、あれこいつさっきやられなかったっけとかなってイマイチだった
結局魂ぬくなら最初からいれんなよっての(まあ作中でもふれられてるけど
あと決着部分の刀なげてつかんだところをけるっていうの、いや、本能のフェイント入れられるくらいの超人なんだからそれくらい察知できるだろと
とりあえずすっきりしたわ
やりきった感がある
はぁ~。だめだこりゃ。同じ人?
大人向け=幅があると思いこんでるのが悲しい。
トムジェリとか別に大人向けじゃないけど表情くるくる変わりますよ。
そして元増田もおそらく評価するカートゥーンなんて、自分の表情を鏡で見まくって描いてます。
これは描くものとして当然の行為だし、Gigazineソースかなんかで明示されてた記憶があります。
元増田を言えばAKIRA、俺も大好きですよ。フリクリも好き。
でもトップをねらえ!と言うと急にオタクカルチャーだと言って否定するわけでしょ。SFですらないと。
オタクの一部にオタク向けしか理解せずにサブカルを否定する狭量な人が居るのもたしかに事実だ。
しかしそれがオタクカルチャーの否定要素になるという言説自体が片腹痛い。
そしてオタクカルチャーが他のカルチャーに言及したとき、それが本格的ではなく稚拙だ、とするのはより滑稽。
まして増田のように感情表現に依拠させて否定するなど愚の骨頂。
俺はそれぞれの文化が花開けば良いと考えてるだけです。
俺もハンコ絵が一時期嫌いだったので実は深く意図を汲み取ると言いたいことはわかる。
でも萌え絵というものはそのバリエーションにこそ骨頂があるんだよ。
部分部分のディテールを損ねてでも「属性」という付加物で勝負する。
そしてその多様化で生き残ってきた。決してリアル系の作画、映画など他のサブカルチャーに引けをとっているという比較対象で使うものでもない。
藤本タツキはマンガ表現の中でなんとなくタランティーノっぽい空気を漂わせてるとどっかで書いたけど、藤本のそれにしたって心の片隅では「漫画でそれやらなくてもなあ」という部分と、こいつすげえなという部分の二種が混在する思いだ。
萌え絵はそれの中で優れた歴史表現を含めていて、それ自体が文化だ。
エロゲもラノベも全部好きだし買うし読むしプレイする。サブスクだとコミフロに手を出してる。だけどアツギのタイツのPRは不快だと思った。
鑑賞対象として見るぶんには良いし、エロ漫画でタイツ破られてるのやタイツ履いてる子に足コキされるのを読むのは好きだしAVの痴漢モノでタイツが破かれてるの好きなんだけど、だとしてもタイツ売りたい人間のPRとしては違うと思うんだよ。
それは私が現実ではタイツに求めるのが暖かさ・すね毛隠し・すねにある傷を隠すためのものとして扱っているからなんじゃないのかな。
創作物としてはエロ目的であることも実際多々ありまくるんだけど、現実と創作は違う。
でもって、販売のためのPRなら創作ではなく現実側に沿うべきなんじゃないかと思う。
アツギタイツのPRのなかにはイラストとしては好みだし、もしこれをピクシブあたりで見たら速攻でブックマークしてたろうなというのもあったんだけど、タイツの販売目的としては完全に不向き。
むしろ創作を現実にはみ出させ、お前らをこうして見ているんだよってあからさまにされたみたいで嫌だった。このあたりは個人の感覚ね。私はそうだからというだけで他人もそうであるとは言わないしあれで全然気分悪くならなくなった人もいるだろうし現実と創作をごっちゃにするなと言われるかもしれないが私はそう思った。
なにより、PRの方向性が完全に間違っていて、フェチ目的方面へのPRになってる。
この言い方いやだけど、タイツを性的消費する人は私のように履く人も一部はいるけど大半は履かないでしょ。スーツの下に履けばいいのにね。温かいよ。私はスーツの下でもジーンズの下でも履くよ。
閑話休題。
とにかくPRの方向や広報の方向が間違っていて、広報の方向をミスる会社は近々他にもやらかすことがあるだろうし、そういうときに「払った金をこんなことに使われたと思いたくない」という理由でアツギのタイツを買わないと決めた。
購入層へのPRだったら、Twitterでも言われてるけど気温に応じたおすすめの厚さや、私の場合はすね毛やスネの傷やその他諸々隠したいものがあるので実際に履いた写真なんかが見たかった。
投稿写真もああいうイラストじゃなくて実際の人間のものが良かった。具体的には同じようなタグつけでもいいからタイツ履いてない写真+タイツ履いたあとの写真。着圧タイプだったらどのぐらい足が細く見えるかわかるしすね毛をどんだけそらなくてもセーフかわかる。どんだけすね毛剃りたくないんだよって言われるかもだけど面倒くさいんだよ。
あれは性的消費か!?って言っているツイート見ると、いやこれ見てエロく思わないならそれは逆に失礼じゃないの!?と思うイラストがあるので違うやろとは言えないんだよな。
あんなフェチズム全力のイラストを「エロく無いですよ!」っていうの、むしろ失礼なのでは。
最初に出て来たPRの絵師さんのイラスト集、アツギがRTしてるから見たけどタイツが全体的にただ黒いだけじゃなくて部分部分によって伸びて色が薄くなってるのとか、めっちゃフェチ入ってて良い。エロい。創作物として見るなら最高。インタに一緒に載ってたイラストの電線しちゃったのも、そこだけ肌色が明確になるのが良い。タイツ破れ系のエロってあのタイツの破れ方をうまく描いてないのが多くてそういうのちょっと萎えるんだよね。
イラストとして見るのは本当に最高だしめっちゃ良かったんだけど、現実のタイツのPRでこれを流されると、お前らをこういう目で見る可能性もあるぞと冷水かけられるみたいで嫌。パンストモノAVも見るしそっちだとこういう感情にならないんだけどな。