はてなキーワード: 出島とは
人口が少ないから労働者が不足するし、労働者が減れば経済は回らん。
多分税収減とかも、そもそも税を負担してくれる人間が減れば当然の流れだし、それでも税収を維持しようとすれば増税しかない。
で、増税すれば生活がいっぱいいっぱいだから結婚出産が出来ない。だから人口減が加速する。
じゃあどうすれば解決できるかっていうと、実質的に無理じゃない?
エロ漫画にありがちな「種付け法」とかできたとしても、現在の出産可能人口ってどんぐらいなの?
人口が1億と仮定して、半分が女性だから5000万、その内半分ぐらいは可能としても2500万か。
年間2500万人が出生したらすごいことになりそうだけど、誕生した子供たちが労働力として使えるようになるのってまぁ15歳とかだろ。
法律で中卒労働を義務付けたとしても最短15年は人口減少の流れが続くわけじゃん
(この段落は全部仮定だから「そんな法律あり得ない」とかいうバカなコメントはやめとけよ)
そうすると15年のギャップをどう埋めるかが問題になるわけだけど、これって移民しかないだろ?
あり得ないほどラディカルな仮定を積み上げてもかなり積んでるんだから現実はもっと積み状態だよな。
まぁ落としどころとしては移民を入れつつ人口回復を狙うしかないんだろうが…。
俺は個人的に移民とか別にいいんだけど、お前らめちゃくちゃ嫌がるだろ?
でももう代替案ないレベルまで来てるんじゃないかなって思うんだけど。
実際問題出島みたいな移民居留地とかにして外に出さないようにすればいいのかな?
お前らどう思うよ
薩摩藩には近衛家の部下の島津がおり、二重鎖国制度があり、鉱山業者の麻生太吉や大久保利通がいた
熊本藩の阿蘇も硫黄生産地で、米国軍人ジェーンズがおり、日本赤十字社が発祥し、戦中には九州地方を管轄する検閲機関があった
島原藩には出島があり、江戸時代からプロテスタント貿易とカトリック受難の地
豊後国は中世に平家が落ち延びていたが、のちには神奈川の大友氏や豊臣、徳川が支配
赤十字発祥からみても硫黄輸出税免除からしても、軍需的な硫黄産業と労働者酷使があったことが示唆される
ただ麻生がある限り忖度するというのは時代遅れではないかと思うし、黒歴史の黒塗り感が取れない
タイタニック沈没の年、シベリアの英国レナ鉱山ではロシア軍がストライキ労働者を虐殺していた
それなら皇道教の鉱山犠牲者もまた多かっただろうし、未だ天皇制を止めないのも、それがバレるリスクがあるからだろうな
と思いますけどね
・日本人は1860年代まで蝋燭を持っていなかったそうですが信じられますか
→日本は鎖国をしていて新技術は輸入されませんでしたからそうでしょう(等々
→それは米国です。1854年に外交関係を構築し、1856年にポーハタン号が初めて入港しました
→オランダ東インドです。1639年に出島に商館を立てて1953年まで営業していました
→そうです。ポーハタン号は軍艦で日本との外交関係を築くために1956年に米国から派遣されました。オランダ東インドのは商船で入港は許可されていました
→それは無さそうなことですね。入港を許可できるよう、軍艦で来て欲しいと日本政府から予め要請されていた可能性があります
その視点はなかった…w
続き
地図見たら驚くと思うけど長崎市ってめちゃくちゃ先っちょにある
遠い
長崎県内には佐世保があったり、雲仙があったり壱岐があったり、五島があったり、色々あるんだけど、とりあえず長崎市
同系統の街
そして規模は西に行くほど小さくなる
シーボルトの記念館があったり、出島の跡地があったり、グラバー園があったり、幕末明治の、異人さんとの貿易の空気を色濃く残している
出島はかつては出島だったけど、今は埋め立てられてて、街中の一角に旧出島だったエリアがある
そういう狭い隙間を路面電車が通っていくのも趣深い
中華街もあるが小さい
あれはちゃんぽんを食べるところ
あれだけ貝ぶち込めばそりゃあうまいよなって味
あれは絶対に食べて
そしてキリシタンの街
嫌でも命について触れなきゃいけない街だ
あと、中華系なのかオランダ系なのか、他ではあまりみないお菓子がある
よりより、マファール、これはめちゃくちゃ硬いかりんとうみたいなやつ、硬くてうまい
最高、美しい街
それで犯罪をして憎しみの形であってもいいから何かしらの社会の関心を引きたい人もいる
(そうじゃない犯罪、たとえば自分は愛をおしつけるために犯罪をしたとか、犯罪となることすらわからず普通に人をひきころしたとかも当然多々ある)
で、SNSを自分の意思で切り捨てることは無関心から遠ざかる手段になりうるかというと、
代替物たるレトロなコミュニケーションがつくれる人間ならば大丈夫だが、そうでない場合はショック症状を起こす。
なければ「そもそもあいつなにいってんのかわかんね。異人さんは出島に住んどけ」なのである。
古くは家族や義務教育もコミュニケーションである(欠けるとインドの「オオカミに育てられた少女」のようになる)し、
会った瞬間に挨拶することや外に出るときにファッション・清潔感に気を使うこともコミュニケーションである(欠けると臭くて汚い、見た目が危ない人になる)し、
店で物を買う程度の会話も社会生活に必須のコミュニケーションであるし(たいていは通販でなんとかなるようになったけど)
テレビ・新聞も一方的ながら広く薄い共通認識をつくる形でコミュニケーションを提供してきたのである。(だから人間は身の回りに実在していない芸能人を好きになったりすることもあるようになった)
インターネットが遠隔相互コミュニケーションを可能にし、個人が広く薄く情報発信することを可能にした。
そのことは「仲のいいフォロワーがいない」ことの孤独感を確かに先鋭化させただろう。
だからといって、もうすでに大勢が移動しつつあるメインの相互コミュニケーションを捨てることは人間社会にはできない。
家族がいない一人暮らし人ほど、すでにSNSに深く頼っているので、単にツイッターやラインに障害が起こっただけでふらっと私いなくてもいいじゃん自殺しちゃおうかな的な気持ちになったりするのである。
あるいは新生児を育てている女性がしょっちゅう鬱になるのもこれである。
けもののような赤ん坊を人間まで育てるという膨大な知識を学習するのに、一緒に悩んだり辛さを共有してくれる人はSNSにいない。
時間帯も合わない。赤ん坊は日本語もしゃべらない。泣いてうんちしてアブアブいってティッシュをまきちらしたあげく寝るだけ。達成感はない。孤独感がひどい。
SNSから表現者、創作者が輩出されるのも孤独感を減らす効用のためで、そのため彼らはSNSの強みをよくわかっている。
創作はものの視方をふくめた深いコミュニケーションをパッケージ化することにすぎない。
強い創作とはツイッターとピクシブで発信しつづけ、アガリとして歌手とアニメーターに飾られ祀られた創作である。
まあそこまでいくと作者の手を離れるんだけれども。
ピクシブが使えなくなったらどこでも宣伝してもらえない、「ファンにみてもらえなくなる」からピクシブは既得権をもっているのである。
小学校と中学校の同級生にめちゃくちゃ可愛くてめちゃくちゃ貧乏でめちゃくちゃ頭悪い女の子がいた。
白い肌に大きい目に黒い髪のtheヒロインみたいな子だった。サンシャイン池崎の空前絶後ハウスみたいなところにヨボヨボのお婆ちゃんと美人で幸薄そうなお母さんと3人で暮らしていた。小学生の時に俺と同じ班で何回か遊びに行ったことがあるんだけど、土間みたいなところに剥き出しの風呂桶とお風呂のガスの機械がドンと置いてあって、流しの水を流すと途切れた水道管から外の溝に直接流れる感じ。隙間だらけなのでスズメバチとか野良猫入ってくるし、トイレは外に工事現場のトイレみたいなのが置いてあった。中身は提起的に町のし尿処理施設に捨てに行くらしい。洗濯物は手洗い。女の子同士で遊んでる時や放課後はいつも学校の制服かジャージか体操服を着ていた。
九九の6の段以降は言えず、中学では選択肢ありのテストの「黒船に乗って徳川家康が出島に来航した。」という解答を社会の教師に笑われながらクラスで発表され泣きそうになってるくらい頭が悪かった。一応自主参加の土曜日補修みたいなのに毎回参加してたんだけど。吹奏楽部に入りたいけど、楽器が買えないから入らないと言っていた。あれ学校が貸し出すんじゃないんだね。
性格は良かったのでいじめもなかったしなんなら友達も多かったと思うけど、あらゆる面で悲壮感が強すぎて男子からモテてはいなかった。たまに上級生や下級生の男子からナンパもどきみたいな揶揄われ方をされてるくらい。
教師と友達のサポートによる猛勉強の末ほぼボーダーフリーの底辺県立商業高校に進んだ彼女は卒業後に地元の携帯ショップの店員となり今も空前絶後ハウスに暮らしている。地元に今もいる友達によると最近地元の後輩(昔はいつも鼻水を垂らしながら荒れた肌をボリボリ掻いておりいじめられていた。地元のホームセンターで働いている)と付き合い始めたらしい。
いじめが何故起き、そして何故黙認されるのか、それは学校という空間が異常だからだ。
個人的背景も経済的背景も違えば勉学に対する意欲も成長の度合いも違う人間を集めて管理するなどそもそも無理がある。
その無理をどうにかするために行われているのが学校の治外法権化である。
治外法権となれば当然「外の世界」の法律は適用されなくなり、中の都合によって法は定められていく。
多くの教師が考えているのは生徒を管理下に置くことであり、分かりやすいヒエラルキー構造が教室に広がるのは管理するのには都合がいいのだ。
端的に言えば教師にとってはいじめは程度さえ大きくなければ歓迎してもいい状況である。
個人が個人の感情で暴力を奮っても、力関係が強いものがやったのであれば黙認されるべきであるという風潮は、教師が体罰をするにあたっても都合がいい。
クラスのリーダー的な存在が生まれれば、教師が機嫌を取るべきはそのリーダーと取り巻きであり、下位層にいる生徒は卒業までの間に壊れないかだけを注意しておけば良くなる。
社会が教職者に押し付けた無理を、教職者は学校という空間の法とモラルを歪めることで解決しているのだ。
もし、その歪んだ法を正そうとすれば何が起きるか?
「いじめ問題だけを隠蔽することを辞めさせれば良い」なんて簡単に考えているのだろうか?
そんなことを生徒や親が許すはずがない。
生徒が法によって裁かれるなら教師も同じでなければならない。
逆を言えば、生徒が法で裁かれることを免れているという後ろめたさが学校の治外法権化を支えているのである。
鎖はどれか一つの輪が断ち切られれば全体が意味を為さなくなるという話である。
学校とはそもそも教育施設を兼ねた監獄であり、現代の社会が抱える無理難題を無理矢理に押し込めた地獄の釜である。
この状況を生み出しているのは教育の現場であり、そこに子供を預ける両親たちであり、子供というものを無知な獣としか思っていないこの社会全体である。
そもそもをして全く違う背景を40人の人間に対して1人の人間が監視を行って管理するということ自体が容易ではないのだ。
これはなにも相手が子供だからではなく、大人であっても同じだ。
免許の更新、職場における集合教育、失業保険目当てで通う職業訓練センター、そういった所で後ろ側に席をとって周りを見渡せば話を聞いているフリをして寝ている大人やバレないようにスマホを弄っている大人が如何に多いかを目にできるだろう。
大人か子供かではなく、意欲もないのに教育の場に参加させれば自然とそうなるのである。
だが多くの大人たちはそういった場面で見かけ上はマジメに聞いている。
彼らには、免許を更新したいとか、教育を受け直しになりたくないとか、失業保険が欲しいとか、そういった極めて直接的な理由がある。
だが、小学校や中学校においてはこういった要素が薄く、それこそ出席をしなくても卒業をして次のステージに進むことが出来てしまう。
学校という空間は如何にして1人につき40人を真っ当な報酬系統も存在しない状況で監視するという異形をなしているのだろうか?
答えはシンプルだ。
教師と生徒という関係に超巨大な傾斜を設けて、教師が白を黒といえば生徒はそれに従うほどの力関係を用意するのだ。
これにより教師が与える体罰、精神的苦痛、各種のハラスメントは教育という概念として昇華され、一生傷が残る行為と物理的な接触を伴うセクハラ以外はあらゆる行為が黙認されることになる。
そもそもをして、強制的に集められた40人を1人が管理するなど、こういった異常な環境下でなければ容易には実現し得ないのだ。
もちろんキチンと環境を構築するという容易でない道を選ぶことも出来るが、それを実行しようとしたものもゆくゆくは燃え尽きていく。
25歳で教職についたとして定年までは40年、個々人の意欲のみを報酬とするには長すぎる時間なのである。
かくして学校という空間は独自の法によって運営される出島、監獄となる。
ではこの監獄島に外の世界をルールを真っ当に適用したらどうなるだろうか?
教師と生徒が平等になれば、暴走する生徒を止める手段は通報のみとなる。
教室において教師が出来るのはハラスメントにならない範囲までの注意、いわば善良な管理者の注意義務までである。
その範囲は決して広くはなく、今までであれば先立って体罰によって躾けることで無理やり予防できた数多くの人災に対処が及ばなくなるだろう。
教師は超人ではないので、人間としての限界を超えることは出来ないが、法の縛りを逸脱することを許可することで擬似的に半超人化していたものがなくなるのである。
授業や生徒の管理を妨害された時、今まであれば超法規的措置によって体罰をして解決していた。
だがそれが不可能になったらどうなるか?
証拠を集め、公務執行妨害を適用し、少年院に送られてもらうことを選ぶしかない。
他の生徒のことを考えればそうならざるを得ない。
生まれついての犯罪者として真っ当な職業に付く機会は、少なくともテレビで名前を聞くような企業に入る機会は場末のアルバイト以外では望めないだろう。
今までであれば鉄拳制裁を受け、顔の腫れが3日後に引けば終わったものが、これからは一生消えること無い履歴書の傷を引きずって生きることになるのだ。
そしてこれは何も極めて救いがたい悪童に対してのみ行われるのではなく、多動性を持つ生徒、注意力散漫な生徒、偶然虫の居所が悪かった生徒、いわばほぼ全ての生徒がそう言ったリスクを背負って通学するようになるのである。
元からそうだったと言いたい人にはこう言おう、もし治外法権がなくなれば通報されるリスクが10000000倍になった学校に通うことになる、と。
我々が声高に「いじめをなくせ。隠蔽を辞めさせろ」というのは簡単だ。
だがそれは「学校への治外法権の適用をやめろ。これからは学校で起きたありとあらゆる犯罪行為が法的措置の対象となるべきだ」ということなのだ。
さて、貴方の家の子供は悪戯の一つもしないで今日まで生きてきただろうか?
悪戯とは、相手が許さなければ犯罪になる行為であり、犯罪歴がつけば人生の可能性が半分以上消えるということを理解できているだろうか?
そんな自信は自分にはないなあ